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2012年8月

笑ったらもらえる?淡路島玉ねぎ

 P1030264玉ねぎの出荷風景、7月頃
西高東低
 今年は玉ねぎの値がよく農家は景気がいい。7月頃、親戚に送るのに隣の農家で玉ねぎを買ったが約20k入りのコンテナ一杯が2500円した。盆が過ぎても100円ほど上下するぐらいで高値に張り付いている。去年の今頃で800円ぐらいだったのが3倍以上する。こんな事は今までに無い事だ。
 玉ねぎは重量野菜で取り入れから出荷までの作業はかなりきつい。その上、出荷時期が夏場で暑さと匂いと泥で三重苦、四重苦の仕事になる。歳をとると重労働に耐えられなくなり、軽量野菜のレタスに転作したりする農家もある。跡継ぎがいても、重労働の割りに実入りがすくないのでよそに田んぼを預け、やめる農家も多い。私の家の前の田んぼをやっている農家の老夫婦も今年で最後だという。この高値は最後の花道をかざるご祝儀相場かもしれない。
 昔漫才のギャグで、淡路島に行って玉ねぎ畑で作業をしている農家の人に「こんにちは」と笑顔をふりまくと「にいちゃん玉ねぎ持っていき」と簡単にもらえる話があった。たしかに間違いではなく、私の家の周りは玉ねぎ畑だらけで、規格ハズレの玉ねぎならもらうことが多く、自家消費の分はこれまで買うことがほとんどなかった。しかし今年は不作で玉も小さく収穫量が不足の上、高値で集荷業者も集めるのに必死だ。そのためかもらった件数は少ない。
 この前、農家をやっている同級生と話していて、高値の原因はやはり原発事故で「西高東低は10年は続く」と言っていた。もちろん野菜だけでなくあらゆる農・蓄・水産物は静かに、ひそかに、確実に「西高東低」が強まるだろう。そのためやっていけなくなった農業者で東から西に移る人が多くなるかもしれない。その受け皿も今確実に増えている。

NHKスペシャル 終戦 何故早く決められなかったのか

ソ連の対日参戦は誰も知らなかったのか 
 8月15日、NHKの終戦特集は、終戦をもっと早く決められなかった理由として最高指導者達がセクショナリズムに犯され最後まで情報の共有をせず、敗戦の決定打になったソ連の対日参戦を陸海軍部が知っていながら、政府・外務省に知らせなかった。
 そのためソ連を仲介させての和平工作を政府・外務省がソ連参戦直前までやっていたという、お粗末な当時の戦争指導部の状況を描いている。 

 大戦末期にベルンの海軍武官やリスボンの陸軍武官から大本営に発せられた極秘電報が、最近ロンドンのイギリス公文書館で発見された。内容はヤルタで米ソ密約が行われこのままでは8月にもソ連の対日参戦が迫っていると警告している。

 番組の中で、従来ソ連の対日参戦は不意打ちで,政府も軍部も知らなかったのが定説だったと、歴史家の加藤陽子氏はコメントし、外交評論家の岡本行夫氏も衝撃的な発見だと同意していた。

 私は今をときめく歴史家の加藤陽子先生が何を呑気な事を言っているのだろうか?と思った。歴史家は証拠書類がなければ何も認めないのか。戦争を始めた指導者の証言しか認めないのだろうか。

戦後秘史
P1030329
 
元毎日新聞の記者大森実が書いた、戦後秘史2「天皇と原子爆弾」の中にベルンの駐在海軍武官だった藤村義郎のインタビュー記事(1975年5月28日)が載っている。藤村は、後にCIAの創始者となるOSS(米戦略局)欧州局長アレン・ダレスとの和平工作を語っているが、「ソ連の対日参戦」の極秘電報を打ったのは、番組で名前をだしていないが、この藤村だと思われる。藤村は大森のインタビューで次のような証言をしている。

ダレスはヤルタ密約を知っていた
大森 実際にベルンでダレスに会われたときに、ソビエトの話が出ましたか。
藤村 出ません。
大森 ブルムとかジョイスを通じて出てくるわけですか。
藤村 そうです。ハックを通じて聞いている。
大森 ソビエトがくるぞと。ヤルタ会談後ですね。
藤村 そうです春になったら動き出す可能性がある。
大森 あのヤルタの秘密協定はトルーマンさえも知らなかったんですがね。ダレスは知っていたのですか。
藤村 ダレスはよく知っていましたよ。
大森 ヤルタ密約ースターリンとルーズベルトの密約の内容を知っていたのですか?
藤村 知っていたと思います。ハックから私ははっきり聞きました。第一は天皇様はそのまま、第二は商船隊とそれを護衛するに足る小さな海軍を残してくれ、第三は朝鮮と台湾は残してくれ、という私たちの出した和平の条件があったでしょう。
大森 はい。
藤村 その提案をダレスに出したとき、ハックが帰ってきて、「台湾はよろしい、蒋介石をうんといわせればいい。朝鮮に対してはヤルタ会談で決めてあるからだめだ」といいましたよ。私はそれをはっきり覚えています。
大森 OSSはヤルタ会談の護衛はしたでしょうし、いろいろな情報は取ったでしょう。ものすごいスパイ合戦をやったと思います。それでダレスが知っていたんでしょうね。
ー中略ー
大森 
シベリアの軍事情勢について、ダレスが大きな情報をもっていたように思われますか。
藤村 もっていましたね。よく知っていました。ハックからどんどん耳に入ってくる。
大森 部隊の種類までわかりますか。
藤村 そこまではわからなかったですね。私がね、冬はシベリア鉄道は動かせないはずだというと、ハックは笑って「違うよ、いまはどんどん通っているんだ」というのです。
講談社発行 戦後秘史2「天皇と原子爆弾」より

