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2012年7月

父の15年戦争14.満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所跡

この記事は2007年4月8日JANJANに掲載されたのを一部、訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております

 父が亡くなった翌年2007年3月、茨城県内原にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡を訪れた。父は1938年高等小学校を卒業した春、義勇軍内原訓練所で約3ヶ月間、基礎訓練を受け満州に旅立った。

 3月19日、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡を訪れた。JR上野駅から常磐線特急「常陸」に乗り約1時間、友部駅で乗り換え、ひとつ目の内原駅で下車する。駅から南へ約2kmのところに記念碑と当時の訓練生の宿舎である「日輪兵舎」を復元した建物があった。
P1030294 当時の日輪兵舎
 もともとは松林があった約40ヘクタールの土地に蒙古の包(ぱお)に似せた円形の「日輪兵舎」が300棟あまり点在し、最盛期には満14歳から19歳まで1万人もの若者が寄宿し、徹底した集団行動による軍事訓練や農耕訓練に励んだ。ここから満州(現中国東北部)の現地訓練所に送り出された人数は内原訓練所本部送出名簿によると86530名に上る。

 現在この周辺には県立養護学校や「義勇軍」訓練所所長だった加藤完治らが大正14年に創立した日本国民高等学校を受け継ぐ日本農業実践学園がある。

 駅から乗ったタクシーの運転手さんが昭和14年生まれで当時の訓練所のことをよく憶えていた。私の父が14歳で「義勇軍」に志願したこと、多くの隊員は高等小学校を卒業した年齢で入所したことを話すと、運転手さんは「そうですか。もっと年上の若者たちだと思っていた。今の中学2年か3年か……。まだ子供だったんだなあ」と当時を回想する。

 「戦争末期で尋常小学校が国民学校という名称に変わったころ入学をした。戦争が激しかったころで、8日とか18日とか28日など8のつく日は国旗掲揚台に日の丸を掲げ、君が代を歌って戦争の必勝を祈願したよ」。12月8日は真珠湾攻撃の日で大勝利の縁起をかついで祈っていたようだ。

 「若者たちが鉄砲や鍬をかついで訓練していた。内原駅に通じるこの桜並木の道を通っておおぜいの青年が駅のほうへ行進していった」。通称渡満道路と呼ばれた桜並木は今も当時のまま花を咲かせているという。

 「もうすぐ桜の花が満開になってこの辺は私の散歩のコースですよ」と運転手さん。今でも九州から北海道まで元隊員たちが団体で当時を懐かしんでやってくるという。

 「長野県が一番多く行ったそうだね」。この土地でタクシーに乗っていると全国からやってきた元隊員たちをよく案内するらしく、さすが詳しい。

送出日本一、長野県の場合
 
長野県は「義勇軍」の送出数がダントツ全国トップで6939人が満州に送られている。一般の満蒙開拓団も全国1位で、村の半分が移住する分村・分郷と呼ばれるやり方で開拓団を組織した。当時信州は繭の生産が全国一で、世界大恐慌に端を発した昭和恐慌の影響で絹糸が暴落し多くの村が疲弊していた。娘の身売り、一家離散、心中、夜逃げなどが続出した。この苦境から逃れるのに満州は農民にとって希望の大地だった。しかし経済的理由だけでなく、子供たちを「義勇軍」に駆り立てたのは学校の先生の影響が大きかった。

 長野県歴史教育者協議会編「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」には昭和15年の長野県の義勇軍志願の動機を調べるアンケート表が載っているが、それによると本人希望が49.4%、教師の勧め42.1%、家族の勧め5.4%、その他2.9%になっている。昭和16年になると本人希望の数値がなぜか空白だが、教師の勧めが81.4%で圧倒的に多くなっているのは、拓務省からの割り当てによる強引な勧誘が原因のようだ。

 14、5歳の少年たちを遠い満州にやるにはいくら本人が希望しても両親、とりわけ母親の反対を押し切る必要がある。戦前から教育県として名高い長野県は「信濃教育会」が中心になって興亜教育といわれる、欧米に対抗したアジア侵出のイデオロギー教育を熱心にやっていた。教師は親の反対で迷う子供たちにあの手この手で口説き落とした。その結果が日本一の「義勇軍」送出人数として現れた。

 だがこうして送られた「義勇軍」の最期は悲惨だった。上笙一郎著『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、敗戦直前の在満州開拓民はおよそ27万人で、引き上げまでに、戦死・自決・病死・餓死・凍死した人が7万8500人となっている。これは3人強に1人が亡くなるという勘定でこの率を「義勇軍」に当てはめ、外務省の満洲開拓民生死統計(昭和31年)などの資料を基に推計すると、約2万4200名の義勇隊員が亡くなっているのではないかと書いている。

 ちなみに終戦直後の全満州の日本人人口は155万人ぐらいとされているが、引き上げ途中で17万6000人が亡くなっている。これらの犠牲者の数字を比べてみると全満州日本人人口の17%を占めるに過ぎない満蒙開拓民が、全満州日本人の引き上げ途中死亡者の約半分を占めるという異常な犠牲を払っていることが分かる。さらにその悲劇は中国「残留孤児」の問題となって現在も引き継がれている。

 五族協和、道義世界の建設の聖業を目指したはずの国策満蒙開拓はどうしてこんな末路を迎えたのだろうか。国策を進めた誰がその責任を取ったのだろうか。

戦争責任
Photo
内原の「義勇軍」跡地には5~6mはあろうかとおもわれる石碑がそびえ、その横の「拓魂」碑には次のような文字が刻まれている。

内原は 義勇軍の心のふるさとである綱領は次ぎのとおりであった
1.義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追進シ 身ヲ満洲建国ノ聖業ニ捧ゲ 神明ニ誓ッテ天皇陛下の大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
1.我等義勇軍ハ 身ヲ以テ一徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ 道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス
義勇軍は大陸の厳しい風雪に耐え ひたすら理想の村づくりに邁進した
しかるに昭和20年8月 祖国の敗戦によりそのすべてが烏有に帰した
以来30年の歳月が流れた
われわれは 志半ばに倒れた同志の遺志を偲び 義勇軍創設の趣旨を録し 永く後世への記念とする
ここに内原会並びに関係各位の協力を得て その鴻志を刻み同志の碑とする昭和50年5月3日
満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑建立委員会
委員長 那須皓全国拓友協議会

 この碑文を素直に読むと、「義勇軍」は天皇の意思に副い満洲で厳しい風土に耐え民族協和の理想を実現しようとしたが、日本が戦争に負けたためその成果は水の泡となった。30年たって犠牲となった隊員たちをしのびその趣旨・意義を後世に残す――と理解して間違いはないだろう。この文には当時の国策を肯定するだけで、批判もなければ反省もない。それもそのはずこの碑を建立した代表の那須皓は元満洲移住協会理事で「義勇軍」創設の建白書を出した6人のうちの1人で国策を推進した中心人物なのだ。

