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父の15年戦争6.張作霖を爆殺した男

2006/04/30、JANJANに掲載された記事ですが加筆・訂正・写真の入れ替えをしております、父は東宮鉄男が杭州湾上陸作戦中戦死したと思っていたようですが、正確には上陸してから10日後、11月15日に浙江省平湖県で戦死しました。階級は死ぬ直前は中佐で死後特進して大佐に昇進しました。間違って書いていた部分を訂正します。
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満州開拓移民の父、東宮鉄男。 「国策満蒙開拓青少年義勇軍始末記」村上隆夫著・編より

張作霖を爆殺した男 

朝日新聞、昭和3年6月5日奉天発によると、「6月4日、午前5時半ごろ、張作霖(ちょう・さくりん)が乗った特別列車が奉天駅を隔たる1キロの鉄橋上を驀進中、轟音と爆音が炸裂し、客車1台が火災を起こして焼滅した。わが満鉄守備軍が調査中である。」と報じられた。

 6月14日には奉天軍閥の頭目、張作霖大元帥の死亡が確認された。この事件は関東軍参謀の河本大作(こうもと・だいさく)大佐が仕組んだ陰謀だった。関東軍「子飼い」の軍閥として満州を制覇した張作霖は、全中国に影響力を拡大しつつあったが、蒋介石の国民革命軍に破れ、奉天に引き上げてくる途中だった。

 この時、導火線のスイッチをいれた人物こそ爆破の現場指揮官で当時、独立守備隊中隊長だった東宮鉄男(とうみや・かねお)大尉である。

 彼らは謀略を巡らすに当たって中国人浮浪者3人を買収し、爆破犯人に仕立て上げようとした。二人は殺し、ソ連製の手榴弾と国民党軍の偽の爆破命令書を一緒に現場に捨ておいたものの、一人は逃亡して真相を暴露した。この事件は後の満州事変に発展していく端緒となった。

伝説の満蒙開拓の父

 赤城おろしの僻村に 呱々の声あげかずかずの 意気リンリンと熱と血の 東宮大佐ここにあり 東宮大佐の歌(白鳥省吾作詞・作曲者不詳)

 父の話では「茨城県内原の訓練所ではこの歌をよくうたった。群馬県赤木山の麓で生まれた軍人で義勇軍創設につくした」と言う。父が「義勇軍」に入隊した頃、東宮鉄男はすでに亡くなっていた。

 「支那事変はじめのころ、中支那方面軍の歩兵大隊長として、杭州湾上陸作戦では、ふんどし一丁で槍をもち、先頭にたち指揮をしていたが、弾丸に当り、壮絶な戦死を遂げた伝説の人物だったと聞いている」東宮は死後特進して大佐になった。

 昭和7年6月10日、満州国軍吉林省警備軍の軍事顧問、東宮大尉は在郷軍人を中核とした第1次満州武装移民の具体案を関東軍、橋本虎之助参謀長に提出した。その頃、内地で満州移民に情熱をかけていた日本国民高等学校校長、加藤完治も「満蒙殖民事業計画」を拓務省に提出し、実現のため満州にわたっていた。
   
 6月14日奉天の大星ホテルで加藤校長は石原莞爾参謀から「ウチにも熱心なのがいる」と東宮大尉を紹介された。東宮は対ソ戦略と抗日ゲリラ対策の軍事上の観点から、加藤は増え続ける内地の人口問題と、恐慌で打撃を受けた農村対策から、二人の思惑は一致し、協力して満州移民を進めていくことになった。

 8月30日、満州移民は閣議で了承され議会でも承認決議された。東宮大尉は10月、試験武装移民約500名(屯墾軍)率いて吉林省(きつりんしょう)佳木斯(チャムス)に入った。入植地は佳木斯から南へ約60キロ入った樺川県(かせんけん)の永豊鎮(えいほうちん)という村で、そこには99戸(約500人)の中国人小作農家が700町の土地を耕していた。

 そのころ満州は大土地所有制で、少数の地主や軍閥が土地を支配していた。この村も軍閥で満洲国軍政部大臣(後に治安大臣)である、于芷山(ウ・チンシャン)の土地で、以前から旧知の東宮大尉に日本人の満州移民のため提供することを申し出ていた。その理由は吉林省にある于芷山の広大な「領地」の中に金鉱があって、警備が手薄なためゲリラによく襲撃されていた。それで日本人武装移民に治安の肩代わりをさせようという魂胆だった。つまり彼は小作農民の生活よりも、日本人と組んで自分の利益を追求するという、貧しい農民から見ればまさに※「漢奸」であった。

 土地の買い上げ価格は耕作地(熟地)1町歩約30円、未耕地3円で、昭和8年8月までに買収は完了した。しかし小作人の手に渡るのは地上物件補償費平均5円程度で立退き料一人当たり5円を合わせても家族5人で※30円にしかならず、家をとられ耕作地をなくした小作農民は路頭に迷うしかなかった。

 東宮大尉は県長(中国人の知事)と公安長(中国人の警察署長)を立ち会わせ、老若男女一人当たり5円の立退き料を与えて有無を言わさず追い出した。こうして銃と軍刀の威圧下に確保した土地は4万5000町歩にもなった。

