« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月

今年一年ありがとうございました

 もう大晦日ですね。3月にこのブログを始めてから9ヶ月、今やっと1万アクセス(カウンター数)を越えたところです。最初はアクセスと訪問人数が同じだと勘違いしてまして・・・アクセスとというのは1クリックのことだとわかってガックリ・・・当ブログの場合、訪問者数は大体アクセスの半分弱です。その内7%ぐらいの人が再び訪問してみてくださっています。来年は一桁アップを目指してガンバリます。

 「父の15年戦争」と言うブログの題名を付けながら、今年は一度も記事を書いていないので羊頭狗肉だと言われそうですが、来年は力を入れて書いていきます。現在、父が特務機関に関わっていたことなどを調べています。といっても軍隊に入ってからではなく、「義勇軍」を卒業して南学田の開拓団にいたころ、まじめに農業をしないで、北安(ぺーあん)の特務機関から小遣いをもらって遊び半分に黒竜江の沿岸を調査旅行?をしていたことなどです。

 父からこの話を聞いたのは、亡くなる半年前くらいでしたが、私がJANJAN(日本インターネット新聞社)に発表することを承知の上でしゃべったことを、しばらくして「あの話を書くのはやめとったほうがいい」といいだしてちょっとびっくりしました。父は度胸があるほうだと思いますが、60年前のスパイ機関との関わりをヤバイと思ったようで、私はそんなにたいした事をしていないのに、なぜそれほど、気にするのか理解できなかったのですが、「某機関と書けばかまわんと」といったので少し納得しました。戦前は特務機関なんて言葉を国民はおおっぴらに、しゃべれなかったそうです。話題にでた時は声をひそめて「あの事件は某機関のしわざらしい」と言ったそうです。それほど不気味な言葉で、戦前は警察、憲兵、特務機関と国民を監視する組織が多かった。

また来年もよろしくお願いいたします。

ちよのとの別れ

 祖母ちよのは私の父が小学3年生の時に病で亡くなった。重篤で洲本病院に入院したことを知った、樋口季一郎は東京から飛んで帰ってきた。洲本港の船着場に降り立ったとき季一郎は紋付はかまの正装だったという。そのまま洲本病院に直行して、その晩は不眠不休でちよのを看病した。久しぶりに兄の姿を見た、ちよのは弱よわしく「にいやん立派になって・・・これで奥濱の名前やったらどれほどよかったか・・・」季一郎はちよのに「奥濱のままだったら、一生出世できへんわ」と笑った。

 奥濱とは樋口の旧姓である。奥濱家は廻船問屋で地主でもあったが季一郎の父久八の代で時代の流れに取り残され没落していった。ちよのはそのこともあって兄の出世を一番喜んだが、生まれ育った奥濱家の破産を思うと兄が岐阜大垣の樋口家に養子に入ったのが残念であったようだ。

 私の父に言わせると、久八は苦労知らずの金持ちのボンボンで生活能力がなかった。お人よしで借金の保証人に頼まれると断れないで結局自分が被ることも多く、それも一因で家業が傾いた。放蕩癖もあり家業が傾いても女はつくるで、家庭も崩壊していった。廻船問屋が倒産してからは、一応教養もあり、達筆でもあったので、代書屋や三百代言みたいな事をして食いつないでいたという。

 幼少より秀才の誉れも高かった季一郎は逆境をバネにしてさらに猛勉強を重ねた。先に岐阜の樋口家に養子に入っていた叔父勇次の援助で中学校(鳳鳴義塾)にも進学でき、さらに陸軍幼年学校に入るチャンスにも恵まれた。立身出世を夢に描き「坂の上の雲」をめざした。

 季一郎とちよのは家業が破産して、家庭も崩壊する中で共に育った。 おそらく二人の絆は逆境のなかいっそう固く結びついたであろう。最愛の妹が8人の子供を残して、逝きつつある。紋付はかまの正装で看病する季一郎の心はいかほどだったか。

 翌朝季一郎はあわただしく東京にかえっていった。それからまもなく、ちよのは帰らぬ人となった。

貫一お宮

 私の父方の祖母ちよのは、父が小学生のときに亡くなった。一枚だけ写真が残っていて、なかなかの美人である。樋口は妹ちよのをことのほか可愛がっていたという。

Save0011

 樋口が丹波笹山の鳳鳴義塾で学んでいた頃の話である。休みで淡路島の実家に帰ると近くの吹上(ふきあげ)の浜によく遊びに行った。この時妹のちよのを必ず連れて行った。叔母の話では、樋口はちよのに、握り飯をつくらせ、本を数冊ヒモにくくりつけ、それをちよのに持たせ、自分はムシロを丸めて背負い浜に行き終日、本を読みふけっていたという。仲がよいので近所の人は「まるで貫一お宮みたいやなあ」と二人をひやかしたという。

