父の15年戦争 戦後編

父の15年戦争戦後編(6)ウー主任①

階級のない軍隊

父が八路軍のことを話すとき、ウー主任という人物がよく登場する。父を八路軍に入れたのもこの人物らしく、その後部隊でも長い間一緒に行動していたようだ。

父が中国の組織を論じるとき「中国では主任という役職は組織の中でも地位が高い」とよく言っていた。日本の会社で主任というのは平社員の次に進む監督職だが、中国ではずっと高いという。

当時八路軍では階級がなかった。旧日本軍の場合、二等兵に始まり、伍長、軍曹、などの下士官、尉官、佐官、将官、最高位は大将で様々な階級があって、一つ階級が違えば天地ほどの差がある。上からの命令は絶対で戦闘中逆らえば射殺されても仕方がない。

軍隊という非常な組織が、革命の平等思想、理想主義を高く掲げた時代に父は遭遇した。それでも「指揮官と兵の違いはある。これがなければ烏合の衆で部隊長や指揮官は襟章でわかる」という。

もう一つ八路軍は独特の軍隊制度があった。各級部隊には政治主任というのが配置され、部隊長並みの権限をもっていて、思想や政治指導を行った。また軍事作戦についても参謀長なみの見識もった政治主任も多く、鄧小平などは生粋の軍人ではないが、解放戦争時には数々の作戦を成功させた戦歴を誇っている。

続く

父の15年戦争戦後編(5)風雲急を告げる満州

戦後国民党軍と八路軍が内戦に突入したとき、国民党軍は旧日本軍の支那派遣軍100万人の武器弾薬をほとんど接収していた。その時、正規軍は430万に達し、その中でもビルマで日本軍をさんざん翻弄した、新六軍はアメリカ製の最新兵器を装備した、強力な軍で、蒋介石は自信満々であった。一方の八路軍は正規軍が国民党軍の2割程度、民兵を入れても国民党軍の半分ぐらいの軍勢で、銃は旧式、型もバラバラで、圧倒的に劣勢であった。

父に生前、圧倒的に劣勢であった八路軍がなぜ国民党軍に勝てたのか聞いたことがある。また武器はどのように調達したのか、兵站はどうだったのか。

「八路軍というのは、武器弾薬は原則として敵から奪って戦争をしていた。自分で大きな兵器工場を持っていないので、ロンドンやニューヨークから武器を持ってくると言われていた。確かに銃は南北戦争で使われた物どころか、アメリカ独立戦争時代の物がいっぱいあった」

アメリカは蒋介石に旧式の武器も、在庫一掃のバーゲンセールのように渡していた。

日本がポツダム宣言を受諾したとき、毛沢東も蒋介石も満州の戦略的な重要性を認識していた。国民党の主力、中央軍は中国の南西部に引っ込んでいたので遠く満州までの移動はアメリカ軍の輸送に頼った。

対する八路軍は日本軍占領地で果敢なゲリラ戦を展開していたので、満州に近い華北や山東の部隊を十数万いち早く満州に進出できた。

日本降伏後、満州を占領するソ連軍は国民党政府と結んだ中ソ条約の関係から八路軍が公然と活動することを禁じた、八路軍は反発したが、圧倒的な軍事力で満州を制覇したソ連軍に逆らうことはできず、忍耐強く対処し、その時の情勢で、制服も脱ぎ、名称も八路軍から東北人民自治軍、東北民主聯軍、東北野戦軍、東北解放軍、人民解放軍・第四野戦軍と目まぐるしく変えていった。

このころ毛沢東率いる八路軍は兄貴と頼んでいたソ連があてにならないことを知り、苦しい立場に立っていたが、柔軟な戦略で満州制覇の足掛かりを確保していった。重慶会談で和平協定は結んだものの、あちこちで小競り合いが続き、国民党と対決することは必至で、幹部たちは軍の拡大を目指し急速に人材をオルグした。

1946年5月ごろ父は病状を回復し、日本へ帰る手続きをしかけたのだが、ある夫婦の身代わりで満州に残ることになった。その場所は不明だが八路軍が支配していた地域で、ある中国人が接触してきた。

注:毛沢東率いる八路軍が最終的に人民解放軍と名称を変えるのは1947年頃だがこのブログでは時期にかかわらず特別の場合を除き共産党軍を八路軍の名称で統一します。

父の15年戦争戦後編(4)謎の大爆発

謎の大爆発

父が牡丹江の病院にいるとき不思議な体験をする。1946年3月頃ソ連軍が撤収する1週間ぐらい前から弾薬庫が次々爆発し始めたのだ。3個師団が戦闘で使う兵器廠なので膨大な量の弾薬が集積されている。数日間大轟音が鳴り響き、爆発は続き、それはすごかったと言いう。事故だったのかと聞くとそうではなくソ連軍が爆破したとのことだ。

