« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

2号機のタービン建屋から1000万倍の放射能

 NHKニュースによると福島第一原子力発電所では、27日も2号機の水たまりで通常の原子炉の水のおよそ1000万倍という極めて高い濃度の放射性物質が検出されたほか、海水からも国の基準の1850倍の放射性のヨウ素が検出された。原因はわからないそうだが、2号機の炉心はすでに再臨界と言う事態になっているのではないのか?でないとこんな異常な放射能が出るわけがない。ここ数日電源の確保などで安心ムードが漂っていたが作業員の被爆などで再び最悪の事態も考えられるようになった。

 23日孫崎享ツイッターより 原子力:CIA系情報:来日中の米国原子力専門家団は「冷却作業が成功しなければ、日本側は来週、深刻な決定に直面せざるをえない」と日本側に伝えた模様。

 危機にあたって自分の国の政府を信じられないのは残念だが、米軍の情報力は確かだ。自分達に被害がおよびそうになれば躊躇なく脱出するだろう。すでに福島県は人が住めないところが多くなっていると考えられるが、関東一帯が放射能で汚染されれば・・・考えたくないことだが・・・

 日曜日のニュースは静かだ。

 27日未明、東電は1000万倍という数値が誤っていたと発表しました。分析機器から出た結果をうのみにし、セシウム134をガンマ線の特徴が似たヨウ素134と取り違えたといいますが、いい加減ですね。放射線1000ミリシーベルトを越えていることは間違いないようですが、線量が高すぎるため途中で測るのをやめており、もっと高い可能性があるといいます。

原子力安全保安員が逃げ出して、思い出した話

原発震災で保安官逃げ出す

 福島第1原発に通常7人いる、安全を監督する立場の保安検査官が17日までに、福島県庁に避難して一人もいないそうですが、毎日毎日テレビに出て、国民注視の的になっている保安院はこの重大局面に国民の役に立っているのでしょうか。

 恐らく現在日本がおかれている状況は、戦後最大の危機と行っても過言ではないが、原発事故の最前線で戦っているはずの保安官がスタコラサッサと逃げ出して安全なところにいる。このことを知って、私は母が体験した1945年8月9日にソ連が参戦した日のことを思い出した。満州国の首都新京の陸軍病院で看護婦をしていた母は同僚と共に吉林の分室に移動命令をうけた。

 満鉄の駅頭は脱出する人の波にあふれていた。列をつくって待っていると、同じ班の看護婦が、母に目くばせをした。少し先で並んでいた女性は病院長(陸軍中将)のお妾さんだった。新京陸軍病院の病院長は一足先に家族と共に日本に帰り、お妾さんは、ほって置かれたのだ。母はよっぽど悔しかったのか、この話を子どもの私に何十回も話した。

 危機に陥ったとき正確な情報ほど大事なものはない。ソ連参戦時、満州の新京放送局は「無敵関東軍は健在なり」大丈夫!大丈夫!と国境にいる開拓団に向かって放送した。それを信じた開拓団は逃げ遅れ無惨な最期を遂げた。

 父の友人で関東軍の司令部で警備兵をしていた人に聞いた話によると8月9日、司令部に行くとほとんどもぬけの殻になっていてびっくりしたそうだ。

ノルウエー気象研究所の汚染シュミレーションを貼っておきます。アニメでわかりやすい。当事者の日本ではなぜ出さないのでしょうか。現在北風が太平洋に向かって吹いていますので、少し安心ですが・・・

原発事故で横須賀の米軍 全面撤退か

横須賀アメリカ軍の基地が撤退を始めています。 基地のレストランで働いているものですが、軍のすべての人が撤退をはじめていて、すでに子供たちと奥さんたちはアメリカに帰りました。 軍人さんすべては22日までに帰国するそうです。また、空母ジョージ・ワシントンも南のほうへ移動する準備をしています。福島原発が脅威でないなら、どうしてこのような大きなオペレーションがあるのでしょうか。 18日からは基地のレス

ヤフー知恵袋に乗ったこの記事は削除されていますが重大なニュースです。テレビはまだなにも言っていませんが・・・

産経新聞の記事

2011.3.21 16:02

 米原子力空母ジョージ・ワシントンが21日午後1時10分ごろ、配備されている米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)を出港した。基地関係者によると、福島第1原発事故を受けての退避措置とみられる。在日米海軍司令部は「あらゆる任務に対応する準備はできているが、航路は未定」としている。空母は4月上旬ごろまで横須賀基地内で定期メンテナンスを続ける予定になっており、途中で切り上げての出港となった。今後、米国でメンテナンスする可能性もある。米国防総省は福島第1原発事故を受け、同原発半径50カイリ(約93キロ)圏内への米兵の立ち入りを原則禁じている。在日米海軍司令部は横須賀基地と厚木基地内で微量の放射性物質を検出したとして将兵や家族、基地従業員に屋外へ出ないよう通知している。

