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2010年4月

おばあちゃんが孫に伝える戦争体験

この記事は2005年JANJAN(日本インターネット新聞社)に掲載されたものです。

  Photo10_3昭和16年京都日赤時代 本人左端

 私の母は昭和19年2月、赤紙召集で従軍看護婦となり、旧満州帝国の首都新京にあった陸軍病院に勤務しました。終戦後は帰国のため朝鮮半島を南下して、ピョンヤンまで来たところで、ソ連軍の捕虜となり再び中国の延吉まで戻され、その後中国人民解放軍第4野戦軍の看護婦として勤務します。  国共内戦中は中国各地を馬車で揺られながら野戦病院や診療所を転々とし、海南島の見えるところまでいったそうです。中華人民共和国成立後、同軍で働いていた父と結婚して、昭和28年8月帰国しました。

 今年の夏、小学4年の私の次女が、家の人の戦争体験を聞き、感想文を書くという、夏休みの宿題のため、母が戦争体験記を書きました。母の中国での10年間の体験は戦争で負傷し、死に逝く無数の兵士を看護してきた生々しい話や、自身の悲惨な捕虜体験も含まれ、今ではほとんど日本人に知られていない当時の中国人民解放軍での生活も、一部書き記しています。この体験記は今の子供達のみならず、戦争を知らない大人達にこそ知ってほしいと思い記事にしました。

Photo12 兵士を相手に看護実習

●郷美代子(旧姓菊川美代子)経歴

 兵庫県南あわじ市在住 熊本県出身 大正13年生まれ  昭和16年3月熊本県立菊池高等女学校卒業  昭和18年10月京都第一赤十字病院看護婦養成所卒業(戦時のため半年繰り上げ卒業)

Photo11 看護実習の後の食事風景

●郷美代子記 

  昭和19年2月末、日本赤十字社より赤紙(召集令状)が来て、中国の新京(長春)の陸軍病院に勤務することになった。その頃、戦争の激しい時代で「白衣の天使」ともてはやされ、看護婦になって戦地でお国のために働くことは光栄なことであった。女学校を卒業して、日赤の看護婦養成所に入学、3年間勉強をして日赤看護婦となった。  兵隊さんと同様、村人の方々に見送られて出発。下関から朝鮮半島の釜山に向かう途中、敵の潜水艦に狙われ、救命胴衣を着けたまま一睡も出来ず、友軍機の護衛を受け、無事に着いてホットした。  

 家でどんなに困ったこと、つらい事があっても召集令状が来たら断ることは出来ない。命令に従わなかったら非国民として罰せられる。おばあちゃんの先輩で、赤ちゃんが生まれて半年位に、召集を受け、赤ちゃんは家の人に預け前線に行った。お乳が張って痛くてしぼっては捨てた。赤ちゃんのことが思い出され、しばらくは涙が出て仕方なかったそうです。  

 終戦も間近になった頃、前線から送られてくる、伝染病に罹った患者、大砲で片足が無くなった人、たくさんの傷病兵の看護で大変だった。8月9日、ソ連軍も参戦。中国(満州)に戦車が攻めて来るという事で、重症の患者と衛生兵を少しを残し、吉林分院に移動した。新京を出発前、衛生兵には青酸カリ(毒薬)が渡された。重症の患者に呑ませるためのものでした。患者の遺族の方にはなんと説明したでしょう。きっと病死となっていることでしょう。おばあちゃん達にも青酸カリが渡された。「いざ」という時は自殺するようにとの事です。

 それから4~5日経て、終戦になり、青年将校さんは軍刀で自殺した人もあった。日本は勝ちと信じていたからでしょう。おばあちゃんはホットした感じと今後どうなるか、日本に帰れるかなあと不安でした。  9月になって南下することになって、貨物列車にすし詰めにされ平壌(ピョンヤン)まで来るが、列車が動かなくなり、それで下車。中学校跡に病院があり、そこで勤務。ソ連軍が支配していた。乱暴されないように軍帽をかぶり、男の服装をして勤務した。

 11月、東京に帰れるという言葉を信じて貨物列車に乗ったが北上して着いた所は中国の延吉だった。トラックに乗せられ、荒野の中の捕虜収容所に運ばれた。三重の鉄条網がはりめぐらされ、5m間隔でマンドリン銃(自動小銃)を構えた、ソ連兵のきびしい表情があった。少しでも近づいたら銃で撃たれて即死だ。食べ物は大豆を煮たものが10日も続く。また粟飯、コウリャン飯。おかずは無いときが多く、菜っ葉の少し入った汁もの等だった。  元日本兵は捕虜としてソ連の地に連れて行かれ、重労働をさせられ、栄養失調、発疹チフス等になって、大勢の患者が送られて来るけど、薬も点滴注射も足りない。ただ死を待つばかりで、寒さも零下30度。暖房もなく、生ける屍のよう、毎日毎日20名以上の患者さんが死んでいった。

 おばあちゃんも、とうとう発疹チフスになり、2週間高熱にうなされ、食事も食べられず、ただじっと寝ていた。2日間、脳症(死んだみたいに何にも分からない)になって、このまま死ぬかと思われた。ふと気がついたら熱も下がり、生きていたんだと喜びが沸いてきた。

