父の思い出

ドイツは2度世界大戦を起こした日本は・・・

父の危惧したこと

今や各種世論調査で中国に対して「親近感を抱かない」日本人は9割になることも珍しくなくなった。親近感どころか悪意、憎悪と言ってもいいようなコメントがSNSなどで飛び交っている。政党も自民党から立憲民主党、日本共産党から極右、幸福実現党に至るまで反中翼賛体制になっている。主流メディアもひどい。筑紫哲也さんが生きていた頃は米国にもモノを言う雰囲気もあったが、今は競うように口からデマ・ガセ。

父が存命だった15年ぐらい前まではまだそこまで行かなくて、自民党内でも、野中さんとか後藤田さんのような、戦前の日本の侵略戦争を知る人が多くいて、歯止めになっていた。自分らが火付け強盗をやっていたんだから、加害者が被害者をののしるなんてできなかった。

父は「ドイツは世界大戦を二度引き起こした。日本はまだ一度だ」と言っていた。その先は言わなかったが、かなり心配していたのは確かだ。戦前でも日本単独でやるのは不可能だったが、日独伊三国同盟を結び世界を相手にした。現在は日米同盟が絶対の国策。近隣諸国に憎悪を向け危機をあおるメディア。国民の所得は減り、コロナで出口の見えない日本。

 

中国では徳を重んじる

中国人の価値観

父に中国人の一番、重んじるものは何か聞いたことがある。即座に「徳である」と返ってきた。私はとく、得、じゃないのか聞き返した。「徳、人徳の徳」鄧小平のあの「白猫、黒猫」問答から利にさとい、中国というイメージに染まっていた私には意外な答えだった。中国革命はマルクスレーニン主義と毛沢東思想により封建性を否定したのではなかったのか。

革命は、数千年にわたって中国人の規範になっていた儒教はじめとする伝統的な思想を捨て去ったわけではない。「むしろ共産主義の平等思想の中に宿っている」というのが父の15年にわたる付き合いから得たものだった。

 

中国人は威張らない

中国とは?

父は1938年6月、満14歳の時満蒙開拓青少年義勇軍に志願して以来1953年8月まで15年にわたって戦争と革命の中を生き抜いた。父に中国・中国人とは何か?という難問を何回もぶつけてみた。

「中国には、とんでもない大悪人が出ることもあれば、とてつもない大英雄が現れる、日本人のスケールでは図られない人物が出現する」これは誰のことを言っているのか、わからないが、毛沢東のことだろうか。

とは言っても父は中国で、普通の中国人たちに接してきただけで、周恩来や毛沢東のような大物が周りにいたわけではない。ただし第四野戦軍の後勤部にいたとき、総司令の林彪は2度父の部隊を閲兵した。「林彪は若々しく颯爽としていて、彼が来るとすべての部隊の志気は上がった」

父の話の中で「ウー主任」という人が頻繁に出てくる。字は何と書くのかきいたことがないので、わからない。父は「中国で主任というのはかなり高い地位のひとだ、日本の主任とはくらいが全然違う」とよく言っていた。父にとってウー主任はよほど魅力的な人物だったらしく、父の話の主役はいつもウー主任だ。父は満州で大日本青年党という、ファシスト団体に所属していた。敗戦後八路軍に入ったからと言って簡単に思想が変わるわけではない、したがって入った当初は部隊の中で数々の騒動を引き起こしたようだ。そんな時いつも父をかばい助けてくれたのがウー主任だった。

中国人の特質は威張らない

「中国人は威張らんなあ、朝鮮人は威張る。日本人も威張る。しかし中国人は威張らん。あれは大したもんだ」戦前の満州は建前では五族協和だが、実際は日本人が支配者で、日本人が一番偉そうにしていた。次に偉いのが日本に国を併合された朝鮮人で吉林省には多く住んでいた。一番下に押さえつけられていたのが中国人で、この時代威張りようがないと言えないこともない。

戦後、立場が逆転して中国人が威張りはじめてもよさそうなのに、「中国人は威張らない」と父はいう。これはあくまで父の個人的な体験談なので、すべてそうだというわけではない。あくまで相対的に父が見た話です。

民族差別

父の年代の人、戦前教育を受けた人たちは圧倒的に朝鮮人を差別していた、私の親戚にも普段は面白くていいおじさんだけど、何かといえば朝鮮人の悪口を言う、父はそれほどではなかったけれど、心の底で差別しているのを私はよく感じた。私の世代は朝鮮人と付き合うことがほとんどなかったけれど、やはり親の影響を受け悪口をいう人間は少数いた。

