父の15年戦争 JANJAN記事

父の15年戦争(18)「死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛

この記事は2009年8月29日JANJAN日本インターネット新聞に掲載されたものです。

父が筆者に語った旧日本軍の腐敗、堕落、すさみ方の激しさは、常軌を逸しているが、兵士を縛った「戦陣訓」のむごさには、言葉を失う。生還した父親は、「玉砕」が伝えられた南の島で生き残った、近所の知り合いを小ばかにしたことがあった。敵の捕虜になることを徹底的に禁じた教えは、いまなお、心の中に巣くっているのか。

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 昭和16年12月8日真珠湾を特殊潜航艇で強襲し「玉砕」した九軍神。初めて特別攻撃隊と名づけられ、その後の「特攻」のさきがけとなる。出撃は10人だったが、一人は人事不省になり米軍の捕虜となったので、その事実は国民には秘匿された。写真は全て内閣情報局発行「写真週報」から

父はプータローだった
 父が徴兵検査を受けたのは、昭和20年5月頃だった。甲種合格で関東軍に入隊した。その頃ヨーロッパでの戦いはドイツの敗北が決定し、孤立無援の日本は絶望的な戦いを続けていた。南方の島々ではアメリカ軍の反攻に敗北を重ね、兵力不足になり、満州から多くの部隊が転出していった。

 父は旧満州の竜江省(現黒龍江省)納河(ノーホ)県納河南学田地区へ入植していた。ここで一生懸命農業に励んでいた、と私は思っていたが、話を聞くとそうではなかったらしい。「特務機関の調査の仕事をしていた」という。

 調査といえば聞こえはいいが、農閑期の冬場など不良仲間と黒竜江のソ連国境沿いを、各小隊に1台あった6頭だての馬車で、きままに旅したり、街で中国人の友達と遊びほうけたりする間に情報を集め、特務機関に出入りして小遣い銭を稼いでいたようだ。特務機関との出会いのきっかけは、ある男が「ええ若いもんがブラブラして、どないしょんのじゃ、まあいっぺん遊びにこいや」と誘われ、出入りするようになったという。

 特務は具体的な指示は特にしなかったようだ。「あれこれ命令をすると、わしらは反発するし、かえって言う事を聞かないので、下からおだててソ連国境の村の様子など聞こうとする。特にシベリア鉄道の輸送状況など聞きたがった」。

 ある集落で得た情報は特務の目を光らせた。「夕べは戦車を満載した貨車が一晩中、ガッタンゴットン通ったんで全然眠れんかったよ」。1回旅行すると、そのたびに特務機関の出張所のようなところへ行き、話をして小遣いをもらった。金が入ると街で遊び、なくなれば旅に出かける、プータローのような生活をしていたという。

 開拓団は不十分ながら、飯だけは食わせてくれたので、生活は出来た。父は「わしは義勇軍くずれだ」といっていたが、そんな崩れた若者にも召集令状はやってきた。当時、満州帝国に在住していた日本人男性で兵隊に適した35万人のうち、「行政、警備、主要生産に従事する約15万人」を残して、根こそぎ動員したのである。

軍紀乱れる皇軍
 旧日本軍内務班では初年兵は常にいじめられる。父は飯の炊き方にうるさく、入院しているときなど硬いご飯が出ると「こんなゴッチめしではビンタの20発はとられる」などとよく言っていた。「ビンタをとる」とは、古参兵が後輩を殴る事だが、兵営では取るに足らない理由をつけての下級兵士へのいじめ、暴力は日常的だった。古参兵の虫の居所が悪いとゲンコツが上靴になったり帯革になったりして、顔がお岩さんのようにはれ上がる。

 「どこの班にも古兵が一人いて、威張っていた。5年も6年もいるのに、万年一等兵で出世の見込みのない、だらけてすさんだ兵隊が多かった。不思議な事にそんな兵隊は各班に1人だけで2人といなかった」という。古兵は炊事場にいつもたむろしていた。ある日、演習に行きかけた、ある中隊の後ろから叫んだ古兵がいた。

 「おーいお前ら!そんなたよりない中隊長についていくと後ろから鉄砲玉が飛んでくるぞ。やめとけ、やめとけ」。戦争末期には指揮官不足もあって新米の将校が多く、統率力がなく、舐められていた。口だけの脅しじゃなく、ほんとうに後ろから実弾をぶっ放す古兵もいたという。

 「戦争は前からだけでなく、後ろからも玉が飛んでくるというのは本当だ」。古兵や上官のいじめに耐えかねて自殺する初年兵もいた。父は「兵隊が自殺するときはこんな風にする」と実演してくれた事があった。38式歩兵銃に見立てたホウキをもち、足を伸ばして座って柄の先を額にあて、足の親指で引き金を引くかっこうをした。「義勇軍」時代、父の友人が屯墾病という一種のノイローゼにかかって自殺したが、この方法でやったので、頭が木っ端微塵になって顔も誰だか分からなくなっていたという。

自決訓練
 旧日本軍では、人の命は鴻毛よりも軽いと教えられていた。戦争とは人殺しをする事であって、どこの国の軍隊も敵の人命を軽視している。しかし、旧日本軍の特異な点は、敵だけでなく味方の人命も軽視していたことだ。旧軍は戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」を極端に重視して、捕虜になることを徹底的に禁止した。敵に囲まれ、どうにもならなないときは捕虜になる前に潔く自決しろ、と教えられていたのだ。

 ――戦闘の様々な状況を具体的に想定し、「最後の一発は自分のためとっておけ」と耳にタコが出来るまで念を押される。そればかりではなく、「銃弾に利き腕を貫通され、引き金が引けなくなったらどうするか」、「負傷で体が動けなくなったときは、どうするか」、「一時、意識不明となり、気づいたときはどうするか」などと質問し、初年兵に返事をうながした。そして、実際に銃や銃剣での自決方法をこと細かく教育もした。「もう、これまでと思ったら、こうするんだ」と、班長みずから、銃口をノドに当てて、右足の親指で引き金を引く実演をして見せた。銃剣を扱うときはこうするんだと、床に銃剣の柄先をつけ、仰向けになって剣の刃先に胸部をつけ、そのまま体重をかける実演もした。体が動かず手足の自由を失ったときときにと、舌の噛み方を、くわしく教えもした。また、負傷して自力で自決できない兵隊には、こうしろと、初年兵の一人をモデルにして、その後頭部に銃口を密着する角度まで具体的に教え込んだ。また、手榴弾を携帯しているときはこうだと、安全針を抜いて抱え込むかっこうでうつぶせることも教えた。
――富沢繁著「新兵サンよもやま物語」より

 戦前の雑誌を読んでいると、自決や玉砕を賛美するあまり、死ぬ事が目的となっている記事が多い。「敵をやっつけ勝利する」という本来の目的がどこかに行ってしまっているのだ。これも一種の敗北主義だと思うのだが、狂気に満ちたこの時代の空気に染まると、そんなことは気付かなくなるようだ。

自決の研究
 アッツ島玉砕の軍神、山崎部隊長の元部下が夫人を訪ねた雑誌記事がある。
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昭和18年5月29日太平洋戦争で初めての「玉砕」をした、アッツ島の軍神山崎部隊長

 ――昭和14年、北支に出征される時に、山崎部隊長はコルトか何かの掌に入るような小型の拳銃を携行された。令息たちが「お父さんそんな小さな拳銃では、敵は撃てないでしょう」と言ったら、部隊長はニコニコ笑いながら「いやこの拳銃は敵を撃つためじゃない。最後のときにこうするのだよ」と言って、自分で銃口を当てて見せられたそうである。先日私が伺ったときも、令夫人「主人はかねがね自決の方法を研究していたようでございますから、たとえどんな重傷を負っても、必ず自決していることを私はかたく信じて居ります」と申されておった。この一言を以ってしても、部隊長平素のお心構えが窺われるのです。それは右手をやられれば左手でやる両腕をやられればどうする、という風にいろいろな場合を研究して居られた。だからどんなことがあっても、最後はりっぱに自決しているということを、令夫人は絶対に確信して居られるのです。――中略――。しかし、その神霊は天翔り国駆りして靖国の御社にお還りになるのであって、遺骨は問題でないのであります。日頃からよくこの覚悟を申し聞かされて居た令夫人は「玉砕と承っても、決して遺骨のことなど、思ったことはございません。ただ日頃から主人に気づかれないように、少しづつ主人の爪と髪の毛はしまっておきました」と述懐して居られたが、覚悟に徹してしかも細かい心づかいの届いた武人の家庭の見事さ、部隊長も部隊長なら奥様も奥様、実に大したものだとつくづく感激した次第です。
――「ああ山崎部隊長」昭和18年8月1日発行富士(キング改題)より

 この記事は美談であって、夫を亡くした妻の健気な態度を絶賛しているようで、実は夫が死んでも悲しむことなど絶対に許さない、遺骨さえも求めさせない軍国日本の冷厳な雰囲気を伝えている。死ねば軍神として讃えられるが、捕虜になり、玉砕地から生きて帰れば非国民、一族郎党末代まで恥になるという、世間の風当たりの強さを感じさせる。

捕虜は末代までの恥
 私の家の近くに、サイパンだったかグアムだったかで、アメリカ軍の捕虜になって収容所に入れられ戦後帰ってきた人がいる。以前、父とその人の話をしていたとき「アメリカの捕虜になって…」と小ばかにした言い方をした。戦後50年以上たっても元捕虜だった人にはこんな言い方をするのかと、戦前の徹底した軍国教育のすさまじさを感じた。

 その時まで私は、「玉砕」とあれば、全員が死んだものだと思っていた。だが、本当はアッツでもサイパンでも硫黄島でも、少数の生存者がいた。マスコミは、戦後もほとんどそんな事実は伝えなかったし、その人達は一部の人を除いて沈黙を守ってきたようだ。その理由は「死んで虜囚の辱めを受けず」である。戦陣訓の呪縛は死ぬまで続くのか。

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シンガポール戦の連合軍捕虜を報道する昭和17年3月25日発行「写真週報」「何という恥無き姿だろう。皇軍将兵は勿論、われわれ日本人には到底思いも及ばないことだ。恥知らず奴!と唾を吐きかける前に、憐憫の情さえ湧いてくる…だが、顧みて未だにこの人間共を支配したと同じような物の見方、考え方がわれわれの心の隅のどこかに残っていわしまいか。一死国に殉ずる皇軍将兵の尊厳な姿と、この醜い写真をよく見較べて、十分反省しなければならない」

◇ ◇ ◇
【父の15年戦争】
・(20)満州事変を見た子供たち
・(19)刺殺命令を拒否して重営倉
・(18)死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛
・(17)8月15日の特攻
・(16)狼になった義勇隊員
・(15)哀れだった慰安婦
・(14)満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所跡
・(13)帰郷―満州はええとこやぞ
・(12)全体主義者橋本欣五郎
・(11)叛乱
・(10)厳寒地のバトル
・(9)嫩江(ノンジャン)大訓練所
・(8)靖国神社
・(7)糞尿をなめるカリスマ教育者
・(6)張作霖を爆殺した男
・(5)絵かきになりたかった父
・(4)日中戦争勃発
・(3)父の友人達
・(2)最期の戦争証言
・(1)関東軍の特攻

父の15年戦争(19)刺殺訓練命令を拒否し重営倉

この記事は2009年8月13日JANJAN(日本インターネット新聞)に掲載されたものです

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 中国の日本軍 
 父が関東軍に入隊したとき、初年兵の訓練で生身の中国人を刺殺するよう命令されたことを私が知ったのは、35年以上前のことだった。その頃、本多勝一著「中国の日本軍」や「中国の旅」を読んでいた私は、旧日本軍のすさまじい暴虐ぶりにショックを受けた。

戦前の中国における旧日本軍の暴虐を、初めて中国現地を訪れ取材した本多勝一氏のルポ。日中国交回復前の日本社会に衝撃を与えた。
 読み終えてすぐ考えたのは、戦前父は中国で何をしていたのか、父も同じことをやっていたのかという疑問だった。父の世代以上の周りの男は大抵兵隊経験者で、その多くは中国へ派遣されていたと聞いていた。

 今から思えばお恥ずかしい限りだが、満州事変だとか日華事変、盧溝橋事件、張作霖爆殺事件などの言葉は知っていたが、それが南京虐殺や、平頂山事件、労工狩り、万人坑とどう結びつくのか全く分からなかった。父が14歳の時、「満蒙開拓青少年義勇軍」に志願して満州に行ったことは承知していても、なぜ中国までわざわざ子供が開拓に行かなければならなかったのか、理解できなかった。 

 私は1952年1月中国の漢口で生まれ、翌年家族4人で日本へ帰還した。まぎれも無い引揚者の1人だが、20歳過ぎまで日中の近・現代史と自分の出自がどうつながっているのか、関心は無かった。 

 幼いとき、父から満州狼の恐ろしさや、中国の広大な土地、地平線に沈む大きな夕日、冬は零下50度近くに気温が下がる厳しい自然、などを寝物語に聞きながら育った。一緒に桶風呂に入ったときなど、
 「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下―」
と、「戦友」を気持ちよさそうに歌うのが常だった。しかし、戦争の話だけはほとんど聞いた覚えはなかった。 

 中止された刺突訓練 
 本多の「中国の日本軍」にも書かれている南京大虐殺は1937年12月13日、日本軍が南京に入城してから、城外周辺での虐殺も入れると翌年春頃まで続いたという。 

 この頃父は高等小学校2年で、日本軍の南京入城で日本中が沸きかえり、国民こぞって提灯行列をして祝った事を憶えているという。そのほかにも向井少尉、野田少尉による百人切競争も新聞が大々的に報道したので、よく知っていた。今から見ると残虐極まりない殺人ゲームだが、当時の日本国内の雰囲気はプロ野球のホームラン競争でもみるような気分だったという。 

 南京大虐殺に関しては、1937年12月13日から翌年春まで、父は小学生で軍隊に入っていなかったので「シロ」だと安心した。軍隊に入ってそういうことはなかったのか聞いてみると、しゃべり始めたのが関東軍に入ってすぐ、初年兵の訓練で中国人を藁人形代わりに銃剣で突き殺すことだった… 

 関東軍に入隊してまもなく、中隊の初年兵が訓練場に集められた。そこには何人か中国人が杭に縛られていた。訓練を指導していた上官は新兵に、肝だめしに銃剣で突き殺せと命令した。父は14歳のころから「義勇軍」で軍事訓練を受け、徴兵検査でも甲種合格で度胸がある男と上からも目されていたようで、最初に指名された。  

