留用

従軍看護婦が受けた自決命令

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この文章は14年前母が存命中に直接聞いた証言をもとに書いたものです。戦前の日本人は、老若男女関係なく戦争に負ければ、死ぬことになっていた。現在からみれば、カルト教団の中で洗脳されて狂気そのものなのですが、それが愛国者の当然の姿と信じられていました。その中でも正気を保ち生き抜いてきた人間もいたこと伝えたいと思います。

母が受けた自決命令

―――戦後国より受けたるは 自決のための手榴弾 たゞそれのみと訴える その声聞けば怒り湧く よくぞ耐えたり忍びたり たゝえん「従軍看護婦の会」―――定形博史・作 日赤従軍看護婦の会“賛歌”2番

 

私の母は戦前日本赤十字社の従軍看護婦で、旧満州の新京陸軍病院に勤務していた。ソ連が参戦する89日ごろ吉林の分室に移動して、815日敗戦を知った。

そのあと大急ぎで朝鮮半島を南下して平壤にむかったのだが、新京を出発前、看護婦全員に青酸カリが渡されていた。いざという時にこれを飲んで日本女性として見苦しくないように自決せよとのことだ。「いざという時」は二つの意味があって、捕虜になりそうになった時と、レイプされそうになった時だが、女性は敵に捕まるときは即、犯されるとのことで、母によると病院では看護婦に「おまえらはロスケ(ソ連・ロシアに対する蔑称)がきたら強姦されて、連れて行かれて妾になるんじゃ」といつも言っていた耳鼻科の軍医がいたという。

歩ける軽症患者は一緒に連れて行ったが、重症患者はそのまま置いていかれた。正確に言うと、衛生兵数名が「残務処理」に残ったので薬殺されたのではないかと母は思っている。

私は子供の頃からこの話を何回も聞いているので、看護婦や兵隊は戦争に負ければ青酸カリを飲んでみんな死ぬのだというのを何となしに信じ込んでいた。それで軍人が戦争に負けて自決するのは当たり前なのに、沖縄では民間人が自決して、島に一緒にいた軍人が何故生き残っているのか現在でも不思議に思っている。なお日赤の従軍看護婦は赤紙召集を受けたれっきとした軍人(恩給は無い)で、看護婦は下士官待遇、婦長は准尉ぐらいの待遇だった。

大戦末期、沖縄だけでなく激戦地のサイパン、グアム、旧満州などでも民間人の「集団自決」(当時は玉砕と言った)が起きている。しかし同じような苛烈な条件下でも死ななかった人達のほうが圧倒的に多い。

私の母も生き残った一人だが今改めて何故、母たちの部隊(救護班)は自決をせずにすんだのか、その時の状況を聞いてみた。

母は83歳という歳のせいか耳がかなり遠くなっている。大きな声で怒鳴るように何回も尋ねると追及されているような気分になるみたいで、「どうだったかなあ。忘れたわ…」とあいそのない返事をする。どうも自決命令がどのような形で下されたのか、はっきり憶えていないようだ。自決命令書などあるわけが無く(書類は逃げるときに全部焼いてきた)その時の新京陸軍病院長(軍医中将)はソ連が参戦する数日前、家族とともにいち早く日本に逃げ帰っていたので「ワシはいなかったし、そんな命令は言っていない」と開き直られたら、ハイそうですかと引き下がらざるを得ないだろう。蛇足ながらその病院長の愛人は置いていかれ、看護婦たちと同じ列車に乗った。

それでも母が持っている「日本赤十字従軍看護婦 戦場に捧げた青春」には同じような経験をした看護婦がいくつも手記を書いているので、そのなかから極限状態におかれた看護婦たちの「生と死」に対する意識を記したい。

 延吉捕虜収容所

―――中略815日、病院長から無条件降伏を知らされました。「神国日本は絶対負けない。いざという時は神風が吹く。」ということを本気で信じていただけに、すぐには無条件降伏の意味が理解できなかった。

病院のすぐ横にあった竜井神社が、地元暴民の手によって火をつけられ、もうもうと上がる黒煙の中で神主が銃殺され、奥さんと美人の娘二人は捕えられて連れて行かれたが、その後の消息は知ることができなかった。病院の正面玄関の前で、日章旗が暴民に踏み付けられ、引き裂かれ、ちぎれた布片が風に飛ばされてきた。院外ではののしる声と悲鳴、爆竹の音にまじって、銃声の後に絶叫する声が聞こえ、街中は混乱の極に達した。

