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中国で日本人が死刑にされて思い出したこと、考えたこと

 46日中国遼寧省当局は麻薬密輸罪で死刑判決が確定していた日本人死刑囚に対して刑を執行した事を発表した。1949年に中華人民共和国が成立した直後、毛沢東暗殺を企てた事で一人日本人が死刑になっているが、戦後それ以来という事で、話題になっている。

 私の父は戦前、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州(東北)に行ったが、真面目に農業などせずに悪い事ばかりしていた。父が昔の話をしていてよく言っていたのは「わしなんか向こうでやっていた事で、7割ぐらいは日本に帰れば人に言えないような事だった」みんなが父のようなワルではないが、わずか14~15歳で鉄砲と鍬を担いで満州に渡った青少年が戦前10万人近くいたことを、今では全く忘れ去られている。

アヘンが横行する戦前の中国

そんな父の体験「父の15年戦争120」を日本インターネット新聞JANJANで書いてきたが、今回の麻薬密輸犯死刑のニュースを聞いて思い出した事がある。父が満州の義勇隊にいた頃、四平街という町へ行ったときの話しである。この頃、父は獣医を目指して満州拓殖公社が開いていた獣医講習所に通っていた。四平街の郊外で汽車から降り、講習所がある方向へリュックサックを背負い歩いていた時のことである。一人の男が近づいてきた・・・

 男は父に包み袋を差し出し四平街の、ある場所を示しそこに、煙草屋があるので持って行ってほしいと頼んだ。父は良く知っている所だったので引き受けた。私がこの話を聞いたのは30年以上前のことだった。中国での父の体験を聞いていて、「こんなことがあった・・・」としゃべり始めた。父がこのことを良く覚えていたのは、運ぶ駄賃が「べらぼうに高かった」ためだ。具体的な金額までは憶えていなかったが、「男に会ったところから街中の煙草屋まで4キロぐらいの距離があった。2キロぐらいの重さの袋を運ぶのに、ビックリするぐらいの金をくれた。あれはきっと阿片に違いない」と回想していた。

 父の15年戦争

9)嫩江(ノンジャン)大訓練所でも書いたが、父が満州に行った頃、義勇軍の訓練所や道路を作るため大勢の苦力と呼ばれる中国人労務者が日本からきた土建屋に雇われていた。苦力はアンペラ小屋と呼ばれるひどい住宅に住み酷使されていたが、苦しい労働を紛らわすため阿片を吸わされていたという。 

 満州国は関東軍司令官が内面指導する「かいらい国家」だった。実質日本の植民地といってよいが、それでも阿片を取り締まる法律はあったし、勝手に栽培したり販売したりできなかった。麻薬に手をだすのはマフィアやゴロツキの類、という意識は現代と変わらない。そのころには国際的なアヘンの禁止条約もあり、おおっぴらにアヘンを商売にできなかった。そこで日本がとった政策は「アヘン漸減政策」であるがこれは大きな欺瞞であった。

英国のアヘン貿易と日本のアヘン政策

阿片を中国に持ち込んだ最大の責任者はアヘン戦争を引き起こしたイギリスである事は中学生の教科書に書いてあるし、誰もが知っている。東インド会社のアヘン貿易で莫大な利益をイギリスは貪った。だが20世紀に入り中国国内でのアヘン撲滅運動の高まりを受けて、アメリカの宣教師などがアヘン生産やアヘン貿易の禁止を国際社会に訴えた。1909年には「アヘン営業は国の恥」として、イギリス下院が7年の猶予期間を経てアヘン条約の撤廃を決議したことで、国際的なアヘン禁止の流れは一気に加速、19173月にはインド産のアヘンは禁輸となりイギリスの中国に対するアヘン貿易は70年余りで終焉を迎える。

イギリスが撤退した後、衣鉢を受け継いだのが日本である。日本は20世紀はじめ頃よりアヘン貿易にかかわるようになったが、日本がイギリスよりさらに悪辣だったのは、日本の勢力範囲(満鉄沿線の街)にアヘン吸飲館やモルヒネ店、賭博場、遊郭などを設け、農民にケシ栽培をするよう強制したことだ。中国農民が生産に携わることにより、アヘン撲滅がさらに困難になった。

「アヘン漸減政策」の名目で生産、流通を管理(阿片の専売制)し、膨大な税を取り立て、満州国や汪精衛南京政府の重要な資金元とした。特務機関の資金にもなり、数多くの謀略が引き起こされた。盧溝橋事件以後、中国侵略が本格化し占領地が拡大すると、興亜院という占領地を一元管理する機構を作り中国全土にアヘン政策を推し進めた。大平正芳元首相は戦前興亜院の有能な官吏であったことは「知る人ぞ知る」である。

新中国のアヘン撲滅

1949

年中華人民共和国が誕生したとき55千万人の人口のうちアヘンの中毒者は数千万人以上いたとされる。勿論正式な統計などないが、わずか3年でアヘンが撲滅されたという。1950年中央人民政府は「阿片毒を厳禁する通令を発布」大々的な禁煙キャンペーンを開始した。

―‐阿片の害が最も深刻だったのは貴州省であった。省全体ではすくなくとも28%の300万人が阿片喫煙者で、とりわけ省都である貴陽市の場合、人口約20万人の都市に、阿片喫煙者はなんと6070%にのぼった。また貴州省の地方の村では、村人の8090%が阿片の喫煙者だったという。ドラと太鼓の隊列が禁煙キャンペーンを叫んで大批判大会を開けば、動員された人数は一度に数千人から数万人の規模に達した。「戒煙所」は常時満員だった。中略 50年から52年にかけて、三度の政治運動によるによる禁煙キャンペーンの結果、全国では総数約22万件の阿片事業が摘発され、密売した8万人あまりが実刑判決を受け、800人以上が死刑になった。強制的に禁煙させられた重症の阿片中毒者は、約200万にのぼったという。―― 譚璐美著 「阿片の中国史」より

