私の中の中国

70年前からの年賀状5石井妙子さん

懐メロ大全集のゲスト

懐メロ大全集のゲストにノンフィクション作家の石井妙子さんがリモートで話されていた。彼女の本はまだ買って読んだことはなかったが、「女帝小池百合子」の本が出版される前、雑誌で彼女の文章を読んでいたことをすぐ思い出した。

もともと私は小池氏が日本新党から次々政党を渡り歩きマスメディアを手なずけるようにして時代の寵児になっていく様を、うさん臭く感じていた。学歴詐称問題はきっかけで小池氏を告発するというより、むしろ彼女のような政治の素人をイメージだけで、都知事に押し上げる批判力のないマスコミや日本社会を問題にしている。

彼女の筆致はリアルでわかりやすく鋭い。取材や、多くの資料を読み込んだ事実の積み重ねは読者を引き付ける、私も一気に読みました。取材中様々な圧力があったようで、ある大手の新聞記者から「やめたほうが身のためだ」と忠告された。彼女は「あなたたちの仕事じゃないの」と笑い飛ばす。ラジオから聞こえる優しい物言いとは逆にすごく芯の強い、「外柔内剛」の人のように思いました。

石井さんが言ったことで印象深いのは、近頃本屋に行くと近隣諸国の批判をしたものが山と積まれている(批判というより中傷だと私は思いますが)。控えめに彼女は言っているのだがこれは読者が求めるから次つぎだされるのですと。出版社も商売だから読者が低俗な本を求めれば出版社も答える。「読者よもっとしっかり本を選ぶ力を養ってくれ」と私は解釈しました。

次の著作を考えていますかとの梅津氏の問いに「満州」をテーマに考えていますと石井さん。

石井さんの年齢は50過ぎですか、彼女の親は70代半ばとすると満州を「経験」した人は彼女から見れば祖父母の年代。どんな「満州」の本を書くのか楽しみですね。

私はいろいろの満州を題材にした本を読んできましたが、感銘を受けたことはほとんどありません。それらはあまりにもノスタルジアに満ちている。もう一つの問題はソ連からいかにひどい目にあわされたかということが延々と描かれている。99%は自分たちは被害者であるというような本ばかり。私たちは加害者なのにあまりにもバランスが悪い。

満州には3千万から4千万の当時、「満人」と呼ばれた中国人が住んでいた。彼らから見ればソ連軍は解放者です。残虐非道な関東軍を追い出してくれたのです。

母の寝言

私の両親は青春期どちらも、戦争と革命の時代を満州で過ごしました。日本の敗戦でどちらもソ連軍の捕虜となり、父は脱走に成功しましたが、母は延吉収容所で地獄のような生活をします。

その母は寝ているときよく寝言を言うのです。寝言というより「ああ~」とか「うう~ん」とか苦しそうにあえぐのです。このことを気づいたのは私が小学5年ぐらいだった。いつもいつも、同じ寝言で私は母に尋ねました。でも母は黙りこくって何も話してくれません。私は初めて母の闇を見たようで、その時以来、母の寝言は知らないふりをした。

時がすぎ、おばあちゃん子の私の次女が小学4年生の時、言うのです。「おばあちゃん寝ているといつも苦しそうに寝言を言っている。戦争関係あるの?」私は暗然とした。まだ苦しんでいる。

母は80歳を過ぎ大腿骨骨折を2回した。胃がんの手術もした。私はそのたび、付き添いに病院へ行く。ベッドの横で母のいつもの寝言を聞く。もう何十年になるだろうか。敗戦は母が21歳の夏。

今年、母が亡くなって10年、あの世でもまだ寝言を言っているのだろうか。死ぬまで苦しい思いをしてきた母をいま想う。

 

 

 

 

70年前からの年賀状4「日曜懐メロ大全集」

日曜懐メロ大全集

今日四国放送ラジオの日曜懐メロを聞いていたら、私が出した年賀状が読まれていました、アシスタントの岡田さんが、年賀状の文面の説明で70年前に実際に出したのを私がコピーして転載したと思ったみたいですね。間違ってたら「ごめんなさい」ともおっしゃっていましたが、先にも書いたように、お正月なのでお遊びに書きましたゴメンナサイ。でも1953年1月から3月まで日本赤十字の島津忠承を団長とする民間3団体が訪中して引き揚げ事業の再開に合意した後、日中間の文通が許されるようになり、父に尼崎に嫁いでいた伯母から手紙がきた。写真の裏の日付1953年4月となっているのでこの写真が淡路島の祖父に送られる可能性もあった。