首都圏の人は注視する必要があるようです。

牛乳とホウレンソウから放射性物質

 19日福島県内から採取された牛乳と茨城県産のホウレンソウから食品衛生法の暫定基準を超える放射性物質が検出された。千葉県、群馬県、栃木県などの野菜からも高い数値が検出し始めている。今朝テレビを見ていると相変わらず「直ちに健康に影響がない」と大学のエライ先生がおっしゃっていた。「私なら家族と一緒に美味しくいただきます」とさえ言った。他の出演者はしらっとしていました。誰が信じます?

 文部科学省が出している環境放射能水準調査結果をみると福島県の数値は高すぎるのか、不気味に空白です。北関東の各県はよそより4~5倍数値が高い。確実に汚染が広がっている。この調査結果では東京はまだ大丈夫のようだが、東京・大気中の放射線量急上昇と言う記事もありますので油断ができません。今日2号機、3号機から白煙が出たというニュースもありますが何か関係しているのでしょうか。いずれにせよ危機的状況は変わっていない。

東京から避難し始めた子ども達

 今日、仕事で得意先にいったとき、小学生二人が遊んでいました。店の主人の孫達で東京に住んでいます。春休みはまだなので「早いなあ」と尋ねると、男の子が「原発事故が怖くて逃げてきた」との事、おばあさんに聞くと「もう東京には妊婦さんはほとんど見かけないと」という、やはり子どもの影響を考えて、故郷の淡路島に早く避難してきたそうだ、クラスで田舎に実家がある子はすでに東京から脱出し始めているという。クライシスが深化している。政府発表の「今すぐ身体に影響ない」はあてにならない思っている。赤ちゃんや子どもは放射能に弱い。大人は大丈夫でも、子どもは早く避難しなければならない。文部科学省、厚生労働省などの対応はどうなっているのだろうか。

第一原発4号機で再び火災

 今朝5時45分頃、福島第一原発4号機で再び火災が起きているようですね。危機的状況は何も変わらない。放射性物質がかなり広い範囲で拡散しているようですが、テレビなどで、何もなくても一年間に2400マイクロシーベルト浴びているから心配ないと宣伝している。レントゲンなどでの被爆とくらべて、問題ないともいっている。これって何となく納得してしまうのですが、言葉のマジックでおかしい。

2400マイクロシーベルトにプラスされる

今の状況は一年間に浴びる被爆量に+されるということでしょう。自然に浴びる量にプラスされて余分に浴びるという事だから、安心できないと考えるほうが合理的です。政府は放射線数値のモニタリングの場所を増やして正確な情報を発信してほしい、不合理な楽観は被害を増やす。

福島第一原発2号機

 今朝6時10分、圧力抑制室で爆発音がして損傷したようです。東電で8時30分に記者会見していますが、かなり深刻な事態ですね。格納容器から放射性物質が外に拡散している。日本ではこれまで経験したことの無い事態です。作業に当たっていた社員が一部退避した所を見ると、もう抑えられない事態なのか、記者会見では東電社員がお詫びしている。これまでに無い態度だ。

 周辺の人はもう自分の意思で逃げなければなら無いのではないか?チェルノブイリの時は30キロ半径から全部退避して今でも人は住んでいない。現在20キロまでの退避だが、それで大丈夫なのか。

 それにしても、情報が少ない。いま福島第二原発の情報が出てこなくなっている。もっと総合的な情報を出して欲しい。深刻な事態になってから少しずつ情報が出てくる。国民は待ちの姿勢では身を守れない。もちろんパニックになってはいけないが。

