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2022年8月

自決

介錯

毎年8月になると先の大戦の体験談が新聞、テレビなどで特集される、しかし戦後77年もたつと戦争体験者がほとんどなくなっており、また90歳以上の高齢になると記憶の薄れで、証言能力がなくなっている。

私が父の戦争体験を真剣に聞き始めたのは82歳で亡くなる数年前だった、高齢でよく入院するようになり、病院へ連れてゆくことが多くなった。戦争体験というのは、殺し合いなのでほんとは家族にしゃべりたくないことだらけと言ってよい。

しかし父も先行き短くなり、息子にでも詳しく話して置きたくなったようで、こちらも若い頃なら聞けないような内容を質問してよく答えてくれた。

1945年8月15日「関東軍の特攻」でソ連の戦車軍団に撃破された後、父たちは山に逃げ込んだ、数日たち日本の参謀がソ連の将校を連れて降伏勧告にやってきた。日本軍に降伏の二文字はないので。呼びかけても簡単に山から下りることはない。使者は説得に手間取ったが決め手は天皇陛下だった。「天皇陛下が降伏したぞー」と呼びかけられて兵たちは投降した。

しかし一般兵士とは違い将校は拒否した。陸軍士官学校で徹底的に皇国教育を叩きこまれているので、国粋主義思想に凝り固まり、純粋でプライドも高い。彼らは捕虜の汚名を受けないと自決を決心した。ジューコフ元帥が日本軍の将校は狂信的と言ったが、純粋と狂信は紙一重だ。

将校たちは武士らしく腹を切ることになり、介錯が必要で、父が選ばれた。山の中で介錯をしたときの話は、南あわじ病院に入院していた時で、「わしゃ介錯を頼まれた」とサラリと言ってのけた。ベッドの上に座りあまりに自然な口調だったので、こちらも「ふーん」とそっけなく答えたが、父が時代劇で演じるような首切役をしたことを知り内心ショックだった。

宇垣陸軍大臣や大西滝治郎中将は介錯なしで腹を切った。大勢の部下を死地に追いやった責任もあるので、本人はあえて苦しみを伴う方法を選んだ。父が引き受けたのは、純粋な若い青年将校だ。失敗すればのたうち回り苦しみを与えるので責任は重大。

父がなぜ選ばれ、引き受けたのか。それは14歳で義勇軍に入りほかの者より6年も余分に軍事経験あったこと、義勇軍の創始者加藤完治が榊原鍵吉や山田次朗吉に連なる直心影流の名人で厳しく仕込まれ、度胸があると目されていた。

父の所属は舞鶴に上陸した時書いた身上申告書によると関東軍第一機動連隊、連隊長岩本大佐、第4中隊長山田耕作中尉とある。岩本連隊長は父たちの中隊を残して先に逃げたので、山の中で自決したのは山田中尉他数名の将校と思われる。父は大役を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

日本軍の兵は頑強だが将官は無能

ノモンハン戦争の立役者で第二次大戦のソ連邦英雄ジューコフ元帥は日本軍のことを、「兵は頑強である、将校は狂信的だ、しかし高級将校は無能である」と評している。このことを父に知っているかと尋ねたところ、笑いながら「そうか、そんなことをジューコフは言っていたのか、その通りだ」と肯定した。

1945年8月15日父の所属する関東軍機動一連隊の教育隊は牡丹江から南下するソ連機甲師団を鏡泊湖(きょうはくこ)湖畔で待ち受けていた。父の15年戦争1関東軍の特攻

ポツダム宣言を受けて本体はすぐ撤退を始めたのだが、父の中隊だけが残され特攻命令を受けたのだ。父の15年戦争8月15日の特攻

大戦末期、日本軍は継戦能力が全くなくなったにもかかわらず。絶望的な特攻戦術で若い兵士を無駄死にさせていた。父は若者たちに死を強制し自らは戦後も生き延びた無責任な軍の指導者に強い憤りを持っていた。

「ソ」軍の外形的装備は概ね整い特に戦車、飛行機、化兵部隊等の数は躍進的に増大せりと雖も其の質は必ずしも良好ならず、又幹部及び兵の素質は一般に低級なり精神的威力に於いて特に然り 国民は久しきに亙る特殊の環境に支配せられ隠忍盲従殆どその性を成し労苦艱難に耐え服従心に富むと共に一面事大思想に馴致せられ強者に対しては実力以下に怯えなるも弱者に対しては実力以上に勇敢なり ーーー昭和14年発行財団法人軍人会館出版部発行 「ソ」の常識 要旨より

この書籍は1936年版赤軍野外教令をもとに、日本軍の幹部教育にソ連軍の編成、装備、兵器、戦法、陣中勤務に関して、編集された。資料も最新で図面や表、写真、絵なども豊富でかなり充実した内容を持っている。しかしこの要旨はあまりにもソ連の軍人を侮った言葉だ。