 藤村は当時ヨーロッパで海軍軍人としてただ一人ダレスと和平工作をしていただけに、重要な証言をしている。藤村の打った35通の極秘電報を米内海軍大臣や豊田軍令部総長は謀略だと無視した。

 ベルンの海軍武官、藤村義郎中佐のもとに、東京から最後の暗号電報が入電したのはそれより約1ヵ月足らず前の6月20日であった。戦艦大和が鬼界ヶ島で発見され海底の藻屑と消え去り、沖縄守備隊が全滅したときだったから、藤村はこの日付をよく記憶していた。
 海軍省電報は「貴官の一件は、外務省に移管した。スイス所在の公使と連絡を密にし善処されたい。」という簡単な電文だった。
 藤村義郎はフリードリッヒ・ハック博士にこの電文を見せた。藤村は、この海軍省電報が、ひょっとすると自分の工作が認められて正式の外交ルートに乗せられたものかもしれぬとさえ考えたのだ。
講談社発行 戦後秘史2「天皇と原子爆弾」より

 

総すくみの重臣たち
 事実は外務省も藤村の情報を謀略だと却下した。したがって番組の中で東郷和彦氏が東郷重徳外相がソ連の対日参戦情報を知らなかったというのは間違いで信じなかっただけである。
 ダレスもこれ以降、接触をたち、対米和平工作は頓挫した。6月22日天皇が召集した異例の最高戦争指導会議で対ソ和平工作が決定される。出席した6首脳は天皇の前で対ソ参戦の情報はおくびにも出さない。破局のレールは敷かれたのだ。評論家の岡本行夫氏は天皇の前で情報の共有が出来れば、天皇の「英断」で破局、すくなくとも原爆投下とソ連参戦は避けられたのではないかと言っていたが、買いかぶりすぎだろう。なぜならこのとき天皇自身が藁にもすがる思いでソ連の仲介を望んでいたからだ。御上の期待を裏切る事実を正直に話す臣下はいなかった。誰も自分が突出してワルモンになりたくないのだろう。姜 尚中氏は「矩を超えず」と横並びで火中の栗を拾わないエリート官僚の習性を指摘していた。天皇の前では皆すくんでしまっていたのだ。

ソ満国境調査
P1030327 北安から黒河方面の地図 
 私はこの番組をみていて、父が生前話していた特務機関の調査を思い出した。父は昭和20年の冬頃北満の要衝、北安(ペーアン)にあった特務機関の調査の仕事をしていた。調査とはソ連のシベリア鉄道のようすを調べていたのである。父の話では特務機関とのつきあいは、北安の町をうろつく父たちに「まあ遊びに来い」とむこうが誘ってきたことから始まったという。
父たちは5~6人で八頭立ての馬車にソリをはかせて、小興安嶺を突き進み黒竜江方面へよく旅をした。
「特務は具体的にどこそこに行って、ああしろこうしろとかは、言わんかった。えらそうに命令すれば逆にわれわれは反発する。むこうが求めているものは国境の情報だと、なんとなしにわかった。」
特務は危険な仕事をあくまで「自主的」にやらせた。もしソ連のスパイにつかまって殺される可能性もあるし、自分たちは安全な場所で白系ロシア人や父達のような「義勇軍くずれ」を操縦していた。
 父たちは旅から帰ると北安の特務機関に行き旅先であったことを喋った。もちろん報酬は期待する以上のものをもらったそうである。
「2月か3月ごろある村で昨夜は貨物列車がきれめなしに一晩中通っていったとの話をする者がいた。戦車や装甲車らしきものを満載した列車も数珠繋ぎで行く情報も聞いた。」

こんどの第二次大戦、関東軍に対する奇襲撃滅作戦を展開するために、ソ連参謀本部が準備した貨車総数は実に13万6千両であった。貨車は文字通り数珠つなぎとなり、延々シベリアの荒野に一本の長い帯をかけて、欧州西部戦線から、続々とバイカル以東に新兵力を移送していたのである。
ー中略ー
ソ連参謀本部は、このような対日参戦のための大舞台の移動を当初、最低四ヵ月かかると計算していたが、この移動期間を縮めるため、移動開始時期をドイツ降伏を待たずにヤルタ密約後、ただちにスタートさせたことと、アメリカから必要な自動車、トラック等機械化車両を、ウラジオストック、ナホトカなどの極東諸港に陸揚げさせることによってスピード化させることを考えついていたのである。実際米国は、アメリカ製車両や機械兵器、食糧、燃料などをソ連側が指定した極東諸港に陸揚げしていた。  
講談社発行 戦後秘史2「天皇と原子爆弾」より

