父の思い出

中学校の武道に銃剣道を加える

3月31日、文部科学省は中学の武道に銃剣道を加えると発表した。銃剣道とは戦前、銃剣術と呼ばれ、軍事教練の必須科目だった。

突き主体の攻撃で相手の喉と左胸を狙う完全な戦闘技術である。

実戦で旧日本軍は、38年式歩兵銃の先に、通称ゴボウ剣と呼ばれる短剣を装着して突撃を敢行した。

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私の父は昭和13年、14歳の時「義勇軍」に志願して満州に行った。訓練所では開拓農業の傍ら激しい軍事訓練が施された。

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特に、青年学校法により訓練所内に、青年学校が併設されてからの軍事教練は、徴兵検査までに必修時間受講が義務付けられた。

Dsc03046_2写真は家の光協会発行 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

白兵突撃主義

日露戦争で、弾薬不足に悩んだ陸軍が依拠したのは歩兵による白兵主義(銃剣突撃)だった。第一次世界大戦で欧米列強が総力戦、物量戦を戦いぬき兵器も格段の進歩を遂げたことに、軍首脳は驚愕したが、資源のない日本はそんな贅沢な戦いはモッタイナイと、軍の近代化は限定的にとどまり、機械化や装備の劣勢を精神力で補おうとした。

1909年に改定された歩兵操典では「歩兵は戦闘の主兵にして、戦闘に最終の決を与うるものなり」と歩兵中心主義が打ち出され、「戦闘に最終の決を与うるものは銃剣突撃とす」と白兵主義が前に出た。さらに忠君愛国の至誠をもつ攻撃精神あれば兵力が少なくとも勝てると精神力を強調した。

中国人刺突訓練

父が関東軍に入隊したのは昭和20年5月だった。初年兵教育の仕上げに刺突訓練が行われた。その時生身の中国人が立ち木や杭に縛られ「肝試し」が行われたという。戦前軍国主義の時代とはいえ、戦場に行き、普通の農民や市民が人殺しを簡単にできない。それをさせるには「藁人形ではなく生身の人間で練習するのが有効だ」と「老河口作戦」で有名な藤田茂騎兵第四旅団長も言っている。このような訓練を日本軍は中国であたりまえにやっていた。

安倍内閣はやっていることの意味が分かっているのだろうか。3歳児から日の丸・君が代に親しみさせ、愛国心を涵養させる。小学校では教育勅語でイザとなったら国のために死ぬのがスゴイと教え、中学校になると人殺しの技術である銃剣術を教える。

私の父が受けた教育と同じことをしようとしている。この行き着く先は日本国の崩壊だろうか、いや先に崩壊するのは内閣だろう。

平瀬さん(3)

ロボット三等兵

平瀬さんが我が家を訪ねてきても、たいてい父はいなかった。父が帰ってくる間、延々と待ち続ける平瀬さん。当時の6畳一間のわが家ではテレビもなければラジオもない、財産らしきものといえば真新しい洋服箪笥がでんと鎮座しているだけ。私は、いつも父を待ち続ける平瀬さんが気の毒で、私の愛読雑誌少年クラブをネタに話し相手になった。というより遊んでもらっていた。

昭和30年代前半は子供むけ雑誌も月刊がまだまだ全盛で、少年クラブ、少年画報、冒険王、おもしろクラブなどが、少年たちの夢をかき立てていた。その中で父も戦前読んでいた、少年クラブは年一回、正月特大号だけ私は買ってもらえた。それ以外の月は貸本屋で借りるほかなかった。そこで連載されていた、ロボット三等兵は私の一番のお気に入りだった。舞台は支那事変から始まり、太平洋戦争で終わる。私は戦争というものをこの漫画で初めて知った。

軍隊の階級とか、部隊の簡単な編成はいつも読むうちになんとなくわかるようになり、5年生ぐらいになると、東京の大学に通っていた年長の従兄弟が持っていた「丸」というバカ高い軍事雑誌をコソっと読むようになっていた。