戦争で相手を敬う必要はないけれど、日本軍は必要以上に敵を馬鹿にする。中国軍にも一撃を与えればすぐ降参すると思っていた。この思いあがった態度が、無敵関東軍を崩壊に導いた。

国葬・市町村葬

安倍元首相の国葬が問題になっているが、父が生前、「阿万でも戦死者の国葬があった」といっていたのを思い出した。その時マサカと思って調べてみると国葬ではなく町葬だった。日中戦争がはじまってまもなく山西省の平型関や娘子関(じょうしかん)などの山岳戦で、大勢の日本兵が戦死し、阿万町でも日中戦争最初の犠牲者が出た。

その方は私の伯母の友達の兄妹で葬儀は町葬(費用は税金でまかなわれた)だった。小学生も全員参列した大規模なもので、一兵士のための葬儀としては異例中の異例であり国威発揚のためと思われる。

以前、親族の方にお話しをうかがったことがあるのだが、戦時中は英雄でも、戦後は戦争に利用されたことがプレッシャーになり、町葬された方の娘さんは自身が亡くなったときは兄弟にも知らせず、遺体をある大学病院に献体し、ひっそり世を去られたという。

また私の父方の伯母も夫が輸送船乗りで潜水艦に沈められ、戦死した。自分は葬式はしないで献体すると、若い時から公言して、引き取ってくれる病院も早くから決めていて、遺族も遺言通り実行した。

 

 

 

奇跡なんか起こらない

なつかしの阿万劇場

昭和30年代は日本映画の最盛期であった。私の住む阿万上本庄にも映画館があり子供のころよく行った。当時三本立て小人20円大人で50円ぐらい。昭和28年8月に中国から引き揚げてきた私たち家族は父の実家のはなれの、6畳一間を借りていた。そこから街中まで1キロの道のりを父の自転車の後ろに同乗して阿万劇場に通った。

父は時代劇が好きで特に東映や大映の時代劇をよく見た。解決黒頭巾、柳生武芸帳、忍びの者、居眠り狂四郎、宮本武蔵などが懐かしい。

「新伍十番勝負」という大川橋蔵主演の映画を見に行った時、「南総里見八犬伝」 の予告編が流れた。あの滝沢馬琴の名作の映画化である。後に角川映画でも薬師丸ひろ子や京本政樹が出演して話題になった。

予告編で懐妊していた姫のおなかが爆発して白い閃光が放ち八つの球が飛び散り、周りの衆人が「奇跡じゃ奇跡じゃ」と叫ぶ場面があった。このシーンを見たとき私は10歳だったのだが、60年たってもありありと目に浮かぶ。この映画は絶対見たい。家に帰ると早速母に、八犬伝が来たら絶対見に行くと宣言した。母はけんもほろろに「ダメ」と言い放った。

奇跡は起こらないから奇跡という

その一年前ぐらい小林正樹監督の「人間の条件」を父と母が珍しく一緒に行ったが、その時も「子供の見る映画じゃない」と言われ、あきらめた

なお食い下がる私は「奇跡」ってどういう意味と母に尋ねた。母はけげんな顔で、「奇跡なんて起こらんのよ」と言った。でも予告編では奇跡が起こったよ。本編でどんな奇跡か見て確かめたい。「奇跡は起こらんから奇跡というのよ」母は子供相手にむきになることがある。それだけまじめに相手をしている。小学三年では母を言い負かすだけの理論武装がない。

でも大人になってから考えると、八犬伝って犬が人間に子を孕ます話だ。こんな映画、子供に見せたくないという母の気持ちもわからないではない。おくての私はSF的というかファンタジックに考えていて、具体的な行為を想像していたわけではないが。

母は「奇跡は絶対に起こらないと」断言した。軍国少女だった母もまた多くの日本人と同様、大東亜戦争勝利の奇跡を信じていた。でも奇跡は起こらず敗戦となった。「奇跡は起こらないから奇跡という」母の名言がこころに残る8月15日。

 

 

 

 

 

                                                          

神風は吹かなかった

私の両親の世代に太平洋戦争の話を聞いたり、書かれた記録を読むと、マリワナ諸島が占領されB29が本土を襲い、敗戦必死の情勢でも、最後は「神風が吹いて日本が勝利をする」という、今では苦笑せざるを得ない話を多くの日本人がまじめに信じていたことがわかる。

小学生のころ、父に連れられて見た映画に「日蓮と蒙古大襲来」という映画があった。ストーリーはよくわからなかったし、文永・弘安の役も知らなかったのだが、モンゴルの大船団が台風で壊滅するシーンがすごい迫力で、日蓮の祈りが奇跡を呼び起こしたことが、子供心にも強く焼き付いた。

