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2017年1月

平瀬さん(1)

先週、平瀬さんから寒中見舞いをいただきまして「とうとう九十歳になった」と書いてありました。私も今年65歳になりますが、お互い年をとったなあと思うこの頃です。

平瀬昭三さんは私が小学校の低学年の頃、よく家に来ていた方で、いつも背広を着て、冬は白いコートを羽織って、きちんとした身なりをしていました。そのころ田舎では、背広を着てネクタイを締めている大人はめったに見なくて、珍しい存在でした。小学校の校長先生、うちによく来ていた公安刑事、父の留守の時にきた、借金の差し押さえ人。この中でも平瀬さんは子供から見ても無口で、温厚な人柄で、父が帰ってくるまで、よく私の相手をしてくれました。

平瀬さんが来たとき、父はめったにいなくて、一時間も二時間も静かに待っている。二時間も過ぎるとさすが、時計をチラチラ見ながら、「お父さんおそいなあ」なんて言いながらも辛抱強く待っている。三時間ぐらいたってやっと見切りをつけて帰ってゆく。

そんな平瀬さんは一体何をしているのかよく分からなかった。母に尋ねると「共産党よ」ふーん背広来て、人を何時間も待って、帰ってゆく。定期的にきて、その繰り返し。ますますわからなくなった。

続く

寒行

1月21日は寒行です。寒行というのは、真言宗では金剛講で御詠歌を習っている方たちが毎年大寒の日に家内安全を願って、各家庭をまわって玄関先で御詠歌を詠います。本当は20日の大寒に行うんですが、毎月二十日に隣保(りんぽ)が集まる二十日講と重なるので21日が寒行になりました。

南あわじ市阿万上町・丸山隣保では、むかしむかしから・・・いつごろか知りませんが、この時期の風物詩になっています。

Dsc03008萬勝寺の副住職さんと一緒に詠う上町金剛講の方々、今年は女性の方ばかりですね。いつもは男性も交じっているのですが、今年は寒くて男性陣はダウンですか。

Dsc03013家内安全のお札です。今年一年の皆様のご多幸をお祈りします。

Dsc03011


お疲れ様です。

父の15年戦争戦後編(5)風雲急を告げる満州

戦後国民党軍と八路軍が内戦に突入したとき、国民党軍は旧日本軍の支那派遣軍100万人の武器弾薬をほとんど接収していた。その時、正規軍は430万に達し、その中でもビルマで日本軍をさんざん翻弄した、新六軍はアメリカ製の最新兵器を装備した、強力な軍で、蒋介石は自信満々であった。一方の八路軍は正規軍が国民党軍の2割程度、民兵を入れても国民党軍の半分ぐらいの軍勢で、銃は旧式、型もバラバラで、圧倒的に劣勢であった。

父に生前、圧倒的に劣勢であった八路軍がなぜ国民党軍に勝てたのか聞いたことがある。また武器はどのように調達したのか、兵站はどうだったのか。

「八路軍というのは、武器弾薬は原則として敵から奪って戦争をしていた。自分で大きな兵器工場を持っていないので、ロンドンやニューヨークから武器を持ってくると言われていた。確かに銃は南北戦争で使われた物どころか、アメリカ独立戦争時代の物がいっぱいあった」

アメリカは蒋介石に旧式の武器も、在庫一掃のバーゲンセールのように渡していた。

日本がポツダム宣言を受諾したとき、毛沢東も蒋介石も満州の戦略的な重要性を認識していた。国民党の主力、中央軍は中国の南西部に引っ込んでいたので遠く満州までの移動はアメリカ軍の輸送に頼った。

対する八路軍は日本軍占領地で果敢なゲリラ戦を展開していたので、満州に近い華北や山東の部隊を十数万いち早く満州に進出できた。

日本降伏後、満州を占領するソ連軍は国民党政府と結んだ中ソ条約の関係から八路軍が公然と活動することを禁じた、八路軍は反発したが、圧倒的な軍事力で満州を制覇したソ連軍に逆らうことはできず、忍耐強く対処し、その時の情勢で、制服も脱ぎ、名称も八路軍から東北人民自治軍、東北民主聯軍、東北野戦軍、東北解放軍、人民解放軍・第四野戦軍と目まぐるしく変えていった。

