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NHKスペシャル 終戦 何故早く決められなかったのか

ソ連の対日参戦は誰も知らなかったのか 
 8月15日、NHKの終戦特集は、終戦をもっと早く決められなかった理由として最高指導者達がセクショナリズムに犯され最後まで情報の共有をせず、敗戦の決定打になったソ連の対日参戦を陸海軍部が知っていながら、政府・外務省に知らせなかった。
 そのためソ連を仲介させての和平工作を政府・外務省がソ連参戦直前までやっていたという、お粗末な当時の戦争指導部の状況を描いている。 

 大戦末期にベルンの海軍武官やリスボンの陸軍武官から大本営に発せられた極秘電報が、最近ロンドンのイギリス公文書館で発見された。内容はヤルタで米ソ密約が行われこのままでは8月にもソ連の対日参戦が迫っていると警告している。

 番組の中で、従来ソ連の対日参戦は不意打ちで,政府も軍部も知らなかったのが定説だったと、歴史家の加藤陽子氏はコメントし、外交評論家の岡本行夫氏も衝撃的な発見だと同意していた。

 私は今をときめく歴史家の加藤陽子先生が何を呑気な事を言っているのだろうか?と思った。歴史家は証拠書類がなければ何も認めないのか。戦争を始めた指導者の証言しか認めないのだろうか。

戦後秘史
P1030329
 
元毎日新聞の記者大森実が書いた、戦後秘史2「天皇と原子爆弾」の中にベルンの駐在海軍武官だった藤村義郎のインタビュー記事(1975年5月28日)が載っている。藤村は、後にCIAの創始者となるOSS(米戦略局)欧州局長アレン・ダレスとの和平工作を語っているが、「ソ連の対日参戦」の極秘電報を打ったのは、番組で名前をだしていないが、この藤村だと思われる。藤村は大森のインタビューで次のような証言をしている。

ダレスはヤルタ密約を知っていた
大森 実際にベルンでダレスに会われたときに、ソビエトの話が出ましたか。
藤村 出ません。
大森 ブルムとかジョイスを通じて出てくるわけですか。
藤村 そうです。ハックを通じて聞いている。
大森 ソビエトがくるぞと。ヤルタ会談後ですね。
藤村 そうです春になったら動き出す可能性がある。
大森 あのヤルタの秘密協定はトルーマンさえも知らなかったんですがね。ダレスは知っていたのですか。
藤村 ダレスはよく知っていましたよ。
大森 ヤルタ密約ースターリンとルーズベルトの密約の内容を知っていたのですか?
藤村 知っていたと思います。ハックから私ははっきり聞きました。第一は天皇様はそのまま、第二は商船隊とそれを護衛するに足る小さな海軍を残してくれ、第三は朝鮮と台湾は残してくれ、という私たちの出した和平の条件があったでしょう。
大森 はい。
藤村 その提案をダレスに出したとき、ハックが帰ってきて、「台湾はよろしい、蒋介石をうんといわせればいい。朝鮮に対してはヤルタ会談で決めてあるからだめだ」といいましたよ。私はそれをはっきり覚えています。
大森 OSSはヤルタ会談の護衛はしたでしょうし、いろいろな情報は取ったでしょう。ものすごいスパイ合戦をやったと思います。それでダレスが知っていたんでしょうね。
ー中略ー
大森 
シベリアの軍事情勢について、ダレスが大きな情報をもっていたように思われますか。
藤村 もっていましたね。よく知っていました。ハックからどんどん耳に入ってくる。
大森 部隊の種類までわかりますか。
藤村 そこまではわからなかったですね。私がね、冬はシベリア鉄道は動かせないはずだというと、ハックは笑って「違うよ、いまはどんどん通っているんだ」というのです。
講談社発行 戦後秘史2「天皇と原子爆弾」より

 藤村は当時ヨーロッパで海軍軍人としてただ一人ダレスと和平工作をしていただけに、重要な証言をしている。藤村の打った35通の極秘電報を米内海軍大臣や豊田軍令部総長は謀略だと無視した。

 ベルンの海軍武官、藤村義郎中佐のもとに、東京から最後の暗号電報が入電したのはそれより約1ヵ月足らず前の6月20日であった。戦艦大和が鬼界ヶ島で発見され海底の藻屑と消え去り、沖縄守備隊が全滅したときだったから、藤村はこの日付をよく記憶していた。
 海軍省電報は「貴官の一件は、外務省に移管した。スイス所在の公使と連絡を密にし善処されたい。」という簡単な電文だった。
 藤村義郎はフリードリッヒ・ハック博士にこの電文を見せた。藤村は、この海軍省電報が、ひょっとすると自分の工作が認められて正式の外交ルートに乗せられたものかもしれぬとさえ考えたのだ。
講談社発行 戦後秘史2「天皇と原子爆弾」より

 

