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2011年1月

神戸のじゅんく堂書店にいきました

 1月23日、親戚が神戸の病院に入院していて、お見舞いに行って来ました。淡路行きの高速バスが三宮から出ていて、バスターミナルの前のダイエーの中にじゅんく堂があるので、神戸に行った時は必ず寄ります。

Pa0_0001 数年前まで数多くあったあからさまな「反中国本」は前ほど置いていません。

Pa0_0003副島隆彦の本は売れているみたいで、大抵の本屋にあります。

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煽動家、強面アーミテージの本を買おうと思ったのですが文春2月号を買っていたのでやめました。このオッサンが跳梁跋扈するとキナ臭い匂いが漂います。

元中国大使の宮本雄二著「これから中国とどう付き合うか」を買い、帰りの高速バスの中で読みました。妻は私が本屋にいるあいだ、元町の南京町で豚饅頭を買っていました。

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老祥記(ろうしょうき)のぶたまんです。少し小ぶりで一個90円です。妻はここの豚まんが大好きで神戸に行くと必ず買ってきます。抜群の味です。豚とネギに醤油だけのシンプルな味付けです。玉ねぎは入っていないようです。ほとんど豚肉の味で具が締まっていて独特の食感があり、これぞ豚まんです。皮も醗酵していて風味があります。

100コも買ってきました。妻もますます豚まんに近づいています。

「尖閣事件」元保安官を起訴猶予

 1月22日の神戸新聞によると尖閣諸島での中国漁船拿捕・衝突事件の映像流出事件で東京地検は21日、映像を動画サイトに投稿して国家公務員法の守秘義務違反容疑で書類送検された一色正春海上保安官(44歳依願退職)を起訴猶予にした。この事件の処理をするにあたって東京地検は悩ましい判断を迫られた。

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 本来、国民の知る権利とか情報公開を声高に叫ぶのはリベラル・左翼の専売特許と見られるが、この元保安官は思想的には右寄りで、日本の領土である尖閣諸島が中国に犯されたと、危機感を抱き違法行為を覚悟のうえ、正義感からビデオを公開したと言う。

 法治主義を唱え、日本の国家主権の強化を進める立場からすればこの元保安官を起訴するのは当然で、懲戒免職にしてしかるべきだ。しかしビデオの公開が「中国の無法ぶりを暴き日本の正義を証明した」と信じ込んでいる多くの日本人から見ればこの保安官を罰するのは「正義」に反する。そこで起訴猶予という甘い人治的な判断をしたと思われる。このことは中国を人治主義であると批判する日本の立場を危うくするもので、右翼国家主義者がアナーキーな主張をして国家の「解体」を助長している図式が見える。

 国家主義者を自認する作家佐藤優は苛立ちをかくさないで次のようなコメントを発表している。

日本の法益を明らかに侵害した中国人船長は起訴すべきだった。元海上保安官は社会的制裁を受けており、起訴猶予の判断は有りえると思う。ただ海保のような軍隊型の組織には特別の規律があるべきで、武器を持つ立場の人間が正義感だけで職務命令に反することには歯止めが必要だ。政府は中国への対応や情報管理の在り方について今回の件を総括して教訓とするべきだが、最後まで全ての問題点にふたをしているように感じる。 1月22日付け神戸新聞3面より

嘘はいつかばれる

 映画監督の伊丹万作が『戦争責任者の問題』(「伊丹万作全集1」筑摩書房刊)で、第二次大戦で悲惨な体験をした日本人の多くはだまされて戦争をやらされたと言っているが、当事者意識がなく簡単にだまされたと言ってけろっとしているようではこれから何回でもだまされるだろうと書いている。尖閣での漁船衝突・拿捕事件での日本人の反応を見るとこの「予言」は戦後65年たっても的確だといわざるを得ない。元外務省主任分析官で格段の博識を持つ佐藤優でさえ「中国船長がぶつけてきた」と思っているので事実が見えない。