 日本は本当に負けたのだ。神も仏もないのか。神風が吹くといったのは嘘であったのか。私の悲嘆と衝撃は大きかった。顔も腕も毛むくじゃらの大男のソ連兵が、マンドリン銃を小脇に持って院庭に入ってくるのを目前に見た時は、もう生きた心地がしなかった。宿舎の窓に畳を立てかけ、外からの侵入を防ぎ身を守った。全員が自決という命令で、青酸加里を詰めたカプセルが支給された。

 日赤の制服制帽を身に着け、編上靴を履き、自決に備えて心の準備をした。青酸加里は、いつでもすぐに服用できる様に、制帽のリボンに縫い込んでいた。どんなに極限の状況下にあっても、大和撫子の誇りと名誉を傷つけぬ様、一人で勝手に行動をとらぬ様にと指令された。街中が戦場の様な混乱の日が数日続いたが、幸い私たちは病院の鉄条網を張り巡らした垣の中であったので、厳しい戦渦から免れる事ができて全員無事であった。

 患者は、九月になって、ソ連軍のトラックでどこへともなく輸送されて行った。ガランと空室になった病室で、いよいよ自決する時が来たと、帽子のリボンに縫いこんだ青酸加里の所在を手で確かめた。同僚達のいる部屋に行くと、みんな悲壮な顔をして黙々と荷物をまとめており、何か異様な雰囲気であった。私もわらぶとんの皮で自分で作ったリュックに身の回り品を詰めながら、ただぼう然とするのみで何の考えも浮かばなかった。どの位の時間がたったであろうか。ソ連軍のトラックに乗車する様命じられた。

中略 そこが、延吉捕虜収容所であることを後になって知った。先に輸送されて行った患者たちも、病院勤務の衛生兵達も、大方集結していたので、今まで緊張していた心がほっと和んだ。

中略 収容所には、関東軍の捕虜が数千人位集結され、その中の患者を、私たちの病院が診療することになった。収容所に来て幾日か経ったある日、病院長の命令で青酸加里が没収された。その時は一同ほっと胸をなで下ろした。

 軍人勅諭の「生きて虜囚の恥ずかしめを受くるべからず」を朝な夕なに教育され、そのことを厳守し、天皇陛下の赤子として帝国陸軍の誇りと名誉を汚さぬ覚悟であった。しかし日時の流れにいつしかその覚悟もうすらぎ、生への執着が日増しに強くなっていた。そして、病院長が「もう死ななくても良い。これからは祖国日本の再興のため耐え難きを耐え忍び難きを忍び、命の限り生きるのだ。いつ帰国できるかは分からないが、命を大切に頑張ろう」との訓示に、生きる事への大切さを知った。

―――記 村山三千子(東京都)「日本赤十字従軍看護婦 戦場に捧げた青春」より

外も地獄内も地獄

旧満州の延吉捕虜収容所は、朝鮮北東部国境に接する小さな町に造られた大規模な日本人捕虜収容所でシベリアに送られる関東軍兵士の中継基地となった。

私の母も平壤まで逃げてきたところを、ソ連軍につかまり延吉まで戻された。ここで母たちは病人になった捕虜の看護をしながら冬を越すのだが、衛生状態が悪いうえに冬の寒さと不満足な食事で栄養失調、赤痢、発疹チフスなどが蔓延し毎日何十人もの捕虜たちが死んでいった。母も発疹チフスにかかり脳症になりほとんど死にそうになった。

また最初に進駐してきたソ連兵が囚人部隊だったことから、略奪、暴行、レイプなどの被害が頻繁に発生した。看護婦たちは頭髪を短くかり兵帽を深くかぶり、兵服を着て救護活動をした。

 母はいまでも収容所の出来事を話すとき「ソ連は兵隊がたらんので、丸坊主で手に刺青をした囚人の兵隊を送り込んできた。マンドリン銃を向けられたときのあの恐ろしさ。ロスケの女の将校は、私は背が低い(149センチ)ので子供のように頭をなでたりして…」などと憎憎しげに言い放つことがある。