 昭和21年ごろ移動命令が出て、ソ連軍の手から、中国人民解放軍に渡され、患者さんも元気な人は日本に帰された。おじいちゃん(獣医)もおばあちゃんも医療技術者として抑留され、中国の内戦で、中国の患者さんの看護のため、診療所、病院等に勤務した。

 やがて内戦も終わった。中国政府は私達日本人に対して待遇が良かった。時々観劇にも招待してくれ、結婚した時、ささやかな式をしてご馳走してくださり、立派な刺繍をほどこしたお蒲団もプレゼントして祝福してくださった。

 私達に示して下さった誠意を思うと、何と偉大な人情豊かな民族である事と思わずにいられません。最初は文盲(字が読み書きできない)の多い文化程度の低い中国人と軽べつしていたが、彼らから一番大切なもの、中国人も日本人も朝鮮人も皆平等であり、世界中の人種が相手を尊重し、お互いに理解し合い仲良くして行かねばならぬ事と、共に生活してゆく中、肌で教えられた。

 戦争こそはすべての物を破壊します。残酷で、非人間的です。戦争は絶対反対です。昭和28年8月16日、無事、上海より高砂丸にて舞鶴に上陸し、10年振りに帰国しました。

留用された日本人「母の場合」4

苦渋の体験 

 敗戦後の大混乱の中で、これまで支配者だった日本人は立場が逆転したことで呻吟した。この頃、母の部隊の同僚で一人青酸カリで自殺した人がいる。「東北出身で色の白い綺麗な子だった」という。私が子供のとき、母は同僚が自殺したことはしゃべっても、その理由まで教えてくれなかった・・・

 昨年、私が妻と「満州の話」をしていたとき「お母さんの同僚でソ連軍に女を差し出せと言われて、指名された人が自殺したんやてなあ」といった。妻には話していたのだ・・・私は昔年の疑問がやっと解けた。こんな話は満州で従軍看護婦だった人の手記を読むといたるところに出てくるが、部隊長や婦長が必死になって拒否したところは事なきを得ている。人間誰しもわが身が可愛いし、同胞を犠牲にしてでも支配者に取り入ろうとする人間は多いが、極限状況にあっても人間性を失わない人もまたいる。

 両親が朝鮮半島で教師をしていた作家の五木寛之は13歳の時ピョンヤンで敗戦を迎えた。ソ連の支配する北から南へ脱出するとき、善良な人々は傷つき倒れていったが、他人を押しのけ馬車に乗り、人の食料を奪って飢えを満たした自分たちのような人間が生きて日本にたどり着いたと、自身の著作でたびたび述べている。

 そんな苦渋の体験を戦後長い間忘れず、現在も悔悟する五木寛之はまだ救いがあると思うが、早く引揚げてきた、ほとんどの人々はそ知らぬふりをして、戦後をやり過ごしてきたように思う。中国での日本兵の暴虐を、戦後のソ連兵の暴虐を暴く事によって相殺して安心する人も多いが、被害者はなにも癒されない。

 話をNHKの「留用された日本人」に戻すと人民解放軍の看護婦だった証言者の一人は戦後引揚げてきたとき、親戚の人に「おまえ、八路軍(人民解放軍)で強姦されなかったか?」とぶしつけな質問をされた。それが日本の軍隊経験のある男の「常識」だった。私は自分の母親にそこまであけすけ尋ねることはできないが、少し婉曲な聞き方ならできる。母によると手術隊は医師3人、看護婦2人でチームを組んでいた。泊まるときは、医師、看護婦が別々であるとは限らず、またよく農家に宿泊したが、家の人と一緒に寝ることが多かったと言う。戦闘をしている野戦軍の後を追って治療に走っていくので当たり前と言えば当たり前で、ホテルに泊まるようなわけに行かない。むしろ掘っ立て小屋のようなところで雑魚寝をするというほうが多かったのではないだろうか。母にその辺の事情を聞いてみた。八路軍の規律は厳格だったのか?

 

 

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留用された日本人「母の場合」3

混乱の中で

1946年春、満州からソ連軍が去り、入れ替わりに八路軍(東北民主連軍)が進出して延吉収容所を管理した。

――二十一年五月頃、二八部隊へ移動命令が出ました。二八部隊はソ連の手から八路軍の手に移されたように思われます。朝鮮人の幹部の人が管理していました。ある日、突然指名して看護婦を三名出して呉れとのことでしたので、私も驚き、「移動の場合は班員は一緒に移動さして下さい。」と嘆願しました。しかし聞き入れられず、そして明日は五人と言う風に、次々と引き出され、それぞれ病院や部隊へ連れて行かれ、音信不通となりお互いの動静もわからず、第二六六救護班としての行動も終わりを告げたわけです。――日本赤十字社熊本県支部発行「死線を越えて 救護看護婦の手記」より

 母と同じ救護班の婦長が書いた手記によると従軍看護婦としての団体行動はこのころ終わりを告げ、八路軍に数人ずつバラバラに留用されていった。ピョンヤンまで逃げてきたとき5人ぐらい、決死の覚悟で部隊から出て、馬車など段取りして南へ脱出していったが、大半は団体行動でここまできた。

 母はこの手記を書いた婦長を嫌っていて「あの人は上の人ばかり機嫌をとって病室に一回もいかなかった。他の班の婦長は再々患者を見回りにいきチフスに感染して死んだ人もいる。私らは一番最初に八路軍に連れて行かれたが、あの婦長は最後まで延吉にいて、どういうわけか後方の八路軍の幹部の子供をあずかる保育園で仕事をしていたみたいだ。いつでも自分だけ安全なところにばかりいて、好かん人だった・・・」母は前線の手術隊で、国民党の爆撃機が10キロ爆弾を落とした現場も見た事がある。

