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2014年1月

父の15年戦争戦後編(2)彷徨

父の15年戦争(2)最後の戦争証言より続く

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東大出の奸漢
 父は厳寒の黒竜江沿岸を彷徨っていた。日本敗戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに送られる途中、すきを見て三人で一緒に脱走をしたが一人は射殺され、もう一人とは、はぐれ独りぼっちになったのだ。
「あっちゃへ行ったり、こっちゃへいったりもうわけがわからなくなり、意識がもうろうとしてきた」
 行き倒れ寸前に父は、吹雪いてかすむ前方に見慣れた倉庫があるのに気付いた。息も絶え絶え、入っていくとそこには中国人の旧友がいた。
「わしが、特務機関の手先をして、黒竜江沿いのソ満国境調査をしていたころ知り合った。その男は若いころ東京大学に留学していたというインテリで、小麦工場を経営していた。小麦は統制品で中国人には手に入りにくい中、わしは憲兵に交渉して特別に物資が手に入るよう何かと世話をして、友達になった。」
 父の説明によると「その男は親日派で国民党や共産党から見れば※特務奸漢、民族の裏切者とみられていた」
 その東大出の工場経営者は父が重篤なのを知り、ボロボロになった満服(中国服)のコートを着せ、瞬く間にソ連軍と交渉をして軍用列車に乗せた。

※特務奸漢:中国語で同国の人をののしる最大限の言葉。日本語の国賊と売国奴を合わせた強い意味を持つ。

父の15年戦争戦後編(1)毛沢東の弟子

P1030879_2 天安門上の毛沢東、その横鄧小平、右端劉少奇、1950年頃。筆者所蔵
毛沢東の弟子
「わしは毛沢東の弟子じゃ」父が亡くなる半年前に言った言葉だ。私が朝仕事にかかる前に父とお茶を飲みながらいつものように昔の中国の話や戦争の話などをだべっていたとき、ふいに言った。
「わしがいた第四野戦軍は林彪が総司令官で林彪は毛沢東の一番弟子やから、わしは毛沢東の弟子じゃ。ファハッハッ…」無理にこじつけて照れくさかったのか父は愉快そうに笑った。父は自他共に認める中国びいきだった。親戚の間でも有名で、「おっちゃんは中国に長いことおったからなあ」とよく言われた。毛沢東に心酔していたことも、日ごろの言動から私は良く知っていた。
 

父は日本に引揚げてきてから、日本共産党に入党、日中友好運動にものめりこんでいった。当時日本と中国とは国交はなく、いや正確に言うと台湾(中華民国)が正統な中国で国交があり、中華人民共和国は中共といって日本は敵視し、戦争状態が続いていた。中共と日共は仲間とみられ家には公安刑事がよく来ていた。きちんとした服装をしていて、ネクタイをしている刑事さんは田舎では珍しく、私が普段から見慣れている農家の人や、よく飲みにきていたヨッパライとはまるで違う世界の人のようだった。私は警察官には制服を着ている人と私服を着ている人がいることを知った。

母の姉婿が刑事で熊本市の伯母宅に遊びに行ったとき、伯父がいつも帰るのが遅く、「きっと張り込みで今夜も遅いわ」なんて伯母は普通にしゃべっていた。
我が家も公安刑事から父はよく張り込まれていたと思うが、母は苦笑いをしながら姉の言葉を聞いていたのだろうか。そのころ父を尋ねてくる人間は、ヨッパライ、ばくち打ち、チンピラ、借金取り、裁判所の差し押さえ人、右翼、共産党員、公安刑事、など個性的な人が多かった。

洗脳
 毛沢東、共産党、引揚者といえば洗脳という言葉が聞こえてくる。私が洗脳という言葉を知ったのは中学2年の歴史の時間だった。その頃中国ではプロレタリア文化大革命が勃発し、毛沢東語録を掲げた紅衛兵の嵐が吹き荒れていた。私は朝日放送の「ヤンリク」という深夜放送を聴きながら、時折ダイヤルを少しずらし北京放送も聞いていた。
 3月に入り、歴史の授業が大幅に遅れていたので近・現代史の追加授業を道徳の時間にやる事になり、社会の先生に代わって教頭先生が教壇に立った。
 授業の最後の方で冷戦の話から鉄のカーテン、竹のカーテンといった言葉がでてきて、「中共から引揚げてきた人間は洗脳されていて革命を企てている」というような事を先生はおっしゃった。ほとんどの生徒は意味がよくわからなかったと思えるが、私一人、両親のことを名指しされたのではないかと、どぎまぎした。あれから半世紀近く時がたつが、私は洗脳という言葉を見たり聞いたりするたび、心拍数は増え耳がピクピクするようになった。父は洗脳されたのだろうか・・・
 
