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2010年9月

前原外相をなぜやめさせないのか

 今回の中国漁船拿捕事件で初めて日本政府は尖閣諸島での国内法の適用を試みた。これまで、1978年の日中平和条約で鄧小平が提案した尖閣では事を起こさない「領土問題は棚上げにする」という合意を破る大転換だった。日本政府は「日本固有の領土は明白」と「公務執行妨害」の漁船船長を粛々と起訴しようとしたが、中国の強硬な態度で結局船長を釈放した。これは日本外交の大失敗ではないか。にもかかわらず、前原外相は28日の衆議院外交防衛委員会で「またこういうことがあれば毅然と拿捕するといっている」じゃあなぜ船長を釈放したのかと言う話になる。こんな腰の定まらないフラフラした外相では誤るのは当たり前だ。

 菅首相は来月4日~5日にブリュッセルで開かれるアジア欧州会議に出席して中国の温家宝首相との会談を模索しているという。29日には民主党の細野前幹事長代理が極秘に菅首相の親書をもって北京を訪問しているというニュースが流れた。中国との関係修復がやっと始まったが、対中強硬派の前原外相を抱えたままで中国は日本政府を信用しないだろう。

 仙石官房長官は「中国は昔と同じで(法治ではない)読み誤った」などと泣き言を言っているが、中国が怒るのは、「領土問題」での「棚上げ合意」を破ったことにあるという事を知るべきだ。

 

中国漁船拿捕事件は前原外相の大失態

 今回の事件の日本政府の対応、マスコミの報道、国民の反応を見ていると、いずれも自国の正しさを露ほども疑わず、挙国一致で毅然と日本の法律を粛々と実行すれば、不法な中国は黙ると読み違えた。中国がこんな無法なことを要求するのは、普天間の件で日米の不協和音につけ込まれたためで今後一層の日米同盟の深化をはからねばならないと25日の日経新聞も総括している。

 これこそ思考停止の典型で、今回の米国頼みの外交の敗北の原因ではないか。事件の主役、前原外相は国土交通相のときに漁船の拿捕をじきじきに指示をしていたようだが、外相の花道に上がったとたん粛々と船長を釈放して大恥をかいた。前原外相は23日のクリントン米国務長官との会談で「輸入牛肉の月齢制限の見直しをひとつの方向性として検討して、議論したい」と表明していたが、牛肉輸入緩和を手土産にクリントン国務長官から「尖閣諸島は安保の範囲」との言葉を引き出し、船長を釈放して矛を収めたようだ。しかし中国の謝罪と賠償要求でまだまだ治まらない。底の浅い戦略で日本は大やけどを負った。

屈辱の原点 

 なぜ中国がこれほど強行なのか日本はわかっていない。事件を引き起こしたのは日本であるという自覚が無い。菅新内閣は初閣議で尖閣での「領土問題は存在しない」と決定していたようだが、これを聞けば出先の海上保安庁は勇躍取り締まりに走る。日本は日中平和条約以来の「棚上げ」から大転換したのだ。

 中国はケンカを売られたと思っている。日本人の認識は「日本国内でパトカーが違反車を止めようとしたら逃げたので追いかけた。その時パトカーと接触したので公務執行妨害で逮捕した」ぐらいにしか思っていない。この落差は大きい。

 日本は尖閣諸島の領土権を主張するとき、明白で疑う余地は全く無いという。しかし中国は1895年以前の清、明の時代から中国の領土だったといっている。テレビなどで「1895年に誰も住んでないのを確かめて領有した」と説明しているが、日清戦争に勝利して清国から台湾・澎湖諸島と共に割譲したことを言わない。中国は「台湾と同じで戦争でとったものは不当だ」といっている。尖閣問題の根っこには日中歴史認識相違の原点がある。

 日清戦争に敗北した清は台湾・澎湖諸島を日本に割譲するとともに財政の3年分という巨額の賠償金約3億円(庫平銀2億両)を支払うはめになった。この資金は英、露、仏、独からの借金によってまかなわれ、清の財政は急速に悪化し半植民地へ転落の一歩となった。中国は尖閣諸島を台湾の一部とみなしているので、尖閣諸島は弱かった近代中国の屈辱を思い出す原点なのだ。従って今回初めて日本の国内法を行使しようとすると強くなった中国は国交断絶も覚悟して強攻策をとってくる。

