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2012年4月

父の15年戦争9.嫩江(ノンジャン)大訓練所

この記事は2006年6月24日JANJANに掲載された記事に若干の加筆、訂正をして写真等を入れ替えたものです。

Memo0068 嫩江大訓練所本部 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 父が入った嫩江訓練所は一箇所で1万人まで収容する、満州の5大訓練所の一つだった。そこに見た満州の現実は理想とあまりにもかけ離れていた。

 昭和13年5月4日内閣情報部発行の「週報」に、「大陸開拓の戦士・満州青年移民」という拓務省発表の文章が載っている。ここには満州青年移民の趣旨、沿革、計画の全容、進捗状況、現地訓練所の将来などが書かれているが、当面昭和13年度中に数え年16歳(早生まれ15歳)から19歳(早生まれ18歳)までの青少年3万人を5箇所に分かれた現地大訓練所に入所させる予定となっている。大訓練所で1年間基礎訓練をし、その後中隊単位(約300人)の小訓練所(満鉄の鉄道警備村など)で2年間訓練をしてから「卒業」となり、正式な開拓団に移行するとある。以下、結びのところを一部抜粋する。
Memo0073

この計画が非公式に発表されたのは1月頃のことであつた。当時は政府の予算が確定前なので、取り敢へず満州移住協会が拓務省に代わつて2月15日を締切りとして先遣隊5千名を募つたところが、忽ち全国的に非常な反響を呼び起こして、僅か1箇月余りで約1万人の応募者が出た。それでとりあえず7700名を銓衡(せんこう)採用した。これは実に雄弁に青少年の進取性と非常時国民の勇猛心とを語るものであり、又一面内地農村の行詰まりを語るものとも考えられる。今迄の内地青少年は実に前途を暗黒に閉され、どちらを向いても大きな希望はなく、努力発展しようにも人は多く、職は少なく、まして国家的貢献の仕事などは余りなかつただけに、青年移民送出の計画が伝へられるや、かくも翕然(きゅうぜん)としてこれに参加し来つたのは誠に宜(むべ)なるかなである。……中略
最後に殖民歌の一節『万世一系類ひなき、すめらみことを仰ぎつつ、天涯万里野に山に、荒地開きて敷島の、大和心を植うるこそ、日本男児の誉れなれ』をとくに記して、全国の青少年が大陸日本の建設に、将(はた)又満洲建国の聖業に奮つて参画せんことを切に望むものである。

 このように「義勇軍」初年度の送出計画には多数の応募があり盛況だった。加藤完治らの思惑は当たり満州青年移民の計画は順調にスタートしたかに見えた。
Memo0061 訓練所に向かう隊列 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より
 現地訓練所は昭和16年ごろまでに大小100箇所近く建設された。父が入った北満の嫩江(ノンジャン)訓練所は、一箇所で数千人から1万人収容する、満州に5箇所設置された大訓練所の一つだった。寧墨線、伊拉哈(イラハ)駅から10数キロ北の馬家窩という未開の広野に突如一万人にも及ぶ青少年が軍事教練・農耕訓練・教学講習をするための施設が建てられつつあった。拓務省の説明によると、この付近は低い丘が緩やかに起伏している広漠な地帯で、五里四方はほとんど鍬を入れたことの無い処女地で、訓練所長には山崎芳雄第1次移民団長がなった。
Memo0062満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 ここにはすでに前年の昭和12年8月から12月にかけて先遣隊として入った320名の少年たちが後続の隊のため準備や施設の建設に励んでいた。彼らは伊拉哈少年隊と呼ばれていた。父が初めて嫩江訓練所の仮宿舎に入っていこうとしたとき突然、先遣隊の隊員が現れ「貴様!」というなり鉄拳を繰り出してきた。先輩にあいさつもせず無礼だということだった。