福島原発事故

福島第一原発の正門付近で通常の8倍の放射能が漏れている

中央制御室で通常の1000倍の放射能漏れ

半径10キロ以内の住民避難勧告、住民避難開始

自衛隊の化学防護部隊出動

炉心の格納容器の排気筒から放出検討

午前八時30分現在のテレビで確認できる情報は以上ですが、かなり危機的な状況ですそれにしても原発事故の情報が少ない。

巨大地震によって現実に原発事故がおきたわけですが、原子力保安院は現在の状況を直ちに人体に影響のあるレベルではないと発表している。

福島第二原発でも影響が出ている模様

専門家の話では原子炉内で何が起きているかわからない

東北・関東の大地震

 M8・8のすさまじい大地震が起きました。被災された方にお見舞い申し上げます。16年前の阪神・淡路大震災を思い出して、心が痛みます。午後11時現在で、400人以上の死亡行方不明者が出ていますが、これから日がたつにつれ被害の実態が大きくなりそうです。これだけの大きな津波は、国内では初めてではないでしょうか。また福島原発で冷却水の供給がとまって危険な状況にあるようです。南あわじ市でも津波の警報がでて、私の住む阿万地区にも避難勧告が出ていますが、うちは海岸から2キロぐらい離れているので心配ありません。でもこの辺りは南海地震の予想されるところで、津波は人ごとではありません。日本はどこに居ても安心なところは無いですね。

父の15年戦争7.糞尿を舐めるカリスマ教育者

 2006/05/07JANJANに掲載されました記事に構成を少し変えて写真の入れ替えなどしております。

P1020515

義勇軍内原訓練所所長加藤完治 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

国策決定

 昭和11年、2.26事件の後成立した広田弘毅内閣は、7大国策を定めるが、8月その1つである「20年間で100万戸・500万人の満州移民」という国をあげての本格的な満州開拓団の移民計画を発表した。この計画は分村・分郷方式といって、恐慌で疲弊した日本の村を半分に分け片方を丸ごと満州にもって行くというやり方で、墓や田畑全部を処分して背水の陣で家族全員を引き連れる例が多く、昭和20年までに300団体以上約22万人が移民した。

 加藤完治は満州移民の必要性を、世界恐慌によって生糸が暴落し破綻した信州の農村を例に「義勇軍」内原訓練所で次のように講演している。

 「信州辺りへ行きますと、八段歩位で、山地なのですから、山の上から耕して木を植えた所迄田を作るというところまでなってしまったのです。狭い面積で余計の収入をあげようとばかりする。それで信州の人は蚕をやり出してとうとう終いには日本一の蚕の国になっちまったのです。今までは米国がどんどん生糸を買って呉れたから宜かったのですが、米国がもう買わんとなると覿面困ってしまう。

 今信州は満州に行くのが一番盛んです。今度ようやく判ったのです。そんなことから信州には麦まきも知らないお百姓が出来たりして信州は蚕ばかり弄くって、一遍で宜いやつを二遍も三遍も弄くって、眼を真っ赤にして、それで何を作っているかというと米国人の褌を作っている。そこで八段歩の地面ぢゃ少ないんだから分村計画をやれ、一戸当り一町六段にする、そうするには信州の農民は半分は外に出ろ、百八十度転向しなければ駄目だ、こういうことになったのです」―満州移住協会・昭和16年発行「農道の歓喜」より

 昭和12年11月3日、日本国民高等学校校長の加藤完治は親友の石黒忠篤(後の農林大臣)ら5人と「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」をときの第一次近衛文麿内閣に提出した。11月30日「満州に対する青年移民送出に関する件」として閣議決定がなされ、拓務省は予算を追加し議会は議決した。茨城県内原には12万坪の松林を整地し当初1万人を収容できる基礎訓練所が設けられた。所長には加藤完治がなり、これより昭和20年の敗戦まで86530名(内原訓練所送出名簿より)の青少年(満14歳~19歳)が開拓義勇兵として満州の地に送り出された。

 内原では2ヶ月間の基礎訓練があり、その内容は「皇国精神」・「武道」・「農業」で特に天皇を崇拝する「皇国精神」は独特のやまと言葉をつかって神がかり的に行われた。

糞尿をなめるカリスマ教育者

 加藤完治は東京帝国大学農科大学出身の教育者で、「国のもとい(基)は農である」の農本主義を唱える国粋主義者でもあった。金沢の第4高等学校在学中、熱心なクリスチャンとなったが後に愛知県立安城農林学校に教員として勤務していたころ筧克彦(かけい・かつひこ)の説く古神道に傾倒し独自の国家主義的農本思想を深めた。

 大正11年から1年4カ月間のヨーロッパ視察のあと昭和元年、茨城県友部町に創立した、デンマークのフォルケホイスコーレ(国民高等学校)に模した日本国民高等学校の校長として農村子弟の教育に当たっていた。フォルケホイスコーレとはデンマークの農民教育家クリステン・コル(1816~1870)が提唱した三愛精神に基づく高等農業学校でドイツ人ホルマンの著わした「国民高等学校と農民文明」(大正2年1月、那須皓・翻訳・発行)によって日本によく知られるようになった。