このころ毛沢東率いる八路軍は兄貴と頼んでいたソ連があてにならないことを知り、苦しい立場に立っていたが、柔軟な戦略で満州制覇の足掛かりを確保していった。重慶会談で和平協定は結んだものの、あちこちで小競り合いが続き、国民党と対決することは必至で、幹部たちは軍の拡大を目指し急速に人材をオルグした。

1946年5月ごろ父は病状を回復し、日本へ帰る手続きをしかけたのだが、ある夫婦の身代わりで満州に残ることになった。その場所は不明だが八路軍が支配していた地域で、ある中国人が接触してきた。

注:毛沢東率いる八路軍が最終的に人民解放軍と名称を変えるのは1947年頃だがこのブログでは時期にかかわらず特別の場合を除き共産党軍を八路軍の名称で統一します。

父の15年戦争戦後編(4)謎の大爆発

謎の大爆発

父が牡丹江の病院にいるとき不思議な体験をする。1946年3月頃ソ連軍が撤収する1週間ぐらい前から弾薬庫が次々爆発し始めたのだ。3個師団が戦闘で使う兵器廠なので膨大な量の弾薬が集積されている。数日間大轟音が鳴り響き、爆発は続き、それはすごかったと言いう。事故だったのかと聞くとそうではなくソ連軍が爆破したとのことだ。

なぜソ連軍はそんなことをしたのだろうか。その後病院は八路軍の監理下になるので、武器弾薬は共産軍に渡されたと思いきや、そうではなかった。

歴史修正主義に影響された近代の中国革命を描いた書物には国共内戦で毛沢東が勝利をおさめたのは満州の日本軍が残した膨大な武器弾薬をソ連軍が接収し八路軍にに渡したためだと書いているものが多い。全世界で1000万分以上売り上げ日本でもベストセラーになった「ワイルド・スワン」-マオ誰も知らなかった毛沢東-にもそのように書いてある。

現代中国研究の泰斗、矢吹晋氏はこの本を三文小説と酷評している。解放戦争期、東北民主聯軍軍工部で働いていた武吉次郎氏の証言が次のように彼の著作に記されている。

「ソ連は満州にあった日本の兵器をくず鉄として運んだほか、工場設備、鉄道レール(チチハルから黒河まで)から、高級官僚社宅の家財まで、根こそぎ自国へ運んで行った」ー矢吹晋著中国の政治経済の虚実より

父は敗戦後ソ連軍の捕虜になり、吉林で武装解除されたが、足に腫瘍ができ、その治療のため、機動連隊の戦友より遅れてソ連に入った。森林鉄道で木材を伐採したり、鉄道のレールを剥がしながら黒河まで移動した経験は武吉次郎氏の証言とピッタリ合う。

日本敗北後の国際政治は複雑怪奇で、スターリンや蒋介石、毛沢東などの巨頭が丁々発止と渡り合っていた。共産主義者同士はインターナショナルで結ばれていたわけではなく、大国のエゴが如実に現れた。

スターリンは大連、旅順の租借や東支鉄道、南満州鉄道の共同管理などの利権を戦後誰と交渉すべきか考えた場合、毛沢東よりも蒋介石を選んでいた。(1945年8月14日、蒋介石とスターリンは中ソ友好同盟条約を締結)

それでソ連が牡丹江・液河の日本軍から接収した大砲などの武器は屑鉄としてソ連に運ばれ、無用な弾薬は中共軍にわたらず爆破されたのだ。スターリンは狡猾でこの後アメリカが、全面的に蒋介石に肩入れしだすと逆に毛沢東を強く支援するようになるが、この時期は転換期だった。

今年の初夢

日本の国宝級映画監督・山田洋次が中国を訪問し学生と交流

1月4日の人民網に山田洋次監督が中国を訪問、北京電影学院の学生と交流した記事が載っている。山田監督は満鉄技術者だった父のもとで少年時代を中国で過ごしている。1947年に日本に引き揚げたそうだが恐らく国共内戦が激しくなる直前の引き上げだと思われる。私の父はその時期日本に帰る直前にある人の身代わりになり、中国に残留することになる。父が帰国できたのは、それから6年後、1953年8月、家族4人で舞鶴に帰還した。

