忠ならんと欲すれば孝ならず

孝ならんと欲すれば忠ならず

森友事件の件で、稲田防衛大臣が国会答弁で教育勅語の精神をを評価する発言を行った。戦前の大日本帝国を美化する人たちは、親孝行や兄弟仲良くするとか夫婦和合というのは良いことでその精神は学ぶべきということだと思います。私もというか現在の日本人でこれを否定する人はまれでしょう。儒教に影響された「特定三国・日中韓」の国民もこれを否定する人は少ないでしょう。

父が生前伯母たちと酒席でよく言っていたのは「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずなんてよう言うた、けど両立しない」ということです。稲田防衛大臣は「いいとこどりで」現実に合っていない妄想をしゃべっているに過ぎない。私の両親は戦前の教育で忠君愛国を徹底的に仕込まれそのおまけで「親孝行や兄弟仲よく、夫婦和合して」を教えられたのですが、最後は天皇陛下(忠君)のため死ぬのが最高の道徳だった。父はソ連軍の戦車に飛び込むはずだったし、母は青酸カリを飲んで息絶えるはずだっだ。そうなれば逆縁でこれほどの親不孝はなかった。孝行は忠君に従属されていた。

戦前修身の時間で楠木正成・正行親子の行動は「忠孝」を矛盾なく統一した理想として徹底的に国民に教え込まれたのは、教育勅語を実践するうえでの都合の良い神話だったからです。

父は「もう結果の出たことを蒸し返すのは時代錯誤」とよく言っていました。

時代錯誤の幼稚園や小学校でどんな人材が育つのでしょうか。こんなところで自分の子供をl教育したい親はいますか?

平瀬さん(3)

ロボット三等兵

平瀬さんが我が家を訪ねてきても、たいてい父はいなかった。父が帰ってくる間、延々と待ち続ける平瀬さん。当時の6畳一間のわが家ではテレビもなければラジオもない、財産らしきものといえば真新しい洋服箪笥がでんと鎮座しているだけ。私は、いつも父を待ち続ける平瀬さんが気の毒で、私の愛読雑誌少年クラブをネタに話し相手になった。というより遊んでもらっていた。

昭和30年代前半は子供むけ雑誌も月刊がまだまだ全盛で、少年クラブ、少年画報、冒険王、おもしろクラブなどが、少年たちの夢をかき立てていた。その中で父も戦前読んでいた、少年クラブは年一回、正月特大号だけ私は買ってもらえた。それ以外の月は貸本屋で借りるほかなかった。そこで連載されていた、ロボット三等兵は私の一番のお気に入りだった。舞台は支那事変から始まり、太平洋戦争で終わる。私は戦争というものをこの漫画で初めて知った。

軍隊の階級とか、部隊の簡単な編成はいつも読むうちになんとなくわかるようになり、5年生ぐらいになると、東京の大学に通っていた年長の従兄弟が持っていた「丸」というバカ高い軍事雑誌をコソっと読むようになっていた。

話を平瀬さんに戻すと、私は平瀬さんが描くロボット三等兵の似顔絵が大好きで、いつも頼んで描いてもらっていた。今思い出すとこのギャグ漫画はよくできていて、前谷惟光自身が経験したと思われる帝国軍隊の理不尽さが子供でも分かるようにおかしく描いてある。たとえばインパール作戦を指揮した牟田口司令官なんて子供心にひどい指揮官だと思えたし、日本の軍隊が食糧をろくに確保せず戦争をしていたのもよくわかった。

今でも覚えている話がある。連隊長がトンカツを食べたいとロボット三等兵に命令する。そんな材料はないので革靴の底を柔らかくなるまでグツグツ煮てそれを衣をつけてあげたのを連隊長に出すという筋書きで連隊長は美味そうに揚がったとんかつを一口食べて・・・ 

その漫画に出ていたとんかつが、それはそれはおいしそうで、母にトンカツを食べたいと言うと、「そんな高い材料買う金がない」と却下。それなら自分で作るからと、いらない革靴をもらって漫画と同じように、電気コンロに鍋をかけ革靴を切ったのをトントン叩いて柔らかく?したのを入れてグツグツ煮た。

母はあきれていたが、まあやりたいようにさせてくれ、それでいくら煮てもやわらかくならないので、ようやく私はあきらめました。ちなみに私が初めてトンカツを食べることができたのは中学生ぐらいの時で、その頃父は肉の商売をやるようになっていた。

