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2010年6月

隣保の方と引揚げの話をしました

 23日近所の方が亡くなってお葬式にいったのですが、一七日の法要のあと食事をよばれました。隣の席が隣保のタケちゃんで、私の家族が中国から引き揚げてきたときのことが話題になりました。タケちゃんはそのころ小学校の3年生でした。

 ある日タケちゃんがラジオを聞いていたとき、「ゴウトシキ」と私の父の名前がアナウンスされました。聴いていた放送は中国からの引き揚者の名簿を読んでいたのです。1953年頃は戦争ではぐれた親族や友人・知人を探す「尋ね人」や海外からの引揚者関係の情報番組がよく放送されていました。

 タケちゃんは早速、私の祖父に連絡しました。祖父は死んだと思っていた父が生きている事を知りとても喜びました。後々まで父の安否が分かった最初の一報を知らせてくれたタケちゃんに感謝をしていたそうです。

 私たち家族が中国から引揚げてきたのは1953年(昭和28年)8月で、お盆のころでした。満蒙開拓青少年義勇軍に地元阿万からただ一人志願して満州に行った少年が15年ぶりに家族をつれて帰ってくるというので町では大変話題になりました。

 その日は町長をはじめ大勢の人が父の実家の前にある池の堤防に集まりました。私たち家族がバス停から歩いてくる姿が見えると万歳をして出迎えてくれたそうです。

 この話をタケちゃんから聞いて胸にグッと来るものがありました。地域社会は暖かかったのです。それに比べ国家はどうしようもないと言うか、国策で子供を遠い満州に送り込んでおきながら、15年も苦労してやっと帰ってくると「アカに洗脳されたと」刑事がつけまわす。ほんとに、おかしな国だと思います。

昨日隣保のお葬式に行ってきました

 前の家のおじいさんが亡くなり、昨日お葬式に行ってきました。お葬式は隣保でお世話する慣習なので受付をやっていました。50年位前は土葬で葬儀は隣近所の助けがないとできませんでした。この辺は埋める場所を「サンマ」と呼びお墓と別の場所にありました。私も子供の頃「ソーレン行列」を見たことがありますが、前が三角形の白いハチマキをしてしてぞろぞろ歩いてたのをかすかに憶えています。

 最近は家ではなく葬儀会館でするのが多くなり隣近所の役割が少なくなりましたが、それでも人が亡くなると何はともあれ駆けつけるのがこの辺の習慣です。通夜にはお坊さんが来ないで、隣保の人が「真言」を繰ります。当日は朝から会館にいって主に受付をするのですが、お香典を預かるので責任があります。亡くなった家の方は慌てていますので、そこをフォローするのが隣保の役割です。私は隣保長だったので町内会長の次に焼香をしました。葬儀が終わった後は「先走り」といって当家の方一人と一緒に遺体より早く火葬場に行き「六地蔵」にろうそくと線香をともし、ダンゴをまつります。夕方からは一七日(ひとなぬか)の法要があり、あとはおよばれをします。帰ってきたのが8時30分頃でした。いつも思いますが人が亡くなるって大変ですね。

私の中の中国6.私中国人アル④

協和語と満語 

 1932年3月1日、関東軍の謀略により建国された満州国(2年後帝政に移行)は五族協和、王道楽土をスローガンに掲げた。五族とは日本、朝鮮、蒙古、満州、漢の民族のことである。五民族は平等が建前だったが、政治、経済、軍事すべて日本人が取り仕切った。このとき満州に住む日本人は総人口3千数百万人のうち23万人に過ぎなかった。

 満州国は建国当初から国語は満語(中国語)と共に日本語が定められたが、1937年10月10日に公布された満州国国民学校規定によりすべての地域で「第一」に学ばれるべき国語に格上げした。翌1938年の新学期から日本語の授業が小学1年生から行われ、国語の授業の半分を占めるようになる。

