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2012年5月

上海の煙草売りの少年

Memo0123 昭和7年ごろの上海バンド 写真集「昭和7年上海事変」より
刑務所前のタバコ売り 
 引揚げ船がでるのを待っている間、父はヒマをもてあまして毎日市中を散歩していた。いつも通るコースの途中に刑務所があって、その前で10歳そこそこの少年が数人、りんご箱のようなものを台にして出店を開き煙草を売っていた。何故刑務所の前で煙草を売っているのかといえば、父の説明ではこうだ。

 「刑務所から出所する人間を相手に売っているわけだが、箱売りではなくバラで1本から売っている。仮に20本入の箱が標準価格200円で1本当たり10円とすれば、ここで1本だけ買うと20~30円ぐらい取られる。非常に利幅が大きい。どうしてこんな商売が出来るかというと、当時の男はほとんどが煙草中毒だ。刑務所から出てきたばかりの人間はあんまり金を持ってない。刑務所内では禁煙なので、出てくる頃は、禁断症状になっている。久しぶりのショバに出て、煙草を見るとすいたくて、すいたくてたまらない。とにかく最初の1本が欲しい。そこが少年たちの付け目で、1箱買う金は無くても、なんとか1本ぐらいは買える。かくて出所祝いに皆一服吸うことになる」
これが結構はやっていると言う。革命直後で治安が悪く、元日本兵で悪事を働く人間も多いのか刑務所内は満杯で出入りが激しい。こういう商売だと資本が無くても直ぐ始められる。父は商売の着眼点が見事なのに感心した。 

朝鮮戦争特需
 当時の中国は共産党を中心とする革命政権が樹立してまだ4年、人民元への幣制統一も道半ばだった。台湾に逃れた国民党政府の法幣を始めさまざまな貨幣が流通していた。父が知っているだけでも人民元、法幣、汪兆銘南京政府の儲備券(ちょびけん)、八路軍の軍票、ソ連軍の軍票、日本軍の軍票、日本円、地方軍閥の通貨など多種類の紙幣があって、それぞれ値打ちが違い、毎日変動する。

 「子供達はどんな種類のお金を受け取っても、瞬時に為替計算をしてお釣りを渡している。そろばんも持っていないし、全部暗算で、てきぱき商売をしている。あれには驚いた。まだ10歳そこそこの子供が大したものだった」
ある日父はいつものように、散歩の途中で刑務所前の少年達の商売を眺めていた。その時少年達はいつもとは違って興奮した様子でしゃべくりあっていた。耳を澄ますと「円を貯めておいてよかった」とはしゃいでいる。

 1945年8月15日、戦争に日本が負けて円の値打ちが一気に下落したがそれでもほそぼそと流通はしていた。刑務所から釈放された人間が、円で支払った煙草代を少年たちはしこたま貯め込んでいたようだ。革命後、人民中国で円はほとんど値打ちが無くなったと思われていた。ところが朝鮮動乱が始まると日本はアメリカ軍の兵站基地となり特需景気に沸いた。吉田茂首相はこれを「天佑である」喜んだ。休戦協定が結ばれる頃には日本経済は息を吹き返し、円がドンドン上がりだした。
”風が吹くと桶屋が儲かる”ではないが、朝鮮の人々が塗炭の苦しみに喘いでいるとき時、敗戦国で旧宗主国の日本は復興するきっかけをつかみ、為替とは縁の無いような、上海の煙草売りの少年達が、大儲けした。
戦争は当事者でなければ、結構なものだと、日本人はこの時刷り込まれたのかどうかよくわからないが、その後ベトナム戦争でも特需を経験した。

「そりゃあ嬉しそうに…あの子達の笑顔は忘れられんなあ。日本は原爆を落とされ、焼け野原になったと聞いて心配していたが、これで大丈夫だと安心した」父は十数年ぶりに帰国する故国に思いを馳せた。

無農薬玉ねぎ

 淡路島ではもう直ぐ玉ねぎの取入れが最盛期に入る。うちの周りは田んぼだらけで、この時期はレタスが終わり、玉ねぎの葉っぱが青々としている、4月ごろから「早生」の収穫が始まっているが、まだまだ少なく6月になると一番多い「なかて」が始まる。
稲は実が黄金色になり収穫の時期が誰でも分かるが玉ねぎはどこで見分けるのだろうか。実は土の中で外からはわからない。引っこ抜いても色艶で見分けられないし、大きさも個体差が在るので熟成を判断できない。じつ(実)は葉が倒れて判断するのだ「もうそろそろ熟して美味しいわよ、あま~いあたしを食べて」としなっと身を崩す。そこから約10日ぐらいで収穫が始まるが本当は完熟するまで1ヵ月ぐらい待ったほうが美味しくなる。
Memo0116 左側の玉ねぎは葉が倒れて熟し始めているのが分かる。右側の玉ねぎの葉は植えるのが遅かったため、まだ立っている。
無農薬玉葱