話を平瀬さんに戻すと、私は平瀬さんが描くロボット三等兵の似顔絵が大好きで、いつも頼んで描いてもらっていた。今思い出すとこのギャグ漫画はよくできていて、前谷惟光自身が経験したと思われる帝国軍隊の理不尽さが子供でも分かるようにおかしく描いてある。たとえばインパール作戦を指揮した牟田口司令官なんて子供心にひどい指揮官だと思えたし、日本の軍隊が食糧をろくに確保せず戦争をしていたのもよくわかった。

今でも覚えている話がある。連隊長がトンカツを食べたいとロボット三等兵に命令する。そんな材料はないので革靴の底を柔らかくなるまでグツグツ煮てそれを衣をつけてあげたのを連隊長に出すという筋書きで連隊長は美味そうに揚がったとんかつを一口食べて・・・ 

その漫画に出ていたとんかつが、それはそれはおいしそうで、母にトンカツを食べたいと言うと、「そんな高い材料買う金がない」と却下。それなら自分で作るからと、いらない革靴をもらって漫画と同じように、電気コンロに鍋をかけ革靴を切ったのをトントン叩いて柔らかく?したのを入れてグツグツ煮た。

母はあきれていたが、まあやりたいようにさせてくれ、それでいくら煮てもやわらかくならないので、ようやく私はあきらめました。ちなみに私が初めてトンカツを食べることができたのは中学生ぐらいの時で、その頃父は肉の商売をやるようになっていた。

平瀬さん(2)

細胞

昭和30年代までうちの家族4人は父の実家の離れの6畳一間で暮らしていた。従ってお客さんがきても、プライベートもなにもあったものじゃなく、私は漫画など読みながら、近くで父たちが話すのを、たいして意識することもなく、きいていた。

父と平瀬さんが話しているのを近くで聞いていると、サイボウという言葉が耳についた。後で母に聞くと体のいちばん小さい単位のことを言うらしいが、小学低学年の私はよく分からなかった。のちに細胞は支部に変わり、理解できるようになったが、周りには父以外に細胞らしき人は一人もいなかった。当時公然と共産党を名乗って活動をしていたのは阿万では父しかいなかった。

続く

平瀬さん(1)

先週、平瀬さんから寒中見舞いをいただきまして「とうとう九十歳になった」と書いてありました。私も今年65歳になりますが、お互い年をとったなあと思うこの頃です。

平瀬昭三さんは私が小学校の低学年の頃、よく家に来ていた方で、いつも背広を着て、冬は白いコートを羽織って、きちんとした身なりをしていました。そのころ田舎では、背広を着てネクタイを締めている大人はめったに見なくて、珍しい存在でした。小学校の校長先生、うちによく来ていた公安刑事、父の留守の時にきた、借金の差し押さえ人。この中でも平瀬さんは子供から見ても無口で、温厚な人柄で、父が帰ってくるまで、よく私の相手をしてくれました。

平瀬さんが来たとき、父はめったにいなくて、一時間も二時間も静かに待っている。二時間も過ぎるとさすが、時計をチラチラ見ながら、「お父さんおそいなあ」なんて言いながらも辛抱強く待っている。三時間ぐらいたってやっと見切りをつけて帰ってゆく。

そんな平瀬さんは一体何をしているのかよく分からなかった。母に尋ねると「共産党よ」ふーん背広来て、人を何時間も待って、帰ってゆく。定期的にきて、その繰り返し。ますますわからなくなった。