 日本のネット社会の一部を見ると毛沢東はヒトラー、スターリン以上の大虐殺者とされているようだ。毛沢東が発動した文化大革命は中国社会に大きな傷あとを残し、当の中国共産党自身が「10年の動乱」と否定している。文化大革命のころ私のうちでは赤旗と産経新聞を取っていた。産経の柴田穂北京支局長が追放された事や、赤旗の紺野特派員と砂間一良日本共産党北京代表が北京空港で紅衛兵に半殺しにされ、命からがら日本に帰ってきたことも知っている。日本と中国の共産党はそれ以後32年間の長きにわたって敵対し断絶する。そのころ中国共産党は日本共産党を4つの敵(アメリカ帝国主義・ソ連修正主義・日本佐藤内閣反動政府・日共宮本修正主義一派)と呼び糾弾した。

 林彪事件、4人組逮捕によって文革は終息に向かうが、復活した鄧小平がレールを敷いた経済の改革開放路線で毛沢東の「永久革命」は否定される。にもかかわらず父は死ぬ前「わしは毛沢東の弟子」だと言い切った。父は中国革命に参加した7年間、夢でも見ていたのだろうか・・・
 

父の15年戦争(18)「死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛

この記事は2009年8月29日JANJAN日本インターネット新聞に掲載されたものです。

父が筆者に語った旧日本軍の腐敗、堕落、すさみ方の激しさは、常軌を逸しているが、兵士を縛った「戦陣訓」のむごさには、言葉を失う。生還した父親は、「玉砕」が伝えられた南の島で生き残った、近所の知り合いを小ばかにしたことがあった。敵の捕虜になることを徹底的に禁じた教えは、いまなお、心の中に巣くっているのか。

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 昭和16年12月8日真珠湾を特殊潜航艇で強襲し「玉砕」した九軍神。初めて特別攻撃隊と名づけられ、その後の「特攻」のさきがけとなる。出撃は10人だったが、一人は人事不省になり米軍の捕虜となったので、その事実は国民には秘匿された。写真は全て内閣情報局発行「写真週報」から

父はプータローだった
 父が徴兵検査を受けたのは、昭和20年5月頃だった。甲種合格で関東軍に入隊した。その頃ヨーロッパでの戦いはドイツの敗北が決定し、孤立無援の日本は絶望的な戦いを続けていた。南方の島々ではアメリカ軍の反攻に敗北を重ね、兵力不足になり、満州から多くの部隊が転出していった。

 父は旧満州の竜江省(現黒龍江省)納河(ノーホ)県納河南学田地区へ入植していた。ここで一生懸命農業に励んでいた、と私は思っていたが、話を聞くとそうではなかったらしい。「特務機関の調査の仕事をしていた」という。

 調査といえば聞こえはいいが、農閑期の冬場など不良仲間と黒竜江のソ連国境沿いを、各小隊に1台あった6頭だての馬車で、きままに旅したり、街で中国人の友達と遊びほうけたりする間に情報を集め、特務機関に出入りして小遣い銭を稼いでいたようだ。特務機関との出会いのきっかけは、ある男が「ええ若いもんがブラブラして、どないしょんのじゃ、まあいっぺん遊びにこいや」と誘われ、出入りするようになったという。

 特務は具体的な指示は特にしなかったようだ。「あれこれ命令をすると、わしらは反発するし、かえって言う事を聞かないので、下からおだててソ連国境の村の様子など聞こうとする。特にシベリア鉄道の輸送状況など聞きたがった」。

 ある集落で得た情報は特務の目を光らせた。「夕べは戦車を満載した貨車が一晩中、ガッタンゴットン通ったんで全然眠れんかったよ」。1回旅行すると、そのたびに特務機関の出張所のようなところへ行き、話をして小遣いをもらった。金が入ると街で遊び、なくなれば旅に出かける、プータローのような生活をしていたという。

 開拓団は不十分ながら、飯だけは食わせてくれたので、生活は出来た。父は「わしは義勇軍くずれだ」といっていたが、そんな崩れた若者にも召集令状はやってきた。当時、満州帝国に在住していた日本人男性で兵隊に適した35万人のうち、「行政、警備、主要生産に従事する約15万人」を残して、根こそぎ動員したのである。

軍紀乱れる皇軍
 旧日本軍内務班では初年兵は常にいじめられる。父は飯の炊き方にうるさく、入院しているときなど硬いご飯が出ると「こんなゴッチめしではビンタの20発はとられる」などとよく言っていた。「ビンタをとる」とは、古参兵が後輩を殴る事だが、兵営では取るに足らない理由をつけての下級兵士へのいじめ、暴力は日常的だった。古参兵の虫の居所が悪いとゲンコツが上靴になったり帯革になったりして、顔がお岩さんのようにはれ上がる。

