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2010年10月

中国の首脳会談拒否は前原外相が原因

 再び言います。日本の外交は機能不全です。原因は前原外相の中国強硬姿勢にあります。ハノイで日中首脳会談ができなかったのは、その前の日中外相会談が原因のようです。このままでは、日中の対立は長引くでしょう。中国の強硬な姿勢は、鏡に映った前原外相そのものです。菅総理大臣は前原外相を更迭すべきです。

神戸新聞に日本人元紅衛兵の記事

 10月23日神戸新聞に「元紅衛兵、柿渋を売る」という記事が載っている。日本共産党の書記長だった徳田球一の孫、西沢なぽりが中国の山西省で、渋柿のかきしぶを事業化するため奮闘している。

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 ぬやま・ひろしのペンネームで詩人としても活躍した、西沢なぽりの父西沢隆二(にしざわ・たかじ)も日本共産党の幹部だったが文革の時、中共側に走り除名された。西沢なぽりは父の勧めで14歳の時に北京へ留学したが翌年文化大革命が始まると紅衛兵の学生組織に入り「奪権闘争」をした。「紅衛兵同士の内ゲバも多く、護身用にワルサー拳銃で武装していた」という。当時のなぽりは純粋に毛沢東を信じていたというが、内乱状態になった中国では誰が「革命派」なのか「走資派」なのかわからなくなり政治不信に陥ったようだ。留学後は父隆二が起こした「友好商社」の北京駐在員として「対中ビジネス」の道を歩む。その後2007年まで17年間日本企業のアパレル会社の社長を務めたが、「還暦も近づき、中国のため何か良い仕事ができないか」と考えていたところ、友人から中国でも渋柿が多く取れると言う話を聞き一念発起したという。

 私が西沢なぽりの名前を知ったのは20年前、司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」を読んでからである。正岡子規の妹律の養子、正岡忠三郎と彼の旧制高校時代の友人西沢隆二が司馬遼太郎とその作品を縁として、織り成すさまざまな交友が魅力的だった。私がこの本を読むまで西沢隆二に持っていたイメージは、中国に盲従して日本共産党を裏切り脱落していった革命家だった。

 中国の文化大革命が勃発したのは、私が中学2年のときだった。その頃北京放送を時々聞いていたので、放送内容がそれまでの中国版NHK「昼の憩い」から瞬く間に「ゲッペルス的プロパガンダ放送」になっていったのがわかった。番組の間に入るジングルには「東方紅」という毛沢東賛歌が流れ毛沢東語録の解説や「アメリカ帝国主義」や「ソ連修正主義」に反対するスローガンが頻繁に流された。そのあと日本の「佐藤内閣反動派」や「日共宮本修正主義集団」も名指しで批判されるようになった。いつも「毛主席万歳万歳万々歳!」で番組を締めくくる。すさまじいばかりの個人崇拝だった。私は一体隣国で何が起こっているのか、わけがわからないまま深夜の北京から流れる日本語放送に耳を傾けていた。数ヶ月が過ぎ、ますます中国の政治が混乱を極めてくると、父あてに毛沢東思想研究」という冊子や「長州新聞」というタブロイド紙が定期的に送られてきた。「毛沢東思想研究」を発行していたのが、日本共産党を脱党(除名された)した大塚有章や西沢隆二だった。

 父は「中共帰り」だったので誘いを受けていたのだ。毛沢東に心酔していた父は、文化大革命当初「革命をしても特権化した官僚は常に批判せなアカン」と興奮していたようだが、異常な個人崇拝を強めていた中国の体制に疑問を持ったのか、西沢隆二たちの誘いに乗らなかった。日中共産党の関係悪化にともないその影響化にあった、日中友好協会も分裂して、対立が深まり、赤旗 の除名者に対する攻撃も苛烈を極めた。昨日の同士に対する人格そのものを否定する攻撃に父は嫌気が指したのか、日中友好運動から離れ党活動や政治活動もあまりしなくなった。 