 「コリャサー惨いと思った。軍隊は人殺しをするところで武器を持って向かってきた敵ならためらいなくやれたと思うが、無抵抗で縛られている人間を突き刺すことはできなんだ。それで抗命罪に問われて重営倉にされた」 

 私は大安心した。そのとき父に対して最初で最後の尊敬の念を覚えた。そのころ私は父が大嫌いだった。なぜかというと、父は金銭にルーズなのに商売好きで、思いつきで簡単に事業を始めることが多かった。計画も資金もいい加減で半年もするとすぐ飽きて、また新しい商売をはじめるが、すぐやめる。

 その繰り返しで、いつも我が家は火の車だった。私が知っているだけでも、1960年ごろの夏、突如農業用のため池を利用して貸しボート屋を始めた。客が来たのは最初のうちだけで、気候が涼しくなる頃にはほとんど来なくなり、その年の秋にはもうやめてしまった。また「ホワイトリリー」というなぜか名前がスナックのような喫茶店兼うどん屋を開業したものの、ツケにしてくれと言われたら断れない父は貸し倒れが多く、半年ほどで休業に追い込まれる。

 これからは養鶏が儲かるとひよこを仕入れてきて実家の座敷の横の倉庫で飼い始めたが、暖房用の電熱器から藁に火がつき家も鳥も丸焼けになってしまった。こりもせず次第に飼育数を増やし、場所がないので池の堤や山の裾野にも鶏舎を建てたが、台風が来ると鶏と一緒に吹き飛んで行った。

 卵を売るだけでなく肉も売ったらもうかるぞと鳥肉屋も始めた。続いて肉屋に転進。その後何の脈絡もなく素麺は絶対に儲かると、私の貯金を勝手におろし中古の製麺機を150万円で買ってきて素麺造りに熱中する。商売を変えるたび借金が膨らみ母の愚痴も増えていった。 

 閑話休題。父は中国人の刺殺を拒否した。すると、他の「義勇軍」出身の新兵たちからも次々声が上がり、「そんな事が出来るか!」「そうだ、そんな卑怯なことができるかい!」「やめろ! やめろ!」と騒ぎ出し、とうとう刺殺訓練が出来なくなってしまったという。 

 旧日本軍では「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」と絶対であった。兵卒は命令に対して疑問とか逡巡とか、まして拒否などというのは許されない事だった。

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第16師団(中島今朝吾師団長)歩兵第20連隊(大野宣明連隊長、福知山)所属の兵士のアルバムより(筆者所蔵)
 捕虜・住民虐殺 

 ――ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使っていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割ったり、その骨張った尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐった。 ぼくは山西省栄河県の雪に埋もれた城壁のもとに、素裸にされ鳥肌立った中年の中国人がひとり、自分の掘った径二尺、深さ三尺ほどの墓穴の前にしゃがみこみ、両手を合せ、「アイヤ。アイヤ」とぼくたちを拝み廻っていた光景を思い出す。トッパと綽名の大阪の円タク助手出身の、万年一等兵が、岡田という良家の子で、大学出の初年兵にムリヤリ剣つき鉄砲を握らせ、「それッ突かんかい、一思いにグッとやるんじゃ」と喚き散らし、大男の岡田が殺される相手の前で、同様に土気色になり眼をつぶり、ブルブル震えているのを見ると、業をにやし、「えエッ。貸してみろ。ひとを殺すのはこうするんじゃ」と剣つき鉄砲を奪いとり、細い血走った眼で、「クソッ。クソッ」出ッ歯から唾をとばして叫び、ムリに立たせた中国人の腹に鈍い音を響かせ、その銃剣の先を五寸ほど、とびかかるようにして二、三度つきとおした。中国人は声なく自分の下腹部を押え、前の穴に転げ落ちる。ぼくは鳥肌立ち、眼頭が熱くなり、嘔気がする。(さようなら。見知らぬ中国人よ、永久にさようなら)――「さようなら」※田中英光 別れのとき アンソロジー 人間の情景7 文春文庫より 

 このような惨劇がどれほど大陸に繰り広げられたのだろうか。ルポライターの森山康平氏は述べている。 

 ――初年兵訓練のため中国人を抵抗できない状態にして銃剣で突かせた、という話が出た。最初は、討伐の途中で部落の中の野戦病院を通りかかり、そこに隠されていた白衣の重態患者二十人ほどを引きずりだし、古兵がぐるっと取り囲む中でつかせたという。(中略)二回目は、塹壕堀りの強制労働をさせ疲労しきった農民数百人、立ち木に縛って初年兵訓練の第一期検閲で次々刺殺したという話である。 この話を聞いた当座は、あまり特別の関心を払わなかった。というのは、さんざんあの手この手の虐殺の話を聞かされた後だったので、ああ、そんな方法で殺したこともあったのか、とメモをとりつづけたのだった。正直のところ、そのときの僕の感覚は少し鈍くなっていた。 しかし、その後の取材や仲間の取材メモから、初年兵訓練で生きたまま殺害した例は、菊池さんの部隊が特別でないということがわかった。田所さんも、山田さんも、佐野さんも「やらされた」体験を語っている。時期と場所をみてみると、田所さんは一九三七(昭和十二)年南京で、山田さんは一九四〇(昭和十五)年「北支のある部落」で、佐野さんは一九四二(昭和十七)年済南でのことである。 菊池さんの話は上官として命じたわけだが、最初が一九四五(昭和二十)年春、東阿・東平湖付近の呉家海子で、二回目が同年夏、索格庄となっている。四人の話しから考えられることは、初年兵訓練と称する無抵抗人間に対する殺害行為は、ある地域のある部隊だけの、ある時点に限られた特殊な事例ではなかったのではないか、という推測を許すのではなかろうか。 ―― 森山康平著「証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで」より

不条理な軍法 

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 父は「抗命罪」で重営倉に処せられた。抗命罪とは、上官の命令を拒否する事である。旧陸軍刑法第4章「抗命の罪」によると、「敵前なるときは死刑又は無期若しくは10年以上の禁固に処す」とある。この事件のとき他の新兵も同調し、刺殺訓練が出来なくなったので、同章第58条の「党輿して前条の罪を犯したるもの」に該当する可能性があり、「首魁」は罪が特に重いので父は即刻銃殺される可能性もあった。 

 ――営倉とはどんなところか 
 「懲罰のための拘禁部屋で広さは3畳ぐらいだった。鉄格子の小さな窓が1つあって、真ん中に便器が置いてある」 

 ――独房にいれられてどんな事を考えたのか?
 「まあ、これで出世がパーになるという事だ」 

 ――どのくらいの期間入れられたのか?
 「期間は忘れたが、そんなに長くは入れられなかった。というのは、しばらくして、この駐屯地の近くに、出張か何かの会同で樋口の伯父さんが来ていたようなのだ。それで部下の誰かを差し向けてわしが元気でやっているか様子伺いをさせた。そこでわしが重営倉になっていることがわかった」 

 樋口の伯父さんというのは、父・郷敏樹の母の兄で、当時は第5方面軍司令官だった樋口季一郎中将のことである。父にとって地獄に仏とはこのことで、樋口の部下にあらためて抗命罪に至った理由を申し述べた。

旧陸軍の軍法・軍律書。兵卒は徹底的に叩き込まれた。
 父はどう考えても自分が懲罰を受けるのは不条理だと考え、「義勇軍」以来叩き込まれた軍法・軍律を思い起こした。「軍人勅諭、戦陣訓、陸軍刑法、陸軍懲罰令、いろいろな軍律・軍法を思い浮かべたが、有効な反論が出てこなかった」 

 陸軍刑法第10章には「俘虜に関する罪」というのがあるが、これは俘虜を逃がしたり、隠したりすると罪になるというもので、俘虜を虐待したり殺したりする事を罰するものではない。また、第9章掠奪の罪の第88条では、掠奪・強姦に当たって住民を傷つけ殺した場合、死刑を含む厳罰が処せられるが、上官が肝だめしと称して俘虜・住民の刺殺を命令した場合、兵卒はなぜ従わねばならないか。父は捕虜を守る国際法など教えられた事はなかったので、考えあぐねた。 

 「色々考えぬいた末、武士道に反すると抗弁した。「義勇軍綱領」には古(いにしえ)の武士に負けるなという項目があったし、常々皇軍(日本軍)は武士道を体現した最高の軍隊だといわれていた。縛りつけられた無抵抗の人間を銃剣訓練の餌食にするなど武士の風上にも置けないというわけだ」 

 父の言い分は認められ、釈放された。 

 武士道とは 
 父は武士道をどう理解していたのだろうか。14歳のとき高等小学校卒で満州に行った父は、おそらく「葉隠(はがくれ)」や新渡戸稲造の難しい著作など読んだ事はなかっただろう。ただ子供時代に立川文庫や少年倶楽部に熱中していたことはよく聞いていた。真田幸村が好きで、私が幼いころ猿飛佐助や霧隠才蔵など真田十勇士の話をよくしてくれた。東映のチャンバラ映画が町の映画館に来ると、自転車の後ろに乗せてもらってよく見に行った。

 怪傑黒頭巾、新吾十番勝負、柳生武芸帳、忍びの者… そんな中で父が特に好んだのは、晩年よくテレビで見ていた水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍などの勧善懲悪ものだった。これらに出てくるヒーローは強い。強いけれど「峰打ちだ、安心致せ」と悪人といえどもやたら殺さない。強敵に対して立回りの末、相手の刀が折れても額一寸で刃先を止め、敵が観念するや太刀を鞘に納め悠然と立ち去ってゆく。強いだけではない、情があってこそ本当の武士だと父は思っていたのではないだろうか。 

 私はこの刺突訓練の話を35年以上前に父から聞いたとき、単純に中国人を助けたいい話だと思っていた。後年、父が営倉に入れられている間に部隊は沖縄方面に転出し全滅した、と聞いてからは、父はこの刺殺されようとしていた中国人に、逆に助けられたのが真実ではないかと思うようになった。 

 ※田中英光(たなか・ひでみつ) 
 作家、1913~49、東京生まれ、早大卒。在学中はボート部に入りロスアンゼルス・オリンピックにエイトクルー選手として参加、のちその体験をもとに青春小説の名作「オリンポスの果実」を発表。戦後は共産党に入党し積極的に活動するが、ヒューマニズムに立ったスターリン的共産主義批判の先駆的作品を書く。離党後は愛人刺傷事件を起こすなどアドルム(筆者注-催眠剤)と酒のデカダンスに陥り、師事した太宰治の墓前で自殺した。(文春文庫 「別れのとき」より)

父の15年戦争20.満州事変を見た子供たち

 この記事は2009年9月18日JANJANに掲載されたのを一部写真など入れ替えております。

 「支那人を皆殺しにしてください」と少年少女に言わせる軍国時代
中村大尉事件
 今から78年前の昭和6年(1931年)9月18日、旧満州(中国東北部)奉天(瀋陽)の東北約7.5kmの柳条湖で満鉄線路の一部が爆破された。関東軍はこれを口実に張学良軍の駐屯地、北大営を攻撃し始めた。満州事変の勃発である。当時、日本国内では中国軍が攻撃してきたため日本軍が反撃し、衝突が起こったと宣伝されたが、実は関東軍が計画した謀略で、満蒙領有を独自に目指して起こしたものだった。
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中村大尉(左)と井杉曹長 筆者所蔵満州事変写真帖より
 このころ父はまだ小学2年生で政治の事など全く興味がない遊び盛りのやんちゃな少年であった。父が戦前、「義勇軍」に志願して満州に行く話をしていたとき、たまたま満州事変の話になり、「中村大尉事件」を良く覚えていると言い出した。「中村大尉事件」とは柳条湖事件に先立つ昭和6年(1931年)6月27日、参謀本部から対ソ作戦のための兵要地誌調査を命じられた中村震太郎大尉が、日本人の旅行が禁止されていた大興安嶺方面に農業技師と偽って潜入し活動していたところ、中国軍に怪しまれ同行の3人と共に殺された事件である。

 日本では中村大尉らが軍事スパイ活動をしていた事を伏せて公表されたため、新聞、雑誌などは「一般旅行者を虐殺した暴戻なる支那」と中国に対する憎悪をあおり日本中が「支那討つべし」と憤激に沸いた。父が幼少のころ起こった事件にも関わらずよく記憶していたのは、当時の日本社会の中国に対する憤激が並々ならぬものであったためと思われる。この事件は同年7月2日、在満朝鮮人入植者が水田用水路工事をめぐって中国当局と対立し武力衝突が起こった「万宝山事件」と共に満州事変発生の導火線となった。
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昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部
僕らは満州事変を見た
 昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部は「僕等は目の前に満州事変を見た」と銘打って満州事変の特集を組んでいる。その頃の少年雑誌は今と比べ物にならないくらい時局に敏感であった。特集号には満洲の奉天に住んでいた日本人小学校の生徒たちの綴方(作文)が載っている。一部引用する。

 
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 「早く仲よしに」 奉天弥生小学校5年 平田稔
 今、日本軍と盛んに戦って居る支那は一たいどんな国であろう。先生からも父さんからもくわしく聞きました。支那はまだあまり開けていない国で、方々に大将みたいなものがおり、良民からたくさんの金を取上げそれでのんきに遊んでいる。その部下が馬賊のような者で、我同胞である朝鮮人の家をあらしたり、ころしたりして、それで何とも思わないような悪い者ばかりです。支那の巡警は馬賊が出たらふせげないくらいよわむしです。
こうした国と日本はどうして戦ったのでしょう。それは支那全体との戦いではなく、悪いこれらの兵隊との間の戦いです。日本の兵隊は強い。支那は戦いでは勝てないので国際連盟に持ち出した。支那は口先でごまかそうとしたが、出来なかった。兵隊たちはますます興奮して日本軍を討てとさけび出した。かわいそうなのは良民たちで家は荒されひどい目にあった。大分戦がしづまって日本軍はかえってきたがまだおさまらない様子です。
日本がはやく支那と仲良くして、東洋の平和をまっているのと同じく、僕も早く戦いがしづまって満洲で安心して勉強出来るのを待っています。
 又寒さの中で戦って下さる兵隊さんたちにたいして一しょうけんめい勉強し、今後二度とこんな事の起こらないようにつくす立派な人間になりたいと思います。

