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2012年6月

私の中の中国11.洗脳

歴史の授業 
 私が中学2年のとき、3月の終業式まえになっても歴史の授業が江戸時代の終わり頃までしか進まず、追加の授業を道徳の時間にすることになり、急遽教頭の馬渕先生が教える事になった。この時、2回の授業で江戸時代の終わりごろから戦後の米ソ冷戦時代まですっ飛ばしたが、後の1時間の終わりのほうで、東西冷戦とか社会主義陣営の情報統制を習った。ソ連は鉄のカーテンで中共は竹のカーテンだと説明され、そのあと「戦後中共から引き揚げてきた人間は洗脳されて共産主義者になったと言う人もいる」とはっきり断定しないで、馬渕先生は「言う人もいる」といったように記憶している。このあたりはちょっとズルイ気がして、私はこのとき自分の家族が名指しされたような気分になり、恐らく先生は私の一家が中国からの引揚げ者だと知らなかったとは思うが、かなりのショックを受けた。洗脳というおどろおどろしい、言葉を初めて知ったが、以来この言葉は私の心の中でことあるたびマグマのようにブツブツ噴出する。

 父に洗脳されたのかなんて子供の私は聞けなかった。いつか聞いてやろうかと思ってはいたが、是が非でもというほどでもなく、ずるずると時がたち、結局尋ねたのが亡くなる半年前であった。
父は「わしは解放軍の中で、同僚とは仲良くやっていたが、上のほうの人間からは最後まで信用されてなかったなあ、そういえば帰る直前にこんな事があった・・・」と話し始めた。

再開された集団引揚げ
 
戦後の中国残留日本人の帰国は国共内戦の進展により中断されていたが、新中国成立後の1950年夏ごろジュネーブで日本赤十字社代表と中国紅十字会代表が接触する機会があった。日本政府は米国に気を使って積極的な動きをしない中、1952年4月から7月にかけて戦後政治家として初めてソ連と中国を訪問した帆足計、高良とみ、宮腰喜助の三人が中国残留日本人の帰国促進を中国政府に要請した事からようやく引揚げ問題が動き出した。1952年10月1日人民日報に「残留日本人の帰国を援助する方針についての政府声明」が掲載された。
1111  1953年1月26日羽田空港で見送りを受ける訪問団。タラップ2段目が日赤社長、島津忠承。 「時事世界」1953年3月号より
翌1953年1月から3月まで中国紅十字会と日本赤十字社島津忠承を団長とする民間三団体の訪問団が北京で会談して中国に残留している日本人の 帰還問題が話し合われ、引揚げ事業を再開することで合意がなされた。

 その頃中国河南省信陽の牧場に居た私達家族のもとに一通の手紙が送られてきた。父の一歳上の尼崎に嫁いでいた伯母からであった。中国政府の日本人残留者名簿が日本政府に送られ私たちの住所がわかったとのことだった。
1111_1 右側、信陽で獣医をしていた1953年頃の父、隣は日本人助手
その前、父の実家の近所に住む小学生がラジオの安否放送を聞いていた。「たまたま敏樹さんの名前が放送されるのを聞き急いで丸山のおじいちゃん(祖父)に知らせたら誉めてくれた」と54年後、当時小学生だった前川武章氏に私は直接聞く機会があった。それまで中国で行方不明だった父の安否が分かり家族は役場に連絡を取った。
帰国するまで何回か伯母と父との間に手紙のやり取りがあり家族の近況や故郷・淡路島の様子がしだいにわかってきた。父は8人兄弟の次男で5番目に生まれたが、伯母の手紙に実家のあとを継いでいた長男の伯父が亡くなったことが記されていてショックだったと後年よく言っていた。
帰国前の取調べ
 7月の終わりごろ出発の時が来た。母の話によると信陽から武昌まで鉄道で行き、そこから揚子江対岸の漢口に渡り大型汽船で上海まで河を下ったという。
私たちは汽車に乗ったが、方向が目的地と逆の方向に走り始めたのに父はすぐに気が付いた。一駅目か二駅目ぐらいにおろされ、父だけが別室で取り調べを受けた。このことは私も初めて聞く話で、母に聞いても覚えていないという。
 どんな取調べを受けたのか、父の話ではこうだ。
「終戦後、ハルピンで暴動があったが、そのときの首謀者の疑いでしらべられた。」
 事実はどうだったのか、関係していたのか。
「全然知らない話だ、全く関係が無い」
 中国で終戦直後に日本人が関わった暴動では通化事件が有名であるがそのほかにも大小、さまざまな日本人が起こした事件があったようだ。
父が取調べを受けたのは、理由があり、右翼の活動家だった事がその一因でまた特務機関の手先をやっていた事も知られたようだ。
「八路軍の特務は優秀で何から何まで調べられていた。君には軍閥の親戚があるとも言われた。軍閥とは樋口の伯父さんのことだ」
 親族関係もきっちり調べられており、父の伯父にあたる樋口季一郎は陸軍中将のエリート軍人で軍閥の一員であり、父はその郎党であるという事だ。どのくらいの時間調べられたのか父も記憶が定かではなかったが、その日一日で疑いが晴れたようだ。
話を洗脳にもどすと、父がいうには、八路軍の規律「三大規律八項注意」は徹底して教えられたが、思想的なことは全く問われなかったとのこと。
「第一、戦争をしているのにそんな暇はなかった。わしも仕事(獣医)は一生懸命やった。「大功」という日本で言えば「金鵄勲章」のようなものを2度もらった。仕事については幹部も評価してくれたが、思想的には皇国史観に凝り固まっていたので、向こうもお手上げだったのではないだろうか、よくもまあ!わしのようなじゃじゃ馬を使ったものだハッハッハッハ」
父は愉快そうに笑った。