 満蒙開拓青少年義勇軍は「開拓」の名前はついてはいたものの中隊単位(約300人)で編成され、38式歩兵銃、軽機関銃、手榴弾、擲弾筒(小型の迫撃砲)等で武装された紛れも無い軍隊であった。父は日本の軍隊の悪しき慣習である後輩にたいする暴力制裁に早くも遭遇した。なお「満蒙開拓青少年義勇軍」という名称は、青年移民団が「軍隊」と誤解されては国際上都合が悪いと関東軍からクレームがつき、現地では「満洲開拓青年義勇隊」と呼ばれるようになった。
Memo0060 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 しかし本当の狙いは日中戦争の拡大により、兵力不足が深刻になったことで、鉄道の守備、在満日本人の保護、反満抗日ゲリラ対策、対ソ戦の予備軍など、治安、軍事上の役割を期待されていた。

 1万人の隊員を収容する予定の嫩江訓練所には続々新しい隊員がやってきた。父が入所した直後の昭和13年7月15日現在の入所数は、2921名(満州移住協会発行の文書より)となっている。しかし準備不足で宿舎などが間に合わず、とりあえず「天地根元造り」と呼ばれる簡単な骨組みにアンペラ(コーリャンの茎で編んだむしろ)で屋根や外回りを張った簡易宿舎で過ごし、隊員自ら建築工事を手伝いながら正式な宿舎が出来ると順次入っていった。このアンペラ小屋は晴れの日は陽射しが差込み暑く、雨が降ればシャワーのように漏れる代物だった。

 現場では内地からやってきた日本人が経営する、丸平公司(マルヘイ・コンス)という土建屋が大勢の中国人苦力(クリー)を雇って作業をしていた。彼らもアンペラ小屋に入り、低賃金で長時間働いていたが、病気や怪我などして動けなくなるとそのまま外に放り出されておしまい、という哀れな存在だった。父の話では「アヘンなども吸わされていて、簡単にやめられないようになっていた」という。

 一日の生活は夏場、朝5時半頃(冬7時)に起きて礼拝場に集合して点呼をとる。二拝二拍手一拝礼をして、スメラミコト(天皇)のイヤサカ(弥栄)を心から祈って三唱をする。「アッパレ、アナオモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、オケ」と唱和してから義勇隊綱領を唱える。国旗掲揚、教育勅語の捧讀、君が代の合唱、日本体操(やまとばたらき)など朝の行事を済ましたあと朝食になる。
Memo0063 早朝5時に起きる 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より
 午前中は教学・講習、午後は武道や軍事教練を行った。教学は青年学校卒業の学力をつけるということでカリキュラムが組まれ、満語(中国語)の授業もあった。肝心の農業は「余りした覚えが無い。土地の開墾は付近に住むロシア人に頼んでトラクターで耕してもらっていた。また関東軍の委託で軍馬を飼っていた」という。

 「訓練所で一番の楽しみは食事だった。わしらは最初に来た隊だったので、めしの質はまあまあだった。米のご飯で、たしか朝鮮から運んできていた。鹿児島県出身の少年達は米のめしがよほど嬉しかったのか、いつもはしゃいでいた。おかずは味噌汁と野菜の煮付け、または塩鮭など塩干もので、週に1回ぐらいは豚肉も出た」

 飼っている豚を近くに住む中国人に屠畜解体してもらったという。その条件は頭と内臓を彼らに賃料として渡し、肉は「義勇軍」が食べるというものだった。にもかかわらず希望者が殺到したというから、食文化の違いを考慮しても現地での日本人と中国人の地位、経済的格差が歴然とわかる。

 「それでも食べ盛りのわしらには量が圧倒的に少なかったので、腹が減ると倉庫から食料を勝手にとってきた」

 「義勇軍」時代同じ釜の飯を食った友人の今口光治氏にその頃のことを聞くと「あんたのお父さん頭がよかった。度胸もあるし、機転もきき決断力もあった」と誉めそやす。

 ある日盗んだ米が、部屋を調べに来た幹部に見つかりそうになったことがあるという。

 「そのとき郷は重い俵をなんと天井に隠せと指示し難なく過ぎた。郷は……、ズル賢かった。だが盗った物を独り占めにはしなかった。みんなで分けた。えらかった!」私は今口氏の話を聞きながら、どう反応していいのか迷いながらあいまいな笑みを浮かべた。