 加藤はここでキリスト教に立脚した、三愛精神の理念である、神・隣人・祖国に対する愛をスメラミコト(皇尊)・日本人・皇国日本に置き換えた。また日本の増え続ける人口問題や恐慌で痛んだ農村問題の解決に、大陸に対する植民地政策を主唱するようになる。

 彼の著作「日本農村教育」には次のような記述がある。「内地に於て土地に飢えた農民の、而も二男三男に生れ、土地なき為に生きてゆくことの出来ない農民が、開拓を待つ満蒙の広い天地に行くのは当然すぎる程、当然である。何処でもでも空いた土地に行って開拓するのは当たり前のことであって、シベリアでも満州でも豪州でもどこでもよい。それが為に国と国とが戦争するという場合には、敢えて辞するところではありません。」

 父の話によると加藤は、端正な顔に豊かな鬚をたくわえたカリスマ的風貌をもち、その思想は狂信的とも言える天皇主義者だったという。

 「内原の義勇軍では毎朝、日本体操(ヤマトバタラキ)と言う独特の体操をやらされた。これは古事記の天孫降臨の神話が筋書きで、祝詞などが入っており、動くより止まっている時間のほうが長いという不思議な体操だった。
 朝の礼拝のときも天皇陛下万歳などと言わず、古神道にのっとり、スメラミコト・イヤサカ・イヤサカ・イヤサカと三唱した。数のかけごえは1からヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト、百はモモ、千はチ、万はヨロズという。また加藤完治は柔道や剣道の達人で直心陰流(じきしんかげりゅう)の打ち込みもよくやった」

 加藤は自ら、肥たごを天秤棒で担ぎ先頭に立って農作業の実地指導をした。あるとき新米の義勇兵は加藤先生からじきじき農業の真髄を教えうけた。彼は少年達を前にして今まさに肥えをまいたばかりの畑にしゃがみ、ホヤホヤの土を一掴みするなり、口元にもってゆきペロリとなめた。そして平然として一席ぶった。「下肥(しもごえ)は人糞をそのまま土にまけばよいのではない、一定の温度と時間で熟成しなければならない。そうして完全に熟した糞尿は無害化する。したがって無害化してこそ農作物を育てる栄養肥料となるのである」隊員達はあっけにとられて、互いに顔を見合わせた。

 加藤は農業が、動物・植物・自然・時間などを素材として織り成す関係を、少年達に彼一流のパフォーマンスで理解させようとしたのだろうか。この話は「美談」となってまたたく間に全国の農民に広がった。内原の「義勇軍」の※加藤は「糞尿をなめて肥えの熟成度をはかるらしい!」加藤完治は日本農業界のカリスマとなった。

P1020512

内原訓練所での農作業訓練 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

※加藤完治が「糞尿をなめる」という話は農業関係者のあいだでは有名だった。長岡喜春箸の「満蒙開拓青少年義勇軍よもやま物語」にも次のエピソードが載っている。

 ――あるとき、某妃殿下を加藤所長が先導して農場へ案内したときのことである。そのとき、農耕訓練中の訓練生がかつぐ肥桶の列が見学者のそばを通った。強い人糞の臭いに美しい妃殿下は、思わず顔をそむけ、絹のハンカチで鼻をつつまれたという。加藤完治はそれを見るとツカツカと訓練生の列に近づき、彼らのかつぐ肥桶の中に指をつっこみ、ペロリと口でなめた。

 この話は新聞記事にもなったとある。もっとも長岡喜春氏は、加藤がすましている妃殿下をたしなめるため、実際なめたのは肥えにつかった人差し指ではなく隣の中指だったのではないか、東京帝大卒のインテリがそんなことする訳がないと疑問を呈しているのだが……。
P1020503

内原訓練所での壮行会。日・満の国旗を掲げている。満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

加藤完治(かとう・かんじ)(1884~1967)

東京出身。1911年(明治44年)東京帝国大学・農科大学卒業。農本主義者・教育者・満州(中国東北)開拓移民指導者。東京市本所瓦町(江東区亀戸)の旧平戸藩士の家に長男として生まれる。金沢第4高等学校在学中熱心なクリスチャンとなる。

大学でははじめ工科に入るが、結核療養のため3年間療養した後は農科に変わる。大学卒業間近に不治の病に冒された恋人と最初の結婚をするが、翌年彼女が死亡すると、失意のあまり葬儀の後、山中の農家に泊まりながら甲府に出て、あてもなく信州諏訪を彷徨した。

