留用

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち⑤揚子江の海賊

 20数年前のこと、父が取引先の息子の結婚式に出席した。そこは民宿兼料理屋をやっていて父は女将と昵懇で招待されていた。帰ってくるなり「こんなことがあるもんやなあ」と少し興奮ぎみに話し始めた。
Memo0105 昭和7年5月5日発行上海事変記念写真帳より
招待所
 1953年8月上海港から私達家族が乗る帰国船がでることになった。中国各地から日本人留用者が続々と集まってきた。広い中国のことでもあり、全員が集結するには日数がかかる。
 船が出航するまで、しばらく宿泊していたのが、招待所と呼ばれる施設だった。招待所という名前は父から聞いて初めて知った。母に確認のため名前を尋ねても覚えていないという。校舎や軍隊の宿舎のようなところで、一部屋に大勢の人が寝泊りしていたという。父の説明では、人民解放軍で国民党と戦っている時、ある作戦が終了すると兵士が休養する施設に入った。戦闘中は休日なんてないので、終わってから、ゆっくり休暇が取れる。面白いことに、兵士が今の部隊を気に入らなければ、休養してから自分の行きたい部署を選べるというのだ。例えば飛行機乗りになりたいので空軍(当時人民解放軍は空軍がなかった)に行きたいとか、馬の輸送部隊に入りたいとか、希望しても定員が空いてなければいつまでも招待所でぶらぶらしている事ができる。もちろん能力や適性があり簡単ではないので、普通一ヶ月も休めば、妥協して適当なところに行くのだが、父が休養した招待所には1年も2年も理由をつけて遊んでいる剛の者がいたという。このことから招待所というのは、名前から想像される優雅ななゲストハウスではなく、簡易な木賃宿程度の公的団体宿泊所だといえる。

ボロをまとった貴公子
 その招待所で私達は船が出航するの待っていた。父は何もすることがなく、毎日港近くを散歩していたが、ある時街角で一人の日本人と出合った。
「その男はボロボロの薄汚れた服を着ていたが、貴公子!だった」
意味がよくわからなく私はもう一度聞き返した。
父は「貴公子」「貴公子」と真剣に同じ言葉を繰り返した。
「名前が鴻池と言ったので、財閥の御曹司かと思ったがあまりにも汚いカッコなので事情を聞くと、たった今刑務所から出てきたばかりだ」という。
「敗戦後、食い詰めて揚子江で海賊をやっていたところ公安に捕まり刑務所に入れられていた。帰国船が出るというので、出してくれた。お金も一銭もないので途方にくれていた。それで貴公子が乞食ではかわいそうなので、服を買うお金を30万エンぐらいあげた」
財閥の御曹司ではなかったが馬子にも衣装?、本物の貴公子のようになり、無事引揚げ船に乗ることが出来た。

 話を結婚式に戻すと父の席の隣が当時の兵庫二区選出の鴻池祥肇代議士(現参議院議員)だった。政治好きで町会議員などもしたことがある民宿の女将が鴻池議員の熱心な後援者で、結婚式に招待していた。
隣同士しばらく酒を酌み交わすうち、名前から昔の上海で、出会った貴公子を思い出した。同じ鴻池で、年齢が父より少し上で、ひょっとして関係あるのかと鴻池議員に尋ねた。海賊や刑務所の話をしたかどうか分からないが・・・
「戦前、鴻池議員の親父も中国にいたことがあり、そのころ日本に戻ってきたから間違いがないだろうといっていた」と父は確認するように2~3度うなずき、なつかしそうに微笑んだ。

死化粧

 母が5月23日、退院することになりひとまずホッとしている。1月、県病に入院して胃の手術したときはもうだめかと思ったが、2月から平成病院に転院して回復のためのリハビリを続けた結果、杖を使っての歩行ができるようになり、4ヶ月ぶりで家に帰れることになった。
最近は少し余裕が出てきたのか、「若いとき一度は死にかけた身やから・・・ようこの歳までいきてきたなあ」なんていいながら、ヒアルロン酸入りの化粧水をせっせと顔にすりこんでいる。「あのときは、死化粧までしてもらって」と昔の話をし始めた。