 戦前、日本の最高指導者たちは自分たちの組織の末端で働いている人間の情報を全く信用しなかったようだ。情報は知っていても御上の前に出ると思考力が止まり現実を直視できなくなるのかもしれない。戦後も長い間ソ連は中立条約を破棄して火事場泥棒的に領土を奪った悪の帝国だといい続けた。それは戦後の支配者アメリカから真珠湾のだまし討ちをさんざん言われ続けた意趣返しかもしれない。
 私はソ連をワルモンにすれば戦前の最高政治指導者の無為、無策、無責任を言い訳できるとは思わない、外務省・政府も軍部も同罪だと思う。もう一つ付け加えるなら、戦後も長い間「ヤルタの密約を日本政府は知らなかった」などという神話を信じ続けた歴史家・学者先生も反省する必要がある。
 大戦中の米ソ蜜月は過ぎ去り、冷戦体制に入った戦後、対米従属に舵を切った日本はソ連や中国をアメリカのあとについて攻撃すればよかった。ソ連の対日参戦を知らなかったことにすれば、おろかな対ソ工作はあまり目立たない、証拠書類は敗戦のどさくさで、ほとんど焼いてしまったので、歴史家先生はだませた。
 父はソ連が中立条約を破って参戦したことを恨みがましく言ったことはなかった。ときに「ロスケは捕虜のワシらを使って満鉄のレールから枕木までみんな持っていった」なんていうことはあっても、特別ソ連を憎む事はなかったように思う。なぜなら自分たちもソ連を敵視していつでも戦争できるように準備してきたし、機会あらば攻め込もう(関東軍特演)としてきたからだ。毒ガス戦も準備していて「専門の部隊もあった」といっていた。

重い問いかけ
 
番組最後で姜 尚中氏は原発問題の例を挙げながら統治構造に問題があると指摘した。やたら会議ばかりやって決定が出来ない。戦前の無責任体制が現在まで続いているようだ。
最後まで戦争終結に奔走した高木惣吉海軍少将は戦後次のような文章を残している。「反省を回避し過去を忘却するならばいつまでたっても同じ過誤を繰り返す危険がある 勇敢に真実を省み批判する事が新しい時代の建設に役立つものと考えられるのであります。」
ドイツのワイツゼッカー大統領とほぼ同じ言葉は、現在の私達に突きつけられた問いでもある。

父の15年戦争(17)8月15日の特攻

この記事は2008年8月2日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。

 ソ連参戦時の父の部隊の詳細な行動などを知りたかったが、地元の図書館でたまたま父と同じ時期に入隊した元隊員の手記が載った本を2冊みつけた。この本で、父の部隊がソ連戦車軍団と対戦した日が昭和20年8月15日だと分かった。
P1030318  鏡泊湖 南湖 頭沼岸(昭和8年6月25日新知社発行満州産業体系1より)
 

「父の15年戦争(1)関東軍の特攻」は、父の証言だけを元に書いたので、ソ連参戦時の部隊の詳細な行動や日時をほとんど記述出来なかった。私自身、日ソ戦の知識や旧満州の地誌など全く知らなかったので、あらためて資料を収集し勉強を始めたのだが、地元の図書館で、たまたま父と同じ時期に入隊した元隊員の手記が載った本を2冊みつけることができた。それによると父の部隊がソ連戦車軍団と対戦した日が昭和20年8月15日だと判明した。

回避された特攻
P1030317 機動第1連隊の編成地公主嶺
 神奈川県出身の吉山和孝氏は昭和20年5月、国立大学ハルピン学院2年生のとき徴兵され、父と同じ公主嶺の機動第1連隊に入ったが、そのときの思い出が、平成11年3月30日、平和祈念事業特別基金が発行した、平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦LX に掲載された「わが青春の思い出」である。一部引用する。
P1030316 地図左下の公主嶺(こうしゅれい)駅から敦化(とんか)駅まで列車で移動、敦化から鏡泊湖まで徒歩で三日三晩歩きづめだったという