私が子供のころの写真は幼児期に5枚小学校時代を入れても10数枚で、小さいころは数少ない写真を穴のあくほどよく見た、そのころ気が付かなかったが、三人で写したこのときの父は驚くほど穏やかな表情をしている。こんな顔の父の写真はあまりない、15年にわたる戦争が終わり祖国に帰れる安堵の顔だ。

 

 

 

70年前からの年賀状2

70年前の年賀状?

70年前からの年賀状が、わりと多くの反響があり、なかには「70年前」の年賀状ですか・・・と、マサカと思ったのですが、額面通り受け取られたのかもしれないご返事をいただき、にんまりした、うれしい、変な気分です。

私としては「バックフューチャー」のノリでかきました。写真の白枠には「国際開封行営角」と刻印しています。行営というのは軍隊の駐屯地らしく、読み取りにくいので間違っているかもしれないが角の文字は土の部分の縦棒がつきぬけているようで、意味がよくわからない。

開封は古代中国より首都として栄えた大きな町で、両親が結婚した鄭州とも近く、遊びに出かけたときに軍隊の関連施設で撮影したのかもしれません。

朝鮮戦争

私が生まれたころ、両親は新婚さんで平和で穏やかな暮らしをしていたと思われますが、朝鮮戦争は一進一退の攻防が繰り広げられていました。前にも書いたことがありますが、朝鮮戦争の初期に父は輜重部隊の一員で、朝鮮の地を踏んでいるのです。なぜこんことになったかというと、父は志願していったわけではなく、どうも紛れ込んでしまったみたいです。外見は日本人も中国人も朝鮮人もそう変わりがなく、言葉もペラペラですので、第四野戦軍の「輜重部隊の志願兵(朝鮮人が多かった)に紛れ込んだとしか言いようがない」と父も晩年回想していました。

行ってすぐ日本人と分かり中国に返され、とくに大きな出来事は覚えていないようですが、捕虜のアメリカ兵を連れて帰ったそうです。朝鮮戦争では日本は兵站基地となり、掃海艇もだし、戦死者もだし、実質的に参戦しています。これは記録には残っていないか、隠しているのかよくわからないけど、日本軍の旧参謀たちは米軍の作戦に関与していると思われます。

日本は敗戦まで朝鮮を36年間支配していました。従って朝鮮半島の地形、地理、気象などの情報を劣勢だった米軍は喉から手が出るほど欲しかったでしょう。戦争で米軍は北朝鮮を細菌攻撃して抗議されています。これは731部隊の研究成果を試したということでしょう。

 

 

70年前からの年賀状

 新年好

小生1月3日で古希を迎えます。今朝、父が70年前家族にあてた年賀が届きました。父は1938年6月満蒙開拓青少年義勇軍に志願して現在の中国東北・黒竜江省に着きました。以来徴兵検査や鼻の手術などで2度帰国しましたが、敗戦後、消息不明、心配する家族にあてたものです。

郷国平様

「中国では戦乱が収まり、建設の槌音が聞こえてきます。でも朝鮮ではまだ戦争は続いています。最近和平の機運もあり、停戦の話し合いも進んでいるようです。中国の人たちは親切で楽しくやっています。私たちは結婚しました、妻は熊本産の別嬪です。かわいい子供も生まれました。父上様や兄弟は元気にやっていますか。平和になれば来年は帰国できそうです。それまで今しばらくお待ちください

郷敏樹拝 

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皆様のご多幸を祈っています。  2022年元旦

今年の初夢

日本の国宝級映画監督・山田洋次が中国を訪問し学生と交流

1月4日の人民網に山田洋次監督が中国を訪問、北京電影学院の学生と交流した記事が載っている。山田監督は満鉄技術者だった父のもとで少年時代を中国で過ごしている。1947年に日本に引き揚げたそうだが恐らく国共内戦が激しくなる直前の引き上げだと思われる。私の父はその時期日本に帰る直前にある人の身代わりになり、中国に残留することになる。父が帰国できたのは、それから6年後、1953年8月、家族4人で舞鶴に帰還した。