大学卒業後、内務省地方局に勤務し、帝国農会嘱託として中小農保護政策調査事務にあたる。 1913年(大正2年)山崎延吉のすすめで、愛知県立安城農林学校に教員として勤務。このころ筧克彦(かけい・かつひこ)の説く古神道に傾倒する。1915年(大正4年)にはデンマークのフォルケホイスコーレ(国民高等学校)に習い新設された山形県立自治講習所の所長になる。 1922年(大正11年)から1年4カ月間のヨーロッパ視察後、友人石黒忠篤(いしぐろ・ただあつ)のすすめで、1926年(昭和元年)に茨城県友部町宍戸に日本国民高等学校を創立し、校長となって農民子弟教育にあたった。

満州事変がはじまると、関東軍の東宮鉄男(とうみや・かねお)と満州移民をすすめ、満蒙開拓青少年義勇軍の設立にかかわり、1937年(昭和12年)に茨城県内原へ移転した日本国民高等学校に隣接して、1938年(昭和13年)満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を開設。1939年(昭和14年)同訓練所の所長となる。

第2次世界大戦後、公職追放をうけ、1946年(昭和21年)に福島県の甲子高原(かしこうげん)に入植し、白河報徳開拓農業協同組合長となった。1952年(昭和28年)に追放解除されると翌年、日本高等国民学校(日本国民高等学校を改称)の校長に復帰し、のち名誉校長になる。

P1020499

神宮外苑での分列行進 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

父の15年戦争ノート①

 父に「義勇軍」の話を詳しく聞くようになってから、その資料を集めだしたが、どこにあるのか、どこで買ったらよいのか、図書館にあるのか、最初はまるで雲をつかむような話であった。東宮鉄男(とうみや・かねお)や加藤完治といった、「義勇軍」創設に関わった人達は歴史上の人物としてはかなりマイナーだったので田舎の図書館には影すら見えない、古本屋といっても淡路島島内では漫画本が主流で、大阪や神戸に行くことは時間的にままなら無い。そこで思い立ったのがヤフーオークションである。義勇軍と検索するだけでたちどころに、何冊かの本が出てくる。満蒙の戦前の地図なんかぞろぞろ出てくる。軍隊のアルバムなんかかなり貴重と思われるものがオークションに出されている。勿論値段があるのでやたらと買えないがもう500冊以上落札した。

P1020493

 東京には国会図書館という日本一の図書館があるのでうらやましい限りだが、田舎に居てもオークションと言う手段がある限り素人でも歴史的な資料を集める事ができる。オークションは身の丈にあった文章を書くには丁度良いツールだ。

 

父の15年戦争6.張作霖を爆殺した男

2006/04/30、JANJANに掲載された記事ですが加筆・訂正・写真の入れ替えをしております、父は東宮鉄男が杭州湾上陸作戦中戦死したと思っていたようですが、正確には上陸してから10日後、11月15日に浙江省平湖県で戦死しました。階級は死ぬ直前は中佐で死後特進して大佐に昇進しました。間違って書いていた部分を訂正します。
 P1020473

満州開拓移民の父、東宮鉄男。 「国策満蒙開拓青少年義勇軍始末記」村上隆夫著・編より

張作霖を爆殺した男 

朝日新聞、昭和3年6月5日奉天発によると、「6月4日、午前5時半ごろ、張作霖(ちょう・さくりん)が乗った特別列車が奉天駅を隔たる1キロの鉄橋上を驀進中、轟音と爆音が炸裂し、客車1台が火災を起こして焼滅した。わが満鉄守備軍が調査中である。」と報じられた。

 6月14日には奉天軍閥の頭目、張作霖大元帥の死亡が確認された。この事件は関東軍参謀の河本大作(こうもと・だいさく)大佐が仕組んだ陰謀だった。関東軍「子飼い」の軍閥として満州を制覇した張作霖は、全中国に影響力を拡大しつつあったが、蒋介石の国民革命軍に破れ、奉天に引き上げてくる途中だった。

 この時、導火線のスイッチをいれた人物こそ爆破の現場指揮官で当時、独立守備隊中隊長だった東宮鉄男(とうみや・かねお)大尉である。

 彼らは謀略を巡らすに当たって中国人浮浪者3人を買収し、爆破犯人に仕立て上げようとした。二人は殺し、ソ連製の手榴弾と国民党軍の偽の爆破命令書を一緒に現場に捨ておいたものの、一人は逃亡して真相を暴露した。この事件は後の満州事変に発展していく端緒となった。