生前父は、わしの半生は小説が何十も書けるほど波乱万丈だったと言っていた。昭和13年7月14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して以来八路軍と戦い、関東軍ではソ連軍の対戦車の特攻要員となるも生き残り、シベリア抑留を途中脱走して逃れ、中国の新生人民解放軍では国共内戦を戦い抜く。最後は朝鮮戦争にも従軍した父の半生は確かに掛け値なしに波乱万丈そのものだった。来年1月は父の13回忌にあたります。ぜひそれまで「父の15年戦争・戦後編」を書きあげます。

そこで、山田洋次監督とスタッフの皆さん。もしこの拙ブログがお目に留まれば映画化をお考え下さい。きっと面白い映画が作れますよ。切にお願い申し上げます。

慰安婦少女の銅像(2)

それにしても、脳みその中が戦前の疑似イデオロギーで染まっている安倍政権が慰安婦問題で韓国と和解なんてできるわけがない。日本人で戦前の慰安婦制度を正確に理解している人はリベラル・進歩的・知識人を含めてほとんどいないのではないか。東コクバル元知事がテレビで「普通の売春婦でしょう」と平然と言っていたのを聞いたことがある。その程度の認識を持った者が知事になれる。敬愛する孫崎亭さんの言説を聞いていても腰が引けているように思う。

皇軍の慰安婦制度は盧溝橋事件以来増大する兵士の欲望を処理するため、遊郭制度を丸ごと軍隊に持ち込んだ。それで民族差別、軍の階級差別、女性差別が混然一体となって一番弱い植民地の少女にのしかかっていった。その残酷な事実を多くの日本人が理解するまで少女の銅像は日本人を見つめ続ける。

慰安婦少女の銅像

日本政府は1月6日、釜山の領事館前に設置された少女像の撤去要求とともに「韓日通貨スワップ交渉中断」「韓日ハイレベル経済協議の延期」「長嶺安政駐韓日本大使および釜山総領事の一時帰国」など4つの対応措置を明らかにした。

愚かな対応である。いたいけな少女達を幾十万と地獄に陥れた植民地支配の反省など微塵もない。

私はこの問題解決の秘策を日本政府に進ぜたい。銅像を設置した韓国の市民団体に領事館内に適当な場所を提供し移動を提案するのである。そして花を飾り、慰める。訪れる人にはいつでも開放をする。

慰安婦の問題は金では解決しない。国家の尊厳を盾に、撤去しても少女のまなざしは消えない。大事なのは汚名をかぶった彼女たちの名誉回復である。少女の銅像に寄り添うことでいつか和解の道も開けるだろう。

朝鮮漬(2)

平壌仕込み

キムチとかギョーザは、もはや日本の食べ物といってもいいくらい、ポピュラーな存在ですが、昭和30年代の私が住む淡路島では全く知られていなくて、市販品は都会でも大阪の鶴橋や神戸の南京街あたりしかなかったのではないだろうか。当時キムチなんて言葉もしらなかった。父や母はたんに朝鮮漬と呼んでいた。

朝鮮漬の作り方を母が覚えたのは朝鮮の平壌だった。母の手記(おばあちゃんが孫に伝える戦争の話)を読むと、ソ連参戦後、新京陸軍病院から吉林の分室に移動したとき終戦になり、母たちは列車で満州を脱出し南下した。朝鮮の平壌まで来るとソ連軍に足止めされた。そのあと2か月ぐらい平壌にいたようで、医療活動をしながらも、時間的には余裕があったようで、奉仕活動をしていたという。奉仕活動の意味が分からなかったので、改めて母にこのことを聞いたところ、

「当初することがなくぶらぶらしていたのだが、近くにある部落の人たちは日本軍に徴兵されたり、強制的に徴用され日本本土に男手をとられた家族が少なくなかった。それで農家へ手伝いに行こうということになった。農家の人たちは親切で、「看護婦さんがそんな慣れないことをしなくてもいいということで、反対に食事などご馳走になったが、漬物が日本で食べたことのない白菜漬けでとてもおいしかった。ご飯が何杯もすすむ。」

父は満州の餃子館の水餃子を食べ歩いているので味付けは父が主導した。しかし母の朝鮮漬は本場平壌仕込みで、父の干渉は許さない。「確か昆布を刻んで、サバも入っていたなあ、それからう~ん・・・リンゴリンゴ。リンゴをおろしたのをまぜてと・・・」