 

 

中国漁船の船長が釈放されました

急転直下、那覇地検が公務執行妨害で逮捕していた中国漁船の船長が処分保留で釈放されることになった。政府やマスコミは粛々と日本の法律を執行するといっていたが挫折した。中国のここまで強行になる姿勢を読み違えた。この数日の新聞などを見ていて中国が毅然とした日本の姿勢を読み違えたと言うような論評が多かったのだが、逆だった。ニューヨークで尖閣付近が日米安保の対象だなんてアメリカのリップサービスをもらって喜んだのもつかの間、前原外相はどんな気持ちで船長の釈放を知ったのだろうか。アメリカなんて何の役にもたたないことがわかっただけでも成果と言うべきか。

 それにしても、日本のマスコミの劣化はひどい。漁船を拿捕したとき、漁船の方から巡視艇に2回もぶっつけてきたと言う話で煽って、ビデオの証拠もあるといっていたのがいつの間にか言わなくなっている。日本人は政府の発表を素直に信じてしまうので「不法な中国漁船」と熱くなる。魚船の倍以上もある武装した巡視船にぶっつけるなんて、まるで特攻だ。NHKの流していた映像を見てもちょっと信じがたい。おそらく漁船は巡視船に追っかけられているうちにあやまってぶつかったのだろう。

 1978年日中平和条約が結ばれたときに、尖閣諸島の領有の問題が一致せず残されたが、鄧小平は「われわれの世代でいい知恵が浮かばないなら次世代にまかせよう」といった。日本も今日までそれに乗っかってきたが、そのことを指摘するメディアはあまり無い。近代国家は領土の境界線をきっちり決めてお互いの支配する地域をはっきりさせるが、その時の力関係もあり無数の領土や資源の争いが発生している。あまりきっちり決めすぎるのも良くないと思う。

 尖閣諸島領有の中国の言い分は日清戦争における下関条約あたりに行き着くが、つまり日本が戦争に勝った勢いで台湾・澎湖諸島を奪いそれが不当だと、魚釣島は台湾に属するから、台湾省・中国のものだと言う論理である。

 しかしここまで遡ると、琉球処分も問題になってきて止め処も無く歴史を遡り混乱する。結局鄧小平の言うように棚上げにするというのが、現実的なやり方では無いだろうか。100年でも200年でも棚上げにすれば良い。そのうちよい知恵も見つかり、領土や領海が意味を持たない時代が来るかもしれない。

 

尖閣諸島、中国漁船拿捕事件の本質は領土問題

 9月22日付けの日経新聞第一面に「中国、尖閣巡り強硬姿勢」という解説記事が載っている。小泉首相の靖国参拝のときはまだ「中国側には全面衝突に発展する事態だけは防ぐという、あうんの呼吸あった」がこのたびの事件は「中国側の反応はこれまでの一線をこえている。その真意がわからない」と政府の外交・安全保障担当者からの声を紹介している。

 おそらく日本の政府は「尖閣」には領土問題など無いという幻想で統一してメディアに宣伝しているので日本人は素直に信じているのだろうが、中国・台湾は全く認めていない。日本人の悪い癖で自分たちだけの希望的観測で物事を見ようとして、領土問題の本質がわかっていない。向こうも正義を振りかざしているのである。麻薬密売人ならいくら取り締まっても、文句は言わないが、真っ当な漁民を逮捕して日本の国内法で罰するというのは相手に喧嘩を売っているのと同じことである。かつてソ連時代北方領土付近で北海道の漁民がさんざんソ連の警備艇に拿捕され日本人は悔しい思いをしていたが、それと同じ気持ちを中国人は持っている。あの頃ブレジネフは前原外相と同じく、日ソ間に「領土問題など存在しない」と言い続けていた。

 日経の記事は、普天間の基地問題などで日米に亀裂が入ったすきに、中国が楔を打ち込んできたと解説している。中国漁船を拿捕することを主導したと思われる前原外相も同じことを言うであろう。

