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公安刑事10

公安刑事10.

 私が中学生の頃には公安刑事は頻繁に来なくなった。中国から引揚げてきたころは毎日尾行がついていたようだが、5~6年後、尾行は止み定期的に家に来るようになった。このころ月最低1~2回くるようだった。その後月1回ぐらいになり、黒田警部のころは数ヶ月に1回くらいだった。公安刑事の来訪が減ったのは父が党活動を熱心にしなくなったからだと思われる。

 父が共産党の活動をあまりしなくなったのは、1967年日・中の共産党が断絶、敵対した事が契機だった。それまで寝食を忘れて走り回っていたのが、ぷっつり糸が切れたように何もしなくなった。日中友好運動も分裂し、嫌気がさしたみたいだ。替わって熱心になったのが商売である。それでも公安は数ヶ月に1回は来ていたようだ。その後、党におだてられて町会議員選挙に出たり、町長選挙にでたこともあるが全戦全敗でまたやる気をなくし、50歳過ぎには国政選挙の時ぐらいしか動かなくなった。それでも公安は1年に1回ぐらいは来ていた。忘れた頃にはやって来た。

 今から10年ぐらい前、最後に公安刑事が来たときのことをはっきり憶えている。春先の寒い日だった。長身で眼鏡をかけていて、刑事コロンボが着ているよりずっと暖かそうなカシミアのコートでやってきた。「お父さんはいますか」と尋ねたとき、見覚えがある顔でピンと来た。その時父は徳島県の板野にある結核病院に入院していた。70代半ばで3回目の発症だった。数ヶ月ほど入院していた。

 70過ぎれば父も公安は卒業したと思っていたので、私は少しあきれた。まあ商売熱心というか、他にすることがないのか、イヤミのひとつも言いたくなった。「もうねえ、足腰たたんようになっていつ帰れるのかわからんし・・・何なら電話しときますので板野病院まで会いに行きますか?」てなことをいったら、とっとと帰った。その後見舞いに病院を訪れたとも聞かなかったし、父が死んだとき葬式にも来ていなかったので、我が家と公安警察とは完全に縁が切れたようだ。思えば1953年8月に中国から引揚げてほぼ半世紀、長い付き合いだった。さすが特高警察の流れを汲む公安警察と言うべきか。あの世で父はホットしているのか、寂しがっているのか、よく分からないけどそこまでは追っかけて行かないだろう。まずは慶賀の至りであった。 完

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