 日本国内には先の大戦で倒れた人たちを追悼する石碑は、星の数ほどあると思われる。それらは押しなべて、この碑文のように死者の陰に隠れて、誰がそのような悲劇を招いたのかまるで分からない文章が刻まれている。そんな文章からは「大東亜戦争」は負けたことが悪いのであって(勝てば官軍)日本にも言い分はある(三分の道理)という思惑が透けて見える。これらは戦争を知らない世代が、南京大虐殺はなかったとか、慰安所はただの売春宿であって、軍の関与はなかったなどという、戦前の軍部の暴虐を否定する言説をそのまま受入れてしまう下地になっている。
Photo_2 加藤完治の銅像
 この拓碑の近くには日本農業実践学園があり、その入り口にも大きな石碑がある。さらに前庭を隔てたところに、鍬を持った初代校長加藤完治の銅像が立っており、その奥には弥栄神社と書かれた祠(ほこら)が鎮座している。

 加藤完治は「父の15年戦争(7)糞尿をなめるカリスマ教育者」で書いたように、国策満蒙開拓を強力に推進した中心人物であった。敗戦後は戦争協力者として公職を追放されたが、戦犯に指定されることもなく、昭和26年には解除され、昭和28年には日本高等国民学校(戦後日本国民高等学校を改称)の校長に復帰した。その後、数々の旧満州開拓関係や農林団体の要職につき、昭和40年4月には農林業功労者として天皇主催の園遊会にも招待され、昭和42年3月、83歳で天寿を全うした。
P1030287壮行式での答辞
 加藤は自分が指導して満洲に送り込んだ青少年たちの短い薄幸な人生をどう考えながら戦後を生きたのだろうか。指導者としての戦争責任を感じていたのだろうか。多くの少年たちの運命を左右した学校の教師たちは戦後どんな教育者に変わったのだろうか。
父は加藤完治の思い出を次のように述べていた。
P1030296 いっせいに義勇軍綱領を唱える
 「狂信的な天皇主義者でわしらは毎朝、君が代を歌いスメラノミコト(天皇)イヤサカ(弥栄)を三唱した。加藤は満洲に普通の移民をやるのは意味がないといっていた。天皇に帰一した純真な君たちのような青少年こそが満洲国の礎石になるのだ、それを邪魔するやつを退治するのが支那事変の聖業だと言っていた」

軍国日本の歴史を教えなかった学校
 
私は父に現在の日本人の多くは戦前日本が中国に攻め込んだことを反省どころか、悪いことだと思っている人間は少ないのではないか、また戦後世代の人間は日本が戦前植民地朝鮮や中国で何をしたのかまるで無知なことについて、どう思うか聞いたことがある。

 父は「確かにそのとおりだ。わしら戦争に行った人間は現地で何をしたか、都合の悪いことは、ほとんど子供の世代にしゃべっていないし、学校でも教えていないだろう。それに知らなければ反省のしようがない」と言っていた。

 私は昭和27年生まれで昭和40年代に中学・高校教育を受けたものだが、中学校で社会の近・現代史は明治ぐらいまでしか教わった憶えはない。それ以後の歴史は春休み前にやっと2時間だけ工面し、まとめて授業を受けた。なぜか教頭先生が教壇にたちサンフランシスコ講和条約まで特急で講義した。その講義の短い時間内でもソ連の中立条約違反とピカドン(原爆投下)だけはしっかり教えてくれ、ソ連と米国はひどいことをしたと言っていた。そのころ日本で一番あこがれの国は永世中立国スイスだった。

戦争の知識は『少年マガジン』から
 
学校ではあまり戦争のことを教えてくれなかったが、私は漫画で日米戦争のことを知った。そのころ戦記ものと呼ばれる漫画が少年雑誌によく連載されていた。ゼロ戦隼人・ゼロ戦黒雲隊・ゼロ戦レッド・紫電改のタカ・サブマリン707、撃墜王坂井中尉だとか、加藤隼戦闘隊、アッツ島玉砕の軍神山崎大佐、奇跡のキスカ島撤退、硫黄島玉砕の司令官栗林中将など今でもすらすら口に出てくる。

 『丸』という戦記雑誌(高くて買えなかった)を年長の従兄弟が持っていたのを借りて夢中になって読んでいた。小回りのきくゼロ戦がグラマン戦闘機をバッタバッタと撃ち落とす場面に喝采した。ゼロ戦は世界一優秀な戦闘機なのに、戦争に負けたのは資源がなく物量において劣っていたためだ。ぐやちい!――こんな気持ちで当時の戦記漫画をよんでいた愛国少年は多いのではないか。それで太平洋戦争の知識だけは結構身につけた。しかし日中戦争のことを描いた漫画はまるでなかった。一つだけ覚えているのは、ロボット三等兵というドタバタ漫画だけだ。私は中国からの引揚者にもかかわらず「日中戦争を知らない子供たち」だった。

 戦後教育は日教組などの左翼が偏向教育を行って生徒に自虐史観を植え付けたというのは的外れである。日教組の運動は都市の一部で少し影響があったかもしれないが、日本全体としてはまるで支持されてなかった。私の世代は運動会や入学式・卒業式には粛々と日の丸を掲げ、君が代を歌っていたし、今も地元の学校はそのとおりやっている。中学校で日本は中国で侵略戦争をやっていたなどと教えてくれた先生は1人もいなかった。むしろ戦争の評価が定まらず(戦前からの教師も多かった)話を避けていたような雰囲気があった。私の世代は小・中学校のころ第2次大戦の知識を得たのは『少年マガジン』や『少年サンデー』などの漫画雑誌からだった。

 私と同世代の人間は、いまや社会の中核になっている人が多い。その一番の代表である安倍首相をはじめ戦後世代の政治家が、加害者としての日中戦争や朝鮮半島の植民地支配について無知なのを憂慮する。彼らの言動から推し量るとおそらく昔の少年雑誌で得た知識程度しかないのだろう。タカ派の中曽根元首相のほうが、主計将校とはいえ戦争の実相を知っているだけにまだ信頼がおけた。安倍さんはタカ派どころか無知派なのだと思う。

 国民が知らないのだから、そのような首相を選んでいるのは今の民主制度では整合している。しかし責任ある政治家がよまい言を繰り返すたびに日本の信用を落とし、中・韓はおろか「同盟国」アメリカまで敵に回しているのを国民は気づくべきだ。堺屋太一氏が、日本は周囲の5カ国と深刻な問題を抱えている。そんな国は世界中でイスラエルと日本だけだと言っているがそのとおりだ。
P1030290 70年前少年達は渡満道路から内原駅へ
Photo_3 現在の渡満道路
 わずか30分ほどで内原訓練所跡巡りを終えた。帰りのタクシーの中で運転手さんは「今の若い子もこんな所にほうりこんで鍛えれば、悪いことはせんだろうにね」とつぶやいた。私は半分同意しつつも、むしろ安倍首相や石原都知事なんかを、こんな所にほうりこんで性根を叩き直せばちっとは言葉に気をつけるかな、などと思いながら内原を後にした。

