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2012年9月

「尖閣・領土棚上げ」は紛争防止の知恵

喧嘩を売ったのは石原都知事 
 野田首相の「尖閣国有化宣言」以来中国で、反日デモの暴威が振るっていたがようやく沈静の兆しが見えてきた。いかに抗議活動とはいえ、放火をしたり略奪をするのは犯罪であり、中国政府に自制を促すのは当然である。しかし物事には原因と結果がある。2010年9月の「漁船衝突事件」でもそうだったが、周恩来・鄧小平と結んだ「尖閣棚上げ」を一方的に破り、日本側が仕掛けたのを頬かむりして、相手の非を非難するのは公正ではない。
 4月に石原都知事が尖閣購入発言をして以来、日中関係は国交回復後最悪になった。丹羽中国大使が警告したとき日本政府・マスコミは彼を国賊扱いして、耳をかさなかった。
 野田首相は中国がここまで強硬になるとは「想定外」と無責任な談話をしているが、9・18満州事変の前に「国有化宣言」を出す外交センスは素人以下である。日本人は中国の強硬態度に非難轟轟だが最初にケンカを売ったのは日本(石原都知事)だということを忘れてはならない。稀代の煽動家に踊らされ、相手国が何を考えるのかさえ分からないものが日本の政治をもてあそんでいる。こちらが毅然とすれば相手も毅然と対応する、7月に野田首相は海上自衛隊を東シナ海に出すような事を言ったが、そうすれば向こうも海軍を出してくるだろう。中国軍人の強硬な態度は野田首相の発言を受けてのものだ。

 「棚上げ」は主権放棄ではない 
 今朝、ABCテレビの「報ステSUNDAY」を見ていて気がついたのだが、尖閣「棚上げ」を意図的にゆがめて報道していた。「緊迫の日中国境最前線」と題された映像では反日デモで焼き討ちされた、パナソニックの工場の無惨な姿を映し、次に1978年鄧小平が来日した際、の記者会見で「われわれは遅れて貧しいことを認めなければならない。日本の偉大な経験に学ばなければならない」と表明した映像、続いて鄧小平は新幹線で大阪・門真のパナソニックの工場を訪れ、当時の松下名誉会長に中国近代化の協力を要請し、松下はこれは金儲けではなく困っている中国の近代化に協力するのだとパナソニックは中国に工場を建てる。

 次の映像は鄧小平の「この問題(尖閣・領土問題)はわれわれの世代は知恵がないので、次世代にゆだねよう」との有名な談話を映した。この番組構成では「棚上げ」が中国側の一方的な譲歩であるように描いている。つまり貧乏で苦しんでいる中国が優れた技術をもつ日本に教えを請うため、尖閣で譲歩したと取れるのだ。
 これは間違いで日中両国主権は互いに主張するが、それを裏付ける行動(法の執行)をすると衝突するので慎むというのが「棚上げ」で、鄧小平は中国の主権を一度も取り下げた事はなない。日本も「棚上げ」を守っていたからこそ、「漁船衝突事件」が起きるまでこの40年ほとんど波風がたたなかった。

 番組最後では尖閣付近に展開する漁業監視船や最近の人民解放軍の将軍の強硬な意見を映しなぜこれほど中国は強硬姿勢なのかと問い、天安門事件の映像や若者がデモで毛沢東の肖像を掲げる姿を上げ、中国は鉄砲から生まれた革命政権で昔は貧しくても皆が平等だったのが、改革解放で貧富の差が生まれ若者の不満が鬱積している。その目をそらすのために領土問題で強硬なのだというステレオタイプの結論になっていた。
「棚上げ」は紛争防止の知恵
 日本人の多くはこの日の「報ステ」のように被害者ぶって日中関係悪化をみているようだが、向こうが一方的な悪者で、日本人は正義をすべて背負っているのか。これでは、どうすれば友好的な関係に戻れるのか道筋は見えない。これはかなり危険な状況ではないか、戦前の暴支庸懲(暴れる支那を懲らしめる)と同じではないだろうか。中国が一方的に悪ければこちらは海上自衛隊をもっていって毅然とするしかない。同じように中国も人民解放軍を持ってきて毅然とするだろう。
 
 日本の大マスコミは尖閣に限らず領土問題で相手国の主張をほとんど取り上げないか、ゆがめて報道をする。日本人はマスコミの影響で政府のいう事を盲目的に信じているがこれほど悪化したら両国首脳は今すぐ話しあうしかないだろう。実際、中国政府は話し合いで解決しようといっている。しかし野田首相は尖閣で領土問題はないというばかりだ、どちらが強硬なのか。日中平和条約には両国の紛争は武力を用いず話し合いで解決するとある。自衛隊を南西諸島に常駐し、軍備を増強すれば必ず中国も同じように軍備を増強し紛争の迷路に入る。反対に日本が周恩来・鄧小平以来の尖閣・領土「棚上げ」に立ち返れば、紛争は収まり友好の大道に戻れる。「棚上げ」は決して弱腰ではなく紛争防止の知恵なのだ。

