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2010年5月

私の中の中国5.子守④

纏足(てんそく)

 わが家は1970年代半ばまで産経新聞を愛読していた。私が新聞を読み始めたきっかけは子供の時連載されていた山川惣治の「少年ケニア」とか南海の「少年エース」のような「絵物語」に魅かれたからだ。物語の主人公はシャチに育てられたとか、アフリカのジャングルに置き去りにされるとか、奇想天外な筋書きが子供の冒険心を刺激した。

 アフリカの部族には、身体に刺青をいれたり、首にわっかを数珠つなぎにして首を伸ばしたり、唇の下に皿をうめこみ「いかりや長さん」風にするなど、さまざまな奇習があることを絵物語などで知った。私の幼い好奇心は少年雑誌のアフリカ特集を読むたび膨らんだ。

 両親に聞いた中国の纏足の話も「絵物語」の延長線上にあったが、「中国では足が小さいのが美人の条件なんよ」と言う母の説明にどこか納得いかなかった。いくら美人の基準が世界中違うと言っても、纏足が女性にとって最大の受難だという認識は幼い私でもできたが、同時に中国は奇妙奇天烈、摩訶不思議な国だというイメージも刻み込まれた。

 別にフェミニストを気取るわけではないが、少年の私でも人間の動物としての肝心な能力を制限、退化、改造するというのは女性に対する冒涜のような気がした。女性にとって、どんなメリットがあるのかと言えば「女性の魅力」が増し、嫁としての付加価値が増大するというだけで、あとは損ばかりである。運動能力、労働能力は確実に落ちる。戦乱や災害など危急の時に逃げ遅れ、死んだり怪我をする確立が大きくなる。結婚しても一生夫と家庭に縛られ自立できない。1000年も続くからにはそれなりの合理性もあるだろうが、手前勝手な男性社会の反映であることは間違いない。

 両親の話では私の子守だったおばあさんは、幸いこの悪習に染まらなかった。その理由は父から詳しく聞いた・・・ (続く)

私の中の中国5.子守③

子守のおばあさんは大足だった

 夜這い騒動のあと、今度の子守は間違いがあってはいけないと、年寄りに頼んだ「まだ60になっていなかったかなあ、昼間は一ちゃん(筆者)をおばあさんのうちに預けていた」と今年86歳の母はいう。60歳にもなっていないのにおばあさんと呼ぶのはキツイ。現在の私の年齢が58歳なので納得いかない。しかしそのころ私の両親はどちらも29歳の若夫婦だった。「当時の中国人はふけて見えた」そうなのでそんな言い方をするのだろう。

 「気のいいおばあさんで、大きな足をしていた」という。私は子守のおばあさんの記憶は全くないのだが、小さい頃聞いた「大きな足をしていた」という両親の説明は現在でも生々しく憶えている。このおばあさん、ジャイアント馬場(古い!)のような大きな足だったのではない。測ったわけではないが、現在の基準では普通の大きさだったと思われる。何故両親が「大きな足」のおばあさんと、わざわざ言ったのかというと、両親が知っているその当時の農村に住んでいる60歳以上のおばあさんは大抵、纏足(てんそく)をしていたからなのだ。

 古来中国では、女性は足が小さいほど魅力があると考えられ約1000年ほど前から纏足が始まったと言われる。足の成長を止めるため幼児期、親指を除く4本指を内側に折り曲げ布で巻きつけた。1953年ごろは都市部ではほとんど見かけなくなったが、母によると「田舎ではおばあさんで纏足をした人はよく見かけ、小さな足でヨチヨチ歩いていた」という。「こんな風だったかなあ」と母は足の外側に重心をかけ、かかとでヨチヨチ歩いて見せた。清潔にするため、ときどき布を替えているところも見たことがあると言う。(続く)

私の中の中国5.子守②

真っ暗闇の世界

 兵舎の全員をたたき起こし、「犯人」を特定するため父はシャーロック・ホームズも顔負けの機転をきかせた。母の話では「全員の脈を診た」という。全速力で逃げれば「韋駄天」も人間である。脈は当然上がっている。父の狙いは当たり「御用」となった。

 この話は私の記憶から完全に抜けていたが、最近母としゃべっていて、子守のことから話が発展した。「脈をとる」とは獣医だった父らしいすばやい行動で感心したのだが、よくよく記憶をたどれば初めて聞く話ではない。父は子供の私に夜這いの話などしなかったが、だれかお客さんが来たとき、しゃべったのを隣で聞いていた。我が家は6畳一間に4人が暮らしていたので、客との会話は、たちどころに私の耳にも入る。胸の奥底から父が誰かと嬉しそうにおしゃべりしている姿が甦ってきた。そのころは耳年増の小学生も「夜這い」や「間男」なんていう言葉は知らなかった。

 母から聞く昔の中国体験は生活全般が多いが、当時の中国は都会以外は電気がない生活だというのが前提である。夜は灯油を皿にいれて芯を浸し火をつけるだけの、ささやかな灯りしかない。油代ももったいないし、夜は暗くなればさっさと寝る。父も母も内戦の数年間全く電気のない生活をしていた。結婚してから漢口に移ったとき、夜の街があまりに煌々と輝いていたので、慣れるまでまぶしかったという。

 のどかな農村にも若者の集団(軍隊)がはいると「カルメン」のような色恋沙汰や騒動が起きる。我が家の「夜這い事件」は、母によると「若い兵隊とできていて、誘いにきてたみたいやな」というのが真相らしい。狭い部屋でことに及んでいたわけではないが、教育上よくないという事で、幹部に話して子守は辞めてもらったそうだ。(続く)

 

 

 

私の中の中国5.子守①

夜這い

 父と母が結婚してからの足どりを知りたいと思って、母に地図を見せながらあれこれ聞いているが、60年も前のことになるとさすがに記憶も薄れ、場所が出てこない。時間の系列もあやふやだが鄭州、漢口、武昌、開封・・・と移動したようだ。

 1953年春、私がヨチヨチ歩きのころ、河南省信陽市に住んでいた。父の部隊は生産大隊に変り、農村で自給自足の生活をしていた。母は医者がいない診療所で、保健婦のような仕事をしていた。一つ下の妹が生まれていたので、無理はできず子守を雇う事にした。私たち家族は小さな一軒家に住んでいた。子守は昼間、私の面倒を看て夜は泊まり込みで一緒に住んだ。「農場の勤務員だった人の嫁さんだった」と母はいう。何故結婚していて住み込みで子守をするのかよく分からないが、これが間違いの元だった。

 家には二部屋あって仕切りがしてあった。私たち家族4人が寝ている隣の部屋で子守の女性は泊まっていたが、あるとき深夜に誰か来ているのに母が気付いた。男のようだが、真っ暗闇でよく分からない。父はグウグウいびきを書いて爆睡している・・・よく朝、母が父に話すと「お父さんは怒って今度来たら捕まえてやるといきまいた」数日後また夜中に来ているのを母は察知した。父に知らせると、飛び起き隣の部屋に突進した。男は慌てふためき、窓から飛び降りた。父は追っかけたが、早いのなんのってさすが「韋駄天」の国、みるみるうちに離され、見失いそうになったが、男は部隊の宿舎の方向へ走って行く。

 父はハアハアと息遣いをあらくして部隊の宿舎に入った。全員をたたき起こし、誰が侵入したのか問い詰めた。しかし皆黙りこくっている。父は一計を案じた。(続く)

五色サルビアホールで淡路人形芝居公演

 

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 5月23日洲本市五色町の特別養護老人ホーム「五色サルビアホール」で淡路人形浄瑠璃「えびす舞」の公演をしてきました。公演の後、人形とお年寄りたちとの交流もあり、福を授ける「えべっさん」がお年寄り一人ひとりに握手をしてまわり喜ばれました。

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私の中の中国4.お見合い(下)

 母は桂三枝の「新婚さんいらっしゃい」という番組が好きで、昔はよく見ていた。新婚夫婦が出てきて「恋愛ですか見合いですか」と司会者が聞く。この質問がなければ次に話が発展しない。たまに「騙されて」と言う人もいるが大抵どちらか答える。この番組がはじまった40年ぐらい前には恋愛結婚が優勢だったが、町のあちこちに仲人さんもいて、釣書と写真を持って年頃のいる家庭をぐるぐる回っていたので、見合い結婚もまだまだあった。

