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父の15年戦争1.関東軍の特攻

2006年、JANJAN(日本インターネット新聞社)に掲載された記事に若干、訂正・加筆をしております。

「義勇軍」から関東軍そして「人民解放軍」へ 

Save_2 関東軍機動第一連隊時代の郷敏樹

 私の父〈大正13年生まれ〉は満14歳のときに「左手に銃を右手に鍬を」のスローガンのもと1938年(昭和13年)、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して旧満州国にわたって以来、1953年(昭和28)年、日本に帰国するまで青春の大半を中国大陸で戦争に明け暮れた。

 「義勇軍」では(注1)金日成(キム・イルソン) らのパルチザン東北抗日連軍と戦い、大戦末期には関東軍でソ連機甲師団と対戦した。終戦後は中国人民解放軍に入り国共内戦を戦い抜き、その後、朝鮮戦争にも従軍した。

 内戦終了後、同軍で看護婦をしていた母と結婚して私と妹が生まれ、1953年(昭和28年)8月、家族4人で日本に帰還した。私にとっての中国は両親に幼いときからよく聞いていたので、身近な存在だった。

 昭和30年代、親戚に間借りしていた離れの6畳に家族4人が住んでいた。近所の酒飲みが「敏樹はん満州のおもっしょい(面白い)話聞かしてくれ」などといいながら入れ替わり立ち代りやってきた。そのたびに母は機嫌が悪くなる。テレビなど無い時代、私は父達の酒盛りの横で、満州の「おもっしょい話」を聞くのが結構好きだった。

 冬になると厳寒40度の北満。訓練所を勝手にぬけだし、雪の山中、馬を乗り回し狐狩りに興じて小遣い稼ぎをしていた義勇軍時代。とてつもなく大きい夕日が地平線に沈む満州。ソ満国境を6頭立ての馬車やソリを駆って旅行した満鉄の訓練所持代。

 人食い狼に義勇軍の脱走隊員が食べられた話。白い狼が井戸におち、それを狼汁にして食べた話。(注2)平津戦役のときロックフェラー邸で見つけた金の皿。八路軍の師団長が恋をした話。

 父の話は刺激的で心をわくわくさせた。

 昭和35年頃、五味川純平著のベストセラー小説「人間の条件」が映画になり、両親が見に行くことになった。出かける前、母に「わしも同じような事があった」と話していた。私はその言葉に引かれ一緒に行きたかった。しかし子供の見る映画じゃないということで、連れて行ってもらえなかった。

 このことは私の心の隅で久しく眠っていた。20歳の頃、大阪梅田の映画館でオールナイト一挙上映「人間の条件」の看板を見た。十数年前の記憶がよみがえってきて、衝動的に入った。仲代達也扮する主人公の梶が中国人の労務者が憲兵に殺されようとするのをとめる場面があった。

 「わしにも同じような事があった」―この映画には「満州のおもっしょい話」とは別の修羅の世界があった。父がこどもの私には決して話さなかった日本の残酷な植民地支配を描いていた。

 去年の春、中国で反日デモが燃えさかったとき、父に改めて「義勇軍」時代から帰国までのエピソードを話してもらった。「わしは若い頃はチャランポランだった。義勇軍のとき中国でやっていたことで、7割ぐらいは内地(日本)では人に言えない恥ずかしいことだった。国粋主義に傾倒して大日本赤誠会という右翼団体に入っていた。連中は満州を自分の土地のように思っていて満蒙は日本の生命線だとよくいっていた……」

 現在の日中関係は小泉首相の靖国参拝などで、国交正常化以来、最悪といわれている。私は現在の日本人の多くが、戦前、日本が中国で何をしたのかあまりにも知らなさ過ぎることが、両国の関係悪化の一因になっているのではないかと思っている。

 父の一兵卒としての15年間の体験をたどることによって戦前の日本は中国でなにをやっていたのか、当時ガチガチの国粋主義者であった父が見た中国の八路軍とはどんな軍隊だったのか、敗戦国の日本人にどんな態度を取っていたのかなどをこれから書いてみたい。