満州東北部より侵入したソ連軍に対しては、牡丹江を中心とする第5軍の主力2万5000人の将兵が死力を尽くして戦ったが、敵の航空機、戦車、大砲に対し、我が軍には極めて少数の大砲のほかは軽機、小銃などの軽火器しかなく、1日半の戦闘で敗れた。この敵の部隊が鏡泊湖を通り南下を企てている模様であるため、機動1連隊はこの湖畔で迎撃すべく、200kmの道を雨中、夜を日に継ぐ強行軍を敢行、3日後湖畔に到着した。3日間ほとんど眠らず、食事は乾パンを歩きながらかじり、水はそのあたりを流れる溝から汲んで消毒液を入れて飲んだ。
 敵との遭遇は8月15日と予想されたが、敵はおそらく大型戦車を前面に立てて攻めてくるのに対し、我が軍には最大の兵器でも数門の歩兵砲があるだけであった。8月14日連隊全員が集められ、連隊長の訓示があった。内容は戦況の説明に併せて、特攻隊の編成についてであった。身命を故国の栄光に捧げて悔なき者、悠久の大儀に生きることを可とする者は、連隊長と共に死んでほしい、連隊長は諸君の先頭に立って突撃するという意味のものであった。当時の緊迫した情勢の下では、特攻隊に入っても入らなくても、生き残る可能性はまったく考えられなかった。
 「特攻隊志願者、一歩前へ」の号令に、私は一歩を踏み出した。見ると隊員全員が一歩前に出ていた。夜になると菊の紋章のついた恩賜の煙草と日本酒が支給された。生まれて初めて口にする煙草は枯れ草の香りに似ていた。兵隊は戦場では分隊の単位で行動するものである。我々は分隊長を囲んで、飯盒の蓋で冷酒を回し飲んだ。これが今生の別れの杯であることは、誰でも分かっていた。しかし、だれも何も言わなかった。空には星一つ見えない、闇夜であった。
 翌15日、早朝より空は晴れていた。体当たり用の爆薬の支給を待ちながら、「満18歳の生涯だった。同じ死ぬにしても敵戦車にたどり着き、せめて一矢を報いたい」と思っていたが、連隊本部の様子がなんだか変である。そのうち連隊長から命令が下された。関東軍司令官の命により「我が軍は戦闘を停止する。よってただいまより転進をする」とのことであった。転進とは聞こえが良いが退却である。特攻はしないことになったが、嬉しいとも悲しいともいえない、なんとも複雑な心境であった。そしてふと、死刑囚が刑執行寸前に釈放でなく懲役になったらこんな気持ちかなと思った。しかし、それが数週間後に始まるシベリア奥地での重労働への序奏であることなど思いも及ばなかった。
 進んだとき3日かかった道を、1日半で帰った。公主嶺で訓練した長距離行軍が、こんなところで役に立つとは思ってもみないことであった。身につけたほとんどすべての物を捨てた。持っていたのは小銃と少量の弾薬、少量の食料、日用品を入れた雑嚢、飯盒、水筒のみであった。敦化より再び兵団司令部のある吉林にもどり武装解除となった。

食い違う証言
 以上が吉山氏の文章からの引用だが、もう1冊「少年たちの満洲」 吉村暁著 平成4年9月20日発行 株式会社自由社 にも大連の旅順高等学校出身 田中邦實氏(東京都日野市)の体験が出てくる。この2人の話をあわせると関東軍機動第1連隊の8月9日のソ連参戦から8月15日の終戦、その後の吉林での武装解除までの行動がおおよそ分かる。同じ連隊にいた2人の証言は大体一致するが父の証言と大きく食い違っている重要な一点がある。田中邦實氏、吉山和孝氏の証言では8月15日の終戦の日、関東軍司令部の命令によりソ連戦車への「特攻」が回避されたという事である。迫撃砲中隊に所属したという田中邦實氏は次のように言っている。

8月15日の昼、終戦の放送を聞いてすぐ退却した。この退却はものすごいスピードで、行きに3日かかった行程を、敦化まで1日で突っ走った。道は舗装した国道もあれば、山道もあった。泥水の溜まっている所も少なくなかった。小休止もへったくれもない。オレは馬の尻尾につかまって歩いたが、息が切れて、よれよれだよ。あまりの強行軍に死んだ人もいた。途中でソ連の戦車に追跡されたが、戦闘を交えず、ふり切って逃げた。やっとの思いで敦化に着いたら、馬は汽車に乗せられないという。初年兵のオレたちは馬になれていなかったから、馬を任すことができないわけだ。そこで、馬を扱えないオレたちは貨車に乗せられ、馬の扱いになれている連中だけで馬の輸送隊を編成した。この連中は曲射砲を馬に積んで、旅団司令部のある吉林を目指した。野を越え山を越えて歩いたわけだが、それっきり消息は絶えた。どこかでソ連軍と交戦して、みんなやられてしまったらしいということだった。同じ中隊なのに、敦化で運命が大きくわかれてしまった―――(吉村暁著「少年たちの満洲」より)

P1030321 鏡泊湖 南湖
 2人の話はどちらもソ連戦車に追いたてられ死に物狂いで逃げる様子がわかる。このとき機関銃中隊にいた父は8月15日昼、天皇の終戦の詔勅が発せられてからもそのまま鏡泊湖湖畔にとどまりソ連戦車軍団と対戦する事になる。父の中隊はなぜ残されて「特攻」を命じられたのだろうか。連隊退却の犠牲となる殿(しんがり)になったのであろうか。

刺突訓練
 父は昭和20年の6月か7月頃、公主嶺の機動第1旅団(旅団長木下秀明大佐)第1連隊(連隊長岩本只芳大佐)に入隊した。徴兵検査を受けたのが5月だがその直後に入隊した部隊で抗命罪にとわれ、重営倉に入った。その理由は初年兵の訓練のとき、度胸試しとして杭に縛りつけられた、生身の中国人を刺殺することを命令されたのだが、「無抵抗の人間を……あまりにも酷い」と拒否したためだった。当時の軍隊にあって上官の命令を拒否することは重罪であった。もし戦闘中なら射殺されても文句が言えなかっただろう。