 「どこの班にも古兵が一人いて、威張っていた。5年も6年もいるのに、万年一等兵で出世の見込みのない、だらけてすさんだ兵隊が多かった。不思議な事にそんな兵隊は各班に1人だけで2人といなかった」という。古兵は炊事場にいつもたむろしていた。ある日、演習に行きかけた、ある中隊の後ろから叫んだ古兵がいた。

 「おーいお前ら!そんなたよりない中隊長についていくと後ろから鉄砲玉が飛んでくるぞ。やめとけ、やめとけ」。戦争末期には指揮官不足もあって新米の将校が多く、統率力がなく、舐められていた。口だけの脅しじゃなく、ほんとうに後ろから実弾をぶっ放す古兵もいたという。

 「戦争は前からだけでなく、後ろからも玉が飛んでくるというのは本当だ」。古兵や上官のいじめに耐えかねて自殺する初年兵もいた。父は「兵隊が自殺するときはこんな風にする」と実演してくれた事があった。38式歩兵銃に見立てたホウキをもち、足を伸ばして座って柄の先を額にあて、足の親指で引き金を引くかっこうをした。「義勇軍」時代、父の友人が屯墾病という一種のノイローゼにかかって自殺したが、この方法でやったので、頭が木っ端微塵になって顔も誰だか分からなくなっていたという。

自決訓練
 旧日本軍では、人の命は鴻毛よりも軽いと教えられていた。戦争とは人殺しをする事であって、どこの国の軍隊も敵の人命を軽視している。しかし、旧日本軍の特異な点は、敵だけでなく味方の人命も軽視していたことだ。旧軍は戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」を極端に重視して、捕虜になることを徹底的に禁止した。敵に囲まれ、どうにもならなないときは捕虜になる前に潔く自決しろ、と教えられていたのだ。

 ――戦闘の様々な状況を具体的に想定し、「最後の一発は自分のためとっておけ」と耳にタコが出来るまで念を押される。そればかりではなく、「銃弾に利き腕を貫通され、引き金が引けなくなったらどうするか」、「負傷で体が動けなくなったときは、どうするか」、「一時、意識不明となり、気づいたときはどうするか」などと質問し、初年兵に返事をうながした。そして、実際に銃や銃剣での自決方法をこと細かく教育もした。「もう、これまでと思ったら、こうするんだ」と、班長みずから、銃口をノドに当てて、右足の親指で引き金を引く実演をして見せた。銃剣を扱うときはこうするんだと、床に銃剣の柄先をつけ、仰向けになって剣の刃先に胸部をつけ、そのまま体重をかける実演もした。体が動かず手足の自由を失ったときときにと、舌の噛み方を、くわしく教えもした。また、負傷して自力で自決できない兵隊には、こうしろと、初年兵の一人をモデルにして、その後頭部に銃口を密着する角度まで具体的に教え込んだ。また、手榴弾を携帯しているときはこうだと、安全針を抜いて抱え込むかっこうでうつぶせることも教えた。
――富沢繁著「新兵サンよもやま物語」より

 戦前の雑誌を読んでいると、自決や玉砕を賛美するあまり、死ぬ事が目的となっている記事が多い。「敵をやっつけ勝利する」という本来の目的がどこかに行ってしまっているのだ。これも一種の敗北主義だと思うのだが、狂気に満ちたこの時代の空気に染まると、そんなことは気付かなくなるようだ。

自決の研究
 アッツ島玉砕の軍神、山崎部隊長の元部下が夫人を訪ねた雑誌記事がある。
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昭和18年5月29日太平洋戦争で初めての「玉砕」をした、アッツ島の軍神山崎部隊長