 私が子供の頃、父の実家が耕していた田んぼを一反ばかり食い扶持に借りて、米を作っていたことがある。その頃の農業は機械化されてなく、人と牛の力で全てをやっていた。田んぼを耕すのは牛の役目で、大きな鋤を後ろに取り付け引っ張る。70代の祖父が器用に手綱をひき「ボウボウ!」と田の中で牛を追っていた。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、父が鍬を担いで働いているのを見た記憶が無い。
 昭和30年代、淡路島南部の農家では裏作に麦を作っていたところが多かったが、あまりに安い価格に耐えかね(貧乏人は麦を食えといわれた時代)玉葱作りに転換していった。 「これからは玉葱じゃ。麦なんか作るよりよっぽど儲かる」と機を見るに敏な父も苗を買ってきて植えだした。
このとき、私と妹も一緒に手伝ったので良く覚えているが、母によると、「玉葱なんか一度も作ったことが無いのに思いつきで植えた」という。苗は植えたものの後の手入れが大変だ。12月頃植えて春までほっといていたが、暖かくなると雑草が次々生えてくる。除草剤をやればいいのに、母がさんざん言っても父はやる気が無く、日曜日には私と妹に草取りをして来いと責任を押し付ける。子供の私たちは一応ヘラをもって田んぼに行く。2時間ばかりいやいや草を引くが、父がどこかに行ったのを見計らって帰る。
農家の人には常識だが、農薬なしに作物を作るのは至難の業であることを、この時私は知った。農業で必須の草取りほど地味で根気の要る作業はない。こんなしんどい仕事、親がしないのに子供はするわけが無いのだ。誰も行かなくなった無農薬の田んぼには雑草だけがスクスク育った。
 いよいよ収穫の6月頃には田んぼ全体が雑草に覆われ、何を栽培しているのか、わからなくなっていた。哀れなのは玉葱さんである。雑草をかき分け引いてみると養分を吸い取られた、ラッキョウみたいなのがぐったりして出てきた。我が家の玉葱作りはそれで沙汰止みとなった。

円と元

Photo
気前のよい父 
 前回「揚子江の海賊」の中で鴻池議員の父親に服を買うお金を30万エンあげたと書いたが、これは日本円ではなく中国通貨の人民元である。日本語の発音ではゲンだが中国語の発音ではユエンになる。ここが誤解されやすいところで、日本人が聞くとエンもユエンも同じように聞こえる。父は中国から引揚げて何十年もたち、円も元もごっちゃになっていたのだ。

 引揚者の体験談で、エンとユエンが間違いやすい事に気がついたのは、昨年母と上海で引揚げ船に乗った話をしている時だった。
父は上海で知り合った引揚者がお金に困っていると、気前よく何十万もあげていたみたいで、父自身も生前「湯浅というバッテリーの会社をやっている人にも何十万エンあげた」とか鴻池議員の父親の他何人もの名前を出していたからだ。母の記憶では「赤ん坊を背負った顔色の悪い病弱な女の人にもあげてたみたいだ」と言う。
母にその時いくらぐらい持っていたのか聞くと「一人500万エンぐらいで二人で1000万エン持っていた」という。「エッ!大金持ちだったのだ」と私は驚くと母は1000万元(ユエン)やと訂正した。私の両親と同じ経験を持つ古山秀男の下記の証言でも帰国時に数百万円支給されている。この本が発行された1974年を比較しても建国当初の中国はかなりのインフレで、元の値打ちが低かった。

保定の近くの農村で、一ヵ月近くも帰国準備のため滞在したが、このときの中国側の接待ぶりは最高のものだった。今までだと、祝祭日などにしか食べられないようなご馳走を毎日ふるまってくれた。建国まもない、しかも朝鮮戦争で莫大な負担を強いられて、中国人民全体が経済的にまだ非常に困難な時期においてである、加えて、解放軍従軍期間に比例した退職金と帰国援助金など数百万元(一万元が現行人民幣の一元にあたる)が支給された。
1974年発行 古山秀男著 「一日本人の八路軍従軍物語」より

 私が子供の頃、母は中国では給料がよかったと自慢していた。
父(獣医)と母(看護士)は技術者で一般の兵士より、よい給料をもらっていたみたいだ。日本人だからよかったのではなく、中国人も日本人も平等だった。正確には忘れたが、十万の単位だったのは覚えている。昭和30年代の中ごろだと役場の職員でも何千円だったのでビックリした。もちろん私は為替の知識なんかまったくないころで、両親も子供に説明するのは面倒だったのかそれ以上話さない。そんなわけで父はお金に関しては一生縁が無かったが、帰国前のこの時期が例外的に金持ちだった。
それでは日本に帰った時どの位の為替レートで円に交換できたのだろうか。
Memo0086
 昭和28年の北京の食堂のメニューから計算すると1円が66.5元でかなり円高になる。そのころ日本と中共政権は敵対していたので、無制限に交換できたかどうかはよく分からないが、全部円に交換できたとしたら、帰国後の生活の足しにはなったはずだが、そのあたり母も記憶が定かではない。

貧乏人は芋を食う
 幼い私は両親が中国でのよい給料を棒に振って日本に帰ってきたのが納得いかなかった。当時家は貧乏(今も!)で本家の離れの六畳一間に長い間住んでいたが、こんな事があった。
ある年の9月ごろ米がなくなり、お金も底をついた。そのころ養鶏をしていて、さつま芋を刻んで鶏のえさにしていた。父は楽天的でしかも能天気な男だったので意に介せず、祖父から一反の食い扶持を与えられていた事もあって「もうじき稲刈りやし、いもでも食べよか、量はたっぷりある」という。 確かにたっぷりあった。10貫目入り(約40キロ)ぐらいの南京袋が五つか六つあった。それからは毎日毎日三度三度さつま芋をたべだした。七輪で焼いたり。ゆでたり、焼き芋にしたり、天ぷらにしたりで最初の頃は嬉しかった。それまで倉庫にあるさつま芋を食べたかったのだが、卵を産んでいただく大切な鶏にやるえさで禁止されていたのだ。それが突然解禁になったので「ヤッタ!」と思った。
しかし料理を工夫しても3日目ぐらいになると飽きてきて、食が進まなくなる。1ヵ月ぐらい食べていた記憶があるが、数年前母にそんな昔話をしたら「1週間ぐらいだろう」という「飽きてしまったので本家に米を借りたのではないか」と他人事のようにのたまう。昭和30年代前半は岸信介首相の時代で池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」といったのはもう少し後だったが、我が家はその言葉を先取りして芋を食っていた。それ以来私はさつま芋が苦手になった。
 