帰り道、自転車の荷台から今見た映画がほんとうにあったことなのか、父に聞いた。「本当のことだ」といった後、「あの北条時宗という大将は若くて気が強くて、武力だけやたらと威勢がいいが、本当に賢い男ではなかった」と批判した。

映画の中で今でもよく覚えているシーンがある。モンゴルの使者が交渉を終えて帰るとき、時宗の側近が待機していた警固の武士に目配せをした。武士は猛然と使者に襲い掛かり殺害した。

世界の大帝国に喧嘩を売ったのだが、私はそのやり方が尋常ではないことぐらいはわかった。しかも二度目の使者も同じように葬ったのだ。父は少し間をおいて、「神風は吹かなんだなあ」と投げやりな口調で言った。私は映画で神風は吹いたんじゃないの・・・と思ったが、父は「神風は吹かなんだ」とまた言った。

その意味が分かったのは二十歳を過ぎて少し近代の日本の戦争がわかるようになってからである。父の世代は小学校の教科書で楠木正成・正行親子で忠君愛国を、蒙古襲来時の菊池一族の勇猛果敢な奮闘をたたきこまれた。いったん緩急あればお国のために死ぬ覚悟を持て。

あの映画を見たとき父はまだ30代後半だった。一度受けた教育が否定されても、体にしみ込んでいるのでそう簡単に考えを改められないのだ。父はあの戦争の意味を考え続けていた。

 

 

 

父が故郷に帰って最初にしたこと

父が故郷の淡路島に帰ってきたとき、地元の人は歓迎の大会を開いた。おそらく横井庄一さんや小野田寛郎さんが帰還した時のように新聞社や放送局は来なかったが、中国で行方不明だった父が帰ってきたことは故郷の人々にとっては大ニュースだったことは間違いがない。

父にとって徴兵検査で帰省して以来10年ぶりの故郷だったが、浮かなかった。実の兄が亡くなっており、近所の幼友達の布団屋の兄弟も二人戦死していた。その友達の姪に当たる、アイ子さんが父の法事の後の食事のとき、私たちが帰還した時のことをよく憶えていて話してくれた。

「お盆の暑い日、池の堤の横の道をうちのほうへ歩いてきた。お父さんが幼いカズちゃんの手を引き、お母さんがスミちゃんをおぶってくる光景を今でも憶えているわ、敏樹さんは帰ってきてすぐお参りに来てくれたのよ」

私の母校の阿万小学校が創立百周年の同窓会記念誌を出したとき、大正13年生まれの父は50歳ぐらいだった。その時、父の男子同級生約50人のうち3割がすでに亡くなっていた。名簿から大正生まれの男子死亡率を調べてみると、大正5年生まれぐらいから男子の死亡人数が増え始め、大正二けたの年代がピークで多い年代は4割近く亡くなっている。昭和生まれになると死亡人数がガタンと減り、数人となる。

父の胸には、故郷に帰った嬉しさと、若くして亡くなった多くの友の無念さが交差していた、暑い夏だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月11日は我が家の引き揚げ記念日

1953年8月11日、私たち家族4人は中国上海港から高砂丸に乗り舞鶴港に、引き揚げてきました。第二次大戦終結から8年たち両親はやっと戦争から解放されました。

舞鶴には祖父と従姉が迎えに来てくれていました。その時祖父は64歳、今の私より若かった。父の兄、勲(いさお)は亡くなっており、敗戦で行方知らずになっていた次男の父の生還に、嬉しさはいかほどだったか。

尼崎に嫁いでいた伯母の家に泊まり翌日、神戸中突堤から洲本港へ3時間の船旅、洲本から電車に乗り南淡の賀集駅まで1時間、そこからバスで25分ぐらいで、家の近くの伊賀野バス停に着く。当時は阪神から淡路島の南淡まで5~6時間かかっていた。

バス停から300メートルぐらい歩くと丸山池があり、池の堤で大勢の人が父の帰りを待ちわびていました。私たちが近づくと、にわかに万歳の声が沸き起こり、母はびっくりしたといっていました。

休む間もなく、阿万亀岡八幡宮で帰国歓迎会が開かれたそうだ。父の同級生で宮司さんの息子が幹事となり、地元の住民たちが集まってくれた。その時、母が熊本県の菊池一族の末裔とか紹介されて大汗をかいたとよく言っていた。

今では菊池武房なんて武将はあまり知る人はいないと思いますが、蒙古来襲で活躍したことが、戦前の軍国主義教育で喧伝され、楠木正成と並び当時は誰でも知っていた歴史上の武人です。

両親から聞いたエピソードを思いつくまま書いてみましたが、故郷の人は優しくて温かいですね。私は1歳8か月でヨチヨチでしたので何も覚えていませんが、お盆になると両親がこの話をよくしていたのが、いまでも思い出されます。

 

 

 

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