続く

侵略の象徴、靖国神社

無恥な首相
  昨年末、安倍首相が靖国神社を参拝して、中国・韓国が猛反発している。両国の反発を予想してか、安倍首相は参拝後「諸外国の戦争犠牲者の冥福も祈った」などと述べた。一方「英霊」に尊崇の念を表すためとも述べ、「英霊」に蹂躙されたアジア諸国の人々にまったく説得力をもたない、独りよがりの参拝の姿が浮き彫りになった。参拝直後にネットで、首相の参拝に「支持か不支持か」のアンケートで支持が8割くらいあって、不支持を圧倒的に差をつけていたのを私は見てびっくりした。おそらく参拝支持をする人は、靖国神社を日本中どこにでもある普通の神社だと思っているに違いない、「国のために死んだ英霊の追悼を首相がするのは当然でよその国からとやかく言われたくない」と思っているのだろう。私は英霊という言葉で思考停止になる無知な人々に支持された無恥な首相を持ったことを恥ずかしく思う。
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昭和17年5月6日内閣情報局発行写真週報より

 以前小泉首相が靖国神社を参拝したとき、中国で大規模な反日デモがおこったが、その時私は父に靖国神社に行ったことがあるかと尋ねた。
「茨城県内原の義勇軍訓練所時代に初めて行った。大村益次郎の巨大な銅像が威圧的でそれはそれは立派な神社だった。そこで引率の先生から、お前らは死んだらここで神様になるのだ、死ぬのを恐れてはならんと言われ一同しょげかえったことを覚えている」靖国神社というのは戦争のための教育機関で天皇のために死ぬことを最大の栄誉とおもうように青少年を教育した。

P1030846 満州の義勇軍訓練所 の神社
「満州ではどんな僻地に行っても、仁丹の看板と日本の神社があった。そこでは現地の住民も拝むように強制された。義勇軍では軍用道路を作るときに、よく動員されたが、現地の宗教的な施設や像が邪魔になると遠慮なく取り壊され住民の恨みを買った」日本が戦争に負けると神社はすべて取り壊されたという。日本人がやったことをやり返されたということだ。
現在の日本人は日本の神社がアジア各地で侵略戦争の象徴だったことを忘れている。もし日本で同じことがやられたら日本人はどう思うだろうか。

600x4502013112800002 新京(現長春)神社

600x4502013123000075京城(ソウル)朝鮮神宮

 

無農薬玉ねぎ

 淡路島ではもう直ぐ玉ねぎの取入れが最盛期に入る。うちの周りは田んぼだらけで、この時期はレタスが終わり、玉ねぎの葉っぱが青々としている、4月ごろから「早生」の収穫が始まっているが、まだまだ少なく6月になると一番多い「なかて」が始まる。
稲は実が黄金色になり収穫の時期が誰でも分かるが玉ねぎはどこで見分けるのだろうか。実は土の中で外からはわからない。引っこ抜いても色艶で見分けられないし、大きさも個体差が在るので熟成を判断できない。じつ(実)は葉が倒れて判断するのだ「もうそろそろ熟して美味しいわよ、あま~いあたしを食べて」としなっと身を崩す。そこから約10日ぐらいで収穫が始まるが本当は完熟するまで1ヵ月ぐらい待ったほうが美味しくなる。
Memo0116 左側の玉ねぎは葉が倒れて熟し始めているのが分かる。右側の玉ねぎの葉は植えるのが遅かったため、まだ立っている。
無農薬玉葱

