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樋口季一郎の合理主義

003 4月2日阿万家にて006 4月2日阿万家にて

温度計を買って来

 志賀成将君一行が来島したとき、阿万家に行き、従兄弟の、のりちゃんと樋口季一郎が淡路に来た時の思い出話をした。私は当時中学二年生で、のりちゃんは10歳年上なので二十代前半の若者だった。
のりちゃんは、初めて会った時「樋口は、いきなり手を差し出し、握手をしてきた」のでビックリしたという。握手というのは西洋では普通の挨拶に過ぎないが、日本では一般的にしない、政治家が選挙の時はやたらしまくるが、投票が終わるとまったくしなくなる。第一日本人は初対面の人の身体に触るということをしない。お辞儀をするのがふつうである。昔テレビのニュースで、ソ連のブレジネフ書記長が外国の要人と会うとき握手どころか、いきなりむんずと抱き合い大胆にもブチューとホッペタにキスをするのでビックリした事がある。国家を背負った西洋人の挨拶って格闘技のようにすごい。

 のりちゃんは樋口に「世話係を命ずる」とか言われ、ふとんをしいたり、お茶を持っていったり、お風呂を沸かしたり、大忙し。湯加減は特にうるさく、よくかき混ぜて、上下均一にして温度計で40度か41度ぐらいに沸かさないといけない「命ずるなんて言いやがって、この爺さんはよ帰れと思っていた」のりちゃんは昨日のことのようにまくしたて、そのあと悪戯っぽく笑った。
樋口と温度計と風呂は切ってもきれない、淡路の親戚ならみんな知っているエピソードで、おば達もよく話していた。
「お風呂の湯かげん、ぬるかったらゆうてな」と声をかけると、樋口は「そんな無駄なことしないで温度計ではかりなさい!」という。温度計など用意していなかったので、早速買いにいったそうだ。樋口に言わせると「ゆかげん」なんて一人ひとり皆違って「いいかげん」と言う。温度計は科学的で、客観的で、誰が見ても間違いがないと言う。 

敬天低温
 
樋口が金沢の第九師団長であった、昭和15年10月、満州牡丹江に移駐した。ある冬、ソ満国境に派出されていた一小隊を視察した。司令官の来訪を喜んだ隊員たちは雪を溶かして風呂を用意してくれたという。

私はこの時、好奇心を抱き、雪と水を比較したのである。そのため飯盒二個を持ち来たらしめ、飯盒一杯に強く(この強くが非科学的で、雪質も非科学的だが)雪を詰め飯盒一杯の水を得るに何杯の雪を要するかを検したのであった。しかして得た答えは、十二杯ということであった。さすれば、私のための風呂水のためその風呂桶の八杯分位の雪を溶かしたことになるであろう。
ー中略ーその夜午前二時となるも私の下体、冷却して眠に入ることができない。私の従兵は、(私は従兵永倉兵長を今に忘れることができない)それを憂え、同僚兵士の水筒四、五個に熱湯をつめ私の腰、脚、足を温めてくれるが、それだけの効果がないのである。それもそのはず、私共の身体下位における空気温度は、依然零下十度内外であった。それでも疲れたる、また生活力旺盛なる兵士は、白川夜船の快眠をとっているのである。当時私はまだ若いと自認していたのであるが、やはり師団第一の老兵であったのであり、老兵に対し、「寒兵」は最大の強敵であったのである。    陸軍中将樋口季一郎回想録より

 樋口は旧軍人に特有な精神主義的なところはほとんどなく、書いた文章を見ていると科学的とか学理とか学者が使うような言葉が随所に出てくる。自然科学に興味を示し、実際上疑問に思ったことは実験をして確かめる。対ソ戦の専門家として、戦術・戦略のみならず、ロシア人の生活を研究してその驚異的な耐寒能力を認め、ドイツが負けたのはヒトラーやその幕僚が自分ほどの寒地体験をもたなかったからだと断ずる。従って満州を舞台とする日ソ戦は春に始まり秋に終わるべきであり軍の配兵はその条件で考えるべきであったと言う。

もしそれ零下三、四十度において野外演習を行うことを想像せよ。またそこでの野営を考えても見よ。さらにそのような温度において秒速数十メートルの強風(零下二十度以下においては、秒速一メートル毎に温度一度低下すると考えてもよいとされる。これはやや非科学的であるが、ひとつの重要なる常識である)を思うがよい。それは真に、「殺人」以外の何ものでもないのであり、「元気」、「勇気」などその価値零に等しいのである。ロシア人は寒気を恐れる。零下二十度以下の寒さにおいては、この家より筋向こうの家へ行くにも防寒帽を被ることを忘れない。これを私は「敬天」と称したのである。 陸軍中将樋口季一郎回想録より     

 このような科学的思考に裏づけられた合理主義が、キスカ撤退時に海軍の強い要求で迷っていた携行銃の放棄を決断して、すばやい撤収を行い作戦を成功に導いた。「陛下にお預かりした銃を海に投棄するなど何事」と後で参謀本部から責任追及の声が上がったが「私はこの件に関しては、生存人員を北方の守備に用うることをより価値ありと信じ決心したものである」とモノより人を優先し、無駄な人員の消耗はせず今後の防衛に用いるとの判断は正当であると動じなかった。

 私やのりちゃんが樋口に会ったのは、祖父の葬式の時で、七十代後半ぐらいだったが、まだかくしゃくとしていた。科学的な合理主義は顕在だった。この頃より数年後サーモの付いたガス風呂や電気温水器が普及し始め、いまや風呂の温度はマイコンで制御され「湯加減」という言葉は死語になってしまった。現在のコンピュター時代、温度計で測る事さえ人間は不要になったがこれは本当の進歩であるのか、合理主義者樋口季一郎は是とするか、聞いてみたいところだ。

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