父の15年戦争 戦後編

新疆ウィグル自治区に行ってきます

新疆ウィグル自治区ツァー第二陣

来月中国在大阪総領事館が主催する第二次新疆ウィグル自治区ツァーに参加できることになりました。本当は6月に行われた第一陣に参加したかったのですが、私はコロナのワクチンを打っていないし、マスクも慢性鼻炎でほとんどしないので、厳格なコロナ対策をしていた中国に入れないだろうと遠慮していました。

それでこの度第二陣が実施されるということで、ダメ元で応募しましたところ、リモートで面談をするということで、総領事館の方とお話をし、良い感触で参加できることになりました。

キルギスに馬を買いに行った

25年ぐらい前に日本人がキルギスの反政府組織に人質となり、日本政府に身代金が要求された事件があった。テレビでそのニュースが報じられたとき、一緒に見ていた父が、テレビに流された風景を見て、「わしゃ、このあたりに馬を買いに行ったことがある」と言った。

父は常々「わしゃ、あの広い中国は隅々まで行った、そりゃ広い、あんな広い国はない」と言っていたので、チベットも行ったことがあるのか「いやチベットは行っていない」延安は行ったのか「いや行ったことはない」海南島は「ない」まあ追及するとぼろが出るので、私は話半分に聞いていた。

テレビでキルギスの風景を食い入るように見ていた父は馬の話をしだした。「この辺は馬の産地で蒙古馬やアラブ、なんかみなこの辺の馬から出たものだ、汗血馬という名馬がいて、中国では垂涎の的だった」

父の熱のこもった話を聞いているとほんとかなとも思えてきた。話は続く「中国では南船北馬と言って交通の手段は北と南でまるで違う南は河や運河が多く、船が主な移動手段だが北は馬が主要な交通手段だ」

父は人民解放軍の総後勤部で通称「馬部隊」で獣医をしていた。父は馬の話をしだすと止まらない。

「北の馬が南へ移動すると、睡虫病という病気にかかる。馬が歩きながら眠ってしまう病気で、寄生虫が原因だとわかったがこれには困った」

それで?「色々調べると香港に特効薬があるとわかった。当時イギリス、フランスが獣医学で先進国だった。それで人を派遣して買ってきた」父はその功績で大功という名誉ある勲章を2度授与されたという。キルギスと新疆ウィグル自治区は隣り合わせで、広い草原を何百頭もの馬を追う父の姿が目に浮かぶ。

 

 

 

父の15年戦争 戦後編(21)八路軍からの逃走 奉天へ行け

脱走

父が、八路軍に入り1年ぐらいたったころ、無性に祖国に帰りたくなった、そんな時昼飯に入った餃子館で一人の男が父にささやいた。「奉天に行けば日本に帰れるぞ、まだ日本人の送還は続いている」

父の部隊は通称「馬部隊」と言って、多数の馬を引き連れている。それで飼葉が大量に必要で、小山のように干し草を駐屯地のあちこちに積み上げている。ある風の強い日、父は火をつけた。部隊は大騒ぎになり、そのすきをついて脱走した。数時間走っているうちに、奉天へ行く道がわからなくなった、川に沿って行くうち一人の男が釣りをしていた。父は馬から降り、男に近づき道を尋ねたところ、振り向きざま、モーゼル拳銃を取り出し父の胸倉に突き付けた。

八路の特務にあっけなく捕まり父はどこかに連れていかれ小屋に監禁された。「一週間ぐらいたち、そろそろ判決がだされる頃になった、日本軍だったら即処刑になるのはまちがいないし。わしも覚悟をきめた」夜になり小屋の入り口が急に騒がしくなった。

 