 

 この綴方には当時の日本人が持っていたおごり、中国に対する蔑視が反映されてはいるものの、「早く仲よしに」という題が示されるように決して好戦的ではない。子供の素直な平和への願いも感じられる。おそらくこの文を書いた平田稔は日本軍が自作自演で鉄路を爆破したなどとは夢にも思わなかっただろうし、悪い馬賊を陰で日本軍が利用していたことも知らなかっただろう。目の前で満州事変を見たと思っていた子供たちは真実を見ていなかった。日本は正義で「良民」をたすけるため悪い馬賊をやっつけているのだと嘘を信じていた純真な子供たちはその後どんな成長を遂げたのだろうか。
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昭和13年(1938年)7月10日文芸春秋社発行の「話」支那事変一年史より
松井石根大将の憂い
 戦後、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われて処刑された松井石根大将は昭和13年(1938年)7月10日、文芸春秋社発行の「話」支那事変一年史に「南京入城の感慨」という文を寄稿している。

 松井はこの中で上海から南京までの激戦を回顧しつつ短期間に首都を占領したのは天皇の御陵威(みいつ)と部下の忠誠、国民の熱誠であると称え、最高指揮官として光栄であると述べている。しかし半年ぶりで日本に帰った際、国民から大歓迎を受けたが「余としては、むしろ非常なる苦衷で」と凱旋将軍らしからぬ言葉も吐いている。

 松井の精神的苦衷は入城式の翌日に行われた合同慰霊祭に関係している。「余は、当時の感慨を祭文に託して英霊に捧げた。而も予の思いは只に我忠勇将士の上にのみ止まらなかった。支那幾千万の無辜の民、その政府に強制せられて心なく戦場の塵と消えたる幾十万支那将兵に対しても少なからず惻隠の情を禁じ得なかったのである」と何十万もの殺戮があったことを書いてあるからだ。

 松井は南京入場式の様子を
 「海軍軍楽隊の吹奏する『君が代』の荘厳な音につれて、日章旗がスルスルと上がる。諸員最敬礼の裡に拝掲された国旗は江南の野に燦として翻った。次で東方皇居遥拝
天皇陛下万歳 を三唱したのだ。何たる感激の場面であったろう。」と述べつつ、一方、戦争は敗者の悲惨を思うと絶対に勝たねばならないが、

 「日露戦争以後40年間、日本人の国民精神、社会道徳は堕落の一途をたどっている」と批判。その根柢の、日清戦争以来、支那を弱いと侮蔑しきっている傲慢な精神にあると指摘、
 「軍隊といっても大部分は国民社会より出ているものであり、殊に今回の出征の如きは直接郷関より出ているもの多いのであるから、一般国民性の修養不十分なるに影響せらるることなきよう特に戒心すべきである。」
と大虐殺を引き起こした皇軍の軍紀のみだれを暗に戒めている。

 これまで連戦連勝で来たがこれからが本格的な戦いになる。支那軍隊は多数の学生や青年が加わり簡単には屈しないと、捕虜になった中国人青年男女の強い抗戦意志を例に挙げ注意を喚起する。さらに上海で読んだ内地の小学生からの手紙の内容に触れてこう述べている。

 「支那を大いに討ってくれ」とか「支那人を皆殺しにしてください」とかいう手紙が続々と届けられた。このことはうっかりすると小国民の感情を曲がって刺激する恐れがある。今回の事変は支那民衆を相手としているのでなく、蒋政権打倒という事が目的である。この事を十分考慮に入れて小国民の教育をなさねばならないと思うた。
支那が悪いという考え方は、日清戦争以来の考え方のようである。英米人が支那に臨む態度も、支那に利益を求むる懐柔利用ということが根本であるが、一方支那の劣弱を哀れみ同情するという正義感も手伝っている。支那が英米依存に狂奔する裏にはそうした何物かが存在しなければならない。だから、今後の大陸政策というものは、真に支那の実態を認識し、真に之を憐れみ愛撫するという気持ちを徹底化しなければならぬと思う。事変前より支那再認識論が云々されていたが、この愛撫の精神に徹底することこそ、皇道精神、武士道精神である。

 いかに軍国主義の時代とはいえ自国の可愛い少年少女から「支那人を皆殺しにしてください」などといわれれば、人殺し稼業の軍人といえどもギョッとするだろう。満州事変のころは「早く仲よしに」と言っていた子供たちが6年経つとこうも変わるのである。子供の道徳も国民精神と共に堕落の一途をたどった。
P1030344 昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部より政治宣伝漫画

 そして、この子供たちと同世代の私の両親も成長し変化していった。「曲がって刺激された」母は祖母のすすめで教師になるはずが、女学校に来た「白衣の天使」の宣伝映画に魅せられ従軍看護婦になった。父は松井大将が「支那人を憐れみ愛撫せよ」と説いた頃、挿絵画家をあきらめ国策に乗せられ満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州に渡った。
P1030346
P1030347
 関東軍が公開した爆破の「証拠品」と爆破現場、ならびに占拠した張学良軍の兵営前で威圧する日本軍。 筆者所蔵満州事変写真帖より

父の15年戦争(17)8月15日の特攻

この記事は2008年8月2日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。

 ソ連参戦時の父の部隊の詳細な行動などを知りたかったが、地元の図書館でたまたま父と同じ時期に入隊した元隊員の手記が載った本を2冊みつけた。この本で、父の部隊がソ連戦車軍団と対戦した日が昭和20年8月15日だと分かった。
P1030318  鏡泊湖 南湖 頭沼岸(昭和8年6月25日新知社発行満州産業体系1より)
 

「父の15年戦争(1)関東軍の特攻」は、父の証言だけを元に書いたので、ソ連参戦時の部隊の詳細な行動や日時をほとんど記述出来なかった。私自身、日ソ戦の知識や旧満州の地誌など全く知らなかったので、あらためて資料を収集し勉強を始めたのだが、地元の図書館で、たまたま父と同じ時期に入隊した元隊員の手記が載った本を2冊みつけることができた。それによると父の部隊がソ連戦車軍団と対戦した日が昭和20年8月15日だと判明した。

回避された特攻
P1030317 機動第1連隊の編成地公主嶺
 神奈川県出身の吉山和孝氏は昭和20年5月、国立大学ハルピン学院2年生のとき徴兵され、父と同じ公主嶺の機動第1連隊に入ったが、そのときの思い出が、平成11年3月30日、平和祈念事業特別基金が発行した、平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦LX に掲載された「わが青春の思い出」である。一部引用する。
P1030316 地図左下の公主嶺(こうしゅれい)駅から敦化(とんか)駅まで列車で移動、敦化から鏡泊湖まで徒歩で三日三晩歩きづめだったという

満州東北部より侵入したソ連軍に対しては、牡丹江を中心とする第5軍の主力2万5000人の将兵が死力を尽くして戦ったが、敵の航空機、戦車、大砲に対し、我が軍には極めて少数の大砲のほかは軽機、小銃などの軽火器しかなく、1日半の戦闘で敗れた。この敵の部隊が鏡泊湖を通り南下を企てている模様であるため、機動1連隊はこの湖畔で迎撃すべく、200kmの道を雨中、夜を日に継ぐ強行軍を敢行、3日後湖畔に到着した。3日間ほとんど眠らず、食事は乾パンを歩きながらかじり、水はそのあたりを流れる溝から汲んで消毒液を入れて飲んだ。
 敵との遭遇は8月15日と予想されたが、敵はおそらく大型戦車を前面に立てて攻めてくるのに対し、我が軍には最大の兵器でも数門の歩兵砲があるだけであった。8月14日連隊全員が集められ、連隊長の訓示があった。内容は戦況の説明に併せて、特攻隊の編成についてであった。身命を故国の栄光に捧げて悔なき者、悠久の大儀に生きることを可とする者は、連隊長と共に死んでほしい、連隊長は諸君の先頭に立って突撃するという意味のものであった。当時の緊迫した情勢の下では、特攻隊に入っても入らなくても、生き残る可能性はまったく考えられなかった。
 「特攻隊志願者、一歩前へ」の号令に、私は一歩を踏み出した。見ると隊員全員が一歩前に出ていた。夜になると菊の紋章のついた恩賜の煙草と日本酒が支給された。生まれて初めて口にする煙草は枯れ草の香りに似ていた。兵隊は戦場では分隊の単位で行動するものである。我々は分隊長を囲んで、飯盒の蓋で冷酒を回し飲んだ。これが今生の別れの杯であることは、誰でも分かっていた。しかし、だれも何も言わなかった。空には星一つ見えない、闇夜であった。
 翌15日、早朝より空は晴れていた。体当たり用の爆薬の支給を待ちながら、「満18歳の生涯だった。同じ死ぬにしても敵戦車にたどり着き、せめて一矢を報いたい」と思っていたが、連隊本部の様子がなんだか変である。そのうち連隊長から命令が下された。関東軍司令官の命により「我が軍は戦闘を停止する。よってただいまより転進をする」とのことであった。転進とは聞こえが良いが退却である。特攻はしないことになったが、嬉しいとも悲しいともいえない、なんとも複雑な心境であった。そしてふと、死刑囚が刑執行寸前に釈放でなく懲役になったらこんな気持ちかなと思った。しかし、それが数週間後に始まるシベリア奥地での重労働への序奏であることなど思いも及ばなかった。
 進んだとき3日かかった道を、1日半で帰った。公主嶺で訓練した長距離行軍が、こんなところで役に立つとは思ってもみないことであった。身につけたほとんどすべての物を捨てた。持っていたのは小銃と少量の弾薬、少量の食料、日用品を入れた雑嚢、飯盒、水筒のみであった。敦化より再び兵団司令部のある吉林にもどり武装解除となった。

食い違う証言
 以上が吉山氏の文章からの引用だが、もう1冊「少年たちの満洲」 吉村暁著 平成4年9月20日発行 株式会社自由社 にも大連の旅順高等学校出身 田中邦實氏(東京都日野市)の体験が出てくる。この2人の話をあわせると関東軍機動第1連隊の8月9日のソ連参戦から8月15日の終戦、その後の吉林での武装解除までの行動がおおよそ分かる。同じ連隊にいた2人の証言は大体一致するが父の証言と大きく食い違っている重要な一点がある。田中邦實氏、吉山和孝氏の証言では8月15日の終戦の日、関東軍司令部の命令によりソ連戦車への「特攻」が回避されたという事である。迫撃砲中隊に所属したという田中邦實氏は次のように言っている。

8月15日の昼、終戦の放送を聞いてすぐ退却した。この退却はものすごいスピードで、行きに3日かかった行程を、敦化まで1日で突っ走った。道は舗装した国道もあれば、山道もあった。泥水の溜まっている所も少なくなかった。小休止もへったくれもない。オレは馬の尻尾につかまって歩いたが、息が切れて、よれよれだよ。あまりの強行軍に死んだ人もいた。途中でソ連の戦車に追跡されたが、戦闘を交えず、ふり切って逃げた。やっとの思いで敦化に着いたら、馬は汽車に乗せられないという。初年兵のオレたちは馬になれていなかったから、馬を任すことができないわけだ。そこで、馬を扱えないオレたちは貨車に乗せられ、馬の扱いになれている連中だけで馬の輸送隊を編成した。この連中は曲射砲を馬に積んで、旅団司令部のある吉林を目指した。野を越え山を越えて歩いたわけだが、それっきり消息は絶えた。どこかでソ連軍と交戦して、みんなやられてしまったらしいということだった。同じ中隊なのに、敦化で運命が大きくわかれてしまった―――(吉村暁著「少年たちの満洲」より)

P1030321 鏡泊湖 南湖
 2人の話はどちらもソ連戦車に追いたてられ死に物狂いで逃げる様子がわかる。このとき機関銃中隊にいた父は8月15日昼、天皇の終戦の詔勅が発せられてからもそのまま鏡泊湖湖畔にとどまりソ連戦車軍団と対戦する事になる。父の中隊はなぜ残されて「特攻」を命じられたのだろうか。連隊退却の犠牲となる殿(しんがり)になったのであろうか。

刺突訓練
 父は昭和20年の6月か7月頃、公主嶺の機動第1旅団(旅団長木下秀明大佐)第1連隊(連隊長岩本只芳大佐)に入隊した。徴兵検査を受けたのが5月だがその直後に入隊した部隊で抗命罪にとわれ、重営倉に入った。その理由は初年兵の訓練のとき、度胸試しとして杭に縛りつけられた、生身の中国人を刺殺することを命令されたのだが、「無抵抗の人間を……あまりにも酷い」と拒否したためだった。当時の軍隊にあって上官の命令を拒否することは重罪であった。もし戦闘中なら射殺されても文句が言えなかっただろう。

 しかし父は悪運には強かった。重営倉に入っている間に部隊は沖縄へ転出したのだった。後に父が聞いた話によると「沖縄に行ったこの部隊は全滅した」という。そんな事情で父は短期間のうち新たに部隊を変わる事になった。

関東軍第1機動連隊
 関東軍機動第1旅団は昭和16年末に編成された特殊部隊、関東軍機動第2連隊を基に2つの連隊を加えて昭和19年6月吉林に新設された。この部隊は関東軍司令部直轄で敵が進撃した後、背後にもぐり橋梁や道路の破壊、鉄道の寸断など後方を撹乱するゲリラ戦を目的とした。総員は約6000人である。

 第1機動連隊は12個中隊で第4中隊が父の所属する重機関銃隊、第8中隊が曲射砲隊(迫撃砲)、第12中隊が通信隊で、あとは歩兵中心の現役兵ばかりの精鋭部隊である。重機関銃と曲射砲は馬に乗せて3人1組で扱った。連隊の総人数は約2000人だが開戦時、第1大隊長水島悟少佐が古年次兵約1000名を指揮し、杜荒子、大北城付近以南に配備していたため、岩本只芳連隊長は残りの約1000名を率いて8月14日ごろ鏡泊湖湖畔に到着した。父の証言によると湖畔に着いてすぐ対戦車用の塹壕を掘ったという。そのあと吉山和孝氏の証言にあるように「連隊長と共に死んでほしい」と全員特攻・玉砕戦術となるのだが、15日に日本が無条件降伏したことが明らかになると、部隊は転進(退却)となった。