 しかし父は悪運には強かった。重営倉に入っている間に部隊は沖縄へ転出したのだった。後に父が聞いた話によると「沖縄に行ったこの部隊は全滅した」という。そんな事情で父は短期間のうち新たに部隊を変わる事になった。

関東軍第1機動連隊
 関東軍機動第1旅団は昭和16年末に編成された特殊部隊、関東軍機動第2連隊を基に2つの連隊を加えて昭和19年6月吉林に新設された。この部隊は関東軍司令部直轄で敵が進撃した後、背後にもぐり橋梁や道路の破壊、鉄道の寸断など後方を撹乱するゲリラ戦を目的とした。総員は約6000人である。

 第1機動連隊は12個中隊で第4中隊が父の所属する重機関銃隊、第8中隊が曲射砲隊(迫撃砲)、第12中隊が通信隊で、あとは歩兵中心の現役兵ばかりの精鋭部隊である。重機関銃と曲射砲は馬に乗せて3人1組で扱った。連隊の総人数は約2000人だが開戦時、第1大隊長水島悟少佐が古年次兵約1000名を指揮し、杜荒子、大北城付近以南に配備していたため、岩本只芳連隊長は残りの約1000名を率いて8月14日ごろ鏡泊湖湖畔に到着した。父の証言によると湖畔に着いてすぐ対戦車用の塹壕を掘ったという。そのあと吉山和孝氏の証言にあるように「連隊長と共に死んでほしい」と全員特攻・玉砕戦術となるのだが、15日に日本が無条件降伏したことが明らかになると、部隊は転進(退却)となった。

残された中隊は殿備え
 私がこの時の事を詳しく父に聞いたのは亡くなる半年ほど前だったが、父は自分たちの中隊だけが湖畔にとどまり、他の全部は退却したことを知らなかったか、もしくは全く記憶に残っていないようだった。その理由はおそらく機関銃中隊のみが15日の朝、単独行動をしたことにある。父の話では「機関銃を積んだ馬が邪魔になるので谷までおりていって隠した」と言っていた。吉山・田中両氏の証言ではそういう話は全く出てこない。田中邦實氏は逃げるとき「オレは馬の尻尾につかまって歩いた」と言っているので馬を隠しに行ったのは父の中隊だけだったのは間違いない。山の上の湖から谷まで往復する間、かなりの時間が、かかったのではないだろうか。父たちが帰ってくるとすでに他の中隊は退却していた。すぐ間近にはソ連戦車軍団が迫ってきた―これはあくまで私の想像であるが、事情は指揮官のみぞ知っている。

 それにしても前の晩「諸君の先頭に立って突撃する、一緒に死んでくれ」と全員に訓示したばかりの連隊長はどんな気持ちで先頭に立って退却したのだろうか。やはり命が惜しくなったのだろうか。もちろんそんな事は否定するだろう。おそらく「関東軍司令部の命令による」とでも言うのだろうが…結果的にいうと「特攻」は散発的であったが戦車軍団を一時的に止めることができた。おかげで本隊は危機一髪退却できた。父はこのときのソ連軍の猛攻を次のように描写した。「敵は最初の肉薄攻撃のあと、徹底的に耕してきた。一昼夜大地を掘り起こした」大地を根こそぎ掘り起こすくらいのすさまじい砲弾のあらしで現場の父は非常に長い時間に感じられたみたいだが、実際は一昼夜も撃っていたわけではなく1時間くらいだったのではないか。
P1030320 鏡泊湖 北湖

荒れる父

 父によると連隊長とは吉林で捕虜になったとき一緒になったと言っていたので、機関銃中隊がしんがりになったことはこのとき知ったと思う。捕虜収容所では日本軍の組織が残っていたので、連隊長は威張っていた。父は身勝手な連隊長に抗議に行き「おまえらがボンヤリしているから負けたんじゃ!」とののしった。横暴な上官に腹を立てて殴り倒したこともあったと言う。

 父たちはソ連機甲師団に撃破されたあと、山の中に隠れていた。何日かたって停戦命令書をもった使者がやってきた。このとき天皇が降伏した事を聞き絶望して腹を切った(父が介錯した)中隊の青年将校たちの無念を想って抗議したのだろうか。父は晩年、好きだった酒に飲まれる事も多く、酔っ払って何かといえば「ハラを切ってやる」とおだをあげた。いつか親戚の家で飲みグデングデンになって、その時ボケ老人の話題で盛り上がった後、「ワシはボケへんぞ、年とってボケるくらいならその前にハラかき切って死んでやる。ハラぐらいいつでも切れるんじゃ」とわめき、ちょっと間をおいてうつむき小声で「…そやけど痛いやろなあ、痛かったやろなあ」などとつぶやきながらそのままグウグウいびきをかいて寝てしまったことがあった。今にして思えば敗戦の時うけた心の傷がぶり返しうずいていたのかもしれない。

 機動旅団の3個連隊のうち第3機動連隊長の若松満則中佐は武装解除後の9月2日拳銃自決を遂げた。第2機動連隊長の須藤勇吉大佐はハバロフスクの捕虜収容所で病死した。「第1機動連隊の連隊長もソ連に連れて行かれたそうだが、その後は知らない」と父はそっけなく言う。父は捕虜になってから足に腫瘍ができ、治療したあと同僚より少し遅れてシベリアに送られるが、悪運強く途中脱走に成功する。しかし「父の15年戦争」の道のりはまだまだ遠い。

