« 私の中の中国11.洗脳 | トップページ | 父の15年戦争12.全体主義者橋本欣五郎 »

父の15年戦争11.叛乱

2006年9月11日JANJANに掲載され記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなどしております。

 満鉄の鉄道自警村・二井訓練所に移行しても、ひどい住環境や食事は改善されなかったという。冬は風呂に入れず、夏場は伝染病・風土病などもよく発生したという。矛先は幹部に向かい、少年達の怒りは頂点に達した。

義勇軍全滅の危機
 酷寒の冬が過ぎ嫩江(ノンジャン)大訓練所にも春が来た。第一次満蒙開拓青少年義勇軍第二十中隊(和気中隊、約300人)は大訓練所から小訓練所に移行するため、昭和14年4月26日、北安省北安県二井(にせい)満鉄二井訓練所に先遣隊が出発し、本隊受け入れのための準備作業に当たった。
小訓練所は経営が満拓(満洲拓殖公社)と満鉄(南満洲鉄道株式会社)の二つの系統に分かれていた。二井訓練所は満鉄沿線にあり鉄道を匪賊や抗日ゲリラの襲撃から守る役割も担っていた。
義勇軍訓練所は宿舎や倉庫の建設から井戸掘りまでほとんど訓練生自身で営造したのが多かったので、建設技術が未熟でその指導もいい加減だったため暖房が効かないなどの欠陥が多かった。また当初拓務省は計画の実行を急いだため資材・物資の輸送調達などは準備不足もあってかなりの遅れがあり、訓練生に苦難を強いることになった。
Memo0116 17歳ごろの父・郷敏樹
1222 宿舎の建設、トーピーズ(泥と草を固めたレンガ)を積んで壁を作る 全国拓友協議会編満蒙開拓青少年義勇軍写真集より
1222_1 

出来上がった宿舎、丸い筒はオンドル(朝鮮式の床暖房)の煙突 全国拓友協議会編満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 内原の訓練所本部で食事・栄養面での総責任者であった酒井章平は、創設時の「義勇軍」の労苦を次のように述べている。

 昭和13年満蒙開拓青少年義勇軍の結成が急であったため、現地の準備が充分でない中に渡満入植があわただしく行われた。随って、建築は勿論栄養方面も憂慮すべき状態で非難続出のありさまであった。
 そこで、私は数人の栄養指導員を引率して現地に乗り込み、つぶさに栄養状況を観察したが、こんな状態では来春迄には病人が続出するからと急遽新京に帰り、満拓に具申して五千箱の魚類の缶詰を調へて五ヶ所の訓練所に発送し、再び巡視した。改善が著しくはかどったため各方面からは非常に感謝されて得々として内原に帰って来た。所が加藤所長に出会って挨拶する出会頭に、いきなり叱られた。
 曰く「どうせ狭い日本に詰め込んでおけば絶滅する日本人だ。満洲に出たために義勇軍が死ぬと云うなら全滅したっていいじゃないか。僕はそう覚悟している。然るに何だ。こんな食事では病気になるとか、死んで仕舞うとかワイワイ云ってただでさえ訓練生がびくびくしている所にもって行って君等がそんなことを云いふらそうものなら益々混乱して仕舞う」~中略~義勇軍が全滅しても止むを得ないと云う最悪の場合迄覚悟して、初めて栄養改善も冷静に、急所をついてスラスラ出来るのである。全滅の覚悟を以って臨む事の重要なことは義勇軍の場合のみではない。決戦下日本人の栄養問題を処理するにもこの腹が要る─―(昭和19年4月15日、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所発行、酒井章平著「日本農村と栄養」より)

 大戦末期の食糧不足が深刻な状態のときに書かれたこの文章を読んでいると、戦前の神がかった精神主義と秘密主義の典型的な指導者像が浮かび上がってくる。酒井は加藤所長の崇拝者で彼をかばっているのだが、この時義勇軍を救ったのは「五千箱の魚類の缶詰」で間違いは無い。いくら腹の据わった指導をしても「腹が減っては戦が出来ぬ」。
この本が発行された1年4カ月後には、彼らのハラの据わった指導もむなしく「義勇軍」は全滅し、大日本帝国もまた見事に滅亡した。

