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父の15年戦争(19)刺殺訓練命令を拒否し重営倉

この記事は2009年8月13日JANJAN(日本インターネット新聞)に掲載されたものです

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 中国の日本軍 
 父が関東軍に入隊したとき、初年兵の訓練で生身の中国人を刺殺するよう命令されたことを私が知ったのは、35年以上前のことだった。その頃、本多勝一著「中国の日本軍」や「中国の旅」を読んでいた私は、旧日本軍のすさまじい暴虐ぶりにショックを受けた。

戦前の中国における旧日本軍の暴虐を、初めて中国現地を訪れ取材した本多勝一氏のルポ。日中国交回復前の日本社会に衝撃を与えた。
 読み終えてすぐ考えたのは、戦前父は中国で何をしていたのか、父も同じことをやっていたのかという疑問だった。父の世代以上の周りの男は大抵兵隊経験者で、その多くは中国へ派遣されていたと聞いていた。

 今から思えばお恥ずかしい限りだが、満州事変だとか日華事変、盧溝橋事件、張作霖爆殺事件などの言葉は知っていたが、それが南京虐殺や、平頂山事件、労工狩り、万人坑とどう結びつくのか全く分からなかった。父が14歳の時、「満蒙開拓青少年義勇軍」に志願して満州に行ったことは承知していても、なぜ中国までわざわざ子供が開拓に行かなければならなかったのか、理解できなかった。 

 私は1952年1月中国の漢口で生まれ、翌年家族4人で日本へ帰還した。まぎれも無い引揚者の1人だが、20歳過ぎまで日中の近・現代史と自分の出自がどうつながっているのか、関心は無かった。 

 幼いとき、父から満州狼の恐ろしさや、中国の広大な土地、地平線に沈む大きな夕日、冬は零下50度近くに気温が下がる厳しい自然、などを寝物語に聞きながら育った。一緒に桶風呂に入ったときなど、
 「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下―」
と、「戦友」を気持ちよさそうに歌うのが常だった。しかし、戦争の話だけはほとんど聞いた覚えはなかった。 

 中止された刺突訓練 
 本多の「中国の日本軍」にも書かれている南京大虐殺は1937年12月13日、日本軍が南京に入城してから、城外周辺での虐殺も入れると翌年春頃まで続いたという。 

 この頃父は高等小学校2年で、日本軍の南京入城で日本中が沸きかえり、国民こぞって提灯行列をして祝った事を憶えているという。そのほかにも向井少尉、野田少尉による百人切競争も新聞が大々的に報道したので、よく知っていた。今から見ると残虐極まりない殺人ゲームだが、当時の日本国内の雰囲気はプロ野球のホームラン競争でもみるような気分だったという。 

 南京大虐殺に関しては、1937年12月13日から翌年春まで、父は小学生で軍隊に入っていなかったので「シロ」だと安心した。軍隊に入ってそういうことはなかったのか聞いてみると、しゃべり始めたのが関東軍に入ってすぐ、初年兵の訓練で中国人を藁人形代わりに銃剣で突き殺すことだった… 

 関東軍に入隊してまもなく、中隊の初年兵が訓練場に集められた。そこには何人か中国人が杭に縛られていた。訓練を指導していた上官は新兵に、肝だめしに銃剣で突き殺せと命令した。父は14歳のころから「義勇軍」で軍事訓練を受け、徴兵検査でも甲種合格で度胸がある男と上からも目されていたようで、最初に指名された。  

 「コリャサー惨いと思った。軍隊は人殺しをするところで武器を持って向かってきた敵ならためらいなくやれたと思うが、無抵抗で縛られている人間を突き刺すことはできなんだ。それで抗命罪に問われて重営倉にされた」 

 私は大安心した。そのとき父に対して最初で最後の尊敬の念を覚えた。そのころ私は父が大嫌いだった。なぜかというと、父は金銭にルーズなのに商売好きで、思いつきで簡単に事業を始めることが多かった。計画も資金もいい加減で半年もするとすぐ飽きて、また新しい商売をはじめるが、すぐやめる。

 その繰り返しで、いつも我が家は火の車だった。私が知っているだけでも、1960年ごろの夏、突如農業用のため池を利用して貸しボート屋を始めた。客が来たのは最初のうちだけで、気候が涼しくなる頃にはほとんど来なくなり、その年の秋にはもうやめてしまった。また「ホワイトリリー」というなぜか名前がスナックのような喫茶店兼うどん屋を開業したものの、ツケにしてくれと言われたら断れない父は貸し倒れが多く、半年ほどで休業に追い込まれる。