 昭和20年8月、敗戦後母はソ連の延吉収容所に入れられた。冬場に入り栄養不足と寒さで発疹チフスが蔓延した。毎日毎日何十人もの日本人捕虜が死んでいった。捕虜の身だった看護婦も総動員で患者の看護をしていたがついに母もかかり脳症をおこし二週間高熱にうなされ二日間意識不明におちいった。
「もう皆ダメと思って。こんな若いみそらで死んでかわいそうと思ったのか同僚の看護婦が死化粧をしてくれた」という。
私はそんな地獄の収容所で、化粧品などあるのが不思議で、尋ねると
「それが持ってたんよ、救護班一番の美人でおしゃれの娘が、エエモンみせたげようと目を覚ました私に手鏡をちかづけみせてくれた」と母はいいながら小さなコンパクトを顔に近づけ、またヒアルロン酸いりの化粧水を手に付けパタパタはじめた。

新京陸軍病院のパン

 この前、県病へ診察に行った帰り、母が「美味しいパンを食べたいわ」といったのでローソンに寄りパンを幾つか選んで、母に見せたのだが、気に入るものがない。家にいる時、母は朝パン食だったが味にはうるさかったので、コンビニでは気に入るパンはないだろうと思っていたが、やはりダメだった。
「もっと発酵しとらなあかん」とのたまう。うどんでもコシだけあってもダメで「発酵してない、味がない」とよくおっしゃる。ヨーロッパにいたわけでもないの、今年喜寿になるばあさんが、パンぐらいでなんで難しいかというと、原点は中国にあった。

 母は昭和19年2月従軍看護婦として旧満州帝国の首都新京(現長春)に着いた。当時内地では食糧事情がかなり悪くなっていて、みそ汁の具に芋のつるがよく入っていたという。それに比べ新京陸軍病院の食事はかなりよく、甘いものなんか看護学校ではめったに食べられなかったのに、汁粉とか羊羹がいつも食べられる。それでも、三食白米だったのがそのうち週に1~2回朝食に食パンが出るようになった。これを代用食と母はよくいっていた。代用食といっても首都の陸軍病院で一流の職人が造るのでとても美味しかったという。

 パンの量は看護婦も兵隊も同じ一斤配給された。パン屋さんで一袋4枚とか5枚とかに切って売っているが、あれだけいっぺんに食べられる人は現在あまりいないだろう。母は「女性は半分でも多いので他の看護婦も皆残した。寮に持って帰って油であげておやつにしたり、お汁粉と一緒に食べた」そうだ。軍隊というのは官僚制で決まった事はいくら不合理な事でも改まらない。ソ連が参戦して新京から脱出するまで、毎度律儀に一斤配給されたという。

留用された日本人「母の場合」12食べ物あれこれ

ロバの粉挽き

 母から聞いた中国体験は生活全般で中でも食べ物の話しが一番多い。豆腐屋さんにいくと、大豆を石臼でロバがひいていた。

Memo0037 これは小麦粉の工場のようです。

 「作りたての豆腐の美味しい事」「絞りたての豆乳も最高よ」「腐り豆腐があればご飯が何杯でも食べられる」

Memo0039 なぜか?ハリボテのろば。

 「中国で塩は山の中にある。場所は忘れたが岩塩をとりに行った事がある。味が全然違う」「敗戦後ピョンヤンまで逃げてきた時、朝鮮人の家庭で食べた朝鮮漬(キムチ)美味しかったわ。軒先に1年分の白菜漬けをしこんだカメが埋めてあった。それだけでご飯がなんぼでもおかわりできる」

