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父の15年戦争14.満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所跡

この記事は2007年4月8日JANJANに掲載されたのを一部、訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております

 父が亡くなった翌年2007年3月、茨城県内原にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡を訪れた。父は1938年高等小学校を卒業した春、義勇軍内原訓練所で約3ヶ月間、基礎訓練を受け満州に旅立った。

 3月19日、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡を訪れた。JR上野駅から常磐線特急「常陸」に乗り約1時間、友部駅で乗り換え、ひとつ目の内原駅で下車する。駅から南へ約2kmのところに記念碑と当時の訓練生の宿舎である「日輪兵舎」を復元した建物があった。
P1030294 当時の日輪兵舎
 もともとは松林があった約40ヘクタールの土地に蒙古の包(ぱお)に似せた円形の「日輪兵舎」が300棟あまり点在し、最盛期には満14歳から19歳まで1万人もの若者が寄宿し、徹底した集団行動による軍事訓練や農耕訓練に励んだ。ここから満州(現中国東北部)の現地訓練所に送り出された人数は内原訓練所本部送出名簿によると86530名に上る。

 現在この周辺には県立養護学校や「義勇軍」訓練所所長だった加藤完治らが大正14年に創立した日本国民高等学校を受け継ぐ日本農業実践学園がある。

 駅から乗ったタクシーの運転手さんが昭和14年生まれで当時の訓練所のことをよく憶えていた。私の父が14歳で「義勇軍」に志願したこと、多くの隊員は高等小学校を卒業した年齢で入所したことを話すと、運転手さんは「そうですか。もっと年上の若者たちだと思っていた。今の中学2年か3年か……。まだ子供だったんだなあ」と当時を回想する。

 「戦争末期で尋常小学校が国民学校という名称に変わったころ入学をした。戦争が激しかったころで、8日とか18日とか28日など8のつく日は国旗掲揚台に日の丸を掲げ、君が代を歌って戦争の必勝を祈願したよ」。12月8日は真珠湾攻撃の日で大勝利の縁起をかついで祈っていたようだ。

 「若者たちが鉄砲や鍬をかついで訓練していた。内原駅に通じるこの桜並木の道を通っておおぜいの青年が駅のほうへ行進していった」。通称渡満道路と呼ばれた桜並木は今も当時のまま花を咲かせているという。

 「もうすぐ桜の花が満開になってこの辺は私の散歩のコースですよ」と運転手さん。今でも九州から北海道まで元隊員たちが団体で当時を懐かしんでやってくるという。

 「長野県が一番多く行ったそうだね」。この土地でタクシーに乗っていると全国からやってきた元隊員たちをよく案内するらしく、さすが詳しい。

送出日本一、長野県の場合
 
長野県は「義勇軍」の送出数がダントツ全国トップで6939人が満州に送られている。一般の満蒙開拓団も全国1位で、村の半分が移住する分村・分郷と呼ばれるやり方で開拓団を組織した。当時信州は繭の生産が全国一で、世界大恐慌に端を発した昭和恐慌の影響で絹糸が暴落し多くの村が疲弊していた。娘の身売り、一家離散、心中、夜逃げなどが続出した。この苦境から逃れるのに満州は農民にとって希望の大地だった。しかし経済的理由だけでなく、子供たちを「義勇軍」に駆り立てたのは学校の先生の影響が大きかった。

 長野県歴史教育者協議会編「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」には昭和15年の長野県の義勇軍志願の動機を調べるアンケート表が載っているが、それによると本人希望が49.4%、教師の勧め42.1%、家族の勧め5.4%、その他2.9%になっている。昭和16年になると本人希望の数値がなぜか空白だが、教師の勧めが81.4%で圧倒的に多くなっているのは、拓務省からの割り当てによる強引な勧誘が原因のようだ。

 14、5歳の少年たちを遠い満州にやるにはいくら本人が希望しても両親、とりわけ母親の反対を押し切る必要がある。戦前から教育県として名高い長野県は「信濃教育会」が中心になって興亜教育といわれる、欧米に対抗したアジア侵出のイデオロギー教育を熱心にやっていた。教師は親の反対で迷う子供たちにあの手この手で口説き落とした。その結果が日本一の「義勇軍」送出人数として現れた。

