父の15年戦争 戦後編(21)八路軍からの逃走 奉天へ行け

脱走

父が、八路軍に入り1年ぐらいたったころ、無性に祖国に帰りたくなった、そんな時昼飯に入った餃子館で一人の男が父にささやいた。「奉天に行けば日本に帰れるぞ、まだ日本人の送還は続いている」

父の部隊は通称「馬部隊」と言って、多数の馬を引き連れている。それで飼葉が大量に必要で、小山のように干し草を駐屯地のあちこちに積み上げている。ある風の強い日、父は火をつけた。部隊は大騒ぎになり、そのすきをついて脱走した。数時間走っているうちに、奉天へ行く道がわからなくなった、川に沿って行くうち一人の男が釣りをしていた。父は馬から降り、男に近づき道を尋ねたところ、振り向きざま、モーゼル拳銃を取り出し父の胸倉に突き付けた。

八路の特務にあっけなく捕まり父はどこかに連れていかれ小屋に監禁された。「一週間ぐらいたち、そろそろ判決がだされる頃になった、日本軍だったら即処刑になるのはまちがいないし。わしも覚悟をきめた」夜になり小屋の入り口が急に騒がしくなった。

 

中国共産党創立100周年 神戸新聞の記事に見る歪んだ中国像

ステレオタイプの中共批判

7月1日は中国共産党創立100年になる。日本のマスコミも様々な論評を書いている。私が購読している神戸新聞を見てみた。第二面に「進む強権統治香港も掌握」とある。「習近平指導部は経済大国に押し上げた党の功績をアピールし一党支配体制の正当性をアピール」続いて「国安法」の施行から一年となる香港では強権政治で同法違反の逮捕者が続出し自由な国際都市と知られる香港の輝きが失われつつとある。民主派の「りんご日報」も廃刊に追い込まれ「一国二制度」の柱の法の支配も危機に瀕している、と書く。

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第四面は「香港国安法1年逮捕者117人」の太字の見出し、自由奪い「警察国家」化へ、中国共産党100年統制強化、の小見出しの囲む記事はりんご日報の主筆の拘束や、香港の街は赤い中国国旗で真っ赤になったとか、中国が自由な香港を蹂躙しているような観がある。

創立100年を記事にするのであれば、歴史を書くのが筋であるが、ちいさな囲みにQ&Aがあり、「党組織張りめぐらし国を支配」の見出し。

どういう組織ですかーーー1921年に結成、国民党との49年に政権の座に就きました。中国を事実上の一党独裁で支配し、軍、司法、立法、行政、企業、学校などあらゆる部門に党組織を張り巡らして、党中央の決定に基づき人々を指導しています。特権的なエリート集団ともみなされています。

続いてーーー党員数9500万で最高責任者は党総書記で国家主席も兼ねていて5年に一度の党大会で重要人事が決まるが家庭は不透明、特徴は貧富の格差のない共産主義の実現を目標に掲げているが、理想には程遠く経済発展を優先し市場経済を導入したため資本主義化が進んでいる。国民の政治参加は極めて制限され習近平氏が総書記に就任して以来、重要政策を決める、最高指導部の協議も形骸化している。とある

「北京共同」とあるので、共同通信の配信記事と見受けられるが、よくもまあ出来の悪い中学生がコピペしたような記事を載せるもんだ。北京から追放された元共同通信の辺見庸に見せたらどう思うかな。

これだけ見れば、隣国はヒトラーが支配するナチス張りの独裁国家で、自由と民主の香港を奪い14億の国民を特権エリート9500万人の党組織が監視しするお化けのような国のように見える。しかも共産主義の理想を掲げながら金儲け優先の市場経済で理想には程遠いとあり。人民はかわいそうな存在であるようだ。

