日記・コラム・つぶやき

おしかけ真言

正月に亡くなった隣保の方の家に「押しかけ真言」で行ってきました。阿万地区でもほかにあまり聞かないので、うちの丸山隣保独自の風習かもしれません。

お盆の法事ではなく、普段着で気軽に行って真言を唱え故人をしのび、その後食事をいただきます。時間も1時間ぐらいで、帰ってきました。

ああ日本共産党か

父の十三回忌

今日1月17日は阪神淡路大震災から23年になりますが、父も同じ日に亡くなりました。波乱万丈な人生を送った人ですが、なくなるときも憶えやすい日を選んでくれたものです。

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朝お寺に行き塔婆をいただいて、仏壇に供えました。本来ならお墓に建てるのですが、うちはお墓がないので、法事などはいつも祭壇に立てます。

まあ父は無神論者の様な人間でしたので墓などなくても気にすることはないでしょう。母は普通のひとでしたので、お墓のことは気にしていました。

でも私は建ててあとあと世話をする自信がなく子供にも負担をかけたくないという思いがあって、ほっておいています。妻は父が嫌いでしたので、何にも「関係ない」とドライもんです。

ああ日本共産党か

今年は正月から不幸ごとが続き、隣保で一件、仕事の取引先で一件葬式がありました。隣保の家は家族葬でしたので本葬はいかず、お通夜に行き、隣保一同で真言を唱え、故人をしのびました。

大阪にいる、亡くなられた方の弟の一人にご挨拶申し上げたのですが、私は幼少のときなので憶えてないようで、「敏樹の息子です」といってもわからない。「池の堤で鶏を飼ってたでしょう」と言っても首をかしげる。

ちょっと間をおいて「ああ日本共産党か!」と大きな声で、やっとわかったようで、父の遺徳が偲ばれる?ひと時でした。

今年は帰国65周年

平和が一番

私の家族4人が中国から帰国して65年になります。その年1953年ごろ中国には国共内戦とそれに引き続く朝鮮動乱で、大陸への交通は遮断し、約3万人の日本人が取り残されていました。

私の両親は中国人民解放軍で働いていたのですが、日本では行方不明者で、故郷の家族は知る由もなく、死んだものとほとんどあきらめていたそうです。

朝鮮戦争は、北朝鮮軍が鴨緑江まで追いつめられていたのが、中国人民義勇軍の参戦により、ソウルまで押し戻しその後一進一退で膠着状態に陥り、休戦の話し合いがもたれたのが幸いして、周恩来が日本政府に残留日本人の名簿を渡し、両親の居所が分かりました。

其の後尼崎にいた伯母から河南省信陽にいた両親のもとに手紙がきたそうです。

もし朝鮮戦争が休戦にならず戦闘状態が続いていれば私たち家族をはじめ日本人残留者は帰国できなかったでしょう。まことに平和のありがたみを思わずにはいられません。

現在の朝鮮半島危機は私にとって他人事ではありません。日本政府は圧力、圧力と危機をあおり、軍拡をすすめていますが、とんでもないことです。

一刻も早く緊張が緩和されることを願わずにはいられない年初めです。

内藤いづみさんの講演会に行ってきました

「産声を上げるとき息をひきとるとき」

10月9日(月)ソーシャルデザインセンター淡路(SODA)設立6周年記念に開かれた、上記の題名の甲府市在住の内科医内藤いづみさんの講演会に行きました。

内藤さんは末期がんや進行がんの人々を支える在宅ホスピスケアを30年以上されている内科医です。

感動的なお話をたくさんされたのですが、その一つにナチスの絶滅収容所を体験したフランクルの「夜と霧」のお話がありました。

絶望収容所

収容所から生還できた極少数の人たちは、共通の性格というか能力があった。それは仲間が次々とガス室に送られ、絶望の淵で生活を送る中でも、ちょっとした光景ーー沈む夕日を見て「美しい」と感じたり、収容所の片隅でふと咲かせる小さな花に心をとめる感性を持った人が生き残ったーー

私は「夜と霧」をもう30年くらい前に読んだことがある。今回内藤さんの講演を聞き、3年前に死んだ母のことが思い出された。

母は昭和20年8月15日、日本敗戦後ソ連軍にとらえられ、中国の朝鮮国境付近にある延吉収容所に入れられた。収容所で母たちは病気で倒れた兵士の看護にあたったが、満足な食事もなく、医薬品もなく、厳寒30度にもなる満州の厳しい冬将軍と伝染病の蔓延で、なすすべがないまま日本人兵士たちは倒れていった。