母は昔の平壌で教わったやり方を思い出しながら我が家の朝鮮漬を完成した。今のキムチと比べるとそんなに辛くなく、こどもの私でも食べられた。まろやかで、ちょっと甘みがあって上品なリンゴの甘い香りが感じられ、にんにくと唐辛子に違和感なく溶けこんでいた。

朝鮮漬(1)

料理コンプレックス

前回母が料理にコンプレックスを持っていたと書いたが、こんなことがあった。小学校の遠足の時、母はお弁当を作るのに悩んでいた。当時の同級生はほとんど巻き寿司を遠足の弁当に持ってきていた。いなかでは祭りなどハレの日のごちそうは断然巻き寿司だった。美味しい巻き寿司を作るのは農家の嫁の必修科目であったといえる。

母は巻き寿司を巻けなかった。さすがにこの時は「九州では巻き寿司なんかたべない!」とは言わなかったが。

「巻き寿司はよう巻けんけど、何がいい、稲荷はできるよ」と聞かれた。私はおにぎりがいいと答えた。別に母に気をつかって言ったわけではなく、巻き寿司はそんなに好きではなく、真っ白なおにぎりに卵焼きというのが、私の一番の弁当だったのだ。

当時うちのごはんには麦が混ざっていて、弁当箱には白いご飯の中にポツポツ黒い筋の入った麦飯が混ざっていた。同級生でこんな弁当を持ってきているのは一人もいない。これが嫌で嫌で毎朝母親に「下の白いご飯だけ入れてよ」と頼んでいた。麦は米より比重が高いので炊くと上に集中するそれで釜の下部分は比較的コメの白いご飯ばかりになっていた。

巻き寿司はまけない母ではあったが、農家の嫁には絶対負けない漬け物をつけることができた。それが朝鮮漬である。

続く

お正月と餃子

長い間休止して、文章を書くことは無縁な生活で、おつむの中とキーボードがさびついてしまい調子が出るまで思いついたことを書きます。

私が幼少の頃、うちの正月料理はお雑煮とお煮しめぐらいしかありませんでした。母は料理にコンプレックスを持っていて「私は学校を出るとすぐ従軍看護婦で戦争に行き、料理の仕方をおばあちゃんにおしえてもらってないんよ」とよく愚痴をこぼしていた。

私は少年クラブ正月特大号で得たばかりの知識で、「お正月には数の子や栗きんとんを作るらしいよ」と指摘すると「数の子なんて美味しくないわ。それに九州(母の実家)ではそんなん食べる習慣ないわ」と一蹴された。数の子がその頃高価な食品だと知ったのはもう少し大きくなってからで、マズイのならシャアないなと思いながらも、黒豆やたつくりは裕福でない親戚でも作っていたの、なぜうちはしないのか納得いかなかった。

ある年の正月、父が豚のもも肉を仕入れてきて、「餃子を作る」と言い出した。中国では正月や、お祝い事があるときはみんなで餃子を作って食べるという。父は人民解放軍の部隊で覚えたという。母は、もちろんおてのもんだ。

私の役は豚肉と白菜、ネギをみじん切りにして、それをさらに出刃包丁でトントンたたき、ぐちゃぐちゃにする。母は小麦粉を練り料理棒でフライパンぐらいの大きさに薄く伸ばし、それを巻き、棒状にする。それを手でちぎって平たく伸ばし包み皮を作るのだ。皮の厚さは現代の焼き餃子(日本独特)より厚めで食べたときの触感がよい。具の味つけは、父と母がああだこうだと言いながら議論して調合した。具を皮に包み、もむのは妹も参加して家族4人でやる。これがむつかしくて、かっこよくもめない。母はスイスイ、私はギブアップ。結局母が一人でほとんどもんでしまう。

水餃子は大きな鍋にお湯をたっぷり入れ沸騰させ、ゆでる。まず5~6個放り込む。ゆであがると餃子は上昇するので、それが出来上がりの合図だ。タレは酢醤油であっさりしていて何個でも食べられる。母がいた部隊では、よく食べる兵隊は50個ぐらいぺろりと食べたという。

「餃子に使う肉は赤身でモモ肉が一番、野菜は白菜とねぎ、南方へ行くとにらと卵を具にするんよ」4人家族で食べながら言っていた母の蘊蓄が今でも耳に残っている。

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