昭和28年の「時事世界」


Memo0095 中共残留邦人引揚船「高砂丸の待機」 「時事世界」昭和28年3月号 

 以前ヤフーオークションで手に入れた昭和28年発行のグラビア雑誌「時事世界」12冊をあらためて見ている。私達家族が中国から引揚げてきたときの記事がたくさんあるかもしれないと思い落札したのだが、引揚げ関係の記事は3月号と5月号に載っている、合計わずか3ページにすぎない。
セリ落とした時は期待が大きかっただけにショックだった。母に聞いたところ、この年の中国からの帰国者は、集団引揚げとしては最後から二番目で3万人ぐらいあり、国共内戦で行方不明だった者が大勢帰国したという。私の祖父もラジオの安否放送で父が無事である事を知り舞鶴まで迎えに来た。

終戦以来八年間、中共に抑留されていた同胞三万余名は、此のたび中共政府の好意に依り、日本に帰ることを許され、”興安丸””高砂丸”其他の客船が、それらの人々を満載して続々内地に引揚げた。写真は三月二十八日第一船 興安丸から舞鶴港に上陸した喜びの引揚者たちで、あまりの嬉しさに何も彼も夢心地、所要の手続きや身の上相談なども終わり、待ちに待った家族達との再会に胸ふるはせ、かくて一夜をぐっすり眠って元気を恢復した人々は、麗かな春陽を浴びて、市内散歩するなど至るところに和やかな情景を展開した。   時事世界昭和28年5月号より
Memo0078_2
「時事世界」昭和28年5月号。

 この写真雑誌は世界のニュースの中からスポーツ・芸能ネタ、面白ネタ、不思議ネタなどを中心に時事関係なども折りこみ構成している。当時としては「限界」のセミヌード写真も多く載っている。
Memo0083 立太子礼 「時事世界」昭和28年新年号より
圧倒的に多い記事は皇室関係で、1月号は明仁皇太子の立太子礼が折りこみカラーグラビアなど10数ページに渡って特集されている。
Memo0081 皇太子の欧州出発 「時事世界」昭和28年5月号
Memo0098 戴冠式の皇太子 前列左から4番目、ネパール皇太子妃の隣 「時事世界」昭和28年7月号
ほとんどの号が皇室特集と言ってよく、5月の英国女王の戴冠式にあわせてアメリカ、欧州の行く先々を追っかけ取材している。昭和20年の敗戦からまだ8年、日本の体制は戦前からほとんど変わっていないことを認識した。
Memo0097 アイドルのように可愛いエリザベス女王とエジンバラ公 「時事世界」昭和28年7月号

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち⑤揚子江の海賊

 20数年前のこと、父が取引先の息子の結婚式に出席した。そこは民宿兼料理屋をやっていて父は女将と昵懇で招待されていた。帰ってくるなり「こんなことがあるもんやなあ」と少し興奮ぎみに話し始めた。
Memo0105 昭和7年5月5日発行上海事変記念写真帳より
招待所
 1953年8月上海港から私達家族が乗る帰国船がでることになった。中国各地から日本人留用者が続々と集まってきた。広い中国のことでもあり、全員が集結するには日数がかかる。
 船が出航するまで、しばらく宿泊していたのが、招待所と呼ばれる施設だった。招待所という名前は父から聞いて初めて知った。母に確認のため名前を尋ねても覚えていないという。校舎や軍隊の宿舎のようなところで、一部屋に大勢の人が寝泊りしていたという。父の説明では、人民解放軍で国民党と戦っている時、ある作戦が終了すると兵士が休養する施設に入った。戦闘中は休日なんてないので、終わってから、ゆっくり休暇が取れる。面白いことに、兵士が今の部隊を気に入らなければ、休養してから自分の行きたい部署を選べるというのだ。例えば飛行機乗りになりたいので空軍(当時人民解放軍は空軍がなかった)に行きたいとか、馬の輸送部隊に入りたいとか、希望しても定員が空いてなければいつまでも招待所でぶらぶらしている事ができる。もちろん能力や適性があり簡単ではないので、普通一ヶ月も休めば、妥協して適当なところに行くのだが、父が休養した招待所には1年も2年も理由をつけて遊んでいる剛の者がいたという。このことから招待所というのは、名前から想像される優雅ななゲストハウスではなく、簡易な木賃宿程度の公的団体宿泊所だといえる。

ボロをまとった貴公子
 その招待所で私達は船が出航するの待っていた。父は何もすることがなく、毎日港近くを散歩していたが、ある時街角で一人の日本人と出合った。
「その男はボロボロの薄汚れた服を着ていたが、貴公子!だった」
意味がよくわからなく私はもう一度聞き返した。
父は「貴公子」「貴公子」と真剣に同じ言葉を繰り返した。
「名前が鴻池と言ったので、財閥の御曹司かと思ったがあまりにも汚いカッコなので事情を聞くと、たった今刑務所から出てきたばかりだ」という。
「敗戦後、食い詰めて揚子江で海賊をやっていたところ公安に捕まり刑務所に入れられていた。帰国船が出るというので、出してくれた。お金も一銭もないので途方にくれていた。それで貴公子が乞食ではかわいそうなので、服を買うお金を30万エンぐらいあげた」
財閥の御曹司ではなかったが馬子にも衣装?、本物の貴公子のようになり、無事引揚げ船に乗ることが出来た。