香港は麻薬密売国に強奪された

中共創立当初のことはまるで書かないで、いきなり国共内戦で勝利したと書く。これではなぜ中国共産党が出来たのかという歴史的な背景が全く理解できない。中国(清国)は1840年のアヘン戦争後、アヘンがイギリスの東インド会社から大量に流入し、反対に銀が大量に流出した。イギリスは肥え太り中国は他の西洋列強や日本から不平等条約を押し付けられ、反植民地状態になる。

古い封建制度の清朝は対応できなくなり1911年辛亥革命が勃発し清国は滅亡した。臨時政府の総統に革命派の孫文は就任するが、すぐ旧制度の亡霊、袁世凱に権力を奪われる。袁世凱も病死し、軍閥の群雄割拠になり、そのすきをついて1915年日本の対華21ヵ条の要求で中国に対する侵略が露骨になると、民衆は憤慨しデモや暴動がおこる。しかしその場の激情にかられた一揆主義では、社会を根本的に変えることはできず、北京大学の陳独秀(初代委員長)、李漢俊 らを中心とする知識人はマルクス主義にその活路を求める。このとき湖南省代表として参加したのが毛沢東でのちに主導権を握り革命を成功に導く。

1917年ソビエトで10月社会主義革命がおこると、その影響を受けた、中国共産党が成立したのです。従ってその戦いの主敵は国内の封建的な軍閥勢力や地主勢力とともに侵略する日本が相手になる。

神戸新聞の論評では香港の問題が盛んに書かれているが、アヘン密貿易を取り締まった清国に因縁をつけて戦争を仕掛け領土を奪ったイギリスが正しく、奪われた中国が悪人のように描かれている。アヘンを取り締まったのは愛国者、林則徐で彼は大量に押収したアヘンを海辺で焼くが、それに対してイギリスは「自由貿易の侵害だ」と大艦隊を派遣して戦争を仕掛ける。その時イギリスは民主的な議会を持っていたので、戦争の発動に僅差ながら賛成をするのです。

帝国主義(麻薬密売・強盗)の政策は民主的な手続きでなされた。清国は伝統的に武より文を貴ぶ国で圧倒的な近代兵力に誇るイギリスは勝利し1842年香港はイギリスに割譲された。

中国をアヘン汚染国にした日本

アヘン貿易は莫大な利益を生むが、汚染された国は数えきれないほどの中毒者を生み退廃、衰退してゆく、20世紀初頭になりアヘンの害毒を見過ごすことはできないと有識者たちはアヘン禁止の団体を次々結成し、運動を強めていった。清朝の為政者も無視できなくなりイギリスとのアヘン条約を廃棄することを決断、イギリス下院もアヘン貿易を恥と考え、ついに1917年ごろまでにイギリスはアヘン貿易から手を引いた。

イギリスに代わりアヘン貿易に積極的にかかわり始めたのは日本である。1916年日韓併合後、日本は朝鮮で製薬の名目でケシ栽培を奨励した。ソウル、新義州をアヘンなどの製造センターとし、中国東北各地をはじめ、天津、青島、上海などへ搬送された。

日本がイギリスよりさらに悪辣だったのは、日本の勢力範囲にアヘン吸引館やモルヒネ店、とばく場、妓楼を設け農民にはケシを栽培するよう強要したことだ。当時蒙疆と呼ばれた地区に膨大なケシを栽培させ大量のアヘンやモルヒネを製造した。アヘン法、アヘン買い上げ法を公布し公然とアヘンの輸出入を行い始めた。

中国に対するアヘン政策は日本の陸軍、外務省、興亜院で企画実行された国策である。それに民間の三井物産や三菱商事などが乗り、大量に売りさばいた。

中国に対する西洋列強と日本の侵略戦争は南京大虐殺や細菌戦、毒ガス戦などの戦争犯罪にだけに目が行きがちだが、秘密裏に行われた麻薬政策は中国の正常な産業発展を阻害し、人々を退廃させ、無気力にして、帝国主義に対する抵抗力を奪った。