 「牛肉が食べたくなって近くの中国人部落から牛を盗ってきてつぶしたことがある」父が言っていたことを今口氏に質すと、「そんなことまでしゃべっていたのか。こういうことは言わんどこと思っていたのだが……」と苦笑する。

 昨年春頃から父に中国での15年間なにをしていたのか改めて話をしてもらっていた。私が子供の時には絶対聞けなかったことをボツボツ話し始めた。

 「わしが義勇軍時代やっていたことで7割ぐらいは内地では人に言われんようなことだった」とふと漏らした。

 隊員たちが毎日、唱和していた義勇軍綱領には次の一節がある。

 「我等は身を以て一徳一心民族協和の理想を実践し道義世界建設の礎石たらんことを期す」しかし五族協和・王道楽土と聞かされていた、満州の理想と現実の間はあまりにもかけ離れていた。絶対量が少ない食事、準備不足の粗末な住環境、厳しい軍事教練、内地とはくらべものにならない凄まじい自然・風土。はじめてきた北満の夏は過ぎ、酷寒の冬はすぐそこまで来ていた。
Memo0067 冬の訓練所全景 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

父の15年戦争8.靖国神社

2006年6月3日JANJANに掲載された記事に若干の加筆、訂正、写真の入れ替えをしております。
靖国神社で死ぬ覚悟を求められた、父は「とんでもない所へ来た」と思ったが後の祭りです。東条英機と松岡洋右から訓示を受け満州に旅立ちます。

Memo0050 陸軍大臣時代の東条英機
画報躍進之日本昭和16年9月号より

二キ三スケ

 父が茨城県内原の「義勇軍」訓練所に入った頃、「二キ三スケ」という言葉がはやっていた。その当時、満州国を牛耳っていた、星野直樹満州国総務長官(事実上の満州国の総理大臣で後に東条内閣の書記官長、戦後A級戦犯)・東条英機関東軍参謀長(後の首相で戦後A級戦犯)・松岡洋右満鉄総裁(後の外相で戦後A級戦犯として起訴されるが裁判途中で病死)・岸信介満州国実業部次長(東条内閣の商工大臣、戦後A級戦犯容疑者で後に首相)・鮎川義介日産コンツェルン総帥(満州の重要産業の支配者で戦後A級戦犯容疑者)など5人の名前の末字をもじってこう言った。

Memo0044 昭和8年頃の靖国神社

 「内原では東条英機と松岡洋右をよく見かけた。あの頃から2人はたいした権勢で、いつもオープンカーに乗って一緒に来ていた。満州に行く前に東条英機の訓示を受けた。『諸君は御国のため率先して、重要な国策である満州開拓に志願して殊勝である。困難な事業だが初心を忘れないように最後までやり遂げなければならない』というようなことを言っていた」
「東京では明治神宮や宮城(皇居)にも行ったが、一番印象的だったのが靖国神社だった。入り口のところに大村益次郎の銅像がたっていて最初から威圧された。日本軍国主義の総本山にふさわしい、それはりっぱな神社だった。あれだけの神社は後にも先にも見たことが無い」

 そのとき引率していった隊長は、父たち新米の義勇隊員に向かって「貴様達は戦争で死ねばここに祀られ神になる。これは大変名誉なことであるので、死ぬことを決して恐れてはならぬ」と訓示した。その晩少年たちは皆、意気消沈した。  「こりゃとんでもないところに来てしまったと思った。わしらは小さいときから徹底的に軍国主義教育を叩き込まれた世代だが、それでも14・15歳の子供に死ぬ覚悟など出来るわけがなかった。戸籍に履歴が残り一生ついて回るのではないかと心配した。靖国なんかクソ食らえと悪態をつくものもいたが後戻りは出来なかった」