注:殿(しんがり)
軍隊が退却する際、最後尾にあって追ってくる敵を防ぐ部隊で犠牲がもっとも多くなる。

父の15年戦争16.狼になった義勇隊員

この記事は2007年9月18日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。

「わしなんか義勇軍時代あらゆる悪いことをしてきた」父が突然こんなことを言ったのは亡くなる1年半ほど前だった。

下克上
「わしなんか義勇軍時代あらゆる悪いことをしてきた」。父が突然こんなことを言ったのは亡くなる1年半ほど前だった。その頃、若い時分に患った結核の後遺症で肺のあたりに水がたまり、入退院を繰り返していた。高齢で手術も出来ず、これといった治療法もないので、体力回復のため、しっかり栄養をとることが残された道だった。食事のメニューには気を使い、入院先の病院では栄養士さんにかなりうるさく言っていた。それにもかかわらず、ドンドン減っていく体重に、これまで数々の病魔を克服してきた父もちょっと弱気になっていた。

 私は棺桶に片足突っ込んでいるこの期に及んでそんなこといわれても……と思いつつ話を聞いた。父はおよそ反省とか後悔とかいう文字とは無縁な人生を送ってきたと思われる。失敗や都合の悪いことはすぐ忘れて次の事を考えるという、よく言えば前向きで、いい加減な性格だが、このときちょっと思いつめた表情で、若気の至りを告白した。

 父は昔からおしゃべりで私が子供の頃、訪ねてきた友達や近所の酔っ払いに満州時代の「武勇伝」を講釈師のように披露していたが、其の中でよく憶えているのは脱走劇だった。敗戦後捕虜になりソ連の軍用列車でシベリアに送られる途中、黒竜江を渡って脱走したとか、中国八路軍から馬で脱走したことなど、繰り返し酒の肴にしていたが、「北安の監獄に入れられた……」と言っていたことも私の記憶の奥に引っかかっていた。

 昭和14年頃北安省北安県の鉄道自警村・満鉄二井(にせい)訓練所で一部の訓練生がおこした叛乱事件(父の15年戦争11.叛乱参照)以来、訓練所の所長や幹部たちはしだいに訓練生に対する統制力を失っていった。父によると「各小隊の1割ぐらいは好き勝手なことをして幹部の命令を聞かなくなっていた」という。注意や処罰をされなかったのかと聞くと「なにしろその頃になるとわしらは武器を自在に使えるようになっていたので下手に注意をするとえらいことになる」という。

 育ち盛り、反抗期、一般社会から隔絶された特殊な環境、そのなかで300人の青少年を引っ張って行くのであるから、幹部の苦労は並大抵のものではなかった。 (中略) ところが、われわれが知る限りにおいて、これらの大多数の中隊長、または幹部は終戦以前の段階において例外なく脱落した。義勇軍の将来、少年たちの指導に見切りをつけて帰国するもの、他に転職するものが相次いだ。発疹チブスの少年たちを不眠不休で看護し続け、ついに自らも発病して死んでいった中隊長もいたが、多くの幹部は、あまりにも裏切られた期待の大きさに絶望して、くしの歯が抜けるように、訓練所や団から去って行ったものである。
 また、少年たちからリンチを受けて、半死半生の目に合わされた幹部も数多くいた。ノイローゼになって自殺した幹部の話も耳にした。少年たちの指導が如何に至難なものであったか。そして幹部の力量がどれだけ大きなものを必要としたか。これは、当時の事情を知るもの以外には、どうしても説明の付かないことである―昭和43年7月1日発行ドキュメントああ清渓(ある満州開拓少年義勇軍の記録)より

 2年前五族協和の夢を追って日本から来た少年たちは、理想とは裏腹の厳しい環境の中、大興安嶺の狼に成長していた。当時下克上という言葉は中央の参謀本部や政府の命令を聞かず、戦火を拡大した関東軍の少壮軍人たちの行動をさしたものだが、その関東軍支配下にあった青少年義勇軍もまた下克上の風潮が広がっていた。
P1030304 昭和13年2月1日発行「拓け満蒙」より

山林保護税
 狼たちは最初空腹に耐えかね、訓練所の倉庫から食糧をちょろまかした。次に周辺の中国人部落の牛をつぶして食べたりするようになった。そのうち大手を振って訓練所の外に跋扈しはじめた。街に遊びに行くには満鉄に乗るのだが切符なんか買わない。「カーブの所で列車は必ずスピードを落とすので、駅の手前の目ぼしい地点を見つけ、飛んで乗り降りした。満鉄で切符を買って乗ったことなんか1度もない」という。

 街の百貨店には集団で押しかけた。仲間同士が喧嘩をはじめ騒ぎたてる。もちろん狂言で、その隙に他のものが店の商品を南京袋に押し込み逃げる。商品は中国人部落に行き市価より安くさばいた。狼たちはしだいに大胆になり行動はエスカレートしていった。