 話を結婚式に戻すと父の席の隣が当時の兵庫二区選出の鴻池祥肇代議士(現参議院議員)だった。政治好きで町会議員などもしたことがある民宿の女将が鴻池議員の熱心な後援者で、結婚式に招待していた。
隣同士しばらく酒を酌み交わすうち、名前から昔の上海で、出会った貴公子を思い出した。同じ鴻池で、年齢が父より少し上で、ひょっとして関係あるのかと鴻池議員に尋ねた。海賊や刑務所の話をしたかどうか分からないが・・・
「戦前、鴻池議員の親父も中国にいたことがあり、そのころ日本に戻ってきたから間違いがないだろうといっていた」と父は確認するように2~3度うなずき、なつかしそうに微笑んだ。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち④日の丸組

高砂丸

Memo0105 毎日新聞社発行「写真集・在外邦人引揚の記録」より
 

私達家族は1953年8月、日本に帰国した。上海から高砂丸にのり13日ごろ舞鶴に着いた。高砂丸という名前は物心付いた時から母からよく聞かされていた船の名前だ。「かずちゃんは船の後ろにいって身を乗り出しスクリューからでる泡や船の航跡を見るのが好きだった。私はいつもヒヤヒヤしていた」当時1歳7ヶ月の幼児だった私はそういう記憶がかすかに残っている。
父が亡くなってから、中国の体験を聞けるのは母だけになってしまい、折に触れ尋ねようとするのだが、よる年波に記憶が薄れて、高砂丸はどの位の大きさで何人ぐらいのってきたのか?なんて基本的なことも忘れている。「そんな事ゆうたって、すみちゃん(妹)はまだ赤ちゃんやし、かずちゃんもヨチヨチで危ないのに、二人の子供につきっきりで、周りのことなんておぼえてないわ!」こういわれると「ごもっともな話です」と引きさがざるをえない。昔は子供を育てるのは母親の仕事で、父親は子供を抱っこさえしなかった。私の父もそんなタイプで、母が必死でわが子の安全を守っているのを尻目に、船室の一角で酒盛りをやっていた。

日の丸組
Memo0101 引揚げ準備のため高砂丸の三等船室の掃除をしている 「時事世界」昭和28年3月号 
 父に聞いた話では、私達家族が高砂丸の三等船室におりてゆくと部屋の片隅でワイワイ酒を飲んでいる集団がいた。その中の一人が父の顔を見て「おお!郷さんと違うんか、ひさしぶりやのう、よう生きとった。よかった、よかった」と声をかけてきた。「そいつはワシが義勇軍時代に入っていた右翼団体の仲間で顔見知りだった」という。「まあこっちへきて一杯やらんかと誘われたんで昔のよしみでよばれることにした。壁にはどこから探してきたのか薄汚れた日の丸が貼り付けてある。ワシらは日の丸組だ戦争に負けても大和魂は残っていると、ブイブイ騒いでいた」
「話をしていると彼らはパーロ(八路軍)に反抗して捕まり刑務所に入れられていたらしい。日本に帰る船が出るので、この際ややこしい者もみな返してしまえ、となって釈放されたみたいだ」

 父は関東軍に徴兵されるまで大日本青年党(後に大日本赤誠会)という橋本欣五郎が結成したナチスまがいの国粋団体に入っていた。義勇軍の生みの親といわれた、加藤完治の農本主義に共鳴して満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州までやってきた。縁あって人民解放軍(八路軍)に入り、国共内戦を戦い抜いてきたが、共産主義の思想的な影響は全くなく、日本人の政治委員から反動分子と呼ばれていた。

帰国幹事
 高砂丸には「八路軍の制服を着た日本人の帰国幹事というのがおって、引揚者の世話をしていた」と言う。
日の丸組から見れば敵に寝返った国賊で、とんでもない連中だ。
「日の丸組の連中はなにやら企てていた。3カイリを過ぎたら奴らを海に放り込んでやるといきまいている。引き揚げ船が出航すると、中国のポンポン船が見送りにあとをついてきた。そのころ領海は3カイリだったのでそこまで来ると見送りの小船は帰って行く」
帰るのを見計らって帰国幹事を海に放り投げる算段だった。
「コリャサー!と思って」
父は必死に日の丸組の連中を説得した。
「苦労してやっと帰れるようになったのに、思想が違ったからといって無茶をするな!同じ日本人やないか!みんな家族がまってるぞ。一緒に帰ろ!」
説得のかいがあって不埒な計画はやまった。父は八路軍の日本人政治委員にはよい感情を抱いていなかった。戦後8年たっても皇国思想は抜けていない。心情的には右翼たちと同じ立場だが、かれらのあまりにも傍若無人なやり方に我慢ならなかった。父は普段の言動はいつも過激だが、いざ行動となると情が勝つ。関東軍の初年兵の時に命令された中国人を的にした刺殺訓練のときも拒否をした。
引揚者の記録などを見ていると、日の丸組によって実際ほうり投げられ海の藻屑となった者もいる。この時の帰国幹事は父が居合わせて幸運だった。さまざまなドラマを乗せ高砂丸は一路舞鶴へ進む。