当時の写真は 全国拓友協議会編「満蒙開拓青少年義勇軍写真集」より

パンダの赤ちゃん死ぬ

 P1030270 7月12日付神戸新聞より
 7月11日、東京上野動物園で5日に生まれた、パンダ・シンシンの赤ちゃんが死んだ。今朝のテレビのニュースで子供が泣いている場面を見たが、尖閣の問題で日中が対立する中、残念なことだ。
ちょっと前、石原都知事がパンダの赤ちゃん誕生の感想を聞かれ、「興味がないと」と言ってのけたあと、名前を「尖尖」か「閣閣」にすればよいとのたまった。冗談とも本気ともつきかねるが、この人がいうと本当に政治問題になる。友好のシンボルが、煽動政治家にかかれば対立のシンボルにもなってしまう。もともとパンダを貸して欲しいといったのは東京都のほうではなかったのか?生まれてきたパンダもそれが嫌であの世に行ったのかもしれない・・・
P1030279 7月12日付神戸新聞より
 同じ11日、尖閣周辺に中国の漁業監視船3隻が一時領海に侵入する。これは野田政権が尖閣諸島の国有化を打ち出したのをけん制する狙いがあると思われるが、領土問題の対立が危険な方向に進んでいる。

 11日読売「中国船の尖閣沖侵入」。恐れたことが次第に発展。日本が領有の立場を強める動きすれば中国も動かざるをえない。領有争いで軍事紛争にいくのは全くの愚。その愚を日本、中国まっしぐら。ほくそ笑んでいるのは対中軍事台頭で日・韓・台・比利用するオフショアーバランシング推進の米軍関係者
 尖閣:危惧がだんだん具体化。「棚上げ」は日中領有主張の中、中国が日本の管轄を容認、中国の武力不行使で日本に有利なことを理解すべし。11日朝日「尖閣沖、中国の漁業監視船3隻が一時侵入。退去要求に”正当な公務。妨害するな。直ちに中国領海から離れなさい”の趣旨を無線で伝えてきたという」 孫崎享ツイッターより

 孫崎氏の言うとおり日本が領有の確定を急ぐほど中国も同じ動きをする、行き着く先が軍事紛争になるのは目に見えている。これを望むのは米国の軍産複合勢力で、日本を中国の「かませ犬」に仕立て上げようとしている。
 一番望ましいのは「棚上げ」。こんな芥子粒ほどの誰も住めない島の領有で争うのは愚の骨頂。

父の15年戦争13.帰郷ー満州はええとこやぞ

2007年3月7日JANJANに掲載された記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなどしております。
 
満蒙開拓青少年義勇隊員だった父は昭和17年に帰省した。その際、後輩たちに「義勇軍」宣伝のための講演をした。謝礼は一回につき5円でかなりの小遣い稼ぎになり、講演では政府の宣伝どおりの夢のある話をした。実際、現地での生活は過酷だった。しかし父はジャングルを切り進むように生きぬいた。

満州帰り
 父は昭和13年、満14歳で中国大陸に渡ってから昭和28年に帰還するまで、2回淡路島に帰省している。最初は昭和15年、蓄膿症が悪化し手術のため帰郷した。2度目は昭和17年の師走に戻った。

 「満20歳になると徴兵で兵隊にとられ、いつ死ぬか分からん。戦死すればもう故郷に帰ることができん。それで肉親や友達と最後の別れをするため帰った」という。
 戦前の徴兵制度では、男は軍隊に入るのは当然の義務であり、健康な肉体と精神を持つものは拒否することはできなかった。父は軍隊や戦争の話をするときは、枕ことばのように「わしは徴兵検査では甲種合格だった」と必ず付けた。甲種、第一乙種、第二乙種、丙種とここまでが合格で丁種になると兵役不適格になる。当時の成人男子にとって全体の1~2割の甲種合格というのはかなりのステイタスがあったようだ。素っ裸で軍医の前に立ち、前から後ろから恥ずかしい部分をさらけだし、肉体の頑健さを検査される。甲種合格者は戦争マシンとして最高のお墨付きを国家から与えられた。
P1030241_2

昭和16年1月22日発行 内閣情報局編集 写真週報より

P1030247_2 昭和17年12月、亀岡八幡宮にて(後列左端・郷敏樹、前で座っているのが前川三二氏)
同級生
 
昨年父がなくなって49日も過ぎたころ、父の同級生で近くに住む、前川三二氏に会った。前川さんは私の顔を見るなり、「郷さんはええとこに行ったゆうな」と切り出した。私は一瞬、訝(いぶか)ったが続けて「わしも、もうすぐええとこにいくんじゃ」とにこにこ笑いながら言われたので、そうかおやじは「ええとこ」に逝ったのだと納得し、それまでのさびしい気持ちが一度に晴れていった。
 前川さんにそのころ父と一緒に写した写真のことを尋ねると「これは郷さんが昭和17年12月の暮れに満州から帰ってきた時、同級生で歓迎会を料理屋の『きらく』でした後、八幡(はちまん)さんの忠魂碑の前でとった記念写真だ。わしは翌年の18年に徴兵検査を受け兵営に入ったのでよく覚えている」と教えてくれた。満州帰りの防寒服を身にまとった20歳前の若々しい父と友人たちが写っている。
現地報告会
 帰省する前、満州の「青年党」の幹部が「田舎に帰るのなら、後輩たちに躍進している満州の宣伝をしてこい。手配はこちらでするから」と、父は言われたという。
 「淡路島に帰って正月の松の内が過ぎたころ、地元の小学校や青年学校からぜひ満州の話を後輩たちにしてほしいと講演を依頼された。そこで一緒に戻っていた西淡(現南あわじ市)出身の大住(おおすみ)君と一緒に各地の学校をまわった」。1回の講演で5円の謝礼をもらったという。「当時の金で酒屋の丁稚や見習い職工の月給ぐらいだが、大住と2人で三原郡の(現南あわじ市)の学校をあっちこっち回ったのでよい小遣い稼ぎになった」。金儲けをした話になると、とたんに父はうれしそうな顔をする。
 昭和18年頃になると、日本には太平洋戦争開戦時の「勝った勝った」のムードはなくなっていた。ミッドウェー沖海戦から坂道を転げ落ちるように敗北を重ねていた。
「内地に帰ってみると奇妙に静かな雰囲気だった。当時は報道規制が厳しく、日本が負けているなんて誰も言わなかったが、日本海は敵潜水艦が出没し味方の輸送船が次々沈められていた。いくら大本営が嘘の発表をしても戦死者が増えていくと、国民の間になんとなく不安な雰囲気が出てくる」
 そのころ伯母(父の姉)の夫は海軍の輸送船乗りだったが、日本海でアメリカの潜水艦に沈められ、2人の子供を残して戦死している。日赤の従軍看護婦だった母は昭和19年2月、関釜連絡船で大陸に渡ったが、その時に敵潜水艦に追跡され「一晩中救命胴衣をつけたまま、生きた心地がしなくて寝られなかった」と述べている。父の話では「そのころの満州は治安がよく安定していた。70万の関東軍の精鋭が健在で、内地では日本はだめになっても満州に行けば大丈夫、という幻想を持つ人が多かったようだ」という。
P1030251_2 「ある開拓義勇軍の記録 ああ清渓」より
 後輩の小学生や青年学校の生徒の前で、父はどんなことをしゃべったのだろうか。「広漠とした原野に広がる地平線というものをはじめてみた。沈む夕日の大きなこと。きれいやぞ~。ジャガイモ畑が、端から端まで1日中歩いても終わりがないくらい広がっている。とにかく満州はひろて、ええとこじゃ。土地も肥えて肥料がなくても作物はなんぼでもできる。おまえらも来いよ!一緒にやらんか!――てなことをしゃべった」。父は英雄気取りで、後輩たちに熱弁を奮ったようだ。父の友人の今口氏によると「畑の端から端まで歩いて1日中かかるというのはおおげさだが、内地とはスケールがかなり違うのは間違いない」という。