残された中隊は殿備え
 私がこの時の事を詳しく父に聞いたのは亡くなる半年ほど前だったが、父は自分たちの中隊だけが湖畔にとどまり、他の全部は退却したことを知らなかったか、もしくは全く記憶に残っていないようだった。その理由はおそらく機関銃中隊のみが15日の朝、単独行動をしたことにある。父の話では「機関銃を積んだ馬が邪魔になるので谷までおりていって隠した」と言っていた。吉山・田中両氏の証言ではそういう話は全く出てこない。田中邦實氏は逃げるとき「オレは馬の尻尾につかまって歩いた」と言っているので馬を隠しに行ったのは父の中隊だけだったのは間違いない。山の上の湖から谷まで往復する間、かなりの時間が、かかったのではないだろうか。父たちが帰ってくるとすでに他の中隊は退却していた。すぐ間近にはソ連戦車軍団が迫ってきた―これはあくまで私の想像であるが、事情は指揮官のみぞ知っている。

 それにしても前の晩「諸君の先頭に立って突撃する、一緒に死んでくれ」と全員に訓示したばかりの連隊長はどんな気持ちで先頭に立って退却したのだろうか。やはり命が惜しくなったのだろうか。もちろんそんな事は否定するだろう。おそらく「関東軍司令部の命令による」とでも言うのだろうが…結果的にいうと「特攻」は散発的であったが戦車軍団を一時的に止めることができた。おかげで本隊は危機一髪退却できた。父はこのときのソ連軍の猛攻を次のように描写した。「敵は最初の肉薄攻撃のあと、徹底的に耕してきた。一昼夜大地を掘り起こした」大地を根こそぎ掘り起こすくらいのすさまじい砲弾のあらしで現場の父は非常に長い時間に感じられたみたいだが、実際は一昼夜も撃っていたわけではなく1時間くらいだったのではないか。
P1030320 鏡泊湖 北湖

荒れる父

 父によると連隊長とは吉林で捕虜になったとき一緒になったと言っていたので、機関銃中隊がしんがりになったことはこのとき知ったと思う。捕虜収容所では日本軍の組織が残っていたので、連隊長は威張っていた。父は身勝手な連隊長に抗議に行き「おまえらがボンヤリしているから負けたんじゃ!」とののしった。横暴な上官に腹を立てて殴り倒したこともあったと言う。

 父たちはソ連機甲師団に撃破されたあと、山の中に隠れていた。何日かたって停戦命令書をもった使者がやってきた。このとき天皇が降伏した事を聞き絶望して腹を切った(父が介錯した)中隊の青年将校たちの無念を想って抗議したのだろうか。父は晩年、好きだった酒に飲まれる事も多く、酔っ払って何かといえば「ハラを切ってやる」とおだをあげた。いつか親戚の家で飲みグデングデンになって、その時ボケ老人の話題で盛り上がった後、「ワシはボケへんぞ、年とってボケるくらいならその前にハラかき切って死んでやる。ハラぐらいいつでも切れるんじゃ」とわめき、ちょっと間をおいてうつむき小声で「…そやけど痛いやろなあ、痛かったやろなあ」などとつぶやきながらそのままグウグウいびきをかいて寝てしまったことがあった。今にして思えば敗戦の時うけた心の傷がぶり返しうずいていたのかもしれない。

 機動旅団の3個連隊のうち第3機動連隊長の若松満則中佐は武装解除後の9月2日拳銃自決を遂げた。第2機動連隊長の須藤勇吉大佐はハバロフスクの捕虜収容所で病死した。「第1機動連隊の連隊長もソ連に連れて行かれたそうだが、その後は知らない」と父はそっけなく言う。父は捕虜になってから足に腫瘍ができ、治療したあと同僚より少し遅れてシベリアに送られるが、悪運強く途中脱走に成功する。しかし「父の15年戦争」の道のりはまだまだ遠い。

注:殿(しんがり)
軍隊が退却する際、最後尾にあって追ってくる敵を防ぐ部隊で犠牲がもっとも多くなる。

父の15年戦争16.狼になった義勇隊員

この記事は2007年9月18日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。

「わしなんか義勇軍時代あらゆる悪いことをしてきた」父が突然こんなことを言ったのは亡くなる1年半ほど前だった。

下克上
「わしなんか義勇軍時代あらゆる悪いことをしてきた」。父が突然こんなことを言ったのは亡くなる1年半ほど前だった。その頃、若い時分に患った結核の後遺症で肺のあたりに水がたまり、入退院を繰り返していた。高齢で手術も出来ず、これといった治療法もないので、体力回復のため、しっかり栄養をとることが残された道だった。食事のメニューには気を使い、入院先の病院では栄養士さんにかなりうるさく言っていた。それにもかかわらず、ドンドン減っていく体重に、これまで数々の病魔を克服してきた父もちょっと弱気になっていた。

 私は棺桶に片足突っ込んでいるこの期に及んでそんなこといわれても……と思いつつ話を聞いた。父はおよそ反省とか後悔とかいう文字とは無縁な人生を送ってきたと思われる。失敗や都合の悪いことはすぐ忘れて次の事を考えるという、よく言えば前向きで、いい加減な性格だが、このときちょっと思いつめた表情で、若気の至りを告白した。

 父は昔からおしゃべりで私が子供の頃、訪ねてきた友達や近所の酔っ払いに満州時代の「武勇伝」を講釈師のように披露していたが、其の中でよく憶えているのは脱走劇だった。敗戦後捕虜になりソ連の軍用列車でシベリアに送られる途中、黒竜江を渡って脱走したとか、中国八路軍から馬で脱走したことなど、繰り返し酒の肴にしていたが、「北安の監獄に入れられた……」と言っていたことも私の記憶の奥に引っかかっていた。

 昭和14年頃北安省北安県の鉄道自警村・満鉄二井(にせい)訓練所で一部の訓練生がおこした叛乱事件(父の15年戦争11.叛乱参照)以来、訓練所の所長や幹部たちはしだいに訓練生に対する統制力を失っていった。父によると「各小隊の1割ぐらいは好き勝手なことをして幹部の命令を聞かなくなっていた」という。注意や処罰をされなかったのかと聞くと「なにしろその頃になるとわしらは武器を自在に使えるようになっていたので下手に注意をするとえらいことになる」という。

 育ち盛り、反抗期、一般社会から隔絶された特殊な環境、そのなかで300人の青少年を引っ張って行くのであるから、幹部の苦労は並大抵のものではなかった。 (中略) ところが、われわれが知る限りにおいて、これらの大多数の中隊長、または幹部は終戦以前の段階において例外なく脱落した。義勇軍の将来、少年たちの指導に見切りをつけて帰国するもの、他に転職するものが相次いだ。発疹チブスの少年たちを不眠不休で看護し続け、ついに自らも発病して死んでいった中隊長もいたが、多くの幹部は、あまりにも裏切られた期待の大きさに絶望して、くしの歯が抜けるように、訓練所や団から去って行ったものである。
 また、少年たちからリンチを受けて、半死半生の目に合わされた幹部も数多くいた。ノイローゼになって自殺した幹部の話も耳にした。少年たちの指導が如何に至難なものであったか。そして幹部の力量がどれだけ大きなものを必要としたか。これは、当時の事情を知るもの以外には、どうしても説明の付かないことである―昭和43年7月1日発行ドキュメントああ清渓(ある満州開拓少年義勇軍の記録)より

 2年前五族協和の夢を追って日本から来た少年たちは、理想とは裏腹の厳しい環境の中、大興安嶺の狼に成長していた。当時下克上という言葉は中央の参謀本部や政府の命令を聞かず、戦火を拡大した関東軍の少壮軍人たちの行動をさしたものだが、その関東軍支配下にあった青少年義勇軍もまた下克上の風潮が広がっていた。
P1030304 昭和13年2月1日発行「拓け満蒙」より

山林保護税
 狼たちは最初空腹に耐えかね、訓練所の倉庫から食糧をちょろまかした。次に周辺の中国人部落の牛をつぶして食べたりするようになった。そのうち大手を振って訓練所の外に跋扈しはじめた。街に遊びに行くには満鉄に乗るのだが切符なんか買わない。「カーブの所で列車は必ずスピードを落とすので、駅の手前の目ぼしい地点を見つけ、飛んで乗り降りした。満鉄で切符を買って乗ったことなんか1度もない」という。

 街の百貨店には集団で押しかけた。仲間同士が喧嘩をはじめ騒ぎたてる。もちろん狂言で、その隙に他のものが店の商品を南京袋に押し込み逃げる。商品は中国人部落に行き市価より安くさばいた。狼たちはしだいに大胆になり行動はエスカレートしていった。

 父の友人の今口氏は忘れられない思い出があるという。

 「確か昭和16年の正月に私は淡路島に帰省していたが、2月に訓練所に戻ってきた。其の日が11日の建国記念日だったので今でもよく覚えている。戻ってくると郷と山鼻が宿舎にいないではないか……なんと監獄にぶち込まれているという。それで差し入れをもっていった」

 何をしでかしたのか……。
P1030310 興安嶺の針葉樹林 新知社・昭和8年発行「図解満洲産業大系第二巻農業篇下巻」より)

 父の話によると、北満の冬は厳しい。当然住居には暖房がなくては生きてゆけないので、冬場に大量の燃料を確保しなければならない。そのころ満州国政府は山林保護の名目で住民に山の木を切 るのを禁止していた。貧しい中国人は日本人のように高価な石炭なんか買うことが出来ない。だが生きるため背にハラは変えられないので法令違反を承知でみんな山に入って木を切って薪にしていた。

 「そこに目をつけた。わしと山鼻は山の入り口で待ち構えていて、山林保護税というものをでっち上げて山に入る中国人たちから徴収した」

 17~18歳の若造が2人ぐらいで、いきなり簡単に金をとれるのだろうか。「わしらは騎兵銃を肩にかけていたので、中国人たちは逆らわなかった。紙幣が南京袋にいっぱいたまったところで、悠々と引き揚げ、2人で街の餃子館に行き一杯やっていた。ところが、そうは問屋がおろさなかった。義勇隊がおかしな事をしていると通報されて憲兵隊に踏み込まれた。散々ぶちのめされ、荒縄で全身グルグル巻きにされ、しょっ引かれた」

 裁判にかけられなかったのかと聞くと「日本人には甘かったのか裁判沙汰にはならなかった。そんなに長く拘留されなかったように記憶している。監獄から出る前に県の副知事に会わされ説教された」

 かいらい国家満州帝国では行政機関のトップは中国人がなっていたが、次長や顧問は日本人の官吏を配置しコントロールした。県知事の中国人も飾りで、日本人の副知事が実権を握っていた。「その副知事は中国人民衆の憎しみを一身に受けて、敗戦の混乱時暴徒に襲われ、たたき殺された。この話はうちの近所の先輩の坂本さんから戦後引き揚げてきたとき聞いた。坂本さんは満州では特務機関に勤めていたので、敗戦後の日本人の悲惨な出来事を良く知っていた」
 
 父は義勇軍時代にやっていたことの7割は内地では人に言えない恥ずかしい事だと言った。「人殺しはせなんだが、ずいぶんひどいことをしていた」と普段の父には似つかわしくない、神妙な口調で話し終えた。
P1030308_2 材木を運ぶ義勇隊員 昭和12年3月1日発行「拓け満蒙」より
P1030309 日本人開拓団には木材事業が許されていた 新知社・昭和8年発行「図解満洲産業大系第二巻農業篇下巻」より)

父の15年戦争15.哀れだった慰安婦

この記事は2007年4月15日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。

 父は戦後ひょんなことから中国人民解放軍に入り各地を転戦した。そのとき野山や道端に日本兵の白骨化した遺骸がよく転がっていた。父は見つけるたびに埋葬した。中国人苦力、朝鮮人「慰安婦」、白骨の日本人兵士
「そりゃ哀れだった……」

ソ連兵に貞操を提供せよ
 
安倍首相が慰安婦問題で「軍の強制がなかった」といったとき私の母は「戦争を知らんからあんなことをいって、私らもひとつ間違ったら、ソ連兵の相手をさせられた」という。

 私の母は元日赤の従軍看護婦で敗戦前まで満州帝国の首都新京(長春)の陸軍病院に勤務していたが、終戦後平壌まで逃げてきたところをソ連軍につかまった。
 元日赤従軍看護婦の会編「日本赤十字従軍看護婦『戦場に捧げた青春』」には香川県の永安春子さんによる手記が載っている。一部抜粋すると

前略 ここでの思い出は、何と言っても杏樹陸軍病院の一軍医による「ソ連兵に黙って貞操を提供するように」と言われたことである。ある日点呼の際「軍人が軍刀を捨てたのだから、女が貞操を捨てる位何でもない事だ。ソ連兵に求められたら貞操を提供しろ」何というひどい言葉、口惜しくて腹がたったが、軍が滅びても階級意識はまだ強く、将校に対し反発する等は相当に勇気のいる事である。私たちの三福婦長はあえてそれをやってのけた。「軍が滅びて軍刀を捨てるのは当然です。私達は大和撫子です。操は生きている限り守らねばなりません」……悲壮な顔で口を切り、他の婦長も続いて抗議した。この時の三福婦長の姿は大変崇高にして、頼もしく見えました。――

 母は「私の病院の耳鼻科の軍医は看護婦に、お前らはソ連が入ってきたら強姦され、連れて行かれて妾になるんじゃと、早くから言っていた。日本人の私たちに対してさえ、捕虜の弱い立場にたつと、ソ連から命令されたわけでもないのに、保身のためか女衒のようなことをする日本人将校がいたのだから、戦前日本人より目下と見られていた朝鮮人や中国人に強制はなかったなんて考えられない」という。

慰安所はどこにでもあった
P1030300 兵士に湯茶を接待する、※1娘子軍(日本人慰安婦)豊台付近 昭和12年11月15日発行 婦人公論臨時増刊 画報・支那事変早わかりより
 
 父の話によると慰安所は皇軍(日本軍)のいるところどこにでもあって朝鮮人の女性が多かったという。父に聞いた話をまとめると次のようになる。

1) 慰安所は将校用と下士官・兵卒用に別れていた。
2) 慰安所では兵卒・下士官は昼間利用し夜の泊まりは厳禁であった。将校は夜利用した。
3) 兵卒・下士官は朝鮮人女性、将校は日本人女性が相手をした。
4) 上記から人数は朝鮮人女性が圧倒的に多かった。中国人もいた。
5) 将校を相手する女性は「プロ」で朝鮮人女性は「素人」が多かった。
6) 多くは女衒がうまい話をして堅気の朝鮮人女性を騙してつれてきたようだ。
7) 慰安施設は軍の管理下にあった。
8) 交通不便な戦場を移動するには軍の保護がなければできない。