 国共内戦の時代である。戦争をやっているとは思われないような話だったが、食べ物自体は取り立てて贅沢なものではない。ごくありふれた、現代日本でも普通に食べているものである。毒入り餃子事件で中国製の食品は一挙に評判を落としてしまったが、昔母が話していた中国の食べ物から危ない事は想像することができない。(今は放射能汚染で日本が一番危険になってしまった)

 冷凍食品もなく缶詰(高級品)もなく、食事はたべるときに手間をかけて作るのが常識である。国共内戦で行軍中は大きな鍋や食器を持ち歩き農家でかまどやコンロを借り、豆炭で火をおこし食事を作る。

 軍隊では戦争をしているので、とうぜん遅れて食べに来る者もいるが、なんぼ遅くなっても炊事係は残り物なんか出さず一から暖かい食事を作っていたという。

 「食事だけは腹いっぱい食べさせてくれたわ」内戦中は母にとって、食べる事が唯一の楽しみであったようだ。

留用された日本人「母の場合」11

日本軍細菌戦の傷跡

 この前、昼食を母と一緒に食べていたとき、テレビのニュースがハイチでコレラが流行っていることを伝えていた。これまでハイチではコレラがはやった事が無いので、国連PKO部隊から持ち込まれたとハイチの人々が思い暴動に発展しているとのこと。

 母はテレビを見ながら「中国でもようけ細菌ばらまかれてなあ」と言った。私は何のことかと聞き返した「新京にも細菌部隊があって」ええ!私は初めて聞く話に箸をとめた。これまで母はそんな話をしたことがなかった。昔私が「731部隊」の事を聞いたときも全然知らないと言っていた。

 父は関東軍防疫給水部(731部隊)のことは、開拓団にいたときから知っていた。北安(ペーアン)の特務機関の手先みたいな事をしていたので中国人の友達も大勢いて彼らから聞いていたという。

 母が新京(長春)の陸軍病院にいたとき、「郊外になんとか給水部という部隊があった」という、その時は、細菌部隊とは知らなかったが、戦後留用され、衛生部隊の手術隊で中国各地を行軍していたときに、ある部落が焼け野原になっているのを見た。付近の人に聞くと日本軍の撒いた細菌でコレラが流行して、家を焼いたという。「その時はわからなかったが、後から思えばなんとか給水部というのは細菌部隊だったのかもしれない」と母は思っている。

 日本軍が戦争中に撒いた細菌によって戦後も被害が続いていたことは、父も目撃していた。国民党の空爆を避けるため人民解放軍の部隊は大抵夜間に行軍をする。父の部隊が内蒙古を進軍していたとき、行く手のある部落が真っ赤に燃えていた。この時はペストの流行だった。「ペストはインドの南部など熱帯地方で流行る病気のはずなのに、こんな北方で流行するのはおかしい」と父は思ったそうだ。

 母にこれまで細菌部隊の事を聞いても全く知らないと言っていたので、今回の発言は意外だった。記憶と言うのは不思議なもので、こちらが聞きたいときには、思い出せないのに何かの拍子にふっと出てくる。

 新京には関東軍軍馬防疫廠「100部隊」があった。炭素病原菌の研究をおこない、敵の軍馬や家畜を駆逐する部隊だったが、父はこの部隊にいた医者に獣医学の講習を受けた事があるという。

 母の言う「なんとか給水部隊」が「100部隊」と関係があるのかどうかわからない。しかし日本の細菌部隊は、満州の731部隊や新京の100部隊だけではなく、中国、東南アジアをふくめて、かなり大掛かりな組織であったみたいだ。前に買った「中国侵略と731部隊の細菌戦」森正孝・糟川良谷編をあらためて読み返している。