 満州行きが近づいてくると、隊員たちに家族や親戚が面会に訪れた。「内原で基礎訓練をしていたとき、東京の近衛師団に入っていた長男の勲(いさお)兄が面会に来てくれたのがうれしかった」
天皇直属の近衛師団というのは大日本帝国陸軍の中でもとくに名誉ある師団であった。当時2.26事件のあとでもあり、選抜も厳しく、近衛兵をしていたというのは田舎ではちょっと自慢できる軍歴だった。後に勲伯父は満期除隊したあと、実家で石屋の家業を継いでいたが、戦争が激しくなるにつれ、周りの若者が召集を受けて戦場に行くのを見て、いたたまれなくなり、再び軍に入ることを志願したという愛国者だった。

 その頃のことを五女の登代子叔母はつぎのように回想している。「にいやんは真面目で、まわりが次々戦争に行くのに、自分だけおるのがつらてつらて(つらくて)……。それで思い余って神戸の県庁まで、はよ兵隊にとってくれるように頼みに行った。」
それからしばらくして勲伯父にも再び「待望」の赤紙招集が来た。祖母は8人の子を残し早く逝ったので、祖父は長男の勲伯父を頼りにしていたはずだが、当時の国家主義教育は親に孝行するより天皇と国家に忠誠を尽くすことを求めた。教育勅語は父母に孝を説きながら、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と実際は忠を優先させた。国民は「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」と身を引き裂かれたのが現実だった。

Memo0041 淡路島出身の義勇隊員、内原訓練所にて前列右から3人目が父

 2ケ月間の訓練を終え、いよいよ渡満するときが来た。平成元年に旧満鉄二井(にせい)拓友会が発行した名簿記録によると、昭和13年5月13日、兵庫・奈良・鹿児島の半数が合流して第4大隊第20中隊を結成したとある。初め中隊長は野畑氏だったが、病気のため和気要作氏に替わり、準備を終えた6月27日9時20分内原駅を出発して東京へ向かう。
東京では松岡洋右満鉄総裁の訓示のあと宮城遥拝、明治神宮参拝をして午後6時45分一路下関へ、6月29日関釜連絡船で釜山へ、6月30日釜山から新義州へ、7月1日新義州より大陸列車で満州奉天へ、7月4日黒龍江省嫩江(ノンジャン)県嫩江訓練所に入所した。

Memo0046 一路満州へ。満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

新京陸軍病院のパン

 この前、県病へ診察に行った帰り、母が「美味しいパンを食べたいわ」といったのでローソンに寄りパンを幾つか選んで、母に見せたのだが、気に入るものがない。家にいる時、母は朝パン食だったが味にはうるさかったので、コンビニでは気に入るパンはないだろうと思っていたが、やはりダメだった。
「もっと発酵しとらなあかん」とのたまう。うどんでもコシだけあってもダメで「発酵してない、味がない」とよくおっしゃる。ヨーロッパにいたわけでもないの、今年喜寿になるばあさんが、パンぐらいでなんで難しいかというと、原点は中国にあった。

 母は昭和19年2月従軍看護婦として旧満州帝国の首都新京(現長春)に着いた。当時内地では食糧事情がかなり悪くなっていて、みそ汁の具に芋のつるがよく入っていたという。それに比べ新京陸軍病院の食事はかなりよく、甘いものなんか看護学校ではめったに食べられなかったのに、汁粉とか羊羹がいつも食べられる。それでも、三食白米だったのがそのうち週に1~2回朝食に食パンが出るようになった。これを代用食と母はよくいっていた。代用食といっても首都の陸軍病院で一流の職人が造るのでとても美味しかったという。

 パンの量は看護婦も兵隊も同じ一斤配給された。パン屋さんで一袋4枚とか5枚とかに切って売っているが、あれだけいっぺんに食べられる人は現在あまりいないだろう。母は「女性は半分でも多いので他の看護婦も皆残した。寮に持って帰って油であげておやつにしたり、お汁粉と一緒に食べた」そうだ。軍隊というのは官僚制で決まった事はいくら不合理な事でも改まらない。ソ連が参戦して新京から脱出するまで、毎度律儀に一斤配給されたという。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち②みっちゃん先生