 この時に編み出されたのが、協和語(興亜語)と呼ばれる助詞ぬきの「ワタシ○○アル」という「話法」だった。現在でも日本人が中国人をギャグにする話し方はもともと日本の言語教育専門家が満州で中国人に手っ取り早く日本語を教えるため発案した。教えられた中国人がとっくの昔に使わなくなったものを、いまだに日本ではマンガの中の中国人がしゃべったり、お笑い芸人が「受け狙い」をするのは時代錯誤と民族差別を二重にしたものだといえよう。

 父が亡くなった3年前、満州に一緒にいった友人たちを訪ねたことがある。彼らと話していると「満人」とか「満語」という言葉が頻繁に出てきた。父はそんな言い方をしたことがなかったので、意味を聞くと中国人や中国語の事だという。民族としての満州人ではなく満州に住んでいる漢族、蒙古族、満州族の総体を指すらしい。父によるとそのころ満州で純粋の満州人を見た事がなかったという。

 父は1938年(昭和13年)7月満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州に渡った。現地訓練所では軍事教練のほか農業の実習、武道の訓練(直心影流)が主に行われたが青年学校程度の学科もあった。学科の中には「満語」があり中国語の基本的な会話を教えられた。

民族構成から見た満州国

 満州で「満語」とか「満人」というのは、日本の植民地支配を覆い隠すための方便だった。満州国が建国されたとき、満州は漢族にとって化外の地であるとか、満州族の失地回復のような宣伝がなされたが、民族別の人口は圧倒的に漢民族が多く、全体の9割以上を占めて満州族は漢民族に飲み込まれていた。

 1938年(昭和13年)度末の満州帝国の総人口は約3862万人(昭和15年発行満州現勢図解)で以下概数を挙げると、日本人は50万人、満・漢人3600万人、朝鮮人、蒙古人がそれぞれ100万人、回族17万人、ロシア人5万人、その他の少数民族1万人となっている。なお「15年戦争」期の満州の民族別人口統計は満と漢が常に一緒にされている。これは「満州族の満州国」を強調するため意識的に分けなかったようだ。当時の純粋な満州人を統計に出すと、漢民族との圧倒的な人口格差があきらかになるので都合が悪い。

  Save0002 ちなみに1894年(明治27年)日清戦争開戦の年に参謀本部が編纂した「満州地誌」によると総人口1200万人、※本部支那人1100万人、満州人80万人、ブリヤード人他の少数民族が20万人となっており日本人はまだ統計に出てこない。(続く)

※本部支那人:山海関(万里の長城)より南出身の中国人

  

  

 

 

 

私の中の中国6.私中国人アル③

チャンコロ

 母に「ポコペン」なる言葉を知っているか聞いてみた。私がそんな事を聞く真意をはかりかねたのか、怪訝な顔をした。「そんなん日本人が勝手に言い始めたことよ。中国人はそんな事いわへん、いわへん」と口をゆがめて否定した。母がこんな態度をとるのは久しぶりだ。いつだったか、昔住んでいた家の近所の老人と病院で一緒になったとき、母に「郷ハンひさしぶりやなあ、ここの先生、チャンコロのネエチャンやゆうな、腕ええんかいなあ」と待合室で声をはりあげた。「支那事変」にも出征したこの老人、近所でも名うての暴れ者。還暦過ぎて弟と取っ組み合いの大喧嘩をして、丸太のような腕でねじ伏せ泣かせた事がある。父とは妙にうまが合って、昔は付き合っていた。

 母は病院から帰ってくるなり「おっきな声だして、あんな恥ずかしい事なかった。いまどきチャンコロなんて言う人おるか・・・」と憤慨していた。5年前にこの老人はあの世に行ったが、まわりの人は皆ホットした。