 父は大勢の兵卒を相手にする朝鮮人「慰安婦」は哀れだったと言った。これらのことから慰安所は日本の植民地や占領地域の他民族に対する差別があり、旧日本軍の階級差別に組み込まれていた。父の話によると旧日本軍の階級差別は絶対的で、たとえば新兵の訓練の時でも将校は直接教えず上等兵や下士官が当たった。将校は兵卒にとって雲の上の存在だった。慰安所は「将校は格上の日本人、兵と下士官は格下の朝鮮人と中国人が相手」となっていた。

 「慰安婦」に朝鮮人女性が多かったのは、将校と兵・下士官の人数比から考えると理解できる。

 大まかに言って旧日本軍は一個中隊(約200名)を将校5~6名が指揮をした。連隊本部・師団司令部など上級の機関は将校の割合が多いことなどを勘案しても将校の約30倍の兵・下士官がいたと考えられる。

 このことから単純に考えても兵卒・下士官の欲望を満たすには、将校の約30倍の「慰安婦」をそろえなければならない。将校は数が少ないので日本人の「プロ」だけで数が足りるが、一般兵卒・下士官は大量の相手がいる。

 盧溝橋事件までは外地に駐屯する兵隊も少なく兵卒用「慰安婦」も日本人女性だけでたりたが、戦争が拡大すれば兵隊も増え慰安所も膨らむ。

 そこで安定した支配地域である朝鮮半島や台湾から女衒をつかって無理に堅気の若い女性を連れてきたと思われる。また占領地では軍の威迫下に地元の中国人女性が連れてこられたことが多かった。

 これらは植民地や占領地だから出来たことで、内地でやれば犯罪になるし社会不安が増大する。しかし日本人「素人」女性でも貧困層で兵卒相手の「慰安婦」にしたてられることがあり、いわゆる大陸の花嫁(※2)募集などで、つられて騙された例もある。
P1030301 昭和35年5月15日双葉社発行「特集 実話特報 第18集」より

 兵卒相手の「慰安婦」は需要を満たすほど集められなかったためか、多人数相手の過酷な「接待」が求められた。

哀れだった
 
父は自身の戦争体験を話す時しばしば「そりゃ哀れなもんだった」と慨嘆した。初めて満州の地についたとき「義勇軍」訓練所予定地では、内地から来た土建屋がたくさんの苦力を雇って道路を造り、宿舎を建てていた。
「わしらはクリーと呼んでいてアンペラ小屋(コーリャンの茎で編んだムシロをかけただけの粗末な小屋)に住んでいた。中国人労務者は病気や怪我をしても外に放り出されて、後は野となれ山となれだった。日本人の監督は手荒く、最初の頃は、こんな事をしてもええんかいなと思うことが多かったが、1年もいると慣れてしまった。クリーは逃げないようにアヘンも吸わされていた。哀れなもんだったよ」

 父は戦後ひょんなことから中国人民解放軍に入り各地を転戦した。そのとき野山や道端に日本兵の白骨化した遺骸がよく転がっていた。父は見つけるたびに埋葬した。「日本から遠く離れた外地で……そりゃ哀れなもんだった。数十体は埋めたが一緒にいた人民解放軍の同僚はわし一人でさせなんだ。みんな手伝ってくれた。昭和28年舞鶴に帰還したとき援護局に屍の下に落ちていた兵隊の認識票(※3)を渡した」という。
 中国人苦力、朝鮮人「慰安婦」、白骨の日本人兵士、哀れだった……。

※1娘子軍(じょうしぐん):中国語でもとの意味は女性だけの軍隊のことだが、戦前日本では売春婦の集団のことを言った。

※2大陸の花嫁:戦前、満蒙開拓団や青少年義勇軍の適齢期の男性に内地から花嫁を嫁がす政府の政策に応えて満洲に渡った女性たち。

※3認識票:日本の兵隊は番号の入った金属製の認識票をひもで通して腰にくくっていたので、戦死しても所属部隊や名前が分かった。

父の15年戦争14.満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所跡

この記事は2007年4月8日JANJANに掲載されたのを一部、訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております

 父が亡くなった翌年2007年3月、茨城県内原にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡を訪れた。父は1938年高等小学校を卒業した春、義勇軍内原訓練所で約3ヶ月間、基礎訓練を受け満州に旅立った。

 3月19日、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡を訪れた。JR上野駅から常磐線特急「常陸」に乗り約1時間、友部駅で乗り換え、ひとつ目の内原駅で下車する。駅から南へ約2kmのところに記念碑と当時の訓練生の宿舎である「日輪兵舎」を復元した建物があった。
P1030294 当時の日輪兵舎
 もともとは松林があった約40ヘクタールの土地に蒙古の包(ぱお)に似せた円形の「日輪兵舎」が300棟あまり点在し、最盛期には満14歳から19歳まで1万人もの若者が寄宿し、徹底した集団行動による軍事訓練や農耕訓練に励んだ。ここから満州(現中国東北部)の現地訓練所に送り出された人数は内原訓練所本部送出名簿によると86530名に上る。

 現在この周辺には県立養護学校や「義勇軍」訓練所所長だった加藤完治らが大正14年に創立した日本国民高等学校を受け継ぐ日本農業実践学園がある。

 駅から乗ったタクシーの運転手さんが昭和14年生まれで当時の訓練所のことをよく憶えていた。私の父が14歳で「義勇軍」に志願したこと、多くの隊員は高等小学校を卒業した年齢で入所したことを話すと、運転手さんは「そうですか。もっと年上の若者たちだと思っていた。今の中学2年か3年か……。まだ子供だったんだなあ」と当時を回想する。

 「戦争末期で尋常小学校が国民学校という名称に変わったころ入学をした。戦争が激しかったころで、8日とか18日とか28日など8のつく日は国旗掲揚台に日の丸を掲げ、君が代を歌って戦争の必勝を祈願したよ」。12月8日は真珠湾攻撃の日で大勝利の縁起をかついで祈っていたようだ。

 「若者たちが鉄砲や鍬をかついで訓練していた。内原駅に通じるこの桜並木の道を通っておおぜいの青年が駅のほうへ行進していった」。通称渡満道路と呼ばれた桜並木は今も当時のまま花を咲かせているという。

 「もうすぐ桜の花が満開になってこの辺は私の散歩のコースですよ」と運転手さん。今でも九州から北海道まで元隊員たちが団体で当時を懐かしんでやってくるという。

 「長野県が一番多く行ったそうだね」。この土地でタクシーに乗っていると全国からやってきた元隊員たちをよく案内するらしく、さすが詳しい。

送出日本一、長野県の場合
 
長野県は「義勇軍」の送出数がダントツ全国トップで6939人が満州に送られている。一般の満蒙開拓団も全国1位で、村の半分が移住する分村・分郷と呼ばれるやり方で開拓団を組織した。当時信州は繭の生産が全国一で、世界大恐慌に端を発した昭和恐慌の影響で絹糸が暴落し多くの村が疲弊していた。娘の身売り、一家離散、心中、夜逃げなどが続出した。この苦境から逃れるのに満州は農民にとって希望の大地だった。しかし経済的理由だけでなく、子供たちを「義勇軍」に駆り立てたのは学校の先生の影響が大きかった。

 長野県歴史教育者協議会編「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」には昭和15年の長野県の義勇軍志願の動機を調べるアンケート表が載っているが、それによると本人希望が49.4%、教師の勧め42.1%、家族の勧め5.4%、その他2.9%になっている。昭和16年になると本人希望の数値がなぜか空白だが、教師の勧めが81.4%で圧倒的に多くなっているのは、拓務省からの割り当てによる強引な勧誘が原因のようだ。

 14、5歳の少年たちを遠い満州にやるにはいくら本人が希望しても両親、とりわけ母親の反対を押し切る必要がある。戦前から教育県として名高い長野県は「信濃教育会」が中心になって興亜教育といわれる、欧米に対抗したアジア侵出のイデオロギー教育を熱心にやっていた。教師は親の反対で迷う子供たちにあの手この手で口説き落とした。その結果が日本一の「義勇軍」送出人数として現れた。

 だがこうして送られた「義勇軍」の最期は悲惨だった。上笙一郎著『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、敗戦直前の在満州開拓民はおよそ27万人で、引き上げまでに、戦死・自決・病死・餓死・凍死した人が7万8500人となっている。これは3人強に1人が亡くなるという勘定でこの率を「義勇軍」に当てはめ、外務省の満洲開拓民生死統計(昭和31年)などの資料を基に推計すると、約2万4200名の義勇隊員が亡くなっているのではないかと書いている。

 ちなみに終戦直後の全満州の日本人人口は155万人ぐらいとされているが、引き上げ途中で17万6000人が亡くなっている。これらの犠牲者の数字を比べてみると全満州日本人人口の17%を占めるに過ぎない満蒙開拓民が、全満州日本人の引き上げ途中死亡者の約半分を占めるという異常な犠牲を払っていることが分かる。さらにその悲劇は中国「残留孤児」の問題となって現在も引き継がれている。

 五族協和、道義世界の建設の聖業を目指したはずの国策満蒙開拓はどうしてこんな末路を迎えたのだろうか。国策を進めた誰がその責任を取ったのだろうか。

戦争責任
Photo
内原の「義勇軍」跡地には5~6mはあろうかとおもわれる石碑がそびえ、その横の「拓魂」碑には次のような文字が刻まれている。

内原は 義勇軍の心のふるさとである綱領は次ぎのとおりであった
1.義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追進シ 身ヲ満洲建国ノ聖業ニ捧ゲ 神明ニ誓ッテ天皇陛下の大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
1.我等義勇軍ハ 身ヲ以テ一徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ 道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス
義勇軍は大陸の厳しい風雪に耐え ひたすら理想の村づくりに邁進した
しかるに昭和20年8月 祖国の敗戦によりそのすべてが烏有に帰した
以来30年の歳月が流れた
われわれは 志半ばに倒れた同志の遺志を偲び 義勇軍創設の趣旨を録し 永く後世への記念とする
ここに内原会並びに関係各位の協力を得て その鴻志を刻み同志の碑とする昭和50年5月3日
満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑建立委員会
委員長 那須皓全国拓友協議会

 この碑文を素直に読むと、「義勇軍」は天皇の意思に副い満洲で厳しい風土に耐え民族協和の理想を実現しようとしたが、日本が戦争に負けたためその成果は水の泡となった。30年たって犠牲となった隊員たちをしのびその趣旨・意義を後世に残す――と理解して間違いはないだろう。この文には当時の国策を肯定するだけで、批判もなければ反省もない。それもそのはずこの碑を建立した代表の那須皓は元満洲移住協会理事で「義勇軍」創設の建白書を出した6人のうちの1人で国策を推進した中心人物なのだ。

 日本国内には先の大戦で倒れた人たちを追悼する石碑は、星の数ほどあると思われる。それらは押しなべて、この碑文のように死者の陰に隠れて、誰がそのような悲劇を招いたのかまるで分からない文章が刻まれている。そんな文章からは「大東亜戦争」は負けたことが悪いのであって(勝てば官軍)日本にも言い分はある(三分の道理)という思惑が透けて見える。これらは戦争を知らない世代が、南京大虐殺はなかったとか、慰安所はただの売春宿であって、軍の関与はなかったなどという、戦前の軍部の暴虐を否定する言説をそのまま受入れてしまう下地になっている。
Photo_2 加藤完治の銅像
 この拓碑の近くには日本農業実践学園があり、その入り口にも大きな石碑がある。さらに前庭を隔てたところに、鍬を持った初代校長加藤完治の銅像が立っており、その奥には弥栄神社と書かれた祠(ほこら)が鎮座している。

 加藤完治は「父の15年戦争(7)糞尿をなめるカリスマ教育者」で書いたように、国策満蒙開拓を強力に推進した中心人物であった。敗戦後は戦争協力者として公職を追放されたが、戦犯に指定されることもなく、昭和26年には解除され、昭和28年には日本高等国民学校(戦後日本国民高等学校を改称)の校長に復帰した。その後、数々の旧満州開拓関係や農林団体の要職につき、昭和40年4月には農林業功労者として天皇主催の園遊会にも招待され、昭和42年3月、83歳で天寿を全うした。
P1030287壮行式での答辞
 加藤は自分が指導して満洲に送り込んだ青少年たちの短い薄幸な人生をどう考えながら戦後を生きたのだろうか。指導者としての戦争責任を感じていたのだろうか。多くの少年たちの運命を左右した学校の教師たちは戦後どんな教育者に変わったのだろうか。
父は加藤完治の思い出を次のように述べていた。
P1030296 いっせいに義勇軍綱領を唱える
 「狂信的な天皇主義者でわしらは毎朝、君が代を歌いスメラノミコト(天皇)イヤサカ(弥栄)を三唱した。加藤は満洲に普通の移民をやるのは意味がないといっていた。天皇に帰一した純真な君たちのような青少年こそが満洲国の礎石になるのだ、それを邪魔するやつを退治するのが支那事変の聖業だと言っていた」

軍国日本の歴史を教えなかった学校
 
私は父に現在の日本人の多くは戦前日本が中国に攻め込んだことを反省どころか、悪いことだと思っている人間は少ないのではないか、また戦後世代の人間は日本が戦前植民地朝鮮や中国で何をしたのかまるで無知なことについて、どう思うか聞いたことがある。

 父は「確かにそのとおりだ。わしら戦争に行った人間は現地で何をしたか、都合の悪いことは、ほとんど子供の世代にしゃべっていないし、学校でも教えていないだろう。それに知らなければ反省のしようがない」と言っていた。

 私は昭和27年生まれで昭和40年代に中学・高校教育を受けたものだが、中学校で社会の近・現代史は明治ぐらいまでしか教わった憶えはない。それ以後の歴史は春休み前にやっと2時間だけ工面し、まとめて授業を受けた。なぜか教頭先生が教壇にたちサンフランシスコ講和条約まで特急で講義した。その講義の短い時間内でもソ連の中立条約違反とピカドン(原爆投下)だけはしっかり教えてくれ、ソ連と米国はひどいことをしたと言っていた。そのころ日本で一番あこがれの国は永世中立国スイスだった。