 私の親の世代は圧倒的に見合い結婚が多く、たまに恋愛結婚の人がいると、「ヘェー進んでますね」とかいって感心される、私が若いころ、この世に存在していた、明治生まれのおばあちゃんで「わたしゃ彼氏を追っかけてブラジルまで行きました」なんていう情熱的な人に出会うと、それこそ尊敬の眼で見てしまうが、戦前だとアバズレといわれていた可能性もある。このお婆ちゃん実は私の父方の祖父と内縁関係にあった人で・・・時代の制約なんか無視する自由人はどの時代にもいる。

 思い込みというのは恐ろしいもので、私は父と母の結婚は「昔のお見合い」だと信じていた。中国の地図を広げながら母に結婚した場所を思い出してもらっていたとき「中国でもお見合いなんかあるんかなあ」と何気なく聞くと、「さあ知らんなあ、中国にお見合いがあるか、どうか知らんけど、紹介するのはあると思う、会わんことには始まらない」と答えた。

 私が予期した答えとちがっていた。日本のお見合い制度は、まず仲人が両家の格、当人の学歴、仕事、収入、年齢、容姿などを選別、勘案した上、写真や釣書を双方にもって行き、当人が気に入れば会う、という段取りが多い。戦前だと「※大陸の花嫁」の場合写真と釣書だけで結婚をきめ決死の思いで満州に渡るということも少なくなかった。私は昔のお見合いに、そんなイメージを持っていて、母に聞いたのだったが、母は「写真などないし会わんことには始まらない」と言ったのが新鮮だった。私の両親の場合、今の日本と変わらない、友達や会社の上司に紹介されたのと同じ事だったのだ。当時の中国はお見合い用の写真なんかなく、農村部では写真自体とる機会はほとんどなかった。

 明治以来、近代化(西洋化)では中国より一歩も二歩も進んでいた日本も、戦前まで結婚を当人だけで決める人は少なかった。つい40年ぐらい前でも、親が反対してやめたとか、親が決めた相手と結婚した話など一杯ある。宗教が理由で親戚が反対してやめた例も私は知っている。私の両親の場合中国にいたので、反対する係累もなく当人同士が気に入れば好きにできた。まさに結婚は両性の合意によって行われた。

 恋愛結婚と見合い結婚の間に紹介結婚があってもいいのではないか。恋愛結婚に他人の「意思」がはいる余地がまったくないとすれば、見合い結婚には当人以外の「意思」が入り混じる。紹介なら最初のきっかけを他人がつくるだけで、激しく燃えて結婚するカップルもあれば、「寂しかったからよ」と言う人もいる。そこには当事者の打算は入るだろうが、自己責任である。母に恋愛結婚ですかと聞けば即座に否定するだろうが、紹介ですかと問えば「そうよ」と答えるだろう。

 母は日本に引き揚げて来て、始めて熊本県菊池の実家に私と妹を連れ帰ったとき、祖母に「親にもいわんと勝手に結婚して・・・」と叱られたそうだ。

※大陸の花嫁:戦前国策の満蒙開拓団や、満蒙開拓青少年義勇軍の青年たちに嫁ぐため旧満州に渡った女性たち

 

 

 

 

私の中の中国4.お見合い(中)

 父と母が結婚した1951年の春頃、中国では※「抗美援朝」の朝鮮戦争は続いていたものの、台湾以外の中国本土はすべて国民党軍が駆逐され戦時体制からの脱却が図られようとしていた。※留用者の帰国はまだ日程に上っていなかったが、平和の訪れと共に日本人同士の結婚も奨励されていたようで、母にも転機が訪れた。

 「鄭州だったかなあ・・・あの頃は手術隊も解散して、お父さんと知り合ったのは、鄭州の診療所に勤めていたころだった」という。中国人の医者と看護助手の女の子と母だけの小さな診療所で地域住民の医療をになっていた。河南省鄭州は殷の時代から栄えた中原の由緒ある街である。

 診療所、所長の斉宝球(チ・ポウ・ズ)※医生が近くに日本人の年頃の男性がいるので会ってみないかと母に勧めた。「お父さんは馬部隊で獣医をしていたので街の郊外に駐屯していた。獣医所の所長は馬に乗り、もう1匹を手綱で引き診療所までやってきた」という。乗馬できない母は獣医所長に馬を引いてもらい、「馬部隊」まで父に会いに行った。

 父には生前、中国での体験を聞き書きしていたとき、結婚のことを少し聞いていた。父は戦前「義勇軍」で徹底的に皇国思想を叩き込まれ、「大日本青年党」という橋本欽五郎が設立した右翼団体にも入っていたことからも分かるように、国粋主義に心酔する、バリバリの右翼だった。人民解放軍から見れば反動分子であり、思想は真っ黒けに見えた。父の所属する「馬部隊」の獣医所長は「ローシャン(老郷)、君は人間はよいのだが思想は真っ黒でよくない、この近くの診療所に、日本人の若い看護婦がいて、彼女は勤務態度が真面目で、思想もしっかりしている。つきあってみてよかったら結婚したらどうかね、おちつくぞ」といわれたという。

 尼崎に嫁いでいる従姉妹が「おっちゃんは市原悦子がタイプやゆうな、そういえばおばちゃん似てるわ」なんてよくいっていた。顔はともかくお母さんぽい雰囲気が市原悦子に似ていなくもない。父は小学三年のとき母親を亡くしているので、母性に満ち足りていなかったのかもしれない。しかしこのとき父に気にいられたのが母にとって良かったのか悪かったのか。結論はとうの昔に出ていると思うが・・・恐ろしくて母には聞けない。

※「抗美援朝」: 朝鮮戦争時の中国のスローガン「朝」は北朝鮮、「美」は米国

※留用者: 第二次大戦後、中国大陸、台湾などに留め置かれた日本人で、医療関係者、技術者などを中心に約1万名くらいいる。

※医生: 医師

私の中の中国4.お見合い(上)

 10年くらい前、次女が保育所に通っていた頃、父にはよく送り迎えをしてもらっていた。私たち夫婦は家から1キロ離れた店に毎日通っていたが、両親は店の倉庫の2階に住んでいたので、保育所が終わると、商売で忙しい私たちに替わって父が「おむかえ」に行き、母がそのあと次女の面倒を看ていた。

 あるとき、私が二階に上がっていくと、母が次女に「説教」をしていた。「あんなあ、お婆ちゃんもよその国に長いこと一人でいて寂しかったんよ、日本人は誰もおれへんし・・・それで結婚したんよ」母は少し怒った口調だったので、何事があったのかと聞くと、「さっきお爺ちゃんと口げんかしとったらこのこが・・・お爺ちゃんとお婆ちゃんはいつもけんかばかりして仲が悪いのに何で結婚したんよ?と聞くから説明してたんよ」とムキになっていう。私は母の表情があまりにも真剣だったので、笑いそうになったが、必死にこらえた。

 私の両親は中国人民解放軍で知り合い結婚したが、どんなきっかけで結婚したのか詳しい事情を母に聞いたことがなかった。親戚で集まったときなど、従姉妹たちが「お見合いの時、叔母さんは馬に乗って叔父さんの所へ行ったんだってねえ、ロマンチックじゃない!」なんて話がもりあがっていても、私は照れくさくて、知らん顔をしていた。

 

 

 

 

私の中の中国3.おまるとトイレ

 幼児期、私が愛用していたおまるは引揚げの時、中国から持ちかえったものだ。丸くて金魚鉢の出っ張った淵を取ったような形状で、黄色いホーロー地にピンクの牡丹の花が描いてある派手なものだった。ちょっと見ると何に使うのかよくわからない入れ物で、鍋や水差しにしては取っ手がなく使いにくい。洗面器だと口が狭いし、花瓶にすれば広すぎる。この口にお尻を入れる想像力は日本人にはないようだ。

 日中戦争のときの話である。徴発と言う名の略奪で農家に押し入った皇軍(日本軍)の兵隊が、逃げて誰もいない中を物色中、娘がいたと思われる部屋で陶器製の丸い器を見つけた。デザインもオシャレで色もカラフル。これはきっと姑娘(クーニャン)が使っていたモノに違いないと喜び持ち帰った。部隊で何に使おうかと、はたと考えた。ちょうど昼飯の時間で、おひつがなかったので、ちょうどいいと、中隊長殿の食事に飯を盛りつけた。皇軍の炊事兵はお尻を入れる器にお米を入れた・・・あとで「米が異なる」ことがわかって当番兵は冷や汗をかいた。

