沖ノ鳥島周辺で中国が無断の海洋調査か

沖ノ鳥島はEEZを持つのか?

新聞各紙の報道によると、中国の海洋調査船が沖ノ鳥島の排他的経済水域において日本に無断で調査をしたことに対し政府は抗議をしたとのこと。

しかし日本政府は、沖ノ鳥島の排他的経済水域200カイリを前提として、さらに最大350カイリ延伸を目論む「九州パラオ海嶺南部海域」への大陸棚延伸を国連大陸棚限界委員会に申請したものの、同委員会が2012年4月に発表した対日勧告書には認められていない。

其の後も国連がEEZを認めたという形跡がない。しかも2016年7月の中国とフィリピンの南沙紛争を仲裁判断した国際仲裁裁判所の発表は南沙諸島の最大の島である台湾支配の大平島(200ヘクタール)でさえ島と認められなかった。

わずか畳2~3畳程度の岩を800億円もかけて埋め立て「護岸工事」をして島に仕立て上げたものの、EEZを認められる可能性はまずない。

無駄な公共事業を、うその報道をして、隣国の紛争の種にしている。

鳳凰の枕カバー

新年あけましておめでとうございます。

以前、母の遺品を整理した時に珍しいものを見つけた。古い素朴な手作りの枕カバーで鳳凰の刺繍が施してある。

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子供の時に見たときはもっときらびやかな豪華な雰囲気のカバーで、中国から持ち帰ったものだと知った。たしか2枚あったような気がするが、しわくちゃでシミのついたこの一枚が残っている。

母がなくなる数年前、父と結婚したきっかけを聞いたことがあった。1951年ごろ母は中国の古都鄭州の医院に看護婦として勤めていた。
その町に父の輜重部隊、通称馬部隊、が駐屯していて、部隊長と医院の医者が友達で、仲を取り持ったそうだ。そのとき、仲間がささやかなパーティーを開いてくれ、枕カバーはお祝いにいただいたものである。

鳳凰は中国では縁起の良い伝説の動物で平和の象徴でもあるという。夫婦仲良くいつまでも円満に暮らすよう仲間たちが心を込めて祝ってくれた。そこには国の違いも民族の違いもない人間同士の祝福があった。

私の両親は決して仲の良い夫婦ではなかったが、母がこの枕カバーを時々押し入れから出し、子供の私に見せてくれた笑顔を今でも覚えている。

今の日中関係を見るとき、枕カバーの鳳凰は泣いて涙のシミだらけになっている。その原因の多くは私も含めた日本人の側にある。

父は日本に帰るとき、仲間たちにこう言われました。「落ち着いたらまた来てください、でもその時は鉄砲を持ってこないでくださいね」と。
今年一年穏やかな年でありますように願っています。

おしかけ真言

正月に亡くなった隣保の方の家に「押しかけ真言」で行ってきました。阿万地区でもほかにあまり聞かないので、うちの丸山隣保独自の風習かもしれません。

お盆の法事ではなく、普段着で気軽に行って真言を唱え故人をしのび、その後食事をいただきます。時間も1時間ぐらいで、帰ってきました。

ああ日本共産党か

父の十三回忌

今日1月17日は阪神淡路大震災から23年になりますが、父も同じ日に亡くなりました。波乱万丈な人生を送った人ですが、なくなるときも憶えやすい日を選んでくれたものです。

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朝お寺に行き塔婆をいただいて、仏壇に供えました。本来ならお墓に建てるのですが、うちはお墓がないので、法事などはいつも祭壇に立てます。

まあ父は無神論者の様な人間でしたので墓などなくても気にすることはないでしょう。母は普通のひとでしたので、お墓のことは気にしていました。

でも私は建ててあとあと世話をする自信がなく子供にも負担をかけたくないという思いがあって、ほっておいています。妻は父が嫌いでしたので、何にも「関係ない」とドライもんです。

ああ日本共産党か

今年は正月から不幸ごとが続き、隣保で一件、仕事の取引先で一件葬式がありました。隣保の家は家族葬でしたので本葬はいかず、お通夜に行き、隣保一同で真言を唱え、故人をしのびました。

大阪にいる、亡くなられた方の弟の一人にご挨拶申し上げたのですが、私は幼少のときなので憶えてないようで、「敏樹の息子です」といってもわからない。「池の堤で鶏を飼ってたでしょう」と言っても首をかしげる。

ちょっと間をおいて「ああ日本共産党か!」と大きな声で、やっとわかったようで、父の遺徳が偲ばれる?ひと時でした。

今年は帰国65周年

平和が一番

私の家族4人が中国から帰国して65年になります。その年1953年ごろ中国には国共内戦とそれに引き続く朝鮮動乱で、大陸への交通は遮断し、約3万人の日本人が取り残されていました。

私の両親は中国人民解放軍で働いていたのですが、日本では行方不明者で、故郷の家族は知る由もなく、死んだものとほとんどあきらめていたそうです。

朝鮮戦争は、北朝鮮軍が鴨緑江まで追いつめられていたのが、中国人民義勇軍の参戦により、ソウルまで押し戻しその後一進一退で膠着状態に陥り、休戦の話し合いがもたれたのが幸いして、周恩来が日本政府に残留日本人の名簿を渡し、両親の居所が分かりました。

其の後尼崎にいた伯母から河南省信陽にいた両親のもとに手紙がきたそうです。

もし朝鮮戦争が休戦にならず戦闘状態が続いていれば私たち家族をはじめ日本人残留者は帰国できなかったでしょう。まことに平和のありがたみを思わずにはいられません。

現在の朝鮮半島危機は私にとって他人事ではありません。日本政府は圧力、圧力と危機をあおり、軍拡をすすめていますが、とんでもないことです。

一刻も早く緊張が緩和されることを願わずにはいられない年初めです。

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