伝説の満蒙開拓の父

 赤城おろしの僻村に 呱々の声あげかずかずの 意気リンリンと熱と血の 東宮大佐ここにあり 東宮大佐の歌(白鳥省吾作詞・作曲者不詳)

 父の話では「茨城県内原の訓練所ではこの歌をよくうたった。群馬県赤木山の麓で生まれた軍人で義勇軍創設につくした」と言う。父が「義勇軍」に入隊した頃、東宮鉄男はすでに亡くなっていた。

 「支那事変はじめのころ、中支那方面軍の歩兵大隊長として、杭州湾上陸作戦では、ふんどし一丁で槍をもち、先頭にたち指揮をしていたが、弾丸に当り、壮絶な戦死を遂げた伝説の人物だったと聞いている」東宮は死後特進して大佐になった。

 昭和7年6月10日、満州国軍吉林省警備軍の軍事顧問、東宮大尉は在郷軍人を中核とした第1次満州武装移民の具体案を関東軍、橋本虎之助参謀長に提出した。その頃、内地で満州移民に情熱をかけていた日本国民高等学校校長、加藤完治も「満蒙殖民事業計画」を拓務省に提出し、実現のため満州にわたっていた。
   
 6月14日奉天の大星ホテルで加藤校長は石原莞爾参謀から「ウチにも熱心なのがいる」と東宮大尉を紹介された。東宮は対ソ戦略と抗日ゲリラ対策の軍事上の観点から、加藤は増え続ける内地の人口問題と、恐慌で打撃を受けた農村対策から、二人の思惑は一致し、協力して満州移民を進めていくことになった。

 8月30日、満州移民は閣議で了承され議会でも承認決議された。東宮大尉は10月、試験武装移民約500名(屯墾軍)率いて吉林省(きつりんしょう)佳木斯(チャムス)に入った。入植地は佳木斯から南へ約60キロ入った樺川県(かせんけん)の永豊鎮(えいほうちん)という村で、そこには99戸(約500人)の中国人小作農家が700町の土地を耕していた。

 そのころ満州は大土地所有制で、少数の地主や軍閥が土地を支配していた。この村も軍閥で満洲国軍政部大臣(後に治安大臣)である、于芷山(ウ・チンシャン)の土地で、以前から旧知の東宮大尉に日本人の満州移民のため提供することを申し出ていた。その理由は吉林省にある于芷山の広大な「領地」の中に金鉱があって、警備が手薄なためゲリラによく襲撃されていた。それで日本人武装移民に治安の肩代わりをさせようという魂胆だった。つまり彼は小作農民の生活よりも、日本人と組んで自分の利益を追求するという、貧しい農民から見ればまさに※「漢奸」であった。

 土地の買い上げ価格は耕作地(熟地)1町歩約30円、未耕地3円で、昭和8年8月までに買収は完了した。しかし小作人の手に渡るのは地上物件補償費平均5円程度で立退き料一人当たり5円を合わせても家族5人で※30円にしかならず、家をとられ耕作地をなくした小作農民は路頭に迷うしかなかった。

 東宮大尉は県長(中国人の知事)と公安長(中国人の警察署長)を立ち会わせ、老若男女一人当たり5円の立退き料を与えて有無を言わさず追い出した。こうして銃と軍刀の威圧下に確保した土地は4万5000町歩にもなった。

 しかし、入植した移民団は中国人小作農民の恨みを買ったため、たびたびゲリラ攻撃を受けるようになり、農作業中も銃を放せない生活だった。くわえて風土病であるアメーバー赤痢がひろがり、頓懇病(ノイローゼ)にかかるものも多かった。一部には不平不満から幹部排斥運動にまで発展した。

 拓務省の記録によると第1次武装移民では昭和7年から10年までに戦死者12人病死者8人退団者162人となっている。この入植地は後になって「弥栄村(いやさかむら)」と呼ばれて満州開拓団の成功例として政府によって盛んに宣伝された。

 試験移民団は昭和11年11月まで5回にわたり約2700名が送り込まれた。しかしすでに中国人によって耕作されている土地を安値で強引に取得するやり方は、農民の組織的反抗を引き起こした。入植初期におけるもっとも大規模な反乱はこの地の名望家、謝文東(しゃ・ぶんとう)が指導した依蘭県の「土龍山(どりゅうざん)事件」がある。

