無農薬玉ねぎ

 淡路島ではもう直ぐ玉ねぎの取入れが最盛期に入る。うちの周りは田んぼだらけで、この時期はレタスが終わり、玉ねぎの葉っぱが青々としている、4月ごろから「早生」の収穫が始まっているが、まだまだ少なく6月になると一番多い「なかて」が始まる。
稲は実が黄金色になり収穫の時期が誰でも分かるが玉ねぎはどこで見分けるのだろうか。実は土の中で外からはわからない。引っこ抜いても色艶で見分けられないし、大きさも個体差が在るので熟成を判断できない。じつ(実)は葉が倒れて判断するのだ「もうそろそろ熟して美味しいわよ、あま~いあたしを食べて」としなっと身を崩す。そこから約10日ぐらいで収穫が始まるが本当は完熟するまで1ヵ月ぐらい待ったほうが美味しくなる。
Memo0116 左側の玉ねぎは葉が倒れて熟し始めているのが分かる。右側の玉ねぎの葉は植えるのが遅かったため、まだ立っている。
無農薬玉葱

 私が子供の頃、父の実家が耕していた田んぼを一反ばかり食い扶持に借りて、米を作っていたことがある。その頃の農業は機械化されてなく、人と牛の力で全てをやっていた。田んぼを耕すのは牛の役目で、大きな鋤を取り付ける。70代の祖父が器用に手綱をひき「ボウボウ!」と田の中で牛を追っていた。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、父が鍬を担いで働いているのを見た記憶が無い。
 昭和30年代、淡路島南部の農家では裏作に麦を作っていたところが多かったが、あまりに安い価格に耐えかね(貧乏人は麦を食えといわれた時代)玉葱作りに転換していった。 「これからは玉葱じゃ。麦なんか作るよりよっぽど儲かる」と機を見るに敏な父も苗を買ってきて植えだした。
このとき、私と妹も一緒に手伝ったので良く覚えているが、母によると、「玉葱なんか一度も作ったことが無いのに思いつきで植えた」という。苗は植えたものの後の手入れが大変だ。12月頃植えて春までほっといていたが、暖かくなると雑草が次々生えてくる。除草剤をやればいいのに、母がさんざん言っても父はやる気が無く、日曜日には私と妹に草取りをして来いと責任を押し付ける。子供の私たちは一応ヘラをもって田んぼに行く。2時間ばかりいやいや草を引くが、父がどこかに行ったのを見計らって帰る。
農家の人には常識だが、農薬なしに作物を作るのは至難の業であることを、この時私は知った。農業で必須の草取りほど地味で根気の要る作業はない。こんなしんどい仕事、親がしないのに子供はするわけが無いのだ。誰も行かなくなった無農薬の田んぼには雑草だけがスクスク育った。
 いよいよ収穫の6月頃には田んぼ全体が雑草に覆われ、何を栽培しているのか、わからなくなっていた。哀れなのは玉葱さんである。雑草をかき分け引いてみると養分を吸い取られた、ラッキョウみたいなのがぐったりして出てきた。我が家の玉葱作りはそれで沙汰止みとなった。

円と元

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気前のよい父 
 前回「揚子江の海賊」の中で鴻池議員の父親に服を買うお金を30万エンあげたと書いたが、これは日本円ではなく中国通貨の人民元である。日本語の発音ではゲンだが中国語の発音ではユエンになる。ここが誤解されやすいところで、日本人が聞くとエンもユエンも同じように聞こえる。父は中国から引揚げて何十年もたち、円も元もごっちゃになっていたのだ。

 引揚者の体験談で、エンとユエンが間違いやすい事に気がついたのは、昨年母と上海で引揚げ船に乗った話をしている時だった。
父は上海で知り合った引揚者がお金に困っていると、気前よく何十万もあげていたみたいで、父自身も生前「湯浅というバッテリーの会社をやっている人にも何十万エンあげた」とか鴻池議員の父親の他何人もの名前を出していたからだ。母の記憶では「赤ん坊を背負った顔色の悪い病弱な女の人にもあげてたみたいだ」と言う。
母にその時いくらぐらい持っていたのか聞くと「一人500万エンぐらいで二人で1000万エン持っていた」という。「エッ!大金持ちだったのだ」と私は驚くと母は1000万元(ユエン)やと訂正した。私の両親と同じ経験を持つ古山秀男の下記の証言でも帰国時に数百万円支給されている。この本が発行された1974年を比較しても建国当初の中国はかなりのインフレで、元の値打ちが低かった。

