« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

阿万地区芸能発表会

 8月29日阿万地区芸能発表会で、伝統芸能子供教室で稽古していました、上町町内会の花踊り、毛槍、でこてん(日傘踊り)を演じてきました。数ある出し物の中でも、三味線、太鼓、拍子木、唄、そして子供達の踊りが自前でやれる上町の郷土芸能は出色で大変好評でした。一ヵ月にわたって小さな子供達も良く頑張ったと思います。

P1020670 P1020667 夏は郷土芸能の行事が多く、これでひと段落しました。これからは本来の「父の15年戦争」関連の記事をもっと書いていきたいと思っています。

日経新聞に樋口季一郎の記事

 本日8月25日、日本経済新聞社会面に樋口季一郎の「ユダヤ難民救出劇」の記事が載っています。今年5月国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のヨハン・セレス駐日代表が英字紙の特集記事でこの救出劇を知り「難民救済のお手本だ」と再評価に動き始めた。と書いています。

P1010240

 

第14回内子座文楽に行ってきました

 内子座は大正天皇の即位を祝して、大正5年に創建された、江戸風の芝居小屋です。Photo

 8月22日愛媛県内子町で公演している内子座文楽を見てきました。演目は継母のいじめで知られる鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)中将姫雪責の段と桂川蓮理柵(かつらがわれんりのしがらみ)帯屋の段です。時代物と世話物の組み合わせ。

 「中将姫」では胡弓の音楽がバックに流れ哀感を誘います。「帯屋」では前半がチャリで大いに笑ったところで一転悲劇の後追い心中。大変分かりやすい展開で、初めて見た演目でしたが、しっかり楽しみました。

 Photo_2  中はご覧のように昔の芝居小屋の雰囲気がたっぷり。壁に掲げられている看板も創建された当時のままです。

P1010190  今年の出演者は人間国宝の鶴澤清治、吉田文雀をはじめ、豊竹嶋太夫、豊竹咲太夫など文楽を代表する芸達者ばかりです。

阿万上町伝統文化子供教室 動画をアップロードしました

 P1010156

 一昨日上町踊りの練習に行ってきて、動画を録り初めてユーチューブに投稿しました。リンクを張りますので、見てください。あまり高画質にするとアップロードに時間が掛かりますので中ぐらいの画質で撮っています。

花踊り  毛槍  今世源氏(でこてん)

私の中の中国6.私中国人アル⑥

ヤクザ・ギャング映画

 私が中学生のとき総選挙があり、小学校の講堂で自民党、原健三郎の個人演説会があった。通称ハラケンは衆議院議長も勤めた淡路島の名物議員で選挙公約は夢の架け橋(本四道路)一本やりで大衆的人気があった。選挙終盤には土下座をして危機感を盛り上げ、よくトップ当選をした。

 夕方学校から帰って来て、休んでいると外がザワザワするので、県道まで出てみた。二人の背広を着た大男が並んで歩いてきた。道路沿いの家から、ちらほら人が出て二人を見ている。眼鏡をかけた恰幅のよい男が声を張り上げた。 「おおーい、おまはんら、はよこいよ。なにしょんのじゃ。はよいかんかれ。小林旭みにいかんか、もうはじまんぞ、はよいこ!はよいこ!」歩きながら呼び込みをしているのがハラケン、小林旭が神妙な顔つきで付き添っていた。目の前で初めて見る大スターは色悪だった。

 二人は私の前を通り小学校の講堂のほうへ歩いていった。当時マイトガイと呼ばれた小林旭は石原裕次郎と並んで日活の二枚看板で、青年団のお兄ちゃんお姉ちゃんの憧れの的だった。

 以前住んでいた家の二件隣が映画館だったので子供の頃はよく映画をみた。日活や東映が全盛の頃で、「ロマンポルノ」のもっと前、ハラケン原作の渡り鳥シリーズが人気で、実はゴーストライターがいたのだが、他に東映のヤクザ・ギャング映画のようなのが3本立て、小人20円ぐらいで入れた。