関東軍の特攻の現実

Save0002 父の部隊がソ連軍と対戦した鏡泊湖(きょうはくこ)

 昭和20年8月9日、ソ連軍は満州帝国に侵攻した。父は関東軍の機動連隊に所属していた。機動連隊とは当時、南方への転戦で戦力の低下が著しかった関東軍の中でも精強の若い兵をそろえた部隊だった。

 父はそこで輓馬(大型の引き馬)に重機関銃を乗せ、山や谷でも機動的に展開し、攻撃する訓練を受けていた。しかしソ連機甲師団は100トンもある重戦車の軍団だ。馬に重機関銃程度で対抗できるはずはない。そこで馬は谷間に隠し、急きょ爆弾を抱えての特攻(自爆攻撃)となった。

 黒龍江省、牡丹江市から南に約100キロ、吉林省との境に鏡泊湖(きょうはくこ)という鍵状で南北に細長い風光明媚な湖がある。牡丹江が火山活動でせき止められて出来た山上湖で現在では避暑地としても有名だ。そこにメレンコフ元帥率いるソ連第1極東軍の機甲軍団が侵攻してきた。父たちは湖の土手に地雷を埋め塹壕を掘って待ち構えていた。

 航空機による神風特攻隊は良く知られた存在だが、爆弾を抱いて戦車に体当たりをする特攻はほとんど知られていない。大戦末期、旧満州でおそらく数十万の関東軍兵士が特攻を命じられた。父もその一人でいままで詳しく話をしたことがなかったが、最近口を開いた。

 特攻の命令を受けたとき、部隊はどんな雰囲気だったのか。また士気はどうだったか。父にそのときの様子を聞いてみた。

Q.特攻命令を受けたとき部隊はどんな雰囲気だったのか。

A.異様な雰囲気だった。負け戦が確実で全員浮き足立っていた。2人1組で口径15センチの榴弾(かなり重い)を抱え、戦車が近づくと、塹壕から飛び出てキャタピラの前に放り投げると言う捨て身の戦術だが、これはただの自殺で、敵戦車を破壊するどころか、かすり傷ほどしかつけることが出来ない。

 と言うのは口径15センチ榴弾というのは爆発すると無数の鉄片が飛び散り、人馬を殺傷させるには有効だが厚い鋼鉄で覆われたソ連軍の100トン戦車には、片方のキャタピラを浮かすぐらいの威力しかない。

Q.日本軍は戦車をもってなかったのか。

A.すこしあったが20トンぐらいの軽戦車でソ連の戦車と比べると横綱と子供ぐらいの差でまるで役に立たなかった。

Q.硫黄島やアッツ島では最後の玉砕のとき部隊長が先頭にたって突撃をしたと言うが、どうだったのか。

A.連隊長は我われに命令してから高みの見物だったように思う。終戦後捕虜になってソ連に連れて行かれた。

Q.自分はどう思っていたのか。

A.やる気がまったく無かった。わしは(注3)抗命罪を起こした不良兵士だったので、目を付けられていて一緒に自爆する相手は上等兵だった。上等兵にこういってやった。『上等兵殿、タバコでも吸って冷静に考えましょう。敵に打撃も与えず死んではただの自殺です。犬死では天皇陛下に申し訳が立たないではありませんか。陛下が泣きますぞ!』上等兵は黙ってうなずいた。

 塹壕に入って様子を見ていると前方で先陣攻撃をした組がいた。煙があがって戦車のキャタピラが浮いて空回りしているみたいだったが、破壊された様子はなく、あまりこたえていないようだった。すぐ戦車群の進行がスットプした。そのあと敵は砲撃をしてきた。
 父は鍬で土を掘る格好をしてまくし立てた。「敵は徹底的に耕してきた。一昼夜、徹底的に大地を掘り起こした。我われは砲撃がやんだ一瞬の隙を見つけて山の中に逃げるほか無かった。まもなく終戦になった……」