 だがこうして送られた「義勇軍」の最期は悲惨だった。上笙一郎著『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、敗戦直前の在満州開拓民はおよそ27万人で、引き上げまでに、戦死・自決・病死・餓死・凍死した人が7万8500人となっている。これは3人強に1人が亡くなるという勘定でこの率を「義勇軍」に当てはめ、外務省の満洲開拓民生死統計(昭和31年)などの資料を基に推計すると、約2万4200名の義勇隊員が亡くなっているのではないかと書いている。

 ちなみに終戦直後の全満州の日本人人口は155万人ぐらいとされているが、引き上げ途中で17万6000人が亡くなっている。これらの犠牲者の数字を比べてみると全満州日本人人口の17%を占めるに過ぎない満蒙開拓民が、全満州日本人の引き上げ途中死亡者の約半分を占めるという異常な犠牲を払っていることが分かる。さらにその悲劇は中国「残留孤児」の問題となって現在も引き継がれている。

 五族協和、道義世界の建設の聖業を目指したはずの国策満蒙開拓はどうしてこんな末路を迎えたのだろうか。国策を進めた誰がその責任を取ったのだろうか。

戦争責任
Photo
内原の「義勇軍」跡地には5~6mはあろうかとおもわれる石碑がそびえ、その横の「拓魂」碑には次のような文字が刻まれている。

内原は 義勇軍の心のふるさとである綱領は次ぎのとおりであった
1.義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追進シ 身ヲ満洲建国ノ聖業ニ捧ゲ 神明ニ誓ッテ天皇陛下の大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
1.我等義勇軍ハ 身ヲ以テ一徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ 道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス
義勇軍は大陸の厳しい風雪に耐え ひたすら理想の村づくりに邁進した
しかるに昭和20年8月 祖国の敗戦によりそのすべてが烏有に帰した
以来30年の歳月が流れた
われわれは 志半ばに倒れた同志の遺志を偲び 義勇軍創設の趣旨を録し 永く後世への記念とする
ここに内原会並びに関係各位の協力を得て その鴻志を刻み同志の碑とする昭和50年5月3日
満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑建立委員会
委員長 那須皓全国拓友協議会

 この碑文を素直に読むと、「義勇軍」は天皇の意思に副い満洲で厳しい風土に耐え民族協和の理想を実現しようとしたが、日本が戦争に負けたためその成果は水の泡となった。30年たって犠牲となった隊員たちをしのびその趣旨・意義を後世に残す――と理解して間違いはないだろう。この文には当時の国策を肯定するだけで、批判もなければ反省もない。それもそのはずこの碑を建立した代表の那須皓は元満洲移住協会理事で「義勇軍」創設の建白書を出した6人のうちの1人で国策を推進した中心人物なのだ。

 日本国内には先の大戦で倒れた人たちを追悼する石碑は、星の数ほどあると思われる。それらは押しなべて、この碑文のように死者の陰に隠れて、誰がそのような悲劇を招いたのかまるで分からない文章が刻まれている。そんな文章からは「大東亜戦争」は負けたことが悪いのであって(勝てば官軍)日本にも言い分はある(三分の道理)という思惑が透けて見える。これらは戦争を知らない世代が、南京大虐殺はなかったとか、慰安所はただの売春宿であって、軍の関与はなかったなどという、戦前の軍部の暴虐を否定する言説をそのまま受入れてしまう下地になっている。
Photo_2 加藤完治の銅像
 この拓碑の近くには日本農業実践学園があり、その入り口にも大きな石碑がある。さらに前庭を隔てたところに、鍬を持った初代校長加藤完治の銅像が立っており、その奥には弥栄神社と書かれた祠(ほこら)が鎮座している。