戦争の知識は『少年マガジン』から
 
学校ではあまり戦争のことを教えてくれなかったが、私は漫画で日米戦争のことを知った。そのころ戦記ものと呼ばれる漫画が少年雑誌によく連載されていた。ゼロ戦隼人・ゼロ戦黒雲隊・ゼロ戦レッド・紫電改のタカ・サブマリン707、撃墜王坂井中尉だとか、加藤隼戦闘隊、アッツ島玉砕の軍神山崎大佐、奇跡のキスカ島撤退、硫黄島玉砕の司令官栗林中将など今でもすらすら口に出てくる。

 『丸』という戦記雑誌(高くて買えなかった)を年長の従兄弟が持っていたのを借りて夢中になって読んでいた。小回りのきくゼロ戦がグラマン戦闘機をバッタバッタと撃ち落とす場面に喝采した。ゼロ戦は世界一優秀な戦闘機なのに、戦争に負けたのは資源がなく物量において劣っていたためだ。ぐやちい!――こんな気持ちで当時の戦記漫画をよんでいた愛国少年は多いのではないか。それで太平洋戦争の知識だけは結構身につけた。しかし日中戦争のことを描いた漫画はまるでなかった。一つだけ覚えているのは、ロボット三等兵というドタバタ漫画だけだ。私は中国からの引揚者にもかかわらず「日中戦争を知らない子供たち」だった。

 戦後教育は日教組などの左翼が偏向教育を行って生徒に自虐史観を植え付けたというのは的外れである。日教組の運動は都市の一部で少し影響があったかもしれないが、日本全体としてはまるで支持されてなかった。私の世代は運動会や入学式・卒業式には粛々と日の丸を掲げ、君が代を歌っていたし、今も地元の学校はそのとおりやっている。中学校で日本は中国で侵略戦争をやっていたなどと教えてくれた先生は1人もいなかった。むしろ戦争の評価が定まらず(戦前からの教師も多かった)話を避けていたような雰囲気があった。私の世代は小・中学校のころ第2次大戦の知識を得たのは『少年マガジン』や『少年サンデー』などの漫画雑誌からだった。

 私と同世代の人間は、いまや社会の中核になっている人が多い。その一番の代表である安倍首相をはじめ戦後世代の政治家が、加害者としての日中戦争や朝鮮半島の植民地支配について無知なのを憂慮する。彼らの言動から推し量るとおそらく昔の少年雑誌で得た知識程度しかないのだろう。タカ派の中曽根元首相のほうが、主計将校とはいえ戦争の実相を知っているだけにまだ信頼がおけた。安倍さんはタカ派どころか無知派なのだと思う。

 国民が知らないのだから、そのような首相を選んでいるのは今の民主制度では整合している。しかし責任ある政治家がよまい言を繰り返すたびに日本の信用を落とし、中・韓はおろか「同盟国」アメリカまで敵に回しているのを国民は気づくべきだ。堺屋太一氏が、日本は周囲の5カ国と深刻な問題を抱えている。そんな国は世界中でイスラエルと日本だけだと言っているがそのとおりだ。
P1030290 70年前少年達は渡満道路から内原駅へ
Photo_3 現在の渡満道路
 わずか30分ほどで内原訓練所跡巡りを終えた。帰りのタクシーの中で運転手さんは「今の若い子もこんな所にほうりこんで鍛えれば、悪いことはせんだろうにね」とつぶやいた。私は半分同意しつつも、むしろ安倍首相や石原都知事なんかを、こんな所にほうりこんで性根を叩き直せばちっとは言葉に気をつけるかな、などと思いながら内原を後にした。

当時の写真は 全国拓友協議会編「満蒙開拓青少年義勇軍写真集」より

父の15年戦争13.帰郷ー満州はええとこやぞ

2007年3月7日JANJANに掲載された記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなどしております。
 
満蒙開拓青少年義勇隊員だった父は昭和17年に帰省した。その際、後輩たちに「義勇軍」宣伝のための講演をした。謝礼は一回につき5円でかなりの小遣い稼ぎになり、講演では政府の宣伝どおりの夢のある話をした。実際、現地での生活は過酷だった。しかし父はジャングルを切り進むように生きぬいた。

満州帰り
 父は昭和13年、満14歳で中国大陸に渡ってから昭和28年に帰還するまで、2回淡路島に帰省している。最初は昭和15年、蓄膿症が悪化し手術のため帰郷した。2度目は昭和17年の師走に戻った。

 「満20歳になると徴兵で兵隊にとられ、いつ死ぬか分からん。戦死すればもう故郷に帰ることができん。それで肉親や友達と最後の別れをするため帰った」という。
 戦前の徴兵制度では、男は軍隊に入るのは当然の義務であり、健康な肉体と精神を持つものは拒否することはできなかった。父は軍隊や戦争の話をするときは、枕ことばのように「わしは徴兵検査では甲種合格だった」と必ず付けた。甲種、第一乙種、第二乙種、丙種とここまでが合格で丁種になると兵役不適格になる。当時の成人男子にとって全体の1~2割の甲種合格というのはかなりのステイタスがあったようだ。素っ裸で軍医の前に立ち、前から後ろから恥ずかしい部分をさらけだし、肉体の頑健さを検査される。甲種合格者は戦争マシンとして最高のお墨付きを国家から与えられた。
P1030241_2

昭和16年1月22日発行 内閣情報局編集 写真週報より

P1030247_2 昭和17年12月、亀岡八幡宮にて(後列左端・郷敏樹、前で座っているのが前川三二氏)
同級生
 
昨年父がなくなって49日も過ぎたころ、父の同級生で近くに住む、前川三二氏に会った。前川さんは私の顔を見るなり、「郷さんはええとこに行ったゆうな」と切り出した。私は一瞬、訝(いぶか)ったが続けて「わしも、もうすぐええとこにいくんじゃ」とにこにこ笑いながら言われたので、そうかおやじは「ええとこ」に逝ったのだと納得し、それまでのさびしい気持ちが一度に晴れていった。
 前川さんにそのころ父と一緒に写した写真のことを尋ねると「これは郷さんが昭和17年12月の暮れに満州から帰ってきた時、同級生で歓迎会を料理屋の『きらく』でした後、八幡(はちまん)さんの忠魂碑の前でとった記念写真だ。わしは翌年の18年に徴兵検査を受け兵営に入ったのでよく覚えている」と教えてくれた。満州帰りの防寒服を身にまとった20歳前の若々しい父と友人たちが写っている。
現地報告会
 帰省する前、満州の「青年党」の幹部が「田舎に帰るのなら、後輩たちに躍進している満州の宣伝をしてこい。手配はこちらでするから」と、父は言われたという。
 「淡路島に帰って正月の松の内が過ぎたころ、地元の小学校や青年学校からぜひ満州の話を後輩たちにしてほしいと講演を依頼された。そこで一緒に戻っていた西淡(現南あわじ市)出身の大住(おおすみ)君と一緒に各地の学校をまわった」。1回の講演で5円の謝礼をもらったという。「当時の金で酒屋の丁稚や見習い職工の月給ぐらいだが、大住と2人で三原郡の(現南あわじ市)の学校をあっちこっち回ったのでよい小遣い稼ぎになった」。金儲けをした話になると、とたんに父はうれしそうな顔をする。
 昭和18年頃になると、日本には太平洋戦争開戦時の「勝った勝った」のムードはなくなっていた。ミッドウェー沖海戦から坂道を転げ落ちるように敗北を重ねていた。
「内地に帰ってみると奇妙に静かな雰囲気だった。当時は報道規制が厳しく、日本が負けているなんて誰も言わなかったが、日本海は敵潜水艦が出没し味方の輸送船が次々沈められていた。いくら大本営が嘘の発表をしても戦死者が増えていくと、国民の間になんとなく不安な雰囲気が出てくる」
 そのころ伯母(父の姉)の夫は海軍の輸送船乗りだったが、日本海でアメリカの潜水艦に沈められ、2人の子供を残して戦死している。日赤の従軍看護婦だった母は昭和19年2月、関釜連絡船で大陸に渡ったが、その時に敵潜水艦に追跡され「一晩中救命胴衣をつけたまま、生きた心地がしなくて寝られなかった」と述べている。父の話では「そのころの満州は治安がよく安定していた。70万の関東軍の精鋭が健在で、内地では日本はだめになっても満州に行けば大丈夫、という幻想を持つ人が多かったようだ」という。
P1030251_2 「ある開拓義勇軍の記録 ああ清渓」より
 後輩の小学生や青年学校の生徒の前で、父はどんなことをしゃべったのだろうか。「広漠とした原野に広がる地平線というものをはじめてみた。沈む夕日の大きなこと。きれいやぞ~。ジャガイモ畑が、端から端まで1日中歩いても終わりがないくらい広がっている。とにかく満州はひろて、ええとこじゃ。土地も肥えて肥料がなくても作物はなんぼでもできる。おまえらも来いよ!一緒にやらんか!――てなことをしゃべった」。父は英雄気取りで、後輩たちに熱弁を奮ったようだ。父の友人の今口氏によると「畑の端から端まで歩いて1日中かかるというのはおおげさだが、内地とはスケールがかなり違うのは間違いない」という。

模範義勇隊員 菅野正男
P1030245_2 
 「土と戦ふ」という昭和15年に文部省の推薦図書となった本がある。これを書いたのは当時満鉄哈川訓練所の訓練生であった菅野正男である。彼は大正9年、岩手県江刺郡福岡村の農家の長男に生まれ、昭和13年2月に19歳で第一次の開拓義勇軍に応募して渡満。嫩江(ノンジャン)大訓練所で1年基礎課程を終えた後、竜江省の満鉄、哈川訓練所に移り、ここで発表した嫩江訓練所での体験記「土と戦ふ」が農民文学有馬賞をうけ一躍世間に注目された。
 「父の15年戦争(9)嫩江大訓練所」で書いたように、第一次満蒙開拓青少年義勇軍の応募は多数あり順調に計画はスタートした。しかし厳しい検閲にもかかわらず、現地での過酷な訓練状況が徐々に内地に伝わると、送り出す親たちに動揺が広がり、二次以降は希望者が極端に少なくなった。そこで訓練所本部や政府・拓務省は、第一次の隊員の中から模範的で優秀な青年を選び、帰省を利用して内地に帰り、後輩たちに宣伝をする現地報告隊を組織した。
 私の父より4歳年上で、ほぼ同じ時期に同じ場所で開拓義勇隊員として過ごした菅野正男も昭和14年、現地報告隊として故郷岩手県下の青年学校で講演会を行っている。次にその時の講演記録文を一部引用する。

 昭和維新を実践するもの 菅野正男
 私は義勇軍最初の現地報告で帰ったが、現地報告よりも内地に帰った感想を主として諸君にうったえたい。
 私は長男であるから、義勇軍を志願しても、父が許さなかった。しかし百姓として生きる信念の私には、大陸の土に対する愛着と憧憬は深かった。私は三年たったら帰って来ると父を騙し渡満した。義勇軍は忠義となる第一歩である。国の為になることであり将来安定した一家をつくるのであるから、父を一時は騙しても結局は孝行にもなる。日本は忠孝一本の国である、平重盛の悩み(筆者注:忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず)は神経衰弱の結果と私は思う(笑声)。日本は膨張した、大陸という着物を着なければならぬ。しかるに加藤完治先生が頑張っても満州に骨を埋める覚悟のものは僅かに義勇軍三万人、開拓民二万人漸く五万人である。満州にいるものは内地人の進出の少ないことを悲しんでいる。諸君よく考えてみよう。日本は非常時ではない、危機なのだ。ソ満国境黒竜江の向こうには三十万のソ連開拓民が居る。ノモンハンの協定で安心してはならぬ。
今度内地に帰ったら景気がよいのに驚くと共に悲しくなった。ある海岸の村に行ったら、生徒が一晩烏賊を釣ると校長さんの一月分の月給より多く金が取れるとて有頂天になっていた。故に義勇軍に対して理解が少ない。中には反対する馬鹿者もある。それは国賊である。
義勇軍は宣伝募集されて行くものではない。満州で銃と鍬を執る者が無くして一旦緩急あらば誰が満州を守るか、日本の国防は満州を守ることである。―中略―
人生の意義は長く生きることではない。二十年でもいい、国家の為に捧げる男らしい仕事をすることだ。そして永劫の人生のため子孫のため、時代の捨石となる信念に生きることだ。いずれ満州の開拓はやらねばならぬ。行かねばならぬ。やむにやまれぬ大和魂の発露として諸君の沢山来ることを念願してやまぬ。――昭和17年満州移住協会発行「開拓地の春」より

 20歳の青年の切々たる憂国の情が伝わってくる演説である。おそらく彼の心情は「2.26事件」を引き起こした青年将校や満州事変を画策した関東軍の少壮参謀たちに通じるものがあるのだろう。人間として最低限の生活環境を保障されないまま、開拓訓練生として死に物狂いの1年を過ごしたにもかかわらず、菅野正男は国家に対する忠誠心に衰えがなかった。昭和の軍国主義教育が血肉になっていた。
 それに比べ不良隊員の父は、講演会を引き受ける動機もいささか不純である(5円の謝礼が魅力だった)。現地の開拓訓練もあまりの過酷さにやる気がなくなり「2年目ぐらいから好き勝手なことをしていた」という父には幸い、菅野正男の国家と一体となった狂気の信念がなかったようだ。父もその世代の青少年同様、人並み以上の愛国心を持っていた。興味本位とはいえ国策の満蒙開拓に進んで応募し、現地では橋本欣五郎の国家主義運動にも共鳴した。
 とはいえ、父は国家より自分の命を最優先した。開拓義勇隊員は原則として衣食住は完全に保障されているはずだった、しかしこれまで見てきたように、現地での訓練は最低限の生活さえできないひどい状況だった。そんな状態で生きるには、自分勝手にジャングルを切り進むしかなかった。父は生き抜いた。
 満蒙開拓青少年義勇軍の模範隊員、菅野正男は昭和16年5月、過労が原因で結核になり満州の土となった。国に殉じた22歳の生涯であった。

父の15年戦争12.全体主義者橋本欣五郎

2006年10月16日JANJANに掲載された記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなど行っております。