 父の世代はほとんどが兵隊体験者で、大陸の土を踏んで、いわゆる支那本部(山海関・万里の長城より南)や満州(東北)に行ったのは、ソ連に抑留された者も含め大方帰ってきたが、南方へいったのはほとんど戦死している。大陸から帰ってきた男は中国のことをたいていシナ、支那と呼んでいた。今思えば、現在中国のことをシナ、シナと言っている右翼と違って差別や蔑視で言っているのではなく、ほとんどがごく自然にしゃべっていた。彼らにとって、支那の呼称はそう教えられたから言うのであって、その時代にあっては普通の呼び名だった。

 その点、多少戦後の教育をうけたであろう慎太郎都知事が、目をパチパチさせながらシナ、シナと言い立てている様は時代錯誤そのものだし、本人は気付いていないんだろうが、自身の軽薄さを際立てているようにみえる。いくら中国が嫌いだとはいえ、70歳をすぎた老人が小児病にかかるのは見苦しい。

 私が中学生ぐらいになると、シナとか支那人と言う人はかなり減ってきて、父より年齢が上の人でもたまにいる程度で、その一人がみっちゃん先生でチャンコロとも言っていた。先生と言っても教師ではなく、医者でもなく、農業の合間に、家相をみる人であった。そのころ風水なんて言葉はまだはやっていなかったが、田舎では家を建てる時方角や間取を気にする人は多い「便所はこの方角で、玄関はコッチ向いてなアカン」なんていわれると、合理的な考えの人は反発しても、その後病気になったり不幸ごとが続くと弱気になり、防風のため建てた塀をわざわざとりこわしたりする。コレ私の妻の実家であったことです・・・

 父は迷信やら占いを全く信じない人間であった。父によると「みっちゃんはどこで、勉強してきたんかしらんが、いつのまにか家相を観るようになって、自分はなんでも知っている大家やと・・・だれも言わんのに自分で先生、先生というようになって、いつの間にかみっちゃん先生になっていた。近くのもんは頼まんけど、遠いところからは噂を聞いてくるらしいな・・・」みっちゃんは政治好きで、父とはウマがあって町政が紛糾すると「郷ちゃんおるか!」とよく話に来ていた。

 私は高校生の時、3年間で日本一周をする目標をもっていたが、先立つお金がなく、みっちゃんの仕事のアルバイトをしていた。といっても農家の手伝いではなく、運送の助手であった。そのころみっちゃんは夏場、玉ねぎの集荷をやっていたので、夏休みの前半、雇われた。私は稼いだ金で、お盆前には日本全国あちこち旅立った。

 バイト代はハッキリ覚えていないが一日500円ぐらいだったか。大人だともっとよい賃をもらっていたが高校生という事で安かった。旅行でよく利用した、ユースホステルが一泊二食付きで550円だったので、20日働いて旅行の宿泊費ぐらいにはなった。
その頃まだマツダのオート三輪というのがあって、1.5トンぐらいの貨物で小回りがきき、田圃道を筒いっぱい走っていた。各農家の玉ねぎ小屋から板箱に詰めた玉ねぎを載せ冷蔵倉庫まで運んだ。一緒に二週間も働いていると、普段はあいさつ程度しかしない、みっちゃんとも親しくなった。

 町内でも評判の暴れん坊で、いかついオッサンだと思っていたが、私が怪我をしないように結構気もつかってくれていた。あるとき「ワシはなあ、毎日千円貯金するのが目標なんや千円千円やでえ。1年365日、毎日千円貯金する。どうや!」と運転しながら言った。どうや!といわれても、そんな金あるんだったら、もうちょっと日給上げてくれといいたかったが、気の弱い私は黙っていた「生活費を除いてこんだけ貯めたらまあまあじゃ。そう思わんか!」