模範義勇隊員 菅野正男
P1030245_2 
 「土と戦ふ」という昭和15年に文部省の推薦図書となった本がある。これを書いたのは当時満鉄哈川訓練所の訓練生であった菅野正男である。彼は大正9年、岩手県江刺郡福岡村の農家の長男に生まれ、昭和13年2月に19歳で第一次の開拓義勇軍に応募して渡満。嫩江(ノンジャン)大訓練所で1年基礎課程を終えた後、竜江省の満鉄、哈川訓練所に移り、ここで発表した嫩江訓練所での体験記「土と戦ふ」が農民文学有馬賞をうけ一躍世間に注目された。
 「父の15年戦争(9)嫩江大訓練所」で書いたように、第一次満蒙開拓青少年義勇軍の応募は多数あり順調に計画はスタートした。しかし厳しい検閲にもかかわらず、現地での過酷な訓練状況が徐々に内地に伝わると、送り出す親たちに動揺が広がり、二次以降は希望者が極端に少なくなった。そこで訓練所本部や政府・拓務省は、第一次の隊員の中から模範的で優秀な青年を選び、帰省を利用して内地に帰り、後輩たちに宣伝をする現地報告隊を組織した。
 私の父より4歳年上で、ほぼ同じ時期に同じ場所で開拓義勇隊員として過ごした菅野正男も昭和14年、現地報告隊として故郷岩手県下の青年学校で講演会を行っている。次にその時の講演記録文を一部引用する。

 昭和維新を実践するもの 菅野正男
 私は義勇軍最初の現地報告で帰ったが、現地報告よりも内地に帰った感想を主として諸君にうったえたい。
 私は長男であるから、義勇軍を志願しても、父が許さなかった。しかし百姓として生きる信念の私には、大陸の土に対する愛着と憧憬は深かった。私は三年たったら帰って来ると父を騙し渡満した。義勇軍は忠義となる第一歩である。国の為になることであり将来安定した一家をつくるのであるから、父を一時は騙しても結局は孝行にもなる。日本は忠孝一本の国である、平重盛の悩み(筆者注:忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず)は神経衰弱の結果と私は思う(笑声)。日本は膨張した、大陸という着物を着なければならぬ。しかるに加藤完治先生が頑張っても満州に骨を埋める覚悟のものは僅かに義勇軍三万人、開拓民二万人漸く五万人である。満州にいるものは内地人の進出の少ないことを悲しんでいる。諸君よく考えてみよう。日本は非常時ではない、危機なのだ。ソ満国境黒竜江の向こうには三十万のソ連開拓民が居る。ノモンハンの協定で安心してはならぬ。
今度内地に帰ったら景気がよいのに驚くと共に悲しくなった。ある海岸の村に行ったら、生徒が一晩烏賊を釣ると校長さんの一月分の月給より多く金が取れるとて有頂天になっていた。故に義勇軍に対して理解が少ない。中には反対する馬鹿者もある。それは国賊である。
義勇軍は宣伝募集されて行くものではない。満州で銃と鍬を執る者が無くして一旦緩急あらば誰が満州を守るか、日本の国防は満州を守ることである。―中略―
人生の意義は長く生きることではない。二十年でもいい、国家の為に捧げる男らしい仕事をすることだ。そして永劫の人生のため子孫のため、時代の捨石となる信念に生きることだ。いずれ満州の開拓はやらねばならぬ。行かねばならぬ。やむにやまれぬ大和魂の発露として諸君の沢山来ることを念願してやまぬ。――昭和17年満州移住協会発行「開拓地の春」より

 20歳の青年の切々たる憂国の情が伝わってくる演説である。おそらく彼の心情は「2.26事件」を引き起こした青年将校や満州事変を画策した関東軍の少壮参謀たちに通じるものがあるのだろう。人間として最低限の生活環境を保障されないまま、開拓訓練生として死に物狂いの1年を過ごしたにもかかわらず、菅野正男は国家に対する忠誠心に衰えがなかった。昭和の軍国主義教育が血肉になっていた。
 それに比べ不良隊員の父は、講演会を引き受ける動機もいささか不純である(5円の謝礼が魅力だった)。現地の開拓訓練もあまりの過酷さにやる気がなくなり「2年目ぐらいから好き勝手なことをしていた」という父には幸い、菅野正男の国家と一体となった狂気の信念がなかったようだ。父もその世代の青少年同様、人並み以上の愛国心を持っていた。興味本位とはいえ国策の満蒙開拓に進んで応募し、現地では橋本欣五郎の国家主義運動にも共鳴した。
 とはいえ、父は国家より自分の命を最優先した。開拓義勇隊員は原則として衣食住は完全に保障されているはずだった、しかしこれまで見てきたように、現地での訓練は最低限の生活さえできないひどい状況だった。そんな状態で生きるには、自分勝手にジャングルを切り進むしかなかった。父は生き抜いた。
 満蒙開拓青少年義勇軍の模範隊員、菅野正男は昭和16年5月、過労が原因で結核になり満州の土となった。国に殉じた22歳の生涯であった。

父の15年戦争12.全体主義者橋本欣五郎

2006年10月16日JANJANに掲載された記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなど行っております。