 母はいい加減な父と違い真面目できちんとした性格である。今でもきちんとしすぎて中三の次女に夜9時45分になると「いつまでおきとんのよ!はよ寝なさい、はよ寝なさい」と言って嫌がられている。母の実家は熊本県の菊池市にある。本家は地主で手元がよかった。祖父が分家したので金持ちと言うほどではないが、母はまあまあ恵まれて育った。女学校の時、師範学校に進むかどうか迷ったが、世は軍国主義の時代、白衣の天使に憧れ、看護学校に進み御国のため従軍看護婦の道を選んだ。真面目に軍国少女になり、満州に渡った。敗戦直後の大混乱の中、真面目に軍の命令で青酸カリを飲んで自殺しようとする場面もあったが、マインドコントロールも少し解けたので生きながらえた。しかし従軍看護婦としての性で上からの命令には逆らえない。上司から八路軍に行けと言われれば従うほかはない。真面目に命令に従った。いつだったか母に八路軍への留用は拒否できなかったのか、自主的に行ったのかと聞いたことがある。「そんな!嫌もなにも拒否などできるわけがない!」と色をなした。大半の看護婦は留用を拒否できなかった。日本人を動かすには組織を使うのが一番だった。まじめな下っ端は最前線に行かされ、要領のいい上の人は後方の安全なところにいた。

 

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留用された日本人「母の場合」2

虱の脱出

 母が捕虜収容所でのエピソードを話すとき、定番の「笑い話」がある。私が子供の時から何十回も聞いたことなので、戦争や軍隊の話になると次はこれを言うだろうと予想できるくらい、馴染みの話である・・・

 収容所で毎日、毎日、何十人と人が死んでいくのをみていると、「次はどの兵隊が死ぬのか分かるようになる」という。夜寝る前にベッドの病人を見回っていると、この人はもうダメだとわかるきざしがあるそうだ。死ぬ前の兵隊には一杯たかっていた虱がいなくなるのだ。「虱はようしっとるわ、人間の道連れになるんは嫌なんやなあ、あっという間におらんようになる。虱から逃げられた兵隊は朝になると冷たくなっとるんよ。虱ってすごいわ!」虱の脱出が始まり隣の元気な兵隊に皆乗り移ってしまうと、サッパリいなくなった方の兵隊は死んでいるという。「たまにドジなのもいて、遺体の皺からポロポロと逃げ遅れた虱の屍骸が落ちてくるんよ・・・」虱に見放されたら人間も終わりだ。収容所で虱は健康のバロメーターであった。

 母が入れられていた延吉収容所はフランクルの「夜と霧」のような状況だったと思われる。「虱の話」を聞いていると、そんな絶望の淵にいて助かったのはユーモアというか笑いというか、心の潤いを失わなかったことが大事だったように思う。いつだったか私が「シンドラーのリスト」をテレビで観ていた時、居間に突然入ってきた母がテレビのシーン(ユダヤ人が大勢選別されている場面)に数分釘付けになっていたが「私らもあんなんよ、戦争はどこでも一緒よ」といってすぐ出て行った。

 つい最近母と一緒の部屋に寝ている次女が「おばあちゃんなあ、よう寝言いうよ、いつも何かに追いかけられたように、あああ~とか叫ぶねん・・・戦争の時の事かなあ」と私に真顔でたずねた。私は子供の頃から母の寝言は知っていた。毎晩毎晩うなされているので、中学生の時、思い切って聞いたことがある。母はあいまいな返事をして急に機嫌が悪くなった。家族といえど入れない領域があることを知った。以来母の寝言はタブーになった。

留用された日本人「母の場合」1

延吉捕虜収容所

 留用のされ方は皆それぞれ違う、人民解放軍の空軍創設に協力した林弥一郎は東北地区における共産党・軍の三首脳、林彪、彭真、伍修権からじきじき残留するよう懇願された。炭鉱で働かされた人達は、日本に返すとだまされたも同然で連れて行かれた。ぜんぶで三千人あまり留用されたと言う医師や看護婦など医療関係者はどうだったのだろうか。 私の母は元日赤の看護婦で、従軍看護婦だった。終戦後朝鮮のピョンヤンまで逃げてきたところを、ソ連軍につかまった。ピョンヤンの陸軍病院などで仕事をしながら帰国を待っていたが、ひそかに5~6名の同僚が、トラックか何か段取りをして南に向けて脱出した。残った母たちは11月ごろ東京に帰れるという言葉に喜んで列車に乗ったところ、南下せず北上し始めた。着いたところが朝鮮と満州との国境にある延吉捕虜収容所だった。周りは三重に鉄条網がめぐらされソ連兵が5メートル間隔でマンドリン銃(自動小銃)を構えていた。

 私は母のこの頃の事をJANJAN「日本インターネット新聞」に「従軍看護婦が受けた自決命令」として書いたが、あらためて詳しく聞いた。延吉収容所はソ連軍が管理しており、日本軍の捕虜をシベリアに送る中継基地になっていた。元兵舎が病院になっており、集められた日本兵の患者にはシラミがたかり、発疹チフスが発生していた。母たち看護婦はそこで治療に当たったが医薬品不足、食料品不足で、捕虜は栄養失調にもなり、合わせて伝染病の蔓延でバタバタ死んでいった。母も発疹チフスにかかり、脳症で死にかけたが、一命を取りとめた。