なぜソ連軍はそんなことをしたのだろうか。その後病院は八路軍の監理下になるので、武器弾薬は共産軍に渡されたと思いきや、そうではなかった。

歴史修正主義に影響された近代の中国革命を描いた書物には国共内戦で毛沢東が勝利をおさめたのは満州の日本軍が残した膨大な武器弾薬をソ連軍が接収し八路軍にに渡したためだと書いているものが多い。全世界で1000万分以上売り上げ日本でもベストセラーになった「ワイルド・スワン」-マオ誰も知らなかった毛沢東-にもそのように書いてある。

現代中国研究の泰斗、矢吹晋氏はこの本を三文小説と酷評している。解放戦争期、東北民主聯軍軍工部で働いていた武吉次郎氏の証言が次のように彼の著作に記されている。

「ソ連は満州にあった日本の兵器をくず鉄として運んだほか、工場設備、鉄道レール(チチハルから黒河まで)から、高級官僚社宅の家財まで、根こそぎ自国へ運んで行った」ー矢吹晋著中国の政治経済の虚実より

父は敗戦後ソ連軍の捕虜になり、吉林で武装解除されたが、足に腫瘍ができ、その治療のため、機動連隊の戦友より遅れてソ連に入った。森林鉄道で木材を伐採したり、鉄道のレールを剥がしながら黒河まで移動した経験は武吉次郎氏の証言とピッタリ合う。

日本敗北後の国際政治は複雑怪奇で、スターリンや蒋介石、毛沢東などの巨頭が丁々発止と渡り合っていた。共産主義者同士はインターナショナルで結ばれていたわけではなく、大国のエゴが如実に現れた。

スターリンは大連、旅順の租借や東支鉄道、南満州鉄道の共同管理などの利権を戦後誰と交渉すべきか考えた場合、毛沢東よりも蒋介石を選んでいた。(1945年8月14日、蒋介石とスターリンは中ソ友好同盟条約を締結)

それでソ連が牡丹江・液河の日本軍から接収した大砲などの武器は屑鉄としてソ連に運ばれ、無用な弾薬は中共軍にわたらず爆破されたのだ。スターリンは狡猾でこの後アメリカが、全面的に蒋介石に肩入れしだすと逆に毛沢東を強く支援するようになるが、この時期は転換期だった。

父の15年戦争戦後編(3)関東軍第八病院

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軍用列車が着いたところは満州東部の要衝、牡丹江(ぼたんこう)の町だった。その牡丹江を見下ろす高台にソ連軍が接収した第3軍の軍司令部、掖河(えきが)がある。そこには関東軍第8病院、武器弾薬庫、その他さまざまな施設が集積していた。

私が子供のころ、両親は戦後満州に駐留していたロシア人のことをよく話題にした。

母は自分が小柄な体格なので、いつもロシア人の女性兵士に頭をなでられて子供のように扱われたことを、根に持っていた。「ロシア人の子供はすごくきれいでお人形さんのようだった。けど大人になるとあまりに彫が深すぎていやらしくなる。それに、二十代なかばになると、誰もかれもぶくぶく太ってきて、あのデブの政治委員、体に似合わずまるでオペラ歌手のようだったわ、声だけが。肥えると声帯がよくなるのかなあ…」

父はおどけて、病院内の豊満なロシア人看護婦の腰に抱きついたことがあるという。「わしは当時身長175センチで体重38キロぐらいまで下がっていて、担当の看護婦の半分もなかった。それでうらやましくもあり、若気の至りで、ウエストが何ぼあるのか図ってやろうと思った」

怒りのナターシャは腰をひとひねりすると、哀れな重病人は十間もぶっ飛ばされたという。

やがて春になりソ連軍は引き上げることになり、代わりに東北民主連軍(八路軍)が進駐してきて父は引き渡された。

一ヶ月ほど療養するうち病状も回復してきて帰国できる可能性が出てきた。

病人は優先的に帰国でき、招待所で国民党の支配地区(満州南部)にうつされるまで待っていたのだが、そこで一組の夫婦と出会うことになる。そのとき夫婦のうち妻は病弱で国民党地区にすぐ移動できるのだが夫のほうは立派な体格で健康なので次になるという。

離れ離れになる夫婦は泣きながら担当者と交渉していたが、埒があかない。父は見かねて夫と替わってやることにした。父は22歳独身で身軽だったので少しぐらいは帰るのが遅くなってもいいと、一種の義侠心から残ることにした。

父の15年戦争戦後編(2)彷徨

父の15年戦争(2)最後の戦争証言より続く

 Ha11884141ruimg600x45013764516300uy 夏の黒竜江600x3802014011101176冬の黒竜江
 

東大出の奸漢
 父は厳寒の黒竜江沿岸を彷徨っていた。日本敗戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに送られる途中、すきを見て三人で一緒に脱走をしたが一人は射殺され、もう一人とは、はぐれ独りぼっちになったのだ。
「あっちゃへ行ったり、こっちゃへいったりもうわけがわからなくなり、意識がもうろうとしてきた」
 行き倒れ寸前に父は、吹雪いてかすむ前方に見慣れた倉庫があるのに気付いた。息も絶え絶え、入っていくとそこには中国人の旧友がいた。
「わしが、特務機関の手先をして、黒竜江沿いのソ満国境調査をしていたころ知り合った。その男は若いころ東京大学に留学していたというインテリで、小麦工場を経営していた。小麦は統制品で中国人には手に入りにくい中、わしは憲兵に交渉して特別に物資が手に入るよう何かと世話をして、友達になった。」
 父の説明によると「その男は親日派で国民党や共産党から見れば※特務奸漢、民族の裏切者とみられていた」
 その東大出の工場経営者は父が重篤なのを知り、ボロボロになった満服(中国服)のコートを着せ、瞬く間にソ連軍と交渉をして軍用列車に乗せた。