生前父は、わしの半生は小説が何十も書けるほど波乱万丈だったと言っていた。昭和13年7月14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して以来八路軍と戦い、関東軍ではソ連軍の対戦車の特攻要員となるも生き残り、シベリア抑留を途中脱走して逃れ、中国の新生人民解放軍では国共内戦を戦い抜く。最後は朝鮮戦争にも従軍した父の半生は確かに掛け値なしに波乱万丈そのものだった。来年1月は父の13回忌にあたります。ぜひそれまで「父の15年戦争・戦後編」を書きあげます。

そこで、山田洋次監督とスタッフの皆さん。もしこの拙ブログがお目に留まれば映画化をお考え下さい。きっと面白い映画が作れますよ。切にお願い申し上げます。

朝鮮漬(2)

平壌仕込み

キムチとかギョーザは、もはや日本の食べ物といってもいいくらい、ポピュラーな存在ですが、昭和30年代の私が住む淡路島では全く知られていなくて、市販品は都会でも大阪の鶴橋や神戸の南京街あたりしかなかったのではないだろうか。当時キムチなんて言葉もしらなかった。父や母はたんに朝鮮漬と呼んでいた。

朝鮮漬の作り方を母が覚えたのは朝鮮の平壌だった。母の手記(おばあちゃんが孫に伝える戦争の話)を読むと、ソ連参戦後、新京陸軍病院から吉林の分室に移動したとき終戦になり、母たちは列車で満州を脱出し南下した。朝鮮の平壌まで来るとソ連軍に足止めされた。そのあと2か月ぐらい平壌にいたようで、医療活動をしながらも、時間的には余裕があったようで、奉仕活動をしていたという。奉仕活動の意味が分からなかったので、改めて母にこのことを聞いたところ、

「当初することがなくぶらぶらしていたのだが、近くにある部落の人たちは日本軍に徴兵されたり、強制的に徴用され日本本土に男手をとられた家族が少なくなかった。それで農家へ手伝いに行こうということになった。農家の人たちは親切で、「看護婦さんがそんな慣れないことをしなくてもいいということで、反対に食事などご馳走になったが、漬物が日本で食べたことのない白菜漬けでとてもおいしかった。ご飯が何杯もすすむ。」

父は満州の餃子館の水餃子を食べ歩いているので味付けは父が主導した。しかし母の朝鮮漬は本場平壌仕込みで、父の干渉は許さない。「確か昆布を刻んで、サバも入っていたなあ、それからう~ん・・・リンゴリンゴ。リンゴをおろしたのをまぜてと・・・」

母は昔の平壌で教わったやり方を思い出しながら我が家の朝鮮漬を完成した。今のキムチと比べるとそんなに辛くなく、こどもの私でも食べられた。まろやかで、ちょっと甘みがあって上品なリンゴの甘い香りが感じられ、にんにくと唐辛子に違和感なく溶けこんでいた。

朝鮮漬(1)

料理コンプレックス

前回母が料理にコンプレックスを持っていたと書いたが、こんなことがあった。小学校の遠足の時、母はお弁当を作るのに悩んでいた。当時の同級生はほとんど巻き寿司を遠足の弁当に持ってきていた。いなかでは祭りなどハレの日のごちそうは断然巻き寿司だった。美味しい巻き寿司を作るのは農家の嫁の必修科目であったといえる。

母は巻き寿司を巻けなかった。さすがにこの時は「九州では巻き寿司なんかたべない!」とは言わなかったが。

「巻き寿司はよう巻けんけど、何がいい、稲荷はできるよ」と聞かれた。私はおにぎりがいいと答えた。別に母に気をつかって言ったわけではなく、巻き寿司はそんなに好きではなく、真っ白なおにぎりに卵焼きというのが、私の一番の弁当だったのだ。

当時うちのごはんには麦が混ざっていて、弁当箱には白いご飯の中にポツポツ黒い筋の入った麦飯が混ざっていた。同級生でこんな弁当を持ってきているのは一人もいない。これが嫌で嫌で毎朝母親に「下の白いご飯だけ入れてよ」と頼んでいた。麦は米より比重が高いので炊くと上に集中するそれで釜の下部分は比較的コメの白いご飯ばかりになっていた。