 暴動が発生した収容所の外も内も地獄であった。だが皮肉なことに三重の鉄条網と5メートル間隔に並んだソ連兵は外の「暴民」から捕虜たちを守った。しのびこんでくる不良ソ連兵におびえ、お互い協力して身を守りながらも、収容所内は一定の規律はあったので、母たちはなんとか身を持ちこたえた。

自決道具は青酸カリと手榴弾2

 従軍看護婦に対する「自決命令」は軍中枢から出ていたことは間違いない。そのことを示す証言は看護婦の手記などに青酸カリを配られたことが必ずでてくることからもわかる。東部ソ連国境にある虎林の病院では看護婦にも手榴弾2発が渡されている(一つは敵に投げる攻撃用で一つは自決用)。

こうした状況下で「自決」が行われなかったのは、やはり人間そう簡単に死ねないし、現場の部隊長(病院長)も自ら率先して青酸カリを飲むのを躊躇したためだろう。下部の組織員は上官の行動を見習う。一緒に行動していて病院長が先に自決しなければ看護婦もまた自決しない。

捕虜になったあと病院長の判断で看護婦全員に配られた青酸カリを回収したことも悲劇をおこさない重要な要因だった。病院長が「もう死ななくても良い」と訓示したことで看護婦たちの張り詰めた心理は解放された。

次に紹介するのは青酸カリを回収しないばかりに起こった悲しい例である。

 苦悩する元婦長

石川県の作本シス井さんは昭和21821日、八路軍の管理する嫩江(のんじゃん)病院に勤務時、引き揚げ命令があり、看護婦一同飛び上がって喜んだが日赤看護婦は一人も帰国を許されず、絶望した一人の看護婦が青酸カリを飲み自殺をした事件があった。作本さんは婦長の立場から、手記「すぎし日の想い出」に次のように書いている。

―――中略 昼食後はみんな泣いていた。その時“飲んだ”と大声で叫びましたので、中村看護婦が青酸加里をのみ、すでに意識不明になっているのを知ったのです。医師の指示により、あらゆる処置を尽くしました。祈る様な願いもむなしく帰らぬ人となりました。昭和16618日召集以来、こんな悲しい事はありませんでした。殊に婦長として、班員の一人を亡くした不注意の責任は何とお詫びの仕様もありません。私たちは敗戦と同時に各自青酸加里を、万一の時飲むようにと制服の左胸のポケットに納めていました。

―――「日本赤十字従軍看護婦 戦場に捧げた青春 第二巻」より

敗戦から一年以上たってもこんな悲劇が起こることは珍しくなかった。帰国の望みを絶たれたと思った看護婦は絶望のあまり発作的に行動をとったと思われる。青酸カリは婦長や衛生兵を通して配られた。その命令系統は看護婦―婦長・衛生兵―軍医―病院長・部隊長―関東軍―大本営となっている。一番の責任は大本営の軍中枢部が負うべきものだが、直接看護婦に接している第一線の指揮官である婦長は青酸カリを渡した「現場命令者」として加害意識と罪悪感を持つ。

作本元婦長は帰国後数十年たっても、自分の責任を痛感して苦悩している。

 

8月9日はソ連対日参戦の日「母の場合」

残された者たち

新京(長春)陸軍病院の看護婦だった母は、8月9日ソ連が攻めてくという情報が伝わるとすぐ、吉林分院への移動命令が出て新京駅へ向かった。病院を出るとき看護婦全員に青酸カリが渡された。敵に捕まる前に自決するためだ。歩けない重症患者は病院に残された。患者に飲ませるため、青酸カリを持たされた衛生兵も少数残ったという。

駅前は列車を待つ大勢の人でごった返していた。横にいた同僚が母に「あの人よ」と目配せした。ちょっと離れたところに一人ぽつんと立っている女性がいた。彼女は新京陸軍病院長(陸軍中将)の愛人とうわさされた人だった。同僚の話によると病院長は数日前、家族を連れて日本へ帰ったという。

おばあちゃんが伝える戦争体験    留用された日本人「母の場合」4

 

井戸を掘った者

14年ぐらい前、私は居間で一人テレビニュースを見ていた。その時日中国交回復35周年を記念して何か特集をしていたが、公明党の竹入元委員長が国交回復の功労者として中国から招待されるというようなことが触れられ、国交回復前に訪中したときのフィルムを流していた。