――生地獄とはまったくこんなことを言うのでしょうか。やせるだけやせて寝てる姿は、まるで生ける屍のようで、毎日20人以上は死んで行きました。この中には医師、看護婦長、看護婦を含めて5人位の方が感染して亡くなられました。延吉収容所は銃を使用しない処刑場のように感ぜられ、どん底の悲惨な生活を強いられた所ではなかったかと思われます――日本赤十字社熊本県支部発行「死線を越えて」救護看護婦の手記より。

留用された日本人

NHK 「留用された日本人」

4月17日、DVD に録画しておいた、NHK B.Sの「留用された日本人」を観た。日中国交回復30周年を記念して8年前に作られたこの番組、私が知る限り留用をテーマにしたテレビドキュメントとしては他にない。担当のディレクターも言っていたが一人一人の体験者の証言をもとに全体の歴史を浮き上がらせるという手法はかつてなく、留用という言葉を知らない人でもかなり理解できたのではないだろうか。

 私の母も日赤の元看護婦で、留用された経験者なので一緒にテレビを前にした。高齢(86歳)で耳が遠く足も悪いので40分ほど観て先に寝たが、母の話とテレビにでた証言者の話した事と重なることも多かったが、違う視点もあり、私も新たな認識を深めた。以下留用された医者や元看護婦たちの証言と母に聞いたことを中心に書いてゆく。

 元看護婦の森川和代は最初解放軍に入った頃、中国人たちにリーベンクイズ(日本鬼子)と言われてつらい思いをした。私の母の場合そんなことを言われず、みんな親切だったという。その理由は解放軍では「悪いのは帝国主義で一般の日本人も中国人と同じ被害者で悪くないという教育が徹底していた」からだという。共産主義教育やいわゆる洗脳の実態について「政治教育はたしかにされたが、中国人も日本人も平等で仲良くする、というゴクゴク当たり前の事だった。日中交流の歴史が中心で内容は日本の女学校で習った事と変わらなかった。私は試験で成績が良かったので、同僚の小学校しか出ていなかった人に悪口を政治委員に言いつけられた経験がある」という。

 政治委員というのは共産党の軍隊独自の制度で、各級にあり部隊の政治教育の責任者だが権限は司令官より強い。中国人民解放軍は共産党の軍隊であるので、党の指導を貫徹するため強い権限を持っていた。日本人の政治委員もいたが、日本人の中で嫌われていたという。彼らは日中戦争のとき捕虜となり、共産党に感化された人も多かった。母たちの「先輩」になるが、日本人のグループの中で思想動向を探ったりしていたので、評判が悪かった。母によると「お父さん(筆者の父)も反動分子として上部に報告された」という。

 番組で証言されていた元看護婦たちは、母と同じ第四野戦軍にいた人たちだと思われる.。林彪が指揮する第四野戦軍は東北(旧満州)解放後南下して、黄河、揚子江を渡り最終的に海南島までいった。母は海南島まで渡らなかったが、見えるところまで行ったという。番組の証言者も言っていたが、野戦軍のあとを追いながら徒歩であるいは馬車で一日50~60キロも移動するので、足の豆がつぶれてはでき、またつぶれる。私の母は手術隊にいた。中国人医師3人と看護婦2人という小世帯で「手術隊といっても大した器具もなく、医者といっても医科大学を出たばかりの新米で注射器の煮沸消毒もしないざっとした医療で不安に思った。なにより医薬品が不足していた。点滴をするのにも重傷者しかできなかった」という。

 三日と同じところにとどまらないで、傷病兵を治療しては休むまもなく次の駐屯地を目指したが、日本人なので得をした面もあった・・・行軍するときは、傷病兵以外はみな歩くのだが、母だけは日本人なのでよく馬車に乗せてもらったそうだ。「日本人は私一人だけだったので気を使ってくれていた」という。

 私が子供の頃、どうして両親が人より長く、中国にい続けたのか謎だった。中国と日本が戦争をしたことは小学校に入る前から知っていた。周りの大人は大抵「支那帰り」だったし、少年クラブという月刊誌を愛読していて、ロボット三等兵というギャグマンガが好きだった。そのストーリーが「支那事変」や太平洋戦争を舞台にしていたので、自然と憶えたのだが、戦争が終わって皆日本に帰って来てからも、なぜまた戦争をやっていたのかわからなかった。私は勉強でもなんでも判らないことはいつも母に聞いた。

 「中国には医者や看護婦がおらんかったんよ、ようけ発疹チフスや赤痢や伝染病がはやって、ママ(筆者の母)にも手助けしてくれって言われてそれでおったんよ。給料も貰ってて、ママは技術者だったんでよかったよ」母はこんな風に説明してくれた。

 

NHKのBS20周年ベスト▽ハイビジョン特集“~日中・知られざる戦後史


 明日NHKのBSで「留用された日本人」が放送されます。私の両親も、留用されましたので注目しております。ぜひ皆様もごらんになってください。


放送日 :2010年 4月17日(土)
放送時間 :午後1:30~午後3:45(135分)