米軍幹部は最近、日本政府の知人に不安を漏らした。「日米同盟が強固に映っているうちはいいが、弱まっているとみられたら、中国軍がさらに日本近海に進出してくるだろう」

 そういうアメリカは今年の5月24日~25日にヒラリー・クリントンが国務省の200人の役人を率いて北京を訪問し、環境、エネルギーから経済、金融、貿易、投資などさまざまな分野での戦略対話を行っている。そういえばアメリカ国債の最大のお得意先は中国である。中国敵視政策はとっくに捨てている。

 中国と領土争いをして突っ張ってもアメリカは助けてくれない。虎の威を借りても中国はアメリカがハリコの虎であることを知っている。底の浅い戦略で領土問題は解決しない。登り坂の中国と対決するのは冒険主義である。

尖閣諸島での中国漁船衝突・拿捕事件について

 9月7日、尖閣諸島で中国漁船衝突・拿捕事件が発生し、中国の日本大使館にデモ隊が繰り出し抗議活動をするなど日中間が緊迫しているが、中国当局は報道統制をして尖閣諸島問題に大衆が関わらないように押さえにかっている。その一方、日本には船長のl釈放を強行に要求し、東シナ海でのガス田問題の交渉を中止して掘削作業に踏み切る姿勢を見せている。

 日本政府の菅首相が、掘削作業に踏み切れば対抗措置をとると、日本単独の試掘をする話を匂わせている。このままお互いに強硬姿勢が続けば日中関係は決定的に悪化するだろう。本日9月20日の神戸新聞によると中国漁船の船長の拘置延長を受けて中国外務省は閣僚級の交流停止を通告してきた。

 領土問題はその国のナショナリズムを刺激して、冷静さを失い相手の言い分を聞かなくなる。日本は法律にに基づいて逮捕したと言うだろうが、そもそも台湾や中国は尖閣諸島が日本の領土と思っていないのだから、逮捕は違法だと思っている。蓮舫大臣が「領土問題が根底にある」と言っただけで訂正を迫られる、この国には冷静さがあるだろうか。

 日本の政府、マスコミ、国民、ネットなどの意見のほとんどすべては尖閣諸島は日本の固有の領土であり、中国漁船は巡視船に体当たりして公務執行妨害をしたのだから逮捕されて当然であると思っている。自分達に正義があり相手は違法だと思えば妥協はありえない。国民は相手国に毅然と対処する政治家を支持する。私も日本に暮らして日々日本のマスコミの影響を受けている。日本のマスコミの書いているのを見る限り日本が正しくて中国が一方的に悪いと思ってしまいそうになる。しかし日本が絶対に正しいなどと言いながら聖戦を戦って破滅に陥った戦前の例を見るまでも無く、社会全体が一つの意見にまとまる時ほど怖い時代は無い。

 田中宇の国際ニュース解説「日中対立の再燃」http://tanakanews.com/100917senkaku.htmによると日本のマスコミが流している日本が正しく中国が違法という考えと全く異なる事件の全貌が見えてくる。田中宇氏の解説の中で核心の部分は次のところである。

日本の海保は、中国漁船を監視する巡視船を尖閣周辺に配置してきたが、トウ小平以来の日中間の領土紛争棚上げの合意もあり、これまで日本側は尖閣領海で、台湾や香港の船を激しく追尾しても、中国の船を拿捕・逮捕したことはなかった。日本も中国も、民間に「尖閣(釣魚台)を守れ」と主張する政治活動家がいても、政府としては対立を避ける姿勢を互いに採ってきた。その意味で今回、日本の当局が中国の漁船を拿捕し、船長を起訴する方針を固めたことは、日本が政府として中国との対立を決意する、対中国政策の劇的な大転換を意味する画期的な動きである。

事件後、中国当局は、尖閣周辺で操業する中国人漁民を保護するため、準軍事部隊である漁業監視船を派遣することにした。史上初めて、日本(海保)と中国(農業省傘下の漁業監視船)の軍事的な部隊が、海上で対峙する状況が生まれる。日中交戦もあり得る事態だ。戦後65年なかった、日本が戦争しうる事態がぐんと近づいた(鬼畜米英の代わりに中国の脅威が喧伝される)。尖閣諸島は、南沙群島や黄海とともに、中国と、米国に支援された周辺国が対峙する、世界的な海上紛争地域(対中包囲網)に格上げされた。