 ヤクザ・ギャングが神戸や横浜を舞台に勢力争いをすると必ず香港や台湾の麻薬密売人が暗躍する、「第三国人」なんて言葉がスクリーンの中ではばかられる事なく飛び交っていた時代だ。もう題名も筋書きも忘れてしまったが、あるギャング映画でギンギラギンの中国服をきた麻薬密売人が出てきた。「私○○アル」とは言わなかったが、落ち着いた、凄みのある語り口で、日本のワルと取引をしていた。

 その頃のヤクザやギャング映画で麻薬取引のシーンには大抵、朝鮮・韓国人、台湾人、香港中国人が絡んでくる。日本人のヤクザ、チンピラもワルだが、もう一回り悪くて、小林旭や宍戸錠に、撃ち殺されてしまう。こんな映画を子供の頃から見ていると日本人は棚に上げて、中国人や朝鮮人などみな麻薬犯人に見えてしまう。ストーリーは必ずしも差別的ではないのだが、台湾の麻薬犯人が撃ち殺される場面だけが印象に残り民族的偏見が固定される。麻薬=台湾・香港、密売人=韓国人というイメージが類型化され最悪だった。

 あの頃、朝鮮・韓国人、中国人で映画や歌のスターはいなかった。国民的人気を誇ったプロレスの力道山は日本人だと思っていた。日中国交回復後70年代半ばになってやっとアグネス・チャン、テレサ・テン、ブルース・リーなど中国人スターがでてきた。「ヨン様」の韓流ブームが起こるのはさらに30年後、金大中大統領が1998年10月に締結された「日韓パートナーシップ宣言」で日本文化を解禁して日韓相互の文化交流が盛んになってからだった。政治や経済の結びつきも大切だが、文化の相互理解こそ民族の偏見を取り除く鍵になるのではないかと思う。

呉の勇ちゃん

小さなアルバム

 私が小学校に入学した頃、母が小さなアルバムを買ってきた。それまで写した家族の写真が20枚ぐらいあったので整理し始めた。その中で家族・親族写真とは全く関係が無いと思われるのものが3枚あった。1枚は毛沢東や鄧小平が天安門楼上で写っている写真、2枚目が南アジア系の人達が写っている写真、そして軍服姿の樋口のおじさんの写真である。「このひと誰?」と母に聞くと「偉い人よ」と答える。「樋口季一郎と言って親戚の偉いおじさん」小学一年生に親族関係を詳しく説明するのが面倒だと思ったのか、それ以上答えてくれず、樋口の写真のことはそれっきり忘れてしまった。

P1010137_3 

 時が過ぎ私が中学生の頃、祖父が亡くなった。大阪から親戚がやってくるという。昔陸軍中将だった偉い人だという。その時やっと樋口の大伯父さんが、祖母ちよのの兄だという事が分かった。他にも樋口の腹違いの弟で広島県呉に住むゆうちゃんも葬式に来るという。

呉の勇ちゃん

 通称呉の勇ちゃんこと奥浜勇二郎は、樋口季一郎の父久八(きゅうはち)がまつと離婚後再婚した、いま(通称おいまさん)の息子で戦争中は海軍の下士官をしていた。この人は親族の間では「話題の人」でよく父や伯母たちが噂話をしていたのをよく憶えている。「勇ちゃんは勝手な男でな、ごく若いころ結婚して子供もできたが、子が調子悪くて離婚して、逃げるように呉の海軍に志願していった」

 勇二郎は勉強も良くできて優秀だったので海軍に志願して広島に行ったが困窮する母元に寄り付かず、たまに休暇で淡路島に帰ると郷家に入り浸っていたという。勇ちゃんは母親のおいまさんの面倒を全く見なかったので郷家で援助をしていた。それで勇ちゃんは親戚筋で評判がよくない。