 なんでおまるにこんな綺麗な柄をつけるのだろうかと、思うくらい立派な器だった。トイレだと、さぞかしすごかろう。母によると漢口の病院に勤めていたときは、宿舎が政治委員と同じ建物だったので、水洗トイレを使っていたが、田舎はどこへ行っても、土を掘って回りに藁を立てただけのザットしたものだったという。「南方の田舎では日本人を見たことがない地域もあって、私がトイレに行くと子供がぞろぞろついてくる。日本人はどんなカッコでするのか興味津々で注目の的だ。コラッ!と言って追い返した。あの時よわったわ」

 子供が用を足すにも平気で道端でするが、終わった後、なにか呼ぶように声を発すると、犬がすっ飛んできてパクパク食べる。最後は子供のお尻もぺろぺろ舐めてお掃除してくれるそうだ。「農家で豚をを飼っているところは、豚のえさにしていたみたいやなあ」と母は言う。私の父は大変、味にうるさい人間だったが、中国の豚を「あんな美味い豚は他にない。なんであんなに美味かったんかなあ」とよく言っていた。

 引揚げの時、上海で1週間ぐらい船を待っていた。母は宿舎のトイレに行ってまたまたビックリした。トイレの部屋にずらっと大人用のおまるが並んでおり壁も、仕切りもないのだ。男女は別だったが「恥ずかしかった」という。

 今の日本人がこんな話を聞くと何と不潔なと思うかもしれないが、私はそんなにおかしな事ではないと考える。上海の仕切りのないトイレは文化の違いだとしても、私の世代で田舎に育ったものは、1960年ぐらいまで、下肥を畑にまいていたのを憶えている。祖父がよく便所のくみ出し口から大きい木のひしゃくで肥えタゴに移し天秤棒でかついで畑へ撒きにいっていた。そんな光景はほとんどの日本人は忘れてしまったが、自然のリサイクルを考える上であれほど分かりやすい労働はなかった。今あの頃に戻ることは無理だろうが、現代の科学で、もう少し工夫はできないだろうか。ちなみに我が家が水洗トイレになったのはつい3年前で、2階だけ水洗にして、撤去・改造が大変なので1階にある昔のポットン便所も併用している。

 

私の中の中国2.「イー、アール、サン」

 私が2~3歳ぐらいのころ、親戚の伯母さんや年長の従姉妹に「一ちゃん中国語でこんにちはを言って」とか、「10まで数えて」とかよくいわれた。何でそんな事を聞くのかよく分からなかったが「イー、アール、サン、スウ、ウー、リュー、チー、パー、チュー、シー」と答えるとパチパチ拍手をしてくれて「すごい!すごい!」と褒めてくれる。はじめは得意になってやっていたのが、度々注文されると嫌になり「知らんわ」とすねたりしたが、やっぱり子供で「お願いやから言ってよ」と懇願されると「イー、アール、サン・・・」とまた声をはりあげた。

 こんなことが小学校に上がるまで続いていたように記憶している。一昨年,埼玉に住んでいる7歳上の従姉妹が久しぶりに淡路に帰って来て、昔話に花が咲いた。「一坊はなあ、中国から帰ってきた来たとき、メイヨーラ(没有了)、メイヨーラいってね、ピーピーよう泣いていたなあ、片言の中国語しゃべって面白かったよ」

 この従姉妹は私が大人になっても、「一坊」と呼ぶ。若いころは嫌だったが、40、50と歳を重ねてくると、呼ばれなくなって久しいためか、なにやら郷愁を感じてきて、子供の頃の気分が戻り、快感さえ覚えるのが不思議だ。同窓会でも昔の「女の子」に「郷クン最近どうしてる」などとクン付けされると、甘酸っぱい想いが甦ってきて・・・彼女のしわも、のびて見えなくなる。誰でもというわけではないが・・・

 閑話休題、おそらく年長の従姉妹にとって私は中国語ができるロボットみたいなものだったのだろう。そのころ淡路島の片田舎で、帰国子女は私くらいだったのではないか。私はヨチヨチ歩きのバイリンガルだった。

 母に「メイヨーラ」の言葉の意味を聞くと、「ない」という意味だという。母は昼間、診療所勤めのため、私を中国人の子守に預けていた。子守は、私がおまるで用を足すときに終わったかどうか聞くのに

「ヨーメイヨー」(有没有)=「ウンコ終わったか?」(あるか、ないか)

「メイヨーラ」(没有了)=すんだよ(もうないよ)

「こんな会話をしていたのだろう」と言う。

 5歳ぐらいになると、同じことを何回も言わされるのが、かなり億劫になり、「もう忘れたわ」と拒否するようになった。こうなると可愛いロボットちゃんも、ただの悪がきになる。小学校に上がるころには、本当に忘れてしまいそうになったが、たまにリクエストされると、バイリンガルのプライドのため、知らないとは言えず、急遽母に特訓される。

 「アールのルは巻き舌でいうのよ、10はシとスの間の音でシに近い音よ」とか細かい事をいって、教育媽媽は厳しい。そのせいか還暦近くなった現在でも中国語で1から10までは数えることができる。

私の中の中国1.「ママ(媽媽)とパパ(爸爸)」

 今日は母の日なので、それに関する話題を書きます。

 私は1952年中国の漢口に生まれ翌53年家族4人で日本に帰還した。子供の頃、両親をパパ・ママと呼んでいた。妹も同じように呼んでいたし、親戚の伯母さんも「ママいるか」とか「パパ呼んできて」とかごく自然にパパ・ママを使ったが、一緒に住んでいた従姉妹は「おかあちゃん」だった。小学校に入ると同級生はすべてお父ちゃん、お母ちゃんだった。私はそれまでパパ・ママと平気で言っていたのが、友達が家に来ると恥ずかしくていえなくなった。

 どうも自分の呼び方は他の子供と全然違う、異質な呼び方だとさとった。そう思うと学校や、よその家に行ったときパパ・ママと呼ぶ状況そのものを避けたくなって、常に気を配るようになった。小学校2年生ぐらいだったと記憶しているが、国語の時間に、自分の両親をどう呼んでいるかと先生が私たち生徒に聞いた。私が最も恐れていた事が現実になった。私は下を向き先生に当てられまいと神様に祈った。あてられた生徒は嬉しそうに次々と「おとうちゃん」「おかあちゃん」と答えている・・・私はわが身の、呪わしき出自を嘆いた。神は私を哀れみ、先生の指名をやめさしめた。

 後年、齢をとり、これがカルチャーショックと言うものだと知ったが、中学校ぐらいまでたまらなく嫌だった。死にたいくらい嫌だった。もし悪童ドモに知れれば、間違いなく馬鹿にされる。そのころテレビが普及しだしアメリカ製のテレビドラマ、「名犬ラッシー」とか「うちのママは世界一」など人気があった。音羽信子の「ママちょっと来て」のようなホームドラマが全盛を極めていた。都会ではパパ・ママはモダンな言い方で普及していたようだが、淡路島の田舎は反対で、ベンコな!(生意気・ええかっこしい)という一言で笑われる。小学生の頃、母がテーマの作文で悩んだ挙句、白紙を出した事がある。反抗期の中学生になると開き直って母の事を「オバハン」と言うようになった。母は軽く受け流していた。

 私は最近、なんでうちはパパ・ママと言うようになったのか長年の疑問を母に聞いた。答えは簡単なことで、「周りの中国人がいってたからだ」と言う、どんな字を書くのか聞くと媽媽(マーマ)と書いた後、「パパはどうだったかなぁー思い出せんわ」とちょっと考えて、昔の中国語版の中国画報を引き出してきて、調べ始めた。「ないなぁー」と言うのでインターネットで検索すると爸爸(パーパ)というのがあった。母に確認してもらうと、「そうそうこんな字だった」という。

 私はパパ・ママという呼び方は、アメリカンホームドラマの影響でなんとなしに英語が語源だと思っていたが、「灯台下暗し」と言うか、中国語の影響だという事を「媽媽」から知った。

留用された日本人「母の場合」5

三大規律八項注意の歌

 ♪「革命軍人は忘れちゃならぬ三大規律と八項注意、民衆の針一本糸一筋とってはならぬ、人民の戦士は人民を愛す・・・祖国を守り勇敢に前進しよう」

 以前、NHKテレビで大黄河というドキュメント番組がありその一部を録画したのを見ていたとき、番組の中で張老人という元紅軍(人民解放軍)兵士が「三大規律八項注意の歌」を歌っていた。母がそれを見て「わたしらもよう歌わされたけど大方忘れたわ」とニヤッと笑った。

