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母の一周忌

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3月1日、今日は母の命日です。2月23日に一周忌の法事をしました。うちは真言宗なので、忌日表があって一年間、結構することが多く仏事に疎い私は大変でした。
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涅槃というのが3月15日で、ようやく一年間の忌日がすみます。ほかの宗派はもっと簡単だと聞いていますが、真言宗はかなり厳格にやっているようです。

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コメント

こんにちは 「満蒙開拓義勇軍」をキーワードで貴HPに出会いました。
小生の伯父も昭和16年2月満蒙開拓青少年義勇軍に参加、4月26日敦賀港から鉄驪大訓練所、黄金子小訓練所を経て龍門開拓団に入植、昭和20年5月に徴兵され、公主嶺機動第一連隊に入営し、後にソ連ビースク収容所、バルナウル収容所に抑留され、昭和24年6月26日奇跡的に舞鶴港に復員しました。
若いころには余り辛かった過去を口にしませんでしたが、最近になり、体験記にしたいと言いその手伝いをしています。
そこで貴殿のお父上と同じころ同じ第一機動連隊入営しましたが、本人の記憶は戦車に対する特攻訓練をしていて終戦となった位の記憶しかありません。そこでこの第一機動部隊の詳細の情報が入手できる図書などを御紹介ください。

田中邦夫様
コメントありがとうございます。機動連隊に関する図書はあまり多く知りませんが、全体像を知るには、唯一といっていいでしょう、鈴木敏夫著、光人社NF文庫「関東軍特殊部隊」あります。あとソ連参戦後の、第一連隊の行動を知るには、吉村暁著自由社発行「少年たちの満州」、吉山和孝氏著、平和祈念事業特別基金が発行した、平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦LX に掲載された「わが青春の思い出」などが、貴重な資料となります。当ブログ、父の15年戦争(17)「8月15日の特攻」に詳しく書いていますので、参考にしてください。あと父の戦友の第2連隊にいた佐賀県の田中さんという方にもお聞きしましたが、やはり高齢で、九州弁でしゃべられるので電話ではよく聞き取れない面がありました。機動連隊は公式な戦史ではほとんど触れられていません。個別に元隊員が書かれた文書を気長に探していくほかはないと思っています。お父様の中隊はわかりますか?わたしの父は機関銃中隊でした。何でも情報があれば教えてほしいと思っています。こちらも見つかればメールします。

郷一成さん
その後ご連絡せず失礼しました。情報源のご提示幸甚です。
色々調べていた所 軍歴証明書なる物が入手できました。
それによりますと、叔父は昭和20年5月20日 満州吉林省公主嶺に現役二等兵として機動第一連隊入営とあります。
この記録はソ連から復員した舞鶴港で上陸時に、厚生省?の聞き取り情報がそのまま軍歴として記録されている様に考えられます。
因みにこの記録は各県の援護課援護恩給担当部署が保存しています。
ご参考までーーー。田中邦夫

郷一成さん
追伸
  入営情報は
  固有名は機動一連隊二大隊六中隊ゼロ小隊四分隊
  通称号満州750部隊四條隊0小隊
  部隊長 大佐岩本忠義 駐屯地 公主嶺
  とありました。

  

田中邦夫様
貴重な情報ありがとうございます。父も恩給を受けていたので、昨日県の恩給関係に問い合わせたところ、残念ながら記録が残っていませんでした。そこで厚生労働省の関係部署を聞き、軍歴を調査する部署があったので電話しました。依頼する場合戸籍謄本などいろいろいるそうなので、軍歴調査の要綱を手紙で送ってくれることになりました。また調査が進んだらお知らせします。

初めまして。樋口季一郎陸軍中将についてお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?

トクサン様
なんでも聞いてください。知っていることはお話します。

ありがとうございます。
 私の父方祖父の出生地に小さな地図なも載らないとても古い八幡神社(能美市倉重町ニ84)があるのです。
そこには全国的に珍しい?戦争から無事に帰還した方々の名前が刻まれている石柱状の帰還軍人石碑があるのです。満州軍の憲兵隊(吉林の管轄)だったと聞き及ぶ祖父名前もそこに刻まれています。
調べてみると石柱には神社名、帰還軍人の方々の名前の他に大きく陸軍中将 昭和二四年 樋口季一郎と掘られていました。
なぜ、このような昔は何も無い村だった筈の小さな神社に有名な樋口季一郎中将の名が記された石碑があるのでしょうか?それも戦没者の石碑だというならまだ分かりますが、帰還軍人の石碑とは珍しいように思います。
樋口季一郎中将が全国的にそのような帰還軍人に対する事業を行っているとも聞きませんし、近くの集落の同じ八幡神社にもそのような石碑はないのです。
樋口季一郎中将は第9師団師団長と聞きますが、それが理由なら普通は金沢市にある内大きな護国神社や旧第九師団跡に石碑を建立すると思うのです。
何かご存知ではないでしょうか?

 別談になりますが、私の祖父は表向きは憲兵として働いていたようですが時々満服を着て満州人になりすまして列車で各地を回っていたと聞きます。
関東軍や他の満州軍の方々は輪タクを使っても現地民にお金を支払わなかったり、無銭飲食をしたりと現地では評判が悪かったそうです。
しかし、祖父は日本人であろうと満州人であろうと横柄な態度はせず払うものは払い困った事があれば周囲の方々と助けあってきたと聞いてます。
そのお陰か満州にソ連軍が進駐して来た際に他の軍人は皆捕まってしまいましたが、私の祖父は満州の方々に匿ってもらい満服を着せられて脱出の手筈までしてくれたと聞いてます。
祖父は私が産まれる前に他界しており残念ながら直接を聞いたことはありませんし、戦後も自身の戦争体験については黙して語らなかったそうです。
私の祖父の名前を記して石碑を建立してくれた樋口季一郎中将には感謝しかありません。父と樋口季一郎中将は満州で何か交流があったのでしょうか?それとも別の帰還軍人方と交流があったのでしょうか?

貴重なお話ありがとうございます。樋口は3回満州に赴任していますが、金沢にあった第九師団長の時が知り合われた可能性が高いと思われます。
第九師団は昭和15年10月満州牡丹江に移駐していますが、おそらくその時に御縁があったのではないでしょうか。部下思いの樋口にしても、石碑まで立てるとなると、かなりの深い交流があったと思われますが、樋口季一郎の回想録によると、極寒の地でキャンプを張ったとき、寒くて眠られないのを従卒が夜を徹して湯たんぽで下半身を温めてくれたエピソードがあります。
―ーーその夜午前二時となるも私の下体、冷却して眠りに入る事ができない。私の従兵は、(私は従兵永倉伍長を今に忘れることができない。)それを憂え同僚兵士の水筒4、5個に熱湯をつめ私の腰、脚、足を温めてくれるが、それだけの効果がないのである―ーー
お爺様の年はいくつぐらいでしょうか、それによってある程度の時期がわかりますが、ハルピン特務機関長時代であれば、特務機関員として部下だった可能性がありますが。

返信ありがとう御座います。
祖父は大正六年生まれで終戦時には27~28歳だったと聞きます。享年51歳で他界なされました。
満州から日本に関する際は着の身着のままだったので祖父の詳しい資料が無く。祖父どの期間満州にいたのかなどの詳細は残念ながら見つかりませんでした。
祖父の軍歴証明書を発行して詳しい経歴を調べようと思います。

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