 これからは養鶏が儲かるとひよこを仕入れてきて実家の座敷の横の倉庫で飼い始めたが、暖房用の電熱器から藁に火がつき家も鳥も丸焼けになってしまった。こりもせず次第に飼育数を増やし、場所がないので池の堤や山の裾野にも鶏舎を建てたが、台風が来ると鶏と一緒に吹き飛んで行った。

 卵を売るだけでなく肉も売ったらもうかるぞと鳥肉屋も始めた。続いて肉屋に転進。その後何の脈絡もなく素麺は絶対に儲かると、私の貯金を勝手におろし中古の製麺機を150万円で買ってきて素麺造りに熱中する。商売を変えるたび借金が膨らみ母の愚痴も増えていった。 

 閑話休題。父は中国人の刺殺を拒否した。すると、他の「義勇軍」出身の新兵たちからも次々声が上がり、「そんな事が出来るか!」「そうだ、そんな卑怯なことができるかい!」「やめろ! やめろ!」と騒ぎ出し、とうとう刺殺訓練が出来なくなってしまったという。 

 旧日本軍では「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」と絶対であった。兵卒は命令に対して疑問とか逡巡とか、まして拒否などというのは許されない事だった。

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第16師団(中島今朝吾師団長)歩兵第20連隊(大野宣明連隊長、福知山)所属の兵士のアルバムより(筆者所蔵)
 捕虜・住民虐殺 

 ――ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使っていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割ったり、その骨張った尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐった。 ぼくは山西省栄河県の雪に埋もれた城壁のもとに、素裸にされ鳥肌立った中年の中国人がひとり、自分の掘った径二尺、深さ三尺ほどの墓穴の前にしゃがみこみ、両手を合せ、「アイヤ。アイヤ」とぼくたちを拝み廻っていた光景を思い出す。トッパと綽名の大阪の円タク助手出身の、万年一等兵が、岡田という良家の子で、大学出の初年兵にムリヤリ剣つき鉄砲を握らせ、「それッ突かんかい、一思いにグッとやるんじゃ」と喚き散らし、大男の岡田が殺される相手の前で、同様に土気色になり眼をつぶり、ブルブル震えているのを見ると、業をにやし、「えエッ。貸してみろ。ひとを殺すのはこうするんじゃ」と剣つき鉄砲を奪いとり、細い血走った眼で、「クソッ。クソッ」出ッ歯から唾をとばして叫び、ムリに立たせた中国人の腹に鈍い音を響かせ、その銃剣の先を五寸ほど、とびかかるようにして二、三度つきとおした。中国人は声なく自分の下腹部を押え、前の穴に転げ落ちる。ぼくは鳥肌立ち、眼頭が熱くなり、嘔気がする。(さようなら。見知らぬ中国人よ、永久にさようなら)――「さようなら」※田中英光 別れのとき アンソロジー 人間の情景7 文春文庫より 

 このような惨劇がどれほど大陸に繰り広げられたのだろうか。ルポライターの森山康平氏は述べている。 

 ――初年兵訓練のため中国人を抵抗できない状態にして銃剣で突かせた、という話が出た。最初は、討伐の途中で部落の中の野戦病院を通りかかり、そこに隠されていた白衣の重態患者二十人ほどを引きずりだし、古兵がぐるっと取り囲む中でつかせたという。(中略)二回目は、塹壕堀りの強制労働をさせ疲労しきった農民数百人、立ち木に縛って初年兵訓練の第一期検閲で次々刺殺したという話である。 この話を聞いた当座は、あまり特別の関心を払わなかった。というのは、さんざんあの手この手の虐殺の話を聞かされた後だったので、ああ、そんな方法で殺したこともあったのか、とメモをとりつづけたのだった。正直のところ、そのときの僕の感覚は少し鈍くなっていた。 しかし、その後の取材や仲間の取材メモから、初年兵訓練で生きたまま殺害した例は、菊池さんの部隊が特別でないということがわかった。田所さんも、山田さんも、佐野さんも「やらされた」体験を語っている。時期と場所をみてみると、田所さんは一九三七(昭和十二)年南京で、山田さんは一九四〇(昭和十五)年「北支のある部落」で、佐野さんは一九四二(昭和十七)年済南でのことである。 菊池さんの話は上官として命じたわけだが、最初が一九四五(昭和二十)年春、東阿・東平湖付近の呉家海子で、二回目が同年夏、索格庄となっている。四人の話しから考えられることは、初年兵訓練と称する無抵抗人間に対する殺害行為は、ある地域のある部隊だけの、ある時点に限られた特殊な事例ではなかったのではないか、という推測を許すのではなかろうか。 ―― 森山康平著「証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで」より

