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父の15年戦争20.満州事変を見た子供たち

 この記事は2009年9月18日JANJANに掲載されたのを一部写真など入れ替えております。

 「支那人を皆殺しにしてください」と少年少女に言わせる軍国時代
中村大尉事件
 今から78年前の昭和6年(1931年)9月18日、旧満州(中国東北部)奉天(瀋陽)の東北約7.5kmの柳条湖で満鉄線路の一部が爆破された。関東軍はこれを口実に張学良軍の駐屯地、北大営を攻撃し始めた。満州事変の勃発である。当時、日本国内では中国軍が攻撃してきたため日本軍が反撃し、衝突が起こったと宣伝されたが、実は関東軍が計画した謀略で、満蒙領有を独自に目指して起こしたものだった。
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中村大尉(左)と井杉曹長 筆者所蔵満州事変写真帖より
 このころ父はまだ小学2年生で政治の事など全く興味がない遊び盛りのやんちゃな少年であった。父が戦前、「義勇軍」に志願して満州に行く話をしていたとき、たまたま満州事変の話になり、「中村大尉事件」を良く覚えていると言い出した。「中村大尉事件」とは柳条湖事件に先立つ昭和6年(1931年)6月27日、参謀本部から対ソ作戦のための兵要地誌調査を命じられた中村震太郎大尉が、日本人の旅行が禁止されていた大興安嶺方面に農業技師と偽って潜入し活動していたところ、中国軍に怪しまれ同行の3人と共に殺された事件である。

 日本では中村大尉らが軍事スパイ活動をしていた事を伏せて公表されたため、新聞、雑誌などは「一般旅行者を虐殺した暴戻なる支那」と中国に対する憎悪をあおり日本中が「支那討つべし」と憤激に沸いた。父が幼少のころ起こった事件にも関わらずよく記憶していたのは、当時の日本社会の中国に対する憤激が並々ならぬものであったためと思われる。この事件は同年7月2日、在満朝鮮人入植者が水田用水路工事をめぐって中国当局と対立し武力衝突が起こった「万宝山事件」と共に満州事変発生の導火線となった。
P1030340
昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部
僕らは満州事変を見た
 昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部は「僕等は目の前に満州事変を見た」と銘打って満州事変の特集を組んでいる。その頃の少年雑誌は今と比べ物にならないくらい時局に敏感であった。特集号には満洲の奉天に住んでいた日本人小学校の生徒たちの綴方(作文)が載っている。一部引用する。

 
P1030341
 
 「早く仲よしに」 奉天弥生小学校5年 平田稔
 今、日本軍と盛んに戦って居る支那は一たいどんな国であろう。先生からも父さんからもくわしく聞きました。支那はまだあまり開けていない国で、方々に大将みたいなものがおり、良民からたくさんの金を取上げそれでのんきに遊んでいる。その部下が馬賊のような者で、我同胞である朝鮮人の家をあらしたり、ころしたりして、それで何とも思わないような悪い者ばかりです。支那の巡警は馬賊が出たらふせげないくらいよわむしです。
こうした国と日本はどうして戦ったのでしょう。それは支那全体との戦いではなく、悪いこれらの兵隊との間の戦いです。日本の兵隊は強い。支那は戦いでは勝てないので国際連盟に持ち出した。支那は口先でごまかそうとしたが、出来なかった。兵隊たちはますます興奮して日本軍を討てとさけび出した。かわいそうなのは良民たちで家は荒されひどい目にあった。大分戦がしづまって日本軍はかえってきたがまだおさまらない様子です。
日本がはやく支那と仲良くして、東洋の平和をまっているのと同じく、僕も早く戦いがしづまって満洲で安心して勉強出来るのを待っています。
 又寒さの中で戦って下さる兵隊さんたちにたいして一しょうけんめい勉強し、今後二度とこんな事の起こらないようにつくす立派な人間になりたいと思います。

 

 この綴方には当時の日本人が持っていたおごり、中国に対する蔑視が反映されてはいるものの、「早く仲よしに」という題が示されるように決して好戦的ではない。子供の素直な平和への願いも感じられる。おそらくこの文を書いた平田稔は日本軍が自作自演で鉄路を爆破したなどとは夢にも思わなかっただろうし、悪い馬賊を陰で日本軍が利用していたことも知らなかっただろう。目の前で満州事変を見たと思っていた子供たちは真実を見ていなかった。日本は正義で「良民」をたすけるため悪い馬賊をやっつけているのだと嘘を信じていた純真な子供たちはその後どんな成長を遂げたのだろうか。
P1030348
昭和13年(1938年)7月10日文芸春秋社発行の「話」支那事変一年史より
松井石根大将の憂い
 戦後、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われて処刑された松井石根大将は昭和13年(1938年)7月10日、文芸春秋社発行の「話」支那事変一年史に「南京入城の感慨」という文を寄稿している。