保定の近くの農村で、一ヵ月近くも帰国準備のため滞在したが、このときの中国側の接待ぶりは最高のものだった。今までだと、祝祭日などにしか食べられないようなご馳走を毎日ふるまってくれた。建国まもない、しかも朝鮮戦争で莫大な負担を強いられて、中国人民全体が経済的にまだ非常に困難な時期においてである、加えて、解放軍従軍期間に比例した退職金と帰国援助金など数百万元(一万元が現行人民幣の一元にあたる)が支給された。
1974年発行 古山秀男著 「一日本人の八路軍従軍物語」より

 私が子供の頃、母は中国では給料がよかったと自慢していた。
父(獣医)と母(看護士)は技術者で一般の兵士より、よい給料をもらっていたみたいだ。日本人だからよかったのではなく、中国人も日本人も平等だった。正確には忘れたが、十万の単位だったのは覚えている。昭和30年代の中ごろだと役場の職員でも何千円だったのでビックリした。もちろん私は為替の知識なんかまったくないころで、両親も子供に説明するのは面倒だったのかそれ以上話さない。そんなわけで父はお金に関しては一生縁が無かったが、帰国前のこの時期が例外的に金持ちだった。
それでは日本に帰った時どの位の為替レートで円に交換できたのだろうか。
Memo0086
 昭和28年の北京の食堂のメニューから計算すると1円が66.5元でかなり円高になる。そのころ日本と中共政権は敵対していたので、無制限に交換できたかどうかはよく分からないが、全部円に交換できたとしたら、帰国後の生活の足しにはなったはずだが、そのあたり母も記憶が定かではない。

貧乏人は芋を食え
 幼い私は両親が中国でのよい給料を棒に振って日本に帰ってきたのが納得いかなかった。当時家は貧乏(今も!)で本家の離れの六畳一間に長い間住んでいたが、こんな事があった。
ある年の9月ごろ米がなくなり、お金も底をついた。そのころ養鶏をしていて、さつま芋を刻んで鶏のえさにしていた。父は楽天的でしかも能天気な男だったので意に介せず、祖父から一反の食い扶持を与えられていた事もあって「もうじき稲刈りやし、いもでも食べよか、量はたっぷりある」という。 確かにたっぷりあった。10貫目入り(約40キロ)ぐらいの南京袋が五つか六つあった。それからは毎日毎日三度三度さつま芋をたべだした。七輪で焼いたり。ゆでたり、焼き芋にしたり、天ぷらにしたりで最初の頃は嬉しかった。それまで倉庫にあるさつま芋を食べたかったのだが、卵を産んでいただく大切な鶏にやるえさで禁止されていたのだ。それが突然解禁になったので「ヤッタ!」と思った。
しかし料理を工夫しても3日目ぐらいになると飽きてきて、食が進まなくなる。1ヵ月ぐらい食べていた記憶があるが、数年前母にそんな昔話をしたら「1週間ぐらいだろう」という「飽きてしまったので本家に米を借りたのではないか」と他人事のようにのたまう。昭和30年代前半は岸信介首相の時代で池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」といったのはもう少し後だったが、我が家はその言葉を先取りして芋を食っていた。それ以来私はさつま芋が苦手になった。
 

昭和28年の「時事世界」


Memo0095 中共残留邦人引揚船「高砂丸の待機」 「時事世界」昭和28年3月号 

 以前ヤフーオークションで手に入れた昭和28年発行のグラビア雑誌「時事世界」12冊をあらためて見ている。私達家族が中国から引揚げてきたときの記事がたくさんあるかもしれないと思い落札したのだが、引揚げ関係の記事は3月号と5月号に載っている、合計わずか3ページにすぎない。
セリ落とした時は期待が大きかっただけにショックだった。母に聞いたところ、この年の中国からの帰国者は、集団引揚げとしては最後から二番目で3万人ぐらいあり、国共内戦で行方不明だった者が大勢帰国したという。私の祖父もラジオの安否放送で父が無事である事を知り舞鶴まで迎えに来た。

終戦以来八年間、中共に抑留されていた同胞三万余名は、此のたび中共政府の好意に依り、日本に帰ることを許され、”興安丸””高砂丸”其他の客船が、それらの人々を満載して続々内地に引揚げた。写真は三月二十八日第一船 興安丸から舞鶴港に上陸した喜びの引揚者たちで、あまりの嬉しさに何も彼も夢心地、所要の手続きや身の上相談なども終わり、待ちに待った家族達との再会に胸ふるはせ、かくて一夜をぐっすり眠って元気を恢復した人々は、麗かな春陽を浴びて、市内散歩するなど至るところに和やかな情景を展開した。   時事世界昭和28年5月号より
Memo0078_2
「時事世界」昭和28年5月号。