母が突然入ってきて、テレビを横目で見ながら立ち止まり注視していたが、ナレーションが「中国のことわざで井戸の水を飲むときは掘った人の労苦を忘れてはならない」とアナウンスをしたのを聞いた途端不機嫌になりテレビに向かって「私らこそ招待してくれらな、アカンのと違うか」と捨て台詞をはいてスタスタ出ていった。

私は母の言いたいことが、痛いほど分かった。竹入氏や田中角栄氏が井戸を掘る30年近く前,

「日本の敗戦でやっと故郷に帰れると喜んだのもつかの間、何の因果か大陸にとどめ置かれ、再び戦争の真っただ中。チフスで死にかけ、国民党の飛行機に爆撃されながら、満州から海南島の見えるところまで、五年間も人民解放軍で傷病兵相手に看護婦として働いた自分は何なのよ!」と思ったのだろう。

私が小さい頃、母はなにかと、中国ではこうだったとか、日本とこんなに違うとかいろいろ話してくれたが、生活水準の遅れた中国を話しながらも、どこか中国人に対する尊敬があったように思う。それは侵略戦争でめちゃくちゃにした日本人を恨む気持ちを抑え、中国人と同じ公平に扱い、いやむしろ進んだ技術のもつ日本人として優遇してくれた彼らに対する恩義もあった。

人民中国に対する希望があったが、日本に帰ってくれば、日本は台湾を支持する米国に追随しており、中共政権とは戦争状態で、引揚者の父は公安警察に毎日監視されていた。両親はそんな日本に悲観することはなく、自分たちこそ日中友好の最先端にいると自覚していた。

文化大革命でめちゃめちゃになった中国は、イデオロギーを捨て、革命を捨て、国際主義を捨てた、自分たちの生活を再建することを優先し、まずはお金儲け一本槍になった。結果資本主義の先端を走る日本の自民党政府と仲良くすることが国策となった。

父は日中友好運動から離れ我が家の生活、金儲けを優先するほうに舵を切った。中国の真似をして、イデオロギーを優先した人生から金儲けを優先した生活に、変わったかどうかわからないけど、日本と中国、国が仲良くなればそれで結構、もうわしらは用事がない、と考えたのか、それもわからない。

父が亡くなって15年、母も8年前に鬼籍に入った。大発展した中国、落ち目の日本も見ないで逝ってしまったが、各種世論調査で「中国が嫌いな日本人9割以上」というのは、予測できなかっただろう。いや引き揚げてきたときの元に戻ったのか。

来年は日中国交回復50周年になるが、こんな状態では、友好の井戸はまだまだ掘れていない。両親はあの世でどう思っているのだろうか。

 

 

 

留用された日本人「母の場合」(13)青酸カリ

自決

青酸カリという言葉を私は幼児期から知っていた。なぜこんな物騒な言葉を覚えたかというと、母は従軍看護婦の経験から、遠足にもっていく、ゆで卵の塩を、病院で出る五角形の薬包みのように包んでいた。色々応用があって学校に「検便」を持っていくときなども半紙を小さく切って便を上品に包み小マッチ箱に入れていた。クラスで集めたマッチ箱も様々で、新聞紙で厳重に何重にも包んだマッチ箱もあれば、きれいな包装紙のギフトのような包みもある。たまにその横に大マッチ箱が裸でドーンと鎮座していたりする。

閑話休題、日常生活で薬包みをするたびに、母は戦争に行ったときは、この包に青酸カリを入れていつも持っていたと言う。「戦争に負けたら捕虜にならんようにこれを飲んで死ぬ」

誰でもこんな口癖を聞いて育てられたら青酸カリが恐ろしい薬で、看護婦も死と隣り合わせの恐怖の職業と考える。戦前日本では兵士だけが「生きて虜囚の辱めを受けず」ではなかった。子供はさすがに自決はできないので親が殺す。母は引き揚げのとき満州で自分の赤ん坊を井戸に投げ込んで帰ってきた人を知っている。「でもあの状況ではだれも責められない」とかばう。

満州でも沖縄でもサイパンでも、日本は国民に降伏を許さなかった。逃げる開拓団にソ連軍が一方的に撃ってきたという話をよくするけど、開拓団も武装をしてしていた。三八銃と手りゅう弾ぐらいで、かなり貧弱な武器だが抵抗もした。白旗掲げたら助かるのにしなかった。陛下から賜った武器を捨てられず、逃げた。「生きて虜囚の辱めを受けず」の呪縛は徹底していた。

 

 

 