※特務奸漢:中国語で同国の人をののしる最大限の言葉。日本語の国賊と売国奴を合わせた強い意味を持つ。

父の15年戦争戦後編(1)毛沢東の弟子

P1030879_2 天安門上の毛沢東、その横鄧小平、右端劉少奇、1950年頃。筆者所蔵
毛沢東の弟子
「わしは毛沢東の弟子じゃ」父が亡くなる半年前に言った言葉だ。私が朝仕事にかかる前に父とお茶を飲みながらいつものように昔の中国の話や戦争の話などをだべっていたとき、ふいに言った。
「わしがいた第四野戦軍は林彪が総司令官で林彪は毛沢東の一番弟子やから、わしは毛沢東の弟子じゃ。ファハッハッ…」無理にこじつけて照れくさかったのか父は愉快そうに笑った。父は自他共に認める中国びいきだった。親戚の間でも有名で、「おっちゃんは中国に長いことおったからなあ」とよく言われた。毛沢東に心酔していたことも、日ごろの言動から私は良く知っていた。
 

父は日本に引揚げてきてから、日本共産党に入党、日中友好運動にものめりこんでいった。当時日本と中国とは国交はなく、いや正確に言うと台湾(中華民国)が正統な中国で国交があり、中華人民共和国は中共といって日本は敵視し、戦争状態が続いていた。中共と日共は仲間とみられ家には公安刑事がよく来ていた。きちんとした服装をしていて、ネクタイをしている刑事さんは田舎では珍しく、私が普段から見慣れている農家の人や、よく飲みにきていたヨッパライとはまるで違う世界の人のようだった。私は警察官には制服を着ている人と私服を着ている人がいることを知った。

母の姉婿が刑事で熊本市の伯母宅に遊びに行ったとき、伯父がいつも帰るのが遅く、「きっと張り込みで今夜も遅いわ」なんて伯母は普通にしゃべっていた。
我が家も公安刑事から父はよく張り込まれていたと思うが、母は苦笑いをしながら姉の言葉を聞いていたのだろうか。そのころ父を尋ねてくる人間は、ヨッパライ、ばくち打ち、チンピラ、借金取り、裁判所の差し押さえ人、右翼、共産党員、公安刑事、など個性的な人が多かった。

洗脳
 毛沢東、共産党、引揚者といえば洗脳という言葉が聞こえてくる。私が洗脳という言葉を知ったのは中学2年の歴史の時間だった。その頃中国ではプロレタリア文化大革命が勃発し、毛沢東語録を掲げた紅衛兵の嵐が吹き荒れていた。私は朝日放送の「ヤンリク」という深夜放送を聴きながら、時折ダイヤルを少しずらし北京放送も聞いていた。
 3月に入り、歴史の授業が大幅に遅れていたので近・現代史の追加授業を道徳の時間にやる事になり、社会の先生に代わって教頭先生が教壇に立った。
 授業の最後の方で冷戦の話から鉄のカーテン、竹のカーテンといった言葉がでてきて、「中共から引揚げてきた人間は洗脳されていて革命を企てている」というような事を先生はおっしゃった。ほとんどの生徒は意味がよくわからなかったと思えるが、私一人、両親のことを名指しされたのではないかと、どぎまぎした。あれから半世紀近く時がたつが、私は洗脳という言葉を見たり聞いたりするたび、心拍数は増え耳がピクピクするようになった。父は洗脳されたのだろうか・・・
 
 日本のネット社会の一部を見ると毛沢東はヒトラー、スターリン以上の大虐殺者とされているようだ。毛沢東が発動した文化大革命は中国社会に大きな傷あとを残し、当の中国共産党自身が「10年の動乱」と否定している。文化大革命のころ私のうちでは赤旗と産経新聞を取っていた。産経の柴田穂北京支局長が追放された事や、赤旗の紺野特派員と砂間一良日本共産党北京代表が北京空港で紅衛兵に半殺しにされ、命からがら日本に帰ってきたことも知っている。日本と中国の共産党はそれ以後32年間の長きにわたって敵対し断絶する。そのころ中国共産党は日本共産党を4つの敵(アメリカ帝国主義・ソ連修正主義・日本佐藤内閣反動政府・日共宮本修正主義一派)と呼び糾弾した。

 林彪事件、4人組逮捕によって文革は終息に向かうが、復活した鄧小平がレールを敷いた経済の改革開放路線で毛沢東の「永久革命」は否定される。にもかかわらず父は死ぬ前「わしは毛沢東の弟子」だと言い切った。父は中国革命に参加した7年間、夢でも見ていたのだろうか・・・
 

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