巻き寿司はまけない母ではあったが、農家の嫁には絶対負けない漬け物をつけることができた。それが朝鮮漬である。

続く

お正月と餃子

長い間休止して、文章を書くことは無縁な生活で、おつむの中とキーボードがさびついてしまい調子が出るまで思いついたことを書きます。

私が幼少の頃、うちの正月料理はお雑煮とお煮しめぐらいしかありませんでした。母は料理にコンプレックスを持っていて「私は学校を出るとすぐ従軍看護婦で戦争に行き、料理の仕方をおばあちゃんにおしえてもらってないんよ」とよく愚痴をこぼしていた。

私は少年クラブ正月特大号で得たばかりの知識で、「お正月には数の子や栗きんとんを作るらしいよ」と指摘すると「数の子なんて美味しくないわ。それに九州(母の実家)ではそんなん食べる習慣ないわ」と一蹴された。数の子がその頃高価な食品だと知ったのはもう少し大きくなってからで、マズイのならシャアないなと思いながらも、黒豆やたつくりは裕福でない親戚でも作っていたの、なぜうちはしないのか納得いかなかった。

ある年の正月、父が豚のもも肉を仕入れてきて、「餃子を作る」と言い出した。中国では正月や、お祝い事があるときはみんなで餃子を作って食べるという。父は人民解放軍の部隊で覚えたという。母は、もちろんおてのもんだ。

私の役は豚肉と白菜、ネギをみじん切りにして、それをさらに出刃包丁でトントンたたき、ぐちゃぐちゃにする。母は小麦粉を練り料理棒でフライパンぐらいの大きさに薄く伸ばし、それを巻き、棒状にする。それを手でちぎって平たく伸ばし包み皮を作るのだ。皮の厚さは現代の焼き餃子(日本独特)より厚めで食べたときの触感がよい。具の味つけは、父と母がああだこうだと言いながら議論して調合した。具を皮に包み、もむのは妹も参加して家族4人でやる。これがむつかしくて、かっこよくもめない。母はスイスイ、私はギブアップ。結局母が一人でほとんどもんでしまう。

水餃子は大きな鍋にお湯をたっぷり入れ沸騰させ、ゆでる。まず5~6個放り込む。ゆであがると餃子は上昇するので、それが出来上がりの合図だ。タレは酢醤油であっさりしていて何個でも食べられる。母がいた部隊では、よく食べる兵隊は50個ぐらいぺろりと食べたという。

「餃子に使う肉は赤身でモモ肉が一番、野菜は白菜とねぎ、南方へ行くとにらと卵を具にするんよ」4人家族で食べながら言っていた母の蘊蓄が今でも耳に残っている。

私の中の中国11.洗脳

歴史の授業 
 私が中学2年のとき、3月の終業式まえになっても歴史の授業が江戸時代の終わり頃までしか進まず、追加の授業を道徳の時間にすることになり、急遽教頭の馬渕先生が教える事になった。この時、2回の授業で江戸時代の終わりごろから戦後の米ソ冷戦時代まですっ飛ばしたが、後の1時間の終わりのほうで、東西冷戦とか社会主義陣営の情報統制を習った。ソ連は鉄のカーテンで中共は竹のカーテンだと説明され、そのあと「戦後中共から引き揚げてきた人間は洗脳されて共産主義者になったと言う人もいる」とはっきり断定しないで、馬渕先生は「言う人もいる」といったように記憶している。このあたりはちょっとズルイ気がして、私はこのとき自分の家族が名指しされたような気分になり、恐らく先生は私の一家が中国からの引揚げ者だと知らなかったとは思うが、かなりのショックを受けた。洗脳というおどろおどろしい、言葉を初めて知ったが、以来この言葉は私の心の中でことあるたびマグマのようにブツブツ噴出する。

 父に洗脳されたのかなんて子供の私は聞けなかった。いつか聞いてやろうかと思ってはいたが、是が非でもというほどでもなく、ずるずると時がたち、結局尋ねたのが亡くなる半年前であった。
父は「わしは解放軍の中で、同僚とは仲良くやっていたが、上のほうの人間からは最後まで信用されてなかったなあ、そういえば帰る直前にこんな事があった・・・」と話し始めた。