鳳凰の枕カバー

新年あけましておめでとうございます。

以前、母の遺品を整理した時に珍しいものを見つけた。古い素朴な手作りの枕カバーで鳳凰の刺繍が施してある。

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子供の時に見たときはもっときらびやかな豪華な雰囲気のカバーで、中国から持ち帰ったものだと知った。たしか2枚あったような気がするが、しわくちゃでシミのついたこの一枚が残っている。

母がなくなる数年前、父と結婚したきっかけを聞いたことがあった。1951年ごろ母は中国の古都鄭州の医院に看護婦として勤めていた。
その町に父の輜重部隊、通称馬部隊、が駐屯していて、部隊長と医院の医者が友達で、仲を取り持ったそうだ。そのとき、仲間がささやかなパーティーを開いてくれ、枕カバーはお祝いにいただいたものである。

鳳凰は中国では縁起の良い伝説の動物で平和の象徴でもあるという。夫婦仲良くいつまでも円満に暮らすよう仲間たちが心を込めて祝ってくれた。そこには国の違いも民族の違いもない人間同士の祝福があった。

私の両親は決して仲の良い夫婦ではなかったが、母がこの枕カバーを時々押し入れから出し、子供の私に見せてくれた笑顔を今でも覚えている。

今の日中関係を見るとき、枕カバーの鳳凰は泣いて涙のシミだらけになっている。その原因の多くは私も含めた日本人の側にある。

父は日本に帰るとき、仲間たちにこう言われました。「落ち着いたらまた来てください、でもその時は鉄砲を持ってこないでくださいね」と。
今年一年穏やかな年でありますように願っています。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち⑤揚子江の海賊

 20数年前のこと、父が取引先の息子の結婚式に出席した。そこは民宿兼料理屋をやっていて父は女将と昵懇で招待されていた。帰ってくるなり「こんなことがあるもんやなあ」と少し興奮ぎみに話し始めた。
Memo0105 昭和7年5月5日発行上海事変記念写真帳より
招待所
 1953年8月上海港から私達家族が乗る帰国船がでることになった。中国各地から日本人留用者が続々と集まってきた。広い中国のことでもあり、全員が集結するには日数がかかる。
 船が出航するまで、しばらく宿泊していたのが、招待所と呼ばれる施設だった。招待所という名前は父から聞いて初めて知った。母に確認のため名前を尋ねても覚えていないという。校舎や軍隊の宿舎のようなところで、一部屋に大勢の人が寝泊りしていたという。父の説明では、人民解放軍で国民党と戦っている時、ある作戦が終了すると兵士が休養する施設に入った。戦闘中は休日なんてないので、終わってから、ゆっくり休暇が取れる。面白いことに、兵士が今の部隊を気に入らなければ、休養してから自分の行きたい部署を選べるというのだ。例えば飛行機乗りになりたいので空軍(当時人民解放軍は空軍がなかった)に行きたいとか、馬の輸送部隊に入りたいとか、希望しても定員が空いてなければいつまでも招待所でぶらぶらしている事ができる。もちろん能力や適性があり簡単ではないので、普通一ヶ月も休めば、妥協して適当なところに行くのだが、父が休養した招待所には1年も2年も理由をつけて遊んでいる剛の者がいたという。このことから招待所というのは、名前から想像される優雅ななゲストハウスではなく、簡易な木賃宿程度の公的団体宿泊所だといえる。

ボロをまとった貴公子
 その招待所で私達は船が出航するの待っていた。父は何もすることがなく、毎日港近くを散歩していたが、ある時街角で一人の日本人と出合った。
「その男はボロボロの薄汚れた服を着ていたが、貴公子!だった」
意味がよくわからなく私はもう一度聞き返した。
父は「貴公子」「貴公子」と真剣に同じ言葉を繰り返した。
「名前が鴻池と言ったので、財閥の御曹司かと思ったがあまりにも汚いカッコなので事情を聞くと、たった今刑務所から出てきたばかりだ」という。
「敗戦後、食い詰めて揚子江で海賊をやっていたところ公安に捕まり刑務所に入れられていた。帰国船が出るというので、出してくれた。お金も一銭もないので途方にくれていた。それで貴公子が乞食ではかわいそうなので、服を買うお金を30万エンぐらいあげた」
財閥の御曹司ではなかったが馬子にも衣装?、本物の貴公子のようになり、無事引揚げ船に乗ることが出来た。