父の15年戦争戦後編(20)八路軍からの逃走 包囲戦

早く日本に帰りたい

日本敗戦後、父はソ連軍の捕虜となりシベリアへ移送される途中、脱走に成功した。そのあと、厳冬の北満を彷徨し、行倒れ寸前のところを運よく旧知の中国人に助けられ、ソ連軍の接収した関東軍第八病院に入院、間もなくソ連軍は帰還し入れ替わりに入ってきた八路軍(東北民主連軍)の献身的な看病で一命をとりとめた。そのあと出会った八路軍の政治委員にリクルートされ、共産軍に入隊する。一年余りハルピンの牧場で輸送部隊に使う軍馬の調教に励んだ後、哈爾濱人民軍総兵站部の獣医として、満州各地を転戦する。

「一年もすれば日本に帰れると思っていたが、なかなか返してくれない。甘かったといえばその通りだが、こちらも若かったので、次第に焦ってきて、部隊長に何回も掛け合ったが、らちがあかない」

しかし、東北4省(満州)争奪に、国共両軍の戦いは激しくなる一方だった。

「そのうち部隊に軍のかなりのエライさんが来るので、会わしてやるから交渉してみろ、ということになった」

ギターにつられて軍隊に入るくらいなので、八路軍には何の未練もないし、いったん望郷の思いが募ると、止められなくなる、だが輸送部隊の高官も戦いの最中にそう簡単に返すとは言ってくれない。

「その高官も話は静かに聞いてくれるが、色よい返事をするわけでない。まあもう少し待ってくれ、戦争が終われば必ず日本に返すからというばかりで、いつ返すというはっきりした返事はなかった」

包囲・逆包囲

父はひそかに決心した。ソ連からも逃げおおせた、チャンスは必ず来ると。それからしばらくして、味方の戦況が悪くなり、父の部隊は敵に包囲された。その状況はこうだ。父の部隊は輸送部隊でたくさんの馬を引き連れていた。戦争は食料や弾薬が尽きれば一巻の終わりなので、敵の補給を遮断するのは重要で、馬という重要な輸送手段丸ごと包囲された。そこで味方の戦闘部隊は大群で、輸送隊を包囲した敵軍をその外から逆に包囲することになる。

私は戦後の世代で戦争というのは小説か漫画またはテレビや映画でしか知らない。それで関ヶ原の戦いとかワーテルローの会戦のような派手な戦争のイメージはわかるのだが、自分の部隊を包囲した敵を味方がまた包囲するというのは想像の範囲外で、例えば私の住んでいる南あわじ市阿万(人口3000人ぐらい)に部隊がいたとして、敵が包囲するとしたらと父に聞くと、

「3千人ぐらいの街だと周囲十数キロぐらいにわたって敵が包囲する。それを味方の大群が人口5万人の三原郡(現南あわじ市)の周囲(50キロぐらい)を逆包囲している」

住民はどうしているのか。

「住民は普通に生活をしていて、店も開いていて、敵・味方のあいだを住民が往来できるので完全に遮断されているわけではない」

そこでドンパチ始まるのか。

「簡単に戦いは始まらない、街中で戦闘をすれば住民に被害が及ぶので、敵・味方の特務が住民の中で情報を探ったり、自軍に有利になるよう工作をしている。ある時、餃子館で昼飯を食べていたら、わしを日本人とみた一人の男が話しかけてきて、奉天へ行けば、日本人を送還してくれる事務所がまだやっているらしいとささやいた」

続く

 

 

 

父の15年戦争戦後編(19) 八路軍入隊始末

ギターを持った八路兵

父が八路軍(人民解放軍)に入ったのは、舞鶴の引き揚げ援護局で書いた身上書によると昭和22年(1947年)6月2日である。牡丹江にあった関東軍第八病院を接収していたソ連軍が春頃、撤収し入れ替わりに八路軍が進駐してきた。そのころ満州に残っていた日本人を帰国させるため、国共両軍と、米軍の三方で協定が結ばれ、日本人の送還が始まっていた。