 ――昭和14年、北支に出征される時に、山崎部隊長はコルトか何かの掌に入るような小型の拳銃を携行された。令息たちが「お父さんそんな小さな拳銃では、敵は撃てないでしょう」と言ったら、部隊長はニコニコ笑いながら「いやこの拳銃は敵を撃つためじゃない。最後のときにこうするのだよ」と言って、自分で銃口を当てて見せられたそうである。先日私が伺ったときも、令夫人「主人はかねがね自決の方法を研究していたようでございますから、たとえどんな重傷を負っても、必ず自決していることを私はかたく信じて居ります」と申されておった。この一言を以ってしても、部隊長平素のお心構えが窺われるのです。それは右手をやられれば左手でやる両腕をやられればどうする、という風にいろいろな場合を研究して居られた。だからどんなことがあっても、最後はりっぱに自決しているということを、令夫人は絶対に確信して居られるのです。――中略――。しかし、その神霊は天翔り国駆りして靖国の御社にお還りになるのであって、遺骨は問題でないのであります。日頃からよくこの覚悟を申し聞かされて居た令夫人は「玉砕と承っても、決して遺骨のことなど、思ったことはございません。ただ日頃から主人に気づかれないように、少しづつ主人の爪と髪の毛はしまっておきました」と述懐して居られたが、覚悟に徹してしかも細かい心づかいの届いた武人の家庭の見事さ、部隊長も部隊長なら奥様も奥様、実に大したものだとつくづく感激した次第です。
――「ああ山崎部隊長」昭和18年8月1日発行富士(キング改題)より

 この記事は美談であって、夫を亡くした妻の健気な態度を絶賛しているようで、実は夫が死んでも悲しむことなど絶対に許さない、遺骨さえも求めさせない軍国日本の冷厳な雰囲気を伝えている。死ねば軍神として讃えられるが、捕虜になり、玉砕地から生きて帰れば非国民、一族郎党末代まで恥になるという、世間の風当たりの強さを感じさせる。

捕虜は末代までの恥
 私の家の近くに、サイパンだったかグアムだったかで、アメリカ軍の捕虜になって収容所に入れられ戦後帰ってきた人がいる。以前、父とその人の話をしていたとき「アメリカの捕虜になって…」と小ばかにした言い方をした。戦後50年以上たっても元捕虜だった人にはこんな言い方をするのかと、戦前の徹底した軍国教育のすさまじさを感じた。

 その時まで私は、「玉砕」とあれば、全員が死んだものだと思っていた。だが、本当はアッツでもサイパンでも硫黄島でも、少数の生存者がいた。マスコミは、戦後もほとんどそんな事実は伝えなかったし、その人達は一部の人を除いて沈黙を守ってきたようだ。その理由は「死んで虜囚の辱めを受けず」である。戦陣訓の呪縛は死ぬまで続くのか。

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シンガポール戦の連合軍捕虜を報道する昭和17年3月25日発行「写真週報」「何という恥無き姿だろう。皇軍将兵は勿論、われわれ日本人には到底思いも及ばないことだ。恥知らず奴!と唾を吐きかける前に、憐憫の情さえ湧いてくる…だが、顧みて未だにこの人間共を支配したと同じような物の見方、考え方がわれわれの心の隅のどこかに残っていわしまいか。一死国に殉ずる皇軍将兵の尊厳な姿と、この醜い写真をよく見較べて、十分反省しなければならない」

◇ ◇ ◇
【父の15年戦争】
・(20)満州事変を見た子供たち
・(19)刺殺命令を拒否して重営倉
・(18)死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛
・(17)8月15日の特攻
・(16)狼になった義勇隊員
・(15)哀れだった慰安婦
・(14)満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所跡
・(13)帰郷―満州はええとこやぞ
・(12)全体主義者橋本欣五郎
・(11)叛乱
・(10)厳寒地のバトル
・(9)嫩江(ノンジャン)大訓練所
・(8)靖国神社
・(7)糞尿をなめるカリスマ教育者
・(6)張作霖を爆殺した男
・(5)絵かきになりたかった父
・(4)日中戦争勃発
・(3)父の友人達
・(2)最期の戦争証言
・(1)関東軍の特攻

父の15年戦争(19)刺殺訓練命令を拒否し重営倉

この記事は2009年8月13日JANJAN(日本インターネット新聞)に掲載されたものです

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 中国の日本軍 
 父が関東軍に入隊したとき、初年兵の訓練で生身の中国人を刺殺するよう命令されたことを私が知ったのは、35年以上前のことだった。その頃、本多勝一著「中国の日本軍」や「中国の旅」を読んでいた私は、旧日本軍のすさまじい暴虐ぶりにショックを受けた。

戦前の中国における旧日本軍の暴虐を、初めて中国現地を訪れ取材した本多勝一氏のルポ。日中国交回復前の日本社会に衝撃を与えた。
 読み終えてすぐ考えたのは、戦前父は中国で何をしていたのか、父も同じことをやっていたのかという疑問だった。父の世代以上の周りの男は大抵兵隊経験者で、その多くは中国へ派遣されていたと聞いていた。

 今から思えばお恥ずかしい限りだが、満州事変だとか日華事変、盧溝橋事件、張作霖爆殺事件などの言葉は知っていたが、それが南京虐殺や、平頂山事件、労工狩り、万人坑とどう結びつくのか全く分からなかった。父が14歳の時、「満蒙開拓青少年義勇軍」に志願して満州に行ったことは承知していても、なぜ中国までわざわざ子供が開拓に行かなければならなかったのか、理解できなかった。 