 話を結婚式に戻すと父の席の隣が当時の兵庫二区選出の鴻池祥肇代議士(現参議院議員)だった。政治好きで町会議員などもしたことがある民宿の女将が鴻池議員の熱心な後援者で、結婚式に招待していた。
隣同士しばらく酒を酌み交わすうち、名前から昔の上海で、出会った貴公子を思い出した。同じ鴻池で、年齢が父より少し上で、ひょっとして関係あるのかと鴻池議員に尋ねた。海賊や刑務所の話をしたかどうか分からないが・・・
「戦前、鴻池議員の親父も中国にいたことがあり、そのころ日本に戻ってきたから間違いがないだろうといっていた」と父は確認するように2~3度うなずき、なつかしそうに微笑んだ。

死化粧

 母が5月23日、退院することになりひとまずホッとしている。1月、県病に入院して胃の手術したときはもうだめかと思ったが、2月から平成病院に転院して回復のためのリハビリを続けた結果、杖を使っての歩行ができるようになり、4ヶ月ぶりで家に帰れることになった。
最近は少し余裕が出てきたのか、「若いとき一度は死にかけた身やから・・・ようこの歳までいきてきたなあ」なんていいながら、ヒアルロン酸入りの化粧水をせっせと顔にすりこんでいる。「あのときは、死化粧までしてもらって」と昔の話をし始めた。

 

 昭和20年8月、敗戦後母はソ連の延吉収容所に入れられた。冬場に入り栄養不足と寒さで発疹チフスが蔓延した。毎日毎日何十人もの日本人捕虜が死んでいった。捕虜の身だった看護婦も総動員で患者の看護をしていたがついに母もかかり脳症をおこし二週間高熱にうなされ二日間意識不明におちいった。
「もう皆ダメと思って。こんな若いみそらで死んでかわいそうと思ったのか同僚の看護婦が死化粧をしてくれた」という。
私はそんな地獄の収容所で、化粧品などあるのが不思議で、尋ねると
「それが持ってたんよ、救護班一番の美人でおしゃれの娘が、エエモンみせたげようと目を覚ました私に手鏡をちかづけみせてくれた」と母はいいながら小さなコンパクトを顔に近づけ、またヒアルロン酸いりの化粧水を手に付けパタパタはじめた。

新京陸軍病院のパン

 この前、県病へ診察に行った帰り、母が「美味しいパンを食べたいわ」といったのでローソンに寄りパンを幾つか選んで、母に見せたのだが、気に入るものがない。家にいる時、母は朝パン食だったが味にはうるさかったので、コンビニでは気に入るパンはないだろうと思っていたが、やはりダメだった。
「もっと発酵しとらなあかん」とのたまう。うどんでもコシだけあってもダメで「発酵してない、味がない」とよくおっしゃる。ヨーロッパにいたわけでもないの、今年喜寿になるばあさんが、パンぐらいでなんで難しいかというと、原点は中国にあった。

 母は昭和19年2月従軍看護婦として旧満州帝国の首都新京(現長春)に着いた。当時内地では食糧事情がかなり悪くなっていて、みそ汁の具に芋のつるがよく入っていたという。それに比べ新京陸軍病院の食事はかなりよく、甘いものなんか看護学校ではめったに食べられなかったのに、汁粉とか羊羹がいつも食べられる。それでも、三食白米だったのがそのうち週に1~2回朝食に食パンが出るようになった。これを代用食と母はよくいっていた。代用食といっても首都の陸軍病院で一流の職人が造るのでとても美味しかったという。

 パンの量は看護婦も兵隊も同じ一斤配給された。パン屋さんで一袋4枚とか5枚とかに切って売っているが、あれだけいっぺんに食べられる人は現在あまりいないだろう。母は「女性は半分でも多いので他の看護婦も皆残した。寮に持って帰って油であげておやつにしたり、お汁粉と一緒に食べた」そうだ。軍隊というのは官僚制で決まった事はいくら不合理な事でも改まらない。ソ連が参戦して新京から脱出するまで、毎度律儀に一斤配給されたという。