病気療養をしていた父は回復し、日本に帰国するため招待所で待っていたが、義侠心からある夫婦の身代わりに残留することになった。そこで出会ったのがウー主任である。そのころ国共両軍とも日本人が帰った後の人材難に直面し、特に医療従事者、鉄道技術者などは決定的に不足していた。父は「義勇軍」のころから獣医を目指し勉強していたので、ウー主任は興味を持ち、八路軍に入隊をするよう父を口説いた。父は「そのころ八路軍といっても共匪と言って馬賊の一種ぐらいにしか思っていなかったが、いま帰っても、日本は原爆にやられて焼け野原になっているらしい、落ち着くまでしばらくここに残って様子見をしようと思った。それに八路軍のような馬賊の集まりが、なんで国民党と対等に中国の覇権を争うまで大きくなったのか興味もあった」ウー主任は八路軍の部隊でもかなりの高官らしく強い権限も持っているようで、もし入ってくれたら何でも好きなものを買ってやろうと甘い言葉をかけた。

「入れば何でも買ってくれるというので、ためしにほしい本を言ったところ本屋に行って買ってくれた、次にギターが欲しいといったところ、哈爾濱一の楽器屋に行き買ってくれた」父はギターにつられて八路軍に入った。

「まあ22歳の青年が欲しいものなんて、そんな高いもんをいわんだろう、たかが知れているだろうと、気安く請け負ったみたいだ」

技能を買われた日本人

1946年末までに、満州残留の大多数の日喬(筆者注日本人居留民)は本国に帰還したが、一部の日本人は本国での生活と就職難を考え、また中国側も引き留めたため、中国に留まる道を選んだ。彼らはのちに国共両党の内戦に巻き込まれることになった。中略ー八路軍は満州に進出するや、科学や医療のレベルの低さを補うのと戦争の需要に迫られ、ソ連軍のようにまず科学者を捜し求めるのではなく、当面の戦闘にすぐ役立つ医者や、軍需産業の機械を使える技師を捜した。当時、多くの日本人は失業しており生計の見通しが立たない状態であった。だから給料が保証され、人格も尊重される仕事の勧誘に喜んで応募した。共産党の支配地域においては、大連地区の日喬が最も多かった。 徐焰著 朱建栄訳「1945年満州進軍」」 日ソ戦と毛沢東の戦略 三五館より

母が八路軍の看護婦として留用されたのは否応なしだった。留用された日本人「母の場合」3 しかし父の場合はギターにつられて、気楽に八路軍に入ったみたいだ。父はノーテンキな性格で、物事を良いほうに良いほうに考えるところがある。これからギターを抱えた渡り鳥は血みどろの国共内戦を飛んで行く。 

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1953年ごろの父 河南省信陽の農場で

 

 

 

 

 

父の15年戦争戦後編(18)八路軍の少年たち

孤児

日中戦争で中国は1千万人以上の死者を出した。その数倍の傷病者、多くの寡婦、孤児も生まれた。孤児たちはどうして生きていったのだろうか。

八路軍の部隊の本部には少年たちが働いていた。父によると連絡役とか幹部の身の回りの世話とか、部屋の掃除、整理整頓、そのほか雑用なんかで、かいがいしく働いていたという。「両親がない子たちで利発な子が多かった。多分、将来幹部になるように子供の頃からしつけていたのではないだろうか、戦争中だし、実戦の中で育てていくという、ある意味、理にかなった英才教育で、革命で犠牲になった烈士の子供は優先して登用していたようだ」

国民党の少年兵

昭和14年9月、岳州対岸の掃討戦でとらえられた、国民党第116師の少年兵。1977年1月毎日新聞社 発行 「1億人の昭和史」不許可写真史」より

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日本軍の少年兵

私の父が志願した「満蒙開拓青少年義勇軍」は紛れもなく青少年の軍隊だった。満年齢で14・15歳の少年たちが昭和13年4月の第一次義勇隊を皮切りに昭和20年5月まで約8万9千人が満州に送られた。