 私が子供の頃、父の実家が耕していた田んぼを一反ばかり食い扶持に借りて、米を作っていたことがある。その頃の農業は機械化されてなく、人と牛の力で全てをやっていた。田んぼを耕すのは牛の役目で、大きな鋤を後ろに取り付け引っ張る。70代の祖父が器用に手綱をひき「ボウボウ!」と田の中で牛を追っていた。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、父が鍬を担いで働いているのを見た記憶が無い。
 昭和30年代、淡路島南部の農家では裏作に麦を作っていたところが多かったが、あまりに安い価格に耐えかね(貧乏人は麦を食えといわれた時代)玉葱作りに転換していった。 「これからは玉葱じゃ。麦なんか作るよりよっぽど儲かる」と機を見るに敏な父も苗を買ってきて植えだした。
このとき、私と妹も一緒に手伝ったので良く覚えているが、母によると、「玉葱なんか一度も作ったことが無いのに思いつきで植えた」という。苗は植えたものの後の手入れが大変だ。12月頃植えて春までほっといていたが、暖かくなると雑草が次々生えてくる。除草剤をやればいいのに、母がさんざん言っても父はやる気が無く、日曜日には私と妹に草取りをして来いと責任を押し付ける。子供の私たちは一応ヘラをもって田んぼに行く。2時間ばかりいやいや草を引くが、父がどこかに行ったのを見計らって帰る。
農家の人には常識だが、農薬なしに作物を作るのは至難の業であることを、この時私は知った。農業で必須の草取りほど地味で根気の要る作業はない。こんなしんどい仕事、親がしないのに子供はするわけが無いのだ。誰も行かなくなった無農薬の田んぼには雑草だけがスクスク育った。
 いよいよ収穫の6月頃には田んぼ全体が雑草に覆われ、何を栽培しているのか、わからなくなっていた。哀れなのは玉葱さんである。雑草をかき分け引いてみると養分を吸い取られた、ラッキョウみたいなのがぐったりして出てきた。我が家の玉葱作りはそれで沙汰止みとなった。

尖閣問題を解く鍵は日中平和条約にあり

 5年前小泉首相の靖国神社参拝で中国の反日運動が吹き荒れていた頃、まだ存命だった父に「なぜ中国はあんな無茶なことをやるのだろうか?かえって反感を招くだけじゃないか」と父に尋ねたことがある。父は「まあ小泉があんまり、わけのわからんことをするんで一発バーンとくらわしたれとやったんだろう、靖国参拝をやめたらいっぺんに静かになる」と答えた。親中派の父は率直かつ乱暴な意見を時々言うが、以外とあたるのである。マスコミや評論家が「内政の失敗を外に向けている」とか「江沢民の反日教育の結果である」とか色々言っていたが、父が言っていた「政府の首脳が参拝をやめればいっぺんに静かになる」が結局正しかった。

 今回の尖閣紛争、父が生きていればやはり「バーンとくらわしたれ」と言うだろうか、父は毛沢東の「革命はお茶を飲むことでも無いし、刺繍をしたり、ピクニックに行くことでもない・・・」という言葉がことのほか気に入っていた。14歳の時から銃を持ち日本の侵略戦争の尖兵となりながら、敗戦後中国革命の荒波を経験した父にとって、人権とか自由とかをあまり信じなかったように思う。ファシストを自認していた父は西洋流の民主主義の欺瞞性もわかっていた。「日本人や西洋人から人間扱いされなかった、あのまずしい中国人が人として生きるには暴力で戦うしかなかった」とよく言っていた。1980年代の初め頃、香港回収のため鄧小平がイギリスのサッチャー首相と会談したことがあった。返還をしぶるサッチャーに鄧小平は戦争をやっても取り返すといってサッチャーを威圧した。さすがの鉄の女も鄧小平の剣幕に度肝を抜かれたのか、会議場から帰るとき足元がよろめいて、こけそうになったのがテレビに映ったことがある。尖閣で日本が本気で争うなら中国は戦争もためらわないと思うが日本はその覚悟があるのだろうか。日本人は鬼畜米英で太平洋戦争に突入した経験を忘れてはならない。

 靖国参拝問題のとき私は父の話を聞きながらJANJAN(日本インターネット新聞社」に”引揚者の眼から見た中国の「反日」~小泉首相の靖国神社参拝が嫌われるわけ”を投稿したが、今回の事件の根っこにも日中の歴史認識の差異があると思う。日本人は明治以来の膨張政策(帝国主義)を誇りに思っている。司馬遼太郎の影響もあって日清戦争と日露戦争は栄光の歴史だ思っている日本人は多い。日本が栄光なら攻め込まれた朝鮮・韓国、中国は屈辱の歴史である。