中国で日本人が死刑にされて思い出したこと、考えたこと

 46日中国遼寧省当局は麻薬密輸罪で死刑判決が確定していた日本人死刑囚に対して刑を執行した事を発表した。1949年に中華人民共和国が成立した直後、毛沢東暗殺を企てた事で一人日本人が死刑になっているが、戦後それ以来という事で、話題になっている。

 私の父は戦前、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州(東北)に行ったが、真面目に農業などせずに悪い事ばかりしていた。父が昔の話をしていてよく言っていたのは「わしなんか向こうでやっていた事で、7割ぐらいは日本に帰れば人に言えないような事だった」みんなが父のようなワルではないが、わずか14~15歳で鉄砲と鍬を担いで満州に渡った青少年が戦前10万人近くいたことを、今では全く忘れ去られている。

アヘンが横行する戦前の中国

そんな父の体験「父の15年戦争120」を日本インターネット新聞JANJANで書いてきたが、今回の麻薬密輸犯死刑のニュースを聞いて思い出した事がある。父が満州の義勇隊にいた頃、四平街という町へ行ったときの話しである。この頃、父は獣医を目指して満州拓殖公社が開いていた獣医講習所に通っていた。四平街の郊外で汽車から降り、講習所がある方向へリュックサックを背負い歩いていた時のことである。一人の男が近づいてきた・・・

 男は父に包み袋を差し出し四平街の、ある場所を示しそこに、煙草屋があるので持って行ってほしいと頼んだ。父は良く知っている所だったので引き受けた。私がこの話を聞いたのは30年以上前のことだった。中国での父の体験を聞いていて、「こんなことがあった・・・」としゃべり始めた。父がこのことを良く覚えていたのは、運ぶ駄賃が「べらぼうに高かった」ためだ。具体的な金額までは憶えていなかったが、「男に会ったところから街中の煙草屋まで4キロぐらいの距離があった。2キロぐらいの重さの袋を運ぶのに、ビックリするぐらいの金をくれた。あれはきっと阿片に違いない」と回想していた。

 父の15年戦争

9)嫩江(ノンジャン)大訓練所でも書いたが、父が満州に行った頃、義勇軍の訓練所や道路を作るため大勢の苦力と呼ばれる中国人労務者が日本からきた土建屋に雇われていた。苦力はアンペラ小屋と呼ばれるひどい住宅に住み酷使されていたが、苦しい労働を紛らわすため阿片を吸わされていたという。 

 満州国は関東軍司令官が内面指導する「かいらい国家」だった。実質日本の植民地といってよいが、それでも阿片を取り締まる法律はあったし、勝手に栽培したり販売したりできなかった。麻薬に手をだすのはマフィアやゴロツキの類、という意識は現代と変わらない。そのころには国際的なアヘンの禁止条約もあり、おおっぴらにアヘンを商売にできなかった。そこで日本がとった政策は「アヘン漸減政策」であるがこれは大きな欺瞞であった。

英国のアヘン貿易と日本のアヘン政策

阿片を中国に持ち込んだ最大の責任者はアヘン戦争を引き起こしたイギリスである事は中学生の教科書に書いてあるし、誰もが知っている。東インド会社のアヘン貿易で莫大な利益をイギリスは貪った。だが20世紀に入り中国国内でのアヘン撲滅運動の高まりを受けて、アメリカの宣教師などがアヘン生産やアヘン貿易の禁止を国際社会に訴えた。1909年には「アヘン営業は国の恥」として、イギリス下院が7年の猶予期間を経てアヘン条約の撤廃を決議したことで、国際的なアヘン禁止の流れは一気に加速、19173月にはインド産のアヘンは禁輸となりイギリスの中国に対するアヘン貿易は70年余りで終焉を迎える。

イギリスが撤退した後、衣鉢を受け継いだのが日本である。日本は20世紀はじめ頃よりアヘン貿易にかかわるようになったが、日本がイギリスよりさらに悪辣だったのは、日本の勢力範囲(満鉄沿線の街)にアヘン吸飲館やモルヒネ店、賭博場、遊郭などを設け、農民にケシ栽培をするよう強制したことだ。中国農民が生産に携わることにより、アヘン撲滅がさらに困難になった。

「アヘン漸減政策」の名目で生産、流通を管理(阿片の専売制)し、膨大な税を取り立て、満州国や汪精衛南京政府の重要な資金元とした。特務機関の資金にもなり、数多くの謀略が引き起こされた。盧溝橋事件以後、中国侵略が本格化し占領地が拡大すると、興亜院という占領地を一元管理する機構を作り中国全土にアヘン政策を推し進めた。大平正芳元首相は戦前興亜院の有能な官吏であったことは「知る人ぞ知る」である。

新中国のアヘン撲滅

1949

年中華人民共和国が誕生したとき55千万人の人口のうちアヘンの中毒者は数千万人以上いたとされる。勿論正式な統計などないが、わずか3年でアヘンが撲滅されたという。1950年中央人民政府は「阿片毒を厳禁する通令を発布」大々的な禁煙キャンペーンを開始した。