総すくみの重臣たち
 事実は外務省も藤村の情報を謀略だと却下した。したがって番組の中で東郷和彦氏が東郷重徳外相がソ連の対日参戦情報を知らなかったというのは間違いで信じなかっただけである。
 ダレスもこれ以降、接触をたち、対米和平工作は頓挫した。6月22日天皇が召集した異例の最高戦争指導会議で対ソ和平工作が決定される。出席した6首脳は天皇の前で対ソ参戦の情報はおくびにも出さない。破局のレールは敷かれたのだ。評論家の岡本行夫氏は天皇の前で情報の共有が出来れば、天皇の「英断」で破局、すくなくとも原爆投下とソ連参戦は避けられたのではないかと言っていたが、買いかぶりすぎだろう。なぜならこのとき天皇自身が藁にもすがる思いでソ連の仲介を望んでいたからだ。御上の期待を裏切る事実を正直に話す臣下はいなかった。誰も自分が突出してワルモンになりたくないのだろう。姜 尚中氏は「矩を超えず」と横並びで火中の栗を拾わないエリート官僚の習性を指摘していた。天皇の前では皆すくんでしまっていたのだ。

ソ満国境調査
P1030327 北安から黒河方面の地図 
 私はこの番組をみていて、父が生前話していた特務機関の調査を思い出した。父は昭和20年の冬頃北満の要衝、北安(ペーアン)にあった特務機関の調査の仕事をしていた。調査とはソ連のシベリア鉄道のようすを調べていたのである。父の話では特務機関とのつきあいは、北安の町をうろつく父たちに「まあ遊びに来い」とむこうが誘ってきたことから始まったという。
父たちは5~6人で八頭立ての馬車にソリをはかせて、小興安嶺を突き進み黒竜江方面へよく旅をした。
「特務は具体的にどこそこに行って、ああしろこうしろとかは、言わんかった。えらそうに命令すれば逆にわれわれは反発する。むこうが求めているものは国境の情報だと、なんとなしにわかった。」
特務は危険な仕事をあくまで「自主的」にやらせた。もしソ連のスパイにつかまって殺される可能性もあるし、自分たちは安全な場所で白系ロシア人や父達のような「義勇軍くずれ」を操縦していた。
 父たちは旅から帰ると北安の特務機関に行き旅先であったことを喋った。もちろん報酬は期待する以上のものをもらったそうである。
「2月か3月ごろある村で昨夜は貨物列車がきれめなしに一晩中通っていったとの話をする者がいた。戦車や装甲車らしきものを満載した列車も数珠繋ぎで行く情報も聞いた。」

こんどの第二次大戦、関東軍に対する奇襲撃滅作戦を展開するために、ソ連参謀本部が準備した貨車総数は実に13万6千両であった。貨車は文字通り数珠つなぎとなり、延々シベリアの荒野に一本の長い帯をかけて、欧州西部戦線から、続々とバイカル以東に新兵力を移送していたのである。
ー中略ー
ソ連参謀本部は、このような対日参戦のための大舞台の移動を当初、最低四ヵ月かかると計算していたが、この移動期間を縮めるため、移動開始時期をドイツ降伏を待たずにヤルタ密約後、ただちにスタートさせたことと、アメリカから必要な自動車、トラック等機械化車両を、ウラジオストック、ナホトカなどの極東諸港に陸揚げさせることによってスピード化させることを考えついていたのである。実際米国は、アメリカ製車両や機械兵器、食糧、燃料などをソ連側が指定した極東諸港に陸揚げしていた。  
講談社発行 戦後秘史2「天皇と原子爆弾」より

 戦前、日本の最高指導者たちは自分たちの組織の末端で働いている人間の情報を全く信用しなかったようだ。情報は知っていても御上の前に出ると思考力が止まり現実を直視できなくなるのかもしれない。戦後も長い間ソ連は中立条約を破棄して火事場泥棒的に領土を奪った悪の帝国だといい続けた。それは戦後の支配者アメリカから真珠湾のだまし討ちをさんざん言われ続けた意趣返しかもしれない。
 私はソ連をワルモンにすれば戦前の最高政治指導者の無為、無策、無責任を言い訳できるとは思わない、外務省・政府も軍部も同罪だと思う。もう一つ付け加えるなら、戦後も長い間「ヤルタの密約を日本政府は知らなかった」などという神話を信じ続けた歴史家・学者先生も反省する必要がある。
 大戦中の米ソ蜜月は過ぎ去り、冷戦体制に入った戦後、対米従属に舵を切った日本はソ連や中国をアメリカのあとについて攻撃すればよかった。ソ連の対日参戦を知らなかったことにすれば、おろかな対ソ工作はあまり目立たない、証拠書類は敗戦のどさくさで、ほとんど焼いてしまったので、歴史家先生はだませた。
 父はソ連が中立条約を破って参戦したことを恨みがましく言ったことはなかった。ときに「ロスケは捕虜のワシらを使って満鉄のレールから枕木までみんな持っていった」なんていうことはあっても、特別ソ連を憎む事はなかったように思う。なぜなら自分たちもソ連を敵視していつでも戦争できるように準備してきたし、機会あらば攻め込もう(関東軍特演)としてきたからだ。毒ガス戦も準備していて「専門の部隊もあった」といっていた。

重い問いかけ
 
番組最後で姜 尚中氏は原発問題の例を挙げながら統治構造に問題があると指摘した。やたら会議ばかりやって決定が出来ない。戦前の無責任体制が現在まで続いているようだ。
最後まで戦争終結に奔走した高木惣吉海軍少将は戦後次のような文章を残している。「反省を回避し過去を忘却するならばいつまでたっても同じ過誤を繰り返す危険がある 勇敢に真実を省み批判する事が新しい時代の建設に役立つものと考えられるのであります。」
ドイツのワイツゼッカー大統領とほぼ同じ言葉は、現在の私達に突きつけられた問いでもある。

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