 松井はこの中で上海から南京までの激戦を回顧しつつ短期間に首都を占領したのは天皇の御陵威(みいつ)と部下の忠誠、国民の熱誠であると称え、最高指揮官として光栄であると述べている。しかし半年ぶりで日本に帰った際、国民から大歓迎を受けたが「余としては、むしろ非常なる苦衷で」と凱旋将軍らしからぬ言葉も吐いている。

 松井の精神的苦衷は入城式の翌日に行われた合同慰霊祭に関係している。「余は、当時の感慨を祭文に託して英霊に捧げた。而も予の思いは只に我忠勇将士の上にのみ止まらなかった。支那幾千万の無辜の民、その政府に強制せられて心なく戦場の塵と消えたる幾十万支那将兵に対しても少なからず惻隠の情を禁じ得なかったのである」と何十万もの殺戮があったことを書いてあるからだ。

 松井は南京入場式の様子を
 「海軍軍楽隊の吹奏する『君が代』の荘厳な音につれて、日章旗がスルスルと上がる。諸員最敬礼の裡に拝掲された国旗は江南の野に燦として翻った。次で東方皇居遥拝
天皇陛下万歳 を三唱したのだ。何たる感激の場面であったろう。」と述べつつ、一方、戦争は敗者の悲惨を思うと絶対に勝たねばならないが、

 「日露戦争以後40年間、日本人の国民精神、社会道徳は堕落の一途をたどっている」と批判。その根柢の、日清戦争以来、支那を弱いと侮蔑しきっている傲慢な精神にあると指摘、
 「軍隊といっても大部分は国民社会より出ているものであり、殊に今回の出征の如きは直接郷関より出ているもの多いのであるから、一般国民性の修養不十分なるに影響せらるることなきよう特に戒心すべきである。」
と大虐殺を引き起こした皇軍の軍紀のみだれを暗に戒めている。

 これまで連戦連勝で来たがこれからが本格的な戦いになる。支那軍隊は多数の学生や青年が加わり簡単には屈しないと、捕虜になった中国人青年男女の強い抗戦意志を例に挙げ注意を喚起する。さらに上海で読んだ内地の小学生からの手紙の内容に触れてこう述べている。

 「支那を大いに討ってくれ」とか「支那人を皆殺しにしてください」とかいう手紙が続々と届けられた。このことはうっかりすると小国民の感情を曲がって刺激する恐れがある。今回の事変は支那民衆を相手としているのでなく、蒋政権打倒という事が目的である。この事を十分考慮に入れて小国民の教育をなさねばならないと思うた。
支那が悪いという考え方は、日清戦争以来の考え方のようである。英米人が支那に臨む態度も、支那に利益を求むる懐柔利用ということが根本であるが、一方支那の劣弱を哀れみ同情するという正義感も手伝っている。支那が英米依存に狂奔する裏にはそうした何物かが存在しなければならない。だから、今後の大陸政策というものは、真に支那の実態を認識し、真に之を憐れみ愛撫するという気持ちを徹底化しなければならぬと思う。事変前より支那再認識論が云々されていたが、この愛撫の精神に徹底することこそ、皇道精神、武士道精神である。

 いかに軍国主義の時代とはいえ自国の可愛い少年少女から「支那人を皆殺しにしてください」などといわれれば、人殺し稼業の軍人といえどもギョッとするだろう。満州事変のころは「早く仲よしに」と言っていた子供たちが6年経つとこうも変わるのである。子供の道徳も国民精神と共に堕落の一途をたどった。
P1030344 昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部より政治宣伝漫画

 そして、この子供たちと同世代の私の両親も成長し変化していった。「曲がって刺激された」母は祖母のすすめで教師になるはずが、女学校に来た「白衣の天使」の宣伝映画に魅せられ従軍看護婦になった。父は松井大将が「支那人を憐れみ愛撫せよ」と説いた頃、挿絵画家をあきらめ国策に乗せられ満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州に渡った。
P1030346
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 関東軍が公開した爆破の「証拠品」と爆破現場、ならびに占拠した張学良軍の兵営前で威圧する日本軍。 筆者所蔵満州事変写真帖より

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コメント

こんばんは。


またお邪魔しました。


管理者さんのブログには、半月ほど前「留用 中国」で検索したらたどり着いたのが始まりです。


率直に申しまして、前の戦争での日本の残虐さ、醜悪さ、おごり高ぶりを得難いな資料を基に、誇張なく正確に浮かび上がらせておられる貴重なお話しと、拝見させて頂きました。


私も中国での日本の悪逆悪行は、管理者さん仰せのとおりと思います。


日本並びに、多くの日本人は心底からの反省の心、悔悟の心に至ることなく、形式的お詫びですべては終わった、清算したと安易に生きてきたんじゃないかと思います。


勿論深い反省、悔悟の心を携えて生きてこられた方々もおられると思います。


どちらかと言うと安易に生きてきた人の方が多かったのではないでしょうか。


管理者さんの見識に尊敬と敬意をこめてお便りをさせて頂きました。


ありがとうございます。

私の父が、満州から引き上げてきたという言葉を思い出してたどり着きました

情報をありがとうございました。

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