父の知人でぼろくずを集めて商売をして、お金をため焼肉屋をはじめ成功している人がいる。もう40年以上前で、その時は「朝鮮焼肉」の看板だったのが、拉致事件の後で看板が「韓国焼肉」に変わった。今は息子さんが引き継いで相変わらず繁盛している。しかし経済的に成功しても今の「慰安婦」、「徴用工」の日本政府の対応をみると心穏やかではないと、思ってしまう。

中国の東北・吉林省(旧満州)には朝鮮族の人たちが多く住んでいるが、差別の問題はあるのだろうか。

厚労省資料の食い違い

機動第一連隊復七名簿・留守名簿・病状申立證明書

厚労省から取り寄せた、資料は5通ありその内訳は①機動第一連隊復七名簿 ②機動第一連隊留守名簿 ③病状申立證明書 ④身上申告書 ⑤機動第一連隊部隊略歴がある。

復七名簿とは戦後シベリアに抑留されて未帰還の兵士の名簿であり、作成された時点で、父が脱走した事実は復員庁にはわからず、吉林で武装解除された後シベリアに抑留されたままになっていた。記入欄には氏名、本籍、続柄氏名、適用のほか兵種・山、官等・伍となっている。これには日付はない。

留守名簿の日付は昭和二十年一月一日で氏名、本籍、在留地、留守担当者のほか編入年月日・20 ⒌ 20 復員 28 8 11、役種・現、官等・二、兵種・山砲、等級・22、給俸・52、月給額・一(注下に○)発令年月日・20 5 20 、徴集年・昭19、任官年空欄、など復七名簿に比べてかなり詳しく情報が記入されている。

この二つの名簿で明らかに食い違っているのは官等が復七名簿では「伍」即ち伍長であるのに、留守名簿では、「二」二等兵となっている。身上申告書の欄と比べると官等は一等、兵種は騎兵とまた違う。病状申立證明書には騎兵一等兵となっていて身上申告書と合っている。

このほか関東軍への入隊時期が生前父から直接聞いた話では昭和20年5月と身上申告書に書いてある5月10日と合致するが、病状申立書の20年3月1日入隊とは二か月違う。また留守名簿における徴集年が昭和19年であるのは前年に入隊ということで全然食い違う。留守名簿には前所属及其ノ編入月日という欄があるが、神戸の文字に赤い角版(字不明)が押されている。

このように厚労省の資料の情報がバラバラの理由はなんでだろうか。

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朝鮮戦争に従軍

身上申告書5

身上申告書に書かれなかった重要な出来事が二つある。一つは戦後ソ連軍から脱走したことで、捕虜になり森林鉄道などで作業をしながら、入「ソ」したのが昭和20年11月で沿海州のウォロシロフ地区に入った。翌21年1月ごろシベリア鉄道を西に移動中仲間3人と列車をはなれ脱走を企てた。そのうち一人は射殺され、もう一人とは離れ離れになり、北満を彷徨するうち知り合いの中国人に助けられた。

もう一つは朝鮮戦争に従軍したことだ。中国人民解放軍が朝鮮戦争に参戦したのは昭和25年10月なのでそのあと、後勤部という輜重部隊にいた父は鴨緑江を渡った。この話を聞いたのは小泉訪朝で拉致事件の被害者が多数亡くなったことが分かり、日本中が衝撃を受けていた時だった。テレビで中朝国境の映像が流れていたとき、父が突然、「この辺は地下道が無数に通っている」と言い出した。私は父が日本本土との行き来で朝鮮半島を列車で通過したことは理解していたが、朝鮮の話は聞いたことがなかった。

朝鮮戦争がはじまったころ父の部隊は朝鮮人が多くおり、「抗米援朝」で義勇兵の志願が殺到した、父も人民解放軍に入り4年以上革命の波にもまれて日本人とか中国人とか朝鮮人の区別という民族的な意識が薄くなっていた。それで平壌が奪回され中朝国境まで米軍がきて危機感が生まれ父も朝鮮に従軍した。

あとで日本人が少数だが紛れ込んでいることに上層部が気が付き慌てて戻した。父は帰るとき「米兵の捕虜も一緒に移送した。」という。

 