再開された集団引揚げ
 
戦後の中国残留日本人の帰国は国共内戦の進展により中断されていたが、新中国成立後の1950年夏ごろジュネーブで日本赤十字社代表と中国紅十字会代表が接触する機会があった。日本政府は米国に気を使って積極的な動きをしない中、1952年4月から7月にかけて戦後政治家として初めてソ連と中国を訪問した帆足計、高良とみ、宮腰喜助の三人が中国残留日本人の帰国促進を中国政府に要請した事からようやく引揚げ問題が動き出した。1952年10月1日人民日報に「残留日本人の帰国を援助する方針についての政府声明」が掲載された。
1111  1953年1月26日羽田空港で見送りを受ける訪問団。タラップ2段目が日赤社長、島津忠承。 「時事世界」1953年3月号より
翌1953年1月から3月まで中国紅十字会と日本赤十字社島津忠承を団長とする民間三団体の訪問団が北京で会談して中国に残留している日本人の 帰還問題が話し合われ、引揚げ事業を再開することで合意がなされた。

 その頃中国河南省信陽の牧場に居た私達家族のもとに一通の手紙が送られてきた。父の一歳上の尼崎に嫁いでいた伯母からであった。中国政府の日本人残留者名簿が日本政府に送られ私たちの住所がわかったとのことだった。
1111_1 右側、信陽で獣医をしていた1953年頃の父、隣は日本人助手
その前、父の実家の近所に住む小学生がラジオの安否放送を聞いていた。「たまたま敏樹さんの名前が放送されるのを聞き急いで丸山のおじいちゃん(祖父)に知らせたら誉めてくれた」と54年後、当時小学生だった前川武章氏に私は直接聞く機会があった。それまで中国で行方不明だった父の安否が分かり家族は役場に連絡を取った。
帰国するまで何回か伯母と父との間に手紙のやり取りがあり家族の近況や故郷・淡路島の様子がしだいにわかってきた。父は8人兄弟の次男で5番目に生まれたが、伯母の手紙に実家のあとを継いでいた長男の伯父が亡くなったことが記されていてショックだったと後年よく言っていた。
帰国前の取調べ
 7月の終わりごろ出発の時が来た。母の話によると信陽から武昌まで鉄道で行き、そこから揚子江対岸の漢口に渡り大型汽船で上海まで河を下ったという。
私たちは汽車に乗ったが、方向が目的地と逆の方向に走り始めたのに父はすぐに気が付いた。一駅目か二駅目ぐらいにおろされ、父だけが別室で取り調べを受けた。このことは私も初めて聞く話で、母に聞いても覚えていないという。
 どんな取調べを受けたのか、父の話ではこうだ。
「終戦後、ハルピンで暴動があったが、そのときの首謀者の疑いでしらべられた。」
 事実はどうだったのか、関係していたのか。
「全然知らない話だ、全く関係が無い」
 中国で終戦直後に日本人が関わった暴動では通化事件が有名であるがそのほかにも大小、さまざまな日本人が起こした事件があったようだ。
父が取調べを受けたのは、理由があり、右翼の活動家だった事がその一因でまた特務機関の手先をやっていた事も知られたようだ。
「八路軍の特務は優秀で何から何まで調べられていた。君には軍閥の親戚があるとも言われた。軍閥とは樋口の伯父さんのことだ」
 親族関係もきっちり調べられており、父の伯父にあたる樋口季一郎は陸軍中将のエリート軍人で軍閥の一員であり、父はその郎党であるという事だ。どのくらいの時間調べられたのか父も記憶が定かではなかったが、その日一日で疑いが晴れたようだ。
話を洗脳にもどすと、父がいうには、八路軍の規律「三大規律八項注意」は徹底して教えられたが、思想的なことは全く問われなかったとのこと。
「第一、戦争をしているのにそんな暇はなかった。わしも仕事(獣医)は一生懸命やった。「大功」という日本で言えば「金鵄勲章」のようなものを2度もらった。仕事については幹部も評価してくれたが、思想的には皇国史観に凝り固まっていたので、向こうもお手上げだったのではないだろうか、よくもまあ!わしのようなじゃじゃ馬を使ったものだハッハッハッハ」
父は愉快そうに笑った。

円と元

Photo
気前のよい父 
 前回「揚子江の海賊」の中で鴻池議員の父親に服を買うお金を30万エンあげたと書いたが、これは日本円ではなく中国通貨の人民元である。日本語の発音ではゲンだが中国語の発音ではユエンになる。ここが誤解されやすいところで、日本人が聞くとエンもユエンも同じように聞こえる。父は中国から引揚げて何十年もたち、円も元もごっちゃになっていたのだ。