 共産党独裁で資本主義をやっている中国は一般日本人から見ても欠陥だらけの国家で、批判すべき事は山ほどある。しかしそれは事実に基づいて批判すべきだ。謀略で虚構を並べて非難しても、相手は露ほどにも感じないし、いつか嘘はばれ、恥をかくのは日本人だ。満州事変では柳条湖の爆破現場の写真を公開してシナ兵の仕業だと日本国民や世界中を騙した。張作霖爆殺事件では苦力を殺しその死体を現場にならべて演出したが、戦後みな嘘だとばれてしまった。

二つの追送検

 同日、那覇地検でも海上保安庁の巡視艇に故意に衝突したとして公務執行妨害で逮捕後、処分保留で釈放した中国人船長を起訴猶予にした。那覇地検で会見した鈴木享次席検事は、船長が巡視船「みずき」以外にも「よなくに」に衝突したとする公務執行妨害容疑や、尖閣諸島周辺海域で操業したとの外国人漁業規正法違反容疑で20日に追送検されたことをあきらかにし、今回の処分に含まれるとした。

 この二つの追送検は矛盾に満ちたもので、最初のボタンを掛け違うと最後までなおらないことを示している。外国人漁業規正法で中国漁船を拿捕するなら網をうって魚を獲っている時に現行犯逮捕すればいいことである。なぜそうしなかったかといえば、孫崎享の言うように日中平和条約で未解決の領土問題は棚上げにするという暗黙の合意があったからだ。それまで中国漁船を公然と拿捕したことがなかったため躊躇した。

 田中康夫議員が『領海侵犯や違法操業、入管法違反という毅然たる「王道」でなく、公務執行妨害という「覇道」で逮捕の意気地なき判断ミスを前原氏が下したのが、その後の迷走の原因』というのはあたっている。後だしジャンケンで今頃追送検をしたところで、起訴しなければ負け犬(前原はケンカが弱い)の遠吠えにすぎない。 漁船が警告に従って網を上げ、現場から立ち去ろうとしたとき、進路を妨害すれば衝突せざるをえない。このとき現場には4隻から5隻の巡視船が中国漁船を包囲していた模様だ。最初から公務執行妨害をでっち上げて逮捕するつもりだったのだろう。政府のいう事は何でも信じる従順な国民は「違法操業をしながら体当たりをしてきた凶暴な中国漁船」に怒り狂った。昨年末の各種世論調査で日本国民の中国に対する不信感は国交回復後ピークに達した。

 私はビデオを公開した元保安官とは逆の立場で真実が知りたい。そのために政府はビデオの全部を国民の前に公開しなければならない。元保安官は起訴猶予処分を不服として検察審査会に審査を申し立てるそうだが、これからもこの動きを注視したい。 続く

尖閣諸島事件はアメリカによって仕組まれた

 副島氏は著書「中国バブル経済はアメリカに勝つ」の第2章で中国漁船拿捕事件はアメリカの指示によって行われたと明快に指摘しています。アーミテージ元米国務副長官が前原誠司を操り海上保安庁を使った謀略事件で、9月1日防災の日に伊豆の下田でリハーサルまでやったと書いています。

 私は尖閣諸島漁船衝突・拿捕事件について当初から、謀略的な匂いがあることは気付いていましたが、日本が主導的に拿捕したものと思っていました。しかし逮捕した船長を中国の剣幕に恐れを抱き早々釈放する菅内閣の無様な体たらくを見ると、副島氏の指摘が正しいと思います。日本は当事者能力が無いのです。

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中国が日本に襲いかかって来る、という構図を作り上げて、映像を捏造して多くのテレビ番組で見せつけて、日本国民を中国恐怖症に陥れてぞっとさせるという筋書きだ。確かにこれは見事な手口だった。日本人は、こういう政治事件を起こされると本当に青ざめる国民だ。ー中略ー 今、東シナ海で起きているのは、「米中激突」なのであって、「日中問題」ではない。断じてない。日本も韓国も、これからももっと仕組まれるであろう軍事衝突の前哨(スカーミッシュ)で使われる尖兵であり駒でしかない。自分の行動に責任を持とうにも何も、責任を取る能力がもともとない。なぜなら、日本も韓国もアメリカ帝国の明白な属国であるからだ。「中国バブル経済はアメリカに勝つ」より

