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日経新聞に樋口季一郎の記事

 本日8月25日、日本経済新聞社会面に樋口季一郎の「ユダヤ難民救出劇」の記事が載っています。今年5月国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のヨハン・セレス駐日代表が英字紙の特集記事でこの救出劇を知り「難民救済のお手本だ」と再評価に動き始めた。と書いています。

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陸軍中将樋口季一郎」カテゴリの記事

コメント

季一郎の孫の隆一です。祖父のこと、いろいろ書いてくださってありがとうございます。
最近になってあちこちから注目していただき、祖父も草葉の陰で照れていることでしょう。
郷さんも音楽がお好きのようですね。これはどうも血統のようです。
僕が音楽の研究の道に入ろうとしたとき、祖父は「三味線音楽をはじめて五線譜に移した吉村小十郎は私のいとこだし、ドイツで活躍した音楽学者の田中正平博士も遠縁だ」と言っていました。奥浜勇二郎さんは、祖父の葬式の時、わざわざ東京まで来てくださり、お目にかかった憶えがあります。

コメントありがとうございます。田中正平博士は郷土の偉人で、私の所から車で10分ほどのところに記念の野外音楽堂があり、たまに薪能などやっています。奥浜家と遠縁になるとは知りませんでした。吉村小十郎のことなど貴重な情報感謝します。

北海道に住んでいます。私も阿万の奥濱の一人です。文化文政期に分家しました、不思議なことに分家してもなお庄屋でした、奥濱は腐っても鯛だとは祖父の口癖でした。曽祖父長太郎の弟は浄瑠璃の太夫をしていた為か祖父は何度か弟子入りを試みたようですがその都度、千両取っても万両取っても役者は乞食と引き戻されたといいます。遠く離れた北海道で浄瑠璃を聞きながら育つた私でした。奥濱家から樋口季一郎氏が出たことをご先祖に感謝するとともに、名誉なことと喜んでいます。

コメントありがとうございます。私の祖父国平、(樋口季一郎の妹ちよの、の連れ合い)は若いころ北海道に移住していました。ところが、そのころはやった、スペインかぜで淡路島の本家の跡取り一家が全滅し次男の祖父一家が緊急に帰郷したそうです。
私は15年ほど前、当時の淡路島三原町の姉妹町、北海道の静内町に人形浄瑠璃の公演で行きました。静内町には淡路から多数移住したと聞いております。
私は人形遣いをやっておりましたが、娘は現在淡路人形浄瑠璃青年研究会で太夫をやっております。また北海道で公演などできる機会があれば・・・などと考えています。またよろしくお願いします。

度々お邪魔します。祖父の名は信一ですが同姓同名の犯罪者がいたようで、警察が訪ねてきましたが見るなりこの人は違うとすぐ引き返したといいます。これは拙いと武一と改めました。祖父のすぐ下の弟は一雄、北海道で生まれた末の弟に新八がいます、この二人の弟の息子は東京の大学を卒業しました。新八の次男は政治家を目指し、東大の法科を受験すること十年受かる事ができませんでした、東京学芸大学卒です。今も訪ねてきています。一家の中での成功者は一雄でして北見の津別で奥濱商店をやっていました、銀キ‘ツネを飼育して毛皮をアメリカに輸出する事業をしていたのですが戦争で頓挫してしまいました。息子になぜかバイオリンを習わす大叔父でした。昨年父の葬儀に東京から新八の息子がきた時に偶然、江差追分の話がでまして、実は父の新八は上手な歌い手であつたと言うのです。祖父武一の十八番は金毘羅船船でした。

コメントありがとうございます。奥濱一雄さんで思い出したのですが、樋口季一郎の腹違いの弟の子供に一雄さんという方がいらっしゃいます。同姓同名で偶然だと思いますが、私の父とは従兄弟になります。福井県鯖江市在住で今ご健在なら、七十後半ぐらいのお年です。父の生きている時分は年賀状のやり取りなどしていたようですが、父が亡くなった後、私はおつき合いはしていません。一族いろいろあるようで、こうしてまたメールで、北海道の親戚とやり取りをすることなどかつては考えも及びませんでした。いつか会える機会があればいいですね。関西に旅行などする機会があれば是非お知らせ下さい。

ありがとうございます。 一子相伝で奥濱の家は桓武平氏で侍大将であつたという伝承があります。  過去張には明和六年十一月二十八日 智璞道意信士(チ ハク ドウ イ 信士)源作の父、天明七年九月十八日 智光良和信女 源作の母 とあります。この前後に庄屋の分家が行われたと思われます、源作は弟の勝介伴っていました。源作の名は三代続きます、三代目源作は曽祖父長太郎の父で明治二十六年十月十八日に亡くなりました。北海道に何時移住したか判りませんが夕張郡長沼町で大水害に会い,高四郎(享年十歳),ツナ(享年十三歳)、テル(享年二十歳)を明治三十一年七月二十二日に亡くしております。明治26年~明治31年の間だと思っています。命があればそれで良いと夕張郡由仁町川端そして勇払郡安平町追分に移りました。川端と追分は境を接しています。水害と無縁の土地で私は生まれました。父は大正11年(1922)生まれ、私は昭和25年(1950)生まれです、どうも同世代のようですね。終戦時父は樺太の豊原師団司令部にいました、シベリア抑留から無事帰還したのが昭和22年です。翌年母、フジと結婚、昭和24年姉敬子そして私、昭和27年妹愛子の三人の父となりました。幼いころの思い出ですが義父に勧められて父は松葉を煎じて飲んでいました、鎮静の効果があるそうです。そんな父に建軍に参加しないかと誘われましたが祖父が高齢で側を離れることは出来ないと断りました。御曽祖父久八様に遠く及びませんが私の曽祖父長太郎にもささやか放蕩がありました、阿波踊り見物にでかけて中々帰らぬと家族を心配させたといいます。もし会うことができましたならば二百五十年ぶりの同系子孫の再会となります。

コメントありがとうございます。
色々珍しい話に興味がそそられます。私が父から聞いた奥浜本家の血筋は樋口季一郎の父が久八、その父が久平、その父が久兵衛。ここまでです。淡路から北海道への移住は明治はじめの庚午事変のあと、かなりの人々が行ったと聞いております。私の妻は洲本市の出身ですがその親族も北海道へわたっております。

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