死化粧
母が5月23日、退院することになりひとまずホッとしている。1月、県病に入院して胃の手術したときはもうだめかと思ったが、2月から平成病院に転院して回復のためのリハビリを続けた結果、杖を使っての歩行ができるようになり、4ヶ月ぶりで家に帰れることになった。
最近は少し余裕が出てきたのか、「若いとき一度は死にかけた身やから・・・ようこの歳までいきてきたなあ」なんていいながら、ヒアルロン酸入りの化粧水をせっせと顔にすりこんでいる。「あのときは、死化粧までしてもらって」と昔の話をし始めた。
昭和20年8月、敗戦後母はソ連の延吉収容所に入れられた。冬場に入り栄養不足と寒さで発疹チフスが蔓延した。毎日毎日何十人もの日本人捕虜が死んでいった。捕虜の身だった看護婦も総動員で患者の看護をしていたがついに母もかかり脳症をおこし二週間高熱にうなされ二日間意識不明におちいった。
「もう皆ダメと思って。こんな若いみそらで死んでかわいそうと思ったのか同僚の看護婦が死化粧をしてくれた」という。
私はそんな地獄の収容所で、化粧品などあるのが不思議で、尋ねると
「それが持ってたんよ、救護班一番の美人でおしゃれの娘が、エエモンみせたげようと目を覚ました私に手鏡をちかづけみせてくれた」と母はいいながら小さなコンパクトを顔に近づけ、またヒアルロン酸いりの化粧水を手に付けパタパタはじめた。
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