シラミの大移動

母は私が子供のころから、満州時代の話をよくしたが、定番のエピソードがあった。

捕虜収容所で毎日20人30人死んでゆく状況というのは、ナチスの絶滅収容所も変わりません。人間が死ぬことに、麻痺しなんの感動もなくなるようですが、それでも毎日死にゆく病人を看護していると「病人の中で明日死ぬ兵隊さんは必ずわかる」と母はいうのです。その話をしている母の表情は、子供の私でさえ、不謹慎とも思えるぐらい、いつも生き生き、ニコニコしているのです。

病人になっても、兵隊さんは着たきりスズメで不潔そのもの。シラミがいっぱい湧いている。それを退治する薬もない。

「それがある日突然、患者にシラミが一匹もいなくなるんよ!!」

その患者は翌日必ず冷たくなっているという。

「あれは不思議やったなあ。人間にとって嫌なシラミもこの世では共生していて、シラミに見放されると人間もお陀仏や」といつも笑い話で終わるのです。母が絶望収容所から生還できたのは、フランクルの話にも通じるユーモアを延吉で持ち続けたからだろうか。

内藤さんは、昨年亡くなった永六輔さんと長年交友があり、永さんから人間、笑うことの大切さを教えられたといいます。人間誰しも死ぬことは怖い。そんな終末期の患者を支えてきた内藤さんの話に時間を忘れて聞き入りました。

最後に小林啓子さんのミニコンサートで、喜納昌吉の「花」がうたわれた。

~泣きなさい 笑いなさい いつの日かいつの日か花を咲かそうよ~

忠ならんと欲すれば孝ならず

孝ならんと欲すれば忠ならず

森友事件の件で、稲田防衛大臣が国会答弁で教育勅語の精神をを評価する発言を行った。戦前の大日本帝国を美化する人たちは、親孝行や兄弟仲良くするとか夫婦和合というのは良いことでその精神は学ぶべきということだと思います。私もというか現在の日本人でこれを否定する人はまれでしょう。儒教に影響された「特定三国・日中韓」の国民もこれを否定する人は少ないでしょう。

父が生前伯母たちと酒席でよく言っていたのは「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずなんてよう言うた、けど両立しない」ということです。稲田防衛大臣は「いいとこどりで」現実に合っていない妄想をしゃべっているに過ぎない。私の両親は戦前の教育で忠君愛国を徹底的に仕込まれそのおまけで「親孝行や兄弟仲よく、夫婦和合して」を教えられたのですが、最後は天皇陛下(忠君)のため死ぬのが最高の道徳だった。父はソ連軍の戦車に飛び込むはずだったし、母は青酸カリを飲んで息絶えるはずだっだ。そうなれば逆縁でこれほどの親不孝はなかった。孝行は忠君に従属されていた。

戦前修身の時間で楠木正成・正行親子の行動は「忠孝」を矛盾なく統一した理想として徹底的に国民に教え込まれたのは、教育勅語を実践するうえでの都合の良い神話だったからです。

父は「もう結果の出たことを蒸し返すのは時代錯誤」とよく言っていました。

時代錯誤の幼稚園や小学校でどんな人材が育つのでしょうか。こんなところで自分の子供をl教育したい親はいますか?

ただっきゃのおばちゃん

2月14日ただっきゃのおばちゃんこと、川原松恵さんが亡くなった。94歳とのこと。「ただっきゃ」とは阿万小学校の校門近くにある文房具店のことで、誰も本名の川原店とは呼ばず、「ただっきゃ」あるいは、たの濁点をとって「たたっきゃ」とも呼んでいる。

戦後、阿万小学校に在籍していた人は、この店で文房具を買い、学校に通った。駄菓子を買って食べ、ジュースを飲みながら、友達と店の前でおしゃべりをしながらすごす、社交場でもあった。お気に入りの雑誌の発売日を待ちかねて一日に何回も来たり、おばちゃんの目を気にしながら、立ち読みしたり、また「当てもん」に夢中になり、小遣いを使い果たし悔んだり、なにかと思いで深い店であった。

長女が小学校の時、私はPTAの役員をしたことがあり、年一回発行する、「心の広場」という雑誌の編集責任者だった。その本の企画で、ただっきゃのおばちゃんのインタビューを記事にした。一番聞きたかったことは奇妙な店の名前の由来である。

おばちゃんいわく、昭和元年に榎本ただきちという人が始めて、「ただっきゃん」という愛称が、いつの間にか、「ただっきゃ」というようになったそうである。

おばちゃんの、あんこ型の体格から発射される迫力あるおしゃべりで、圧倒された。「文房具屋なんかビンボウ具屋といわれるくらいもうからん」とか「今の子供は、お菓子を食べたあと散らかしまくって片づけん」とか「親も子供二人連れてきて50円しか使わん。こまかいでー」とか辛口の言葉がビシバシ飛んできた。