 解放軍では軍律を歌にして、体操にあわせて歌い毎日教育した。母に聞くと「三大規律八項注意の歌というのがあって、女子に悪戯するなとか、捕虜をいじめるなとか、物を壊したら弁償するとか、人民のものを糸一本でも盗るなとか、あと農家に泊まらせてもらったら朝掃除するとかごく当たり前の教育だった」という。

 中国人の兵士は読み書きできない者が多いので、文書で教えるより歌にしたほうが憶えやすいのでこうした方法がとられていた。また日本語のパンフレットもあって母は「引揚げの時もってきたので、本箱の中にあったとおもうよ」といったので探してみたが見つからなかった。私は父の蔵書は数の多い美術書は整理したのだが、一般の本はダンボールに詰めてほったらかしにしてある。

文盲の日本人女性

 母と一緒に働く中国人医者や看護婦は当然読み書きできる。一般兵士は読み書きできないものが多かったが、日本人でも字を知らない女の人と一緒に働いたことがあるという。

 「元開拓団の女の人で長野県かどっかの人だったが、字が読み書きできなかった。それで日本人学校で勉強しながら、看護の下働きをしていた」長野県は戦前、満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍の送出日本一の県だった。

 「私より下なのに読み書きできないなんて、かなり貧乏で学校にも行けなかったんやなあ、10町歩の大百姓に嫁にいけると満州に渡ったみたいで(大陸の花嫁)、あの時ビックリしたわ大正時代みたいな話で」と大正生まれの母が言った。

 私はこの話をきいてちょっと感動した。留用というのは日本人が中国人に進んだ技術を一方的に教えていたと思っていたが、それだけではなくこのように貧しくて日本で教育を受ける機会がなかった開拓団の女性に日本語の読み書きや基礎教育を教える場でもあったのだ。 母によると八路軍で政治教育はあったが、日本の女学校で歴史の時間に教わったようなことで難しい事はなかったそうだ。母は女学校を出ていたので八路軍の中の「試験」はよかった。小学校にもいけなかった人は、当然始めて習う事ばかりでハンディーがあるので「鑑真」が何者かも知らない。

 NHKの「留用された日本人」の放送で、親が満鉄の技術者で甘粛省天水の天水鉄路中学校に通っていた江見和子は担任の王書荊老師(先生)に、日本人も中国人も同じ人間として仲良くしなさいと教えられた。母たちも遣隋使や遣唐使、弘法大師、鑑真和上など古代からの日中交流の歴史をあらためて勉強することにより、友好の大事さを知った。

父の15年戦争5.絵かきになりたかった父

2006年4月6日JANJANに掲載された記事ですが、写真の追加、加筆をしております

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昭和8年頃の郷国平一家。父は前列右端。右上の祖母ちよの、昭和8年死去

挿絵画家に憧れて
 父の遺品を整理していた母が「こんなの見つけたわ」と差し出したのは昭和14年10月1日、日本通信美術学校が発行した、「さしゑマンガ教習録第四巻」と父が描いた習作だった。この本は当時日本で唯一の挿絵画家や漫画家を目指す少年少女向けの通信教育雑誌で、挿絵漫画家になるための参考画集や基礎技法、印刷製版の知識、日常修養法が編集されている。

 その頃の人気挿絵画家岡本一平(画家岡本太郎の父)の自画像やドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーの「騎士と死と悪魔」なども口絵に載っており、軍国主義一辺倒のこの時代にあって、現在のイラスト専門学校にも通じるモダンな通信教育が日本にあり、全国の絵心あふれる少年少女の夢や憧れを育んでいたことに意外な感じがした。

Photo11 昭和12年ごろの父の習作 

薄茶色に変色した添削課題用紙に墨で描かれた武者や、美少女の挿絵には添削・講評がされており、点数が付けられていた。西條八十の「落葉」という詩にイメージした叙情絵を描くという課題作品の裏側に、先生の講評が書いてある。―「佳作・80点、デッサンの不充分さはあるとしても、文意をウマク据えた作品として好感が持てる。寒そうなポーズに朝の感じは充分あるし、ジッと見つめているところは効果的」

 父はこの通信教育を高等小学校在学中から受けており、旧満州に行ってからもしばらく続けていたという。

 「本当は京都の美術専門学校に入って絵描きになりたかった」

 以前父に「義勇軍」(満蒙開拓青少年義勇軍)に入った理由を聞いたとき、そんなことを言っていた。

 「ところが友達や先生、親兄弟、誰に相談しても、きょうび、絵なんか描いてめしは食っていけんと言う。そんな時、新聞広告で義勇軍の隊員募集を知った。一人では心もとないので友達5人で行くつもりだった。ところが直前になって家族が反対して次々やめると言い出した。みんな母親が猛烈に反対したようだ。うちの場合、お母さんはわしが小学3年のとき死んだので、強く反対するものがいなかった。親父は内心反対で、はっきり言わなかったものの、当時満州のハルピンで特務機関長をしていた母の兄である※樋口の伯父さんに手紙で相談したみたいだった。伯父さんは『まあいっぺん来たらいい、私も気にかけていよう』の一言で親父も承知した。そして阿万町では結局わし一人だけ行くはめになった」

 父の友人の今口光治氏は高等小学校卒業後、月給5円(現在の貨幣価値から見ると3万円ぐらい)で商家の丁稚でもしようかと思っていたという。しかし住み込みで朝から晩までこき使われて「あほらしい」ので、まだ「義勇軍」のほうがましだろうと志願したそうだ。

 昭和4年(1929年)10月、ニューヨークの株式暴落からはじまる世界恐慌は瞬く間に日本にも波及して、昭和恐慌を引き起こした。日本の重要輸出産業である生糸の相場も大暴落し養蚕農家に打撃を与えた。同時期に起きた東北地方の冷害・凶作は農村のいっそうの疲弊を招き、家族の離散や娘を売る農家が続出した。農村の過剰人口を受け入れるべき都会の工業、流通、サービスは大恐慌で縮小した。

 父の話によると、同期に入隊した隊員のほとんどは農家の次男・三男坊で食い扶持を減らすため志願した少年が多く、九州・鹿児島や東北出身の隊員の家庭はとくに貧しかったと言う。現地訓練所、満州での食事はまずまず良かった。主食は朝鮮から運ばれてきた、米の飯だったが、入所当時食事のたび鹿児島県出身の少年達は「米のメシ!米のメシ!」と嬉しそうにはしゃいでいた。父がなんでそんなに喜ぶのか理由を聞くと、彼らは家では芋や粟が主食で「米なんかほとんど食べたことが無い」と話していたと言う。

 「わしも8人兄弟で、母親も亡くなり、石屋兼農業をしていた親父も決して楽ではなかったと思うが、まだ米が食えるだけの余裕があった…」

 日本の多くの百姓は自分達の作っている米のご飯が毎日食べられること、それが何にもまして贅沢な時代だった。

 昭和13年5月9日午後1時、「義勇軍」兵庫県志願者143名が神戸の県庁に集合した。

 「満州へ行く前に茨城県の内原訓練所で2ヶ月間の基礎訓練があった。出発前、兵庫県庁に知事を表敬訪問した。壮行会やいろいろな行事があって、その後ディナーをご馳走になったが、テーブルの皿には今まで見たことも無かった神戸牛のステーキ肉が鎮座していた。血も滴るサーロインは、ほっぺたが落ちるほど美味しかった!あんな肉は後にも先にも食べたことが無い」

 おなかをいっぱいにした少年達は希望に胸をふくらませて、午後10時発東京行きの夜行列車に乗り込んだ。

※樋口季一郎(ひぐち・きいちろう) 1888年~1970年 兵庫県淡路島出身(旧姓奥浜)三原高等小学校卒業後岐阜大垣の樋口家の養子になり丹波篠山の鳳鳴義塾に学ぶ。大阪地方幼年学校・陸軍士官学校を経て陸軍大学校を卒業。ハバロフスク特務機関長・朝鮮軍参謀を経てポーランド駐在武官に赴任。昭和12年ハルピン特務機関長となった翌年、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人が満州国西部国境で立ち往生する事件が起こる。最初門戸を閉ざした満州国も樋口の働きにより受け入れを決定。満鉄を手配し無事ハルピンまで移送する。昭和14年金沢第九師団長。昭和18年北方軍司令官。アリューシャン方面作戦参画。5月アッツ島玉砕。7月キスカ島撤収作戦指導。昭和20年8月18日北千島・占守(しむしゅ)島に上陸して来たソ連軍と最後の戦闘を指揮、これを水際で撃滅する。
Photo12 晩年の父は「あわじを描く会」を主催して、趣味の日本画に没頭した。兵庫県の公募展で知事賞をもらったことがある。