 この写真雑誌は世界のニュースの中からスポーツ・芸能ネタ、面白ネタ、不思議ネタなどを中心に時事関係なども折りこみ構成している。当時としては「限界」のセミヌード写真も多く載っている。
Memo0083 立太子礼 「時事世界」昭和28年新年号より
圧倒的に多い記事は皇室関係で、1月号は明仁皇太子の立太子礼が折りこみカラーグラビアなど10数ページに渡って特集されている。
Memo0081 皇太子の欧州出発 「時事世界」昭和28年5月号
Memo0098 戴冠式の皇太子 前列左から4番目、ネパール皇太子妃の隣 「時事世界」昭和28年7月号
ほとんどの号が皇室特集と言ってよく、5月の英国女王の戴冠式にあわせてアメリカ、欧州の行く先々を追っかけ取材している。昭和20年の敗戦からまだ8年、日本の体制は戦前からほとんど変わっていないことを認識した。
Memo0097 アイドルのように可愛いエリザベス女王とエジンバラ公 「時事世界」昭和28年7月号

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち⑤揚子江の海賊

 20数年前のこと、父が取引先の息子の結婚式に出席した。そこは民宿兼料理屋をやっていて父は女将と昵懇で招待されていた。帰ってくるなり「こんなことがあるもんやなあ」と少し興奮ぎみに話し始めた。
Memo0105 昭和7年5月5日発行上海事変記念写真帳より
招待所
 1953年8月上海港から私達家族が乗る帰国船がでることになった。中国各地から日本人留用者が続々と集まってきた。広い中国のことでもあり、全員が集結するには日数がかかる。
 船が出航するまで、しばらく宿泊していたのが、招待所と呼ばれる施設だった。招待所という名前は父から聞いて初めて知った。母に確認のため名前を尋ねても覚えていないという。校舎や軍隊の宿舎のようなところで、一部屋に大勢の人が寝泊りしていたという。父の説明では、人民解放軍で国民党と戦っている時、ある作戦が終了すると兵士が休養する施設に入った。戦闘中は休日なんてないので、終わってから、ゆっくり休暇が取れる。面白いことに、兵士が今の部隊を気に入らなければ、休養してから自分の行きたい部署を選べるというのだ。例えば飛行機乗りになりたいので空軍(当時人民解放軍は空軍がなかった)に行きたいとか、馬の輸送部隊に入りたいとか、希望しても定員が空いてなければいつまでも招待所でぶらぶらしている事ができる。もちろん能力や適性があり簡単ではないので、普通一ヶ月も休めば、妥協して適当なところに行くのだが、父が休養した招待所には1年も2年も理由をつけて遊んでいる剛の者がいたという。このことから招待所というのは、名前から想像される優雅ななゲストハウスではなく、簡易な木賃宿程度の公的団体宿泊所だといえる。

ボロをまとった貴公子
 その招待所で私達は船が出航するの待っていた。父は何もすることがなく、毎日港近くを散歩していたが、ある時街角で一人の日本人と出合った。
「その男はボロボロの薄汚れた服を着ていたが、貴公子!だった」
意味がよくわからなく私はもう一度聞き返した。
父は「貴公子」「貴公子」と真剣に同じ言葉を繰り返した。
「名前が鴻池と言ったので、財閥の御曹司かと思ったがあまりにも汚いカッコなので事情を聞くと、たった今刑務所から出てきたばかりだ」という。
「敗戦後、食い詰めて揚子江で海賊をやっていたところ公安に捕まり刑務所に入れられていた。帰国船が出るというので、出してくれた。お金も一銭もないので途方にくれていた。それで貴公子が乞食ではかわいそうなので、服を買うお金を30万エンぐらいあげた」
財閥の御曹司ではなかったが馬子にも衣装?、本物の貴公子のようになり、無事引揚げ船に乗ることが出来た。

 話を結婚式に戻すと父の席の隣が当時の兵庫二区選出の鴻池祥肇代議士(現参議院議員)だった。政治好きで町会議員などもしたことがある民宿の女将が鴻池議員の熱心な後援者で、結婚式に招待していた。
隣同士しばらく酒を酌み交わすうち、名前から昔の上海で、出会った貴公子を思い出した。同じ鴻池で、年齢が父より少し上で、ひょっとして関係あるのかと鴻池議員に尋ねた。海賊や刑務所の話をしたかどうか分からないが・・・
「戦前、鴻池議員の親父も中国にいたことがあり、そのころ日本に戻ってきたから間違いがないだろうといっていた」と父は確認するように2~3度うなずき、なつかしそうに微笑んだ。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち④日の丸組