襲撃
 
父によると満鉄の鉄道自警村・二井訓練所に移行しても、防寒具を着て寝るようなひどい住環境や量が絶対的に足りない食事の状況はたいして改善されなかったという。また冬季は風呂にまったく入れず、衛生状態も悪く、夏場には伝染病・風土病などもよく発生したという。
 「最初の冬が過ぎたころから中隊内に不穏な空気が流れはじめた。幹部たちが食料費をネコババしているので我々の分が少ない。その金で街へいって女郎買いをしている。某幹部は満人(中国人)の妾を持っているらしいなど、さまざまなスキャンダルが噂されていた」

 自分達だけいい目をしやがって!矛先は幹部に向かっていった。少年達の怒りは極限に達していた。
「誰ともなく幹部に天誅を加えようということになり、ある晩有志で幹部宿舎にそっと忍び込んだ。用意していた手榴弾を数発、寝静まっている幹部の部屋に投げ込んだ」 
 大きな爆発音がするやいなやそのまま逃げ帰り、そのあと幹部たちはどうなったのかは記憶が定かではないという。
「ところが翌朝ドッポ(独立歩兵大隊)が討伐にきた。独歩は1個小隊(60人)ぐらいで攻めてきた。脅かせば言うことを聞くと思ったのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。わしらは反抗をした。銃撃戦になった。わしらは戦争をやると強かった」
 隊員達は軍事教練を1年以上やってきて、戦いには自信を持っていた。年長者で優秀なものは指揮官としても十分能力を発揮したという。
「小梅という、わしより少し年長の隊員がいた。西宮の小学校の校長のむすこで中学校に入っていたがグレて退学になり、義勇軍に放り込まれたと言っていた。彼は頭がよく、計略にたけ、度胸もあって、義侠心も厚く正義感も強い。おまけに指導力もあったので、てきぱきと皆に指示を出し、にわか軍師となった」
 隊員達は年長者の指揮のもと結束して戦った。泣く子も黙る「独歩」を相手に一歩も退かず応戦したという。このとき何人ぐらいが「叛乱」に加わったのか、父の記憶があいまいで判然としない。私は夜、幹部宿舎を襲撃した隊員はそんなに多くはなく、「叛乱」の同調者は数十人ぐらいではなかったかと考えている。
Memo0080 雪中の軍事訓練「ある開拓少年義勇軍の記録 ああ清渓」より

 「弾薬は豊富にあった。軍事訓練で鍛えられ、銃器の扱いにも熟練していたわしらは簡単にやられなかった。戦争は少人数の戦いでも組織的、統一的にやることが肝要だ。守備応戦するときも闇雲に個人プレーで勝手に撃ってはだめだ。『敵』は窓をとくに注視しているので近づいて動きを察知されると集中攻撃をされ、やられる。わしらは射手をあちこちに分散させ、攻守の状況を掌握した指揮官のもとチームプレーで戦った」
 「独歩」は攻めあぐね、とうとう白旗を掲げてやってきて、話し合いをすることになったという。
「ところが交渉していた先輩たちをつれていってしまった。だまされたと知ったわしらは怒ってまた銃撃を始めた。しばらくドンパチやっていたがまた独歩は白旗をかかげてやってきた。話し合いが再びはじまった」
 父たちはこのあとどこかに連れて行かれ取調べを受けたが罰せられることなくすぐ釈放されたという。
「罰しようにも未成年のわしらを処罰する法律が無かった。これが軍隊なら立派な叛乱罪で2.26事件のように銃殺刑になっただろう。しかし義勇軍は公式には開拓訓練生で20歳未満の子供の集団だ」
 この事件で死傷者が出たかどうか父はよく覚えていないという。しかし死傷者が出ていなかったとしても、満州開拓に期待され創設したばかりの義勇軍訓練所で訓練生が待遇の不満から徒党を組んで幹部を襲い、鎮圧に来た独歩と銃撃戦を演ずるという前代未聞の事件は政府関係者に衝撃を与えたようだ。
「このあと日本から国会議員たちが調査にやってきた」
 だが、この事件は日本国民には知らされることなくうやむやになってしまった。またこのころ満州各地の義勇軍訓練所で様々な幹部襲撃事件や隊員同士の抗争、暴力沙汰など不祥事が続出していた。