今回の件は日本のマスコミで、中国漁船の不法行為を当然の行為として日本の海保が取り締まり、それを不当にも中国政府が非難していると報じられている。しかし従来の日本当局は、中国漁船を追いかけても、追い詰めて逮捕起訴することはなかった。今回の逮捕起訴劇の重要点は、漁船の行為や中国の反応ではなく、中国が怒ることを知っていて逮捕起訴する日本政府の能動的な政治意志である。なぜ今、日本が中国を怒らせるかが重要だ。

 日本は中国に「冷静に」などと余裕をもった言い方をしているが、田中氏の解説では戦争の危険があると警告している。今日の神戸新聞には「陸自1万3000人増員検討、38年ぶり規模拡大、尖閣問題対応も視野」という記事もある。冷静になるべきは日本ではないか、今後もこの問題を注視したい。

私の中の中国8.産土(うぶすな)

初めての産婆さん

 私と一歳違いの妹は1953年3月河南省信陽で生まれた。そのころ、昼間私は子守に預けられ、母は乳飲み子の世話をしながら地域の保健婦のような仕事をしていた。父は「馬部隊」を離れ「生産大隊」に入って牧場で獣医をしていた。

 あるとき一人の部隊員を尋ねて女性が面会にやってきた。彼女は部隊員の妻で身重だった。大きなおなかで臨月近くのようだった。来てまもなく突然陣痛がはじまり母の所に飛び込んできた。母は産婆さんをしたことが無いので断ろうとしたが、非常事態で仕方がない。お湯を沸かし赤ちゃんを取り出す準備をした。彼女は陣痛が始まっても立ったまま足を踏ん張っていた。母はあせった「はよ寝なさい!といってもゆうことをきかんのよ・・・」普通お産をするとき妊婦はどんな体勢でするのだろうか。たぶん仰向けに寝て足を開き・・・私は経験が無いので、想像で書いているのだが、間違っていたらごめんなさい。

 母が始めて取り出したお産は全く違っていた。立っていた妊婦はしゃがみ、和式トイレでする体勢で気張り、鳥が卵を産むように赤ちゃんを産み落とした。母はお湯で新生児をきれいに拭きへその緒を切り取って無事、大役を果たした。

 一般に動物は、分娩のとき助産を必要としない。人間だけが出産のとき他人の手助けがいる。仰向けに寝て分娩をするのは重力の関係や力のこめ方からみて、不合理なのではないだろうか。子供の頃、父の実家で飼っていた牛の分娩を見た事がある。牛は立ったままでお尻からビニールの様な膜に入った子牛が出てきたのを覚えている。昔は人間も他人の助けを借りず、産婦一人で出産していたのなら母が看たような女性のやり方が合理的だ。

産砂(うぶすな)

 2008年5月22日発行の日経新聞「私の履歴書」に民俗学者谷川健一氏がウブスナの謎と題して、1971年福井県敦賀半島の産小屋(うぶごや)を調査したときの話が載っている。敦賀半島には昔、道らしい道が無かったので点在する集落の住民は船で町まで往来する不便な生活をを送っていた。そのため浜には産小屋と呼ばれるお産をする小屋が残っていた。1970年に敦賀半島の先端に原発ができ、りっぱな道路がつくと、妊婦は敦賀市の産院で分娩するようになり産小屋は使われなくなり、納屋になったり、取り壊されたりした。

納屋の持ち主である河端亀次郎という老人に聞くと、産小屋には床板を張らず、小屋のつい先の海浜の砂を運んで一番底に敷き、その上にワラシベをのせワラシベの上にはムシロを、ムシロの上には布団を敷いたという。産婦は蹲踞(そんきょ)の形で座り、垂れ下がった力綱をにぎりしめて分娩した。「では、産小屋の底に敷く砂を何と呼ぶのですか」と私がたずねると、河端老人は「ウブスナ」と答えた。それは机上の学問ではなく、現地で民俗調査をするものに与えられた至福の一瞬であった。柳田国男でさえ不明としていたウブスナの語源がそのとき分かったのである。これまで産砂、産土、生土という漢字を宛てていたものの、その実体がつかめないでいたが、ウブスナを産小屋の砂と考えると、疑義は氷解する。 