父は若いころ、国粋主義に心酔していて橋本欣五郎の大日本青年党に入っていたという。橋本はどのような人生を歩んだのか。

わしは右翼だった
 「わしは若いころは国粋主義に心酔していて橋本欣五郎の大日本青年党(大日本赤誠会)に入っていた」
 始めて聞く話に私はちょっとショックを受けた。しかしそう言えば、昭和30年代半ばから40年代ごろまでは産経新聞を愛読していたし、それらしき交友関係もあった。父のつき合いは間口が広く来る人拒まずで、私が子供の頃ろくでもない人間や、怪しげな人たちがわが家に出入りしていた。
思い出すままに挙げると、よく来たのが近所の酔っ払い。闘鶏をする、バクチ打ちも「鶏つぶしてくれ」と、ひねたシャモを抱えてやって来た。品物を仕入れても最後は必ず踏み倒す男とも一緒に商売をしたことがある。自称鹿児島県の山持ち(山林地主)の息子と言う東京弁を使うヤマ師もチョコチョコ見かけた。詐欺師、ペテン師、チンピラ、ヤクザ、裁判所の差押人……公安刑事も来た。
 母は父のことを「誰でも彼でもええ人じゃ、ええ人じゃとすぐ信用する」といつも嘆いていた。けっしてお人よしというわけではないのだが、人から頼みごとをされると断れない。一杯やりながら下から持ち上げられると、ころっとだまされる。こんな人間を家族に持つと間違いなく貧乏をします。
閑話休題、そんな人間関係の中で興津ケンペイという人がいた。通称ケンペイ、ケンペイと呼ばれていたので、私は長い間ケンペイが本名だと思っていた。実は戦前陸軍の憲兵隊にいたのでそう呼ばれるようになったという。
興津さんは子供だった私にも敬語を使う礼儀正しい堅気のおじさんで、満州事変の立役者、石原莞爾将軍の信奉者だった。父は別に石原将軍の思想や日蓮宗に共鳴していたわけでもなかったが、「樋口のお伯父さん(郷敏樹の母の兄)は石原莞爾と陸軍大学のとき住んでいた官舎がちかくで仲が良かった」と言っていたので、興津さんとは話が合ったのだろう。その他に榎本さんという物静かな、もと右翼だという人もたまに話をしにきていた。
 戦前陸軍中将であった大伯父樋口季一郎は橋本が国家を改造する目的で陸軍参謀本部の少壮将校を中心に設立した桜会の初期メンバーであり、ハルピン特務機関長や参謀本部第二部長、北方軍軍司令官の経歴がある対ソ戦のエキスパートでもあったが、父・大伯父ともに橋本とは不思議な縁でつながっている。

橋本欣五郎と大日本青年党
Memo0097 明治37年熊本陸軍地方幼年学校時代 田々宮英太郎著「橋本欣五郎一代」より
 橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)は明治23年(1890年)岡山県岡山市に生まれ、7歳の時福岡県門司市に引っ越しをする。熊本幼年学校を経て明治44年(1911年)陸軍士官学校(第23期生)を卒業後、久留米の野戦砲兵第24連隊付少尉に任官される。大正6年(1917年)陸士卒の一割程度しか入れない難関の陸軍大学に入学をして、語学はフランス語・ロシア語を学んだ。この年は世界を震撼させたロシア革命が起こった年であり、軍事・政治・思想の探究心に燃える橋本に大きな影響を与えたと思われる。
 陸大を卒業後、大正10年(1921年)参謀本部第二部ロシア班に勤務をする。その後ハルピン特務機関勤務を経て大正12年(1923年)満州里(マンチュリ)特務機関長となる。
 昭和2年(1927年)トルコ大使館付武官として勤務するが、そのころトルコでは封建的なオスマン・トルコ帝国が瓦解し、民族主義的な国民革命が達成されつつあった。それを主導したのがトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ(アタチュルク)である。橋本は赴任早々目の当たりにした革命の息吹に感激し、ケマルの熱烈な心酔者となる。
 その後スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーが昭和4年(1929年)2月11日コンスタンチノープル(イスタンブール)に追放されてきたが、まもなくマルマラ海のプリンキボ島に移る。トロツキーはここで4年間過ごすのだが、橋本はその動静を探るため大使館の根本外務書記生をプリンキボ島に常駐させていた。橋本は対ソ情報収集やロシア革命研究の過程で、レーニンと共にトロツキーの革命思想・戦術にも強い影響を受けたようだ。
 橋本は昭和5年(1930年)帰国すると、参謀本部第二部ロシア班長となる。同年10月桜会を結成し、クーデターも視野に入れ、一路国家革新運動にまい進し始める。昭和6年(1931年)「三月事件」を企図するが未遂に終わり9月、満州事変にも暗躍する。10月17日、「十月事件」で検挙されるが、重謹慎20日と罪はほとんど問われず姫路野戦砲兵第10連隊付となる。
 その後橋本は関東軍に転属、ハイラル特務機関長を経て静岡県三島野戦重砲兵第二連隊長となった。昭和11年(1936年)2・26事件が勃発するや、急遽上京した橋本は事態の収拾に奔走するが、決起した将校達は逆賊となり、不本意な橋本は予備役となる。陸軍内の皇道派は粛清され、橋本は軍務を離れたことから、クーデターによる政権奪取をあきらめ、民間からの草の根的全体主義運動を起こそうとした。
 同年10月17日、大日本青年党を創立して統領と称し、「橋本欣五郎宣言」を発表する。橋本は旧態の古臭い右翼のイメージを一新するため、明治神宮での結党式にはモダンな紺のサージの制服を着て、天皇帰一をシンボル化した赤地に白丸を射抜いた党旗「白日赤誠旗」を掲げ臨んだ。
Memo0101 大日本青年党の党旗「白日赤誠旗」。橋本欣五郎著「革新の必然性」より

宣言 世界は今や、唯物的自由主義制度の行詰りにより、茲に一大更新を必要とする歴史的転換期に直面せり。然るに世界各国は、何れも旧国家生活姿態より未だ完全に更生し得ず、其の実力相伯仲し、嶄然他に光被するに足る体制を有する国家なし。
此時代に於て一歩を先んじ、優秀なる国家体制を確立するものは、正に世界に光被するを得べし。惟うに八紘一宇の顕現を国是とする我国は、即時基本然の発揮に依り、国民の全能力を挙げ
天皇に帰一し奉り、物心一如の飛躍的国家体制を確立し、光輝ある世界の道義的指導者たるを要す。右宣言す。――
昭和15年12月31日発行、橋本欣五郎著「革新の必然性」より

 橋本は対外的には親独伊、英米撃滅論者で満州領有など大陸に積極侵出することを主張し、「支那事変」解決のため英国の援蒋ルートを遮断し南進を唱えた。また国内政治では党の使命として、財閥と結託し腐敗した政党政治を否定し、国民総動員を目標とする一国一党の実現を目指した。
 同じころドイツ第三帝国ではヒトラーにより国家と党の統一がなされ、ナチス(国家社会主義労働者党)はドイツ唯一の政党となっていた。ベルサイユ体制の打破を掲げ、第一次大戦での失地回復を目指すヒトラーは世界から驚異の目で見られていた。
 昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋での銃声で戦火が瞬く間に中国全土に広がった。8月、橋本にも召集令状がきた。党活動は著についたばかりではあったが、予備役の建川美次中将に統領代理をたのみ、小倉の野戦重砲兵第十三連隊を率いて出征をする。橋本はそれから1年7ヶ月にわたって中国大陸の戦場で指揮をとった。
Memo0098 昭和14年内地に帰還する橋本欣五郎大佐。橋本欣五郎著「革新の必然性」より
 
昭和14年(1939年)3月、橋本は内地に帰還し、再び党務に復帰し党勢の拡大に乗り出す。同年11月19日、大日本青年党の第三回党大会は東京日比谷公会堂で開かれたが、そこでの組織方針は田々宮英太郎著『橋本欣五郎一代』によると、議会政治とは一線を画し、組織力を強化し党員を拡大するとして、その対象者は「党の主体勢力は青年勤労者層に在り、依って之を組織の第一対象者とす」とある。
 当時日本は米英に対抗するためナチス・ドイツとファッショ・イタリアに接近を図り、ヒトラーユーゲント(ナチスの青年組織)などが日本に交流のためよく訪れていた。
 ヒトラーユーゲントの代表団は、選ばれた長身・金髪・碧眼の若者達で、見事に統率された集団行動やきびきびした態度振る舞いで日本の青少年たちを魅了した。私は昭和一桁うまれの知人が昭和15年(1940年)ごろ、神戸を訪れたヒトラーユーゲントの代表団を間近に見て、あこがれたことを聞いたことがある。世界は新体制を求めるドイツ・イタリア・日本などで全体主義思想が跳梁跋扈していた。
 橋本は新党の名前をトルコの「青年トルコ党」からヒントを得て大日本青年党と名づけ、組織は青年を中核にした大衆動員で成功したドイツの突撃隊やナチスを参考にしたようだ。
Memo0099 昭和15年10月大日本青年党第四回大会で演説する橋本統領。橋本欣五郎著「革新の必然性」より
Memo0100昭和15年10月大日本青年党第四回大会で行進する幹部達。橋本欣五郎著「革新の必然性」より
 
大日本青年党の勢力は前掲の「橋本欣五郎一代」によると結成時7名から第一回党大会参加者600名、第二回党大会参加者は1000名になり、橋本が帰還してから初めて開かれた第三回党大会では全国から2千数百名の代表が参加し躍進した。
 昭和15年(1940年)元旦に書かれた「日本の目標」と題された橋本の文章には、紀元二千六百年記念事業として10万人の党員獲得を期するとしている。しかし党員対象の若者は兵隊に取られて内地では少なくなっていた。そこで橋本はかつて特務機関員として勤めた古巣である満州の開拓青少年義勇軍に目をつけた。
支那は熟れた肉
 
父はどんなきっかけで大日本青年党に入ったのだろうか。
「満鉄二井訓練所のときだったか南学田(みなみ・がくでん)開拓団に移行した頃だったか、はっきりした時期は忘れてしまったが……昭和15年か16年ごろ勧誘に来た。わしは義勇軍訓練所で加藤完治の農本的国粋主義を叩き込まれたが開拓団で農業を余りやる気が無かった。それで何か面白いことが無いかと思っていたところ青年党のオルグが来た」
 満州にいた活動的な党員は5・15事件や2・26事件の残党が多かったという。
 「2・26事件に連座して処刑された、西田税の部下だった、トクマル曹長と呼ばれる男と一緒に行動をしていたことがある」
 彼らは、満蒙は日本の生命線だとよく言っていたという。
「満州は日本が切り取って当然だといっていた。その根拠は日清・日露の戦いで満州には10万の英霊が眠っているというものだ。連中は、支那は熟れた肉で西洋列強に切り売りされる前に獲らねばならん。それにはまず北支を征するとも言っていた」
天皇制社会主義
 
大日本青年党は講演会や演説会をひらいて組織を拡大していたという。
「北の蒙古の町ハイラルから南の港湾都市大連まで橋本大佐の満州縦断講演旅行があったが、わしは一部、大佐の乗る馬の手綱もちとして同行したことがある。各会場は盛況で各種農業団体からの参加者が多く、いろいろな右翼団体がひしめいていた」
 当時の満州は恐慌によって職をなくした農民、労働者、商工業者など、さまざまな人達が一旗上げようとやってきた。
 「自由主義・資本主義は一部の資本家だけが肥太るので反対した。三井・三菱などの財閥、既成政党は敵だった。天皇をいただいた社会主義が良いといっていた。当時社会主義やファシズムはそんなに悪いイメージは無かった。むしろ社会主義の平等は良い。しかしそれだけだとみんなが勝手なことをする。それで天皇が上で重石になるという考え方だ。血統も何千年も続いている由緒あるものだし、とにかくこんなええもん(天皇制)はほかにない(万邦無比)。世界中に広めようと無条件で信じていた」
 橋本の論説には社会主義や共産主義を肯定するような考え方はない。しかし対ソ戦の専門家としてロシア革命の研究をしていた橋本には、貧困や抑圧が社会主義や共産主義思想に人々を接近させること、その哲学に若者をひきつける魅力があることが分かっていた。そこで、社会主義の肯定的イメージを取り込むのに天皇をいただいた社会主義=日本の全体主義=天皇帰一と一般党員に説明していたのではないだろうか。
 天皇帰一、八紘一宇これが大日本青年党の根本だったという。橋本は英米の個人主義、自由主義、資本主義は金儲け第一主義で腐敗した、時代に遅れた制度でファシズムに取って代わられるとみていた。現実にニューヨークの証券取引所に端を発する大恐慌は日本にも昭和恐慌を招き寄せ、庶民は塗炭の苦しみを味わっている。仕事をなくして満州にやってきた人たちには彼の主張は心に響いた。
独伊と結び英国を撃攘せよ
 
橋本は南京攻略戦のとき揚子江の上流に逃げる何万人もの中国敗残兵を乗せた船を砲撃して沈めたが、そのとき付近にいた英国軍艦レディーバード号も砲撃して問題になったことがある。橋本は激烈な反英主義者で、トルコ大使館付武官の経歴から大英帝国が中近東で、インドで、世界でいかに勝手気ままに振舞ってきたか良く知っていた。前掲の「革新の必然性」には次のような文章が載っている。

当面の問題としても支那事変が容易に片付かないのは、端的にいえば、英国が蒋介石の尻押しをしているからだ。ロシアの尻押しなどは高の知れたものだ。現実に、具体的に抗日政権を助け、仏ソ米を誘い入れて、対日包囲網を展開しつつあるのは英国だ。
支那事変解決の第一義、東亜新秩序の要諦は極東から英国勢力を撃攘することにある。こんな自明の理も知らず。何の外交があり得るか。「革新の必然性より」

 昭和15年(1940年)9月27日、第二次近衛内閣は日独伊三国同盟を結ぶ。続いて10月27日、大政翼賛会の発会式が行われ、日本の政党政治に終わりを告げた。橋本は三国同盟締結の前「仁義道」と題した文章の中で次のように述べている。