淡路島灘沖で網にかかった鯨

 5月27日に淡路島灘沖で定置網にかかって死んでいた鯨の写真です。今日知人の木下さんが引き伸ばした写真を見せてくれましたのでデジカメで「又撮り」しました。しろながす鯨に比べれば小さいのだろうけど、やはり鯨は大きいですね。淡路島では10年ぐらい前に津名のほうでも網にかかったことがありますが珍しいですね。鯨はこの後砂浜に埋められて成仏しました。
Memo0130

黒電話にさようなら

Memo0118
 とうとうわが家の黒電話が退役となり、オークションで落札した新しいデジタルフォンに付け替えました。仕事用の電話は早くからホームテレフォンに変えていたのですが、家庭用は愛着がある上、かけることが少ないのでこれまで40年以上旧式を使ってきました。
まだまだ使えるのですが、高齢の母が使うとき電話のある居間まで、移動に不自由で、子機のついたのが、必要となりヤフーで落札しました。少し型遅れですが、ちょっと見たとこ新品並みで子機2台付き4900円はラッキーでした。
憧れのダイヤル式電話
 私が高校生時代、電話はダイヤル式にもなっていなくて、電話機にハンドルがついていてグルグル回し、交換を呼び出しつないでもらうという、手間のかかるものでした。私は8キロ先にある県立高校に自転車で通っていましたが、そこの市(いち)地区が旧三原郡ではじめてダイヤル式になり、大変羨ましく思ったものです。なぜかというと、そのころラジオは、電リク(電話リクエスト)などはやっていて、私は放送局と聴衆を電話で結ぶ参加型の番組のファンでした。しかしその番組に電話するには最低限ダイヤル式でないと全く相手にされないので、自分の地区がダイヤル式になるというのは悲願でした。
当時の毎日放送で、若手人気アナウンサーだった角淳一が司会する番組に、聴衆が電話で15秒ほど好き勝手な事をしゃべり、何も編集されず、そのまま放送に流れるコーナーがありました。丁度バイクの免許書を取ったばかりの年末時分、暗くなってから、私は10円玉をたっぷりポケットに入れ母のバイクを借り、時速60キロ平均で三原まですっ飛ばし28号線の市信号交差点にあった電話ボックスに入りました。早めに入ったので番組コーナーの時間が待ちどうしかったこと。時計を見計らって目当てのコーナーに電話をかけると話中で出ません。続けて5~6回かけるうちにつながり放送局のピーという信号音が流れました。もう夢中で・・・いまじゃ何を喋ったのか覚えていないのですが、40年以上前になります。その後2年ぐらいして私の住む阿万局もダイヤル式になったのですが、大阪に就職していた私は真新しい黒電話を使うことができませんでした。古ぼけた黒電話をしまいながら思い出しました。

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