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父の15年戦争(18)「死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛

この記事は2009年8月29日JANJAN日本インターネット新聞に掲載されたものです。

父が筆者に語った旧日本軍の腐敗、堕落、すさみ方の激しさは、常軌を逸しているが、兵士を縛った「戦陣訓」のむごさには、言葉を失う。生還した父親は、「玉砕」が伝えられた南の島で生き残った、近所の知り合いを小ばかにしたことがあった。敵の捕虜になることを徹底的に禁じた教えは、いまなお、心の中に巣くっているのか。

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 昭和16年12月8日真珠湾を特殊潜航艇で強襲し「玉砕」した九軍神。初めて特別攻撃隊と名づけられ、その後の「特攻」のさきがけとなる。出撃は10人だったが、一人は人事不省になり米軍の捕虜となったので、その事実は国民には秘匿された。写真は全て内閣情報局発行「写真週報」から

父はプータローだった
 父が徴兵検査を受けたのは、昭和20年5月頃だった。甲種合格で関東軍に入隊した。その頃ヨーロッパでの戦いはドイツの敗北が決定し、孤立無援の日本は絶望的な戦いを続けていた。南方の島々ではアメリカ軍の反攻に敗北を重ね、兵力不足になり、満州から多くの部隊が転出していった。

 父は旧満州の竜江省(現黒龍江省)納河(ノーホ)県納河南学田地区へ入植していた。ここで一生懸命農業に励んでいた、と私は思っていたが、話を聞くとそうではなかったらしい。「特務機関の調査の仕事をしていた」という。

 調査といえば聞こえはいいが、農閑期の冬場など不良仲間と黒竜江のソ連国境沿いを、各小隊に1台あった6頭だての馬車で、きままに旅したり、街で中国人の友達と遊びほうけたりする間に情報を集め、特務機関に出入りして小遣い銭を稼いでいたようだ。特務機関との出会いのきっかけは、ある男が「ええ若いもんがブラブラして、どないしょんのじゃ、まあいっぺん遊びにこいや」と誘われ、出入りするようになったという。

 特務は具体的な指示は特にしなかったようだ。「あれこれ命令をすると、わしらは反発するし、かえって言う事を聞かないので、下からおだててソ連国境の村の様子など聞こうとする。特にシベリア鉄道の輸送状況など聞きたがった」。

 ある集落で得た情報は特務の目を光らせた。「夕べは戦車を満載した貨車が一晩中、ガッタンゴットン通ったんで全然眠れんかったよ」。1回旅行すると、そのたびに特務機関の出張所のようなところへ行き、話をして小遣いをもらった。金が入ると街で遊び、なくなれば旅に出かける、プータローのような生活をしていたという。

 開拓団は不十分ながら、飯だけは食わせてくれたので、生活は出来た。父は「わしは義勇軍くずれだ」といっていたが、そんな崩れた若者にも召集令状はやってきた。当時、満州帝国に在住していた日本人男性で兵隊に適した35万人のうち、「行政、警備、主要生産に従事する約15万人」を残して、根こそぎ動員したのである。

軍紀乱れる皇軍
 旧日本軍内務班では初年兵は常にいじめられる。父は飯の炊き方にうるさく、入院しているときなど硬いご飯が出ると「こんなゴッチめしではビンタの20発はとられる」などとよく言っていた。「ビンタをとる」とは、古参兵が後輩を殴る事だが、兵営では取るに足らない理由をつけての下級兵士へのいじめ、暴力は日常的だった。古参兵の虫の居所が悪いとゲンコツが上靴になったり帯革になったりして、顔がお岩さんのようにはれ上がる。

 「どこの班にも古兵が一人いて、威張っていた。5年も6年もいるのに、万年一等兵で出世の見込みのない、だらけてすさんだ兵隊が多かった。不思議な事にそんな兵隊は各班に1人だけで2人といなかった」という。古兵は炊事場にいつもたむろしていた。ある日、演習に行きかけた、ある中隊の後ろから叫んだ古兵がいた。

 「おーいお前ら!そんなたよりない中隊長についていくと後ろから鉄砲玉が飛んでくるぞ。やめとけ、やめとけ」。戦争末期には指揮官不足もあって新米の将校が多く、統率力がなく、舐められていた。口だけの脅しじゃなく、ほんとうに後ろから実弾をぶっ放す古兵もいたという。