香港はもっと早く返すべきだった

現在の日本のマスコミは米国のニュースをそのまま何の検証もせず垂れ流す一方だ。これではまともな目で隣国を見ることはできない。中国共産党は狡猾な大英帝国と残虐非道な大日本帝国に抵抗し戦ってきた党である。その日本や米英から強権とか自由を奪うとか言われたら、怒りを通り越して、あきれてしまうのではないか。香港の一国二制度が守られないという前に、1917年アヘン貿易を恥としてイギリス下院が撤退の決議をしたときに、本当に反省をしていたのならそのとき香港を中国に返すべきだったと思いませんか。香港返還は100年近く遅かったのである。

2年前の香港騒乱はならず者の組織を使って香港を米英の支配する国に戻そうとする試みだったように見える、ウクライナはそれで成功したが、国安法で「毒リンゴ」は退治され良識ある香港市民は喜んでいるのではないか。

今年になり米軍は自衛隊、韓国軍、オーストラリア軍、フランス軍などと日本、韓国周辺南シナ海などで盛んに軍事演習を行っている。イギリスも空母クィーンエリザベスを主力とする機動部隊を中国近海に派遣するようだ。イギリスはフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利した甘い夢を持っているのだろうか。

習近平主席の「100周年演説」では「中国人民はこれまで一度も他国の人民をいじめ、抑圧、隷属させたことはなく、これは過去にも、現在にもなく今後もあり得ない 同時に中国人民はいかなる外部勢力が我々をいじめ、抑圧、隷属させることも許さない そのような妄想を抱くものは誰であれ必ずや14億余の人民が築いた血と肉の鋼の長城に頭をぶつけて血を流すだろう」述べ万雷の拍手を浴びた。

腹をくくった習近平主席

習近平主席の演説は毛沢東を意識し、現在の中国の状況を「持久戦論」の第三段階、守勢均衡から反攻の時期と考えているのではないだろうか、日本の情報は米英の情報に偏りすぎ、中国が世界で孤立しているようなことばかり言っているが事実は逆で、香港問題でもウイグル問題でも、国連では中国が多数に支持されている。

戦前、日本のマスコミは暴支膺懲を煽ったが世界で孤立し暴日膺懲で滅びた。今度は中国包囲に加担し、逆に包囲殲滅されないよう情報には歴史を学び報道してほしいと思います。

 

中国で日本人が死刑にされて思い出したこと考えたこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の15年戦争戦後編(20)八路軍からの逃走 包囲戦

早く日本に帰りたい

日本敗戦後、父はソ連軍の捕虜となりシベリアへ移送される途中、脱走に成功した。そのあと、厳冬の北満を彷徨し、行倒れ寸前のところを運よく旧知の中国人に助けられ、ソ連軍の接収した関東軍第八病院に入院、間もなくソ連軍は帰還し入れ替わりに入ってきた八路軍(東北民主連軍)の献身的な看病で一命をとりとめた。そのあと出会った八路軍の政治委員にリクルートされ、共産軍に入隊する。一年余りハルピンの牧場で輸送部隊に使う軍馬の調教に励んだ後、哈爾濱人民軍総兵站部の獣医として、満州各地を転戦する。

「一年もすれば日本に帰れると思っていたが、なかなか返してくれない。甘かったといえばその通りだが、こちらも若かったので、次第に焦ってきて、部隊長に何回も掛け合ったが、らちがあかない」

しかし、東北4省(満州)争奪に、国共両軍の戦いは激しくなる一方だった。

「そのうち部隊に軍のかなりのエライさんが来るので、会わしてやるから交渉してみろ、ということになった」

ギターにつられて軍隊に入るくらいなので、八路軍には何の未練もないし、いったん望郷の思いが募ると、止められなくなる、だが輸送部隊の高官も戦いの最中にそう簡単に返すとは言ってくれない。