ただっきゃのおばちゃん

2月14日ただっきゃのおばちゃんこと、川原松恵さんが亡くなった。94歳とのこと。「ただっきゃ」とは阿万小学校の校門近くにある文房具店のことで、誰も本名の川原店とは呼ばず、「ただっきゃ」あるいは、たの濁点をとって「たたっきゃ」とも呼んでいる。

戦後、阿万小学校に在籍していた人は、この店で文房具を買い、学校に通った。駄菓子を買って食べ、ジュースを飲みながら、友達と店の前でおしゃべりをしながらすごす、社交場でもあった。お気に入りの雑誌の発売日を待ちかねて一日に何回も来たり、おばちゃんの目を気にしながら、立ち読みしたり、また「当てもん」に夢中になり、小遣いを使い果たし悔んだり、なにかと思いで深い店であった。

長女が小学校の時、私はPTAの役員をしたことがあり、年一回発行する、「心の広場」という雑誌の編集責任者だった。その本の企画で、ただっきゃのおばちゃんのインタビューを記事にした。一番聞きたかったことは奇妙な店の名前の由来である。

おばちゃんいわく、昭和元年に榎本ただきちという人が始めて、「ただっきゃん」という愛称が、いつの間にか、「ただっきゃ」というようになったそうである。

おばちゃんの、あんこ型の体格から発射される迫力あるおしゃべりで、圧倒された。「文房具屋なんかビンボウ具屋といわれるくらいもうからん」とか「今の子供は、お菓子を食べたあと散らかしまくって片づけん」とか「親も子供二人連れてきて50円しか使わん。こまかいでー」とか辛口の言葉がビシバシ飛んできた。

最後に店とは切っても切れない万引きの話になる。今も昔も万引きをする子はいるが、やったらすぐわかるのでそれとなしに諭す。「ボクなあ、そんなことしたら、おばちゃんずーっと覚えとるで、大きくなってもあんたのこと、そんな子やとおもうてしまうし、ボクかて心の中に傷をずーともっていかなあかんし」

また二人連れの女の子で先に帰った女の子が出て行ったあと品物がなくなっていたので連れの子に言うと「泣きながら金をもってきた」という。「おばちゃん誰にも言わんから気に知られんと」慰めたという。言葉はきついが、やはり子供相手で、商売にも親の気遣いが感じられた、ただっきゃのおばちゃん。ご冥福をお祈りいたします。

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父の15年戦争戦後編(6)ウー主任①

階級のない軍隊

父が八路軍のことを話すとき、ウー主任という人物がよく登場する。父を八路軍に入れたのもこの人物らしく、その後部隊でも長い間一緒に行動していたようだ。

父が中国の組織を論じるとき「中国では主任という役職は組織の中でも地位が高い」とよく言っていた。日本の会社で主任というのは平社員の次に進む監督職だが、中国ではずっと高いという。

当時八路軍では階級がなかった。旧日本軍の場合、二等兵に始まり、伍長、軍曹、などの下士官、尉官、佐官、将官、最高位は大将で様々な階級があって、一つ階級が違えば天地ほどの差がある。上からの命令は絶対で戦闘中逆らえば射殺されても仕方がない。

軍隊という非常な組織が、革命の平等思想、理想主義を高く掲げた時代に父は遭遇した。それでも「指揮官と兵の違いはある。これがなければ烏合の衆で部隊長や指揮官は襟章でわかる」という。

もう一つ八路軍は独特の軍隊制度があった。各級部隊には政治主任というのが配置され、部隊長並みの権限をもっていて、思想や政治指導を行った。また軍事作戦についても参謀長なみの見識もった政治主任も多く、鄧小平などは生粋の軍人ではないが、解放戦争時には数々の作戦を成功させた戦歴を誇っている。

続く

平瀬さん(2)

細胞

昭和30年代までうちの家族4人は父の実家の離れの6畳一間で暮らしていた。従ってお客さんがきても、プライベートもなにもあったものじゃなく、私は漫画など読みながら、近くで父たちが話すのを、たいして意識することもなく、きいていた。

父と平瀬さんが話しているのを近くで聞いていると、サイボウという言葉が耳についた。後で母に聞くと体のいちばん小さい単位のことを言うらしいが、小学低学年の私はよく分からなかった。のちに細胞は支部に変わり、理解できるようになったが、周りには父以外に細胞らしき人は一人もいなかった。当時公然と共産党を名乗って活動をしていたのは阿万では父しかいなかった。

続く

«平瀬さん(1)

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