死化粧

 母が5月23日、退院することになりひとまずホッとしている。1月、県病に入院して胃の手術したときはもうだめかと思ったが、2月から平成病院に転院して回復のためのリハビリを続けた結果、杖を使っての歩行ができるようになり、4ヶ月ぶりで家に帰れることになった。
最近は少し余裕が出てきたのか、「若いとき一度は死にかけた身やから・・・ようこの歳までいきてきたなあ」なんていいながら、ヒアルロン酸入りの化粧水をせっせと顔にすりこんでいる。「あのときは、死化粧までしてもらって」と昔の話をし始めた。

 昭和20年8月、敗戦後母はソ連の延吉収容所に入れられた。冬場に入り栄養不足と寒さで発疹チフスが蔓延した。毎日毎日何十人もの日本人捕虜が死んでいった。捕虜の身だった看護婦も総動員で患者の看護をしていたがついに母もかかり脳症をおこし二週間高熱にうなされ二日間意識不明におちいった。
「もう皆ダメと思って。こんな若いみそらで死んでかわいそうと思ったのか同僚の看護婦が死化粧をしてくれた」という。
私はそんな地獄の収容所で、化粧品などあるのが不思議で、尋ねると
「それが持ってたんよ、救護班一番の美人でおしゃれの娘が、エエモンみせたげようと目を覚ました私に手鏡をちかづけみせてくれた」と母はいいながら小さなコンパクトを顔に近づけ、またヒアルロン酸いりの化粧水を手に付けパタパタはじめた。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち③坂本先生

 私が高校生だった1960年代の後半、通っていた高校に保健体育を教え、バレー部の顧問をしていた教師がいた。坂本先生といって50代の半ばぐらいで中背痩身、色浅黒く、前が禿頭、体操教師らしく引き締まった体つきだが腰をちょっと後ろに出して歩く姿は歳相応の中年男だった。そのワイルドな風貌から、キツイという評判で男子生徒から恐れられていた。

 3年になって間もない頃、体育の先生が出張になり授業は自習となった。私のクラスは就職コースだった。当時の就職状況は高度成長期でもあり、売り手市場で3年になっても生徒は緊張感のない学園生活を送っていた。体育の自習なんていうのは男子生徒にとって休憩時間も同然で、私は授業のチャイムがなってから教室に入るとクラスメートの上田君があわてて体操服に着替えている。
上田君は声を低くして「今日は代わりに坂本がくるらしい、アイツなあ戦争中は将校しとって、中国でようけ首きりやっとったらしいで、日本刀でバサバサ切っとったらしい。気いつけえよ!」というなり脱兎のごとく教室を飛び出した。私はそれまで坂本先生には受け持ってもらった事はなく、クラブも関係なかったので、先生の凶暴な性格を知らなかったが、不安になり急いでグランドにむかった。みんな集まっていて、私が最後のようだ。
坂本先生は、私達を自転車置き場のほうへ行くよう命令した。そこからは、女子生徒にみえない配慮か。

 悪がきどもは戦々恐々、グランドから少し離れた自転車置き場近くに整列した。坂本先生は私達が並ぶやいなや「おまえらあ~~~」と獅子吼した。早口ではじめ何を言っているのかわからなく、刀でなんとか首をどうのこうの言っている。先ほど上田君の予習を聞いていた私は、これがそうかとすぐ納得したのだが、説教というより、病気の発作が出たのかと思うほど異様な興奮状態だった。浅黒い顔が、七面鳥のごとく、赤くなり、青くなり、汗がたらたら、握りこぶしをふりあげ、おろした腕がぶるぶる震えて、それを見つめる目は、哀愁をおびていた・・・ように私は記憶している。けっして自慢ではなく怒りでもなくもちろん喜びでもない。反省まではいかないが、後悔を含んだ哀しみといったらいいのか、私の貧しい語彙では言い表せない表情だった。
坂本先生は「わしらの時代は戦争で人殺しをやって散々苦労していたのに、平和な時代のおまえらは、だらけやがってたるんどる、気合を入れたる」と怒ったのだろうが、そのあからさまなパフォーマンスに私は心の中では反発していた。しかし悪がきどもも含めて男子生徒の誰も下を向いてシュンとしている。この時代の教師というのはまだまだ権威があって、とくに体育会系の教師は生徒に恐れられていた。
説教は終わりグランドから女子生徒の黄色い声が聞こえてきた。空は真っ青な五月晴れだった。

 あれから40年以上たっても、この出来事は私の脳裏から離れない。一度だけの授業でこれほどのインパクトを与えてくれた先生はほかにいない。地味な私の高校生活のなかでも特筆する出来事だった。恐らく一生忘れないだろう。
程度の低い政治家が南京大虐殺はなかったなんて、暴言を吐くたび思い出される。ひょっとして坂本先生は日教組の活動家で私達に侵略戦争の残虐さを身体を張って教えてくれたのだろうか。

樋口季一郎の合理主義

003 4月2日阿万家にて006 4月2日阿万家にて

温度計を買って来

 志賀成将君一行が来島したとき、阿万家に行き、従兄弟の、のりちゃんと樋口季一郎が淡路に来た時の思い出話をした。私は当時中学二年生で、のりちゃんは10歳年上なので二十代前半の若者だった。
のりちゃんは、初めて会った時「樋口は、いきなり手を差し出し、握手をしてきた」のでビックリしたという。握手というのは西洋では普通の挨拶に過ぎないが、日本では一般的にしない、政治家が選挙の時はやたらしまくるが、投票が終わるとまったくしなくなる。第一日本人は初対面の人の身体に触るということをしない。お辞儀をするのがふつうである。昔テレビのニュースで、ソ連のブレジネフ書記長が外国の要人と会うとき握手どころか、いきなりむんずと抱き合い大胆にもブチューとホッペタにキスをするのでビックリした事がある。国家を背負った西洋人の挨拶って格闘技のようにすごい。