「その高官も話は静かに聞いてくれるが、色よい返事をするわけでない。まあもう少し待ってくれ、戦争が終われば必ず日本に返すからというばかりで、いつ返すというはっきりした返事はなかった」

包囲・逆包囲

父はひそかに決心した。ソ連からも逃げおおせた、チャンスは必ず来ると。それからしばらくして、味方の戦況が悪くなり、父の部隊は敵に包囲された。その状況はこうだ。父の部隊は輸送部隊でたくさんの馬を引き連れていた。戦争は食料や弾薬が尽きれば一巻の終わりなので、敵の補給を遮断するのは重要で、馬という重要な輸送手段丸ごと包囲された。そこで味方の戦闘部隊は大群で、輸送隊を包囲した敵軍をその外から逆に包囲することになる。

私は戦後の世代で戦争というのは小説か漫画またはテレビや映画でしか知らない。それで関ヶ原の戦いとかワーテルローの会戦のような派手な戦争のイメージはわかるのだが、自分の部隊を包囲した敵を味方がまた包囲するというのは想像の範囲外で、例えば私の住んでいる南あわじ市阿万(人口3000人ぐらい)に部隊がいたとして、敵が包囲するとしたらと父に聞くと、

「3千人ぐらいの街だと周囲十数キロぐらいにわたって敵が包囲する。それを味方の大群が人口5万人の三原郡(現南あわじ市)の周囲(50キロぐらい)を逆包囲している」

住民はどうしているのか。

「住民は普通に生活をしていて、店も開いていて、敵・味方のあいだを住民が往来できるので完全に遮断されているわけではない」

そこでドンパチ始まるのか。

「簡単に戦いは始まらない、街中で戦闘をすれば住民に被害が及ぶので、敵・味方の特務が住民の中で情報を探ったり、自軍に有利になるよう工作をしている。ある時、餃子館で昼飯を食べていたら、わしを日本人とみた一人の男が話しかけてきて、奉天へ行けば、日本人を送還してくれる事務所がまだやっているらしいとささやいた」

続く

 

 

 

父の15年戦争戦後編(19) 八路軍入隊始末

ギターを持った八路兵

父が八路軍(人民解放軍)に入ったのは、舞鶴の引き揚げ援護局で書いた身上書によると昭和22年(1947年)6月2日である。牡丹江にあった関東軍第八病院を接収していたソ連軍が春頃、撤収し入れ替わりに八路軍が進駐してきた。そのころ満州に残っていた日本人を帰国させるため、国共両軍と、米軍の三方で協定が結ばれ、日本人の送還が始まっていた。

病気療養をしていた父は回復し、日本に帰国するため招待所で待っていたが、義侠心からある夫婦の身代わりに残留することになった。そこで出会ったのがウー主任である。そのころ国共両軍とも日本人が帰った後の人材難に直面し、特に医療従事者、鉄道技術者などは決定的に不足していた。父は「義勇軍」のころから獣医を目指し勉強していたので、ウー主任は興味を持ち、八路軍に入隊をするよう父を口説いた。父は「そのころ八路軍といっても共匪と言って馬賊の一種ぐらいにしか思っていなかったが、いま帰っても、日本は原爆にやられて焼け野原になっているらしい、落ち着くまでしばらくここに残って様子見をしようと思った。それに八路軍のような馬賊の集まりが、なんで国民党と対等に中国の覇権を争うまで大きくなったのか興味もあった」ウー主任は八路軍の部隊でもかなりの高官らしく強い権限も持っているようで、もし入ってくれたら何でも好きなものを買ってやろうと甘い言葉をかけた。

「入れば何でも買ってくれるというので、ためしにほしい本を言ったところ本屋に行って買ってくれた、次にギターが欲しいといったところ、哈爾濱一の楽器屋に行き買ってくれた」父はギターにつられて八路軍に入った。