―‐阿片の害が最も深刻だったのは貴州省であった。省全体ではすくなくとも28%の300万人が阿片喫煙者で、とりわけ省都である貴陽市の場合、人口約20万人の都市に、阿片喫煙者はなんと6070%にのぼった。また貴州省の地方の村では、村人の8090%が阿片の喫煙者だったという。ドラと太鼓の隊列が禁煙キャンペーンを叫んで大批判大会を開けば、動員された人数は一度に数千人から数万人の規模に達した。「戒煙所」は常時満員だった。中略 50年から52年にかけて、三度の政治運動によるによる禁煙キャンペーンの結果、全国では総数約22万件の阿片事業が摘発され、密売した8万人あまりが実刑判決を受け、800人以上が死刑になった。強制的に禁煙させられた重症の阿片中毒者は、約200万にのぼったという。―― 譚璐美著 「阿片の中国史」より

毛沢東政権が、これほど阿片に汚染された国を更生さすのに、かなり荒っぽいやり方をしたことは間違いないが、アヘンは一挙に撲滅された。現代の中国も麻薬対策にこのやり方を受け継いでいるのは間違いない。

建前の人権

かつてイギリスのサッチャー首相が中国を訪れたとき鄧小平に中国は人権無視の甚だしい国だと言ってのけた事があるが、鄧小平はそれを受けて、かつてイギリス人は阿片を売りつけて中国人の人権など考えなかったではないのかと、やり返した。

現在中国では麻薬の犯罪が激増しその対策に厳罰を持って挑んでいる。昨年イギリス人の麻薬密輸犯が中国で死刑にされたがブラウン首相は、死刑囚が精神疾患の疑いがあると強行に抗議した。私の想像だが西洋人にとっての人権というのは、犯罪人だろうが、精神疾患者だろうが、本来誰でも備わっているものだと考えているようだ。

今回鳩山首相や日本政府の高官はイギリスのように強い姿勢ではなかった。中途半端というか、私もそうだが一般の日本人のように人権意識も中途半端である。日本にも死刑はあるし、麻薬犯罪は重罪であるが死刑にしないだけである。最近の重大事件の判決に死刑が多いのを見ていると日本人の一般的な意識はむしろ中国当局と通底しているのではないかと思える。「犯罪者に人権などあるのですかと・・・」

日本人の多くは日本が民主主義の国で政治的自由や人権状況が中国より格段よい国だと優越感を持っている。にもかかわらず、建前で人権を語っているように思う。

強権だけでは抑えられない

私は中国に「取調べが不透明」とかあいまいな言い方ではなく「人権を大切にしなさい」とストレートに言ったほうが良いと思う。そうすればサッチャーが鄧小平に言われたようなことを言われるだろう。しかし日本はかつて中国に残虐なことをしたからこそ、人権が大切なことを心底から分かったと言い返せばよいのではないか。その言葉はわが身に返ってくるし、日本の行動が本当に人権を大切にしているのか、中国からも注視されるだろう。現在の中国はまもなく世界第2位の経済大国になろうとしているが、国内にはチベットやウイグルなどの民族問題を多く抱えている。これらの問題は強権だけで押さえつけられない状況になっている。麻薬の問題も貧困と絡み合っており、複雑で犯人を死刑にしたからといって簡単に減らないだろう。人間社会には厳罰、強権では解決できない事が多くある。内政不干渉というのは、国家間の基本的な付き合い方だが、言いにくい事を言ってこそ成熟した関係になるだろう。

公安刑事10

公安刑事10.

 私が中学生の頃には公安刑事は頻繁に来なくなった。中国から引揚げてきたころは毎日尾行がついていたようだが、5~6年後、尾行は止み定期的に家に来るようになった。このころ月最低1~2回くるようだった。その後月1回ぐらいになり、黒田警部のころは数ヶ月に1回くらいだった。公安刑事の来訪が減ったのは父が党活動を熱心にしなくなったからだと思われる。

 父が共産党の活動をあまりしなくなったのは、1967年日・中の共産党が断絶、敵対した事が契機だった。それまで寝食を忘れて走り回っていたのが、ぷっつり糸が切れたように何もしなくなった。日中友好運動も分裂し、嫌気がさしたみたいだ。替わって熱心になったのが商売である。それでも公安は数ヶ月に1回は来ていたようだ。その後、党におだてられて町会議員選挙に出たり、町長選挙にでたこともあるが全戦全敗でまたやる気をなくし、50歳過ぎには国政選挙の時ぐらいしか動かなくなった。それでも公安は1年に1回ぐらいは来ていた。忘れた頃にはやって来た。

 今から10年ぐらい前、最後に公安刑事が来たときのことをはっきり憶えている。春先の寒い日だった。長身で眼鏡をかけていて、刑事コロンボが着ているよりずっと暖かそうなカシミアのコートでやってきた。「お父さんはいますか」と尋ねたとき、見覚えがある顔でピンと来た。その時父は徳島県の板野にある結核病院に入院していた。70代半ばで3回目の発症だった。数ヶ月ほど入院していた。

 70過ぎれば父も公安は卒業したと思っていたので、私は少しあきれた。まあ商売熱心というか、他にすることがないのか、イヤミのひとつも言いたくなった。「もうねえ、足腰たたんようになっていつ帰れるのかわからんし・・・何なら電話しときますので板野病院まで会いに行きますか?」てなことをいったら、とっとと帰った。その後見舞いに病院を訪れたとも聞かなかったし、父が死んだとき葬式にも来ていなかったので、我が家と公安警察とは完全に縁が切れたようだ。思えば1953年8月に中国から引揚げてほぼ半世紀、長い付き合いだった。さすが特高警察の流れを汲む公安警察と言うべきか。あの世で父はホットしているのか、寂しがっているのか、よく分からないけどそこまでは追っかけて行かないだろう。まずは慶賀の至りであった。 完

公安刑事9

公安刑事9.