留用された日本人「母の場合」12食べ物あれこれ

ロバの粉挽き

 母から聞いた中国体験は生活全般で中でも食べ物の話しが一番多い。豆腐屋さんにいくと、大豆を石臼でロバがひいていた。

Memo0037 これは小麦粉の工場のようです。

 「作りたての豆腐の美味しい事」「絞りたての豆乳も最高よ」「腐り豆腐があればご飯が何杯でも食べられる」

Memo0039 なぜか?ハリボテのろば。

 「中国で塩は山の中にある。場所は忘れたが岩塩をとりに行った事がある。味が全然違う」「敗戦後ピョンヤンまで逃げてきた時、朝鮮人の家庭で食べた朝鮮漬(キムチ)美味しかったわ。軒先に1年分の白菜漬けをしこんだカメが埋めてあった。それだけでご飯がなんぼでもおかわりできる」

 国共内戦の時代である。戦争をやっているとは思われないような話だったが、食べ物自体は取り立てて贅沢なものではない。ごくありふれた、現代日本でも普通に食べているものである。毒入り餃子事件で中国製の食品は一挙に評判を落としてしまったが、昔母が話していた中国の食べ物から危ない事は想像することができない。(今は放射能汚染で日本が一番危険になってしまった)

 冷凍食品もなく缶詰(高級品)もなく、食事はたべるときに手間をかけて作るのが常識である。国共内戦で行軍中は大きな鍋や食器を持ち歩き農家でかまどやコンロを借り、豆炭で火をおこし食事を作る。

 軍隊では戦争をしているので、とうぜん遅れて食べに来る者もいるが、なんぼ遅くなっても炊事係は残り物なんか出さず一から暖かい食事を作っていたという。

 「食事だけは腹いっぱい食べさせてくれたわ」内戦中は母にとって、食べる事が唯一の楽しみであったようだ。

留用された日本人「母の場合」11

日本軍細菌戦の傷跡

 

 この前、昼食を母と一緒に食べていたとき、テレビのニュースがハイチでコレラが流行っていることを伝えていた。これまでハイチではコレラがはやった事が無いので、国連PKO部隊から持ち込まれたとハイチの人々が思い暴動に発展しているとのこと。

 

 母はテレビを見ながら「中国でもようけ細菌ばらまかれてなあ」と言った。私は何のことかと聞き返した「新京にも細菌部隊があって」ええ!私は初めて聞く話に箸をとめた。これまで母はそんな話をしたことがなかった。昔私が「731部隊」の事を聞いたときも全然知らないと言っていた。

 

 父は関東軍防疫給水部(731部隊)のことは、開拓団にいたときから知っていた。黒河の特務機関の手先みたいな事をしていたので中国人の友達も大勢いて彼らから聞いていたという。

 

 母が新京(長春)の陸軍病院にいたとき、「郊外になんとか給水部という部隊があった」という、その時は、細菌部隊とは知らなかったが、戦後留用され、衛生部隊の手術隊で中国各地を行軍していたときに、ある部落が焼け野原になっているのを見た。付近の人に聞くと日本軍の撒いた細菌でコレラが流行して、家を焼いたという。「その時はわからなかったが、後から思えばなんとか給水部というのは細菌部隊だったのかもしれない」と母は思っている。

 

 日本軍が戦争中に撒いた細菌によって戦後も被害が続いていたことは、父も目撃していた。国民党の空爆を避けるため人民解放軍の部隊は大抵夜間に行軍をする。父の部隊が内蒙古を進軍していたとき、行く手のある部落が真っ赤に燃えていた。この時はペストの流行だった。「ペストはインドの南部など熱帯地方で流行る病気のはずなのに、こんな北方で流行するのはおかしい」と父は思ったそうだ。

 

 母にこれまで細菌部隊の事を聞いても全く知らないと言っていたので、今回の発言は意外だった。記憶と言うのは不思議なもので、こちらが聞きたいときには、思い出せないのに何かの拍子にふっと出てくる。

 

 新京には関東軍軍馬防疫廠「100部隊」があった。炭素病原菌の研究をおこない、敵の軍馬や家畜を駆逐する部隊だったが、父はこの部隊にいた医者に獣医学の講習を受けた事があるという。

 

 母の言う「なんとか給水部隊」が「100部隊」と関係があるのかどうかわからない。しかし日本の細菌部隊は、満州の731部隊や新京の100部隊だけではなく、中国、東南アジアをふくめて、かなり大掛かりな組織であったみたいだ。前に買った「中国侵略と731部隊の細菌戦」森正孝・糟川良谷編をあらためて読み返している。

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