 続く

 

副島隆彦の本「中国バブル経済はアメリカに勝つ」

 4日前に本屋で副島隆彦の「中国バブル経済はアメリカに勝つ」と「日米地獄へ道連れ経済」を買い、ついでに”中国とこれからの「正義」の話をしよう”のタイトルにひかれ文春2月特別号も買って読んでいます。

Memo0066 刺激的なタイトルの副島氏の著作

 私はこの手の経済書を買うのは初めてです。昔から株をやらないし(金銭の余裕がない)経済にもうといので、今まで副島氏の本は立ち読みをしていた程度です。「中国バブル経済はアメリカに勝つ」に尖閣諸島での拿捕事件の事が載っていたので感想など書いていきます。

 尖閣での漁船衝突・拿捕事件が起きるまでは、いつも行っている本屋で「反中国本」はかなり少なくなっていました。数年前までは、やれ中国は崩壊する、分裂をするといった類の本が所狭しと並んでいたのが、ほとんど見られなくなっていたのですが、尖閣事件が起きてからは息を吹き返し田母神俊雄とか、日本に帰化した石平の本などがまた並べられています。それでも一時ほどの勢いがないようで、前ほど置いていません。副島の本は熱心な読者がいるようで新刊の一番目立つところにおいていました。 続く

関東軍機動2連隊の田中さん

 1月4日に佐賀県の田中さんから電話で年始のごあいさつをいただきました。田中さんは父が関東軍にいたときの戦友で、戦後シベリアに抑留されていました。

 父が機動1連隊で田中さんは機動2連隊でしたが、吉林で武装解除されたときに知り合い、父と行動を共にするようになりました。なぜ一緒にシベリアにつれて行かれなかったかというと、父は足にできた腫瘍をなおすためで、田中さんは図門から先にソ連に入ったという事です。(父はその後脱走してシベリアには行かなかった)

 父の15年戦争1「関東軍の特攻」でも書きましたが、機動連隊というのは関東軍司令部直轄の特殊部隊のことで、父は機動1連隊の重機関銃中隊にいました。大型の挽馬に重機関銃をのせて山の中でも展開できるように訓練を受けていました。これは「坂の上の雲」の秋山好古の戦術を焼きなおしたもので、日露戦争の時は世界最強のコサック騎兵を翻弄したのですが、40年後、戦車相手にまたやるというのは時代錯誤というものでしょう。ノモンハンでソ連の戦車軍団に「元亀天正の装備で」戦いを挑んだといったのはノモンハン生き残りの須見新一郎連隊長でしたが、その教訓を生かせず、大戦末期には日露戦争の戦術でソ連に挑むとは、大本営参謀の退廃振りは底なしだったようです。

 父によれば機動1連隊の岩本という部隊長は部下をいじめる横暴な奴で、8月15日に鏡泊湖でソ連の戦車軍団に特攻攻撃を部下に命じながら、父のいた中隊だけを残してトンズラした卑劣漢でもありました。 父は無鉄砲でいい加減な男でしたが、権力をかさにきて威張る人間を軽蔑していたので、連隊長の所に抗議に行って「お前らのせいで戦争に負けたんやないか、負けた後まで大きな顔をするな!」とぶん殴ったそうです。

 田中さんは律儀でまじめな性格ですが、この連隊長の犠牲者だったようで、昔うちにきたときに、父は恩人でいろいろと世話になったように言っていました。父より2歳上で敗戦時上等兵だと言っていましたので88歳になります。奥さんが寝たきりで介護をしながら暮らしているので中々大変なのですが、電話で「こちらに来る機会があれば是非あそびにおいで」と言っていただきました。以前から私も佐賀県までいってお話をうかがいたいと思っていたので、いつまでも元気でいて欲しいと願っています。

同窓会

 亀岡八幡宮での長寿祈願が終わると次は同窓会です。阿万小・中学校を卒業した昭和26.27年生まれの同窓生で前回の厄払いから男子は卯辰会というのを組織していましたが、還暦行事を女子も一緒にすることから今回、男女一緒に実行委員会を組みました。P1010961