 私は1952年1月中国の漢口で生まれ、翌年家族4人で日本へ帰還した。まぎれも無い引揚者の1人だが、20歳過ぎまで日中の近・現代史と自分の出自がどうつながっているのか、関心は無かった。 

 幼いとき、父から満州狼の恐ろしさや、中国の広大な土地、地平線に沈む大きな夕日、冬は零下50度近くに気温が下がる厳しい自然、などを寝物語に聞きながら育った。一緒に桶風呂に入ったときなど、
 「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下―」
と、「戦友」を気持ちよさそうに歌うのが常だった。しかし、戦争の話だけはほとんど聞いた覚えはなかった。 

 中止された刺突訓練 
 本多の「中国の日本軍」にも書かれている南京大虐殺は1937年12月13日、日本軍が南京に入城してから、城外周辺での虐殺も入れると翌年春頃まで続いたという。 

 この頃父は高等小学校2年で、日本軍の南京入城で日本中が沸きかえり、国民こぞって提灯行列をして祝った事を憶えているという。そのほかにも向井少尉、野田少尉による百人切競争も新聞が大々的に報道したので、よく知っていた。今から見ると残虐極まりない殺人ゲームだが、当時の日本国内の雰囲気はプロ野球のホームラン競争でもみるような気分だったという。 

 南京大虐殺に関しては、1937年12月13日から翌年春まで、父は小学生で軍隊に入っていなかったので「シロ」だと安心した。軍隊に入ってそういうことはなかったのか聞いてみると、しゃべり始めたのが関東軍に入ってすぐ、初年兵の訓練で中国人を藁人形代わりに銃剣で突き殺すことだった… 

 関東軍に入隊してまもなく、中隊の初年兵が訓練場に集められた。そこには何人か中国人が杭に縛られていた。訓練を指導していた上官は新兵に、肝だめしに銃剣で突き殺せと命令した。父は14歳のころから「義勇軍」で軍事訓練を受け、徴兵検査でも甲種合格で度胸がある男と上からも目されていたようで、最初に指名された。  

 「コリャサー惨いと思った。軍隊は人殺しをするところで武器を持って向かってきた敵ならためらいなくやれたと思うが、無抵抗で縛られている人間を突き刺すことはできなんだ。それで抗命罪に問われて重営倉にされた」 

 私は大安心した。そのとき父に対して最初で最後の尊敬の念を覚えた。そのころ私は父が大嫌いだった。なぜかというと、父は金銭にルーズなのに商売好きで、思いつきで簡単に事業を始めることが多かった。計画も資金もいい加減で半年もするとすぐ飽きて、また新しい商売をはじめるが、すぐやめる。

 その繰り返しで、いつも我が家は火の車だった。私が知っているだけでも、1960年ごろの夏、突如農業用のため池を利用して貸しボート屋を始めた。客が来たのは最初のうちだけで、気候が涼しくなる頃にはほとんど来なくなり、その年の秋にはもうやめてしまった。また「ホワイトリリー」というなぜか名前がスナックのような喫茶店兼うどん屋を開業したものの、ツケにしてくれと言われたら断れない父は貸し倒れが多く、半年ほどで休業に追い込まれる。

 これからは養鶏が儲かるとひよこを仕入れてきて実家の座敷の横の倉庫で飼い始めたが、暖房用の電熱器から藁に火がつき家も鳥も丸焼けになってしまった。こりもせず次第に飼育数を増やし、場所がないので池の堤や山の裾野にも鶏舎を建てたが、台風が来ると鶏と一緒に吹き飛んで行った。

 卵を売るだけでなく肉も売ったらもうかるぞと鳥肉屋も始めた。続いて肉屋に転進。その後何の脈絡もなく素麺は絶対に儲かると、私の貯金を勝手におろし中古の製麺機を150万円で買ってきて素麺造りに熱中する。商売を変えるたび借金が膨らみ母の愚痴も増えていった。 

 閑話休題。父は中国人の刺殺を拒否した。すると、他の「義勇軍」出身の新兵たちからも次々声が上がり、「そんな事が出来るか!」「そうだ、そんな卑怯なことができるかい!」「やめろ! やめろ!」と騒ぎ出し、とうとう刺殺訓練が出来なくなってしまったという。 

 旧日本軍では「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」と絶対であった。兵卒は命令に対して疑問とか逡巡とか、まして拒否などというのは許されない事だった。