父の15年戦争20.満州事変を見た子供たち

 この記事は2009年9月18日JANJANに掲載されたのを一部写真など入れ替えております。

 「支那人を皆殺しにしてください」と少年少女に言わせる軍国時代
中村大尉事件
 今から78年前の昭和6年(1931年)9月18日、旧満州(中国東北部)奉天(瀋陽)の東北約7.5kmの柳条湖で満鉄線路の一部が爆破された。関東軍はこれを口実に張学良軍の駐屯地、北大営を攻撃し始めた。満州事変の勃発である。当時、日本国内では中国軍が攻撃してきたため日本軍が反撃し、衝突が起こったと宣伝されたが、実は関東軍が計画した謀略で、満蒙領有を独自に目指して起こしたものだった。
P1030345
中村大尉(左)と井杉曹長 筆者所蔵満州事変写真帖より
 このころ父はまだ小学2年生で政治の事など全く興味がない遊び盛りのやんちゃな少年であった。父が戦前、「義勇軍」に志願して満州に行く話をしていたとき、たまたま満州事変の話になり、「中村大尉事件」を良く覚えていると言い出した。「中村大尉事件」とは柳条湖事件に先立つ昭和6年(1931年)6月27日、参謀本部から対ソ作戦のための兵要地誌調査を命じられた中村震太郎大尉が、日本人の旅行が禁止されていた大興安嶺方面に農業技師と偽って潜入し活動していたところ、中国軍に怪しまれ同行の3人と共に殺された事件である。

 日本では中村大尉らが軍事スパイ活動をしていた事を伏せて公表されたため、新聞、雑誌などは「一般旅行者を虐殺した暴戻なる支那」と中国に対する憎悪をあおり日本中が「支那討つべし」と憤激に沸いた。父が幼少のころ起こった事件にも関わらずよく記憶していたのは、当時の日本社会の中国に対する憤激が並々ならぬものであったためと思われる。この事件は同年7月2日、在満朝鮮人入植者が水田用水路工事をめぐって中国当局と対立し武力衝突が起こった「万宝山事件」と共に満州事変発生の導火線となった。
P1030340
昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部
僕らは満州事変を見た
 昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部は「僕等は目の前に満州事変を見た」と銘打って満州事変の特集を組んでいる。その頃の少年雑誌は今と比べ物にならないくらい時局に敏感であった。特集号には満洲の奉天に住んでいた日本人小学校の生徒たちの綴方(作文)が載っている。一部引用する。

 
P1030341
 
 「早く仲よしに」 奉天弥生小学校5年 平田稔
 今、日本軍と盛んに戦って居る支那は一たいどんな国であろう。先生からも父さんからもくわしく聞きました。支那はまだあまり開けていない国で、方々に大将みたいなものがおり、良民からたくさんの金を取上げそれでのんきに遊んでいる。その部下が馬賊のような者で、我同胞である朝鮮人の家をあらしたり、ころしたりして、それで何とも思わないような悪い者ばかりです。支那の巡警は馬賊が出たらふせげないくらいよわむしです。
こうした国と日本はどうして戦ったのでしょう。それは支那全体との戦いではなく、悪いこれらの兵隊との間の戦いです。日本の兵隊は強い。支那は戦いでは勝てないので国際連盟に持ち出した。支那は口先でごまかそうとしたが、出来なかった。兵隊たちはますます興奮して日本軍を討てとさけび出した。かわいそうなのは良民たちで家は荒されひどい目にあった。大分戦がしづまって日本軍はかえってきたがまだおさまらない様子です。
日本がはやく支那と仲良くして、東洋の平和をまっているのと同じく、僕も早く戦いがしづまって満洲で安心して勉強出来るのを待っています。
 又寒さの中で戦って下さる兵隊さんたちにたいして一しょうけんめい勉強し、今後二度とこんな事の起こらないようにつくす立派な人間になりたいと思います。

 