 阿万の町と鳴門海峡を一望できる大見山にある、プラザ淡路島に場所を移します。もともとこのホテルは大阪にあったプラザホテルが所有していましたが経営難で親会社の朝日放送がホテル事業から撤退したため、地場資本のホテルニューアワジが買い取り経営しています。すばらしい展望の立地条件でもっとはやってもいいと思いますが、値段がちょっと高いのが難点です。

 さて昨年も同窓会をしたのですが、やはり還暦ともなると男性は頭のほうがかなり寂しくなり(人のことは言えませんが)、女性は中学生の時の三倍もあろうかと思われるたくましい体に成長した娘もをおり、時間の重みというか、半世紀振りに再開しても誰が誰だかわからない状態でしたが、今年は昨年に引き続いて参加する人も多く、ショックがやわらいで、和気あいあいとした雰囲気でした。

 実は今回の同窓会で私はある女性に会えるのを楽しみにしていました。といっても初恋の人ではなく、初恋の人は二人とも出席していませんでした。なぜ初恋が二人なのかそれは置いといて・・・

 ある人とは黒田さんという、中学三年生のとき同じクラスだった女の子で、このブログを始めたときに、父の思い出で「公安刑事」と言う記事を書いたのですが、公安刑事7~9に出てくる黒田警部の娘が45年ぶりに出席するのがわかっていたからです。

黒田康子さんとの再会

 黒田さんは結婚して姓も変わって、阪神間のある町に住んでいます。同窓会で、私は記録係という事でパチパチ撮っていたのですが、意を決してごあいさつに行きました。彼女も覚えてくれていたみたいで、45年前に戻っておしゃべりしました。彼女のご両親は徳島県の鳴門出身でお父さんは学校の教師、お母さんは事務員ということで恋愛され結婚したそうですが、この時教師と事務員が同じ学校で恋愛関係になるというのは禁じられていたみたいで、この辺り詳しくはわからないのですが、学校を辞めて、次に警察学校に入り勉強をやりなおして、兵庫県警に職を得たそうです。最初西淡町(現南あわじ市)の湊の駐在所勤務からはじめて、その次に来たのが阿万の駐在所で、この時黒田さんは小学六年で引っ越してきたそうです。私は小学生6年の時は記憶があいまいでよく憶えていません。

 このあと三原の本署に転勤になったころから公安の仕事をするようになり、私の家に出入りするようになったみたいで、話が合いました。彼女にお父さんがしている仕事の内容を知っていたのか率直に聞いてみたところ、わかっていたそうです。大学に進学した頃からそういう親に反発した事もあったが、お父さんも積極的に娘と話をする人だったので、話し合ううちにだんだん父の立場を理解していった、と彼女は言います。

 私も当時公安刑事の存在に反感を持っていたことなどの心境をあけすけしゃべったのですが、そんな話から、社会状況が今と違って、学生運動の影響が高校生にまで及んだこと、長髪の問題など(男子は丸刈りだった)を通じて「考える高校生」が多く学園紛争で私達の一学年下の生徒会長が自殺した話などで盛り上がりました。今の子供達は全然社会問題に関心が無いという話から彼女の娘が防衛省に勤めていて、これは内々の話で、鳩山さんが首相のとき、急にそれまで進めていた辺野古移転の話がストップして大変だった・・・という話も出て、私はもう沖縄に安保を全て負担させるのは無理だと思うと言ったのですが・・・彼女も同意していました。

 黒田さんは昔と全然変わっていませんでしたね。中学生の時は直接聞きたくても聞けなかった話を45年ぶりにできてよかったです。

 子供の頃の私は父が公安につけまわされていたのを知っていたので、国民を監視する公安の存在自体に疑問を持っており(今もそうですが)、反感も強かったのですが、実は私の母方の伯母のつれあいが警察官で戦前北朝鮮の清津いて、従兄弟も現在は退職しましたが二人警察官でした。航空自衛隊に入隊した従兄弟もいて、母はよく「九州は多いんよ」と笑っていました。そんな関係で私は自衛隊や警官に偏見や反感は持っていないのですが、公安警察だけは要らないのじゃないかと思っています。父は70歳過ぎまで監視されてたようで、怖い存在です。