高砂丸

Memo0105 毎日新聞社発行「写真集・在外邦人引揚の記録」より
 

私達家族は1953年8月、日本に帰国した。上海から高砂丸にのり13日ごろ舞鶴に着いた。高砂丸という名前は物心付いた時から母からよく聞かされていた船の名前だ。「かずちゃんは船の後ろにいって身を乗り出しスクリューからでる泡や船の航跡を見るのが好きだった。私はいつもヒヤヒヤしていた」当時1歳7ヶ月の幼児だった私はそういう記憶がかすかに残っている。
父が亡くなってから、中国の体験を聞けるのは母だけになってしまい、折に触れ尋ねようとするのだが、よる年波に記憶が薄れて、高砂丸はどの位の大きさで何人ぐらいのってきたのか?なんて基本的なことも忘れている。「そんな事ゆうたって、すみちゃん(妹)はまだ赤ちゃんやし、かずちゃんもヨチヨチで危ないのに、二人の子供につきっきりで、周りのことなんておぼえてないわ!」こういわれると「ごもっともな話です」と引きさがざるをえない。昔は子供を育てるのは母親の仕事で、父親は子供を抱っこさえしなかった。私の父もそんなタイプで、母が必死でわが子の安全を守っているのを尻目に、船室の一角で酒盛りをやっていた。

日の丸組
Memo0101 引揚げ準備のため高砂丸の三等船室の掃除をしている 「時事世界」昭和28年3月号 
 父に聞いた話では、私達家族が高砂丸の三等船室におりてゆくと部屋の片隅でワイワイ酒を飲んでいる集団がいた。その中の一人が父の顔を見て「おお!郷さんと違うんか、ひさしぶりやのう、よう生きとった。よかった、よかった」と声をかけてきた。「そいつはワシが義勇軍時代に入っていた右翼団体の仲間で顔見知りだった」という。「まあこっちへきて一杯やらんかと誘われたんで昔のよしみでよばれることにした。壁にはどこから探してきたのか薄汚れた日の丸が貼り付けてある。ワシらは日の丸組だ戦争に負けても大和魂は残っていると、ブイブイ騒いでいた」
「話をしていると彼らはパーロ(八路軍)に反抗して捕まり刑務所に入れられていたらしい。日本に帰る船が出るので、この際ややこしい者もみな返してしまえ、となって釈放されたみたいだ」

 父は関東軍に徴兵されるまで大日本青年党(後に大日本赤誠会)という橋本欣五郎が結成したナチスまがいの国粋団体に入っていた。義勇軍の生みの親といわれた、加藤完治の農本主義に共鳴して満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州までやってきた。縁あって人民解放軍(八路軍)に入り、国共内戦を戦い抜いてきたが、共産主義の思想的な影響は全くなく、日本人の政治委員から反動分子と呼ばれていた。

帰国幹事
 高砂丸には「八路軍の制服を着た日本人の帰国幹事というのがおって、引揚者の世話をしていた」と言う。
日の丸組から見れば敵に寝返った国賊で、とんでもない連中だ。
「日の丸組の連中はなにやら企てていた。3カイリを過ぎたら奴らを海に放り込んでやるといきまいている。引き揚げ船が出航すると、中国のポンポン船が見送りにあとをついてきた。そのころ領海は3カイリだったのでそこまで来ると見送りの小船は帰って行く」
帰るのを見計らって帰国幹事を海に放り投げる算段だった。
「コリャサー!と思って」
父は必死に日の丸組の連中を説得した。
「苦労してやっと帰れるようになったのに、思想が違ったからといって無茶をするな!同じ日本人やないか!みんな家族がまってるぞ。一緒に帰ろ!」
説得のかいがあって不埒な計画はやまった。父は八路軍の日本人政治委員にはよい感情を抱いていなかった。戦後8年たっても皇国思想は抜けていない。心情的には右翼たちと同じ立場だが、かれらのあまりにも傍若無人なやり方に我慢ならなかった。父は普段の言動はいつも過激だが、いざ行動となると情が勝つ。関東軍の初年兵の時に命令された中国人を的にした刺殺訓練のときも拒否をした。
引揚者の記録などを見ていると、日の丸組によって実際ほうり投げられ海の藻屑となった者もいる。この時の帰国幹事は父が居合わせて幸運だった。さまざまなドラマを乗せ高砂丸は一路舞鶴へ進む。

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