 加藤完治は「父の15年戦争(7)糞尿をなめるカリスマ教育者」で書いたように、国策満蒙開拓を強力に推進した中心人物であった。敗戦後は戦争協力者として公職を追放されたが、戦犯に指定されることもなく、昭和26年には解除され、昭和28年には日本高等国民学校(戦後日本国民高等学校を改称)の校長に復帰した。その後、数々の旧満州開拓関係や農林団体の要職につき、昭和40年4月には農林業功労者として天皇主催の園遊会にも招待され、昭和42年3月、83歳で天寿を全うした。
P1030287壮行式での答辞
 加藤は自分が指導して満洲に送り込んだ青少年たちの短い薄幸な人生をどう考えながら戦後を生きたのだろうか。指導者としての戦争責任を感じていたのだろうか。多くの少年たちの運命を左右した学校の教師たちは戦後どんな教育者に変わったのだろうか。
父は加藤完治の思い出を次のように述べていた。
P1030296 いっせいに義勇軍綱領を唱える
 「狂信的な天皇主義者でわしらは毎朝、君が代を歌いスメラノミコト(天皇)イヤサカ(弥栄)を三唱した。加藤は満洲に普通の移民をやるのは意味がないといっていた。天皇に帰一した純真な君たちのような青少年こそが満洲国の礎石になるのだ、それを邪魔するやつを退治するのが支那事変の聖業だと言っていた」

軍国日本の歴史を教えなかった学校
 
私は父に現在の日本人の多くは戦前日本が中国に攻め込んだことを反省どころか、悪いことだと思っている人間は少ないのではないか、また戦後世代の人間は日本が戦前植民地朝鮮や中国で何をしたのかまるで無知なことについて、どう思うか聞いたことがある。

 父は「確かにそのとおりだ。わしら戦争に行った人間は現地で何をしたか、都合の悪いことは、ほとんど子供の世代にしゃべっていないし、学校でも教えていないだろう。それに知らなければ反省のしようがない」と言っていた。

 私は昭和27年生まれで昭和40年代に中学・高校教育を受けたものだが、中学校で社会の近・現代史は明治ぐらいまでしか教わった憶えはない。それ以後の歴史は春休み前にやっと2時間だけ工面し、まとめて授業を受けた。なぜか教頭先生が教壇にたちサンフランシスコ講和条約まで特急で講義した。その講義の短い時間内でもソ連の中立条約違反とピカドン(原爆投下)だけはしっかり教えてくれ、ソ連と米国はひどいことをしたと言っていた。そのころ日本で一番あこがれの国は永世中立国スイスだった。

戦争の知識は『少年マガジン』から
 
学校ではあまり戦争のことを教えてくれなかったが、私は漫画で日米戦争のことを知った。そのころ戦記ものと呼ばれる漫画が少年雑誌によく連載されていた。ゼロ戦隼人・ゼロ戦黒雲隊・ゼロ戦レッド・紫電改のタカ・サブマリン707、撃墜王坂井中尉だとか、加藤隼戦闘隊、アッツ島玉砕の軍神山崎大佐、奇跡のキスカ島撤退、硫黄島玉砕の司令官栗林中将など今でもすらすら口に出てくる。

 『丸』という戦記雑誌(高くて買えなかった)を年長の従兄弟が持っていたのを借りて夢中になって読んでいた。小回りのきくゼロ戦がグラマン戦闘機をバッタバッタと撃ち落とす場面に喝采した。ゼロ戦は世界一優秀な戦闘機なのに、戦争に負けたのは資源がなく物量において劣っていたためだ。ぐやちい!――こんな気持ちで当時の戦記漫画をよんでいた愛国少年は多いのではないか。それで太平洋戦争の知識だけは結構身につけた。しかし日中戦争のことを描いた漫画はまるでなかった。一つだけ覚えているのは、ロボット三等兵というドタバタ漫画だけだ。私は中国からの引揚者にもかかわらず「日中戦争を知らない子供たち」だった。

 戦後教育は日教組などの左翼が偏向教育を行って生徒に自虐史観を植え付けたというのは的外れである。日教組の運動は都市の一部で少し影響があったかもしれないが、日本全体としてはまるで支持されてなかった。私の世代は運動会や入学式・卒業式には粛々と日の丸を掲げ、君が代を歌っていたし、今も地元の学校はそのとおりやっている。中学校で日本は中国で侵略戦争をやっていたなどと教えてくれた先生は1人もいなかった。むしろ戦争の評価が定まらず(戦前からの教師も多かった)話を避けていたような雰囲気があった。私の世代は小・中学校のころ第2次大戦の知識を得たのは『少年マガジン』や『少年サンデー』などの漫画雑誌からだった。