 上笙一郎(かみ・しょういちろう)著『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、昭和13年春から昭和14年8月までの間に現地訓練所で発生した事故・事件は火災21件、銃器による撃ち合い12件、そこにまで至らぬ不穏行為12件、自殺および未遂6件、無断出所177名、不良対処処分者137名となっている。その中でも最大の不祥事は、昌図特別訓練所で発生した「昌図事件」(※参照)で、死者3名と負傷者10数名を出す大事件であったが、これらは氷山の一角であると思われる。
 というのは訓練所で事件が起きても隊員には緘口令がしかれ、手紙なども中隊本部で検閲されたため、訓練所外部にはほとんど伝わらなかった。また当時国策である青少年による満州開拓移民が始まったばかりで、不祥事が国民に知れることによって、移民熱が冷め、計画が頓挫することを恐れた関東軍が新聞・雑誌などを報道統制して事件を載せないようにしたからである。

※「昌図事件」
 
昌図事件とは昭和14年5月5日から8日にかけ、奉天省昌図県満川村にあった昌図特別訓練所において、運動会の順位争いから発生した後着中隊と先遣中隊の一大抗争事件で、3名の死亡者と10数名の重軽傷者を出した満蒙開拓青少年義勇軍史上最大の不祥事事件である。
 
 始めは鍬の柄をもっての殴り込みから、次第にエスカレートした新旧の中隊員、数百名は、しまいには石投げ、煉瓦投げ、銃撃戦、放火にまで及んだため、訓練所内部で収拾がつかなくなり、日本人将校2名に率いられた興安軍(満州国軍)機関銃隊2個小隊が出動しやっと鎮静した。

 取り調べは昌図県警察・四平街警察・公主嶺憲兵隊の手で行われた。全部で200名以上の隊員が取り調べられ、そのうち起訴されたのは37名で32名が有罪となった。裁判は9月21日から奉天地方院で開始された。内地の内原訓練所から加藤所長が特別弁護人として立ち、拓務大臣など官・財界など一流人名士が署名した減刑嘆願書が提出されたためか、科された刑は懲役4カ月から最大で懲役3年であった。しかしすべての被告が1~4年の執行猶予がつき、早くもその年の12月20日に全員出所することが出来た。

« 私の中の中国11.洗脳 | トップページ | 父の15年戦争12.全体主義者橋本欣五郎 »

父の15年戦争 JANJAN記事」カテゴリの記事

コメント

『満蒙開拓青少年義勇軍』を読んでいて「昌図事件」が出てきましたので、検索すると、このブログに出会いました。

貴重な証言をまとめてあり、拝読いたしましたところ大変有意義に思えましたので、一言御礼を申し上げますm(_ _)m

関心を持っていただきありがとうございます。またよろしくお願いします。

>hyena_no_papaさん
>
>『満蒙開拓青少年義勇軍』を読んでいて「昌図事件」が出てきましたので、検索すると、このブログに出会いました。
>
>貴重な証言をまとめてあり、拝読いたしましたところ大変有意義に思えましたので、一言御礼を申し上げますm(_ _)m
>

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 父の15年戦争11.叛乱:

« 私の中の中国11.洗脳 | トップページ | 父の15年戦争12.全体主義者橋本欣五郎 »

2024年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
無料ブログはココログ