 去年亡くなった父方の叔母は生前、親戚が寄ったときなど「勇ちゃんの二度目の嫁さんはがいな自慢タレでよ、まるまる肥えて目が象さんみたいでなあ・・・こ~んな顔して」と両手の親指と人差し指を眼と口にあて外側に引っ張るしぐさをして「カン高い声でネェお父ちゃん、ネェお父ちゃんゆうてなあ、よう勇ちゃんを膝枕にのせて耳そうじをしていたわ」と皆を笑わせた。

初対面の異母兄弟

 祖父の葬儀にきた二人の異母兄弟をどう引き合わせるかが、郷家の課題になった。父に言わせると「勇ちゃんは樋口にとって親父を奪った妾の子やから・・・」といっても狭い家に泊まる二人を紹介せぬわけにはいかない。

 父が二人の間を取り持ち葬式の前に対面することになった。私はこの時現場にはいないで祖父を安置してある離れで留守番をしていた。私は祖父が死んで初めて死体と向き合う経験をした。祖父の息が絶えて往診にきていた医者が臨終を告げた。その後遺体をはなれに移し伯母達が鼻や口に脱脂綿を詰めるのをみた。人間が死ぬと硬直がはじまり、体液が流れ出るのを防ぐための処置だと知った。「お尻にも詰めとかなあかんなあ」という伯母の言葉が妙に生々しく記憶に残っている。

 さて本宅の様子はどうなっていたのか、後年叔母から聞いた話だと父が勇ちゃんを樋口の前に連れて行き紹介した。「勇ちゃんは子供の頃から郷家と昵懇で現在も親戚付き合いをしている」と打ち明けた。樋口は勇ちゃんの前に一歩進み「長い間苦労をかけて・・兄として何もしてやれなくて・・・許してくれ」と堅く手を握った。勇ちゃんは感激のあまり言葉がでず号泣した。昨年亡くなった叔母が生前「勇ちゃんはよう泣くんよ、けどあんときはなかなかよかったよ」としんみり話していたことが思い出される。

Save0005 樋口季一郎と奥浜勇二郎

お盆になると思い出す話

お参り

  4年前父が亡くなり、その年の11月末から母と同居し始めた。それまで住んでいた、阿万(あま)の街中から1キロほど離れた隣町との境にある父の実家の近くまで引っ越した。父の実家には、中国から引き揚げてきて8年間住んでいた。隣近所の人達とも旧知の間柄であるので、年齢に関係なく「ちゃん」付けで呼び合う。引っ越してきてしばらくしたころ、隣保のふとん屋のあいこちゃんから、私たち家族が帰ってきたときの話をうかがった。

P1010105_2

 私たち家族が中国から帰国したのは1953年(昭和28年)のお盆のころで暑い盛りだった。当時高校生ぐらいだったあいこちゃんが今でも眼に焼きついている光景があると言う。父の実家の前には県道をはさんで大きな池があり、堤の脇の小道を約50メートルほど歩くとふとん屋さんに行きつく。「すみちゃん(妹)はお母さんに背負われて、一ちゃん(筆者)はヨチヨチ歩きでお父さんに手を引かれて池の横を歩いてくるのを家から見ていたんよ。戦死した二人の叔父さんをお参りに来てくれて・・・あの時の光景は忘れられんわ」 現在養子をとってふとん屋の跡を継いでいるあいこちゃんの叔父二人は大戦で戦死した。一人は父と同級生でもう一人とも歳が近いので遊び友達だった。

P1010103

 

 この話をきいて私は胸にぐっと来るものがあったが同時に、ちょっと意外な感じを持った。というのは父はほとんど無神論者といっていいくらい神・仏を信じなかったからだ。祖父の墓参りなど一緒にした事がなかった。父が寺社に参って手を合わせるなんて姿は金輪際見たことがなかった。

 20世紀は戦争と革命の時代だといわれるが、父は激動の時代を生き抜いてきた。おそらく神・仏が最も頼りなかった時代だと思われる。数多くの死線を潜り抜けてきて、15年ぶりで故郷の土を踏んだ父の同級生の多くは鬼籍に入っていた。この時父の胸に去来するものは・・・尋ねたい父はもういない。