昭和50年2月1日家の光協会発行「満蒙開拓青少年義勇軍写真集」より 神宮外苑での壮行会

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「義勇軍は」当初複数の県出身者の合同中隊で組織されたが、のち同一県出身者による郷土中隊となった。神社で祈念した後の記念写真。

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昭和50年2月1日家の光協会発行「満蒙開拓青少年義勇軍写真集」より 神宮外苑での壮行会

 

 

 

父の15年戦争戦後編(17)捕虜優待

八路軍は捕虜優待

八路軍は本当に強かったのか?という疑問を父にした。八路軍は敵の武器を奪い戦うが、捕虜はどのように扱うのか。「自分の村に帰りたい者は返す。一緒に国民党軍と戦うものはのこし、教育して、八路軍に入れる」

当時の中国農村は4%の地主が耕地面積の50%を占め、農民の90%を占める中小農民は貧困にあえいでいた。東北(満州)に入った八路軍は大地主の土地を小作農民に分け与える土地革命を実施中だったので、多くの小作出身の国民党兵は、八路軍に寝返った。

「八路軍は捕虜優待と言っていた。捕虜をいじめない、私物を取らない。守らないものは罰せられる」

日本軍は捕虜虐殺

太平洋戦争緒戦のマレー作戦で、破竹の勢いだった日本軍は東洋一といわれた英国のシンガポール要塞を陥落させた。この時英兵21万名を捕虜としたが、これを報道した「写真週報」は恥無き姿と罵倒している。日本兵は負ければ潔く死地につくので、そんなことにはならないと称賛するのだが、

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人命軽視の日本軍の姿勢が、泰緬鉄道工事の建設にも表れ、従事させられた連合軍捕虜は多大の犠牲を払った。ただ英米などの連合軍捕虜の場合は国際法を意識せざるを得なかったが、中国戦線での中国兵は国際法以前の問題で人間扱いしなかったことが南京大虐殺の大量の捕虜処分につながった。

私は若いころ、父から、生身の中国人を使った刺殺訓練を聞いた時はショックだった。日本軍は日常的にこのような非人道的な訓練をやっていたことを、現在の日本人はほとんど知らない。盧溝橋以来300万人以上の兵士が敗戦まで中国戦線に投入され一体どれくらいの兵士が生身の人間に銃剣を刺したのだろうか。父の15年戦争(19)刺殺訓練命令を拒否し重営倉: 父の15年戦争 ローシャンのブログ (cocolog-nifty.com)

父によると八路軍の政治主任はこう言っていたそうだ。「日本軍は捕虜を虐殺してきたが、我々は捕虜を優待する」

八路の正規軍はいずれも自家製の武器か、でなければ、日本軍からろ獲した武器ばかりで武装していた。それにひきかえ、終戦末期の国民党軍は、ほとんどが、アメリカの近代的兵器によって装備されていた。その点、きわめて対照的であった。

ー中略ー私たちは尋問の中身を反芻し合ったそういえばさきほどの将校が言ったことの中には、ちょっと気になることがあった。「あなたたちを日本軍にかえすわけにはゆかない。帰したら、あなたたちの身があぶない。前に私たちは日本の斥候を三人とらえて帰したことがある。ところが、そのうちの二人は憲兵によって、すぐ処刑された。そういう報告が届いている。あなたたちも、もどれば、おそらく軍法会議にかけられて処刑されるでしょう」ということであった。

私たちは、それを黙って聞き流したが、しかし、それは全くあり得ないことではなかった。一旦、敵の捕虜になったものは、敵の軍隊からどんな命令を与えられて、もどってきたのかわかったものではない、というよりも、本来日本の軍隊には捕虜になるようなだらしのない兵隊は一人もいないことになっていた。つかまる前に自決しなければならなかった。もしそんなやつがいたら、こうして始末されるのだということを全軍に徹底させなければならなかった。ーーー水野靖男著「日本軍と戦った日本兵一反戦兵士の手記」より 白石書店