 昭和9年3月に始まった農民の武装蜂起は貧弱な武器を持ちながらも果敢にゲリラ戦で関東軍や吉林軍・武装移民団に挑んできた。討伐にあたった、第63連隊の連隊長は死亡し、最大時一万人にも上る武装集団が5年間に渡って日本人移民団を脅かした。

 しかし第3師団や航空部隊まで出動させた徹底的な討伐の前に農民一揆は鎮圧され、指導者謝文東は帰順した。 関東軍はこの討伐戦とその後の掃討で農民約5000人を殺害したと言う。土龍山事件は満州国の根幹を揺さぶる大事件となった。関東軍による武力を背景とした土地取得は非難を浴び、これ以後、軍は土地買収から手を引き、満州国政府と満州拓殖公社が中心になり取得する方向に転換する。

青少年義勇軍の嚆矢 

 東宮鉄男は第1次・2次の武装移民団が入植地の厳しい気候や環境、農民ゲリラの襲撃で嫌気をさし、多くの脱落者が出たことに失望していた。そこで「純真な青少年」の入植を計画し、大連に住んでいた西本願寺の大谷光瑞や加藤完治らに、逆境に耐えうる模範的な青少年の推薦を依頼した。

 昭和9年9月吉林省饒河(じょうが)北進寮に20歳未満の少年14人が移住し自活を始めた。少年たちは後に人数も増えて100人近くになる。これを「饒河少年隊」と呼び満州青少年移民の嚆矢とする。東宮鉄男と加藤完治はこの後、車の両輪となって青少年の満州移民を推し進めていく。しかし東宮は昭和12年7月日中戦争勃発後、8月水戸の102連隊に転出し11月の杭州湾上陸作戦後11月15日浙江省平湖県で戦死する。

※「漢奸」:外国と結託した民族の裏切り者と解されるが、最も忌むべき言葉に「特務漢奸」がある。戦前中国の民衆に、蛇蝎のごとく嫌われ恐れられたのは日本軍の特務機関だった。父の話では、この二つの言葉が結びついた「特務漢奸」というのは中国人にとって最大限の人を罵倒・軽蔑する言い方だった。ちなみに“特務漢奸”をGoogleで検索してみるとほとんど中国語のウェブが出てくる。

※30円:戦前の貨幣価値について、給料面から見ると、昭和13年に満州にわたった父の話では内地の酒屋の丁稚(高等小学卒)で月給5円(かなり低い)、内地の代用教員(中学卒)で20~30円(普通)、満鉄の田舎の駅長で60円(高い)ぐらいだったというから、30円の代償で家と仕事を取り上げるのはかなり過酷なことである。

 ちなみに公務員の給与は、内地より外地のほうが高く、学歴は大学卒と小学校卒では初任給でも10倍くらいの差があった。満鉄はかなり給与水準の高い会社だったが、中国人の給料は日本人の3分の1以下だったとの事。これは大よその話である。

東宮鉄男(とうみや・かねお)1892年~1937年 群馬県出身
 1915年(大正4年)陸軍士官学校卒業、(27期)、1920年(大正9年)陸軍中尉のときシベリア出兵、1928年(昭和3年)6月4日奉天独立守備隊の隊長(大尉)のとき、張作霖爆殺事件の現場指揮官として、爆破スイッチを押す。満州国軍吉林省警備軍の軍事顧問(大尉)だった1932年(昭和7年)6月頃より、農本主義者の加藤完治らと組んで、日本国内から満州への移民を推進した。1937年(昭和12年)8月、中支那方面軍歩兵第102連隊(水戸)第3大隊長(少佐)に転出。11月杭州湾上陸作戦後11月15日浙江省平湖県で戦死する。死後特進で大佐になる。

(郷一成)

P1020478     

昭和13年4月25日の靖国神社大祭、前日の24日には「支那事変・満州事変」の戦死者4533柱が合祀された。東宮鉄男も護国の鬼となった。26日には大元帥陛下も御拝。内閣情報部編集「写真週報」昭和13年5月4日号より

P1020481

「英霊」にささげ銃(つつ)をする満蒙開拓青少年義勇軍隊員。  内閣情報部編集「写真週報」昭和13年5月4日号より

中国とどうつきあうかー神戸新聞の記事より

 P1020450

 3月2日の神戸新聞6ページに前中国大使の宮本雄二氏と評論家松本健一氏の「争論」が載っています。私は最近両者の著作を読んでいたので、興味深く読みました。

P1020458

 松本氏は「漁船衝突事件」での中国の強硬な態度を、日露戦争当時の日本と比較。高まるナショナリズムが強硬な態度をとらせていると分析している。日本の態度について、「2年前自民党政権時代に領海侵犯した漁船の船長を逮捕するマニュアルを作っていたので、その通り菅首相と前原外相が逮捕して国内法で裁くという態度をとったが、仙谷官房長官が外交問題を処理するマニュアルが無かったのでまずいと思った」と述べている。