 のりちゃんは樋口に「世話係を命ずる」とか言われ、ふとんをしいたり、お茶を持っていったり、お風呂を沸かしたり、大忙し。湯加減は特にうるさく、よくかき混ぜて、上下均一にして温度計で40度か41度ぐらいに沸かさないといけない「命ずるなんて言いやがって、この爺さんはよ帰れと思っていた」のりちゃんは昨日のことのようにまくしたて、そのあと悪戯っぽく笑った。
樋口と温度計と風呂は切ってもきれない、淡路の親戚ならみんな知っているエピソードで、おば達もよく話していた。
「お風呂の湯かげん、ぬるかったらゆうてな」と声をかけると、樋口は「そんな無駄なことしないで温度計ではかりなさい!」という。温度計など用意していなかったので、早速買いにいったそうだ。樋口に言わせると「ゆかげん」なんて一人ひとり皆違って「いいかげん」と言う。温度計は科学的で、客観的で、誰が見ても間違いがないと言う。 

敬天低温
 
樋口が金沢の第九師団長であった、昭和15年10月、満州牡丹江に移駐した。ある冬、ソ満国境に派出されていた一小隊を視察した。司令官の来訪を喜んだ隊員たちは雪を溶かして風呂を用意してくれたという。

私はこの時、好奇心を抱き、雪と水を比較したのである。そのため飯盒二個を持ち来たらしめ、飯盒一杯に強く(この強くが非科学的で、雪質も非科学的だが)雪を詰め飯盒一杯の水を得るに何杯の雪を要するかを検したのであった。しかして得た答えは、十二杯ということであった。さすれば、私のための風呂水のためその風呂桶の八杯分位の雪を溶かしたことになるであろう。
ー中略ーその夜午前二時となるも私の下体、冷却して眠に入ることができない。私の従兵は、(私は従兵永倉兵長を今に忘れることができない)それを憂え、同僚兵士の水筒四、五個に熱湯をつめ私の腰、脚、足を温めてくれるが、それだけの効果がないのである。それもそのはず、私共の身体下位における空気温度は、依然零下十度内外であった。それでも疲れたる、また生活力旺盛なる兵士は、白川夜船の快眠をとっているのである。当時私はまだ若いと自認していたのであるが、やはり師団第一の老兵であったのであり、老兵に対し、「寒兵」は最大の強敵であったのである。    陸軍中将樋口季一郎回想録より

 樋口は旧軍人に特有な精神主義的なところはほとんどなく、書いた文章を見ていると科学的とか学理とか学者が使うような言葉が随所に出てくる。自然科学に興味を示し、実際上疑問に思ったことは実験をして確かめる。対ソ戦の専門家として、戦術・戦略のみならず、ロシア人の生活を研究してその驚異的な耐寒能力を認め、ドイツが負けたのはヒトラーやその幕僚が自分ほどの寒地体験をもたなかったからだと断ずる。従って満州を舞台とする日ソ戦は春に始まり秋に終わるべきであり軍の配兵はその条件で考えるべきであったと言う。

もしそれ零下三、四十度において野外演習を行うことを想像せよ。またそこでの野営を考えても見よ。さらにそのような温度において秒速数十メートルの強風(零下二十度以下においては、秒速一メートル毎に温度一度低下すると考えてもよいとされる。これはやや非科学的であるが、ひとつの重要なる常識である)を思うがよい。それは真に、「殺人」以外の何ものでもないのであり、「元気」、「勇気」などその価値零に等しいのである。ロシア人は寒気を恐れる。零下二十度以下の寒さにおいては、この家より筋向こうの家へ行くにも防寒帽を被ることを忘れない。これを私は「敬天」と称したのである。 陸軍中将樋口季一郎回想録より     

 このような科学的思考に裏づけられた合理主義が、キスカ撤退時に海軍の強い要求で迷っていた携行銃の放棄を決断して、すばやい撤収を行い作戦を成功に導いた。「陛下にお預かりした銃を海に投棄するなど何事」と後で参謀本部から責任追及の声が上がったが「私はこの件に関しては、生存人員を北方の守備に用うることをより価値ありと信じ決心したものである」とモノより人を優先し、無駄な人員の消耗はせず今後の防衛に用いるとの判断は正当であると動じなかった。

 私やのりちゃんが樋口に会ったのは、祖父の葬式の時で、七十代後半ぐらいだったが、まだかくしゃくとしていた。科学的な合理主義は顕在だった。この頃より数年後サーモの付いたガス風呂や電気温水器が普及し始め、いまや風呂の温度はマイコンで制御され「湯加減」という言葉は死語になってしまった。現在のコンピュター時代、温度計で測る事さえ人間は不要になったがこれは本当の進歩であるのか、合理主義者樋口季一郎は是とするか、聞いてみたいところだ。

父の15年戦争10.厳寒地のバトル

この記事は2006年7月23日JANJAN に掲載されたのを一部加筆、訂正、写真の入れ替えなどしております。

 満州の冬は厳しく、父は夜になると戸外では零下50度ぐらいまで下がるとか、室内では零下20度とか言っていた。とにかくオンドル(朝鮮式の床暖房)が欠陥で利かないらしい。