 私は黙ってうなずきながら、日ごろ傍若無人なふるまいで近所の顰蹙をかっているみっちゃんが意外と小市民的なおじさんだと知った。 また一日の集荷が半分ぐらい終わって一服していたとき、部活の話になり剣道部に入っていると答えると、みっちゃんは「わしゃなあ強いんじゃ、銃剣術の先生や」と言い出した。銃剣術というのは戦前の軍隊で歩兵部隊では必須の武術で、戦闘では三八銃の先に、ごぼう剣と呼ばれる短剣を付けて突撃し、白兵戦をする。

002_2 写真集「わが聯隊」より

 みっちゃん先生は突然立ち上がり銃剣を持つかっこうに身構えた。「ヤア!」と野太い声をかけて突いた。チヂミの半そでシャツ一丁の上半身で、日焼けした女子高生の太ももほどある腕の筋肉がぴくぴくした。私はおもわず身を引いた。それで殺すんかと私は聞いた。みっちゃんはにやりと笑い「そんな事言われへんわ・・・」と答え、ボソボソ小声で「郷ちゃんにおこらえるわ。ほな、いこか」と運転席のドアに手をかけた。私は慌てて助手席に飛び乗った。

母と県病に行ってきました

 今日は母を県立淡路病院に連れて行きました。2月に県病で胃の手術をしたので退院後も引き続き見てもらっているのですが、現在はリハビリで南あわじ市の平成病院に入院しています。原則として二つの病院で病気を並行して診ることができないので、手術のあとの治療も本格的な薬の投与は出来ません。先生は抗がん剤の投与を進めているのですが、本人は気乗りせず、したがって経過をみるだけで、身体の痛みが二週間前からあったので、あとCT検査と血液検査をしました。
胸のあたりが痛むという事でCTをとったのですが、特に問題がないと先生がおっしゃり、アバラを触った時に「痛い!」と言ったのでおそらく何かの拍子に肋骨にひびが入ったのではないかとの診断で、年寄りにはよくあるとのことでしばらく様子を見ることにしました。

 午後からの診察で3時ごろ終わったのですが、昼食ぬきで病院にでかけたので母はおなかがすき、帰りにすえひろのケーキ屋さんよりました。ここのケーキは淡路島でもピカ一の味でオススメです。ケーキとアイスクリームを母の分と家族の分をわけて買いました。

003 すえひろのケーキ

 平成病院に帰り入り口前で母を降ろし、少し離れた駐車場に車をおいて戻ってくるとドア越しのエレベーターの前で母が待っています。もう二階に上がったものと思っていると、私が手に持っているケーキとアイスを母の押している歩行器のポケットに「いれろ」といいます。狭いので入れる手間が嫌で私が持っていこうとすると「私が持っていくと」聞きません。まるでダダッコのように。最近食べ物に関してこういうことが多いです。5月13日で満88歳になるのですが、しっかり者の母は「次の診察日の予約票、ちゃんと持ったか」なんて偉そうに言いながら、一方で童女のようになっていくのが、おかしくもあり、わびしくもあり、なんともいえない気分になりました。

こっさん

わがままな美女

 樋口季一郎には二人の姉がいて、次姉の名前をこすぎといった。通称こっさん、と呼ばれていたが、父の話によると、こっさんは絶世の美女で近隣ではかなり名が通っていた。年頃になると当然縁談の話は多く、早く結婚をしたのだが、生来の気の強さと、わがままがたたって、嫁いでわずか一週間ほどで戻ってきた。父親の久八はおうような人物だったので、別に気にもせず、すき放題にさせていたが、別嬪はバツ一ぐらいじゃ、傷にならない。直ぐ貰い手が現れて、いそいそと嫁いでいった。今度は半年ぐらいもったようだが姑と折り合いが悪くなり、また帰ってきた。親もバツ二ともなると心配になったが、別れても次の人が現れ、今度こそと期待をかけたが、三度めも戻ってきた。それでも美人はとくですね。すぐに求婚者が現れ4度目の結婚と相成ったがまたまたぽしゃってしまった。それでも世の中には奇特な人はいるもので、バツ四でもOKという人が現れ5度目の結婚と相成った。結局この結婚も破れそれからは生涯独身を通した。