 新しい公安刑事が来た晩だったか、父が母に「黒田さんはかなり位が上の人らしいな、警部だそうだ」といっているのを、小耳に挟んだ。ちょっと記憶があいまいなところがあるが・・・たしか警部と言ったように思う。私は父に黒田さんは下町の駐在所にいるのかと聞いた。娘が同級生なので単純に地元の駐在所勤務だと思った。子供らしいトンチンカンなことを聞いたが、父は「警部が駐在所になんかいるわけがない、洲本署に勤めているのだろう」といったので、私はそのとき警部が警察の中でかなり上の地位である事が分かった。

 このころの父が公安刑事と会っているときの態度は、ごく普通の態度で敵視するわけでなし、歓迎するわけでなし、警察だからと卑屈なところもなく、自然流というかスマートだった。私なんか中学校の倫理社会で、民主主義とか言論の自由とか結社の自由とか習ったばっかりで、教科書に書いてあることが正しいと思っていた。社会の建前や本音はわからないが実際父が公安に監視されているのを知っているので、その理想と現実のギャップを見ると日本が自由だと言っても、「その程度の自由か」なんて斜めに構えていた。日ごろ父がやっている「党活動」なんて日本国憲法の範囲内で、武装蜂起なんてたくらんでるわけがない。家族4人でウサギ小屋のようなところで暮らしていれば、父が何をやっているのか子供の私でも分かった。父の活動が正しいか間違っているのかは分からなかったけれど、少なくとも法律に触れるような事はしていなかった。続く

公安刑事8

公安刑事8.

 私が黒田康子さんに話しかけられたとき、ちょっと嬉しいような気まずいような複雑な気分になった。「父親どうしが知り合いだ」というのは彼女にとっては新しいクラスメイトに話すきっかけの言葉に過ぎなかったが、私は彼女の父親と自分の父親の関係がただの知人・友人関係でないことを知っていた。西部劇で言えば「お尋ね者」と「保安官」の関係なのに、それを知らない彼女の無邪気な言い方に心の中では「慣れ慣れしくすんなよフン」という感じだった。

 私は中学生ぐらいから、赤旗や産経の記事を見比べその主張や違いが分かるようになっていた。女の子にはおくてだったが政治には早熟だった。当時中国は文化大革命勃発により大混乱、それまで仲の良かった日中の共産党は喧嘩別れ。その最大の原因はボケた毛沢東による武装闘争の押し付けだったと思う。「鉄砲から政権が生まれる」と毛沢東は自国の成功体験を普遍化し、世界各国の特殊な状況を無視し、各国の共産党に武装闘争を押し付けた。 

 アジアでは党員300万人を誇り、資本主義国最大のインドネシア共産党が、クーデターによる政権奪取に失敗。逆に反革命クーデタを起こしたスハルト将軍ににより弾圧されアイジット書記長は殺されインドネシア共産党はあっという間に滅亡した。

 日本共産党はその頃まで中国派と思われていたので、その動向は公安にとって重要だった。激動するアジアの情勢と無関係に思える淡路島の田舎町にも公安刑事がやってきて、末端の党員からいろいろな情報を集めていた。 続く

公安刑事7

公安刑事7.

 新任の公安刑事があいさつに来た、次の日ぐらいだったか、中学校の始業式があってクラス替えなどがあった、新学期が始まると新しいクラスに数年前、阿万に引越ししてきた黒田康子さんという女の子がいた。髪の毛がちょっと茶色っぽく、都会的な雰囲気のする子だった。1週間ぐらいたちクラスになじんだ頃、私の席にやってきて、「うちのお父さん郷クンのお父さんよく知ってるって」と言った。私は内心ドキドキしながら「アッソウ」とあいそのない返事をした。

 私は小学校の頃から内気で大人しい少年だったので、女の子と気軽に話した事がなく、その時代の田舎の少年というのは活発な男の子でもそんな感じで、女とチャラチャラしゃべるなんて、軟弱だ!という雰囲気があって、思春期になって女性に興味がわいてきて、内心は女の子と近づきたい欲求があるのだが、うじうじしている、というのが一般的だった。同学年のほとんどの女の子もやはり男子と同じ気持ちだったと思うが、黒田康子さんはちょっと違って、女の子とも男の子とも気軽におしゃべりしていた。勉強もよくできたが、えらぶったところがない聡明な子だった。こんな子はやはりみんなに人気があって、生徒会長に選ばれたりして、先生の信頼も厚かった・・・ 続く

公安刑事6

 公安刑事6.