父は若いころ、国粋主義に心酔していて橋本欣五郎の大日本青年党に入っていたという。橋本はどのような人生を歩んだのか。

わしは右翼だった
 「わしは若いころは国粋主義に心酔していて橋本欣五郎の大日本青年党(大日本赤誠会)に入っていた」
 始めて聞く話に私はちょっとショックを受けた。しかしそう言えば、昭和30年代半ばから40年代ごろまでは産経新聞を愛読していたし、それらしき交友関係もあった。父のつき合いは間口が広く来る人拒まずで、私が子供の頃ろくでもない人間や、怪しげな人たちがわが家に出入りしていた。
思い出すままに挙げると、よく来たのが近所の酔っ払い。闘鶏をする、バクチ打ちも「鶏つぶしてくれ」と、ひねたシャモを抱えてやって来た。品物を仕入れても最後は必ず踏み倒す男とも一緒に商売をしたことがある。自称鹿児島県の山持ち(山林地主)の息子と言う東京弁を使うヤマ師もチョコチョコ見かけた。詐欺師、ペテン師、チンピラ、ヤクザ、裁判所の差押人……公安刑事も来た。
 母は父のことを「誰でも彼でもええ人じゃ、ええ人じゃとすぐ信用する」といつも嘆いていた。けっしてお人よしというわけではないのだが、人から頼みごとをされると断れない。一杯やりながら下から持ち上げられると、ころっとだまされる。こんな人間を家族に持つと間違いなく貧乏をします。
閑話休題、そんな人間関係の中で興津ケンペイという人がいた。通称ケンペイ、ケンペイと呼ばれていたので、私は長い間ケンペイが本名だと思っていた。実は戦前陸軍の憲兵隊にいたのでそう呼ばれるようになったという。
興津さんは子供だった私にも敬語を使う礼儀正しい堅気のおじさんで、満州事変の立役者、石原莞爾将軍の信奉者だった。父は別に石原将軍の思想や日蓮宗に共鳴していたわけでもなかったが、「樋口のお伯父さん(郷敏樹の母の兄)は石原莞爾と陸軍大学のとき住んでいた官舎がちかくで仲が良かった」と言っていたので、興津さんとは話が合ったのだろう。その他に榎本さんという物静かな、もと右翼だという人もたまに話をしにきていた。
 戦前陸軍中将であった大伯父樋口季一郎は橋本が国家を改造する目的で陸軍参謀本部の少壮将校を中心に設立した桜会の初期メンバーであり、ハルピン特務機関長や参謀本部第二部長、北方軍軍司令官の経歴がある対ソ戦のエキスパートでもあったが、父・大伯父ともに橋本とは不思議な縁でつながっている。

橋本欣五郎と大日本青年党
Memo0097 明治37年熊本陸軍地方幼年学校時代 田々宮英太郎著「橋本欣五郎一代」より
 橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)は明治23年(1890年)岡山県岡山市に生まれ、7歳の時福岡県門司市に引っ越しをする。熊本幼年学校を経て明治44年(1911年)陸軍士官学校(第23期生)を卒業後、久留米の野戦砲兵第24連隊付少尉に任官される。大正6年(1917年)陸士卒の一割程度しか入れない難関の陸軍大学に入学をして、語学はフランス語・ロシア語を学んだ。この年は世界を震撼させたロシア革命が起こった年であり、軍事・政治・思想の探究心に燃える橋本に大きな影響を与えたと思われる。
 陸大を卒業後、大正10年(1921年)参謀本部第二部ロシア班に勤務をする。その後ハルピン特務機関勤務を経て大正12年(1923年)満州里(マンチュリ)特務機関長となる。
 昭和2年(1927年)トルコ大使館付武官として勤務するが、そのころトルコでは封建的なオスマン・トルコ帝国が瓦解し、民族主義的な国民革命が達成されつつあった。それを主導したのがトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ(アタチュルク)である。橋本は赴任早々目の当たりにした革命の息吹に感激し、ケマルの熱烈な心酔者となる。
 その後スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーが昭和4年(1929年)2月11日コンスタンチノープル(イスタンブール)に追放されてきたが、まもなくマルマラ海のプリンキボ島に移る。トロツキーはここで4年間過ごすのだが、橋本はその動静を探るため大使館の根本外務書記生をプリンキボ島に常駐させていた。橋本は対ソ情報収集やロシア革命研究の過程で、レーニンと共にトロツキーの革命思想・戦術にも強い影響を受けたようだ。
 橋本は昭和5年(1930年)帰国すると、参謀本部第二部ロシア班長となる。同年10月桜会を結成し、クーデターも視野に入れ、一路国家革新運動にまい進し始める。昭和6年(1931年)「三月事件」を企図するが未遂に終わり9月、満州事変にも暗躍する。10月17日、「十月事件」で検挙されるが、重謹慎20日と罪はほとんど問われず姫路野戦砲兵第10連隊付となる。
 その後橋本は関東軍に転属、ハイラル特務機関長を経て静岡県三島野戦重砲兵第二連隊長となった。昭和11年(1936年)2・26事件が勃発するや、急遽上京した橋本は事態の収拾に奔走するが、決起した将校達は逆賊となり、不本意な橋本は予備役となる。陸軍内の皇道派は粛清され、橋本は軍務を離れたことから、クーデターによる政権奪取をあきらめ、民間からの草の根的全体主義運動を起こそうとした。
 同年10月17日、大日本青年党を創立して統領と称し、「橋本欣五郎宣言」を発表する。橋本は旧態の古臭い右翼のイメージを一新するため、明治神宮での結党式にはモダンな紺のサージの制服を着て、天皇帰一をシンボル化した赤地に白丸を射抜いた党旗「白日赤誠旗」を掲げ臨んだ。
Memo0101 大日本青年党の党旗「白日赤誠旗」。橋本欣五郎著「革新の必然性」より

宣言 世界は今や、唯物的自由主義制度の行詰りにより、茲に一大更新を必要とする歴史的転換期に直面せり。然るに世界各国は、何れも旧国家生活姿態より未だ完全に更生し得ず、其の実力相伯仲し、嶄然他に光被するに足る体制を有する国家なし。
此時代に於て一歩を先んじ、優秀なる国家体制を確立するものは、正に世界に光被するを得べし。惟うに八紘一宇の顕現を国是とする我国は、即時基本然の発揮に依り、国民の全能力を挙げ
天皇に帰一し奉り、物心一如の飛躍的国家体制を確立し、光輝ある世界の道義的指導者たるを要す。右宣言す。――
昭和15年12月31日発行、橋本欣五郎著「革新の必然性」より

 橋本は対外的には親独伊、英米撃滅論者で満州領有など大陸に積極侵出することを主張し、「支那事変」解決のため英国の援蒋ルートを遮断し南進を唱えた。また国内政治では党の使命として、財閥と結託し腐敗した政党政治を否定し、国民総動員を目標とする一国一党の実現を目指した。
 同じころドイツ第三帝国ではヒトラーにより国家と党の統一がなされ、ナチス(国家社会主義労働者党)はドイツ唯一の政党となっていた。ベルサイユ体制の打破を掲げ、第一次大戦での失地回復を目指すヒトラーは世界から驚異の目で見られていた。
 昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋での銃声で戦火が瞬く間に中国全土に広がった。8月、橋本にも召集令状がきた。党活動は著についたばかりではあったが、予備役の建川美次中将に統領代理をたのみ、小倉の野戦重砲兵第十三連隊を率いて出征をする。橋本はそれから1年7ヶ月にわたって中国大陸の戦場で指揮をとった。
Memo0098 昭和14年内地に帰還する橋本欣五郎大佐。橋本欣五郎著「革新の必然性」より
 