P1020371やすらぎの一刻」

父は少年の頃挿絵画家にあこがれたが、時代と家庭の経済がそれを許さなかった。70歳を過ぎてからは絵画を中心にした生活で、父としては人生で一番充足した生活を送れたのではないかと思う。

父の15年戦争4.日中戦争勃発

 
この記事は2006年03月21日 JANJANに掲載されたのを、若干加筆、訂正、写真の入れ替えなどしております。

2_save 盧溝橋で日本軍と衝突した29路軍総司令宋哲元  昭和12年11月15日発行婦人公論より 

 北平(北京)から西南約6キロ、永定河にかかる古い石橋を盧溝橋という。昭和12年7月7日夜、この橋で起きた一陣の銃声が日中全面戦争に発展していった。

 淡路島南部の、のどかな田舎町にも徐々に戦時ムードが漂ってきた。若者は次々と徴兵され大陸に出征して行った。父は当時高等小学校2年生(満13歳)だった。隣保の今年92歳になる数田博次氏がその頃のことを話してくれた。

 「支那事変が始まって阿万(あま)の町でも、わかいし(若い衆)が兵隊にとられていった。私はその頃役場で働いていて、青年団でも役員をしていた。はちまんさん(亀岡八幡宮)では青年団が主催して出征兵士を送る壮行会が行われた。壮行会のあと1キロあまり行進して隣の町境まで兵士を送っていったのだが、このとき阿万の町では唯一の楽団がわが上本庄部落にあったので大いに活躍した。私は尺八をやっていたのでクラリネットを吹き、コルネット、トロンボーン、あと大きな管楽器、なんていったか…二つと、打楽器の6人編成だった。あんたのお父さんは大太鼓を担当していた。大きな体に太鼓を抱え、ドンドン、ドンドン元気よくたたきながら行進していたのが、いまでも眼に焼きついている。その郷さんも次の年には義勇軍で満州に行ってしまった…」

平型関(へいけいかん)の戦い

 7月11日近衛内閣は華北への派兵を決定。日本軍は北平・天津を占領、上海でも日中両軍が激突した。かねてから満州国に隣接する内蒙古のチャハル・綏遠(すいえん)に関心を持ち、盧溝橋事件いらい拡大論を唱えていた東条英機関東軍参謀長はチャハル派遣兵団を指揮してチャハル省都の張家口を占領した。続いて山西省、綏遠省方面に進撃し9月13日には大同を占領した。

 東条兵団と連携した北支那方面軍の板垣征四郎中将率いる第5師団も太原に向け南下し山西省東部山岳地帯に進入した。9月23日、長城線の関門である平型関で戦いが始まった。山西防衛の陣頭指揮にたった傳作儀(ふさくぎ)の軍に歩兵21旅団が包囲され旅団兵力の四分の一をうしなった。

 一方、国共合作により蒋介石の国民革命軍に編成された、※林彪(りんぴょう)ひきいる八路軍の115師は平型関後方の隘路でまちぶせし、自動車連隊および歩兵21連隊などの輜重部隊約1000余名を全滅させた。

 この戦闘は中国紅軍が改変された八路軍初めての大勝利で、それまであった日本軍不敗の神話を打ち破り中国軍民の抗日意欲を鼓舞した。西安で開かれた戦勝祝賀会を主催した鄧頴超(とうえいちょう)周恩来夫人の演説は熱狂した聴衆の興奮で何度も中断される状態となった。林彪の評価は上がり海外でもその名が知られるようになった。

 しかし日本国内ではこのように日本軍が敗北や苦戦する戦闘はまったく報道されなかった。日中戦争勃発と同時に政府は新聞、通信社の代表を招き、挙国一致の協力を要請した。新聞紙法第27条「陸軍大臣、外務大臣は新聞紙に対し、命令を以って軍事若しくは外交に関する事項の掲載を禁止し、又は制限できる」が発動され、軍部の発表とお追従記事しか書けなくなった。「無敵皇軍の快進撃」だけが報道され中国各地の都市が次々陥落すると日本全国戦勝気分でちょうちん行列や、旗行列が行われ、まもなく中国は屈服し、戦争はすぐ終わると国民は思った。

 Photo 戦前100万部以上の発行部数を誇った講談社の大衆雑誌

 昭和13年1月1日発行の大衆雑誌「キング」新年号付録に支那事変美談武勇談という特集号がある。口絵写真には大元帥陛下が愛馬「白雪号」にまたがる姿が掲載され、序には馬場鍈一内務大臣、杉山元陸軍大臣、米内光政海軍大臣の推薦文が寄せられた、政府公認の国民必読書である。

Photo_2 口絵を飾った、愛馬「白雪号」にまたがる、大元帥陛下

 ここに書かれている「平型関の七勇士・敵の重囲に死闘三日間」の記事を読むと、日本兵は困難な山岳戦を寡兵で戦い抜き全滅に瀕しながらも最後は「大勝利」を収めたようになっている。むすびの文を引用すると「かくてその日のうちに、我が軍は暴戻敵軍を完膚なきまでに撃破し、進撃すさまじく大営鎮を陥れた」と書いている。目次から他の記事の見出しをみると「初年兵16人斬り・龍王廟の夜襲」「壮烈!爆弾二将校・事変最初の大殲滅戦」「瀕死の床の君が代・看護婦も皆泣く」「600の敵を斬りまくる・日の丸鉢巻の17名」「素手で敵将を生け捕る・石黒部隊長の豪勇」「斬りも斬ったり敵600・豪刀安田部隊長の奮戦」「鬼神も哭く特務兵決死隊」「母と妹の死・後に残るは身重の妻」「夫の戦死を感謝・細川相子さんの手紙」等400ページに渡って戦国時代さながらの武勇談や銃後の美談が満載されている。

Photo_3 美談武勇伝のオンパレード

 近代軍装備で勝る日本軍はこうした「武勇奮戦」で中国の主要都市を制覇したものの、中国人の抗戦意欲は一向に衰えず皇軍の戦死者は確実に増えていった。父の話によると、このころ、山西省の平型関や娘子関(じょうしかん)などの山岳戦で、大勢の日本兵が戦死し、阿万町でも日中戦争最初の犠牲者が出た。その人の葬儀は町葬(費用は税金でまかなわれた)で行われた。小学校での葬式は地元の小学生も参列した大規模なもので、戦争の影が町中を覆った。
Memo0105昭和12年12月10日阿万小学校での町葬の様子。阿万小学校100周年記念誌より 

戦争は父の将来にも影響をあたえた。高等小学校を翌年卒業することになる父の実家は石屋件農業で4~5反の田畑を持っていた。次男坊で相続人ではない父は卒業後の進路に迷っていた。新聞や雑誌には「支那事変」の華々しい皇軍の活躍が喧伝され「支那には4億の民が待つ」「俺も行くから君も行け」といった満蒙開拓青少年義勇軍の隊員募集広告が載っていた。「暴支膺懲」のスローガンが掲げられ、不埒な「支那」は正義の日本が成敗するという雰囲気が国中に充満していた。

※林彪(1908~1971)/りん ぴょう または りん ひょう/リン ピャオ、Lin Biao)
 湖北省生まれ。黄埔軍官学校出身の軍人。稀代の軍略家で若くして革命に参加。中国紅軍の建設に努める。中華人民共和国成立後は国防部長・共産党中央副主席・副総理。文化大革命で毛沢東の後継者に指名されたが、失脚。その後クーデターを起こし失敗してソ連へ逃亡中、飛行機が墜落して死亡したとされるが、謎が多い。

父は日本敗戦後、人民解放軍に入り林彪指揮下の第4野戦軍で国共内戦を戦いますが、林彪に二度、閲兵を受けたそうです。小柄で色が白く神経質そうな感じだったが、兵士に人気があり、彼の閲兵を受けると「みな意気盛んになった」と言います。毛沢東暗殺を企てたという事に「あれだけ毛沢東に忠実な男はいなかったのではないか、ちょっと信じられないと」と言っていました。「周恩来にはめられたのではないか」などとも言っていました。