マラリア

身上申告書4

身上申告書にその他の欄があり、慢性病マラリア有り(1945年終戦時得病)(現在時・再発)と書いてある。私が小学校低学年のころ父が病床に伏せていたのを覚えている。当時父の実家のはなれ六畳一間を借りていたころだ。学校から帰ってくるといつも父が寝ていて、外で遊んでこいと、すぐ追い出される。期間は覚えていないがひと月あるいはそれ以上だったかもしれない。なんの病気かと母に聞くとマラリアと答える。その病名はなぜか私は知っていた。ロボット三等兵という漫画の中での、南方の戦いの場面で、その病名が出ていたのだった。高熱が出てウンウンうなっているイメージがあって、父の病気といえばマラリアをすぐ思い出した。

父の晩年、70歳を過ぎたころ、熱がでてなかなか治らない、それで病院で精密検査をすると結核にかかっていることが分かった。結核は法定伝染病で、一緒に住んでいる家族は直ちに検査をしなければいけない。幸い同居の母と私は陰性だったが、父は即、徳島の板野病院行きとなった。一年近くの長期入院でよくなったのだが、数年たちまた再発、この時は三ヶ月ぐらいで退院できた。

父はその後、胃がんで胃の三分の二をとったが、そちらは全快し、最終的になくなった時の診断は肺気腫だった。亡くなったとき母と父の病気のことなど話していて、マラリアもあったんだろうと言ったところ、母は苦笑しながら「あれはウソよ」と一言、そうだったのかと・・・

やっと日本に帰ってきたとたん、一家の大黒柱が長期入院すれば、母は幼子二人をかかえて路頭に迷う、それでマラリアと身上申告書に書いたのだった。結核は今と違って死に病と言われていた時代だった。

 

 

 

舞鶴引揚援護局 兵庫県世話課

身上申告書3

身上申告書には父の筆跡で書いたもののほか朱書きで追記している文字がある。例えば所属部隊の部隊長欄には岩本大佐と書いた父の字の横に、中尉山田耕作と朱書きしている。明らかに後から調書の専門家が付け足したものだ。申告書の枠外に、28.8.31兵庫 世 出頭 協力 戌 甲 覚書6と二行に書かれている。当時、復員した兵隊の援護関係書類は都道府県にあって、世話課という部署があり身上申告書を整理・管理をしていた。兵士本人が書いたものには記憶違いや間違いもあり、それをできるだけ正確に記するため、昭和28年8月31日に兵庫県庁の世話課で文書添削を協力した人の覚書という意味のようだ。戌とか甲という符丁は協力者の名前を伏せる場合につけたのではないか、これは元国家公務員をしていた友人に教えてもらった。ひょっとして公安関係者かもしれない。

協力者というのはかなり軍事に詳しい、それも軍の参謀クラスでないと知りえないことが書き足している。例えば8月13日(父の書いた筆跡)→敦化→鏡伯湖に出動と朱書きしている。機動連隊というのは関東軍司令部直属の部隊なので、作戦行動は直接総参謀長から出されている。それを知る立場にいるのは出動した本人か命令した人間で、戦後それを知りえるのは自衛隊の戦史を調べている人間ぐらいだろう。

続けて父の履歴を追って行くと、8月19日武装解除を受け26日敦化飛行場に収容される。10月敦化収容所の病院に入院。このころ父は足に腫瘍ができ入院したと、友人の田中さんに聞いたことがある。11月入ソ作業大隊名 (不明)ウオロシロフ地区 21年1月逆送 敦化(不明)病院「架車の(不明)1車両80名掖河着のときは16名他は死亡」21年1月掖河病院内科四病棟 このあたりのことは、父の15年戦争戦後編(2)
戦後編(3)で書いてきた。判別できない字もあるが、「21年1月逆走」とはソ連軍から脱走したことであり、父が言っていたことと合っている。

22年6月3日中共軍牡丹江軍二大站(不明)7月2日哈爾濱東北人民軍総兵站部勤務(獣医)23年11月10日部隊と共に進関長駐漢口行くここがちょっわかりにくいのですが、父に聞いた話では東北(満州)を共産軍が制覇して山海関を越え次に平津戦役に入るのがこのころで、父は天津攻略のとき、最も早く天津港に入ったと言っていた。それで関は山海関、長は万里の長城で駐屯して漢口に行く。と解釈したのですが・・・