屯墾病

 屯墾病とはホームシックとノイローゼが同時に来たような病気で、初めて大陸にやってきた義勇軍の少年達を悩ませた。14~15歳の少年といえば、親には反発しつつもまだまだ母親に甘えたい年頃だ。あまり深い考えもなく、政府のロマンチシズムをくすぐる大宣伝にのせられ遠い満州に来たものの、思っていた以上の厳しい生活に隊員達は戸惑い苦悩した。ほとんどの少年は生きるため厳しい環境にいやおうなしに適応していったが、耐えられないものたちは脱走を企てた。

 脱走をしても訓練所から一番近い鉄道駅まで10数キロあり、夏場は花や草が腰まで生い茂り、道もふさいでしまう。父はたびたび、脱走者を馬で捜索したという。
「脱走者が逃げた方向は草花が倒れ、道が出来ているのですぐ分かった。しばらく追って行くとぽつんと道が途切れている。馬上から足元を見ると隊員のボロ切れた制服が散乱している。獰猛な興安嶺の狼は手の骨やアバラ骨でも食べてしまうのであとは髪の毛と大腿骨と弾を撃ちつくした銃だけが残っていた」

 「狼は獲物を見つけると後をつけてくる。徒歩で1人のとき狼に後を付けられたら鉄砲を持っていても絶対撃っては駄目だ。1頭しとめても血の臭いで次々と仲間がきて、共食いを始める。撃っても撃ってもキリが無い。最後は弾が尽きて食われてしまう。脱走したのは5~6人ぐらいいたが1人として内地まで帰った隊員を知らない」

Memo0088_2 全国拓友協議会編 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 屯墾病は深刻になると、自ら命を絶ってしまう隊員もいた。

 「鎌迫(かまさこ)という鹿児島県出身の隊員がいた。おしゃべりでひょうきんな男でわしとは仲が良かったが、ある日突然ものを言わなくなった。……それから1週間ほどして歩兵銃で自殺した」

 父は足を伸ばして座りあごを上げ、手で喉元に銃口を当てるジェスチャーをして「38式歩兵銃は130cmほどの長さがある。この格好で足の指で引き金をおさえてズドンとやれば間違いなしに逝ける。あのときは頭が木っ端微塵にふっ飛んでいた」

 私は小林正樹監督の映画「人間の条件」で、田中邦衛扮する気の弱い新兵が古参兵のいじめに耐えかねて便所で自殺するシーンを思い出した。

厳寒地のバトル

 農民運動家でプロレタリア作家でもあった島木健作(1903~1945)は、昭和15年「満洲紀行」という優れたルポルタージュを発表している。彼は昭和3年の3.15事件(共産党関係者の一斉検挙)で捕まり、後に転向声明を出して獄から釈放されるのだが、昭和14年結核の体で単身満洲に渡った。そのとき現地の開拓団や「義勇軍」の訓練所(黒河省孫呉訓練所)を巡り、実情を克明に書いた文章を一部抜粋する。

 しかし出来たばかりで全然乾いていないので、オンドル(※筆者注:朝鮮式の床暖房)を炊くと家のなかじゅう雫がたれるようで、布団も体もびしょぬれになってしまった。その雫がまたすぐ氷のように冷えてゆくのだ。しかもそのオンドルが不完全で、用をなさないものが多いのだった。室内でも零下15度から20度位が珍しくなかった。風引きが続出した。冬はまた井戸水が不足して、(浅くしか掘らなかったせいか)飯も炊けず、顔も洗えぬということさえあった。彼等はそのようにしてどうにか一冬を越し、また春を迎えたのである。私は訓練生の言葉に従って書いている。少しも誇張してはいない。

 私が子供のとき、父から満洲の冬の寒さをいやというほど聞かされていた。夜になると戸外では零下50度ぐらいまで下がるとか、室内では零下20度とか言っていたのが余りピンと来なかった。私の住む淡路島南部は気候が温暖で、大寒のころでも零下2~3度までさがれば寒いほうで、雪や氷が珍しく、電気冷凍庫も無い時代子供にとって零下2桁の世界は想像を超えていた。

 父は物事を面白大きく言う傾向があり、その性癖を幼い時から知り抜いている私は、また大げさに話をしていると、話半分に聞いていた。ところが最近さまざまな「義勇軍」出身者の自伝や手記を読むうち、それが決して誇張したものではない事がわかってきた。
Memo0059 全国拓友協議会編 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より 防寒具を着て真冬の立哨はつらい、しかし宿舎で寝るのもこの姿でとは・・・

 「とにかくオンドルが欠陥で煙が通らず、部屋の温度が全然上がらなかった。それで寝るときは防寒帽子をかぶり、防寒服を着て、防寒靴を履いてから、布団に入って寝る」そういう難行苦行を春まで続けたという。
Memo0087 「ある開拓少年義勇軍の記録 ああ清渓」より満人(中国人)部落に遊びに行く

 「近くの中国人部落へ遊びに行き、家の中に入るとそこはオンドルが良く利いていて春のように暖かく、子供は裸で走り回っている。もうアホらしなって、ハラがたって、宿舎に帰ると寝室の入り口の戸をぶち破り全部燃料にして燃やしてまった。戸なんかあっても無くても寒いのにかわりがなかったからだ」

 トイレにはさんざん苦労をしたという。「便が凍ってすぐ盛り上がってしまう。そこでしょっちゅうツルハシとスコップで削る作業が必要になる。そのときは臭わんが、部屋に帰ると服に付いた飛沫が融けてクサイのなんのたって」

 世間から隔絶された異国の地で300人の青少年が集団生活をするとさまざまなトラブルがおきてくる。「そりゃあ荒くたいたって。上半身裸で馬に乗って、農業用のフォークでつ突きあって喧嘩をする」
Memo0101_2 