留用された日本人「母の場合」10

南方で見た食事どきの光景

 1948年、遼瀋戦役で東北(満州)の国民党軍を駆逐した人民解放軍は山海関を越え平津(北京・天津)戦役を戦った。このとき獣医師として解放軍に入隊していた父は天津攻撃の先遣隊に加わり、一番乗りで天津港に突入している。北京は特務工作が成功して無血開城となった。100万の大軍、人民解放軍第四野戦軍は引き続き解放軍の主力として海南島解放の命を受け続々と南下し始めた。母の衛生部隊も野戦部隊を追って武漢、湖南、江西、広州と南方方面に進出したと思われる。この頃のことを母に聞いても日記などつけてるわけが無いので、どんなコースをとったのか、地名、時期などほとんど憶えていない。「行軍は国民党の飛行機の爆撃を避けるため、ほとんど夜間におこなった。同じ場所に3日といなかったので、どこを通ったとか知る余裕がなかった」という。

 蒋介石軍を追って第四野戦軍は黄河を渡り揚子江をつきぬけ、各地を解放しながら海南島に向かって進軍した。中国は広い、同じ中国と言っても東北(旧満州)と南方では言葉、習慣、風俗がまるで違ってくる。南方で食事時、母は家々のまえで不思議な光景を見た。

Photo アサヒグラフ昭和14年8月9日号潜口にて母子の食事

 「食事時になると外に出てきて台と椅子をだして食べはじめるんよ、一軒だけではなくてその辺の住民全部が同じように家の前に出て食べている・・・」母の説明によると「暑さもあるんだろうけどそれだけでなく、自分達はしっかり毎日の食事をとってますよ、とアピールしている」そうだ。中国では古来、為政者の収奪、頻繁に起こる戦乱や大災害で庶民は人間生活の基本である食べることさえ満足にできない状態に置かれてきた。それでことさら食に対する執着心が強く、まわりの人々も食べているのか関心がある。

 現在の中国は革命前と比べて格段に国力は充実し、「改革解放」により国民の生活も豊かになっている。しかしあからさまな資本主義経済の発展により庶民と金持ちの経済格差が広がり貧困層も増大していると言う。すべての人々が食べていける社会主義を目指した中国は食べることの心配は卒業したのだろうか。いまでも南方では家の玄関前で食事をする習慣が残っているのか興味のあるところである。

留用された日本人「母の場合」9

手打ちうどん

 4年前亡くなった父はわがままな人間で、自分の好きなように生きてきた。人生は他人との関係でほとんど自分の意のままにならぬほうが多いのだが、父の場合自分が信じるままに、わが道を行く。他人の意見もほとんど聞かないので、まして家族がどう言おうと耳を貸すことはなく自分の思うとおりに行動してきた。生活全般がそうで、特に食生活は父の好む味付けに家族は慣らされた。

 父は食事の時「料理に砂糖を使うな」とよく言っていたが一つだけ例外があって「スキ焼だけは砂糖を入れてもよい」がほかは全部ダメだと言う。私が小さい頃は惣菜なんて気の利いたものは近所の食料品店になかったので買うこともほとんどなかった。母の作る食事はオール手作りで、父の嫌いな砂糖入りの料理は全く出たことは無い。私が高校を卒業して、大阪に就職したころ、梅田の阪急三番街の和食の店で鰻丼を食べたとき、甘くて柔らくて、これが本当の鰻丼かと感動した。それまで家で食べていた、池で捕まえてきたうなぎは、醤油をかけるだけの鰻丼で、それはそれで、美味しかったのだが、阪急三番街で食べた鰻丼は格別の味だった。

 父と母が結婚をした1951年頃は、国共内戦も終わり、朝鮮戦争は続いていたものの、停戦協定への歩みも進んでいた。国内政治の焦眉の急は内戦で膨れ上がった軍隊を一刻も早く食料生産の現場に移し民生の安定をはかることだったので、軍隊も縮小し、余った人間は農村に帰っていった。父が獣医をしていた「馬部隊」は後勤部という輜重部隊の一部門だった。その部隊もいずれ民生部門の輸送に転換していくはずだが、まだ過度期で部隊は存続していた。