 引揚者の体験談で、エンとユエンが間違いやすい事に気がついたのは、昨年母と上海で引揚げ船に乗った話をしている時だった。
父は上海で知り合った引揚者がお金に困っていると、気前よく何十万もあげていたみたいで、父自身も生前「湯浅というバッテリーの会社をやっている人にも何十万エンあげた」とか鴻池議員の父親の他何人もの名前を出していたからだ。母の記憶では「赤ん坊を背負った顔色の悪い病弱な女の人にもあげてたみたいだ」と言う。
母にその時いくらぐらい持っていたのか聞くと「一人500万エンぐらいで二人で1000万エン持っていた」という。「エッ!大金持ちだったのだ」と私は驚くと母は1000万元(ユエン)やと訂正した。私の両親と同じ経験を持つ古山秀男の下記の証言でも帰国時に数百万円支給されている。この本が発行された1974年を比較しても建国当初の中国はかなりのインフレで、元の値打ちが低かった。

保定の近くの農村で、一ヵ月近くも帰国準備のため滞在したが、このときの中国側の接待ぶりは最高のものだった。今までだと、祝祭日などにしか食べられないようなご馳走を毎日ふるまってくれた。建国まもない、しかも朝鮮戦争で莫大な負担を強いられて、中国人民全体が経済的にまだ非常に困難な時期においてである、加えて、解放軍従軍期間に比例した退職金と帰国援助金など数百万元(一万元が現行人民幣の一元にあたる)が支給された。
1974年発行 古山秀男著 「一日本人の八路軍従軍物語」より

 私が子供の頃、母は中国では給料がよかったと自慢していた。
父(獣医)と母(看護士)は技術者で一般の兵士より、よい給料をもらっていたみたいだ。日本人だからよかったのではなく、中国人も日本人も平等だった。正確には忘れたが、十万の単位だったのは覚えている。昭和30年代の中ごろだと役場の職員でも何千円だったのでビックリした。もちろん私は為替の知識なんかまったくないころで、両親も子供に説明するのは面倒だったのかそれ以上話さない。そんなわけで父はお金に関しては一生縁が無かったが、帰国前のこの時期が例外的に金持ちだった。
それでは日本に帰った時どの位の為替レートで円に交換できたのだろうか。
Memo0086
 昭和28年の北京の食堂のメニューから計算すると1円が66.5元でかなり円高になる。そのころ日本と中共政権は敵対していたので、無制限に交換できたかどうかはよく分からないが、全部円に交換できたとしたら、帰国後の生活の足しにはなったはずだが、そのあたり母も記憶が定かではない。

貧乏人は芋を食う
 幼い私は両親が中国でのよい給料を棒に振って日本に帰ってきたのが納得いかなかった。当時家は貧乏(今も!)で本家の離れの六畳一間に長い間住んでいたが、こんな事があった。
ある年の9月ごろ米がなくなり、お金も底をついた。そのころ養鶏をしていて、さつま芋を刻んで鶏のえさにしていた。父は楽天的でしかも能天気な男だったので意に介せず、祖父から一反の食い扶持を与えられていた事もあって「もうじき稲刈りやし、いもでも食べよか、量はたっぷりある」という。 確かにたっぷりあった。10貫目入り(約40キロ)ぐらいの南京袋が五つか六つあった。それからは毎日毎日三度三度さつま芋をたべだした。七輪で焼いたり。ゆでたり、焼き芋にしたり、天ぷらにしたりで最初の頃は嬉しかった。それまで倉庫にあるさつま芋を食べたかったのだが、卵を産んでいただく大切な鶏にやるえさで禁止されていたのだ。それが突然解禁になったので「ヤッタ!」と思った。
しかし料理を工夫しても3日目ぐらいになると飽きてきて、食が進まなくなる。1ヵ月ぐらい食べていた記憶があるが、数年前母にそんな昔話をしたら「1週間ぐらいだろう」という「飽きてしまったので本家に米を借りたのではないか」と他人事のようにのたまう。昭和30年代前半は岸信介首相の時代で池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」といったのはもう少し後だったが、我が家はその言葉を先取りして芋を食っていた。それ以来私はさつま芋が苦手になった。
 

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