24年2月4日部隊と共に重慶に入る。この年蒋介石軍は大陸にほとんど足場を失いかけていた時期で、10月には毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言する。25年9月10日后勤営管部にて(建築関係)獣医勤務 26年河南農場にて獣医勤務 27年7月軍より転業地方機関に下る 28年河南地方農場にて獣医勤務 このころになると中国大陸は革命直後の混乱も収まり、社会が安定しつつあり、軍の大幅な縮小が図られる。父が結婚したのは昭和26年で私が漢口で生まれたのは27年1月なので大陸全体もやっと落ち着き建設の息吹が聞こえてくる。

28年4月15日帰国の為信陽より開封に至る 5月21日帰国の為開封集合后漢口(不明)に至る 7月28日漢口出発上海に至る 8月8日上海乗船至日本 5月21日開封から漢口に来て次出発するのに2ヶ月ほど期間が空いているが、これは板門店での休戦協定の行方をにらんでのことでで、ドンパチやっているときは危険で船が出せない。

 

 

 

 

 

特務機関の手先になって

身上申告書2

身上申告書には昭和18年5月2日黒河勤務とある。戦前日本の特務機関とは、現代でいえば米国のCIAやイスラエルのモサドのような諜報機関を想像すればよい。諜報、謀略、破壊活動、暗殺等なんでもありの、恐ろしい組織だ。

黒河特務機関は満州里と共にシベリア出兵時最初に設けられた日本のもっとも古い特務機関の一つである。対岸のブラゴベシチェンスク(武市)とは黒竜江を隔てて国境線が引かれているが、同一の町のような雰囲気で相互に交易がおこなわれていた。シベリア鉄道も国境近くを走っており、関特演で日ソ開戦へ至った場合はシベリア鉄道遮断のための行動援助拠点であった。

昭和18年頃父は義勇軍訓練所から満鉄の鉄道自警村を経て南学田開拓団に移行して農業に励んでいたはずである。それで特務機関勤務とはどういうことだろうか。父は自分は義勇崩れで不良少年だったことを告白した。開拓団で農業なんかやる気はなく一攫千金を狙っていた。昭和16年ごろある事件を起こして北安(ぺーアン)の監獄に入れられたこともある。

黒河の町で日本の義勇隊の若者がぶらぶらしているとよく目立つ、特務機関員は自ら直接情報を集めないで、こうした不良少年や、ソビエトを憎んでいる白系ロシア人、蒙古人、朝鮮人、少数民族のオロチョン人などを手なずけ、ソ連の動向を調べた。もちろん金は内容によってはふんだんに与える。

そのやり口はこうだ。「町でわしらがぶらぶらしていると、普通の軍服の男がやってきて話しかける。何回か話をして打ち解けてくると暇だったら飯でも食わんかとか言って、おごってくれ親しくなる。そのうち、馬車を段取りするから旅行でもするかとか言って、実際6頭立ての馬車を用意してくれた。」

冬なのでソリをつけて黒竜江沿岸を何百キロも走り村や町をめぐる。特務機関員は決してあれこれ命令をしないそうだ。

「あれこれ命令をするとかえって、わしらは反発することを知っている、条件など付けないで、まあ行って来いと。一週間ぐらい旅行して帰ってくると、行ってきた町や村の様子を聞かれる、わしらも何を聞きたがっているのか何となしにわかるのでシベリア鉄道の輸送状況は注意をして調べた。その内容が気に入られれば報酬は大きい」

報酬は大きくても危険も一杯だ。ソ連のスパイもうようよいたであろう所に命知らずの若者たちを乗せ、雪を駆って国境線を幌馬車が進む。対岸のソ連側にはさすが行かないが、両岸の地元住民は交易のため行き来しているので、満州側の住民でも話を聞けばソ連側の様子はわかる。

満州には大興安嶺という南北に走る山脈がある。高さ1000mぐらいの山が1200キロぐらいにわたって続いている。この山のふもとを走っていると、飛行塔という火の見櫓ぐらい建物が道に沿って点々と立っている。

父によると「飛行塔というのは関東軍が対ソ作戦をやるために建てたと聞いている。山は目立つものが何もないのでこれを目印にして戦闘機などが作戦を行う」という。

父たちは飛行塔を目印に目的地を目指したそうだ。また休憩するときには塔の上にあがって、毛布などを干すと大量のシラミが凍ってパラパラ落ちるという。「あの頃は厳寒マイナス40度の戸外でも寒さなんか感じ なかった。」14歳で初めて満州の嫩江訓練所に来たときは弱弱しかった少年たちも、5年がたち、たくましい満州狼に育った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月15日は父が自爆し損ねた日