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第16師団(中島今朝吾師団長)歩兵第20連隊(大野宣明連隊長、福知山)所属の兵士のアルバムより(筆者所蔵)
 捕虜・住民虐殺 

 ――ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使っていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割ったり、その骨張った尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐった。 ぼくは山西省栄河県の雪に埋もれた城壁のもとに、素裸にされ鳥肌立った中年の中国人がひとり、自分の掘った径二尺、深さ三尺ほどの墓穴の前にしゃがみこみ、両手を合せ、「アイヤ。アイヤ」とぼくたちを拝み廻っていた光景を思い出す。トッパと綽名の大阪の円タク助手出身の、万年一等兵が、岡田という良家の子で、大学出の初年兵にムリヤリ剣つき鉄砲を握らせ、「それッ突かんかい、一思いにグッとやるんじゃ」と喚き散らし、大男の岡田が殺される相手の前で、同様に土気色になり眼をつぶり、ブルブル震えているのを見ると、業をにやし、「えエッ。貸してみろ。ひとを殺すのはこうするんじゃ」と剣つき鉄砲を奪いとり、細い血走った眼で、「クソッ。クソッ」出ッ歯から唾をとばして叫び、ムリに立たせた中国人の腹に鈍い音を響かせ、その銃剣の先を五寸ほど、とびかかるようにして二、三度つきとおした。中国人は声なく自分の下腹部を押え、前の穴に転げ落ちる。ぼくは鳥肌立ち、眼頭が熱くなり、嘔気がする。(さようなら。見知らぬ中国人よ、永久にさようなら)――「さようなら」※田中英光 別れのとき アンソロジー 人間の情景7 文春文庫より 

 このような惨劇がどれほど大陸に繰り広げられたのだろうか。ルポライターの森山康平氏は述べている。 

 ――初年兵訓練のため中国人を抵抗できない状態にして銃剣で突かせた、という話が出た。最初は、討伐の途中で部落の中の野戦病院を通りかかり、そこに隠されていた白衣の重態患者二十人ほどを引きずりだし、古兵がぐるっと取り囲む中でつかせたという。(中略)二回目は、塹壕堀りの強制労働をさせ疲労しきった農民数百人、立ち木に縛って初年兵訓練の第一期検閲で次々刺殺したという話である。 この話を聞いた当座は、あまり特別の関心を払わなかった。というのは、さんざんあの手この手の虐殺の話を聞かされた後だったので、ああ、そんな方法で殺したこともあったのか、とメモをとりつづけたのだった。正直のところ、そのときの僕の感覚は少し鈍くなっていた。 しかし、その後の取材や仲間の取材メモから、初年兵訓練で生きたまま殺害した例は、菊池さんの部隊が特別でないということがわかった。田所さんも、山田さんも、佐野さんも「やらされた」体験を語っている。時期と場所をみてみると、田所さんは一九三七(昭和十二)年南京で、山田さんは一九四〇(昭和十五)年「北支のある部落」で、佐野さんは一九四二(昭和十七)年済南でのことである。 菊池さんの話は上官として命じたわけだが、最初が一九四五(昭和二十)年春、東阿・東平湖付近の呉家海子で、二回目が同年夏、索格庄となっている。四人の話しから考えられることは、初年兵訓練と称する無抵抗人間に対する殺害行為は、ある地域のある部隊だけの、ある時点に限られた特殊な事例ではなかったのではないか、という推測を許すのではなかろうか。 ―― 森山康平著「証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで」より

不条理な軍法 

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 父は「抗命罪」で重営倉に処せられた。抗命罪とは、上官の命令を拒否する事である。旧陸軍刑法第4章「抗命の罪」によると、「敵前なるときは死刑又は無期若しくは10年以上の禁固に処す」とある。この事件のとき他の新兵も同調し、刺殺訓練が出来なくなったので、同章第58条の「党輿して前条の罪を犯したるもの」に該当する可能性があり、「首魁」は罪が特に重いので父は即刻銃殺される可能性もあった。 

 ――営倉とはどんなところか 
 「懲罰のための拘禁部屋で広さは3畳ぐらいだった。鉄格子の小さな窓が1つあって、真ん中に便器が置いてある」 

 ――独房にいれられてどんな事を考えたのか?
 「まあ、これで出世がパーになるという事だ」 

 ――どのくらいの期間入れられたのか?
 「期間は忘れたが、そんなに長くは入れられなかった。というのは、しばらくして、この駐屯地の近くに、出張か何かの会同で樋口の伯父さんが来ていたようなのだ。それで部下の誰かを差し向けてわしが元気でやっているか様子伺いをさせた。そこでわしが重営倉になっていることがわかった」 