 母は衛生部隊の中にいたのが結婚によって父の部隊に移動した。それで、食事も父の部隊の兵隊と一緒にとることになったので、父の食事の嗜好もこの頃から分かってきた。母によると部隊ではパオズ(包子)という具が入っていない饅頭が出ることが多かったが、父はパオズが嫌いで「そんなモン食えるか・・・」と食べようとしない。かといって米なんか日本のようにどこにでもあるわけが無い。こまった炊事係は父がうどんが好きだと聞いて、パオズのときは、父だけ特別にうどんを打って、食べさしたと言う。

 このあたりの物分りのよさは軍隊とは思えない。日本軍でこんなわがままを言ったら。どづき回されて、半殺しになり食事どころではなくなるだろう。父の「わがまま」な性格は中国人民解放軍が甘やかしたためだった。

 人民解放軍にはさまざまな民族出身者がいた。彼らは皆独自の文化を持ち料理の味付けも多様で、画一的な食事を受け付けない。宗教もさまざまで、戒律で禁止されている食べ物もある。漢民族が多数派だといっても豚肉の入った中華料理を回族に押し付けたらいっぺんに中国共産党は支持を失うだろう。どんな民族も皆平等であり、その独自の文化や宗教を尊重することを行動によって示さなければ、共産党軍は支持されることはなかった。

 私が子供の時母に聞いた話では「ホイホイ教というのがあって、豚は食べない」と言っていた。これは今思えば回族のことで、ほかに火を神様だと信じている少数民族の村を行軍で通過したこともあるそうだ。

留用された日本人「母の場合」8

中華料理のフルコース

 母は食いしん坊なのか、「中国体験談」も食べる話が多い。子供の頃からよく聞く話に、北京かどこかの高級飯店で28品目の料理を食べたと言うのがある。時に品数が27になったり25になったりするが、「最初からご馳走が出てきたので夢中でパクパクお皿全部を食べ、5品あたりで満腹になり、もう終わりかと思ったら、それからが本番で次から次から山海の珍味が出てきて途中で食べきれなくて、もったいないことした・・・」といつも後悔の言葉で終わる。

 私自身、淡路島の田舎育ちで、子供の頃は中華料理どころか外食自体ほとんどしたことがなかったので、20種類以上の料理を一度に食べることなんて想像すらできなかった。たまに神戸へ連れて行ってもらったとき「自分だけそんな贅沢をしているのに、僕にも大丸の大食堂でカレーライスぐらい食わせろよ!」 と何度思ったことか・・・(かやくうどんをひとつ注文して、おにぎりを持込んで食べていた)

 数年前、母とテレビの料理番組を見ていたとき例の「中華料理のフルコース」の話をした。「一体いつの話」と私は詳しく追求した。「人民解放軍の手術隊に入って明日はいよいよ出発する前の晩だった」と言う。場所は詳しく覚えていないが、北京の近くで、その町一番の飯店に幹部が出立する看護婦全員を連れて行ったと言う。

 1948年9月12日から11月2日にかけて行われた遼瀋戦役で林彪率いる東北人民解放軍は国民党軍を東北(満州)から一掃した。この頃から共産党軍は統一して中国人民解放軍とよばれるようになり、東北解放を担った林彪の軍隊は人民解放軍第四野戦軍になった。

 第四野戦軍は山海関(万里の長城)を越え黄河、長江を突っ切り海南島まで進む戦略軍だった。母は100万の軍勢を誇る第四野戦軍のなかの衛生部隊で5年あまりを勤務する事になる。部隊の出発前、山海の珍味を食べた思い出を昨日の事のように語る母だった。

 

留用された日本人「母の場合」7

吃完了嗎(食事はおすみになりましたか?)