 松本氏は大変重要な事をいっている。2年前に領海侵犯した中国漁船を拿捕する方針に日本は転換したと。元外務省の孫崎氏などが言っている、鄧小平以来の「尖閣領土問題棚上げ」から違法漁船をドンドン拿捕する実効支配強化に変わったのなら、なぜ「公務執行妨害」で逮捕したのか?ということだ。田中康夫議員が言ったように、堂々と領海侵犯あるいは不法漁業で逮捕すればよいのだ。逮捕容疑は挑発して、体当たりしてきた。「悪質だから」捕まえたと前原外相は言っていた。外国人漁業規正法で追起訴したのは、元保安官を起訴猶予にして、ビデオ流出事件が終わってからだった。

 私は「漁船衝突事件」は中国漁船が「体当たり」したのではなく、巡視艇が当たるように仕向けて拿捕したと考える。あの「ビデオ」は編集された政治宣伝映画である。松本氏が「中国が強硬」に見えるのは多くの日本人同様、事実から出発していないからだ。強硬なのは日本であると理解できないのは漁船が体当たりしてきたと思っているからだろう。ほとんどの人はネットに流出したビデオさえまともに見ていない。そこからさらに切り取った数十秒のシーンをみて「体当たり」だと思っている。

 宮本雄二氏は「船長を逮捕し、日本の法的な手続きに乗せれば、確実に重大な外交問題になるという見通しは持っていたはずだ。早期に外交問題化を回避する余地はあった。日中の相互理解がまだ足りない」と日本の「船長逮捕」を批判している。インタビュアーの「中国は外交姿勢を強硬化させたのでは」との問いに「1840年のアヘン戦争以来の歴史的な体験により、中国人は外の世界に猜疑心を持っている」と指摘また米国など先進諸国はあらゆる機会を狙って中国の政権を崩壊させようとしていると信じているので、軍事的に包囲されていると感じている。経済大国になったので、必要とする資源エネルギーが大きい、そのことから資源確保に強い願望が出てきたと、現在の中国を分析している。「覇権国家になる恐れはないのか」との問いに、中国にはタカ派軍人だけでなく、国際協調を主張するさまざまな考えの学者もおり、心配することはない「パワーポリティクスを越えて王道政治、王道外交の道を歩みうると」答えた。私は宮本氏の主張におおむね賛成する。宮本氏は中国をよく理解している。彼が大使を交代せずに続けていたら「漁船衝突拿捕事件」はここまで悪化しなかっただろう。

 日中関係は1930年代に似てきたという見方について「日中戦争の時代、日本の政府・軍は中国の強い民族主義について、等身大の理解ができずに対応を誤った」今はある程度理解していると述べ、最後に「日中は共に大国であり引越しはできない隣国。この大国関係をより安定し、予測可能なものにしていくことは、間違いなく日本および中国の絶対的な国益だ、両国の相互理解を促進し、戦略的互恵関係を強化していくべきだ。今年の辛亥革命100周年、来年の日中国交正常化40周年は好機だ。両国民が相手を等身大で見る状況をいかにしてつくるか、記念行事の大きな目標であるべきだと思う」と締めくくった。

 私が宮本氏の言葉で一番印象に残ったのは「両国民が相手を等身大に見る」というところです。現在の日本人は中国を人食いざめジョーズのような怪物に見ている。相手は自分達と同じ人間である。この当たり前の認識が欠けている。また松本氏の日中は「ナショナリズムをこえてアジアのアイデンティティーをともに考えていくべきだ」というのは賛成です。しかしこのインタビューで触れられていないこと、松本氏の持論である「東アジア共同体創設」の最大の「妨害者」アメリカの存在です。日本外交は「アメリカ問題」しかない。この問題を二人の識者に一番聞きたかった。 

 この記事には、下段に二人のインタビューのまとめが載っている。事件から半年が過ぎ熱狂から冷めたのか、共同通信編集委員の森保宏氏は「中国が民主的で国際社会と協調できる大国になるよう辛抱強く働きかけるべきだ。両国メディアは国民のナショナリズムをあおりがちだが、より冷静で正確な報道を心掛けていきたい」と最後に書いているが私は大手マスコミ各社に、この言葉の確実な実行を望みます。

 

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