Q.特攻についてどう思うか。

A.参謀たちは無能であった。場当たり的な対応に終始していたように思う。最初の特攻で戦車は止まったが、次に敵が圧倒的な火力で対応してくるとどうにもならなくなる。わしは義勇軍以来、抗日パルチザンと戦闘をしてきたので、関東軍では新兵とはいえ、戦争について多少は知っていた。特攻の無意味さはすぐわかった。ろくな武器も持たさず精神主義で兵隊に自殺を強要して、自分たちは後方の安全なところにいる。こんなのは作戦の名に値しない。

Q.ソ連軍の兵力はどうだったのか。

A.歩兵の装備からして敵はマンドリン銃(楽器のマンドリンに似た自動小銃)でこちらは明治38年式歩兵銃。圧倒的な兵力と火力の機甲軍団で、鎧袖一触と言うしかない。

……小泉首相や石原都知事は鹿児島県知覧の特攻隊に感動して、特攻を褒め称えているようだが、笑いながら「そんなにいいものなら自分で爆弾を抱いてやってみればよく分かる……」

 父は60年たった今でも無謀な特攻を命じた軍のエリート参謀たちに憤りを持っている。「戦争ぐらい思っていたことと、やることが違っていたことは無い。そして勇ましい言葉を言った指導者ほどあとで責任を取らなかった。」

 この言葉を今の責任ある政治家たちはかみ締めてほしい。

(注1)金日成 (1912~1994) 1931年ごろから旧満州で抗日ゲリラ闘争を指導 1948年朝鮮民主主義人民共和国成立時首相 1972年国家主席 金正日現労働党総書記の父。

(注2)平津戦役 国共内戦時の3大戦役のひとつで、1949年1月人民解放軍第4野戦軍が天津を攻略し、孤立した北平(北京)を無血開城した。これによって内戦の帰趨がほぼ決まった。

(注3)抗命罪 旧日本軍の軍法で上官の命令を拒否することで重罪になる

Save0004_3 旧満州の地図(東南部)

郷敏樹 兵庫県南あわじ市在住

○年表
大正13年1月 兵庫県淡路島に生まれる。

昭和13年3月 高等小学校卒業後 満蒙開拓青少年義勇軍に志願。

昭和13年7月 旧満州へ渡る。嫩江(ノンジャン)の訓練所に入所。

昭和15年 満鉄の訓練所に移動、満鉄の警備に当たる。

昭和16年 このころ橋本欽五郎退役大佐(東京裁判で無期禁固刑)が設立した大日本赤誠会という右翼団体に入る。旧満州、華北で活動。

昭和17年 このころから軍の特務機関の仕事でソ満国境の調査などをする。

昭和18年 このころ四平街にあった満州拓殖公社の獣医養成講座で学ぶ。

昭和20年5月 徴兵検査で甲種合格。関東軍に入隊。訓練で中国人捕虜の刺殺を命じられ拒否。抗命罪で重営倉に入る。しばらくして、たまたま近辺を視察中の伯父の樋口季一郎陸軍中将(北方軍軍司令官)の知るところとなり。父の言い分(無抵抗のものを殺すのは武士道に反する)が認められ釈放。

昭和20年8月 関東軍機動連隊でソ連戦車への特攻攻撃(爆弾を抱いて自爆攻撃すること)の命令を受ける。終戦後ソ連軍の捕虜となる。

昭和21年1月頃 ソ連軍の貨車でシベリアに移送中仲間3人で脱走、一人は射殺される。

昭和21年2月頃 旧満州の荒野を彷徨するうち中国人の友人に助けられソ連が接収する牡丹江にある関東軍第八病院に収容される。

昭和21年3月頃 ソ連軍から八路軍に引き渡される。

昭和21年夏頃 八路軍から東北に派遣された林彪の東北野戦軍(東北民主連軍)の後勤部(輜重部隊)に入り、国共内戦中、中国各地を転戦する。

昭和25年頃 朝鮮戦争に従軍。

昭和28年8月 上海から高砂丸で帰国 舞鶴入港。

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