 その頃の私は「アカハタ」や「サンケイ」を読み比べる政治的にマセタ中学生だった。両方の新聞は政治主張が全く逆にもかかわらず、中国から特派員が追放され共同歩調をとったように中国批判の急先鋒になった。

 「文革」勃発から1年がたち父のもとには毛沢東思想研究会からのパンフレットや冊子が届かなくなった。父は吹っ切れたように政治から遠のき、商売に励んだ。私は赤旗の「毛沢東一派」に反対する記事を読みながら、深夜北京放送の「宮本修正主義集団」を糾弾する放送も聞いていた。夜更かしばかりするので、昼間は眠たく勉強もろくにせず、中学生生活をダラダラ過ごしていた。西沢隆二らの中国派は四分五裂して、日本の政治に対する影響力を持つことはついに無かった。「赤旗」にもあまり載らなくなり、いつしかその名前も忘れ去られていった。

 私が遅咲きの結婚をした頃、妻の本棚に司馬遼太郎の作品が所狭しと並んでいた。その中で私がまだ読んでいなかった、一風変わった題名の本が「ひとびとの跫音」だった。それまで読んでいた司馬の歴史小説とは違う雰囲気に惹かれて読み進むうち西沢隆二が出てきた。西沢隆二に「出会う」のは20数年ぶりで懐かしかったのだが、およそイデオロギーとは全く無縁と思われていた司馬の作品に「毛沢東主義者」が出てきたのが以外だった。西沢隆二は自分の息子に「なぽり」、娘には「みらの」と名づけたロマンティストだった。妻や子供には自分を「タカジ」と呼ばせた真正平等主義者で彼がなぜ毛沢東に惹かれたのか、少しわかったような気がした。元紅衛兵の西沢なぽりは今の中国を「拝金主義」「民族主義」「思想の欠如」と批判しながらも「共産党はもたないのではないか」と心配している。

 日本人でありながら革命家の血筋ゆえ「文革」に翻弄され、中国に関わりながらも、父や祖父とは全く違った道を歩む西沢なぽりは、日中の「柿橋」になれるのだろうか。 

 

 

「日本人のための戦略的思考入門」を読んでいます

 外務省の元外交官で去年まで防衛大学の教授であった孫崎享(まごさき・うける)の最新著書を読んでいます。日米安保に対する日本人の神話を打ち破る画期的な内容だと思います。今回の尖閣紛争前に出されたものですが、「米国は領土問題に中立である」との的確な読みもあり、皆様にもお勧めします。

 それにしても前原外相の言動はひどいですね。「中国の態度はヒステリー」だとか、「尖閣棚上げは鄧小平が勝手に言った」とかいうのは、日本外交の道義が問題にされかねないと思います。「尖閣の実効支配を続けるため国会議員は身体を張ってやる」なんてことを言っていますが、勇ましい言葉に酔っているようです。孫崎さんは、日中平和条約締結時の「尖閣棚上げ論」は日本の実効支配を認めているので有利だと言っていますが、前原外相の挑発的な言動は実効支配を危うくして本格的な紛争になりかねない危険なものです。

口先だけの煽動家は外相にふさわしくありません。即刻辞任すべきです。

孫崎さんも怒っています  孫崎享ツイッター

中国のレアアース「禁輸」について

 今日昼、読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」を途中から見ていたのですが、ため息がつきました。この番組は反中を売り物にしている人達が大勢出演して、あれこれ中国を罵倒し、冷笑しているのですが、レアアースのことも言っていました。最近池田香代子さんのブログでこんな記事を読みました。「デマとしての中国のレアアースの禁輸」