父の15年戦争3.父の友人たち

2006年にJANJANに掲載された記事です

 2月10日、父の「義勇軍」時代の同期生である神戸の山鼻由夫氏宅を訪問した。部屋に入っていくと大阪、岸和田市に住む今口光治氏も待っていた。

 父と、二人とは昭和13年5月、第1次満蒙開拓青少年義勇軍として茨城県内原の訓練所に入所以来、旧満州嫩江(ノンジャン)訓練所、旧満鉄二井(ニセイ)訓練所、旧満州南学田開拓団と6年余りにわたって生活労苦をともにした、最も親密な「戦友」であった。

 山鼻氏は敗戦後、昭和21年いち早く日本に帰って来た。今口氏はソ連の捕虜となり、シベリアに4年間抑留され、昭和24年9月に帰還した。山鼻氏は数年前に脳梗塞を患い、その影響で身体を動かすのと、話すのがちょっと不自由である。今口氏は矍鑠(かくしゃく)として機関銃のようにポンポンと父の思い出や、戦争体験を話してくれた。

Photo11 今口光治氏

●今口氏の証言

―昭和20年8月の敗戦前後はどこで何をやっていたのか。

 「満州帝国の首都新京(現長春)で関東軍司令部の警備兵をしていた。8月2日か3日頃だったか、司令部にいくとほとんどもぬけの殻になっていた。一部の将校がいるだけで、司令部のエライさん達はみんな逃げてしまっていたのだ。これにはびっくりした。

 8月9日、ソ連が参戦してまもなく新京に接近して来た。われわれはソ連戦車に爆弾を抱えての自爆攻撃の命令を受けていたので、突入訓練をしていた。そのとき2発の手榴弾をわたされた。1発は敵に対しての攻撃用、もう一つは失敗したときの自殺用だ。ところが14日になると突然、中止の命令がきた。そして15日は玉音放送。ラジオの音質が悪くてよく分からなかったがとにかく助かった。

 16日になると略奪が始まった。高級百貨店などにも警備に出向いたが、品物はすでにとられていて、壁に写真やポスターだけが残っていた。その写真は始めてみる「カラー写真」だったのが今でも眼に焼きついている。

 ソ連軍が進駐してくる前に満州帝国の札束を、山ほどもらった。立派な家が一軒建てられるほどだった。あの時はうれしかった。きっとソ連に取られるくらいなら日本人に渡すほうがマシだと、金庫の金を一般兵士にも分配してくれたのだろう。」

―その金はどうしたのか、ソ連軍に没収されたのか

 「いやシベリアに連れて行かれるとき、大事に持っていった。手帳とかメモ用紙は没収されたが紙幣は図柄が印刷されて書くところが無かったので取られなかった。」

―そんなものをシベリアの奥地に持っていっても役に立たなかったのではないか。

 「いや意外なところで役にたった。便所の紙が不足していたので尻ふきに重宝した。捕虜になって2年目になると共産主義読本という厚い本をもらった。紙幣が無くなるとこの本が尻ふきになった。」

―場所はどの辺にいたのか。

 「シベリア各地を転々としたが、昭和21年の春頃ノボシビルスクというところに来たとき、最初やらされたのは自分達捕虜の死体を埋める穴を掘ることだった。なぜか3人はいる大きさの穴を掘った。毎日のように人が死んでいった。

 冬に人が死ぬと凍土で穴が掘れないので河原に捨てに行くのだが、そのとき死体には肌着1枚だけ着せられている。禁止されていたが、捨てる時にそれを脱がせて近くの民家に行って物物交換をした。ロシア人も死体の下着を必要とするほど貧しかった。ところがその行為を見つかった戦友がいた。隊長は彼を木に縛らせて目の前に見せつけるように食べ物をおいた。翌日彼は死んだ。

 助けたかったが……それをやると今度はわが身だ。俺達を恨んで死んでいっただろう。引揚で舞鶴に帰還した時、彼が死んだ事を証明するため切り取って持っていた爪を援護局でみせた。厚生省の役人は県庁まで行くようにと言った。1人見舞金として1000円くれた。国からもらった金はそれと故郷に帰る汽車賃だけだった。」

―その隊長というのは日本人か。

 「日本人だ。捕虜になって1年目は旧日本軍の組織がそのまま残り、将校はまだ威張っていた。2年目からは軍の組織は解体され変わった。」

―どんな仕事をしていたのか。

 「森林の伐採をしていた。工場も町も何もないところで、その木を何に使うのかというと、近くの河で砂金をとる船がたくさん航行していたのでその船の燃料になった。時々砂金をちょろまかしたが、ロシア人は一枚上手で警備兵にすぐ没収された。」

―日本人の捕虜だけがいたのか。

 「ドイツ兵の捕虜もいたが場所は塀で仕切られていた。演芸会もあってそのときはドイツ人の捕虜や朝鮮人の捕虜も一緒だった。ドイツ人はタップダンスが上手で、朝鮮人はアリランを歌い踊った。わが日本人も踊りを披露することになり、自分が踊ることになった。踊りなんかしたことがなかったが、食事を少しだけ増やしてくれるというのにつられて踊ることになった。捕虜に歌舞伎の有名な役者がいて、踊りを教えてくれた。」

―食事は何を食べていたのか。

 「おかゆだ。おかゆといっても、米ではない。小麦粉をといたおかゆで『ノリ』といったほうがいいかもしれない。量がたりなくて何時も腹をすかしていた。木の伐採は目標値(ノルマ)が決められ、達成するとほんの少し食事の量が増えた。とにかくちょっとでも多く食べるため必死に働いた。」

 今口氏は悲惨な体験をユーモラスな口調で語ってくれた。戦後生まれの私には理解しがたいことと思ったのか「これほんまやで~」「嘘ちゃうで~」と連発する。食事の話になると、指で1㎝ほどの幅を示し、「たったこれだけのおかゆの量が大事だった。これだけにつられて、なんでもする気になった」。それほど餓えていたという。

Photo10_3 山鼻由夫氏

●山鼻氏の体験

 山鼻氏は終戦前、朝鮮に近い吉林省のソ連国境近くで陣地の構築をしていた。そのとき何度も遺書を書かされた。

 「日頃、上官に天皇陛下のために死ねといわれていた。覚悟をさせるため遺書に美辞麗句を書くことを求められていた。『天皇陛下のために死ぬのは光栄だ』とかを書けばよかったのだが、私は反発して逆のことを書いてやった。なんで天皇のために死ななきゃならないのか、天皇陛下万歳なんて言って死んでいった兵隊なんか1人も知らない。」

―そのため山鼻氏は上官ににらまれていたという。

 最近、近所の小学校の先生が山鼻氏に、子供達に戦争の話をしてほしいと言ってきた。

 「私は天皇のために死ねといわれて反発したぐらいだから、天皇に対して今も良い感情を持っていない。今の世の中は戦前のような雰囲気が漂っている。もし子供達に私が天皇の『悪口』を言って問題になったとき、先生に迷惑がかかるので断った。」

 山鼻氏宅から駅までの帰りみち、今口氏は「もう親しい友達もほとんど死んで逝った。郷のことは気にかかっていたのだが……」と言った。私は父達の満州での濃密な6年間を想いながら今口氏と別れた。

今口光治氏:大正13年生まれ、兵庫県淡路島出身 岸和田市在住
山鼻由夫氏:大正13年生まれ、兵庫県淡路島出身 神戸市在住

後日談:今口、山鼻両氏と会った2006年の5月頃NHKエンタープライズというドキュメント番組を制作している会社の方から電話があり、夏にB.Sで放送する番組にでてほしいと父に出演依頼があった。あいにくあの世に旅立ってしまったので、今口氏を紹介した。8月に満州国崩壊時のドキュメント番組が放送されたが、ソ連参戦時、「新京放送局が大丈夫!大丈夫!」と嘘の放送をしていたと、番組冒頭で今口氏が証言していた。ラジオしか情報のない時代、新京放送局を信じたおかげで開拓団はかなり逃げ遅れたと思われる。

父の15年戦争2.最期の戦争証言

2006年JANJANに掲載された記事です。写真など若干入れ替えております。

最期の証言

  1月17日午後5時18分、父は南淡路病院のベッドで永眠した。11日が誕生日で満82歳になったばかりだった。

Photo10 父が入院していた南淡路病院

 昨年夏、体調を崩して入院した後、病院から帰りの車の中で看護婦の経験がある母は声を低くして言った「今回は手遅れかもしれんなあ。もっとはよ入院していたらなあ…あたしの言うことなんか全然聞かんからこんなことになるんよ。」それから病院に行くたび、戦争体験で聞き残していたことが次々思い浮かんだが、病と苦闘する父を見るとなかなか聞けない。