昭和14年(1939年)3月、橋本は内地に帰還し、再び党務に復帰し党勢の拡大に乗り出す。同年11月19日、大日本青年党の第三回党大会は東京日比谷公会堂で開かれたが、そこでの組織方針は田々宮英太郎著『橋本欣五郎一代』によると、議会政治とは一線を画し、組織力を強化し党員を拡大するとして、その対象者は「党の主体勢力は青年勤労者層に在り、依って之を組織の第一対象者とす」とある。
 当時日本は米英に対抗するためナチス・ドイツとファッショ・イタリアに接近を図り、ヒトラーユーゲント(ナチスの青年組織)などが日本に交流のためよく訪れていた。
 ヒトラーユーゲントの代表団は、選ばれた長身・金髪・碧眼の若者達で、見事に統率された集団行動やきびきびした態度振る舞いで日本の青少年たちを魅了した。私は昭和一桁うまれの知人が昭和15年(1940年)ごろ、神戸を訪れたヒトラーユーゲントの代表団を間近に見て、あこがれたことを聞いたことがある。世界は新体制を求めるドイツ・イタリア・日本などで全体主義思想が跳梁跋扈していた。
 橋本は新党の名前をトルコの「青年トルコ党」からヒントを得て大日本青年党と名づけ、組織は青年を中核にした大衆動員で成功したドイツの突撃隊やナチスを参考にしたようだ。
Memo0099 昭和15年10月大日本青年党第四回大会で演説する橋本統領。橋本欣五郎著「革新の必然性」より
Memo0100昭和15年10月大日本青年党第四回大会で行進する幹部達。橋本欣五郎著「革新の必然性」より
 
大日本青年党の勢力は前掲の「橋本欣五郎一代」によると結成時7名から第一回党大会参加者600名、第二回党大会参加者は1000名になり、橋本が帰還してから初めて開かれた第三回党大会では全国から2千数百名の代表が参加し躍進した。
 昭和15年(1940年)元旦に書かれた「日本の目標」と題された橋本の文章には、紀元二千六百年記念事業として10万人の党員獲得を期するとしている。しかし党員対象の若者は兵隊に取られて内地では少なくなっていた。そこで橋本はかつて特務機関員として勤めた古巣である満州の開拓青少年義勇軍に目をつけた。
支那は熟れた肉
 
父はどんなきっかけで大日本青年党に入ったのだろうか。
「満鉄二井訓練所のときだったか南学田(みなみ・がくでん)開拓団に移行した頃だったか、はっきりした時期は忘れてしまったが……昭和15年か16年ごろ勧誘に来た。わしは義勇軍訓練所で加藤完治の農本的国粋主義を叩き込まれたが開拓団で農業を余りやる気が無かった。それで何か面白いことが無いかと思っていたところ青年党のオルグが来た」
 満州にいた活動的な党員は5・15事件や2・26事件の残党が多かったという。
 「2・26事件に連座して処刑された、西田税の部下だった、トクマル曹長と呼ばれる男と一緒に行動をしていたことがある」
 彼らは、満蒙は日本の生命線だとよく言っていたという。
「満州は日本が切り取って当然だといっていた。その根拠は日清・日露の戦いで満州には10万の英霊が眠っているというものだ。連中は、支那は熟れた肉で西洋列強に切り売りされる前に獲らねばならん。それにはまず北支を征するとも言っていた」
天皇制社会主義
 
大日本青年党は講演会や演説会をひらいて組織を拡大していたという。
「北の蒙古の町ハイラルから南の港湾都市大連まで橋本大佐の満州縦断講演旅行があったが、わしは一部、大佐の乗る馬の手綱もちとして同行したことがある。各会場は盛況で各種農業団体からの参加者が多く、いろいろな右翼団体がひしめいていた」
 当時の満州は恐慌によって職をなくした農民、労働者、商工業者など、さまざまな人達が一旗上げようとやってきた。
 「自由主義・資本主義は一部の資本家だけが肥太るので反対した。三井・三菱などの財閥、既成政党は敵だった。天皇をいただいた社会主義が良いといっていた。当時社会主義やファシズムはそんなに悪いイメージは無かった。むしろ社会主義の平等は良い。しかしそれだけだとみんなが勝手なことをする。それで天皇が上で重石になるという考え方だ。血統も何千年も続いている由緒あるものだし、とにかくこんなええもん(天皇制)はほかにない(万邦無比)。世界中に広めようと無条件で信じていた」
 橋本の論説には社会主義や共産主義を肯定するような考え方はない。しかし対ソ戦の専門家としてロシア革命の研究をしていた橋本には、貧困や抑圧が社会主義や共産主義思想に人々を接近させること、その哲学に若者をひきつける魅力があることが分かっていた。そこで、社会主義の肯定的イメージを取り込むのに天皇をいただいた社会主義=日本の全体主義=天皇帰一と一般党員に説明していたのではないだろうか。
 天皇帰一、八紘一宇これが大日本青年党の根本だったという。橋本は英米の個人主義、自由主義、資本主義は金儲け第一主義で腐敗した、時代に遅れた制度でファシズムに取って代わられるとみていた。現実にニューヨークの証券取引所に端を発する大恐慌は日本にも昭和恐慌を招き寄せ、庶民は塗炭の苦しみを味わっている。仕事をなくして満州にやってきた人たちには彼の主張は心に響いた。
独伊と結び英国を撃攘せよ
 
橋本は南京攻略戦のとき揚子江の上流に逃げる何万人もの中国敗残兵を乗せた船を砲撃して沈めたが、そのとき付近にいた英国軍艦レディーバード号も砲撃して問題になったことがある。橋本は激烈な反英主義者で、トルコ大使館付武官の経歴から大英帝国が中近東で、インドで、世界でいかに勝手気ままに振舞ってきたか良く知っていた。前掲の「革新の必然性」には次のような文章が載っている。

当面の問題としても支那事変が容易に片付かないのは、端的にいえば、英国が蒋介石の尻押しをしているからだ。ロシアの尻押しなどは高の知れたものだ。現実に、具体的に抗日政権を助け、仏ソ米を誘い入れて、対日包囲網を展開しつつあるのは英国だ。
支那事変解決の第一義、東亜新秩序の要諦は極東から英国勢力を撃攘することにある。こんな自明の理も知らず。何の外交があり得るか。「革新の必然性より」

 昭和15年(1940年)9月27日、第二次近衛内閣は日独伊三国同盟を結ぶ。続いて10月27日、大政翼賛会の発会式が行われ、日本の政党政治に終わりを告げた。橋本は三国同盟締結の前「仁義道」と題した文章の中で次のように述べている。

今後の世界は、英米仏ソを根幹とする自由主義的民主主義国家群と日独伊を枢軸とする全体主義国家主義的国家群との二大陣営に分かれるのは不可避の現象であり、既に、その対立は尖鋭な事実として進行中だ。―中略― 独伊の結盟は、日本ではいわゆる仁義に基いている。ヒットラーとムッソリーニは口の先や紙上の約束で共同しているのではない。男と男との仁義によって堅く誓い合っているのだ。
若し独伊のどちらかが仁義外れをやれば英仏蘇連衡の手で独も伊も共に打ちのめされることは明白だ。この両者は嫌應なしに仁義を守って一団となり積極的な体當りの戦法に出るしか途が無い。旧秩序に従うか、新秩序を造り出すか、衰亡か発展か、二途択一の絶対境に立っている。
日本はすでに防共協定の名によってこの仁義仲間に入った。入った以上は仁義を徹底するのが男の道であり、男の生きる道だ。いまさら尻込みする手は無い。日独伊協定は防共に限るとか何とかしみったれたことを言うな。結盟は速やかに政治、経済、文化、軍事の全面にわたり最高度に強化さるべきだ。「革新の必然性」より