 尖閣諸島が日本固有の領土だと思っているのは日本人だけで最も援護射撃を期待するアメリカも局外中立である。中国の言い分が全く根拠の無いものだったら、国際的にも理解が得られるだろうが、日本が平和的に「無主地の先占の法理」で国土に編入したとは言いがたい。日清戦争が大勝利に終わる見通しが立ってから、1895年1月15日に奪ったという事だ。1895年5月に交換された下関条約の批准書には尖閣諸島割譲が入っていないが、日清戦争に勝てばこそ、日本の領土にできた。

 本当は1945年8月15日にポツダム宣言を日本が受け入れた後、カイロ宣言通りに、台湾・澎湖諸島とともに返せば日本との問題は起きなかったのだろうが(国共間の争いになる)、沖縄とともにアメリカの占領地になった。その後、国共内戦もあって蒋介石国民党政府、その後成立した中華人民共和国政府ともケシ粒のような小さな諸島を積極的に自分の領土とは言わなかった。内戦で言うどころでなかったといったほうがいいだろう。日本にも弱みはあって1895年1月14日の閣議決定は内外に公示されることなく秘密にされた。日本領土編入の根拠の一つである1896年3月5日の※「勅令第一三号」は沖縄県に初めて郡制を導入するというものであるが、そこには尖閣諸島やそれに属する島名も書かれていない。その後も日本の敗戦にいたるまで、尖閣諸島領有の「閣議決定」は一度も公示されることはなかった。内外に知られるようになるのは1952年日本外交文書第23号が出されてからである。沖縄県に命じた領土のしるしである標杭も1969年5月5日まで打たなかった。

 こういう風に書くと中国の言い分を全面的に認めていると思われる人がいるだろうがそうではない。私は武力で奪った土地が全部無効とは思わない。115年も前のことが無効になるなら、中東でのイスラエルとパレスチナとの争いはもとより世界中の領土紛争がもっと顕在化して大混乱になるからだ。

 領土紛争解決には妥協が不可欠である、自国の正義を追及すれば必ず戦争になる。それを避けるため日中両国の知恵が試される。これ以上悪化させないためには、日中平和条約に立ち帰り「紛争の棚上げを」するのが一番だ。「領土問題の棚上げ」とともに「覇権主義反対」の立場を確認すべきである。覇権主義反対の条項は中国が当時対立していたソ連を念頭に入れたと言われるが、日中両国わが身を縛る条文でもある。 

 

※「勅令第一三号」 国立公文書館アジア歴史センター参照

公安刑事10

公安刑事10.

 私が中学生の頃には公安刑事は頻繁に来なくなった。中国から引揚げてきたころは毎日尾行がついていたようだが、5~6年後、尾行は止み定期的に家に来るようになった。このころ月最低1~2回くるようだった。その後月1回ぐらいになり、黒田警部のころは数ヶ月に1回くらいだった。公安刑事の来訪が減ったのは父が党活動を熱心にしなくなったからだと思われる。

 父が共産党の活動をあまりしなくなったのは、1967年日・中の共産党が断絶、敵対した事が契機だった。それまで寝食を忘れて走り回っていたのが、ぷっつり糸が切れたように何もしなくなった。日中友好運動も分裂し、嫌気がさしたみたいだ。替わって熱心になったのが商売である。それでも公安は数ヶ月に1回は来ていたようだ。その後、党におだてられて町会議員選挙に出たり、町長選挙にでたこともあるが全戦全敗でまたやる気をなくし、50歳過ぎには国政選挙の時ぐらいしか動かなくなった。それでも公安は1年に1回ぐらいは来ていた。忘れた頃にはやって来た。

 今から10年ぐらい前、最後に公安刑事が来たときのことをはっきり憶えている。春先の寒い日だった。長身で眼鏡をかけていて、刑事コロンボが着ているよりずっと暖かそうなカシミアのコートでやってきた。「お父さんはいますか」と尋ねたとき、見覚えがある顔でピンと来た。その時父は徳島県の板野にある結核病院に入院していた。70代半ばで3回目の発症だった。数ヶ月ほど入院していた。