谷川健一著「私の履歴書」より

 谷川氏の敦賀半島での調査は1970年代初めまで交通不便な集落の海辺に産小屋と呼ばれる分娩施設があり、産婦一人でも出産していた事実を物語っている。

私の産土(うぶすな)

 4年前の夏、私の住む南あわじ市阿万上町の亀岡八幡宮で「産土の集い」というイベントが行われた。昔は、青年団主催で夏の盆踊りが阿万の各地区で開催されていたが、約40年間途絶えていた。復活されたその時のキーワードが「ウブスナ」だった。産土とは生まれ育った土地という意味である。

 阿万亀岡八幡宮の現在の位置は浜から2キロ離れた街中にある。貞観2年(860年)に創建されたときは海辺にあり、浜には海亀が産卵のためやってきた。この浜に産小屋があったと言う話は聞いたことが無いが、産土という言葉が残っているところから大昔にはあった可能性がある。南あわじ市には渡来人由来の姓であると思われる「秦(はた)」という苗字を持つ人が多く住む地区もある。

 私は1952年1月中国漢口に生まれ家族と共に1953年8月日本に引揚げてきた。帰国直前まで住んでいたところは中原の河南省、そこから武昌に行き、船で揚子江を下った。南京を過ぎ上海まで何日もかかったという。上海から高砂丸という引揚船に乗り三日ぐらいで着いたのが敦賀半島からさほど遠くない舞鶴の港であった。そこから淡路島の南端まで丸一日近くはかかったのではないだろうか。それでも古代の渡来人から見れば格段のスピードで中国から日本に渡った。私の「産土」は中国か日本かどちらにあるのだろうか。いや両方にあると考えよう。母の体験した産婆さんの話から時間と空間を飛び越え、大陸から日本列島にやってきた先人達に想いをめぐらせた。

私の中の中国7.洞穴で危機一髪

母の躾

 私が子供の頃、母から徹底してしつけられた生活習慣が三つある。①生水を飲むな、水は必ず沸騰させてからのめ②注射をしたら風呂に入るな③炭を火鉢にいこしたら定期的に戸を開け換気をしろ。

 今では注射のあと風呂に入っても、たいていの医者はOKのようだが、母は家族が予防注射をすれば「風呂にはいったらアカン」と干渉をする。もちろん自分は絶対に入らない。私が今でも生水をあまり飲まないのは母の影響だ。お茶は自動販売機でよく買うが、美味しくてもお金を出してまで水は買いたくない。母の教えは三つとも健康と命に関わってくる事柄でその時代の常識でもあった。救急医療体制がなかった昔はちょっとした不注意で子供が命を失うことが多かった。私が住む南あわじ市阿万地区は水資源が乏しく、明石大橋ができ本土導水がはじまるまで夏は渇水が当たり前だった。町水道がなかった昭和30年代半ばまで、飲料水は井戸水で水質も悪かった。農業用のため池があちこちにあり、池で泳ぐときは「おへそより上に水がつかるとこに行ったらアカン」と母は具体的に注意した。三つの教えを口がすっぱくなるほど子供に強要したのは、元看護婦の職業意識と在中国10年の経験から来るのが大きい。中国人は生水を全く飲まないと言う。

 その時代、炭やマキは暖房や料理にかかせない燃料だった。母は火鉢に炭をいこすと、1時間ぐらいで「空気の入れ替え!」と、窓を開けた。隙間風がはいってくる6畳一間のあばら家で神経質なくらい空気の入れ替えをやっていた。あれから半世紀いまじゃ炭や練炭はバーベキューか自殺の小道具になっている。練炭火鉢を車に持ち込んで自殺をするのが時々ニュースになるが、この方法がもっとも楽に逝けるのかと、母の言葉が頭に浮かんだ。