NHKスペシャル〝玉砕〟隠された真実奇跡の生還

 「NHKスペシャル〝玉砕〟隠された真実奇跡の生還・その裏で新資料が明かす大本営の内幕」を見ました。

 2年前JANJANで、父の15年戦争(18)「死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛を書いたときアッツ島の玉砕について色々調べていたので、今回の生き残りの兵たちの心理がよく分かりました。戦前の教育を受けた世代は、捕虜になることを末代までの恥とする考えを強く持っています。私の父も軍人勅諭や戦陣訓で徹底的に叩き込まれました。いい加減な作戦をして、大勢の兵を死地に追いやり、何一つ責任を取らなかった大本営の参謀たちに比べて、生還したにもかかわらず「生き恥」をさらしてつらい戦後を送ってきた兵士たち。現在でも「英霊」なんて言葉を無批判に使う政治家がいますが、死者を美化することによって、馬鹿な参謀たちを結果的に免責するのは間違っていると思います。

留用された日本人「母の場合」9

手打ちうどん

 4年前亡くなった父はわがままな人間で、自分の好きなように生きてきた。人生は他人との関係でほとんど自分の意のままにならぬほうが多いのだが、父の場合自分が信じるままに、わが道を行く。他人の意見もほとんど聞かないので、まして家族がどう言おうと耳を貸すことはなく自分の思うとおりに行動してきた。生活全般がそうで、特に食生活は父の好む味付けに家族は慣らされた。

 父は食事の時「料理に砂糖を使うな」とよく言っていたが一つだけ例外があって「スキ焼だけは砂糖を入れてもよい」がほかは全部ダメだと言う。私が小さい頃は惣菜なんて気の利いたものは近所の食料品店になかったので買うこともほとんどなかった。母の作る食事はオール手作りで、父の嫌いな砂糖入りの料理は全く出たことは無い。私が高校を卒業して、大阪に就職したころ、梅田の阪急三番街の和食の店で鰻丼を食べたとき、甘くて柔らくて、これが本当の鰻丼かと感動した。それまで家で食べていた、池で捕まえてきたうなぎは、醤油をかけるだけの鰻丼で、それはそれで、美味しかったのだが、阪急三番街で食べた鰻丼は格別の味だった。

 父と母が結婚をした1951年頃は、国共内戦も終わり、朝鮮戦争は続いていたものの、停戦協定への歩みも進んでいた。国内政治の焦眉の急は内戦で膨れ上がった軍隊を一刻も早く食料生産の現場に移し民生の安定をはかることだったので、軍隊も縮小し、余った人間は農村に帰っていった。父が獣医をしていた「馬部隊」は後勤部という輜重部隊の一部門だった。その部隊もいずれ民生部門の輸送に転換していくはずだが、まだ過度期で部隊は存続していた。

 母は衛生部隊の中にいたのが結婚によって父の部隊に移動した。それで、食事も父の部隊の兵隊と一緒にとることになったので、父の食事の嗜好もこの頃から分かってきた。母によると部隊ではパオズ(包子)という具が入っていない饅頭が出ることが多かったが、父はパオズが嫌いで「そんなモン食えるか・・・」と食べようとしない。かといって米なんか日本のようにどこにでもあるわけが無い。こまった炊事係は父がうどんが好きだと聞いて、パオズのときは、父だけ特別にうどんを打って、食べさしたと言う。

 このあたりの物分りのよさは軍隊とは思えない。日本軍でこんなわがままを言ったら。どづき回されて、半殺しになり食事どころではなくなるだろう。父の「わがまま」な性格は中国人民解放軍が甘やかしたためだった。

 人民解放軍にはさまざまな民族出身者がいた。彼らは皆独自の文化を持ち料理の味付けも多様で、画一的な食事を受け付けない。宗教もさまざまで、戒律で禁止されている食べ物もある。漢民族が多数派だといっても豚肉の入った中華料理を回族に押し付けたらいっぺんに中国共産党は支持を失うだろう。どんな民族も皆平等であり、その独自の文化や宗教を尊重することを行動によって示さなければ、共産党軍は支持されることはなかった。