 父の友人の今口氏は忘れられない思い出があるという。

 「確か昭和16年の正月に私は淡路島に帰省していたが、2月に訓練所に戻ってきた。其の日が11日の建国記念日だったので今でもよく覚えている。戻ってくると郷と山鼻が宿舎にいないではないか……なんと監獄にぶち込まれているという。それで差し入れをもっていった」

 何をしでかしたのか……。
P1030310 興安嶺の針葉樹林 新知社・昭和8年発行「図解満洲産業大系第二巻農業篇下巻」より)

 父の話によると、北満の冬は厳しい。当然住居には暖房がなくては生きてゆけないので、冬場に大量の燃料を確保しなければならない。そのころ満州国政府は山林保護の名目で住民に山の木を切 るのを禁止していた。貧しい中国人は日本人のように高価な石炭なんか買うことが出来ない。だが生きるため背にハラは変えられないので法令違反を承知でみんな山に入って木を切って薪にしていた。

 「そこに目をつけた。わしと山鼻は山の入り口で待ち構えていて、山林保護税というものをでっち上げて山に入る中国人たちから徴収した」

 17~18歳の若造が2人ぐらいで、いきなり簡単に金をとれるのだろうか。「わしらは騎兵銃を肩にかけていたので、中国人たちは逆らわなかった。紙幣が南京袋にいっぱいたまったところで、悠々と引き揚げ、2人で街の餃子館に行き一杯やっていた。ところが、そうは問屋がおろさなかった。義勇隊がおかしな事をしていると通報されて憲兵隊に踏み込まれた。散々ぶちのめされ、荒縄で全身グルグル巻きにされ、しょっ引かれた」

 裁判にかけられなかったのかと聞くと「日本人には甘かったのか裁判沙汰にはならなかった。そんなに長く拘留されなかったように記憶している。監獄から出る前に県の副知事に会わされ説教された」

 かいらい国家満州帝国では行政機関のトップは中国人がなっていたが、次長や顧問は日本人の官吏を配置しコントロールした。県知事の中国人も飾りで、日本人の副知事が実権を握っていた。「その副知事は中国人民衆の憎しみを一身に受けて、敗戦の混乱時暴徒に襲われ、たたき殺された。この話はうちの近所の先輩の坂本さんから戦後引き揚げてきたとき聞いた。坂本さんは満州では特務機関に勤めていたので、敗戦後の日本人の悲惨な出来事を良く知っていた」
 
 父は義勇軍時代にやっていたことの7割は内地では人に言えない恥ずかしい事だと言った。「人殺しはせなんだが、ずいぶんひどいことをしていた」と普段の父には似つかわしくない、神妙な口調で話し終えた。
P1030308_2 材木を運ぶ義勇隊員 昭和12年3月1日発行「拓け満蒙」より
P1030309 日本人開拓団には木材事業が許されていた 新知社・昭和8年発行「図解満洲産業大系第二巻農業篇下巻」より)

父の15年戦争15.哀れだった慰安婦

この記事は2007年4月15日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。

 父は戦後ひょんなことから中国人民解放軍に入り各地を転戦した。そのとき野山や道端に日本兵の白骨化した遺骸がよく転がっていた。父は見つけるたびに埋葬した。中国人苦力、朝鮮人「慰安婦」、白骨の日本人兵士
「そりゃ哀れだった……」

ソ連兵に貞操を提供せよ
 
安倍首相が慰安婦問題で「軍の強制がなかった」といったとき私の母は「戦争を知らんからあんなことをいって、私らもひとつ間違ったら、ソ連兵の相手をさせられた」という。

 私の母は元日赤の従軍看護婦で敗戦前まで満州帝国の首都新京(長春)の陸軍病院に勤務していたが、終戦後平壌まで逃げてきたところをソ連軍につかまった。
 元日赤従軍看護婦の会編「日本赤十字従軍看護婦『戦場に捧げた青春』」には香川県の永安春子さんによる手記が載っている。一部抜粋すると

前略 ここでの思い出は、何と言っても杏樹陸軍病院の一軍医による「ソ連兵に黙って貞操を提供するように」と言われたことである。ある日点呼の際「軍人が軍刀を捨てたのだから、女が貞操を捨てる位何でもない事だ。ソ連兵に求められたら貞操を提供しろ」何というひどい言葉、口惜しくて腹がたったが、軍が滅びても階級意識はまだ強く、将校に対し反発する等は相当に勇気のいる事である。私たちの三福婦長はあえてそれをやってのけた。「軍が滅びて軍刀を捨てるのは当然です。私達は大和撫子です。操は生きている限り守らねばなりません」……悲壮な顔で口を切り、他の婦長も続いて抗議した。この時の三福婦長の姿は大変崇高にして、頼もしく見えました。――

 母は「私の病院の耳鼻科の軍医は看護婦に、お前らはソ連が入ってきたら強姦され、連れて行かれて妾になるんじゃと、早くから言っていた。日本人の私たちに対してさえ、捕虜の弱い立場にたつと、ソ連から命令されたわけでもないのに、保身のためか女衒のようなことをする日本人将校がいたのだから、戦前日本人より目下と見られていた朝鮮人や中国人に強制はなかったなんて考えられない」という。