 ひとことでいうと、中国のレアアースの輸出は昨年から違法採掘による環境破壊と採掘労働者の健康被害が深刻になったため、取締りを激しくして、生産が縮小に転じ今年は必要な量の4分の1ぐらいしか入ってこない状態が続いていたそうです。7月に中国は輸出枠の減少を通告してきたので、8月北京で、もっと何とかしてくれと交渉をしていたのがまとまらず、はいってこない状態がずっと続いているという事で、9月に起きた尖閣の漁船衝突事件とは全く関係の無い話なのです。中国にしてみれば濡れ衣で、日本政府はわかっていて新聞・テレビを使って中国ネガティブキャンペーンをする。それにあおられた反中売文家がロクに調べもせず、バラエティー番組でも面白おかしく憤って見せ偏向宣伝をする。ひどい話だと思います。

 私は中国に対して批判があればドンドンやれとおもっていますが、「たかじんのそこまで言って委員会」などのような番組は日本・中国の経済的利益と中国国内の環境破壊・労働者の健康被害が対立する場合どうすればいいのかという視点がなく、すべて中国が悪い、とんでもない国だといって、日本は被害者面をする。こんな番組ばかり見ていればみんな思考力をなくして反中になりますね。

劉暁波氏のノーベル平和賞

 中国の民主活動家の劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞し大きなニュースになっています。私は基本的に中国の民主化を支持します。もともと中華人民共和国建国には共産党だけではなく民主諸党派も連合政府を組んでいたはずでしたが、いつの間にか一党独裁になり五星紅旗(国旗)も泣いています。

 13億の人口を擁する、世界第二位の経済大国がこれからも一党独裁で立ち行くはずは無いと思います。弾圧に抗して獄中にいる劉暁波氏が受賞するのは、南アフリカのマンデラ大統領やミャンマーのスーチーさんを思い出させます。将来のマンデラになるのでしょうか。中国政府の反対はまあ当然ですが、かなり気にしているようですね。「文革」当時ならノーベル賞の権威自体認めなかったでしょうが、「平和賞を冒涜する」なんていっているのは、権威を認めている証拠ですね。その意味で中国も普通の国になりつつあるという事でしょうか。

 私はノーベル平和賞の権威は、キッシンジャー元国務長官や佐藤栄作元首相が受賞したあたりから疑問に思っています。昨年、何の実績も無いオバマ大統領が受賞したことも?で、まあその程度の賞かなと。中国も過剰反応で「もっと自信をつけろよ」と言いたくなりますね。21年前の東欧民主化の波を「蘇東坡」といって中国は警戒して断固止めましたが、このたびの「劉暁波」は内からの民主化がじわじわ押し寄せてきた感じですね。いくら弾圧しても流れは止められないでしょう。

尖閣問題を解く鍵は日中平和条約にあり

 5年前小泉首相の靖国神社参拝で中国の反日運動が吹き荒れていた頃、まだ存命だった父に「なぜ中国はあんな無茶なことをやるのだろうか?かえって反感を招くだけじゃないか」と父に尋ねたことがある。父は「まあ小泉があんまり、わけのわからんことをするんで一発バーンとくらわしたれとやったんだろう、靖国参拝をやめたらいっぺんに静かになる」と答えた。親中派の父は率直かつ乱暴な意見を時々言うが、以外とあたるのである。マスコミや評論家が「内政の失敗を外に向けている」とか「江沢民の反日教育の結果である」とか色々言っていたが、父が言っていた「政府の首脳が参拝をやめればいっぺんに静かになる」が結局正しかった。