 私が子供の時母に聞いた話では「ホイホイ教というのがあって、豚は食べない」と言っていた。これは今思えば回族のことで、ほかに火を神様だと信じている少数民族の村を行軍で通過したこともあるそうだ。

国生みの里コンサート

クラリネット・ヴィオラ・ピアノによる室内楽コンサート&淡路人形浄瑠璃の世界

    P1000998

 8月6日南あわじ市三原公民館で開かれた「国生みの里コンサート」に行ってきました。南あわじ市北阿万出身の新進クラリネット奏者本濱寿明君の里帰りコンサートです。競演は神原あゆみ(ピアノ)いずみ(ヴィオラ)美人姉妹で、今回淡路人形浄瑠璃の「えびす舞」がオープニングに上演されました。本濱君の母と弟は淡路人形浄瑠璃の人形を遣い、妹は太棹三味線がプロ級の腕前です。彼をはぐくんだ、淡路の文化とクラシック音楽がどう融合されたのか・・・

P1000926

 P1000990

 人形浄瑠璃に引き続いていて、Vioclano(ビオクラーノ)と行く音楽の世界旅行と題された、親しみやすいクラシックの小品が演奏され第二部は絵本と音楽のコラヴォレーション松谷みよ子作「ミサコの被爆ピアノ」が上演されました。この日は広島原爆の日、平和への願いをこめて、室内楽をバック木田薫さんが切々と朗読しました。

P1010052  神原いずみさんの野性味あふれるおしゃべり、アンコール曲をプログラムに明記するなど、従来のクラシックコンサートを打破した試み?など楽しいコンサートでした。私はカヴァレリア・ルスティカーナ幻想曲が一番気に入りました。イタリア民謡調の哀愁あるメロディーがクラリネットの音色にうまくマッチしていました。ちょっとごった煮という感じもありましたがおもしろかったです。

P1000999

今世源氏(でこてん)について

 昨日の記事を更新して花踊りと日傘踊りの歌詞を載せました。日傘おどりをなぜ「でこてん」というのか?師匠にきいてもよく分かりません。本当は歌を聴いてもらえばよいのですが、かなり難しい歌です。それでいて歌詞からみても優雅な感じで、メロディーも単調なようで奥行きがあり味わい深い曲です。私は古文の素養はないので、深い意味が分かりませんが恋の歌のようです。教養のある方に教えて欲しいのですが・・・

 動画を入れたいのですが、ファイルの大きさの制限があるようなので、うまくいきません。いい方法があったら載せます。

阿万上町伝統文化子供教室

 上町公会堂で毎年夏休みに開いている伝統文化子供教室に行ってきました。南あわじ市阿万地区は伝統芸能の盛んな土地柄ですが、私の住んでいる上町はその中でも最も活動的な町内会の一つです。

 上町踊りは明治のころに始まったといわれています。昔は盂蘭盆の行事として青年団が中心になって盆踊りをやっていましたが、過疎と少子化で青年団が衰退して、伝統芸能の継承が困難になり長い間休止していました。このままではいけないという事で7年前から町内会が中心になり上町踊り保存会を結成して小学生を対象に踊りを教えています。

男の子の「毛槍」です。

P1000902_3 奴さんの衣装を着て槍を持って踊ります。田植えの踊りが入っていて、最後の方になると拍子木と太鼓のリズムが早くなり、こどもの踊りがついていけなくなる姿がユーモラスです。