不条理な軍法 

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 父は「抗命罪」で重営倉に処せられた。抗命罪とは、上官の命令を拒否する事である。旧陸軍刑法第4章「抗命の罪」によると、「敵前なるときは死刑又は無期若しくは10年以上の禁固に処す」とある。この事件のとき他の新兵も同調し、刺殺訓練が出来なくなったので、同章第58条の「党輿して前条の罪を犯したるもの」に該当する可能性があり、「首魁」は罪が特に重いので父は即刻銃殺される可能性もあった。 

 ――営倉とはどんなところか 
 「懲罰のための拘禁部屋で広さは3畳ぐらいだった。鉄格子の小さな窓が1つあって、真ん中に便器が置いてある」 

 ――独房にいれられてどんな事を考えたのか?
 「まあ、これで出世がパーになるという事だ」 

 ――どのくらいの期間入れられたのか?
 「期間は忘れたが、そんなに長くは入れられなかった。というのは、しばらくして、この駐屯地の近くに、出張か何かの会同で樋口の伯父さんが来ていたようなのだ。それで部下の誰かを差し向けてわしが元気でやっているか様子伺いをさせた。そこでわしが重営倉になっていることがわかった」 

 樋口の伯父さんというのは、父・郷敏樹の母の兄で、当時は第5方面軍司令官だった樋口季一郎中将のことである。父にとって地獄に仏とはこのことで、樋口の部下にあらためて抗命罪に至った理由を申し述べた。

旧陸軍の軍法・軍律書。兵卒は徹底的に叩き込まれた。
 父はどう考えても自分が懲罰を受けるのは不条理だと考え、「義勇軍」以来叩き込まれた軍法・軍律を思い起こした。「軍人勅諭、戦陣訓、陸軍刑法、陸軍懲罰令、いろいろな軍律・軍法を思い浮かべたが、有効な反論が出てこなかった」 

 陸軍刑法第10章には「俘虜に関する罪」というのがあるが、これは俘虜を逃がしたり、隠したりすると罪になるというもので、俘虜を虐待したり殺したりする事を罰するものではない。また、第9章掠奪の罪の第88条では、掠奪・強姦に当たって住民を傷つけ殺した場合、死刑を含む厳罰が処せられるが、上官が肝だめしと称して俘虜・住民の刺殺を命令した場合、兵卒はなぜ従わねばならないか。父は捕虜を守る国際法など教えられた事はなかったので、考えあぐねた。 

 「色々考えぬいた末、武士道に反すると抗弁した。「義勇軍綱領」には古(いにしえ)の武士に負けるなという項目があったし、常々皇軍(日本軍)は武士道を体現した最高の軍隊だといわれていた。縛りつけられた無抵抗の人間を銃剣訓練の餌食にするなど武士の風上にも置けないというわけだ」 

 父の言い分は認められ、釈放された。 

 武士道とは 
 父は武士道をどう理解していたのだろうか。14歳のとき高等小学校卒で満州に行った父は、おそらく「葉隠(はがくれ)」や新渡戸稲造の難しい著作など読んだ事はなかっただろう。ただ子供時代に立川文庫や少年倶楽部に熱中していたことはよく聞いていた。真田幸村が好きで、私が幼いころ猿飛佐助や霧隠才蔵など真田十勇士の話をよくしてくれた。東映のチャンバラ映画が町の映画館に来ると、自転車の後ろに乗せてもらってよく見に行った。

 怪傑黒頭巾、新吾十番勝負、柳生武芸帳、忍びの者… そんな中で父が特に好んだのは、晩年よくテレビで見ていた水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍などの勧善懲悪ものだった。これらに出てくるヒーローは強い。強いけれど「峰打ちだ、安心致せ」と悪人といえどもやたら殺さない。強敵に対して立回りの末、相手の刀が折れても額一寸で刃先を止め、敵が観念するや太刀を鞘に納め悠然と立ち去ってゆく。強いだけではない、情があってこそ本当の武士だと父は思っていたのではないだろうか。 

 私はこの刺突訓練の話を35年以上前に父から聞いたとき、単純に中国人を助けたいい話だと思っていた。後年、父が営倉に入れられている間に部隊は沖縄方面に転出し全滅した、と聞いてからは、父はこの刺殺されようとしていた中国人に、逆に助けられたのが真実ではないかと思うようになった。 

 ※田中英光(たなか・ひでみつ) 
 作家、1913~49、東京生まれ、早大卒。在学中はボート部に入りロスアンゼルス・オリンピックにエイトクルー選手として参加、のちその体験をもとに青春小説の名作「オリンポスの果実」を発表。戦後は共産党に入党し積極的に活動するが、ヒューマニズムに立ったスターリン的共産主義批判の先駆的作品を書く。離党後は愛人刺傷事件を起こすなどアドルム(筆者注-催眠剤)と酒のデカダンスに陥り、師事した太宰治の墓前で自殺した。(文春文庫 「別れのとき」より)

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