P1030019_2

  樋口の実家があった阿万東村から吹上の浜まで約3キロぐらいある。昔は悪路で浜の手前から数百メートルは砂山で、松林をぬけなければ行けないので、かなり時間がかかったと思われる。

東京のサンタのおじさん

 父が子供の頃の話をしていたとき「昔もサンタのおじさんがおったぞ」と言った。父は突拍子も無いことを言うクセがあるが、戦前昭和も初めのころ、淡路島の田舎にクリスマスの行事があったとは思えなかった。続けて「テンプルちゃんという子役もようはやった」といった。シャーリーテンプルというハリウッドの子役出身の女優がいたことは私も知っているが、父が子供の頃に活躍していたとは知らなかった。アイドルは戦前からいるのだ。

 戦前の日本はアメリカが仮想敵国だったが、太平洋戦争を戦うまでは友好的な雰囲気があったようだ。ハリウッドの映画も上映されており、少なくとも庶民にとって憧れの国であったようだ。満州事変当時の少年倶楽部を見てもルーズベルト大統領は偉人扱いであった。

 父の話ではサンタのおじさんがクリスマスイブにプレゼントを持ってきてくれる話は当時の子供達も知っていて、12月がくると誰それがもらえるそうだなどと噂をして、盛り上がっていたと言う。問題はプレゼントをしてくれるハイカラな親がどれほどいたのかだ。私は祖父の仏頂面を思いだしながら、まさかあの爺さんが・・・とてもサンタのおじさんに結びつかない。昭和30年代私は祖父からお年玉を50円もらっていた憶えがあるが、節分で豆まきをしている爺さんは思い出しても、クリスマスなんか真言宗の郷家の年中行事になかった。

 「東京から静子伯母さんがクリスマスプレゼントにノートとか鉛筆とか文房具をいつも送ってくれた」という。静子伯母さんというのは樋口季一郎の妻のことで、東京の田園調布に住んでいた。樋口は1918年(大正7年)陸軍大学校を卒業して軍のエリートコースを順調に歩んでいた。私の父が小学校に上がる昭和5年ごろは東京警備参謀で陸軍中佐である。給料もかなりの高給をもらっていたと思われる。しかし淡路に住む年老いた母や離婚した姉に仕送りもしていた。父の妹である叔母登代子の話では、甥や姪にも着物や洋服をよく買ってくれたという。父も義勇軍で満州に行くときに外套を買ってもらった。淡路島に住む父やおば達にとって樋口は東京のサンタのおじさんであった。

P1010748 嫌がる娘に無理に着せた父の形見の外套。満州に行くときに持っていった。かなり重い!

鳴門北灘海岸のカモメ

 P1010724 17日、仕事で香川県の津田町に行ってきました。帰り11号線の鳴門市北灘海岸の小さな漁港でカモメが乱舞していました。トンビも多数、上空を舞っています。駐車場があったので止めて撮影しました。

P1010717 1隻の漁船が水揚げ作業をしていました。選別して捨てられる雑魚をねらってカモメが集まっているようです。

P1010723 小さな漁船にそぐわないほど大勢のカモメです。カモメも景気が悪いのでしょうか。

P1010737 わたしの地元淡路島ではカモメはあまり見かけません。全くいない事も無いのですが、漁港ではカラスや、トンビは見るのですがカモメは少ないようです。千鳥は昔からいます。

「淡路島 かよう千鳥の 鳴く声にいく夜寝覚めぬ 須磨の関守 源兼昌」

P1010741 かなり近寄っても逃げません

P1010739 子供の頃「カモメの水兵さん」という小学唱歌を習った。近くの浜に遠足に行ったとき、いないのが不思議で、どこにいったらカモメが見られるのか、謎でした。神戸に遊びに行ったとき港でチラホラ見たのが最初でした。それ以来カモメの大群を見るとワクワクします。

猪をもらって料理をしました

 昨晩知人がやってきて「猪をもらったのだが、どうしようもないので持ってきた」とのこと。体長約80センチ体重17~18キロぐらいの若い猪で、さっき撃ったばかりで内臓も抜いてあるとのこと「今の猪は脂乗っててうまいぞう、ゆうて持ってこられてもなあ、わしらどうしようもない」