 亡くなる3日前まだ意識があった父は、酸素吸入器を鼻と口にかぶせたまま、うわごとを突然言い始めた。すでに肺がほとんどやられていて言葉がこもってはっきり聞き取れない。看護に来ていた妹が耳を傾け「何か言ってるよ。テンノウとかとゲンバクとか。」

 私は父がしっかりしているあいだ、ぜひ聞いておきたいことの一つが終戦時にソ連軍に投降したときの状況だった。入院してからも繰り返し聞いた。きっと「その時」のことを思いだしているのだ。

 ソ連機甲軍団の圧倒的な火力の前になすすべもなく鏡泊湖の山の中に逃げ込んだ父達は敗戦をどうして知ったのか。先に降服した同僚達が呼びかけてきたと言う。「おおーぃ日本は負けたぞ~」「天皇陛下が降服したぞ~」

 天皇陛下が降服した。これが決定的だった。「天皇陛下が負けたと言うのなら、しゃない (仕方ない)と」指定された場所に出向いて投降したと言う。そのまえに絶望した将校の何人かは腹を切ったが父は頼まれ介錯をした。ソ連軍の捕虜になってから森林鉄道で木の伐採をやらされていた。ひまなときはどういうわけか鉄道に沿ってよく行進をさせられたそうだ。

 将校達は「刀狩」をやられてシュンとなっていたが、兵卒に対して相変わらず威張っている部隊長がいた。あるときその部隊長が佐賀県出身の田中さんという兵隊に怒鳴り散らしていた。「その態度があまりにも横暴だったので5~6発ぶんなぐってやった。すると、つるはしをもって向かってきたので体をかわして足を掛けるとそのまま顔から倒れこんでいった。」

 15年ほど前、父はその田中さんの息子が「日中友好の船」に乗船したことが縁で結婚することになったとき仲人を頼まれた。田中さんが私の家を訪問したとき父のことを「恩人」と言っていた。そして息子の名前は田中敏樹といって父と同じ名前だったのが記憶にのこっていたが、この話を聞いて納得した。父は上からの圧力や権力には強く反発、抵抗した。しかし下からのおだてや甘言にはすこぶる弱かった。この性格は一生直ることはなく、詐欺師ペテン師にはよく引っかかった。

父の脱走

 Save0007 父が脱走した所はシベリア鉄道のブラゴヴェシチェンスクあたりだったと思われる。

 閑話休題、昭和21年が明けたころ日本に「ダモイ」帰してくれることになり移動命令が下った。ウラジオストックに行くとのことで貨物列車に乗せられた。列車はゆっくりしたスピードで北上し夜になると停車した。沿線で野営をしながらボチボチ進み、黒龍江をわたると西に向かって走り始めた。一緒に詰め込まれた仲間は誰も気が付いていない。父だけがすぐおかしいと思った。その理由はソ満国境の黒龍江沿い一帯はかつて「義勇軍」時代、仲間と六頭立てのソリや馬車で頻繁に走り回っていたところで、この辺の地理は我が家の庭のように知悉していたからだ。

 昭和17年ごろから父は軍の特務機関の「調査」の仕事をやっていた。調査といっても軍から正式に委嘱されていたわけではない。父に言わせると「わしらのような『義勇軍くずれ』を使って特務機関はソ連の情報をとっていた。一番知りたがっていたのはシベリア鉄道の輸送状況だった。沿線住民に話を聞いて何が輸送されていたのか、特に夜間の輸送状況を聞きたがった。わしらは遊び半分の冒険旅行をしている気分で、スパイをやっている意識はまったくなかった。国境地帯の旅行から帰ってくるたびに特務に呼ばれ、話をしたあと小遣いを結構もらっていた。」

 ウラジオストックの方向とは逆に進んでいると分かったその夜、列車が黒龍江の沿岸で止まり野営をしたとき父は脱走を決意した。大勢でやると見つけられやすいのでごく親しい仲間3人で抜け出した。ソロリソロリ凍った河を渡り始める。冬の黒龍江は1メートルの厚い氷がはり戦車でも通れるほどだ。歩哨はすぐ気がつき自動小銃を乱射してきた。

 「こけつまろびつ、必死に走った。一人が撃たれ、ふたりで引きずりながら逃げた。出血がひどかった。追っ手がせまってきた。傷ついた連れは意識が朦朧となり『もう俺をおいていけ』と言った・・・」父ともう一人は逃げ延びた。

父の15年戦争1.関東軍の特攻

2006年、JANJAN(日本インターネット新聞社)に掲載された記事に若干、訂正・加筆をしております。

「義勇軍」から関東軍そして「人民解放軍」へ 

Save_2 関東軍機動第一連隊時代の郷敏樹

 私の父〈大正13年生まれ〉は満14歳のときに「左手に銃を右手に鍬を」のスローガンのもと1938年(昭和13年)、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して旧満州国にわたって以来、1953年(昭和28)年、日本に帰国するまで青春の大半を中国大陸で戦争に明け暮れた。

 「義勇軍」では(注1)金日成(キム・イルソン) らのパルチザン東北抗日連軍と戦い、大戦末期には関東軍でソ連機甲師団と対戦した。終戦後は中国人民解放軍に入り国共内戦を戦い抜き、その後、朝鮮戦争にも従軍した。

 内戦終了後、同軍で看護婦をしていた母と結婚して私と妹が生まれ、1953年(昭和28年)8月、家族4人で日本に帰還した。私にとっての中国は両親に幼いときからよく聞いていたので、身近な存在だった。

 昭和30年代、親戚に間借りしていた離れの6畳に家族4人が住んでいた。近所の酒飲みが「敏樹はん満州のおもっしょい(面白い)話聞かしてくれ」などといいながら入れ替わり立ち代りやってきた。そのたびに母は機嫌が悪くなる。テレビなど無い時代、私は父達の酒盛りの横で、満州の「おもっしょい話」を聞くのが結構好きだった。

 冬になると厳寒40度の北満。訓練所を勝手にぬけだし、雪の山中、馬を乗り回し狐狩りに興じて小遣い稼ぎをしていた義勇軍時代。とてつもなく大きい夕日が地平線に沈む満州。ソ満国境を6頭立ての馬車やソリを駆って旅行した満鉄の訓練所持代。

 人食い狼に義勇軍の脱走隊員が食べられた話。白い狼が井戸におち、それを狼汁にして食べた話。(注2)平津戦役のときロックフェラー邸で見つけた金の皿。八路軍の師団長が恋をした話。

 父の話は刺激的で心をわくわくさせた。

 昭和35年頃、五味川純平著のベストセラー小説「人間の条件」が映画になり、両親が見に行くことになった。出かける前、母に「わしも同じような事があった」と話していた。私はその言葉に引かれ一緒に行きたかった。しかし子供の見る映画じゃないということで、連れて行ってもらえなかった。

 このことは私の心の隅で久しく眠っていた。20歳の頃、大阪梅田の映画館でオールナイト一挙上映「人間の条件」の看板を見た。十数年前の記憶がよみがえってきて、衝動的に入った。仲代達也扮する主人公の梶が中国人の労務者が憲兵に殺されようとするのをとめる場面があった。

 「わしにも同じような事があった」―この映画には「満州のおもっしょい話」とは別の修羅の世界があった。父がこどもの私には決して話さなかった日本の残酷な植民地支配を描いていた。

 去年の春、中国で反日デモが燃えさかったとき、父に改めて「義勇軍」時代から帰国までのエピソードを話してもらった。「わしは若い頃はチャランポランだった。義勇軍のとき中国でやっていたことで、7割ぐらいは内地(日本)では人に言えない恥ずかしいことだった。国粋主義に傾倒して大日本赤誠会という右翼団体に入っていた。連中は満州を自分の土地のように思っていて満蒙は日本の生命線だとよくいっていた……」

 現在の日中関係は小泉首相の靖国参拝などで、国交正常化以来、最悪といわれている。私は現在の日本人の多くが、戦前、日本が中国で何をしたのかあまりにも知らなさ過ぎることが、両国の関係悪化の一因になっているのではないかと思っている。