およばれ

 昭和10年ごろの話である。季一郎は独身の姉にひと月5円仕送りしていた。叔母によると「こっさんは、樋口からお金が送られてくると、なんでも敏しゃん(父)や秀雄ちゃん(叔父)に遊びに来いと誘うんよ、うどんや、ぜんざいを作っていそいそ待っている。けど女のあたしは1回も誘われたことがない…それがくやして!くやして!」

 そのころ軍国主義の時代でなんでも男の子が1番。男尊女卑が徹底していた。この話を私は叔母が亡くなるちょっと前に聞いたが、80歳をすぎても食い物の恨みはよく覚えていて、昨日のことのように歯がゆがっていた。

石原慎太郎

 都知事よお前の現在の一番すべき仕事は都民を放射能から守る事ではないのか。なんら有効な手立てをうてず、首都圏から人は西に逃げている。都政より国政への未練がタラタラで、新党新党と叫ぶも賞味期限のすぎた老体では国民がついてこない。そこで領土問題を煽って人気を得ようとするのか。そうはいかんだろう。これって国益に名を借りた地上げではないか。領土を守るなんて美名に税金投入は許されないだろう。公有化するなら地権者は無償で提供すべきで、それでこそ愛国者ではないのか。

 それにしても情けないのは東京都民。自分達の税金が、都知事の国政への野望につかわれてもいいの?石原都知事が知事になって当初、米軍横田基地の返還なんて、大風呂敷広げてその後どうなったの?なんら実効ある政策をしたのか。

 都民が見ざる、言わざる、聞かざるでは都知事のしたい放題。マスコミは権力の手先としても、何故こんな危険なパフォーマンスをもっと批判しないのか。消費税値上げ、原発問題から目をそらすのに隣国との対立を煽る。憎悪でこちらが燃え上がれば、むこうも燃え上がり抜き差しならぬ事になる。いつか来た道で、国を守る美名で殺し合いをするのは国民。権力者は傷つかず、見ているだけだよ。 石原なんて真っ先に逃げるよ。

 戦前、台湾も朝鮮も樺太も千島も満州もみーんな日本のものだった。けど戦争に敗れすべて失った。たまたま米軍が沖縄を占領していたため尖閣は残ったように見えるけど、あそこに米軍の射爆場があるところを見ると、完全に日本のものじゃないよ。まずアメリカから取り返すことが先ではないか?

大博打元も子もなくスッテンテン(甘粕正彦)

留用された日本人「母の場合」12食べ物あれこれ

ロバの粉挽き

 母から聞いた中国体験は生活全般で中でも食べ物の話しが一番多い。豆腐屋さんにいくと、大豆を石臼でロバがひいていた。

Memo0037 これは小麦粉の工場のようです。

 「作りたての豆腐の美味しい事」「絞りたての豆乳も最高よ」「腐り豆腐があればご飯が何杯でも食べられる」

Memo0039 なぜか?ハリボテのろば。

 「中国で塩は山の中にある。場所は忘れたが岩塩をとりに行った事がある。味が全然違う」「敗戦後ピョンヤンまで逃げてきた時、朝鮮人の家庭で食べた朝鮮漬(キムチ)美味しかったわ。軒先に1年分の白菜漬けをしこんだカメが埋めてあった。それだけでご飯がなんぼでもおかわりできる」

 国共内戦の時代である。戦争をやっているとは思われないような話だったが、食べ物自体は取り立てて贅沢なものではない。ごくありふれた、現代日本でも普通に食べているものである。毒入り餃子事件で中国製の食品は一挙に評判を落としてしまったが、昔母が話していた中国の食べ物から危ない事は想像することができない。(今は放射能汚染で日本が一番危険になってしまった)

 冷凍食品もなく缶詰(高級品)もなく、食事はたべるときに手間をかけて作るのが常識である。国共内戦で行軍中は大きな鍋や食器を持ち歩き農家でかまどやコンロを借り、豆炭で火をおこし食事を作る。