 父が存命の頃は、猟師の友達が猪をしとめると、「てつどうてくれ」とよく言ってきた。父は魚でも鳥でもうなぎでも、猪でも鹿でも何でも料理をした。昔の農村に住む男は生き物を解体することなど、生活の常識であった。私もそんな親父に仕込まれたので、ご要望にお答えして猪を解体した。

 Photo まず首にナイフを入れて頭部切断、スパッと意外と簡単に切れる。四肢を開いて背骨を中心にのこぎりで二つにわる。Photo_2 次に皮をはぐ、これが難しい。このとき皮と肉の間にある脂肪を肉側につくように薄くそぐのがコツ。猪の脂肪は美味である。

Photo_6                                              残った皮と足先と頭

P1020931_3 枝肉

Photo_4 腕、足、胴体と3分割にする。バラの部分は、若いのであまり肉がついていない

3 骨をはずして一丁あがり

Photo_5 今夜はボタン鍋

 20年ぐらい前まではシシ肉は貴重品で、簡単に手に入らなかった。猟師も専門の業者に出すとよい値で買ってくれるので、縁故がないとくれない。

 淡路島は海に囲まれているので、魚を取る漁師しかいないと思っている人が多いが、農業の合間に鉄砲撃ちをやる者も結構いる。国生みの島は海幸彦、山幸彦が住む島でもある。

 全国的に農山村部の鳥獣被害がいわれて久しいが、淡路島でも10年ぐらい前から深刻になり、鹿や猪が里までやってきて農作物を食い荒らすようになった。私は地元に50年余り住んでいるが、一ヶ月ほど前、初めて近くの池の堤防で猪を見た。秋の夜、お山は鹿のランデブーで鳴き声がにぎわしい。山側の田んぼや畑の周囲には柵に網を張って囲ってある。行政も本格的に対策をはじめ、昨年度淡路島で駆除した鹿は1000頭イノブタが1000頭にもなるが、今年はもっと増えている。獲物はそのまま焼却され人様の口には入らない。 

留用された日本人「母の場合」11

日本軍細菌戦の傷跡

 この前、昼食を母と一緒に食べていたとき、テレビのニュースがハイチでコレラが流行っていることを伝えていた。これまでハイチではコレラがはやった事が無いので、国連PKO部隊から持ち込まれたとハイチの人々が思い暴動に発展しているとのこと。

 母はテレビを見ながら「中国でもようけ細菌ばらまかれてなあ」と言った。私は何のことかと聞き返した「新京にも細菌部隊があって」ええ!私は初めて聞く話に箸をとめた。これまで母はそんな話をしたことがなかった。昔私が「731部隊」の事を聞いたときも全然知らないと言っていた。

 父は関東軍防疫給水部(731部隊)のことは、開拓団にいたときから知っていた。北安(ペーアン)の特務機関の手先みたいな事をしていたので中国人の友達も大勢いて彼らから聞いていたという。

 母が新京(長春)の陸軍病院にいたとき、「郊外になんとか給水部という部隊があった」という、その時は、細菌部隊とは知らなかったが、戦後留用され、衛生部隊の手術隊で中国各地を行軍していたときに、ある部落が焼け野原になっているのを見た。付近の人に聞くと日本軍の撒いた細菌でコレラが流行して、家を焼いたという。「その時はわからなかったが、後から思えばなんとか給水部というのは細菌部隊だったのかもしれない」と母は思っている。

 日本軍が戦争中に撒いた細菌によって戦後も被害が続いていたことは、父も目撃していた。国民党の空爆を避けるため人民解放軍の部隊は大抵夜間に行軍をする。父の部隊が内蒙古を進軍していたとき、行く手のある部落が真っ赤に燃えていた。この時はペストの流行だった。「ペストはインドの南部など熱帯地方で流行る病気のはずなのに、こんな北方で流行するのはおかしい」と父は思ったそうだ。

 母にこれまで細菌部隊の事を聞いても全く知らないと言っていたので、今回の発言は意外だった。記憶と言うのは不思議なもので、こちらが聞きたいときには、思い出せないのに何かの拍子にふっと出てくる。

 新京には関東軍軍馬防疫廠「100部隊」があった。炭素病原菌の研究をおこない、敵の軍馬や家畜を駆逐する部隊だったが、父はこの部隊にいた医者に獣医学の講習を受けた事があるという。

 母の言う「なんとか給水部隊」が「100部隊」と関係があるのかどうかわからない。しかし日本の細菌部隊は、満州の731部隊や新京の100部隊だけではなく、中国、東南アジアをふくめて、かなり大掛かりな組織であったみたいだ。前に買った「中国侵略と731部隊の細菌戦」森正孝・糟川良谷編をあらためて読み返している。

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