 父が八路軍の話をした相手は公安刑事だけではなかった。我が家には度々父のお客さんが来たが、背広を着てネクタイをしめて来る人は限られていた。刑事と共産党の専従者である。その他我が家のたった一つの財産である洋服ダンスを差し押さえていった、裁判所の方から来た人がネクタイを締めていた記憶がある。共産党の人は常任委員と呼んでいた、地区の専従活動家が月に一回ぐらい来ていたようだ。年齢でいうと20代後半ぐらいの若い人が多かった。地区委員長という役柄は末端の支部や党員の指導をする人だが、私が記憶している人は父より年齢が10歳以上若く、したがって戦争経験がないので平党員とは言えど、父のような海千山千はかなりやりにくかったのではないだろうか。 おそらく赤旗新聞を拡大せよとか、党員を増やせとか、言ってくるのだが、父は「新聞なんか増やして革命ができるか」とか「大衆運動をせなあかん」とか「もっと人の世話をせな票はとれん」とか挙句のはてに「不破のようなミヤケンの茶坊主はあかん」とか言う始末で地区委員長もたじたじだ。結局最後は、自分の中国での体験談を延々と話し「八路軍のように人民に奉仕してこそ信頼をつかむ事ができる」で締めくくる。

 父の葬式の時来てくれた共産党のある活動家は、昔うちに回ってきてた頃のことを「いつ行っても八路軍の話ばかりしていた。あんたのお父さん、一人しゃべりっぱなしで、こっちのいう事なんか全然聞かない、文句ばっかりゆうとったなあ・・・」と苦笑した。葬式に来てそんな事言うなよと、私は思ったが本当の事だからしかたがない。公安はいい給料を貰っているはずなので、我慢して聞いていただろうが、共産党の専従者は指導しにいったら、反対に説教をされて帰るのだから。安月給で割があわなかっただろう・・・ 続く

公安刑事5

公安刑事5.

 公安刑事と父はどんな話をしていたのだろうか。この時私は長年の疑問が解消された。八路軍の話をしていたのである。八路軍とは現在の中国人民解放軍のことで戦前の国共合作時代、蒋介石の指揮下にあった国民革命軍第八路軍の通称名である。戦後の国共内戦で八路軍は人民解放軍に改称されたが、戦前の軍隊経験者は中共軍のことを通りの良い八路軍と呼んだ。

 公安刑事というのは監視対象者に何のため接触するかというと情報を得るためである。父の場合で言うと所属する日本共産党の組織情報を得るため、定期的に訪問していたと思われる。父は刑事の訪問を嫌がっている風でもなく、まあ適当に世間話をしながらしだいに八路軍は軍紀が厳正で人民のものを取ったりしないとか、針一本借りてもちゃんとお礼を言って返すとか、民家に止まるときは戸板をはずしてそれをベッドにして土間に寝るとか、水は貴重で朝起きると何百メートルも離れた井戸にいって水を汲みカメを満タンにするとか、まあ八路軍の宣伝ばかりしていた。

 刑事はおそらく八路軍の昔の話より日本共産党の話を聞きたがっていたに違いない。しかし父も組織の人間であるからスパイをするようなことは戒められているので、おしゃべりな父と言えどもぺらぺらしゃべったりしない。それで公安刑事がうちに来ると、いつもいつも八路軍の話ばかりしていた。公安もさすが然る者「ハァーそうですか。ヘーすごいですネェ」とかいって歓心を買う。私はいまでもこのときの刑事の表情を覚えている。まさか刑事はこのとき傍にいたニキビ面が監視していたなんて知らなかっただろうな・・・

続く

毒ギョーザ事件からグリコ・森永事件を思い出した

 2008年1月に発生した中国製冷凍ギョーザ中毒事件で容疑者が逮捕された。事件の動機は臨時工だった容疑者の待遇が正社員とあまりにも格差があり、それが会社に対する不満となり犯罪につながったと指摘されている。

 私は毒ギョーザ事件が発生したとき、真っ先に思い出したのがグリコ・森永事件だった。グリコ・森永事件は発生して26年、未解決のまま時効がすでに成立しており、その真相も闇のなかに埋もれてしまった。

 5年前、私が父と満州の「義勇軍」の話をしていたとき、父が突然「犯人の男を知っている」と言い出した・・・

 父は時々突拍子もないことを言い出す事がある。この時は満蒙開拓青少年義勇軍で関わった、ある叛乱事件をしゃべっていたときの事である。

父の15年戦争(11)叛乱http://www.news.janjan.jp/living/0609/0609100951/1.php

 父がいうにはこの時の首謀者のひとりがグリコ・森永事件の犯人ではないかというのである。戦前「義勇軍」という少年屯田兵で満州にいった父は所属中隊の同窓会である拓友会に入っていた。今から26年前、父が還暦のころ神戸で拓友会が開かれ大勢の旧友と再開した。そのとき久しぶりに出会ったのがKという男である。

 父はKをすごく評価していて「Kは頭が良くて正義感が強かった。また情にもろいところがあったが、行動するときは沈着冷静で、若いときから指導者向きの有能な男だった。あんな大胆なことができるのはあいつしかおらん」と言っていた。

 神戸で開かれた拓友会で会ったときに父が聞いた話によると、Kは戦後中国から引揚げてきてから、左翼運動に入り、組合運動も指導していて、事件前にあったグリコの争議にもかかわっていたそうだ。

 Kは、グリコは「ひどい会社」だと口を極めて非難して、何か仕返しをするように言っていたという。父がKと拓友会で会ってから数ヶ月して事件は起こった。事件当時、父は私にそんな話はなにひとつ言っていなかったが、半信半疑のところもあり、噂話だとは言え、旧友が関わっているなど、事件の最中に口が避けても言えなかっただろう。おしゃべりな父だったが、用心深い面もあった。

事件から10年ほどたってKは亡くなり、この秘話を明かして半年後父も逝った。

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