 私と同世代の人間は、いまや社会の中核になっている人が多い。その一番の代表である安倍首相をはじめ戦後世代の政治家が、加害者としての日中戦争や朝鮮半島の植民地支配について無知なのを憂慮する。彼らの言動から推し量るとおそらく昔の少年雑誌で得た知識程度しかないのだろう。タカ派の中曽根元首相のほうが、主計将校とはいえ戦争の実相を知っているだけにまだ信頼がおけた。安倍さんはタカ派どころか無知派なのだと思う。

 国民が知らないのだから、そのような首相を選んでいるのは今の民主制度では整合している。しかし責任ある政治家がよまい言を繰り返すたびに日本の信用を落とし、中・韓はおろか「同盟国」アメリカまで敵に回しているのを国民は気づくべきだ。堺屋太一氏が、日本は周囲の5カ国と深刻な問題を抱えている。そんな国は世界中でイスラエルと日本だけだと言っているがそのとおりだ。
P1030290 70年前少年達は渡満道路から内原駅へ
Photo_3 現在の渡満道路
 わずか30分ほどで内原訓練所跡巡りを終えた。帰りのタクシーの中で運転手さんは「今の若い子もこんな所にほうりこんで鍛えれば、悪いことはせんだろうにね」とつぶやいた。私は半分同意しつつも、むしろ安倍首相や石原都知事なんかを、こんな所にほうりこんで性根を叩き直せばちっとは言葉に気をつけるかな、などと思いながら内原を後にした。

当時の写真は 全国拓友協議会編「満蒙開拓青少年義勇軍写真集」より

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コメント

あの戦争は何だったろう 侵略戦争だった 15歳の子供に判断できるはずがない。私の父も義勇隊に参加した。その後シベリヤ抑留・・・日の丸を恨み、日本人を恨み君が代を恨み死んだ。今の日本人は先人の苦労をなんと思っているのだろう。日本は将来中国と一戦を交えるだろう。戦争は絶対してはならぬと思う。

コメントありがとうございます。この記事を書いてから六年あまりになりますが、これほど日本が右傾化するとは思いませんでした。日本人は戦争の危機感なしに、中国と衝突するかもしれません、安倍首相は毅然とするという言い方がすきですが、それに喝采を送る人達は毅然とすれば相手が逃げると勘違いしているようです。満州事変から敗戦まで日本人は侵略を聖戦、東洋平和のためだと、毅然と支那へ大軍を送りました。その反省もなしにまた中国と戦争を起こそうとしています。議会は共産党や社民党も含めて翼賛会状態で、人も住んでいない孤島の争奪に血迷っているようです。父は戦争・殺し合いほどアホらしいことは無いと言っていました。こんな島に血を流す値打ちがないと考えるのは少数派のようです。領土ナショナリズムは恐ろしいものです。残念です。

初めまして。私は長く米国に住んでいた為、現在の日本に戸惑っています。
米国で日本の歴史を学んだ時は 確かに「日本語」で学びました。
ブログ主様と同じような内容を数多く読みました。
それなのに 日本に来て 日本の友人と日本の歴史の事を話すと
話しが全く食い違ってしまう事に気付きました。
日本語であらかた読んでしまった後は 英語の資料ばかり読んでいたので 日本人と欧米人とでは視点が違うから、食い違いも当然なのかもと考えていましたが
友人達がどんな資料を読んでいるのか知るべきだと思い、検索してみましたところ「日本の戦争犯罪など無かった」というサイトばかりで驚きました。貴殿のブログまで遡るまで54ページ前となりました・・・

『毅然とすれば相手が逃げると勘違いしているようです。』
米国に戦争を仕掛けた時も 「精神力」で勝てると本気で考えていたそうですよね

何も変わっていない 日本の現実に愕然とします。
欧米のネットではよく 「日本の精神構造は真珠湾攻撃当時と何も変わっていない」というコメントを最近よく見かけます。

大変興味深いお話をありがとうございました。

コメントありがとうございます。日本では戦前から現在まで一貫して情報の統制が政府・官僚とマスコミによってされていると思います。恐らく日本にいると統制された情報しか伝わらないのではないかと思います。ネット社会の出現でむしろその傾向が強まっているのが心配です。

