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2010年3月

公安刑事4

公安刑事4.

 私が中学生の頃、我が家に一人の公安刑事があいさつにやってきた、春の桜が満開の頃だった。それまで担当だった「岩倉具視公」は転勤になり、新任のあいさつのようだった。中々ハンサムな人で背広をビシット着こなしこれまで来ていた人より、格上の感じがした。その上雰囲気が上品でインテリの風情もあるが、やはり公安刑事という性というか、どことなく押し出しの強さが感じられ入ってきたとたんに私は身構えた。

 中学生にもなると、私は多少の政治的な知識も増え、父の活動が理解できるようになっていた。親がヤクザでも子供は親の味方をする。私はその頃には公安は敵だという認識を持っていたので、カウンターインテリジェンスというか、いつもの監視活動に入った・・・ 続く

公安刑事3

公安刑事3.

 私は盗み聞きをしていたのが、見破られたと思い逃げ出しそうになった。刑事はうちポケットに手をいれ財布をだし真新しい500円札をすばやく嫌がる私の手に無理に(本当です)握らせた。思わぬ展開に驚いた私は家の中にいる母を呼んだ。「もらったよ」とおずおず母に告げると、母は血相を変え「返しなさい」と私に命令した。刑事に向かって「こんなんされたら困るわ。ほんま困るわ」と断固言った。しばらく母と刑事は押し問答をしていた。刑事は「遅いけどお年玉やから・・・マアマア・・・」。母の剣幕に私は罪悪を感じて見守っていたが、刑事の「お年玉」という大儀名分に納得して、500円札をしっかりポケットに入れ秘密の基地へ走り去った。

 この時代、私の小遣いは日に10円玉をもらい駄菓子屋に行った。毎日くれるわけではなく週に2~3回だから1ヶ月で100円ぐらいだ。祖父はお年玉を50円(今の500円銀貨ぐらいの大きさ)くれた。100円札(板垣退助)をくれる伯母は観音様だった。この日、私は「棚からぼた餅」という教訓を胸に刻んだ。

 後年、私が大人になってから母に「岩倉具視公お年玉事件」の事を話すと「あの時はなあ、あとでものを買って返したんよ。一ちゃん(筆者)は500円握って放さんし、もらいっぱないしだとやっぱり具合が悪くて・・・そのうちズルズルとスパイにでも仕立て上げられるかもしれんからなあ・・・」と懐かしそうに笑った。 続く

公安刑事2

公安刑事2.

 私は父に「なに?」と聞いた。父は「刑事よ。つけまわしとんのじゃ」と押し殺した声で答えた。私は不安になり父の大きな手を握り締め「はよ帰ろ」と父を見上げた。父は手を握り返し、小走りに私を引きずるように帰り道を急いだ。

 父の一周期の法事のとき従姉のえっちゃんと昔の話をしていたとき、「そういえばうちの裏にも佐藤はんという共産党の人がおって、ある晩ドタドタと音がして警察や!と大きな声がしたと思ったら、すごい勢いで人が逃げていったことがあったなあ。おっちゃんも昔は大変だったなあ。うふふ・・・」と含み笑いをした。

 我が家に出入りする刑事は5年ぐらいごとに交代していったが、その中で名前は忘れたが岩倉具視公のお札や写真を見ると思い出す人がいる。私が小学校3年生ぐらいだったと記憶しているが、1月中旬のある日、刑事コロンボが着ているようなコートを着てやってきた。いつものように父は涼み台をだして、ふたりならんで話し始めた。

 私は学校から帰って来て「秘密の基地」へ出撃するはずだったが、日ごろ刑事が何でうちに度々くるのか、疑問だったので、予定を変えて、どんな話をしているのか聞いてみようと、二人の前で遊ぶフリをしてうろうろしていた。子供が刑事の監視をするのはおそらく前代未聞だと思うが、その頃忍者に凝っていた私は、父たちから、ちょっとはなれたところで聞き耳をたてていた。気分は「草の者」だった。そうは言っても小学三年生の私は大人たちの話がわかるはずがない。ただ「パーロ」とか「ハチロ」とか言っていたのは憶えている。