 今回の尖閣紛争、父が生きていればやはり「バーンとくらわしたれ」と言うだろうか、父は毛沢東の「革命はお茶を飲むことでも無いし、刺繍をしたり、ピクニックに行くことでもない・・・」という言葉がことのほか気に入っていた。14歳の時から銃を持ち日本の侵略戦争の尖兵となりながら、敗戦後中国革命の荒波を経験した父にとって、人権とか自由とかをあまり信じなかったように思う。ファシストを自認していた父は西洋流の民主主義の欺瞞性もわかっていた。「日本人や西洋人から人間扱いされなかった、あのまずしい中国人が人として生きるには暴力で戦うしかなかった」とよく言っていた。1980年代の初め頃、香港回収のため鄧小平がイギリスのサッチャー首相と会談したことがあった。返還をしぶるサッチャーに鄧小平は戦争をやっても取り返すといってサッチャーを威圧した。さすがの鉄の女も鄧小平の剣幕に度肝を抜かれたのか、会議場から帰るとき足元がよろめいて、こけそうになったのがテレビに映ったことがある。尖閣で日本が本気で争うなら中国は戦争もためらわないと思うが日本はその覚悟があるのだろうか。日本人は鬼畜米英で太平洋戦争に突入した経験を忘れてはならない。

 靖国参拝問題のとき私は父の話を聞きながらJANJAN(日本インターネット新聞社」に”引揚者の眼から見た中国の「反日」~小泉首相の靖国神社参拝が嫌われるわけ”を投稿したが、今回の事件の根っこにも日中の歴史認識の差異があると思う。日本人は明治以来の膨張政策(帝国主義)を誇りに思っている。司馬遼太郎の影響もあって日清戦争と日露戦争は栄光の歴史だ思っている日本人は多い。日本が栄光なら攻め込まれた朝鮮・韓国、中国は屈辱の歴史である。

 尖閣諸島が日本固有の領土だと思っているのは日本人だけで最も援護射撃を期待するアメリカも局外中立である。中国の言い分が全く根拠の無いものだったら、国際的にも理解が得られるだろうが、日本が平和的に「無主地の先占の法理」で国土に編入したとは言いがたい。日清戦争が大勝利に終わる見通しが立ってから、1895年1月15日に奪ったという事だ。1895年5月に交換された下関条約の批准書には尖閣諸島割譲が入っていないが、日清戦争に勝てばこそ、日本の領土にできた。

 本当は1945年8月15日にポツダム宣言を日本が受け入れた後、カイロ宣言通りに、台湾・澎湖諸島とともに返せば日本との問題は起きなかったのだろうが(国共間の争いになる)、沖縄とともにアメリカの占領地になった。その後、国共内戦もあって蒋介石国民党政府、その後成立した中華人民共和国政府ともケシ粒のような小さな諸島を積極的に自分の領土とは言わなかった。内戦で言うどころでなかったといったほうがいいだろう。日本にも弱みはあって1895年1月14日の閣議決定は内外に公示されることなく秘密にされた。日本領土編入の根拠の一つである1896年3月5日の※「勅令第一三号」は沖縄県に初めて郡制を導入するというものであるが、そこには尖閣諸島やそれに属する島名も書かれていない。その後も日本の敗戦にいたるまで、尖閣諸島領有の「閣議決定」は一度も公示されることはなかった。内外に知られるようになるのは1952年日本外交文書第23号が出されてからである。沖縄県に命じた領土のしるしである標杭も1969年5月5日まで打たなかった。

 こういう風に書くと中国の言い分を全面的に認めていると思われる人がいるだろうがそうではない。私は武力で奪った土地が全部無効とは思わない。115年も前のことが無効になるなら、中東でのイスラエルとパレスチナとの争いはもとより世界中の領土紛争がもっと顕在化して大混乱になるからだ。

 領土紛争解決には妥協が不可欠である、自国の正義を追及すれば必ず戦争になる。それを避けるため日中両国の知恵が試される。これ以上悪化させないためには、日中平和条約に立ち帰り「紛争の棚上げを」するのが一番だ。「領土問題の棚上げ」とともに「覇権主義反対」の立場を確認すべきである。覇権主義反対の条項は中国が当時対立していたソ連を念頭に入れたと言われるが、日中両国わが身を縛る条文でもある。 

 

※「勅令第一三号」 国立公文書館アジア歴史センター参照

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