 「戦争は前からだけでなく、後ろからも玉が飛んでくるというのは本当だ」。古兵や上官のいじめに耐えかねて自殺する初年兵もいた。父は「兵隊が自殺するときはこんな風にする」と実演してくれた事があった。38式歩兵銃に見立てたホウキをもち、足を伸ばして座って柄の先を額にあて、足の親指で引き金を引くかっこうをした。「義勇軍」時代、父の友人が屯墾病という一種のノイローゼにかかって自殺したが、この方法でやったので、頭が木っ端微塵になって顔も誰だか分からなくなっていたという。

自決訓練
 旧日本軍では、人の命は鴻毛よりも軽いと教えられていた。戦争とは人殺しをする事であって、どこの国の軍隊も敵の人命を軽視している。しかし、旧日本軍の特異な点は、敵だけでなく味方の人命も軽視していたことだ。旧軍は戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」を極端に重視して、捕虜になることを徹底的に禁止した。敵に囲まれ、どうにもならなないときは捕虜になる前に潔く自決しろ、と教えられていたのだ。

 ――戦闘の様々な状況を具体的に想定し、「最後の一発は自分のためとっておけ」と耳にタコが出来るまで念を押される。そればかりではなく、「銃弾に利き腕を貫通され、引き金が引けなくなったらどうするか」、「負傷で体が動けなくなったときは、どうするか」、「一時、意識不明となり、気づいたときはどうするか」などと質問し、初年兵に返事をうながした。そして、実際に銃や銃剣での自決方法をこと細かく教育もした。「もう、これまでと思ったら、こうするんだ」と、班長みずから、銃口をノドに当てて、右足の親指で引き金を引く実演をして見せた。銃剣を扱うときはこうするんだと、床に銃剣の柄先をつけ、仰向けになって剣の刃先に胸部をつけ、そのまま体重をかける実演もした。体が動かず手足の自由を失ったときときにと、舌の噛み方を、くわしく教えもした。また、負傷して自力で自決できない兵隊には、こうしろと、初年兵の一人をモデルにして、その後頭部に銃口を密着する角度まで具体的に教え込んだ。また、手榴弾を携帯しているときはこうだと、安全針を抜いて抱え込むかっこうでうつぶせることも教えた。
――富沢繁著「新兵サンよもやま物語」より

 戦前の雑誌を読んでいると、自決や玉砕を賛美するあまり、死ぬ事が目的となっている記事が多い。「敵をやっつけ勝利する」という本来の目的がどこかに行ってしまっているのだ。これも一種の敗北主義だと思うのだが、狂気に満ちたこの時代の空気に染まると、そんなことは気付かなくなるようだ。

自決の研究
 アッツ島玉砕の軍神、山崎部隊長の元部下が夫人を訪ねた雑誌記事がある。
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昭和18年5月29日太平洋戦争で初めての「玉砕」をした、アッツ島の軍神山崎部隊長

 ――昭和14年、北支に出征される時に、山崎部隊長はコルトか何かの掌に入るような小型の拳銃を携行された。令息たちが「お父さんそんな小さな拳銃では、敵は撃てないでしょう」と言ったら、部隊長はニコニコ笑いながら「いやこの拳銃は敵を撃つためじゃない。最後のときにこうするのだよ」と言って、自分で銃口を当てて見せられたそうである。先日私が伺ったときも、令夫人「主人はかねがね自決の方法を研究していたようでございますから、たとえどんな重傷を負っても、必ず自決していることを私はかたく信じて居ります」と申されておった。この一言を以ってしても、部隊長平素のお心構えが窺われるのです。それは右手をやられれば左手でやる両腕をやられればどうする、という風にいろいろな場合を研究して居られた。だからどんなことがあっても、最後はりっぱに自決しているということを、令夫人は絶対に確信して居られるのです。――中略――。しかし、その神霊は天翔り国駆りして靖国の御社にお還りになるのであって、遺骨は問題でないのであります。日頃からよくこの覚悟を申し聞かされて居た令夫人は「玉砕と承っても、決して遺骨のことなど、思ったことはございません。ただ日頃から主人に気づかれないように、少しづつ主人の爪と髪の毛はしまっておきました」と述懐して居られたが、覚悟に徹してしかも細かい心づかいの届いた武人の家庭の見事さ、部隊長も部隊長なら奥様も奥様、実に大したものだとつくづく感激した次第です。
――「ああ山崎部隊長」昭和18年8月1日発行富士(キング改題)より