お返事ありがとうございます。
上記の名無しです 失礼致しました

『ネット社会の出現でその傾向が強まっている』
まさしくその通りです

なのに韓国や中国は 全く逆の方向に動いています。
元々政府の厳しい国でしたが
ネットの出現で 情報規制は非常に難しくなっています
日本だって 海外の情報にはアクセス出来るし
中国程規制も厳しく無い筈なのに

日本の英語教育のお粗末さは昔から言われていますが
最近 意図的なんじゃないかと本気で思ってしまいます。

三日前 内原を訪れました。満蒙青少年義勇軍のことを語り部として語るためです。8月長野県 満蒙開拓記念館へ また山形をたずね 遺族の方からおはなしを聴き 10/6には長野市でひらかれた 満蒙青少年義勇軍シンポジウムに参加して はじめて体験者のおはなしを伺いました。

ひとことでいえば だまされたんですね 国に。
国は兵士が足りないから 14歳のこどもを騙した。みんな土地をもらって開拓民になるつもりだった。でも 行ったらそうではなかった。中国人の土地を奪ってそこに入った。ソ連国境の警備をした。爆弾かかえてソ連軍の戦車にとびこむ訓練もしたそうです。食料がなくって ぜんざいがだされたとき ひとりの少年が帽子に隠して持ち出そうとしてリンチにあって死んだ...という記述もありました。 少年たちはそれでもがんばったんだけど.... 関東軍幹部や 満州国をつくった 安倍さんの祖父岸信介らががいち早くにげたあと 押し寄せるソ連軍と戦った。逃避行をした。 つかまってシベリアに送られた。

同じ日 霞ヶ浦の予科練平和記念館にも行きました。内原はだれもいなかったけれど 霞ヶ浦はいっぱいいた。予科練の子達も騙されたんです。....でも 待遇は違っていた。

食器ががショックでした。霞ヶ浦は陶器。市原はベークライト。内原は食事つくりから縫いものまでまで 全部 自分たちがやった。開拓への訓練の意味合いもあったのでしょうが.....。

なんだか さみしかった。 予科練については多くのひとが知っている。でも零下30度の地で 死んだ満蒙栄少年義勇軍の少年たちを知るひとはすくない。なんとしても語り継いでいきたいと想います。供養のためにも これからの子どもたちのためにも。

森様
コメントありがとうございます。
今年90歳になる、私の父と一緒に義勇軍を志願した人が言っていました。
「満州に行けば石炭(当時は高級な燃料)なんか土の上に落ちている。なんぼでも拾える。2年訓練を受ければ10町歩の田んぼがもらえる、肥料なんかやらなくても作物は何ぼでもできる、とか夢のような話を信じていた。内原訓練所へ行く前の晩、村で大宴会を開いてくれて、有頂天になって、天下を取ったような気分だった。最後はシベリアへ送られ・・・・戦後だいぶたって、政府は銀杯をくれただけだった。」

偶然このページに到達しました。
 まずは,このブログに出会えたことを嬉しく思っております。

 私も昭和27年生まれで,母が満蒙開拓青少年義勇軍の寮母(教師)でした。多くの少年たちと共に内原から満州に向かったそうです。そして,敗戦により幾多の死線を越えて日本に帰国したそうです。母の葬儀の時には,当時の生徒さんが数人訪ねてきてくれました。
 満州の様子は,時々聞いてはおりましたが,正直なところ,私にとって実感がわかなかったことを覚えております。ただ,母たちが引揚者と呼ぶことに長年違和感があり,難民そのものではないかと思っていました。
 最近の右傾化した日本の状況を見るにつけ,今後の日本を大変心配しております。親たちは当然ながら,そして私たち2世もそろそろ黄泉の国のお迎えを待つ年齢となりましたが,今のうちに何か発信しておかないと,当時の政治家達の愚かな過ちの繰り返しを懸念するものです。
 一度ですが,民主党の某代議士(40代)に,このお話をしたことがありましたが,まったく通じませんでした。日本人の劣化は相当進んでいると,その時思いました。なんとかしなければ!と思うのは私だけでしょうか。