厄払い

 私は今年数え年60歳(満59歳)で還暦を迎えます。当地方は42と60の歳に男性(女性は33と60)は厄払いをします。42歳の時は、かなり派手にする人もいて、30年ほど前、NHKの新日本紀行でとりあげられ、お祝いをもらった「お返し」に洗濯機を配り、大宴会をやっている様子が放映され話題になり、淡路島はトンデモナイところだと、誤解をされました。皆が皆そんなに派手にやっているわけではありません。個人で財力のある人は何百万もかけますが、これは例外で一般的には同級生で実行委員会を組んで還暦記念行事を取り組みます。

 還暦記念行事第一弾に、2日南あわじ市北阿万薬王寺で厄払いを行いました。

P1010781 徳島県日和佐にある薬王寺へは42歳の厄除けのときに皆は行きましたが、私は寝坊をしてキャンセルしました。今回は地元の薬王寺ですので余裕でいけました。

P1010787 「八十八ヶ所参り」の順番を待っています。四国八十八ヶ所の寺の掛け軸がかけてあるので順番にお賽銭とお札をいれて詣り厄除けを祈願します。

P1010796 最後にはお賽銭やお札が足りなくなったりするので多めに用意してあるとの事ですが、余れば最後にまとめて収める箱があります。10分ぐらいで四国八十八ヶ所詣りができて便利ですが現代人はいい加減ですね。私はもっといい加減で、こんな写真をとって、罰当たりです。そのあと住職の講話を聴きまして、厄除けの護摩をいただきます。

Memo0047 次の舞台は亀岡八幡宮に移ります。

P1010816 数年前に拝殿を建て替えまして綺麗になっております。

P1010823 神社では長寿祈願です。宮司さんが祈祷してお祓いをします。そのあとありがたいお話を聴いて一件落着です。

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Memo0050

最後に破魔矢、お守り、お札、お神酒、その他いろいろのお土産をもらって二つ目の課題を終えました。

淡路島「丸山西国三十三観音霊場」

 あけましておめでとうございます。元旦に家の前にある丸山の行者堂(南あわじ市阿万上町)に登り、おまいりしました。猫が石段の上から見下ろしていますが、うちのメリーです。最近この山を遊び場にしているようです。P1010755 50段ほど上るとお地蔵様が鎮座しています。

P1010759ここからぐるっと一周する参道があります。

P1010760 約50~60m、ゆっくり廻っても10分とかかりません

P1010776 ところどころに石仏(いしぶつが)あります。さらに20mほど登るとP1010763 行者堂があり

P1010768 その隣に猿田彦神社があります。新年を迎えるため年末に隣保が総出で山の掃除をしました。P1010780 壷坂寺もあるし

P1010777_2 清水寺もあります。他にも有名寺社の名前をコピーした観音様の石仏がありこの霊場を30分ほど廻るだけで西国の有名な寺社をほとんど廻った事になります。多分著作権料なんか払っていないだろうし、デズニーのように抗議がくることもありません。昔はおおらかだったのですね。

 5月になると島内・外からお遍路さんが来るのですが、私の地区では今でも日を決めてお接待をします。お堂でお茶を出し、休憩をしていただき、その日の食べるお米を渡してお遍路さんの旅の負担を軽減するのです。この慣習はおそらく何百年も続いていると思いますが、正確なことは分かりません。昭和の初め頃までお遍路さんはほとんど徒歩で廻っていました。宿泊は木賃宿や、お寺で安く泊まれたのでお金がなくても、その日の食事代を気にすることなく旅ができました。年頃の娘も大勢訪れたので土地の若者に見初められ結婚したりすることもよくあり、閉鎖的な村社会の交流にもなりました。

 「お遍路さん」は信仰とリクリエーションと住民交流をかねていたのですが、今ではほとんど廃れて、年間に年配の女性グループが車で10組きたら多いほうです。

 

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