 この記事は美談であって、夫を亡くした妻の健気な態度を絶賛しているようで、実は夫が死んでも悲しむことなど絶対に許さない、遺骨さえも求めさせない軍国日本の冷厳な雰囲気を伝えている。死ねば軍神として讃えられるが、捕虜になり、玉砕地から生きて帰れば非国民、一族郎党末代まで恥になるという、世間の風当たりの強さを感じさせる。

捕虜は末代までの恥
 私の家の近くに、サイパンだったかグアムだったかで、アメリカ軍の捕虜になって収容所に入れられ戦後帰ってきた人がいる。以前、父とその人の話をしていたとき「アメリカの捕虜になって…」と小ばかにした言い方をした。戦後50年以上たっても元捕虜だった人にはこんな言い方をするのかと、戦前の徹底した軍国教育のすさまじさを感じた。

 その時まで私は、「玉砕」とあれば、全員が死んだものだと思っていた。だが、本当はアッツでもサイパンでも硫黄島でも、少数の生存者がいた。マスコミは、戦後もほとんどそんな事実は伝えなかったし、その人達は一部の人を除いて沈黙を守ってきたようだ。その理由は「死んで虜囚の辱めを受けず」である。戦陣訓の呪縛は死ぬまで続くのか。

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シンガポール戦の連合軍捕虜を報道する昭和17年3月25日発行「写真週報」「何という恥無き姿だろう。皇軍将兵は勿論、われわれ日本人には到底思いも及ばないことだ。恥知らず奴!と唾を吐きかける前に、憐憫の情さえ湧いてくる…だが、顧みて未だにこの人間共を支配したと同じような物の見方、考え方がわれわれの心の隅のどこかに残っていわしまいか。一死国に殉ずる皇軍将兵の尊厳な姿と、この醜い写真をよく見較べて、十分反省しなければならない」

◇ ◇ ◇
【父の15年戦争】
・(20)満州事変を見た子供たち
・(19)刺殺命令を拒否して重営倉
・(18)死して虜囚の辱めを受けず」のすさまじい呪縛
・(17)8月15日の特攻
・(16)狼になった義勇隊員
・(15)哀れだった慰安婦
・(14)満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所跡
・(13)帰郷―満州はええとこやぞ
・(12)全体主義者橋本欣五郎
・(11)叛乱
・(10)厳寒地のバトル
・(9)嫩江(ノンジャン)大訓練所
・(8)靖国神社
・(7)糞尿をなめるカリスマ教育者
・(6)張作霖を爆殺した男
・(5)絵かきになりたかった父
・(4)日中戦争勃発
・(3)父の友人達
・(2)最期の戦争証言
・(1)関東軍の特攻

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コメント

日本軍は敗戦が確実になった時点で
そのリーダー達が競い合ったのは
敵では無く 「自分達の将校達の死者数だった」そうです。

つまり これだけ我々は必死で闘っているのだ、との証明になると考えたというのです

「敵を2機撃ち落とす事が出来たのなら 生還しても良いか」と尋ねた特攻兵士は 「絶対駄目だ」と叱責されたそうです

福島事故と良く似ています
全体的な影響を考える事無く
あくまで「自分達の面子」にどう影響するかにこだわったという体質は
何も変わっていないと思います

多くの若者を死に追いやりながら、戦後なにくわぬ顔で生きた戦争指導者は多いと思います。大戦中の戦死者の多くは敵ではなく、日本の指導者に殺されたと言ってよいでしょう。

POWに対する虐待も 多く 戦争犯罪として取り上げられましたが
日本軍内の日本人同士の虐待もそれ以上だったらしいですね
上官は戦闘中後ろから下官に撃ち殺される危険が常にあったから いつも最後尾についたとか

一体本当に何をやっていたのやら です

それを全て何の根拠も無しに全て美談に変えてしまい
あちこち矛盾が出てくるため
そういった矛盾を指摘出来ないような教育内容に変えてしまったんじゃないかと勘繰りたくなります

他国や自国の事さえ顧みる事無く
ただただ市場拡大だけを続け
可能な限りの国際法は無視してきて
後戻り出来ない状態になってから
国際社会は日本を目の敵にしている、とか見当違いの批判し出したりと
何も変わっていない日本がここにあります

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