最後に店とは切っても切れない万引きの話になる。今も昔も万引きをする子はいるが、やったらすぐわかるのでそれとなしに諭す。「ボクなあ、そんなことしたら、おばちゃんずーっと覚えとるで、大きくなってもあんたのこと、そんな子やとおもうてしまうし、ボクかて心の中に傷をずーともっていかなあかんし」

また二人連れの女の子で先に帰った女の子が出て行ったあと品物がなくなっていたので連れの子に言うと「泣きながら金をもってきた」という。「おばちゃん誰にも言わんから気に知られんと」慰めたという。言葉はきついが、やはり子供相手で、商売にも親の気遣いが感じられた、ただっきゃのおばちゃん。ご冥福をお祈りいたします。

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寒行

1月21日は寒行です。寒行というのは、真言宗では金剛講で御詠歌を習っている方たちが毎年大寒の日に家内安全を願って、各家庭をまわって玄関先で御詠歌を詠います。本当は20日の大寒に行うんですが、毎月二十日に隣保(りんぽ)が集まる二十日講と重なるので21日が寒行になりました。

南あわじ市阿万上町・丸山隣保では、むかしむかしから・・・いつごろか知りませんが、この時期の風物詩になっています。

Dsc03008萬勝寺の副住職さんと一緒に詠う上町金剛講の方々、今年は女性の方ばかりですね。いつもは男性も交じっているのですが、今年は寒くて男性陣はダウンですか。

Dsc03013家内安全のお札です。今年一年の皆様のご多幸をお祈りします。

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お疲れ様です。

今年の初夢

日本の国宝級映画監督・山田洋次が中国を訪問し学生と交流

1月4日の人民網に山田洋次監督が中国を訪問、北京電影学院の学生と交流した記事が載っている。山田監督は満鉄技術者だった父のもとで少年時代を中国で過ごしている。1947年に日本に引き揚げたそうだが恐らく国共内戦が激しくなる直前の引き上げだと思われる。私の父はその時期日本に帰る直前にある人の身代わりになり、中国に残留することになる。父が帰国できたのは、それから6年後、1953年8月、家族4人で舞鶴に帰還した。

生前父は、わしの半生は小説が何十も書けるほど波乱万丈だったと言っていた。昭和13年7月14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して以来八路軍と戦い、関東軍ではソ連軍の対戦車の特攻要員となるも生き残り、シベリア抑留を途中脱走して逃れ、中国の新生人民解放軍では国共内戦を戦い抜く。最後は朝鮮戦争にも従軍した父の半生は確かに掛け値なしに波乱万丈そのものだった。来年1月は父の13回忌にあたります。ぜひそれまで「父の15年戦争・戦後編」を書きあげます。

そこで、山田洋次監督とスタッフの皆さん。もしこの拙ブログがお目に留まれば映画化をお考え下さい。きっと面白い映画が作れますよ。切にお願い申し上げます。

慰安婦少女の銅像(2)

それにしても、脳みその中が戦前の疑似イデオロギーで染まっている安倍政権が慰安婦問題で韓国と和解なんてできるわけがない。日本人で戦前の慰安婦制度を正確に理解している人はリベラル・進歩的・知識人を含めてほとんどいないのではないか。東コクバル元知事がテレビで「普通の売春婦でしょう」と平然と言っていたのを聞いたことがある。その程度の認識を持った者が知事になれる。敬愛する孫崎亭さんの言説を聞いていても腰が引けているように思う。

皇軍の慰安婦制度は盧溝橋事件以来増大する兵士の欲望を処理するため、遊郭制度を丸ごと軍隊に持ち込んだ。それで民族差別、軍の階級差別、女性差別が混然一体となって一番弱い植民地の少女にのしかかっていった。その残酷な事実を多くの日本人が理解するまで少女の銅像は日本人を見つめ続ける。

慰安婦少女の銅像

日本政府は1月6日、釜山の領事館前に設置された少女像の撤去要求とともに「韓日通貨スワップ交渉中断」「韓日ハイレベル経済協議の延期」「長嶺安政駐韓日本大使および釜山総領事の一時帰国」など4つの対応措置を明らかにした。

愚かな対応である。いたいけな少女達を幾十万と地獄に陥れた植民地支配の反省など微塵もない。

私はこの問題解決の秘策を日本政府に進ぜたい。銅像を設置した韓国の市民団体に領事館内に適当な場所を提供し移動を提案するのである。そして花を飾り、慰める。訪れる人にはいつでも開放をする。

慰安婦の問題は金では解決しない。国家の尊厳を盾に、撤去しても少女のまなざしは消えない。大事なのは汚名をかぶった彼女たちの名誉回復である。少女の銅像に寄り添うことでいつか和解の道も開けるだろう。

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