ただっきゃのおばちゃん

2月14日ただっきゃのおばちゃんこと、川原松恵さんが亡くなった。94歳とのこと。「ただっきゃ」とは阿万小学校の校門近くにある文房具店のことで、誰も本名の川原店とは呼ばず、「ただっきゃ」あるいは、たの濁点をとって「たたっきゃ」とも呼んでいる。

戦後、阿万小学校に在籍していた人は、この店で文房具を買い、学校に通った。駄菓子を買って食べ、ジュースを飲みながら、友達と店の前でおしゃべりをしながらすごす、社交場でもあった。お気に入りの雑誌の発売日を待ちかねて一日に何回も来たり、おばちゃんの目を気にしながら、立ち読みしたり、また「当てもん」に夢中になり、小遣いを使い果たし悔んだり、なにかと思いで深い店であった。

長女が小学校の時、私はPTAの役員をしたことがあり、年一回発行する、「心の広場」という雑誌の編集責任者だった。その本の企画で、ただっきゃのおばちゃんのインタビューを記事にした。一番聞きたかったことは奇妙な店の名前の由来である。

おばちゃんいわく、昭和元年に榎本ただきちという人が始めて、「ただっきゃん」という愛称が、いつの間にか、「ただっきゃ」というようになったそうである。

おばちゃんの、あんこ型の体格から発射される迫力あるおしゃべりで、圧倒された。「文房具屋なんかビンボウ具屋といわれるくらいもうからん」とか「今の子供は、お菓子を食べたあと散らかしまくって片づけん」とか「親も子供二人連れてきて50円しか使わん。こまかいでー」とか辛口の言葉がビシバシ飛んできた。

最後に店とは切っても切れない万引きの話になる。今も昔も万引きをする子はいるが、やったらすぐわかるのでそれとなしに諭す。「ボクなあ、そんなことしたら、おばちゃんずーっと覚えとるで、大きくなってもあんたのこと、そんな子やとおもうてしまうし、ボクかて心の中に傷をずーともっていかなあかんし」

また二人連れの女の子で先に帰った女の子が出て行ったあと品物がなくなっていたので連れの子に言うと「泣きながら金をもってきた」という。「おばちゃん誰にも言わんから気に知られんと」慰めたという。言葉はきついが、やはり子供相手で、商売にも親の気遣いが感じられた、ただっきゃのおばちゃん。ご冥福をお祈りいたします。

Dsc03021

父の15年戦争戦後編(6)ウー主任①

階級のない軍隊

父が八路軍のことを話すとき、ウー主任という人物がよく登場する。父を八路軍に入れたのもこの人物らしく、その後部隊でも長い間一緒に行動していたようだ。

父が中国の組織を論じるとき「中国では主任という役職は組織の中でも地位が高い」とよく言っていた。日本の会社で主任というのは平社員の次に進む監督職だが、中国ではずっと高いという。

当時八路軍では階級がなかった。旧日本軍の場合、二等兵に始まり、伍長、軍曹、などの下士官、尉官、佐官、将官、最高位は大将で様々な階級があって、一つ階級が違えば天地ほどの差がある。上からの命令は絶対で戦闘中逆らえば射殺されても仕方がない。

軍隊という非常な組織が、革命の平等思想、理想主義を高く掲げた時代に父は遭遇した。それでも「指揮官と兵の違いはある。これがなければ烏合の衆で部隊長や指揮官は襟章でわかる」という。

もう一つ八路軍は独特の軍隊制度があった。各級部隊には政治主任というのが配置され、部隊長並みの権限をもっていて、思想や政治指導を行った。また軍事作戦についても参謀長なみの見識もった政治主任も多く、鄧小平などは生粋の軍人ではないが、解放戦争時には数々の作戦を成功させた戦歴を誇っている。

続く

平瀬さん(2)

細胞

昭和30年代までうちの家族4人は父の実家の離れの6畳一間で暮らしていた。従ってお客さんがきても、プライベートもなにもあったものじゃなく、私は漫画など読みながら、近くで父たちが話すのを、たいして意識することもなく、きいていた。

父と平瀬さんが話しているのを近くで聞いていると、サイボウという言葉が耳についた。後で母に聞くと体のいちばん小さい単位のことを言うらしいが、小学低学年の私はよく分からなかった。のちに細胞は支部に変わり、理解できるようになったが、周りには父以外に細胞らしき人は一人もいなかった。当時公然と共産党を名乗って活動をしていたのは阿万では父しかいなかった。

続く

平瀬さん(1)

先週、平瀬さんから寒中見舞いをいただきまして「とうとう九十歳になった」と書いてありました。私も今年65歳になりますが、お互い年をとったなあと思うこの頃です。

平瀬昭三さんは私が小学校の低学年の頃、よく家に来ていた方で、いつも背広を着て、冬は白いコートを羽織って、きちんとした身なりをしていました。そのころ田舎では、背広を着てネクタイを締めている大人はめったに見なくて、珍しい存在でした。小学校の校長先生、うちによく来ていた公安刑事、父の留守の時にきた、借金の差し押さえ人。この中でも平瀬さんは子供から見ても無口で、温厚な人柄で、父が帰ってくるまで、よく私の相手をしてくれました。

平瀬さんが来たとき、父はめったにいなくて、一時間も二時間も静かに待っている。二時間も過ぎるとさすが、時計をチラチラ見ながら、「お父さんおそいなあ」なんて言いながらも辛抱強く待っている。三時間ぐらいたってやっと見切りをつけて帰ってゆく。

そんな平瀬さんは一体何をしているのかよく分からなかった。母に尋ねると「共産党よ」ふーん背広来て、人を何時間も待って、帰ってゆく。定期的にきて、その繰り返し。ますますわからなくなった。

続く

寒行

1月21日は寒行です。寒行というのは、真言宗では金剛講で御詠歌を習っている方たちが毎年大寒の日に家内安全を願って、各家庭をまわって玄関先で御詠歌を詠います。本当は20日の大寒に行うんですが、毎月二十日に隣保(りんぽ)が集まる二十日講と重なるので21日が寒行になりました。

南あわじ市阿万上町・丸山隣保では、むかしむかしから・・・いつごろか知りませんが、この時期の風物詩になっています。

Dsc03008萬勝寺の副住職さんと一緒に詠う上町金剛講の方々、今年は女性の方ばかりですね。いつもは男性も交じっているのですが、今年は寒くて男性陣はダウンですか。

Dsc03013家内安全のお札です。今年一年の皆様のご多幸をお祈りします。

Dsc03011


お疲れ様です。

«父の15年戦争戦後編(5)風雲急を告げる満州

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