 母は中国人民解放軍に7年いたが、ほとんど中国人の中で仕事をしていたので帰国をした時、中国語はペラペラだった。60年近く過ぎた今、テレビの中国語講座をボケ防止のためか、たまに見ている。もうしゃべれないが、聞くのは大体わかるし、読み書きは内戦時、簡体字で憶えたので現在の中国語の雑誌もほぼ読める。母によると簡体字は「正字」ではなかったが、戦前から一般的に使われており、新中国になって正式に認められたと言う。人民解放軍の中で日本語のできる人は数人知っているに過ぎないが、「私○○アル」なんてしゃべる人はいなかったと言う。また「ポコペンなんて言葉は中国語にない」と明確に否定した。(続く)

 

 

私の中の中国6.私中国人アル②

親の背中

 片山の三ヤンは私の家も定期訪問コースに入れていたみたいで、たまに父を訪ねてやってきた。私は龍ちゃんと同級生になる前から、三ヤンの顔は知っていた。昔は三ヤンのような人が他にもいて、自転車で近隣の町をぐるぐる回り、情報をあつめ広めた。

 その頃は、電話も自家用車もテレビも普及していなかったので、今と違って格段に情報の伝達が遅かった。三ヤンは誰それの娘が結婚するとか、どこそこのおじいさんは病気で死にそうだとか、あそこの嫁さんは浮気をしているとか、実によく知っていて、それに尾ひれをつけて面白おかしく、話100倍にして触れ回った。噂話はたてられた本人は迷惑だが、関係のない第三者には娯楽のように楽しい。祭りになるといつもグデングデンに酔っ払って、壇尻に轢かれるなど、娯楽の少ない田舎では話題の人だった。

 三ヤンは父が留守の時は、「ボク、うちの龍ちゃんと同級生アルカ」なんて受けないギャグを言いながら、私相手にヒマつぶしをして帰りを待っていた。父はゴシップを振りまく三ヤンをあまり好いていないようだったが、来る人拒まずで相手をした。

 うちが中国からの引揚者だというのは三ヤンは父から聞いて知っていた。私が中国で生まれたことを龍ちゃんは三ヤンから聞いたのだろう。三ヤンはどこでも、かしこでも「私○○アル」とやっていた。龍ちゃんは三ヤンの背中を見て「ポコペン」をおぼえたのだ。「ポコペン」とからかわれるのは、日本人の私にとって理不尽そのものなのだが「ボクは中国人と違うワイ」と大声でいうのもまた差別を容認する事になるのでいえなかった。子供なので当時はそこまで明確な論理・倫理を持っていなかったが、なんとも言いようのない虚脱した気分になった。「お笑い」も凶器になる。子供の世界は大人の本音を反映しているので、龍ちゃんはあからさまに偏見を私にぶっつけた。あの時の龍ちゃんの優越感に満ちた笑顔を今でも忘れられない。(続く)

 

 

私の中の中国6.私中国人アル①

ポコペン

 私の小・中学校時代に片山龍之介君という剣豪小説に出てくる、強そうな名前の同級生がいた。通称龍ちゃんはイチビリで、名前に負けてけんかは弱かった。私はけんかもしない弱々しいマジメ少年だった。小学生の時、弱いもの同士が言い争いをした。 私は屁理屈には長けていたので、彼を追い詰めた。しばし無言の後、龍ちゃんは「ポコペン、ワタシ、ニホンジンアル、ゴウ、チュウゴクジンアル、アハハハ、ポコペン、ポコペン」と逆襲して去っていった。それ以来、彼は私に口げんかで負けそうになると必ず「ゴウ、中国人アル、ポコペン、ポコペン」と言い返した。そういわれると私は対処のしようがなく負け犬になった。 

 現在でも日本人は、狐目をして鯰髭を生やし「ワタシ○○アル、アナタ○○スルヨロシ」という助詞を抜かした怪しげな日本語をしゃべる中国人イメージを持っている。おそらくお笑い芸人や漫画から影響されるケースがほとんどだと思うが、私が龍ちゃんにからかわれた1960年代始め頃はまだテレビは普及していなかったし、「ゼンジー北京」もデビューしていなかった。