「まあ22歳の青年が欲しいものなんて、そんな高いもんをいわんだろう、たかが知れているだろうと、気安く請け負ったみたいだ」

技能を買われた日本人

1946年末までに、満州残留の大多数の日喬(筆者注日本人居留民)は本国に帰還したが、一部の日本人は本国での生活と就職難を考え、また中国側も引き留めたため、中国に留まる道を選んだ。彼らはのちに国共両党の内戦に巻き込まれることになった。中略ー八路軍は満州に進出するや、科学や医療のレベルの低さを補うのと戦争の需要に迫られ、ソ連軍のようにまず科学者を捜し求めるのではなく、当面の戦闘にすぐ役立つ医者や、軍需産業の機械を使える技師を捜した。当時、多くの日本人は失業しており生計の見通しが立たない状態であった。だから給料が保証され、人格も尊重される仕事の勧誘に喜んで応募した。共産党の支配地域においては、大連地区の日喬が最も多かった。 徐焰著 朱建栄訳「1945年満州進軍」」 日ソ戦と毛沢東の戦略 三五館より

母が八路軍の看護婦として留用されたのは否応なしだった。留用された日本人「母の場合」3 しかし父の場合はギターにつられて、気楽に八路軍に入ったみたいだ。父はノーテンキな性格で、物事を良いほうに良いほうに考えるところがある。これからギターを抱えた渡り鳥は血みどろの国共内戦を飛んで行く。 

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1953年ごろの父 河南省信陽の農場で

 

 

 

 

 

父の15年戦争補遺8特務漢奸

特務漢奸

日本が満州事変を引き起こし、満州国という傀儡国家を作るにあたって、少数派の日本人だけで国家を運営することは到底不可能であった。そのため表向きは五族協和の理想的なスローガンを掲げた。しかし小役人の給料はよくて日本人の半分程度で明らかに差別があった。また米や砂糖をはじめ重要な農産物は満人と呼ばれる中国人には一部の役人以外、口にすることが出来ず、購入したことがばれたら、経済犯として処罰された。

満州にいた多くの日本人は二重国籍で彼らは「満州国」の一等国民だった。規定によれば「満州人」(満州の中国人)は少数の官吏を除いて、トウモロコシの粉に、どんぐりの粉を混ぜた粉で作った麺しか食べてはならず、違反者は「経済犯」として処罰されるが、日本人は「満州国」政府によって統一的にコネが配給される。また高級住宅が集中する各都市の日本人居住区は許可がない限り中国人にとって立ち入り禁止区域だった。 徐焰著 朱建栄訳「1945年満州進軍」日ソ戦と毛沢東の戦略 三五館より 筆者注・満州国は国籍法を持たなかったので日本人は日本国籍のまま居住していた。  

父が特務機関の仕事をするようになると、権力者である日本人に近づき媚びをうる中国人たちとも親しくなった。その一人が黒竜江沿いで小麦粉の工場を経営する中国人だった。父は無蓋列車でシベリアに運ばれる途中、ソ連軍から脱走し、厳寒の黒竜江沿いをさまよううち、行き倒れになったが偶然その人の工場が近くにあり助けられた。彼は親日派で重要農産物の小麦を手に入れるため、日本軍に協力したが、国民党や共産党から漢奸と呼ばれ、敵視された。父によるとスパイを意味する特務と漢奸が結びつくと「特務漢奸」になるが、これは中国人にとって最大の罵倒することばになり、日本でいえば国賊と売国奴を合わせたような、憎しみを込めたきつい言い方だそうだ。 東大出の奸漢

日中戦争は中国と日本が戦争をしたが、中国は一枚岩ではなく、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が合作(統一戦線)をして日本軍に対抗した。日本は国民党のナンバー2だった汪兆銘に謀略(桐工作)を仕掛け、南京に傀儡政権を打ち立てた。また中国は多民族国家なので少数民族と漢民族を対立させ支配するのがアヘン戦争以来の帝国主義国家のやり方で、特務機関はその最前線で親日派を獲得するため多くのの資金を使った。

 

 

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