一時間ぐらい話して父は家の中に引っ込んだ。刑事はすぐ帰らず私の方に向かって「ボク!」と声をかけた・・・  続く

 

 

ブログの内容について考えています

 この2~3日どんな風に書いていったらよいか思案していました。下の娘が小学校の時ブログをしていたというのでちょっと聞くと、頻繁に更新して新しい記事を書いていかないと、誰も読んでくれなくなるというので、ちょっと焦りました。「父の15年戦争」は平均して2ヶ月に一本しか書いていなかったからです。本格的に記事を書くには資料の読み込みが必要ですし、私の実力ではかなり時間がかかります。

 昨日、本屋で小林よりのりの「昭和天皇論」というマンガを立ち読みしていたのですが、その内容の一部は

ー彼の父親が、マルクス主義者で昭和天皇の物まねが得意で「あっそう」とギャグにしていたほどの反天皇主義者であった。小林よしのりもその影響を受けたが、母親に叱られて立ち直った。また父は共産党に入ろうとしたが、母に共産党なんかに入ると結婚をしないと言われ、やめた。「愛はマルクス主義思想より強い」などと母親を絶賛していたー

 よしりんは「自分は父親から左翼の反骨精神を受け継ぎ母親から尊王精神を受け継いだと」自画自賛(エエトコドリ)していたが、実は父親からナンパの体質を母親から戦前のアナクロを受け継いだのではないのかと私は思いました。それでこの程度のネタでマンガがかけるのなら、私も書けると。とりあえず父の思い出を書いていきます。身内の恥をさらすのは忍びないのですが、ネタは山ほどあります。第1回は「公安刑事」を書きます。

公安刑事1

公安刑事1

 父は中国から引揚げてきてから日本共産党に入党した。いつ頃入ったのか聞いたことはあるが、よく憶えていなかった。引揚げ直後ではないのはたしかだ。日本へ帰還して最初にした事は住む家の確保だった。その準備をしている間、母と私と妹は熊本県の母の実家にお世話になった。

 父が党活動や日中友好運動にのめりこんでいった、1950年代の後半は共産党にとって戦後一番勢力が落ち込んでいた時期だった。こんな時期に中国から引揚げてきた無鉄砲な男が保守的な淡路島で走りまわるのだから、目立たないわけがない。家にはしょっちゅう私服の刑事がやってきた。

 私が公安刑事という存在を知ったのは小学校の1年生か2年生ぐらいのころだった。あるとき父が神戸に用事で行ったとき一緒についていった。帰りが遅くなり最終のバスが家の近くのバス停に止まり父と私は降りた。バス停から家まで約300メートルあり、周りが田んぼの田舎道は真っ暗だった。50メートルぐらい家に向かって歩いたとき、父は振りかえりバス停の方角を見た。ちょっと歩きまた止まった。ほのかに見えるバス亭の所に人影が見えた・・・  続く

ブログのタイトルを変更しました

タイトルをイッセイのブログから 「父の15年戦争 ローシャンのブログ」に変更しました。この方が今までの私のJANJANの記事から来てくれる方に分かりやすいと思ったからです。「ローシャン」とは中国語で「老郷」のことで老は「古くからの親しい友人」という意味です。父(郷敏樹)は人民解放軍ではローシャンと呼ばれていました。中国語の発音ではラオ・シャンですが日本風にローシャンとしました。

父の15年戦争

初めてブログを持ちました。これまでJANJAN(日本インターネット新聞社)に投稿してきました「父の15年戦争」をこのブログで引き継いで連載していきます。トラックバックとかタグとかの意味も分からない初心者なのでブログのやり方について分かっていません。ボチボチやっていきます。

「父の15年戦争」未だ終わらずhttp://www.janjannews.jp/archives/2938968.html

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