 龍ちゃんはどこで怪しげな「日本語」を知ったのだろうか。他の同級生にはそんな事をいわれたことがなかったので、親・兄弟から聞いたのかも知れない。彼の父親は片山三吉、通称三ヤンと呼ばれ、仲人が仕事だと言っていたが、縁談をまとめた話は全く聞いたことがないので、なんで食っていたのか今でもよく分からない。身なりはきちんとしていたが、いつも同じ柄のブレザーを着て自転車にのり、一日中あっちこっちで、あごちゃ(おしゃべり)をしていた。この三ヤン、地元ではホラ吹きで、話が大きいのが有名で、千に三つしか本当のことを言わないので「せんみつ」とも呼ばれていた。(続く)

私の中の中国5.子守⑥

義賊

 賀竜は人気のある将軍だった。緑林(土匪)の出身で字もろくに読めなかったが、男っぷりがよく戦争にも強い。1927年9月末、毛沢東が秋収暴動に失敗して井岡山(せいこうざん)に上る前、部隊を立て直すため江西省永新県三湾で有名な演説を行ったが(三湾改編)、そのとき「包丁二本で革命を始めた」と賀竜を讃えた。この頃若くして「伝説」になっていた賀竜は、徒手空拳で革命に立ち上がった、ヒーローだった。毛沢東は敗残兵になり意気消沈する兵士たちに賀竜の活躍を示して奮い立たせた。

 父の話では子守のおばあさんと賀竜は同世代だと思われるが、纏足のような悪弊をしなくてすんだ、恩ある賀竜の父とのつながりを随分と自慢していたようだ。湘西農民軍を組織した賀竜の姉、賀英も女親分で賀竜を助け革命に奔走したように、賀竜の生家は侠客一家だった。現在の私たちの感覚では土匪と書くと字面だけで強盗・ギャングの類と考える。父が話した賀竜は違って、「弱気を助け、強気を挫く」義賊のようだった。

 父は戦国武将の真田幸村が好きで、まだ字も覚えていなかった幼い私が、猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・伊三入道・穴山小助・由利鎌之助・・・など真田十勇士の名前や得意技をスラスラ暗唱するまで熱心に教えた。また、ねずみ小僧次郎吉とか弁天小僧菊之助、忍びの者(石川五右衛門)などの怪盗、義賊の映画もよく連れて行ってもらった。私は父から聞いた中国人民解放軍の英雄賀竜が、大金持ちから金を奪っても、私欲のためではなく、貧乏人のために分け与える義賊と重ね合わせて憶えた。

 匪賊は強盗、ゆすり、たかりのろくでもない人間のくずというのは必ずしも間違っていない。古来中国では「よい鉄は釘にならない、よい人間は兵士にならない」といわれ兵士と匪賊は区別がつかず、どちらにも簡単に変身できる職業だった。アヘン戦争や日清戦争、義和団事件などで巨額の賠償金を支払うはめになった清国は農民に過重な税金をかけたが、その事によって膨大な失業者の群れ(遊民層)を発生させた。彼らの道は軍閥の兵隊になるか、匪賊になるか、はたまた飢え死にするかの選択しかなかった。

 当時の中国は大小の軍閥が横行して、覇権を争い、帝国主義列強と結託して民衆を収奪する戦国乱世の時代だった。遊民層は軍閥の兵の供給源となり絶え間ない戦乱が繰り広げられた。

 賀竜のような正義感のある任侠徒は。清朝打倒の大革命が起きるや、国民革命軍に続々はせ参じ大きな潮流をなした。第一次国共合作が破れ、蒋介石の反革命(上海クーデター)が明らかになると彼らの先進部分は共産党に入った。 「辮髪・アヘン・纏足」に象徴される腐りきった旧社会を打倒するには彼らの力が必要だった。しかし革命戦争の途上、これら緑林出身者は、粛清されたり、革命後失脚したりするものも多かった。

 