 樋口の伯父さんというのは、父・郷敏樹の母の兄で、当時は第5方面軍司令官だった樋口季一郎中将のことである。父にとって地獄に仏とはこのことで、樋口の部下にあらためて抗命罪に至った理由を申し述べた。

旧陸軍の軍法・軍律書。兵卒は徹底的に叩き込まれた。
 父はどう考えても自分が懲罰を受けるのは不条理だと考え、「義勇軍」以来叩き込まれた軍法・軍律を思い起こした。「軍人勅諭、戦陣訓、陸軍刑法、陸軍懲罰令、いろいろな軍律・軍法を思い浮かべたが、有効な反論が出てこなかった」 

 陸軍刑法第10章には「俘虜に関する罪」というのがあるが、これは俘虜を逃がしたり、隠したりすると罪になるというもので、俘虜を虐待したり殺したりする事を罰するものではない。また、第9章掠奪の罪の第88条では、掠奪・強姦に当たって住民を傷つけ殺した場合、死刑を含む厳罰が処せられるが、上官が肝だめしと称して俘虜・住民の刺殺を命令した場合、兵卒はなぜ従わねばならないか。父は捕虜を守る国際法など教えられた事はなかったので、考えあぐねた。 

 「色々考えぬいた末、武士道に反すると抗弁した。「義勇軍綱領」には古(いにしえ)の武士に負けるなという項目があったし、常々皇軍(日本軍)は武士道を体現した最高の軍隊だといわれていた。縛りつけられた無抵抗の人間を銃剣訓練の餌食にするなど武士の風上にも置けないというわけだ」 

 父の言い分は認められ、釈放された。 

 武士道とは 
 父は武士道をどう理解していたのだろうか。14歳のとき高等小学校卒で満州に行った父は、おそらく「葉隠(はがくれ)」や新渡戸稲造の難しい著作など読んだ事はなかっただろう。ただ子供時代に立川文庫や少年倶楽部に熱中していたことはよく聞いていた。真田幸村が好きで、私が幼いころ猿飛佐助や霧隠才蔵など真田十勇士の話をよくしてくれた。東映のチャンバラ映画が町の映画館に来ると、自転車の後ろに乗せてもらってよく見に行った。

 怪傑黒頭巾、新吾十番勝負、柳生武芸帳、忍びの者… そんな中で父が特に好んだのは、晩年よくテレビで見ていた水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍などの勧善懲悪ものだった。これらに出てくるヒーローは強い。強いけれど「峰打ちだ、安心致せ」と悪人といえどもやたら殺さない。強敵に対して立回りの末、相手の刀が折れても額一寸で刃先を止め、敵が観念するや太刀を鞘に納め悠然と立ち去ってゆく。強いだけではない、情があってこそ本当の武士だと父は思っていたのではないだろうか。 

 私はこの刺突訓練の話を35年以上前に父から聞いたとき、単純に中国人を助けたいい話だと思っていた。後年、父が営倉に入れられている間に部隊は沖縄方面に転出し全滅した、と聞いてからは、父はこの刺殺されようとしていた中国人に、逆に助けられたのが真実ではないかと思うようになった。 

 ※田中英光(たなか・ひでみつ) 
 作家、1913~49、東京生まれ、早大卒。在学中はボート部に入りロスアンゼルス・オリンピックにエイトクルー選手として参加、のちその体験をもとに青春小説の名作「オリンポスの果実」を発表。戦後は共産党に入党し積極的に活動するが、ヒューマニズムに立ったスターリン的共産主義批判の先駆的作品を書く。離党後は愛人刺傷事件を起こすなどアドルム(筆者注-催眠剤)と酒のデカダンスに陥り、師事した太宰治の墓前で自殺した。(文春文庫 「別れのとき」より)

侵略の象徴、靖国神社

無恥な首相
  昨年末、安倍首相が靖国神社を参拝して、中国・韓国が猛反発している。両国の反発を予想してか、安倍首相は参拝後「諸外国の戦争犠牲者の冥福も祈った」などと述べた。一方「英霊」に尊崇の念を表すためとも述べ、「英霊」に蹂躙されたアジア諸国の人々にまったく説得力をもたない、独りよがりの参拝の姿が浮き彫りになった。参拝直後にネットで、首相の参拝に「支持か不支持か」のアンケートで支持が8割くらいあって、不支持を圧倒的に差をつけていたのを私は見てびっくりした。おそらく参拝支持をする人は、靖国神社を日本中どこにでもある普通の神社だと思っているに違いない、「国のために死んだ英霊の追悼を首相がするのは当然でよその国からとやかく言われたくない」と思っているのだろう。私は英霊という言葉で思考停止になる無知な人々に支持された無恥な首相を持ったことを恥ずかしく思う。
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昭和17年5月6日内閣情報局発行写真週報より