 捕虜となり処刑される直前の中国兵 某日本軍将校が撮影したもの 年月日場所とも不明 17年(昭和)以降捕虜のうち約2万人が日本内地へ送られ強制労働に従事させられた 約15%が栄養失調で死亡                                                

 斬首処刑された中国人捕虜 これも某日本軍将校が撮影したもの 年月日は不明だが場所は山西省 捕虜の斬首処刑は各地で行われた 戦後中国・東南アジア・太平洋戦線で数多くの戦犯者を出した  「1億人の昭和史10不許可写真史」 毎日新聞社1977年1月発行より 

                                                                                           

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父の15年戦争戦後編(16)ハルピンの獣医院

松花江の大鉄橋の破壊

父が八路軍にリクルートされたころは共産党軍と国民党軍の話合い決裂し、満州を巡って戦いの火の手が上がるころだった。1946年の春、ソ連軍が撤退し、満州の主要都市に国民党軍が進出し、共産軍は劣勢に立たされた。鉄道と幹線の要衝、四平街で八路軍の主力を率いる林彪は、米国の最新式の装備をした、新六軍と戦い、一か月の激闘の末、大敗した。

「そのころの林彪は才気煥発、若くて勢いが強く、毛沢東の言うことをなかなか聞かなんだのでまけた」と父はいう。彼我の力量の差を知る毛沢東は、主要都市を制圧する国民党を避けて、農村部に戦略的撤退をした。

八路軍は北満ではハルピン、牡丹江、北安などに根拠地を築いた。父はハルピンを防衛するため松花江に架かる大鉄橋が破壊されたときのことをよく覚えていた。

「わしはそのころ、ハルピンの町で獣医院を開いていたフランス人の獣医の下で研修をしていた」父は義勇軍時代、獣医を目指して満拓(満州拓殖公社)が経営していた四平街の獣医学校で、獣医師になるための通信教育を受けいていた。

「学科試験はみな合格していたのだが、実地試験を受けないまま終戦になってしまった。それで残りの実地学習をするため、八路軍のウー主任が段取りして費用も出し獣医院に入れてくれた」

父にとって八路軍が「あしながおじさん」で学習援助をしてくれた。

 

 

 

 

父の15年戦争戦後編(15)八路軍は敵の武器で戦う

奪った武器で戦う八路軍

1945年8月15日、日本が敗北した後、米国の調停で国民党との連合政府を作る話合いのため毛沢東は重慶に赴いて蒋介石と話し合ったが、いったん和平協定を結ぶも、すぐ談判決裂。翌年5月ソ連が満州から引き揚げた後、国共内戦に突入した時の軍勢は圧倒的に共産軍が不利だった。

国民党軍は旧日本軍の支那派遣軍100万人の武器弾薬をほとんど接収していた。その時、国民党軍の正規軍は430万に達し、中でもビルマで日本軍をさんざん翻弄した、新六軍はアメリカ製の最新兵器を装備した、強力な軍で、蒋介石は自信満々であった。一方の八路軍は正規軍が国民党軍の2割程度、民兵を入れても国民党軍の半分ぐらいの軍勢で、銃は旧式、型もバラバラで、圧倒的に劣勢であった。

父に八路軍は本当に強かったのか聞いたことがある。

「八路軍というのは、武器弾薬は原則として敵から奪って戦争をしていた。自分で大きな兵器工場を持っていないので、巧妙な戦術で攻囲戦を勝利し敵から武器弾薬を奪う。蒋介石は八路軍の輸送大隊長でロンドンやニューヨークから武器を持って来てくれると言われていた。最初は満州で接収した日本製の武器弾薬が多かったが、次にアメリカ製が多くなり、銃は南北戦争で使われた物や、古いのはアメリカ独立戦争時代のがあった」という。