 この綴方には当時の日本人が持っていたおごり、中国に対する蔑視が反映されてはいるものの、「早く仲よしに」という題が示されるように決して好戦的ではない。子供の素直な平和への願いも感じられる。おそらくこの文を書いた平田稔は日本軍が自作自演で鉄路を爆破したなどとは夢にも思わなかっただろうし、悪い馬賊を陰で日本軍が利用していたことも知らなかっただろう。目の前で満州事変を見たと思っていた子供たちは真実を見ていなかった。日本は正義で「良民」をたすけるため悪い馬賊をやっつけているのだと嘘を信じていた純真な子供たちはその後どんな成長を遂げたのだろうか。
P1030348
昭和13年(1938年)7月10日文芸春秋社発行の「話」支那事変一年史より
松井石根大将の憂い
 戦後、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われて処刑された松井石根大将は昭和13年(1938年)7月10日、文芸春秋社発行の「話」支那事変一年史に「南京入城の感慨」という文を寄稿している。

 松井はこの中で上海から南京までの激戦を回顧しつつ短期間に首都を占領したのは天皇の御陵威(みいつ)と部下の忠誠、国民の熱誠であると称え、最高指揮官として光栄であると述べている。しかし半年ぶりで日本に帰った際、国民から大歓迎を受けたが「余としては、むしろ非常なる苦衷で」と凱旋将軍らしからぬ言葉も吐いている。

 松井の精神的苦衷は入城式の翌日に行われた合同慰霊祭に関係している。「余は、当時の感慨を祭文に託して英霊に捧げた。而も予の思いは只に我忠勇将士の上にのみ止まらなかった。支那幾千万の無辜の民、その政府に強制せられて心なく戦場の塵と消えたる幾十万支那将兵に対しても少なからず惻隠の情を禁じ得なかったのである」と何十万もの殺戮があったことを書いてあるからだ。

 松井は南京入場式の様子を
 「海軍軍楽隊の吹奏する『君が代』の荘厳な音につれて、日章旗がスルスルと上がる。諸員最敬礼の裡に拝掲された国旗は江南の野に燦として翻った。次で東方皇居遥拝
天皇陛下万歳 を三唱したのだ。何たる感激の場面であったろう。」と述べつつ、一方、戦争は敗者の悲惨を思うと絶対に勝たねばならないが、

 「日露戦争以後40年間、日本人の国民精神、社会道徳は堕落の一途をたどっている」と批判。その根柢の、日清戦争以来、支那を弱いと侮蔑しきっている傲慢な精神にあると指摘、
 「軍隊といっても大部分は国民社会より出ているものであり、殊に今回の出征の如きは直接郷関より出ているもの多いのであるから、一般国民性の修養不十分なるに影響せらるることなきよう特に戒心すべきである。」
と大虐殺を引き起こした皇軍の軍紀のみだれを暗に戒めている。

 これまで連戦連勝で来たがこれからが本格的な戦いになる。支那軍隊は多数の学生や青年が加わり簡単には屈しないと、捕虜になった中国人青年男女の強い抗戦意志を例に挙げ注意を喚起する。さらに上海で読んだ内地の小学生からの手紙の内容に触れてこう述べている。

 「支那を大いに討ってくれ」とか「支那人を皆殺しにしてください」とかいう手紙が続々と届けられた。このことはうっかりすると小国民の感情を曲がって刺激する恐れがある。今回の事変は支那民衆を相手としているのでなく、蒋政権打倒という事が目的である。この事を十分考慮に入れて小国民の教育をなさねばならないと思うた。
支那が悪いという考え方は、日清戦争以来の考え方のようである。英米人が支那に臨む態度も、支那に利益を求むる懐柔利用ということが根本であるが、一方支那の劣弱を哀れみ同情するという正義感も手伝っている。支那が英米依存に狂奔する裏にはそうした何物かが存在しなければならない。だから、今後の大陸政策というものは、真に支那の実態を認識し、真に之を憐れみ愛撫するという気持ちを徹底化しなければならぬと思う。事変前より支那再認識論が云々されていたが、この愛撫の精神に徹底することこそ、皇道精神、武士道精神である。

 いかに軍国主義の時代とはいえ自国の可愛い少年少女から「支那人を皆殺しにしてください」などといわれれば、人殺し稼業の軍人といえどもギョッとするだろう。満州事変のころは「早く仲よしに」と言っていた子供たちが6年経つとこうも変わるのである。子供の道徳も国民精神と共に堕落の一途をたどった。
P1030344 昭和7年(1932年)2月1日発行の少年倶楽部より政治宣伝漫画

 そして、この子供たちと同世代の私の両親も成長し変化していった。「曲がって刺激された」母は祖母のすすめで教師になるはずが、女学校に来た「白衣の天使」の宣伝映画に魅せられ従軍看護婦になった。父は松井大将が「支那人を憐れみ愛撫せよ」と説いた頃、挿絵画家をあきらめ国策に乗せられ満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州に渡った。
P1030346
P1030347
 関東軍が公開した爆破の「証拠品」と爆破現場、ならびに占拠した張学良軍の兵営前で威圧する日本軍。 筆者所蔵満州事変写真帖より

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