洞穴で危機一髪

 両親が結婚したのは1951年の春ごろで中国の鄭州だと前に書いたことがある。私は1952年1月、漢口の病院で産湯をつかったが、漢口の前に二人で住んでいたところが洞穴だったと言う。父はその頃まで「馬部隊」にいて頻繁に移動していたようだが鄭州から漢口までの経路がハッキリしない。母によると丘のようなところをトンネル状にくりぬいた、洞穴にすんでいたという。洞穴住居と言えば革命の聖地延安が有名である。広い中国のことだから、他にも洞穴に人が住んでいる所はいっぱいあるに違いない。母によれば洞穴住居は夏涼しく冬暖かいので、意外と住みごこちは良いという。それでも寒い日は炭火で暖を取る。昼寝をしていたとき事件は起こった。母はボンヤリ目を覚まし、起きようとしたが、身体が動かない。とっさに炭火中毒だと思った。父はいつものように大きないびきをかいている。母は大声で叫んだ。声は出た「必死に叫んだらお父さんは起きた」洞穴の戸を開けて空気を入れ替え、事なきを得た。母にとって甘い新婚時代の苦い体験であるが、私にとっても危機一髪であった。そのとき私は母のおなかに宿っていた。

 

 

 

留用された日本人「母の場合」10

南方で見た食事どきの光景

 1948年、遼瀋戦役で東北(満州)の国民党軍を駆逐した人民解放軍は山海関を越え平津(北京・天津)戦役を戦った。このとき獣医師として解放軍に入隊していた父は天津攻撃の先遣隊に加わり、一番乗りで天津港に突入している。北京は特務工作が成功して無血開城となった。100万の大軍、人民解放軍第四野戦軍は引き続き解放軍の主力として海南島解放の命を受け続々と南下し始めた。母の衛生部隊も野戦部隊を追って武漢、湖南、江西、広州と南方方面に進出したと思われる。この頃のことを母に聞いても日記などつけてるわけが無いので、どんなコースをとったのか、地名、時期などほとんど憶えていない。「行軍は国民党の飛行機の爆撃を避けるため、ほとんど夜間におこなった。同じ場所に3日といなかったので、どこを通ったとか知る余裕がなかった」という。

 蒋介石軍を追って第四野戦軍は黄河を渡り揚子江をつきぬけ、各地を解放しながら海南島に向かって進軍した。中国は広い、同じ中国と言っても東北(旧満州)と南方では言葉、習慣、風俗がまるで違ってくる。南方で食事時、母は家々のまえで不思議な光景を見た。

Photo アサヒグラフ昭和14年8月9日号潜口にて母子の食事

 「食事時になると外に出てきて台と椅子をだして食べはじめるんよ、一軒だけではなくてその辺の住民全部が同じように家の前に出て食べている・・・」母の説明によると「暑さもあるんだろうけどそれだけでなく、自分達はしっかり毎日の食事をとってますよ、とアピールしている」そうだ。中国では古来、為政者の収奪、頻繁に起こる戦乱や大災害で庶民は人間生活の基本である食べることさえ満足にできない状態に置かれてきた。それでことさら食に対する執着心が強く、まわりの人々も食べているのか関心がある。

 現在の中国は革命前と比べて格段に国力は充実し、「改革解放」により国民の生活も豊かになっている。しかしあからさまな資本主義経済の発展により庶民と金持ちの経済格差が広がり貧困層も増大していると言う。すべての人々が食べていける社会主義を目指した中国は食べることの心配は卒業したのだろうか。いまでも南方では家の玄関前で食事をする習慣が残っているのか興味のあるところである。

私の中の中国6.私中国人アル⑦

支那人と中国人 

 以前、石原慎太郎東京都知事が中国を挑発的にシナ、シナと呼んでいた頃「中国人にシナ人と言ったらそんなに嫌がるのかなあ」と父に聞いてみた。「嫌がるなあ」父は顔をゆがめて即座に答えた。父がきっぱり断言するのは1938年から1953年までの在中国時代の経験からきている。戦前の中国でも中国人はシナ人と呼ばれるのを嫌っていた。