 70過ぎれば父も公安は卒業したと思っていたので、私は少しあきれた。まあ商売熱心というか、他にすることがないのか、イヤミのひとつも言いたくなった。「もうねえ、足腰たたんようになっていつ帰れるのかわからんし・・・何なら電話しときますので板野病院まで会いに行きますか?」てなことをいったら、とっとと帰った。その後見舞いに病院を訪れたとも聞かなかったし、父が死んだとき葬式にも来ていなかったので、我が家と公安警察とは完全に縁が切れたようだ。思えば1953年8月に中国から引揚げてほぼ半世紀、長い付き合いだった。さすが特高警察の流れを汲む公安警察と言うべきか。あの世で父はホットしているのか、寂しがっているのか、よく分からないけどそこまでは追っかけて行かないだろう。まずは慶賀の至りであった。 完

公安刑事9

公安刑事9.

 新しい公安刑事が来た晩だったか、父が母に「黒田さんはかなり位が上の人らしいな、警部だそうだ」といっているのを、小耳に挟んだ。ちょっと記憶があいまいなところがあるが・・・たしか警部と言ったように思う。私は父に黒田さんは下町の駐在所にいるのかと聞いた。娘が同級生なので単純に地元の駐在所勤務だと思った。子供らしいトンチンカンなことを聞いたが、父は「警部が駐在所になんかいるわけがない、洲本署に勤めているのだろう」といったので、私はそのとき警部が警察の中でかなり上の地位である事が分かった。

 このころの父が公安刑事と会っているときの態度は、ごく普通の態度で敵視するわけでなし、歓迎するわけでなし、警察だからと卑屈なところもなく、自然流というかスマートだった。私なんか中学校の倫理社会で、民主主義とか言論の自由とか結社の自由とか習ったばっかりで、教科書に書いてあることが正しいと思っていた。社会の建前や本音はわからないが実際父が公安に監視されているのを知っているので、その理想と現実のギャップを見ると日本が自由だと言っても、「その程度の自由か」なんて斜めに構えていた。日ごろ父がやっている「党活動」なんて日本国憲法の範囲内で、武装蜂起なんてたくらんでるわけがない。家族4人でウサギ小屋のようなところで暮らしていれば、父が何をやっているのか子供の私でも分かった。父の活動が正しいか間違っているのかは分からなかったけれど、少なくとも法律に触れるような事はしていなかった。続く

公安刑事8

公安刑事8.

 私が黒田康子さんに話しかけられたとき、ちょっと嬉しいような気まずいような複雑な気分になった。「父親どうしが知り合いだ」というのは彼女にとっては新しいクラスメイトに話すきっかけの言葉に過ぎなかったが、私は彼女の父親と自分の父親の関係がただの知人・友人関係でないことを知っていた。西部劇で言えば「お尋ね者」と「保安官」の関係なのに、それを知らない彼女の無邪気な言い方に心の中では「慣れ慣れしくすんなよフン」という感じだった。

 私は中学生ぐらいから、赤旗や産経の記事を見比べその主張や違いが分かるようになっていた。女の子にはおくてだったが政治には早熟だった。当時中国は文化大革命勃発により大混乱、それまで仲の良かった日中の共産党は喧嘩別れ。その最大の原因はボケた毛沢東による武装闘争の押し付けだったと思う。「鉄砲から政権が生まれる」と毛沢東は自国の成功体験を普遍化し、世界各国の特殊な状況を無視し、各国の共産党に武装闘争を押し付けた。 

 アジアでは党員300万人を誇り、資本主義国最大のインドネシア共産党が、クーデターによる政権奪取に失敗。逆に反革命クーデタを起こしたスハルト将軍ににより弾圧されアイジット書記長は殺されインドネシア共産党はあっという間に滅亡した。

 日本共産党はその頃まで中国派と思われていたので、その動向は公安にとって重要だった。激動するアジアの情勢と無関係に思える淡路島の田舎町にも公安刑事がやってきて、末端の党員からいろいろな情報を集めていた。 続く

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