父の15年戦争戦後編(3)関東軍第八病院

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軍用列車が着いたところは満州東部の要衝、牡丹江(ぼたんこう)の町だった。その牡丹江を見下ろす高台にソ連軍が接収した第3軍の軍司令部、掖河(えきが)がある。そこには関東軍第8病院、武器弾薬庫、その他さまざまな施設が集積していた。

私が子供のころ、両親は戦後満州に駐留していたロシア人のことをよく話題にした。

母は自分が小柄な体格なので、いつもロシア人の女性兵士に頭をなでられて子供のように扱われたことを、根に持っていた。「ロシア人の子供はすごくきれいでお人形さんのようだった。けど大人になるとあまりに彫が深すぎていやらしくなる。それに、二十代なかばになると、誰もかれもぶくぶく太ってきて、あのデブの政治委員、体に似合わずまるでオペラ歌手のようだったわ、声だけが。肥えると声帯がよくなるのかなあ…」

父はおどけて、病院内の豊満なロシア人看護婦の腰に抱きついたことがあるという。「わしは当時身長175センチで体重38キロぐらいまで下がっていて、担当の看護婦の半分もなかった。それでうらやましくもあり、若気の至りで、ウエストが何ぼあるのか図ってやろうと思った」

怒りのナターシャは腰を一ひねりすると、哀れな重病人は十間もぶっ飛ばされたという。

やがて春になりソ連軍は引き上げることになり、代わりに東北民主連軍(八路軍)が進駐してきて父は引き渡された。

一ヶ月ほど療養するうち病状も回復してきて帰国できる可能性が出てきた。

病人は優先的に帰国でき、招待所で国民党の支配地区(満州南部)にうつされるまで待っていたのだが、そこで一組の夫婦と出会うことになる。そのとき夫婦のうち妻は病弱で国民党地区にすぐ移動できるのだが夫のほうは立派な体格で健康なので次になるという。

離れ離れになる夫婦は泣きながら担当者と交渉していたが、埒があかない。父は見かねて夫と替わってやることにした。父は22歳独身で身軽だったので少しぐらいは帰るのが遅くなってもいいと、一種の義侠心から残ることにした。

フクイチ凄まじい水蒸気爆発

今晩のフクイチはすさまじい水蒸気爆発を起こしています。

4号機側ライブカメラ

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4号機側ですがクレーンも何も、まったく見えません、明日もまた全国各地で湿度100%が続出しそうです。

cmk2wlさんのツイートによりますと、東電がこの水蒸気はトリチウムだと認めたそうです。中性子を出す核種が含まれる、この爆発に対してなぜ大手マスコミは報じないのでしょうか。

濃霧にまみれた「三途の川みんなで渡れば怖くない」

日本SOS

フクイチ地下は溶融デブリで煮えたぎっている

久しぶりに記事を書きます。

今日午後7時前、4号機側のフクイチ、ライブカメラを見ていたところ、

煌々と赤い炎が見え、最初小さな橙色だったのが、次第に大きく広がり、白色光になり一時間以上、続いていた。

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3月ごろフクイチのライブカメラを見ていて水蒸気が異様にもくもく立っている日が多いことに不思議を感じていた。しかし新聞やテレビなど大手マスコミは何も報道しない。

そんな中、飯山一郎氏のホームページを知った。フクイチが昨年12月ごろより再臨界をおこし、今年4月中ごろより中性子線を出す核種が観測され始めているという。今や溶融デブリは地下水や海水に接触し始め大規模な水蒸気爆発をおこし、放射性水蒸気が日本全国のみならず、北東アジアまでただよっている。日本はもはや致命的段階にさしかかっていると飯山氏は警告している。

母の一周忌

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3月1日、今日は母の命日です。2月23日に一周忌の法事をしました。うちは真言宗なので、忌日表があって一年間、結構することが多く仏事に疎い私は大変でした。
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涅槃というのが3月15日で、ようやく一年間の忌日がすみます。ほかの宗派はもっと簡単だと聞いていますが、真言宗はかなり厳格にやっているようです。

父の15年戦争戦後編(2)彷徨

父の15年戦争(2)最後の戦争証言より続く

 Ha11884141ruimg600x45013764516300uy 夏の黒竜江600x3802014011101176冬の黒竜江
 

東大出の奸漢
 父は厳寒の黒竜江沿岸を彷徨っていた。日本敗戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに送られる途中、すきを見て三人で一緒に脱走をしたが一人は射殺され、もう一人とは、はぐれ独りぼっちになったのだ。
「あっちゃへ行ったり、こっちゃへいったりもうわけがわからなくなり、意識がもうろうとしてきた」
 行き倒れ寸前に父は、吹雪いてかすむ前方に見慣れた倉庫があるのに気付いた。息も絶え絶え、入っていくとそこには中国人の旧友がいた。
「わしが、特務機関の手先をして、黒竜江沿いのソ満国境調査をしていたころ知り合った。その男は若いころ東京大学に留学していたというインテリで、小麦工場を経営していた。小麦は統制品で中国人には手に入りにくい中、わしは憲兵に交渉して特別に物資が手に入るよう何かと世話をして、友達になった。」
 父の説明によると「その男は親日派で国民党や共産党から見れば※特務奸漢、民族の裏切者とみられていた」
 その東大出の工場経営者は父が重篤なのを知り、ボロボロになった満服(中国服)のコートを着せ、瞬く間にソ連軍と交渉をして軍用列車に乗せた。

※特務奸漢:中国語で同国の人をののしる最大限の言葉。日本語の国賊と売国奴を合わせた強い意味を持つ。

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