満州国人が一部の日本人に対して眉をひそめる一つのことは、時々泥酔して、街路をだらし無く千鳥足で横行し、放歌高吟することである。中略 もう一つの嫌いなものは、無作法、傲慢、粗暴で、なんぞというと直ぐ腕力に訴えることだと言う。この中で、無作法と思われる中には双方の国情風習の相違より来るものが多いであろうし、又何ぞと言うとじき殴りつけると言っても斯様な人も場合も極めて少ないには相違あるまい。 中略 それからもう一つ、先にも少し触れたが、満州国人は『満系』などと言われるのを嫌う。驚く可きことには、中国人自身が『支那人』と言われるのをすら厭う。『満州人』又は『満州国人』と言う可きであろう。

昭和18年発行 山本惣治著「満州・人と生活」より

 1953年に中国から引き揚げてきた我が家にとって中国は身近な国だったが当時日本政府は台湾が中国(国府)で大陸を中共と呼んでいた。中国から直接「人民中国」とか「中国画報」といった雑誌を取っていたので、自然話題は中国のことが多かった。思い起こせば両親は支那とかシナ人なんて言い方をしたことが無かった、特に母が言うのを全く聞いたことが無い。昭和30年代父を尋ねてよく呑み助がやってきた。6畳一間の狭い部屋で酒盛りをしだすと支那とか支那人という言葉が飛び交った。彼らは大抵大陸に出征していたので、自然と口に出るのだが、父はたまにつられて支那というときもあったがめったに言わなかった。このことをしっかり憶えているのはシナと呼ぶ人間は父と同年代以上の兵隊経験者にほぼ限られていたからだ。石原都知事のような、父より下の世代ではシナなんて言い方をする人は全くいなかった。

 父と同年代の兵隊帰りがシナとかシナ人とか言ってもそんなに不自然な感じがしなかった。彼らは中国蔑視の中で、習慣になってしまい周りにはそれ以外の言い方をする人がほとんどいなかったからだ。とはいっても戦前の中国の正式国名は中華民国で略して中国と呼んだ。日本政府が蒋政権とか重慶とか言うようになるのは、盧溝橋事件が起こり、公然と日本が中国に攻め入ってからである。近衛首相が蒋介石なんか相手にしないと宣言し、軍部の特務工作により汪兆銘親日政府を成立させた。

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 日本にとって1940年3月以後「正式」な中国は南京の汪兆銘政権で汪兆銘の肩書きは中華民国主席兼行政院院長である。昭和18年1月13日に発行された写真週報には汪精衛(汪兆銘)来日の記事が載っている。ここでは中華民国政府の主席と正式な名称を用いている。日本に抗するものは支那と呼び、擦り寄るものには中国とも呼ぶ、呼び方一つでその国家や人間の意図が見透かされる。次のページでは「わが指導援助に新中国軍一段と強化」と日本の軍事援助によって南京カイライ政府が成り立っていることを物語っている。

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 その次をめくると「わが戦力増強へ新中国の資源総動員」と日本の戦争目的が中国の資源の収奪にあることをあからさまに謳っている。

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 中国人がシナと呼ばれるのを嫌がるのは、日本人にシナと呼ばれた時代に自国の多くの人間が殺され、資源を収奪され、国土を蹂躙されたからだ。屈辱的な過去を懐かしむ人はいない。

昭和13年3月16日発行 写真週報 文壇従軍写真展よりPhoto

 近年、私の実生活でシナと呼ぶのを聞いたのは、父が亡くなった4年前、近所の人で「郷はんは義勇軍でシナにいっとったんよのお」と言った、80歳ぐらいの老人の言葉が最期だった。しかしネットでは戦前に教育されたわけでも無いのに、シナやシナ人と侮蔑的に呼ぶサイトが目白押しだ。私は中国に批判することがあればドンドン言えばよいと考えるものだが、歴史的経緯を知らず人の嫌がる呼び方をして溜飲を下げるのは批判以前の情け無い態度だと思う。人間関係においても、国家関係においても相手をどう呼ぶかは相手の立場を尊重しているかどうかが分かる最初の一歩である。日本のネット社会の一部もいい加減子供のようなことをするのはやめなければいけない。

「私中国人アル」完

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