淡路島玉ねぎ取り入れ真っ最中

 P1000657_2 つり玉用に8~10コを一束にして、ペアで結ぶ:南あわじ市阿万

 淡路島の玉ねぎは生産量が北海道に次ぐ全国第二位ですが、味は間違いなく全国ナンバー1です。甘みがあって美味しいと、市場でも評判で他府県産より高値で取引されています。

 6月に入って晴天が続き、今※「なかて」の取入れが真っ最中です。今年は「早生」の値がよかったので生産者も意欲が高いのですが。炎天下での取り入れはかなりきつい作業です。稲の場合作業はほとんど機械化されていますが、玉ねぎの場合人手に頼る割合が高い。しかし近年玉ねぎを掘り出すのと青切はほとんど機械が活躍しています。

P1000658 掘り起こした玉ねぎをコンテナに入れる機械:南あわじ市阿万

 玉ねぎは乾燥すると、長期保存がきくので、昔は「つり玉」とよばれるやり方で、風通しのよい玉ねぎ小屋につるし、市場価格をにらみながら出荷を調整していた。最近は掘り起こした玉ねぎを直接コンテナに入れる作業まで機械化されており、コンテナ入りのまま倉庫で乾燥させる農家も増えてきた。

P1010719 昨年12月、厳寒の中で植付ける玉ねぎ:南あわじ市阿万

 

※玉ねぎは植える時期によって、早い方から「早生」「なかて」「おくて」と呼ぶ

私の中の中国5.子守⑤

賀竜将軍

 母は子守のおばあさんに、纏足をしなかった理由を聞いたことがある。「纏足なんか嫌いやからしなかったそうやけど、そんなん子供がなんぼゆうてもなあ・・・」幼児は足の指をボキボキ折られたら、泣き叫んで嫌がるのは当たり前。それでも親は心を鬼にして女の子の「幸せ」のため、纏足をする。こんな悲劇が千年ものあいだ続いてきた。親がやめようと思わない限りこの悪習はなくならない。

 父から聞いた話はちょっと違う。子守のおばあさんの親は新中国建国の英雄、賀竜将軍の生家と縁戚があって、娘の幼児期、賀竜の父親、賀上道に「これからはそんな封建的な悪習をする時代ではないと」諌められ纏足をしなかったという。

 賀竜は1896年湖北と四川の省境に近い桑植県浜家関に生まれた。父の賀上道は哥老(かろう)会の親分だった。哥老会とは宗教的な色彩を帯びた秘密結社で、この地方に古くから根付いていた侠客的な気風を持っていた。

 賀竜は19歳の時、二本の牛刀を持って仲間と共に澧州の塩税局を襲撃して、警備隊の武器を奪い、袁世凱打倒の旗揚げをした。持ち前の勇気と胆力、行動力、超人的な働きで見る見るうちに、地域の親分から小軍閥にのし上がった。

 北伐が始まると国民革命軍、張発奎の指揮下で師長を務めた。彼の部隊は勇名をはせ1927年8月の南昌蜂起の時には第20軍の軍長として反乱の総指揮をまかされたが、9月末には敗北し国民党軍に降伏した。このころ軍閥同士の戦いは敗れても、降伏すれば寛大ですぐ釈放された。賀竜は反乱軍の総指揮を勤める頃には国民革命軍内の共産党員から大きな影響を受け、共産党に入党していた。

 賀竜は共産党軍でもその軍事的才能を縦横に発揮して、紅軍第2方面軍の発展に寄与し、抗日戦争期には八路軍の120師長、解放戦争期には人民解放軍第1野戦軍副指令と常に第一線で活躍した。

 賀竜は「土匪」から身を起こし、軍閥、国民革命軍、共産党軍と渡り歩く中で思想の転換を遂げ、革命戦争を戦い抜いた。中華人民共和国建国後の1955年には10大元帥の一人として軍人最高の栄誉を受けたが、「文革」で失脚1969年6月獄中で非業の死をとげた。(続く)

 

 

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