慰安所はどこにでもあった
P1030300 兵士に湯茶を接待する、※1娘子軍(日本人慰安婦)豊台付近 昭和12年11月15日発行 婦人公論臨時増刊 画報・支那事変早わかりより
 
 父の話によると慰安所は皇軍(日本軍)のいるところどこにでもあって朝鮮人の女性が多かったという。父に聞いた話をまとめると次のようになる。

1) 慰安所は将校用と下士官・兵卒用に別れていた。
2) 慰安所では兵卒・下士官は昼間利用し夜の泊まりは厳禁であった。将校は夜利用した。
3) 兵卒・下士官は朝鮮人女性、将校は日本人女性が相手をした。
4) 上記から人数は朝鮮人女性が圧倒的に多かった。中国人もいた。
5) 将校を相手する女性は「プロ」で朝鮮人女性は「素人」が多かった。
6) 多くは女衒がうまい話をして堅気の朝鮮人女性を騙してつれてきたようだ。
7) 慰安施設は軍の管理下にあった。
8) 交通不便な戦場を移動するには軍の保護がなければできない。

 父は大勢の兵卒を相手にする朝鮮人「慰安婦」は哀れだったと言った。これらのことから慰安所は日本の植民地や占領地域の他民族に対する差別があり、旧日本軍の階級差別に組み込まれていた。父の話によると旧日本軍の階級差別は絶対的で、たとえば新兵の訓練の時でも将校は直接教えず上等兵や下士官が当たった。将校は兵卒にとって雲の上の存在だった。慰安所は「将校は格上の日本人、兵と下士官は格下の朝鮮人と中国人が相手」となっていた。

 「慰安婦」に朝鮮人女性が多かったのは、将校と兵・下士官の人数比から考えると理解できる。

 大まかに言って旧日本軍は一個中隊(約200名)を将校5~6名が指揮をした。連隊本部・師団司令部など上級の機関は将校の割合が多いことなどを勘案しても将校の約30倍の兵・下士官がいたと考えられる。

 このことから単純に考えても兵卒・下士官の欲望を満たすには、将校の約30倍の「慰安婦」をそろえなければならない。将校は数が少ないので日本人の「プロ」だけで数が足りるが、一般兵卒・下士官は大量の相手がいる。

 盧溝橋事件までは外地に駐屯する兵隊も少なく兵卒用「慰安婦」も日本人女性だけでたりたが、戦争が拡大すれば兵隊も増え慰安所も膨らむ。

 そこで安定した支配地域である朝鮮半島や台湾から女衒をつかって無理に堅気の若い女性を連れてきたと思われる。また占領地では軍の威迫下に地元の中国人女性が連れてこられたことが多かった。

 これらは植民地や占領地だから出来たことで、内地でやれば犯罪になるし社会不安が増大する。しかし日本人「素人」女性でも貧困層で兵卒相手の「慰安婦」にしたてられることがあり、いわゆる大陸の花嫁(※2)募集などで、つられて騙された例もある。
P1030301 昭和35年5月15日双葉社発行「特集 実話特報 第18集」より

 兵卒相手の「慰安婦」は需要を満たすほど集められなかったためか、多人数相手の過酷な「接待」が求められた。

哀れだった
 
父は自身の戦争体験を話す時しばしば「そりゃ哀れなもんだった」と慨嘆した。初めて満州の地についたとき「義勇軍」訓練所予定地では、内地から来た土建屋がたくさんの苦力を雇って道路を造り、宿舎を建てていた。
「わしらはクリーと呼んでいてアンペラ小屋(コーリャンの茎で編んだムシロをかけただけの粗末な小屋)に住んでいた。中国人労務者は病気や怪我をしても外に放り出されて、後は野となれ山となれだった。日本人の監督は手荒く、最初の頃は、こんな事をしてもええんかいなと思うことが多かったが、1年もいると慣れてしまった。クリーは逃げないようにアヘンも吸わされていた。哀れなもんだったよ」

 父は戦後ひょんなことから中国人民解放軍に入り各地を転戦した。そのとき野山や道端に日本兵の白骨化した遺骸がよく転がっていた。父は見つけるたびに埋葬した。「日本から遠く離れた外地で……そりゃ哀れなもんだった。数十体は埋めたが一緒にいた人民解放軍の同僚はわし一人でさせなんだ。みんな手伝ってくれた。昭和28年舞鶴に帰還したとき援護局に屍の下に落ちていた兵隊の認識票(※3)を渡した」という。
 中国人苦力、朝鮮人「慰安婦」、白骨の日本人兵士、哀れだった……。

※1娘子軍(じょうしぐん):中国語でもとの意味は女性だけの軍隊のことだが、戦前日本では売春婦の集団のことを言った。

※2大陸の花嫁:戦前、満蒙開拓団や青少年義勇軍の適齢期の男性に内地から花嫁を嫁がす政府の政策に応えて満洲に渡った女性たち。

※3認識票:日本の兵隊は番号の入った金属製の認識票をひもで通して腰にくくっていたので、戦死しても所属部隊や名前が分かった。

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