 以前小泉首相が靖国神社を参拝したとき、中国で大規模な反日デモがおこったが、その時私は父に靖国神社に行ったことがあるかと尋ねた。
「茨城県内原の義勇軍訓練所時代に初めて行った。大村益次郎の巨大な銅像が威圧的でそれはそれは立派な神社だった。そこで引率の先生から、お前らは死んだらここで神様になるのだ、死ぬのを恐れてはならんと言われ一同しょげかえったことを覚えている」靖国神社というのは戦争のための教育機関で天皇のために死ぬことを最大の栄誉とおもうように青少年を教育した。

P1030846 満州の義勇軍訓練所 の神社
「満州ではどんな僻地に行っても、仁丹の看板と日本の神社があった。そこでは現地の住民も拝むように強制された。義勇軍では軍用道路を作るときに、よく動員されたが、現地の宗教的な施設や像が邪魔になると遠慮なく取り壊され住民の恨みを買った」日本が戦争に負けると神社はすべて取り壊されたという。日本人がやったことをやり返されたということだ。
現在の日本人は日本の神社がアジア各地で侵略戦争の象徴だったことを忘れている。もし日本で同じことがやられたら日本人はどう思うだろうか。

600x4502013112800002 新京(現長春)神社

600x4502013123000075京城(ソウル)朝鮮神宮

 

猿田彦神社

Dsc00865_2 こじんまりした猿田彦神社

  毎年元旦には丸山に上り行者堂にお参りをする。行者堂の隣には猿田彦神社という小さな祠(ほこら)がある。その名の通り三重県伊勢市にある猿田彦神社のコピーである、私の地元阿万上町には八坂神社があり、他にも近畿各地の有名寺社をもじった、神社や祠、石佛がうじゃうじゃある。この地では一時間もあれば歩いて有名寺社をいくつもお参りする気分になれる。
  今年は次女が大学受験なので特に念入りに、拝みました。高校の先生は大学受験で親にできることはお金を出すことだけだ、しっかり用意してくださいとPTAの総会でおっしゃいましたが、お金のない親は神頼みしかありません。

ソニーの新しいパソコンを買いました

  一年前ぐらいから日立・プリウスのノートのキーボードがおかしくなり、ある特定の文字「p」とか数字の偶数とかが打てない、強くたたかないと打てない状況で、コピペでなんとかやっていたのですが、XPのサポートが今年の三月までということで、年末に新しくノートを買いました。

P1030837 ソニーFit15E、5年保証を付けて、100278円でした。

昨年の夏モデルをネット販売で買ったのですが、7年前のプリウスと比べて10倍以上に性能が上がっていますね。ソニーを選んだのは映像ソフトが充実しているのが理由ですが、評判をいろいろ聞くとすぐ壊れやすいとか、あまりよくありません、テレビを買った妹は2年ほどで壊れ、友達のテレビも5年もたなかったとか、聞いて躊躇しましたが、デザインが良いので、5年保証を付けて買いました。

P1030838 今年最初の記事をアップ

  これで正月からバリバリ記事を書こうと意気込んだのですが、OSのウインドウズ8が、それまでの7やXPとがらりと違い、悶えました。2日に長女の友達でプログラマーの卵をしている子が遊びに来て、いろいろ教えてもらいました。

  まずスタート画面のタイルで「いらないソフトをはずせ」とアドバイスされピン止めを外す方法を教えてもらい実行。シャットダウンのショートカットを作ってもらったりいろいろお世話になりました。でもマイクロソフトはなんでこんな不便な進化をするんでしょうね。「7でとどめておけば良いのにねえ」と娘の友達と話してたのですが。なんでも、MEと開発者が同じで失敗作になったとか・・・嘘かほんとか知りませんが。

 

 

行者堂

Dsc00826  15人参加で2013年最後の大掃除です。

  昨年は自宅近くにある丸山・行者堂の丸山隣保世話役になり、小川隣保の末広さんと共に一年間いろいろな行事を執り行ってきました。春に地震があり石仏(いしぶつ)2体倒れ、その修繕や、十七の家で管理しているうちのある一軒が脱退する騒ぎがあり、また私の家も含めて三軒が葬式を出したりで波乱の一年でした。高齢化で宗教行事が年々困難になってきて、いつまで山の管理ができるのか、心配するこの頃です。

Dsc00805 一周50メートルぐらいの小さな丸山です。

Dsc00843役行者(えんのぎょうじゃ)が祭られています。

 

 

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