P1000883_4   

女の子の「花踊り」です。昔の農作業の形が入っています。

1.梅は咲いたが桜はまだですか 柳なよなよ風しだい 山吹や浮気で色ばっかりしょんがいな

2.春ははまぐりしじみはまだですか まてはうろうろ汐しだい こかいは浮気で色ばっかりしょんがいな

3.車できたがのりてはまだですか お客ゆるゆる行きしだい 三味線太鼓で女郎ばっかりしょんがいな

4.ことしゃ世がようて穂に穂が出たわいな 家内もろうてはらつづみ 隠居もおもやも米ばっかりしょんがいな

5.月はまんまるえがおで出たわいな 中で兎が餅をつく 桂男がチョイト食べてあんまんま

P1000864_3 P1000863_3   女の子の「でこてん(傘踊り)」です。「今世源氏」が正式な題名です。でこてんという意味がよく分からないのですが、歌詞を読むと、優雅な恋の歌のようです。斜線の部分は今は略して歌っています。

今世源氏(でこてん)

あまのまてかた まてしばし よぶこえ とどく ひとごとを

たれにかつげの ふたつぐし みつしおの

よるのくるまの われからと 

ないてわかれしきぬぎぬの そでやたもとよ うらみわび

すえはどうなることじゃやら いやぁよいよい よいよい よいやな それえい

こちはさわりのないみさお ただひとすじにいとまきの しめくくりして

あいのてに あうときばかり ひきよせて うらむてんじよのくだかけは

やこえやつじにあけそめて のこることばの かずかずを

ひとめのせきをしのびごま きみにおうよのうきなはいやよ

とかく おもいのままならん まてばかんろの ひがらがさ さしかけて

つきもかさきて かようらん ふみは いもせの はしとはいえど

のくの あわぬのと くぜつのたねよ かおはもみじのはしたなく

はもじ はもじや かささぎのはし だます ことばのはしとは

ほんにしらつゆの ふみなかえして まるきばし

いやあ よいよい よいよい よいやな それえい

P1000896_4 踊りのバックには歌、三味線、太鼓、拍子木が付きます。私は7年前踊りが復活したときに町内会の役員だったので、拍子木をやるはめになり、長老から教わりました。冷や汗タラタラです。

P1000897_3

留用された日本人「母の場合」8

中華料理のフルコース

 母は食いしん坊なのか、「中国体験談」も食べる話が多い。子供の頃からよく聞く話に、北京かどこかの高級飯店で28品目の料理を食べたと言うのがある。時に品数が27になったり25になったりするが、「最初からご馳走が出てきたので夢中でパクパクお皿全部を食べ、5品あたりで満腹になり、もう終わりかと思ったら、それからが本番で次から次から山海の珍味が出てきて途中で食べきれなくて、もったいないことした・・・」といつも後悔の言葉で終わる。

 私自身、淡路島の田舎育ちで、子供の頃は中華料理どころか外食自体ほとんどしたことがなかったので、20種類以上の料理を一度に食べることなんて想像すらできなかった。たまに神戸へ連れて行ってもらったとき「自分だけそんな贅沢をしているのに、僕にも大丸の大食堂でカレーライスぐらい食わせろよ!」 と何度思ったことか・・・(かやくうどんをひとつ注文して、おにぎりを持込んで食べていた)

 数年前、母とテレビの料理番組を見ていたとき例の「中華料理のフルコース」の話をした。「一体いつの話」と私は詳しく追求した。「人民解放軍の手術隊に入って明日はいよいよ出発する前の晩だった」と言う。場所は詳しく覚えていないが、北京の近くで、その町一番の飯店に幹部が出立する看護婦全員を連れて行ったと言う。

 1948年9月12日から11月2日にかけて行われた遼瀋戦役で林彪率いる東北人民解放軍は国民党軍を東北(満州)から一掃した。この頃から共産党軍は統一して中国人民解放軍とよばれるようになり、東北解放を担った林彪の軍隊は人民解放軍第四野戦軍になった。

 第四野戦軍は山海関(万里の長城)を越え黄河、長江を突っ切り海南島まで進む戦略軍だった。母は100万の軍勢を誇る第四野戦軍のなかの衛生部隊で5年あまりを勤務する事になる。部隊の出発前、山海の珍味を食べた思い出を昨日の事のように語る母だった。

 

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