 子供の頃、両親から中国のことをさまざま聞いていた。母からは人民解放軍の中での食事に関することをよく聞いた。戦争中なので贅沢な食事はしていないが、それでも日本の軍隊と全く違ったありようである。

 食べる事に関して、中国はことのほか大切にする。人間食事をしなければ生きられないので、当たり前と言えば当たり前だが、中国では「吃完了嗎(ツ・ワンリョ・マー)もう食事はおすみになりましたか?」というのが、あいさつ代わりだという。日本で「良いお天気ですね」というのと同じ感覚で言葉を交わす。

 母が言うには部隊は二日と同じところにいなくて、調理員はいつも鍋など調理道具と食器を持って移動していたと言う。食事は一日に2回だったが「腹いっぱい食べたと」言う。一日2回でもなれたら別に苦にならないそうだ。

 食事は部隊で全員一緒にとることが多いのだが、戦争をやっているので、同じ時間に取れない兵隊もいる。そんなとき調理員は、どんなに時間が遅くなっても、残り物で間に合わしたりせずに、一から暖かい食事を作るそうだ。「あれには感心したなあ・・・」と母は今でも当時のことを回想する。

 

留用された日本人「母の場合」6

強姦は死刑

 中国では古来「よい鉄は釘にならぬ、よい人間は軍人にならぬ」といって軍人は強盗、ゆすり、たかりと同じように思われていた。清朝末期から中国各地に群雄割拠した軍閥は略奪、強姦やり放題のひどい軍隊だった。国民党の軍隊も大してかわらず、日本軍もそれ以上のひどい軍隊だった。大戦末期中国人にとって解放者として現れたソ連軍も第一線に入ってきたのが囚人部隊だったこともあり、略奪・暴行なんでもありで、日本人のみならず、中国人も被害にあっている。母によると「強姦をされた話や、女を差し出せとか、いわれたのはソ連が入ってきたときだけで八路軍(人民解放軍)にいたときはそんな心配はなにもなかった」という。人民解放軍は人間としてやってはいけない事と、しなければならないことを規則に定めた、それが「三大規律八項注意」だった。しかし規則に定めるだけでは、人間皆守らない。

 父の話によると1946 年夏ごろ人民解放軍にはいったとき「強姦すれば即死刑だ」と言われたという。ただの脅しではなく実際死刑になった兵士もいる。古山秀男著「一日本人の八路軍従軍物語」には強姦をして最初は許されたものの、二回目は戦闘中敵前逃亡をした上、民家に押し入りまたやった男が銃殺刑を受けた話が出てくる。

ついで犯人にたいし、「起訴状の内容および将兵の発言で指摘された事実を認めるかどうか」と念を押す。すると犯人は、こくんと頭をさげてそうした事実を認めた。これを見とどけた政治委員は、すっくと立ち上がり、一段と声をはりあげて、東北民主連軍総司令部および総政治部の「銃殺刑執行に関する命令を」読みあげ、最後に、「立刻当地執行槍決!」(直ちにこの場で銃殺せよ!)と命令を下した。すると、ピストル(モーゼル型)を手にした二人の警備員が、後ろ手にしばりあげられている犯人の片方ずつの腕をぐっと押さえ、「走!」(行け)と押し出し、会場正面左側三十メートルほどのところに掘られていた穴の前まで小走りにかけてゆき「跪下!」(座れ)といって犯人にヒザをつかせると同時に、二人の警備員がそれぞれ犯人の頭を狙ってピストルを発射し、銃殺刑の執行は終了した。中略 このように解放軍は、規律にたいしてはきわめて厳正であり、”罪を憎んで人を憎まず、病をなおして人を救う”という寛大な面をもつと同時にいささかの妥協もなく、はっきりと大衆的にケジメをつけてゆく軍隊だということが、頭の芯に刻みこまれたのはその時である。

 人民解放軍は信賞必罰がハッキリしていた。昨日まで日本軍や国民党・軍閥の軍隊にいたものが一晩で品行方正になるわけが無い。一度は許しても二度目は厳しく罰された。

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