 父の一兵卒としての15年間の体験をたどることによって戦前の日本は中国でなにをやっていたのか、当時ガチガチの国粋主義者であった父が見た中国の八路軍とはどんな軍隊だったのか、敗戦国の日本人にどんな態度を取っていたのかなどをこれから書いてみたい。

関東軍の特攻の現実

Save0002 父の部隊がソ連軍と対戦した鏡泊湖(きょうはくこ)

 昭和20年8月9日、ソ連軍は満州帝国に侵攻した。父は関東軍の機動連隊に所属していた。機動連隊とは当時、南方への転戦で戦力の低下が著しかった関東軍の中でも精強の若い兵をそろえた部隊だった。

 父はそこで輓馬(大型の引き馬)に重機関銃を乗せ、山や谷でも機動的に展開し、攻撃する訓練を受けていた。しかしソ連機甲師団は100トンもある重戦車の軍団だ。馬に重機関銃程度で対抗できるはずはない。そこで馬は谷間に隠し、急きょ爆弾を抱えての特攻(自爆攻撃)となった。

 黒龍江省、牡丹江市から南に約100キロ、吉林省との境に鏡泊湖(きょうはくこ)という鍵状で南北に細長い風光明媚な湖がある。牡丹江が火山活動でせき止められて出来た山上湖で現在では避暑地としても有名だ。そこにメレンコフ元帥率いるソ連第1極東軍の機甲軍団が侵攻してきた。父たちは湖の土手に地雷を埋め塹壕を掘って待ち構えていた。

 航空機による神風特攻隊は良く知られた存在だが、爆弾を抱いて戦車に体当たりをする特攻はほとんど知られていない。大戦末期、旧満州でおそらく数十万の関東軍兵士が特攻を命じられた。父もその一人でいままで詳しく話をしたことがなかったが、最近口を開いた。

 特攻の命令を受けたとき、部隊はどんな雰囲気だったのか。また士気はどうだったか。父にそのときの様子を聞いてみた。

Q.特攻命令を受けたとき部隊はどんな雰囲気だったのか。

A.異様な雰囲気だった。負け戦が確実で全員浮き足立っていた。2人1組で口径15センチの榴弾(かなり重い)を抱え、戦車が近づくと、塹壕から飛び出てキャタピラの前に放り投げると言う捨て身の戦術だが、これはただの自殺で、敵戦車を破壊するどころか、かすり傷ほどしかつけることが出来ない。

 と言うのは口径15センチ榴弾というのは爆発すると無数の鉄片が飛び散り、人馬を殺傷させるには有効だが厚い鋼鉄で覆われたソ連軍の100トン戦車には、片方のキャタピラを浮かすぐらいの威力しかない。

Q.日本軍は戦車をもってなかったのか。

A.すこしあったが20トンぐらいの軽戦車でソ連の戦車と比べると横綱と子供ぐらいの差でまるで役に立たなかった。

Q.硫黄島やアッツ島では最後の玉砕のとき部隊長が先頭にたって突撃をしたと言うが、どうだったのか。

A.連隊長は我われに命令してから高みの見物だったように思う。終戦後捕虜になってソ連に連れて行かれた。

Q.自分はどう思っていたのか。

A.やる気がまったく無かった。わしは(注3)抗命罪を起こした不良兵士だったので、目を付けられていて一緒に自爆する相手は上等兵だった。上等兵にこういってやった。『上等兵殿、タバコでも吸って冷静に考えましょう。敵に打撃も与えず死んではただの自殺です。犬死では天皇陛下に申し訳が立たないではありませんか。陛下が泣きますぞ!』上等兵は黙ってうなずいた。

 塹壕に入って様子を見ていると前方で先陣攻撃をした組がいた。煙があがって戦車のキャタピラが浮いて空回りしているみたいだったが、破壊された様子はなく、あまりこたえていないようだった。すぐ戦車群の進行がスットプした。そのあと敵は砲撃をしてきた。
 父は鍬で土を掘る格好をしてまくし立てた。「敵は徹底的に耕してきた。一昼夜、徹底的に大地を掘り起こした。我われは砲撃がやんだ一瞬の隙を見つけて山の中に逃げるほか無かった。まもなく終戦になった……」

Q.特攻についてどう思うか。

A.参謀たちは無能であった。場当たり的な対応に終始していたように思う。最初の特攻で戦車は止まったが、次に敵が圧倒的な火力で対応してくるとどうにもならなくなる。わしは義勇軍以来、抗日パルチザンと戦闘をしてきたので、関東軍では新兵とはいえ、戦争について多少は知っていた。特攻の無意味さはすぐわかった。ろくな武器も持たさず精神主義で兵隊に自殺を強要して、自分たちは後方の安全なところにいる。こんなのは作戦の名に値しない。

Q.ソ連軍の兵力はどうだったのか。

A.歩兵の装備からして敵はマンドリン銃(楽器のマンドリンに似た自動小銃)でこちらは明治38年式歩兵銃。圧倒的な兵力と火力の機甲軍団で、鎧袖一触と言うしかない。

……小泉首相や石原都知事は鹿児島県知覧の特攻隊に感動して、特攻を褒め称えているようだが、笑いながら「そんなにいいものなら自分で爆弾を抱いてやってみればよく分かる……」

 父は60年たった今でも無謀な特攻を命じた軍のエリート参謀たちに憤りを持っている。「戦争ぐらい思っていたことと、やることが違っていたことは無い。そして勇ましい言葉を言った指導者ほどあとで責任を取らなかった。」

 この言葉を今の責任ある政治家たちはかみ締めてほしい。

(注1)金日成 (1912~1994) 1931年ごろから旧満州で抗日ゲリラ闘争を指導 1948年朝鮮民主主義人民共和国成立時首相 1972年国家主席 金正日現労働党総書記の父。

(注2)平津戦役 国共内戦時の3大戦役のひとつで、1949年1月人民解放軍第4野戦軍が天津を攻略し、孤立した北平(北京)を無血開城した。これによって内戦の帰趨がほぼ決まった。

(注3)抗命罪 旧日本軍の軍法で上官の命令を拒否することで重罪になる

Save0004_3 旧満州の地図(東南部)

郷敏樹 兵庫県南あわじ市在住

○年表
大正13年1月 兵庫県淡路島に生まれる。

昭和13年3月 高等小学校卒業後 満蒙開拓青少年義勇軍に志願。

昭和13年7月 旧満州へ渡る。嫩江(ノンジャン)の訓練所に入所。

昭和15年 満鉄の訓練所に移動、満鉄の警備に当たる。

昭和16年 このころ橋本欽五郎退役大佐(東京裁判で無期禁固刑)が設立した大日本赤誠会という右翼団体に入る。旧満州、華北で活動。

昭和17年 このころから軍の特務機関の仕事でソ満国境の調査などをする。

昭和18年 このころ四平街にあった満州拓殖公社の獣医養成講座で学ぶ。

昭和20年5月 徴兵検査で甲種合格。関東軍に入隊。訓練で中国人捕虜の刺殺を命じられ拒否。抗命罪で重営倉に入る。しばらくして、たまたま近辺を視察中の伯父の樋口季一郎陸軍中将(北方軍軍司令官)の知るところとなり。父の言い分(無抵抗のものを殺すのは武士道に反する)が認められ釈放。

昭和20年8月 関東軍機動連隊でソ連戦車への特攻攻撃(爆弾を抱いて自爆攻撃すること)の命令を受ける。終戦後ソ連軍の捕虜となる。

昭和21年1月頃 ソ連軍の貨車でシベリアに移送中仲間3人で脱走、一人は射殺される。

昭和21年2月頃 旧満州の荒野を彷徨するうち中国人の友人に助けられソ連が接収する牡丹江にある関東軍第八病院に収容される。

昭和21年3月頃 ソ連軍から八路軍に引き渡される。

昭和21年夏頃 八路軍から東北に派遣された林彪の東北野戦軍(東北民主連軍)の後勤部(輜重部隊)に入り、国共内戦中、中国各地を転戦する。

昭和25年頃 朝鮮戦争に従軍。

昭和28年8月 上海から高砂丸で帰国 舞鶴入港。

「父の15年戦争1~20」を当ブログで掲載します

 当ブログはJANJANに連載されていました「父の15年戦争1~20」を続けて書いていくために開設したのですが、JANJAN最後の記事「父の15年戦争未だ終わらず」からリンクをたどって「父の15年戦争1~20」を表示するのが、かなり遅いようなので、当ブログで編集しなおして随時掲載する事にしました。

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