 しかし、入植した移民団は中国人小作農民の恨みを買ったため、たびたびゲリラ攻撃を受けるようになり、農作業中も銃を放せない生活だった。くわえて風土病であるアメーバー赤痢がひろがり、頓懇病(ノイローゼ)にかかるものも多かった。一部には不平不満から幹部排斥運動にまで発展した。

 拓務省の記録によると第1次武装移民では昭和7年から10年までに戦死者12人病死者8人退団者162人となっている。この入植地は後になって「弥栄村(いやさかむら)」と呼ばれて満州開拓団の成功例として政府によって盛んに宣伝された。

 試験移民団は昭和11年11月まで5回にわたり約2700名が送り込まれた。しかしすでに中国人によって耕作されている土地を安値で強引に取得するやり方は、農民の組織的反抗を引き起こした。入植初期におけるもっとも大規模な反乱はこの地の名望家、謝文東(しゃ・ぶんとう)が指導した依蘭県の「土龍山(どりゅうざん)事件」がある。

 昭和9年3月に始まった農民の武装蜂起は貧弱な武器を持ちながらも果敢にゲリラ戦で関東軍や吉林軍・武装移民団に挑んできた。討伐にあたった、第63連隊の連隊長は死亡し、最大時一万人にも上る武装集団が5年間に渡って日本人移民団を脅かした。

 しかし第3師団や航空部隊まで出動させた徹底的な討伐の前に農民一揆は鎮圧され、指導者謝文東は帰順した。 関東軍はこの討伐戦とその後の掃討で農民約5000人を殺害したと言う。土龍山事件は満州国の根幹を揺さぶる大事件となった。関東軍による武力を背景とした土地取得は非難を浴び、これ以後、軍は土地買収から手を引き、満州国政府と満州拓殖公社が中心になり取得する方向に転換する。

青少年義勇軍の嚆矢 

 東宮鉄男は第1次・2次の武装移民団が入植地の厳しい気候や環境、農民ゲリラの襲撃で嫌気をさし、多くの脱落者が出たことに失望していた。そこで「純真な青少年」の入植を計画し、大連に住んでいた西本願寺の大谷光瑞や加藤完治らに、逆境に耐えうる模範的な青少年の推薦を依頼した。

 昭和9年9月吉林省饒河(じょうが)北進寮に20歳未満の少年14人が移住し自活を始めた。少年たちは後に人数も増えて100人近くになる。これを「饒河少年隊」と呼び満州青少年移民の嚆矢とする。東宮鉄男と加藤完治はこの後、車の両輪となって青少年の満州移民を推し進めていく。しかし東宮は昭和12年7月日中戦争勃発後、8月水戸の102連隊に転出し11月の杭州湾上陸作戦後11月15日浙江省平湖県で戦死する。

※「漢奸」:外国と結託した民族の裏切り者と解されるが、最も忌むべき言葉に「特務漢奸」がある。戦前中国の民衆に、蛇蝎のごとく嫌われ恐れられたのは日本軍の特務機関だった。父の話では、この二つの言葉が結びついた「特務漢奸」というのは中国人にとって最大限の人を罵倒・軽蔑する言い方だった。ちなみに“特務漢奸”をGoogleで検索してみるとほとんど中国語のウェブが出てくる。

※30円:戦前の貨幣価値について、給料面から見ると、昭和13年に満州にわたった父の話では内地の酒屋の丁稚(高等小学卒)で月給5円(かなり低い)、内地の代用教員(中学卒)で20~30円(普通)、満鉄の田舎の駅長で60円(高い)ぐらいだったというから、30円の代償で家と仕事を取り上げるのはかなり過酷なことである。

 ちなみに公務員の給与は、内地より外地のほうが高く、学歴は大学卒と小学校卒では初任給でも10倍くらいの差があった。満鉄はかなり給与水準の高い会社だったが、中国人の給料は日本人の3分の1以下だったとの事。これは大よその話である。

東宮鉄男(とうみや・かねお)1892年~1937年 群馬県出身
 1915年(大正4年)陸軍士官学校卒業、(27期)、1920年(大正9年)陸軍中尉のときシベリア出兵、1928年(昭和3年)6月4日奉天独立守備隊の隊長(大尉)のとき、張作霖爆殺事件の現場指揮官として、爆破スイッチを押す。満州国軍吉林省警備軍の軍事顧問(大尉)だった1932年(昭和7年)6月頃より、農本主義者の加藤完治らと組んで、日本国内から満州への移民を推進した。1937年(昭和12年)8月、中支那方面軍歩兵第102連隊(水戸)第3大隊長(少佐)に転出。11月杭州湾上陸作戦後11月15日浙江省平湖県で戦死する。死後特進で大佐になる。

(郷一成)

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昭和13年4月25日の靖国神社大祭、前日の24日には「支那事変・満州事変」の戦死者4533柱が合祀された。東宮鉄男も護国の鬼となった。26日には大元帥陛下も御拝。内閣情報部編集「写真週報」昭和13年5月4日号より

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「英霊」にささげ銃(つつ)をする満蒙開拓青少年義勇軍隊員。  内閣情報部編集「写真週報」昭和13年5月4日号より

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