身上申告書1

「父の15年戦争1.関東軍の特攻」は父の生前に直接聞き取り書いた。昭和28年8月11日に舞鶴に上陸、その翌日書いたと思われる、身上申告書には昭和18年以降の行動(履歴)の概要という欄あって、18年5月10日黒河特務機関勤務、20年5月10日吉林機動第一連隊入隊、続いて20年8月13日朱書で「敦化→鏡伯湖 出動」と父と違う字体で書いている。この他欄外に父が書いた以外にも詳しく朱書きしている内容は軍事・兵事に詳しい、専門家があとから追記したものだろう。父が所属した第四中隊長の名前も朱書きで山田耕作中尉と正確に記している。

実はこの中隊長ソ連に投降するのを潔しとせず、腹を切って自決したと思われる。父は一兵卒ながら肝の据わったところがあって、このとき介錯を頼まれたといっていた。介錯とはハラキリする人の首をちょん切るわけだが、捕虜になったときの話をしているとき父はさらりと言ってのけたのに私はたまげた。この時代、人の命は「鴻毛よりも軽し」である。人生二十年の時代、戦に負けて生に執着することは恥であった。

8月19日の欄には「於吉林 ソ連東部機構軍団の武装解除を受く」とあるので16日か17日頃、鏡伯湖の山の中で投降の呼びかけを受け、天皇陛下が降伏したと聞き、青年将校たちは腹を切った。

 

 

中学校の武道に銃剣道を加える

3月31日、文部科学省は中学の武道に銃剣道を加えると発表した。銃剣道とは戦前、銃剣術と呼ばれ、軍事教練の必須科目だった。

突き主体の攻撃で相手の喉と左胸を狙う完全な戦闘技術である。

実戦で旧日本軍は、38年式歩兵銃の先に、通称ゴボウ剣と呼ばれる短剣を装着して突撃を敢行した。

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私の父は昭和13年、14歳の時「義勇軍」に志願して満州に行った。訓練所では開拓農業の傍ら激しい軍事訓練が施された。

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特に、青年学校法により訓練所内に、青年学校が併設されてからの軍事教練は、徴兵検査までに必修時間受講が義務付けられた。

Dsc03046_2写真は家の光協会発行 満蒙開拓青少年義勇軍写真集より

白兵突撃主義

日露戦争で、弾薬不足に悩んだ陸軍が依拠したのは歩兵による白兵主義(銃剣突撃)だった。第一次世界大戦で欧米列強が総力戦、物量戦を戦いぬき兵器も格段の進歩を遂げたことに、軍首脳は驚愕したが、資源のない日本はそんな贅沢な戦いはモッタイナイと、軍の近代化は限定的にとどまり、機械化や装備の劣勢を精神力で補おうとした。

1909年に改定された歩兵操典では「歩兵は戦闘の主兵にして、戦闘に最終の決を与うるものなり」と歩兵中心主義が打ち出され、「戦闘に最終の決を与うるものは銃剣突撃とす」と白兵主義が前に出た。さらに忠君愛国の至誠をもつ攻撃精神あれば兵力が少なくとも勝てると精神力を強調した。

中国人刺突訓練

父が関東軍に入隊したのは昭和20年5月だった。初年兵教育の仕上げに刺突訓練が行われた。その時生身の中国人が立ち木や杭に縛られ「肝試し」が行われたという。戦前軍国主義の時代とはいえ、戦場に行き、普通の農民や市民が人殺しを簡単にできない。それをさせるには「藁人形ではなく生身の人間で練習するのが有効だ」と「老河口作戦」で有名な藤田茂騎兵第四旅団長も言っている。このような訓練を日本軍は中国であたりまえにやっていた。

安倍内閣はやっていることの意味が分かっているのだろうか。3歳児から日の丸・君が代に親しみさせ、愛国心を涵養させる。小学校では教育勅語でイザとなったら国のために死ぬのがスゴイと教え、中学校になると人殺しの技術である銃剣術を教える。

私の父が受けた教育と同じことをしようとしている。この行き着く先は日本国の崩壊だろうか、いや先に崩壊するのは内閣だろう。

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