 あるとき淡路島津名郡(現淡路市)仁井村出身の隊員がささいなことでよその県出身の隊員と争いを起こし決闘することになったという。

 「武器庫から軍刀(指揮刀)を持ち出し切りあいになった。どちらも本気になりとうとう仁井村の少年は相手を切り殺してしまった。もちろん監獄に入れられたが、1年もたたんうちに釈放され故郷に帰ってその後は病気で死んだと聞いているが……」

 それでも隊員達の仲はよかったという。「隊員達の仲は結構よかった。喧嘩もしたが、団結もした。みんなで任務を分担してきつい作業は協力してやっていかんと、極限状態を生きてゆけん」

 生きるために一番必要な水汲みが大変だったという。中隊300人の飲料・生活用水を当番が毎日水汲みをする。
Memo0094 全国拓友協議会編 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 「厳寒地なので80メートルの深井戸を掘った。それより浅いと冬は凍って水が出なくなる。バケツに縄を結び井戸に落とし込み手で引き上げる。それを四斗樽(約80リットル)に移し2人が天秤棒で担ぎはこぶ。後になって巻き上げ式の水汲みが出来たが、わしらが来た最初のころはこんな原始的な方法で汲んでいた」

狐狩り

 前述の「満洲紀行」の中で島木健作は、隊員達の不満や国に対しての要望を直接聞き書きしている。その中で小遣いに関することを次に引用する。

 「小遣銭のもらえぬことが苦痛である。渡満してからほとんどみんなが金を故郷から送ってもらっている。しかし自分の家などは貧乏だし、それに小遣いはもらえるとの話だったから、いまさら家へも言ってやれぬのである」
「すべて公費でまかなわれているのだし奥地にいて金を使うことはあるまい小遣銭はいらぬだろうと思うのはまちがいである。配給の不敏速と配給品が当を得ていないことが金の要る第一の原因である たとえば石鹸のように大していらぬものが、すぐ20もたまる。しかし地下足袋は年にわずか2足である。足袋がなくては作業にも出られぬ。仕方なく貯金を下ろして配給品の不足をおぎなうことになる。地下足袋は1足2円50銭もする。また小包が来れば通関料を10銭とられる。何よりもたのしみにしている小包さえも金のない時には喜べぬことになる。切手、葉書の支給は月に各各3枚ずつだが、手紙を書くことを唯一の楽しみにしている我われには、これでは足りない。自分で買うことになる」

父の中隊では家が裕福で小遣いを仕送りしてもらっているものもわずかいた。しかし大半の家は貧しくそんな余裕はないのがほとんどだった。 父は戦前の貨幣の値打ちを説明するのに、「月給が内地の代用教員で20円、満鉄の田舎の駅長で50円の時代」と例えた。代用教員とは中学校卒業の資格で雇われる小学校の臨時教員のことだが、師範学校卒の教員に比べると格が落ちるものの地方の公務員としてはまあまあの給料と考えられていた。
Memo0093 全国拓友協議会編 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 「冬には狐狩りをして小遣いを稼いだ。毛皮の業者にもっていくと1頭30円になった毛皮を高く売るには獲物を銃で撃ったりしない(傷をつけないようにする)。雪の山中を馬で追いかけ回す。みつけられると狐は猛然と逃げるのではじめは見失ってしまう。しかしまわりは一面銀世界、足跡を頼りに後をつけてゆく。あの辺の山(興安嶺)はなだらかなので、馬に乗ってどこまでも追っていく。頑健な蒙古馬は一日中でも休まないで走れるので、しだいに狐は疲れ追い詰められる。5~6時間もおいまわすと最後はへたばってしまう」拳を振り上げ、たたきつけるように振り下ろすという。「馬上からムチを一振りすると断末魔の悲鳴をあげて一丁あがりだ。ありゃ一番おもしろかった!」父はいたずらっ子のような目を輝かせ、遠い昔の光景を思い起こしていた。

オロチョン族

 中隊(300人)には小隊(60人)ごとに馬車が1台ずつあった。6頭だての馬車をしたてて興安嶺の奥地によく旅をしたという。「満州の奥地は広い。次々部落が現れてくる。ひとつ山をこえるとまた集落がある。大連やハルピンなどは大都市で人口が密集しているが全満州のほんの一部に過ぎないことが良く分かる」

 そこには満州族が住んでいるのかと聞くとそうではないという。「純粋の満洲族はほとんどいなかった。漢族とまざって(混血)いて、区別がつかない。内蒙古には蒙古族が住んでいるが、その近くにオロチョン族という少数の狩猟民族がいた」
Memo0078
Memo0074新知社、昭和8年発行 図解満洲産業大系第二巻農業篇下巻より

 オロチョン族とは大・小興安嶺を移動して狩猟生活をしている騎馬民族で、人馬一体の騎馬術と獲物の目と目のあいだを撃ち抜く高度な射撃術をもち、戦士としても勇猛だったので歴代清朝は帝政ロシアに対する北辺警備の兵として用いたという。

 「訓練所の倉庫から砂糖の南京袋(80キロぐらい)を持ち出し、ソリいっぱいの毛皮(ノロジカ・トナカイ・りす・イタチ・兎・その他いろいろ)と物々交換をした。いい商売だった。5~6人で行っても1人当たり80円くらい儲かった。そのころ砂糖は政府の統制品で貴重だったので大変喜ばれた。五族協和は理想にすぎず、配給を受けられるのは日本人だけなので金持ち階級は別にして大半の貧しい中国人にとって白い砂糖は高嶺の花だった」

 父はあの手この手と小遣い稼ぎの方法を考えていたという。

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