毛沢東政権が、これほど阿片に汚染された国を更生さすのに、かなり荒っぽいやり方をしたことは間違いないが、アヘンは一挙に撲滅された。現代の中国も麻薬対策にこのやり方を受け継いでいるのは間違いない。

建前の人権

かつてイギリスのサッチャー首相が中国を訪れたとき鄧小平に中国は人権無視の甚だしい国だと言ってのけた事があるが、鄧小平はそれを受けて、かつてイギリス人は阿片を売りつけて中国人の人権など考えなかったではないのかと、やり返した。

現在中国では麻薬の犯罪が激増しその対策に厳罰を持って挑んでいる。昨年イギリス人の麻薬密輸犯が中国で死刑にされたがブラウン首相は、死刑囚が精神疾患の疑いがあると強行に抗議した。私の想像だが西洋人にとっての人権というのは、犯罪人だろうが、精神疾患者だろうが、本来誰でも備わっているものだと考えているようだ。

今回鳩山首相や日本政府の高官はイギリスのように強い姿勢ではなかった。中途半端というか、私もそうだが一般の日本人のように人権意識も中途半端である。日本にも死刑はあるし、麻薬犯罪は重罪であるが死刑にしないだけである。最近の重大事件の判決に死刑が多いのを見ていると日本人の一般的な意識はむしろ中国当局と通底しているのではないかと思える。「犯罪者に人権などあるのですかと・・・」

日本人の多くは日本が民主主義の国で政治的自由や人権状況が中国より格段よい国だと優越感を持っている。にもかかわらず、建前で人権を語っているように思う。

強権だけでは抑えられない

私は中国に「取調べが不透明」とかあいまいな言い方ではなく「人権を大切にしなさい」とストレートに言ったほうが良いと思う。そうすればサッチャーが鄧小平に言われたようなことを言われるだろう。しかし日本はかつて中国に残虐なことをしたからこそ、人権が大切なことを心底から分かったと言い返せばよいのではないか。その言葉はわが身に返ってくるし、日本の行動が本当に人権を大切にしているのか、中国からも注視されるだろう。現在の中国はまもなく世界第2位の経済大国になろうとしているが、国内にはチベットやウイグルなどの民族問題を多く抱えている。これらの問題は強権だけで押さえつけられない状況になっている。麻薬の問題も貧困と絡み合っており、複雑で犯人を死刑にしたからといって簡単に減らないだろう。人間社会には厳罰、強権では解決できない事が多くある。内政不干渉というのは、国家間の基本的な付き合い方だが、言いにくい事を言ってこそ成熟した関係になるだろう。

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コメント

郷 一成 様

初めて投稿させていただきます。
JanJanに掲載された「父の15年戦争」に興味を持ち、郷さんの記事は、ほとんど読ませていただきました。

なぜ興味を持ったかといえば、私も郷さんと同じように1952年に中国は黄河のほとりで生まれ、1953年8月に上海から乗船して日本に引揚げてきたからです。私の一家が乗ったのは高砂丸ではありませんが、舞鶴着が8月13日なので、ひょっとすると上海でお会いしているかもしれませんね。

私は、清朝末期から現在に至るまでの中国関係の本を集中的に読んでいるところです。

黄河のほとりさん
 コメントありがとうございます。私は60年近く生きてきて出自が同じような人と始めてやり取りします。感激しました。ネットはすごいですね。戦前に中国で生まれた人はかなりいますが、戦後、自分たちの年代は少ないですね。医療技術者が多く「留用」されたと母から聞いています。上海で出会った人々については両親から何人か聞いていますのでまとめて記事にして書くつもりです。また何か情報があれば教えてください。

郷 一成 様

お返事ありがとうございます。
戦前に比べて、私たちの年代で中国生まれの人は少ないかもしれませんね。けれども戦争が終わり、昭和20年代に日本人の両親から海外で生まれた子供の出生国は、中国が一番多いような気がします。なぜなら、昭和20年代は、日本人は簡単に海外渡航できなかったはずです。

留用関係の本を読むと、親の留用中に生まれた子供のことが、よく出てきますよ。
昨年の衆院選で落選されましたが、兵庫11区から出馬された戸井田徹氏も、1951年に中国のお生まれです。

私の父は満鉄の技術者だったので軍に留用されたわけではありませんが、帰国の際、武漢に各地の日本人が集められた時、軍に留用された人が多かったと聞いています。武漢から上海までは、3日間の長江の船旅でした。

次のサイトには、戦中・戦後を中国で生きた人たちのインタビュー記事がたくさん載っています。多分、参考になると思います。

オーラルヒストリー企画
http://www.ohproject.com/

私は東京に住んでいますので、時間を見つけて、外務省の外交史料館で昭和28年以降の引揚関係の外交文書を閲覧して、必要なものはコピーしています。マイクロフィルムなので読みにくいのですが、ビックリするような文書もあります。
私は主に満鉄関係の文書を中心にコピーしていますが、もし郷さんのお役に立てそうな情報がありましたら、お知らせしますね。

最後にお願いですが、もし可能なら郷さんのメールアドレスを、このWeb上に連絡先として載せていただくことはできないでしょうか。
コメント欄に載せるには躊躇いのある情報もありますので。出来れば、そのような情報はメールでお知らせしたいと思います。
よろしくお願いいたします。

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