大政翼賛会
 橋本の言説は率直で分かりやすい。ヤクザの縄張り争いにも似た列強の抗争、合従連衡はその後の歴史の行方を示している。日本はドイツの電撃的な西ヨーロッパ制覇に呼応するように南進をし、英仏蘭の権益を侵し始める。国内では第二次近衛内閣の発足で新体制運動が進み、政党は「バスに乗り遅れるな」と次々解散をする。
 昭和15年(1940年)11月3日、橋本は大日本青年党を「思想団体」大日本赤誠会と改変した。大政翼賛会では政治結社の並立を禁止(一国一党)されたからである。橋本は大政翼賛会発会と同時に常任総務となり政治的地歩を固めた。しかし翼賛会が推進した金融資本の支配制限や経済に対する官僚統制の強化は財界が反発してアカといわれ、平沼騏一郎や柳川平助らの観念右翼や皇道派軍人からは幕府とののしられ、危険視された橋本は有馬頼寧や中野正剛らとともに翼賛会を追われる羽目になる。
 軍部をも抑えうる一国一党を目指す、橋本の理想に近づいたかに見える大政翼賛会も政党、観念右翼、財界、官僚らの思惑違いから、内紛が始まり綱領や規約さえ出来ない有様だった。大政翼賛会は橋本の目指すナチス流の一党独裁体制には程遠かった。現人神をいただく天皇制とは大きな矛盾があった。
Memo0096 昭和17年5月15日大日本赤誠会発行戦時国民講座(上巻)より 
 昭和16年(1941年)12月8日、大日本帝国は清水の舞台から飛び降りた。緒戦の大勝利もつかの間、帝国は坂道を転げ落ちてゆく。橋本は開戦を知るや、大日本赤誠会の本部会議を開き次のように述べる。
 「開戦については意見もあるが、すでに戦争が始まった以上、わが会は全力を挙げて聖戦完遂に努力する」。反英米主義者の橋本にしても内心、2大強国を相手にしての開戦は反対であったと思われる。しかし賽は投げられた。
 昭和17年(1942年)4月30日、第21回総選挙(翼賛選挙)で橋本は福岡4区でトップ当選を果たした後、翼賛政治会総務となった。その後代議士会副会長になり昭和19年(1944年)8月、翼賛壮年団本部長に就任するが、そのころになると「大東亜戦争」はもはや聖戦完遂どころか軍事的な敗北が決定的になっていた。同年9月4日、橋本が手塩にかけて育てた大日本赤誠会(大日本青年党)は解散する。主体となる青年はほとんど兵隊に取られ「聖戦」に飲み込まれてしまったのだ。
A級戦犯
 昭和20年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を迎える。戦後橋本はA級戦犯として訴追され、東京裁判では無期禁固刑を受ける。
Memo0104 東京裁判での記念撮影。橋本欣五郎前列右から3人目。昭和23年7月20日発行東京裁判写真記録より
 昭和30年(1955年)9月17日、10年の獄中生活を終えて巣鴨拘置所を仮出所した橋本は意気盛んで、翌年アメリカからの「真の独立」を訴えて、参議院選挙全国区に立候補するがあえなく落選。
 その後国立第一病院に入院する。昭和の始めより資本主義・自由主義・民主主義打倒を掲げ、革新右翼の立場で天皇帰一、全体主義運動を先導した、反英米主義者には、「サンフランシスコ体制」で対米従属を選択した戦後日本に活躍の場は無かった。橋本欣五郎は昭和32年(1957年)6月29日、肺がんで死去した。

父の15年戦争11.叛乱

2006年9月11日JANJANに掲載され記事を一部訂正・加筆・写真の入れ替えなどしております。

 満鉄の鉄道自警村・二井訓練所に移行しても、ひどい住環境や食事は改善されなかったという。冬は風呂に入れず、夏場は伝染病・風土病などもよく発生したという。矛先は幹部に向かい、少年達の怒りは頂点に達した。

義勇軍全滅の危機
 酷寒の冬が過ぎ嫩江(ノンジャン)大訓練所にも春が来た。第一次満蒙開拓青少年義勇軍第二十中隊(和気中隊、約300人)は大訓練所から小訓練所に移行するため、昭和14年4月26日、北安省北安県二井(にせい)満鉄二井訓練所に先遣隊が出発し、本隊受け入れのための準備作業に当たった。
小訓練所は経営が満拓(満洲拓殖公社)と満鉄(南満洲鉄道株式会社)の二つの系統に分かれていた。二井訓練所は満鉄沿線にあり鉄道を匪賊や抗日ゲリラの襲撃から守る役割も担っていた。
義勇軍訓練所は宿舎や倉庫の建設から井戸掘りまでほとんど訓練生自身で営造したのが多かったので、建設技術が未熟でその指導もいい加減だったため暖房が効かないなどの欠陥が多かった。また当初拓務省は計画の実行を急いだため資材・物資の輸送調達などは準備不足もあってかなりの遅れがあり、訓練生に苦難を強いることになった。
Memo0116 17歳ごろの父・郷敏樹
1222 宿舎の建設、トーピーズ(泥と草を固めたレンガ)を積んで壁を作る 全国拓友協議会編満蒙開拓青少年義勇軍写真集より
1222_1 

出来上がった宿舎、丸い筒はオンドル(朝鮮式の床暖房)の煙突 全国拓友協議会編満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

 内原の訓練所本部で食事・栄養面での総責任者であった酒井章平は、創設時の「義勇軍」の労苦を次のように述べている。

 昭和13年満蒙開拓青少年義勇軍の結成が急であったため、現地の準備が充分でない中に渡満入植があわただしく行われた。随って、建築は勿論栄養方面も憂慮すべき状態で非難続出のありさまであった。
 そこで、私は数人の栄養指導員を引率して現地に乗り込み、つぶさに栄養状況を観察したが、こんな状態では来春迄には病人が続出するからと急遽新京に帰り、満拓に具申して五千箱の魚類の缶詰を調へて五ヶ所の訓練所に発送し、再び巡視した。改善が著しくはかどったため各方面からは非常に感謝されて得々として内原に帰って来た。所が加藤所長に出会って挨拶する出会頭に、いきなり叱られた。
 曰く「どうせ狭い日本に詰め込んでおけば絶滅する日本人だ。満洲に出たために義勇軍が死ぬと云うなら全滅したっていいじゃないか。僕はそう覚悟している。然るに何だ。こんな食事では病気になるとか、死んで仕舞うとかワイワイ云ってただでさえ訓練生がびくびくしている所にもって行って君等がそんなことを云いふらそうものなら益々混乱して仕舞う」~中略~義勇軍が全滅しても止むを得ないと云う最悪の場合迄覚悟して、初めて栄養改善も冷静に、急所をついてスラスラ出来るのである。全滅の覚悟を以って臨む事の重要なことは義勇軍の場合のみではない。決戦下日本人の栄養問題を処理するにもこの腹が要る─―(昭和19年4月15日、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所発行、酒井章平著「日本農村と栄養」より)

