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ちよのとの別れ

 祖母ちよのは私の父が小学3年生の時に病で亡くなった。重篤で洲本病院に入院したことを知った、樋口季一郎は東京から飛んで帰ってきた。洲本港の船着場に降り立ったとき季一郎は紋付はかまの正装だったという。そのまま洲本病院に直行して、その晩は不眠不休でちよのを看病した。久しぶりに兄の姿を見た、ちよのは弱よわしく「にいやん立派になって・・・これで奥濱の名前やったらどれほどよかったか・・・」季一郎はちよのに「奥濱のままだったら、一生出世できへんわ」と笑った。

 奥濱とは樋口の旧姓である。奥濱家は廻船問屋で地主でもあったが季一郎の父久八の代で時代の流れに取り残され没落していった。ちよのはそのこともあって兄の出世を一番喜んだが、生まれ育った奥濱家の破産を思うと兄が岐阜大垣の樋口家に養子に入ったのが残念であったようだ。

 私の父に言わせると、久八は苦労知らずの金持ちのボンボンで生活能力がなかった。お人よしで借金の保証人に頼まれると断れないで結局自分が被ることも多く、それも一因で家業が傾いた。放蕩癖もあり家業が傾いても女はつくるで、家庭も崩壊していった。廻船問屋が倒産してからは、一応教養もあり、達筆でもあったので、代書屋や三百代言みたいな事をして食いつないでいたという。

 幼少より秀才の誉れも高かった季一郎は逆境をバネにしてさらに猛勉強を重ねた。先に岐阜の樋口家に養子に入っていた叔父勇次の援助で中学校(鳳鳴義塾)にも進学でき、さらに陸軍幼年学校に入るチャンスにも恵まれた。立身出世を夢に描き「坂の上の雲」をめざした。

 季一郎とちよのは家業が破産して、家庭も崩壊する中で共に育った。 おそらく二人の絆は逆境のなかいっそう固く結びついたであろう。最愛の妹が8人の子供を残して、逝きつつある。紋付はかまの正装で看病する季一郎の心はいかほどだったか。

 翌朝季一郎はあわただしく東京にかえっていった。それからまもなく、ちよのは帰らぬ人となった。

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