アメリカは蒋介石に最新式の武器も渡したが、旧式の武器も、在庫一掃のバーゲンセールのように渡していた。

 

父の15年戦争戦後編(14)八路軍の勤務評定

徳、才、資

父がいた当時の共産軍は階級のない軍隊であった。平等を重んじた共産党の軍隊であるから、という極めて理想主義の軍隊だった。とはいえ、指揮官と兵との違いはあるし、上級と下級の組織も存在する日本軍と比較すると、小隊(排)、中隊(連)、大隊(営)、連隊(団)、旅団(旅)、師団(師)になるが、各隊が日本軍の半分ぐらいの人数で、師が二つ以上で一縦隊になり、日本軍の師団規模になる。

指揮官も兵も平等とはいえ、待遇は別である優秀な幹部は給料もよく進級をする、間違いを犯せば罰せられ、功績をあげれば兵も表彰され待遇もよくなる。「評論幹部」という制度があった。

「評論幹部」とは、簡単に言えば上司の部下に対する勤務評定とは全く逆の、部下による上司の勤務評定である。当時共産党は、軍をはじめ各種機関の幹部の工資(棒給)決定に当たって、年に一度、この幹部評定を行っていた。幹部がめいめい、自分の棒給を自分で査定して報告書をまとめ、これをその幹部の下で働く部下たちが、集団で討議し、評定の結果に基づいて何等の何級というふうに、棒給が決定される仕組みである。―-- 古川万太郎著 中国残留日本兵の記録 岩波書店より

父によれば、幹部の自己評定には3つポイントがあり、一番重視されるのが、「徳」で活動態度、熱心さ、革命に対する思いなどで、二番目は「才」、これは技術的なことで実務能力が優れていること、三番目が「資」部下に対する指導力、部下が幹部を信頼しているかが問われる。

自己報告書が最終的に評価されるのは勤務者全員が参加する大衆評定である。そこでは部下からの率直な批判があるが、根拠のない中傷は許されない。事実に基づくことは、一般の兵・勤務者でも堂々とみんなの前で意見をする。八路軍には三大規律というのがあり、第一番目に「一さいの行動は指揮に従う」とあり下級は上級に従うのが絶対である。しかし軍事行動から離れると兵も指揮官も平等であり、幹部も常に大衆の目が光っていることを覚悟しなければならない。

 

 

父の15年戦争戦後編(13)蒋介石軍のデマ宣伝

共産共妻 共産共匪

1948年11月東北全域から蒋介石軍を駆逐した八路軍は山海関を超え天津、北平(北京)に向かった。このときから、中国各地で多種多様の呼び方をされていた共産軍は統一して人民解放軍となった。三年前の1945年8月、日本の敗北のあと山東や山西の八路軍から選ばれた将兵が林彪に率いられて東北へ進出したとき軍勢10万あまりだったのが100万の大部隊となっていた。

「戦争は勢いだ」父がよく言っていたのは戦争は勢いに乗るとあっという間に勝負がつく、3年間の東北での死闘の後1年で全土の勝負が決まり中華人民共和国の誕生となる。父の部隊も蒋介石軍を追って「村から村へいくと、どんなところに行っても城壁には共産共妻 共産共匪と必ず書いてある」共産主義とは妻を共有すること。共産党は強盗である。こんな単純なデマも繰り返し繰り返し唱えられると、八路軍と実際に接したことのない人々は信用する。

現在どんなに中国共産党が嫌いな人でも中国では妻を共有しているといっても信用しないでしょう。反対にそう言う人は恥をかくでしょう。それは明らかに嘘だから。ウィグル虐殺チベット虐殺もそのうちに言った本人が恥をかく時が来ること必定です。

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昭和16年河北省東鹿地区での中共軍の新民主主義を広める宣伝壁画。共産党軍は字を読めない民衆にもわかるよう絵で自分たちの考えを宣伝した。

写真集 ある戦友の記録 喜多原星郎

 

 

 

 

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