 大戦末期の食糧不足が深刻な状態のときに書かれたこの文章を読んでいると、戦前の神がかった精神主義と秘密主義の典型的な指導者像が浮かび上がってくる。酒井は加藤所長の崇拝者で彼をかばっているのだが、この時義勇軍を救ったのは「五千箱の魚類の缶詰」で間違いは無い。いくら腹の据わった指導をしても「腹が減っては戦が出来ぬ」。
この本が発行された1年4カ月後には、彼らのハラの据わった指導もむなしく「義勇軍」は全滅し、大日本帝国もまた見事に滅亡した。

襲撃
 
父によると満鉄の鉄道自警村・二井訓練所に移行しても、防寒具を着て寝るようなひどい住環境や量が絶対的に足りない食事の状況はたいして改善されなかったという。また冬季は風呂にまったく入れず、衛生状態も悪く、夏場には伝染病・風土病などもよく発生したという。
 「最初の冬が過ぎたころから中隊内に不穏な空気が流れはじめた。幹部たちが食料費をネコババしているので我々の分が少ない。その金で街へいって女郎買いをしている。某幹部は満人(中国人)の妾を持っているらしいなど、さまざまなスキャンダルが噂されていた」

 自分達だけいい目をしやがって!矛先は幹部に向かっていった。少年達の怒りは極限に達していた。
「誰ともなく幹部に天誅を加えようということになり、ある晩有志で幹部宿舎にそっと忍び込んだ。用意していた手榴弾を数発、寝静まっている幹部の部屋に投げ込んだ」 
 大きな爆発音がするやいなやそのまま逃げ帰り、そのあと幹部たちはどうなったのかは記憶が定かではないという。
「ところが翌朝ドッポ(独立歩兵大隊)が討伐にきた。独歩は1個小隊(60人)ぐらいで攻めてきた。脅かせば言うことを聞くと思ったのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。わしらは反抗をした。銃撃戦になった。わしらは戦争をやると強かった」
 隊員達は軍事教練を1年以上やってきて、戦いには自信を持っていた。年長者で優秀なものは指揮官としても十分能力を発揮したという。
「小梅という、わしより少し年長の隊員がいた。西宮の小学校の校長のむすこで中学校に入っていたがグレて退学になり、義勇軍に放り込まれたと言っていた。彼は頭がよく、計略にたけ、度胸もあって、義侠心も厚く正義感も強い。おまけに指導力もあったので、てきぱきと皆に指示を出し、にわか軍師となった」
 隊員達は年長者の指揮のもと結束して戦った。泣く子も黙る「独歩」を相手に一歩も退かず応戦したという。このとき何人ぐらいが「叛乱」に加わったのか、父の記憶があいまいで判然としない。私は夜、幹部宿舎を襲撃した隊員はそんなに多くはなく、「叛乱」の同調者は数十人ぐらいではなかったかと考えている。
Memo0080 雪中の軍事訓練「ある開拓少年義勇軍の記録 ああ清渓」より

 「弾薬は豊富にあった。軍事訓練で鍛えられ、銃器の扱いにも熟練していたわしらは簡単にやられなかった。戦争は少人数の戦いでも組織的、統一的にやることが肝要だ。守備応戦するときも闇雲に個人プレーで勝手に撃ってはだめだ。『敵』は窓をとくに注視しているので近づいて動きを察知されると集中攻撃をされ、やられる。わしらは射手をあちこちに分散させ、攻守の状況を掌握した指揮官のもとチームプレーで戦った」
 「独歩」は攻めあぐね、とうとう白旗を掲げてやってきて、話し合いをすることになったという。
「ところが交渉していた先輩たちをつれていってしまった。だまされたと知ったわしらは怒ってまた銃撃を始めた。しばらくドンパチやっていたがまた独歩は白旗をかかげてやってきた。話し合いが再びはじまった」
 父たちはこのあとどこかに連れて行かれ取調べを受けたが罰せられることなくすぐ釈放されたという。
「罰しようにも未成年のわしらを処罰する法律が無かった。これが軍隊なら立派な叛乱罪で2.26事件のように銃殺刑になっただろう。しかし義勇軍は公式には開拓訓練生で20歳未満の子供の集団だ」
 この事件で死傷者が出たかどうか父はよく覚えていないという。しかし死傷者が出ていなかったとしても、満州開拓に期待され創設したばかりの義勇軍訓練所で訓練生が待遇の不満から徒党を組んで幹部を襲い、鎮圧に来た独歩と銃撃戦を演ずるという前代未聞の事件は政府関係者に衝撃を与えたようだ。
「このあと日本から国会議員たちが調査にやってきた」
 だが、この事件は日本国民には知らされることなくうやむやになってしまった。またこのころ満州各地の義勇軍訓練所で様々な幹部襲撃事件や隊員同士の抗争、暴力沙汰など不祥事が続出していた。

 上笙一郎(かみ・しょういちろう)著『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、昭和13年春から昭和14年8月までの間に現地訓練所で発生した事故・事件は火災21件、銃器による撃ち合い12件、そこにまで至らぬ不穏行為12件、自殺および未遂6件、無断出所177名、不良対処処分者137名となっている。その中でも最大の不祥事は、昌図特別訓練所で発生した「昌図事件」(※参照)で、死者3名と負傷者10数名を出す大事件であったが、これらは氷山の一角であると思われる。
 というのは訓練所で事件が起きても隊員には緘口令がしかれ、手紙なども中隊本部で検閲されたため、訓練所外部にはほとんど伝わらなかった。また当時国策である青少年による満州開拓移民が始まったばかりで、不祥事が国民に知れることによって、移民熱が冷め、計画が頓挫することを恐れた関東軍が新聞・雑誌などを報道統制して事件を載せないようにしたからである。

※「昌図事件」
 
昌図事件とは昭和14年5月5日から8日にかけ、奉天省昌図県満川村にあった昌図特別訓練所において、運動会の順位争いから発生した後着中隊と先遣中隊の一大抗争事件で、3名の死亡者と10数名の重軽傷者を出した満蒙開拓青少年義勇軍史上最大の不祥事事件である。
 
 始めは鍬の柄をもっての殴り込みから、次第にエスカレートした新旧の中隊員、数百名は、しまいには石投げ、煉瓦投げ、銃撃戦、放火にまで及んだため、訓練所内部で収拾がつかなくなり、日本人将校2名に率いられた興安軍(満州国軍)機関銃隊2個小隊が出動しやっと鎮静した。

 取り調べは昌図県警察・四平街警察・公主嶺憲兵隊の手で行われた。全部で200名以上の隊員が取り調べられ、そのうち起訴されたのは37名で32名が有罪となった。裁判は9月21日から奉天地方院で開始された。内地の内原訓練所から加藤所長が特別弁護人として立ち、拓務大臣など官・財界など一流人名士が署名した減刑嘆願書が提出されたためか、科された刑は懲役4カ月から最大で懲役3年であった。しかしすべての被告が1~4年の執行猶予がつき、早くもその年の12月20日に全員出所することが出来た。

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