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おばあちゃんが孫に伝える戦争体験

この記事は2005年JANJAN(日本インターネット新聞社)に掲載されたものです。

  Photo10_3昭和16年京都日赤時代 本人左端

 私の母は昭和19年2月、赤紙召集で従軍看護婦となり、旧満州帝国の首都新京にあった陸軍病院に勤務しました。終戦後は帰国のため朝鮮半島を南下して、ピョンヤンまで来たところで、ソ連軍の捕虜となり再び中国の延吉まで戻され、その後中国人民解放軍第4野戦軍の看護婦として勤務します。  国共内戦中は中国各地を馬車で揺られながら野戦病院や診療所を転々とし、海南島の見えるところまでいったそうです。中華人民共和国成立後、同軍で働いていた父と結婚して、昭和28年8月帰国しました。

 今年の夏、小学4年の私の次女が、家の人の戦争体験を聞き、感想文を書くという、夏休みの宿題のため、母が戦争体験記を書きました。母の中国での10年間の体験は戦争で負傷し、死に逝く無数の兵士を看護してきた生々しい話や、自身の悲惨な捕虜体験も含まれ、今ではほとんど日本人に知られていない当時の中国人民解放軍での生活も、一部書き記しています。この体験記は今の子供達のみならず、戦争を知らない大人達にこそ知ってほしいと思い記事にしました。

Photo12 兵士を相手に看護実習

●郷美代子(旧姓菊川美代子)経歴

 兵庫県南あわじ市在住 熊本県出身 大正13年生まれ  昭和16年3月熊本県立菊池高等女学校卒業  昭和18年10月京都第一赤十字病院看護婦養成所卒業(戦時のため半年繰り上げ卒業)

Photo11 看護実習の後の食事風景

●郷美代子記 

  昭和19年2月末、日本赤十字社より赤紙(召集令状)が来て、中国の新京(長春)の陸軍病院に勤務することになった。その頃、戦争の激しい時代で「白衣の天使」ともてはやされ、看護婦になって戦地でお国のために働くことは光栄なことであった。女学校を卒業して、日赤の看護婦養成所に入学、3年間勉強をして日赤看護婦となった。  兵隊さんと同様、村人の方々に見送られて出発。下関から朝鮮半島の釜山に向かう途中、敵の潜水艦に狙われ、救命胴衣を着けたまま一睡も出来ず、友軍機の護衛を受け、無事に着いてホットした。  

 家でどんなに困ったこと、つらい事があっても召集令状が来たら断ることは出来ない。命令に従わなかったら非国民として罰せられる。おばあちゃんの先輩で、赤ちゃんが生まれて半年位に、召集を受け、赤ちゃんは家の人に預け前線に行った。お乳が張って痛くてしぼっては捨てた。赤ちゃんのことが思い出され、しばらくは涙が出て仕方なかったそうです。  

 終戦も間近になった頃、前線から送られてくる、伝染病に罹った患者、大砲で片足が無くなった人、たくさんの傷病兵の看護で大変だった。8月9日、ソ連軍も参戦。中国(満州)に戦車が攻めて来るという事で、重症の患者と衛生兵を少しを残し、吉林分院に移動した。新京を出発前、衛生兵には青酸カリ(毒薬)が渡された。重症の患者に呑ませるためのものでした。患者の遺族の方にはなんと説明したでしょう。きっと病死となっていることでしょう。おばあちゃん達にも青酸カリが渡された。「いざ」という時は自殺するようにとの事です。

 それから4~5日経て、終戦になり、青年将校さんは軍刀で自殺した人もあった。日本は勝ちと信じていたからでしょう。おばあちゃんはホットした感じと今後どうなるか、日本に帰れるかなあと不安でした。  9月になって南下することになって、貨物列車にすし詰めにされ平壌(ピョンヤン)まで来るが、列車が動かなくなり、それで下車。中学校跡に病院があり、そこで勤務。ソ連軍が支配していた。乱暴されないように軍帽をかぶり、男の服装をして勤務した。

 11月、東京に帰れるという言葉を信じて貨物列車に乗ったが北上して着いた所は中国の延吉だった。トラックに乗せられ、荒野の中の捕虜収容所に運ばれた。三重の鉄条網がはりめぐらされ、5m間隔でマンドリン銃(自動小銃)を構えた、ソ連兵のきびしい表情があった。少しでも近づいたら銃で撃たれて即死だ。食べ物は大豆を煮たものが10日も続く。また粟飯、コウリャン飯。おかずは無いときが多く、菜っ葉の少し入った汁もの等だった。  元日本兵は捕虜としてソ連の地に連れて行かれ、重労働をさせられ、栄養失調、発疹チフス等になって、大勢の患者が送られて来るけど、薬も点滴注射も足りない。ただ死を待つばかりで、寒さも零下30度。暖房もなく、生ける屍のよう、毎日毎日20名以上の患者さんが死んでいった。

 おばあちゃんも、とうとう発疹チフスになり、2週間高熱にうなされ、食事も食べられず、ただじっと寝ていた。2日間、脳症(死んだみたいに何にも分からない)になって、このまま死ぬかと思われた。ふと気がついたら熱も下がり、生きていたんだと喜びが沸いてきた。

 昭和21年ごろ移動命令が出て、ソ連軍の手から、中国人民解放軍に渡され、患者さんも元気な人は日本に帰された。おじいちゃん(獣医)もおばあちゃんも医療技術者として抑留され、中国の内戦で、中国の患者さんの看護のため、診療所、病院等に勤務した。

 やがて内戦も終わった。中国政府は私達日本人に対して待遇が良かった。時々観劇にも招待してくれ、結婚した時、ささやかな式をしてご馳走してくださり、立派な刺繍をほどこしたお蒲団もプレゼントして祝福してくださった。

 私達に示して下さった誠意を思うと、何と偉大な人情豊かな民族である事と思わずにいられません。最初は文盲(字が読み書きできない)の多い文化程度の低い中国人と軽べつしていたが、彼らから一番大切なもの、中国人も日本人も朝鮮人も皆平等であり、世界中の人種が相手を尊重し、お互いに理解し合い仲良くして行かねばならぬ事と、共に生活してゆく中、肌で教えられた。

 戦争こそはすべての物を破壊します。残酷で、非人間的です。戦争は絶対反対です。昭和28年8月16日、無事、上海より高砂丸にて舞鶴に上陸し、10年振りに帰国しました。

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