 軍隊では戦争をしているので、とうぜん遅れて食べに来る者もいるが、なんぼ遅くなっても炊事係は残り物なんか出さず一から暖かい食事を作っていたという。

 「食事だけは腹いっぱい食べさせてくれたわ」内戦中は母にとって、食べる事が唯一の楽しみであったようだ。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち①ハゲチャビン

 昭和30年代半ばまで、我が家族は父の実家の離れにある6畳一間に居候していた。そのころ、しょっちゅう父の飲み友達がやってきて、酒盛りをしていたが、その中の常連客で、私と一つ違いの妹がハゲチャビンとよんでいた男がいた。俳優の殿山 泰司の毒気を抜いて、少し目をほそくした顔立ちで、か細い声でボソボソ喋るおとなしそうな人だった。年齢が父より少し上でそのときの私の感じでは50歳近くに見えた。ハゲチャビンは他のヨッパライたちと違って酒を飲むより父と中国の話をするのが楽しみで来ているようだった。

 妹はこの男が嫌いで嫌いで、声をかけられても、あからさまに嫌な顔をしていた。男が帰ると「あのハゲチャビン、ねちゃこいわ!ほんすかん!二度と来るな!」とののしった。「ねちゃこい」とは淡路島の方言でいやらしい、すけべえ、なよっとしたおネエ風、しつこい、というような意味がふくまれ、おもに男に対しつかわれる形容詞だが、たまに女性にもいうことがある。

 父に言わせるとこのハゲチャビン歌に詳しく、テレビの歌謡番組なんか一緒に見ていると、この歌い手は下手だとか上手いとかよく評論をした。ときに「この歌は朝鮮系のメロディーや」などと専門的な薀蓄もこいた。

 私が高校生になってもこのハゲチャビンは我が家に出入りをしていた。あるときひとしきり父と中国の話をしていて途中、ちょっと離れたところにいる、私と妹をチラチラ気にしながらも、目をそらし放心したように「あん時のクーニャンの肌は白かったなあ・・・」などとぬかした。その前に父とどんな話をしていたか聞こえなかったが、「クーニャンの肌は白かった・・・」というところが、高校生の私にはやけになまめかしく聞こえ、多分妹も聞いていた。

 ハゲチャビンが帰ったあと、妹がいつもにもまして怒り狂ったのは言うまでもない。

大礼服

 本日早稲田大学川口芸術学校で映画を学んでいる、志賀成将君他三名が樋口季一郎の映画を卒業制作するため淡路島に来られました。このことは先日季一郎の孫である隆一さんからメールで知らされていたので、なにか絵になるものをと、季一郎ゆかりの家、阿万家に行き陸軍少将時代の礼装を倉庫から出してもらいました、なんでこんなものが、阿万家にあるかというと、季一郎の母まつは阿万家が実家で、父久八と離婚した後阿万家に戻ったので子供の頃季一郎は。学校の帰りなど母のもとによく遊びにいった。実家の祖母も季一郎を不憫に思い、ことのほか可愛がった。この頃実家が破産状態になり両親も離婚して不遇なおさない季一郎にとって阿万家は唯一心温まるばしょであった。

 戦後季一郎が、長男季隆氏の勤務の関係で、大阪豊中に住んでいたころ、私の父や伯母たちがちょくちょく遊びに行っていた。昭和45年ごろ季隆氏が東京に転勤になるとき、季一郎は私の父にこの軍服を阿万家で保管するよう託した。父は「おじさんは、自分の故郷への思いを、お礼もかねて世話になった阿万家に残したかったのではないか・・・」と言っていた。

Img_0178

帝国陸軍少将の大礼服

Img_0191

羽飾りと肩章だけやっとつけました。

Img_0192

バンドなんかどんな風につけるか分かりません。

とりあえず一式出しました。不心得物の私の妻はお宝鑑定団

に出せばかなりすると、言いましたが・・・

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