今後の世界は、英米仏ソを根幹とする自由主義的民主主義国家群と日独伊を枢軸とする全体主義国家主義的国家群との二大陣営に分かれるのは不可避の現象であり、既に、その対立は尖鋭な事実として進行中だ。―中略― 独伊の結盟は、日本ではいわゆる仁義に基いている。ヒットラーとムッソリーニは口の先や紙上の約束で共同しているのではない。男と男との仁義によって堅く誓い合っているのだ。
若し独伊のどちらかが仁義外れをやれば英仏蘇連衡の手で独も伊も共に打ちのめされることは明白だ。この両者は嫌應なしに仁義を守って一団となり積極的な体當りの戦法に出るしか途が無い。旧秩序に従うか、新秩序を造り出すか、衰亡か発展か、二途択一の絶対境に立っている。
日本はすでに防共協定の名によってこの仁義仲間に入った。入った以上は仁義を徹底するのが男の道であり、男の生きる道だ。いまさら尻込みする手は無い。日独伊協定は防共に限るとか何とかしみったれたことを言うな。結盟は速やかに政治、経済、文化、軍事の全面にわたり最高度に強化さるべきだ。「革新の必然性」より

大政翼賛会
 橋本の言説は率直で分かりやすい。ヤクザの縄張り争いにも似た列強の抗争、合従連衡はその後の歴史の行方を示している。日本はドイツの電撃的な西ヨーロッパ制覇に呼応するように南進をし、英仏蘭の権益を侵し始める。国内では第二次近衛内閣の発足で新体制運動が進み、政党は「バスに乗り遅れるな」と次々解散をする。
 昭和15年(1940年)11月3日、橋本は大日本青年党を「思想団体」大日本赤誠会と改変した。大政翼賛会では政治結社の並立を禁止(一国一党)されたからである。橋本は大政翼賛会発会と同時に常任総務となり政治的地歩を固めた。しかし翼賛会が推進した金融資本の支配制限や経済に対する官僚統制の強化は財界が反発してアカといわれ、平沼騏一郎や柳川平助らの観念右翼や皇道派軍人からは幕府とののしられ、危険視された橋本は有馬頼寧や中野正剛らとともに翼賛会を追われる羽目になる。
 軍部をも抑えうる一国一党を目指す、橋本の理想に近づいたかに見える大政翼賛会も政党、観念右翼、財界、官僚らの思惑違いから、内紛が始まり綱領や規約さえ出来ない有様だった。大政翼賛会は橋本の目指すナチス流の一党独裁体制には程遠かった。現人神をいただく天皇制とは大きな矛盾があった。
Memo0096 昭和17年5月15日大日本赤誠会発行戦時国民講座(上巻)より 
 昭和16年(1941年)12月8日、大日本帝国は清水の舞台から飛び降りた。緒戦の大勝利もつかの間、帝国は坂道を転げ落ちてゆく。橋本は開戦を知るや、大日本赤誠会の本部会議を開き次のように述べる。
 「開戦については意見もあるが、すでに戦争が始まった以上、わが会は全力を挙げて聖戦完遂に努力する」。反英米主義者の橋本にしても内心、2大強国を相手にしての開戦は反対であったと思われる。しかし賽は投げられた。
 昭和17年(1942年)4月30日、第21回総選挙(翼賛選挙)で橋本は福岡4区でトップ当選を果たした後、翼賛政治会総務となった。その後代議士会副会長になり昭和19年(1944年)8月、翼賛壮年団本部長に就任するが、そのころになると「大東亜戦争」はもはや聖戦完遂どころか軍事的な敗北が決定的になっていた。同年9月4日、橋本が手塩にかけて育てた大日本赤誠会(大日本青年党)は解散する。主体となる青年はほとんど兵隊に取られ「聖戦」に飲み込まれてしまったのだ。
A級戦犯
 昭和20年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を迎える。戦後橋本はA級戦犯として訴追され、東京裁判では無期禁固刑を受ける。
Memo0104 東京裁判での記念撮影。橋本欣五郎前列右から3人目。昭和23年7月20日発行東京裁判写真記録より
 昭和30年(1955年)9月17日、10年の獄中生活を終えて巣鴨拘置所を仮出所した橋本は意気盛んで、翌年アメリカからの「真の独立」を訴えて、参議院選挙全国区に立候補するがあえなく落選。
 その後国立第一病院に入院する。昭和の始めより資本主義・自由主義・民主主義打倒を掲げ、革新右翼の立場で天皇帰一、全体主義運動を先導した、反英米主義者には、「サンフランシスコ体制」で対米従属を選択した戦後日本に活躍の場は無かった。橋本欣五郎は昭和32年(1957年)6月29日、肺がんで死去した。

父の15年戦争11.叛乱

2006年9月11日JANJANに掲載され記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなどしております。

 満鉄の鉄道自警村・二井訓練所に移行しても、ひどい住環境や食事は改善されなかったという。冬は風呂に入れず、夏場は伝染病・風土病などもよく発生したという。矛先は幹部に向かい、少年達の怒りは頂点に達した。

義勇軍全滅の危機
 酷寒の冬が過ぎ嫩江(ノンジャン)大訓練所にも春が来た。第一次満蒙開拓青少年義勇軍第二十中隊(和気中隊、約300人)は大訓練所から小訓練所に移行するため、昭和14年4月26日、北安省北安県二井(にせい)満鉄二井訓練所に先遣隊が出発し、本隊受け入れのための準備作業に当たった。
小訓練所は経営が満拓(満洲拓殖公社)と満鉄(南満洲鉄道株式会社)の二つの系統に分かれていた。二井訓練所は満鉄沿線にあり鉄道を匪賊や抗日ゲリラの襲撃から守る役割も担っていた。
義勇軍訓練所は宿舎や倉庫の建設から井戸掘りまでほとんど訓練生自身で営造したのが多かったので、建設技術が未熟でその指導もいい加減だったため暖房が効かないなどの欠陥が多かった。また当初拓務省は計画の実行を急いだため資材・物資の輸送調達などは準備不足もあってかなりの遅れがあり、訓練生に苦難を強いることになった。
Memo0116 17歳ごろの父・郷敏樹
1222 宿舎の建設、トーピーズ(泥と草を固めたレンガ)を積んで壁を作る 全国拓友協議会編満蒙開拓青少年義勇軍写真集より
1222_1 

出来上がった宿舎、丸い筒はオンドル(朝鮮式の床暖房)の煙突 全国拓友協議会編満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 内原の訓練所本部で食事・栄養面での総責任者であった酒井章平は、創設時の「義勇軍」の労苦を次のように述べている。

 昭和13年満蒙開拓青少年義勇軍の結成が急であったため、現地の準備が充分でない中に渡満入植があわただしく行われた。随って、建築は勿論栄養方面も憂慮すべき状態で非難続出のありさまであった。
 そこで、私は数人の栄養指導員を引率して現地に乗り込み、つぶさに栄養状況を観察したが、こんな状態では来春迄には病人が続出するからと急遽新京に帰り、満拓に具申して五千箱の魚類の缶詰を調へて五ヶ所の訓練所に発送し、再び巡視した。改善が著しくはかどったため各方面からは非常に感謝されて得々として内原に帰って来た。所が加藤所長に出会って挨拶する出会頭に、いきなり叱られた。
 曰く「どうせ狭い日本に詰め込んでおけば絶滅する日本人だ。満洲に出たために義勇軍が死ぬと云うなら全滅したっていいじゃないか。僕はそう覚悟している。然るに何だ。こんな食事では病気になるとか、死んで仕舞うとかワイワイ云ってただでさえ訓練生がびくびくしている所にもって行って君等がそんなことを云いふらそうものなら益々混乱して仕舞う」~中略~義勇軍が全滅しても止むを得ないと云う最悪の場合迄覚悟して、初めて栄養改善も冷静に、急所をついてスラスラ出来るのである。全滅の覚悟を以って臨む事の重要なことは義勇軍の場合のみではない。決戦下日本人の栄養問題を処理するにもこの腹が要る─―(昭和19年4月15日、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所発行、酒井章平著「日本農村と栄養」より)

 大戦末期の食糧不足が深刻な状態のときに書かれたこの文章を読んでいると、戦前の神がかった精神主義と秘密主義の典型的な指導者像が浮かび上がってくる。酒井は加藤所長の崇拝者で彼をかばっているのだが、この時義勇軍を救ったのは「五千箱の魚類の缶詰」で間違いは無い。いくら腹の据わった指導をしても「腹が減っては戦が出来ぬ」。
この本が発行された1年4カ月後には、彼らのハラの据わった指導もむなしく「義勇軍」は全滅し、大日本帝国もまた見事に滅亡した。

襲撃
 
父によると満鉄の鉄道自警村・二井訓練所に移行しても、防寒具を着て寝るようなひどい住環境や量が絶対的に足りない食事の状況はたいして改善されなかったという。また冬季は風呂にまったく入れず、衛生状態も悪く、夏場には伝染病・風土病などもよく発生したという。
 「最初の冬が過ぎたころから中隊内に不穏な空気が流れはじめた。幹部たちが食料費をネコババしているので我々の分が少ない。その金で街へいって女郎買いをしている。某幹部は満人(中国人)の妾を持っているらしいなど、さまざまなスキャンダルが噂されていた」

 自分達だけいい目をしやがって!矛先は幹部に向かっていった。少年達の怒りは極限に達していた。
「誰ともなく幹部に天誅を加えようということになり、ある晩有志で幹部宿舎にそっと忍び込んだ。用意していた手榴弾を数発、寝静まっている幹部の部屋に投げ込んだ」 
 大きな爆発音がするやいなやそのまま逃げ帰り、そのあと幹部たちはどうなったのかは記憶が定かではないという。
「ところが翌朝ドッポ(独立歩兵大隊)が討伐にきた。独歩は1個小隊(60人)ぐらいで攻めてきた。脅かせば言うことを聞くと思ったのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。わしらは反抗をした。銃撃戦になった。わしらは戦争をやると強かった」
 隊員達は軍事教練を1年以上やってきて、戦いには自信を持っていた。年長者で優秀なものは指揮官としても十分能力を発揮したという。
「小梅という、わしより少し年長の隊員がいた。西宮の小学校の校長のむすこで中学校に入っていたがグレて退学になり、義勇軍に放り込まれたと言っていた。彼は頭がよく、計略にたけ、度胸もあって、義侠心も厚く正義感も強い。おまけに指導力もあったので、てきぱきと皆に指示を出し、にわか軍師となった」
 隊員達は年長者の指揮のもと結束して戦った。泣く子も黙る「独歩」を相手に一歩も退かず応戦したという。このとき何人ぐらいが「叛乱」に加わったのか、父の記憶があいまいで判然としない。私は夜、幹部宿舎を襲撃した隊員はそんなに多くはなく、「叛乱」の同調者は数十人ぐらいではなかったかと考えている。
Memo0080 雪中の軍事訓練「ある開拓少年義勇軍の記録 ああ清渓」より

 「弾薬は豊富にあった。軍事訓練で鍛えられ、銃器の扱いにも熟練していたわしらは簡単にやられなかった。戦争は少人数の戦いでも組織的、統一的にやることが肝要だ。守備応戦するときも闇雲に個人プレーで勝手に撃ってはだめだ。『敵』は窓をとくに注視しているので近づいて動きを察知されると集中攻撃をされ、やられる。わしらは射手をあちこちに分散させ、攻守の状況を掌握した指揮官のもとチームプレーで戦った」
 「独歩」は攻めあぐね、とうとう白旗を掲げてやってきて、話し合いをすることになったという。
「ところが交渉していた先輩たちをつれていってしまった。だまされたと知ったわしらは怒ってまた銃撃を始めた。しばらくドンパチやっていたがまた独歩は白旗をかかげてやってきた。話し合いが再びはじまった」
 父たちはこのあとどこかに連れて行かれ取調べを受けたが罰せられることなくすぐ釈放されたという。
「罰しようにも未成年のわしらを処罰する法律が無かった。これが軍隊なら立派な叛乱罪で2.26事件のように銃殺刑になっただろう。しかし義勇軍は公式には開拓訓練生で20歳未満の子供の集団だ」
 この事件で死傷者が出たかどうか父はよく覚えていないという。しかし死傷者が出ていなかったとしても、満州開拓に期待され創設したばかりの義勇軍訓練所で訓練生が待遇の不満から徒党を組んで幹部を襲い、鎮圧に来た独歩と銃撃戦を演ずるという前代未聞の事件は政府関係者に衝撃を与えたようだ。
「このあと日本から国会議員たちが調査にやってきた」
 だが、この事件は日本国民には知らされることなくうやむやになってしまった。またこのころ満州各地の義勇軍訓練所で様々な幹部襲撃事件や隊員同士の抗争、暴力沙汰など不祥事が続出していた。

 上笙一郎(かみ・しょういちろう)著『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、昭和13年春から昭和14年8月までの間に現地訓練所で発生した事故・事件は火災21件、銃器による撃ち合い12件、そこにまで至らぬ不穏行為12件、自殺および未遂6件、無断出所177名、不良対処処分者137名となっている。その中でも最大の不祥事は、昌図特別訓練所で発生した「昌図事件」(※参照)で、死者3名と負傷者10数名を出す大事件であったが、これらは氷山の一角であると思われる。
 というのは訓練所で事件が起きても隊員には緘口令がしかれ、手紙なども中隊本部で検閲されたため、訓練所外部にはほとんど伝わらなかった。また当時国策である青少年による満州開拓移民が始まったばかりで、不祥事が国民に知れることによって、移民熱が冷め、計画が頓挫することを恐れた関東軍が新聞・雑誌などを報道統制して事件を載せないようにしたからである。

※「昌図事件」
 
昌図事件とは昭和14年5月5日から8日にかけ、奉天省昌図県満川村にあった昌図特別訓練所において、運動会の順位争いから発生した後着中隊と先遣中隊の一大抗争事件で、3名の死亡者と10数名の重軽傷者を出した満蒙開拓青少年義勇軍史上最大の不祥事事件である。
 
 始めは鍬の柄をもっての殴り込みから、次第にエスカレートした新旧の中隊員、数百名は、しまいには石投げ、煉瓦投げ、銃撃戦、放火にまで及んだため、訓練所内部で収拾がつかなくなり、日本人将校2名に率いられた興安軍(満州国軍)機関銃隊2個小隊が出動しやっと鎮静した。

 取り調べは昌図県警察・四平街警察・公主嶺憲兵隊の手で行われた。全部で200名以上の隊員が取り調べられ、そのうち起訴されたのは37名で32名が有罪となった。裁判は9月21日から奉天地方院で開始された。内地の内原訓練所から加藤所長が特別弁護人として立ち、拓務大臣など官・財界など一流人名士が署名した減刑嘆願書が提出されたためか、科された刑は懲役4カ月から最大で懲役3年であった。しかしすべての被告が1~4年の執行猶予がつき、早くもその年の12月20日に全員出所することが出来た。

2017年5月
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