ご存知かも知れませんが 満蒙青少年義勇兵 寮母さんの記録に 先生おさきにさようなら というのがあります。 8月 山形に行ったとき 山形には結婚しないで死んだ男の方を むかさり絵馬や花嫁人形をつくり お寺におさめて供養するという風習があると聞きました。
その寮母さんは74体の花嫁人形をつくったそうです。わたしは 11/14にこのものがたりを語るつもりです。
なにか できることをするしかないんでしょうね。この国はもうだめかもしれないと 想いながら あくせく ちいさなことをつづけたいです。

伴 至さま
父は第一期の義勇軍だったので、まだ寮母さんはいなかったようです。14~15歳の思春期の男子隊員を指導したのはまだ20代の若い指導員でした。男性指導員だけでは指導の限界を感じたのかその後、寮母制度を取り入れたようですが、お母様は困難な任務に、ご苦労されたことと思います。

「義勇軍」の言葉自体、当事者の親族以外、今の日本人は全く知らないと思います。存在自体が大陸侵略の「証拠」みたいなものですから戦後の政府も、まったくなかったかのように子供に教えませんでした。ワイツゼッカーの有名な言葉「歴史を忘れるものはその歴史を繰り返す」を、日本人は肝に銘じなければいけないと思います。

森 洋子様
「義勇軍」に興味を持っていただける方がいること自体、右傾化した現在の日本では奇跡のように感じます。森さんの活動が未来のこの国を開く力になる事を信じたいと思います。

 森様,郷様,コメントありがとうございました。「先生おさきにさようなら」を注文しました(まだ,手元には届いていませんが)。

ところで,
 生前,母は,都内の聖蹟桜ヶ丘というところで毎年春に行われていた,たしか拓墾祭という集まりに参加していました。母を車に乗せて私もよく行ったものです。当時はまだ多くの方が参加していましたが,現在はどうなんでしょうね。再訪してみようと思っております。
 また,母は当時の仲間とともに内原に何度か行っていたようですが,私も一度は行きたいと思っております。

 昨日(4月2日:日曜日),13年ぶりに拓魂祭に行ってきました。ずいぶん人数が減っていたのと,献花が少なくなっており,戦後70年を実感しました。
 かつては,「来年,またここで会いましょう」という挨拶があちこちで聞こえましたが,今回は,「来年は会えますかねぇ」という挨拶に変わっていました。
 拓魂碑の前で,おひとりで義勇隊の慰霊歌を,朗々と捧げる元隊員がとても印象深かったです。
 きな臭い世の中になってきましたが,多くの尊い犠牲者を思うと,つくづく戦争を行ってはいけないとの思いを新たにいたします。

伴 至様
昭和20年の最後の義勇軍の方でも80代半ばですね。
父の友達で私の知っている義勇軍出身の方もあと一人になってしまいました。時代の流れはいかんともしがたいのですが、戦争を知らない世代になり昔の過ちもすべて忘れ去られるのは怖いことです。

本日このブログに到着しました。
私は、福井の小さな農村の小学校で15歳を迎えていました、先生から満蒙開拓青少年義勇軍に応募するように勧められました。その時の日本は戦争の日々でした、1日も早く戦争でお役に立ちたい一心でした、先生からのお話で、何もわからずに喜んで応募したのです、家に帰り父に話しました、父は反対して先生にお断りを入れ先生も承諾しました。
しかし私は敗戦に至るまで、なぜ日本は何の為に戦争したのか聞かされていませんでした、ただ東洋平和のため、天皇陛下の為と教えられたのです。
今、私は88歳になります、忘れもしない満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所ことです、先輩たちの供養にお参りしたいと思います。
もう二度とこのような国民を騙すような戦争は阻止しなければなりません、今、国会では、戦争の経験のない人たちが国家権力で、戦争への道を歩もうとしています、子供や孫を戦争に出してはなりません。

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