私の中の中国

今年の初夢

日本の国宝級映画監督・山田洋次が中国を訪問し学生と交流

1月4日の人民網に山田洋次監督が中国を訪問、北京電影学院の学生と交流した記事が載っている。山田監督は満鉄技術者だった父のもとで少年時代を中国で過ごしている。1947年に日本に引き揚げたそうだが恐らく国共内戦が激しくなる直前の引き上げだと思われる。私の父はその時期日本に帰る直前にある人の身代わりになり、中国に残留することになる。父が帰国できたのは、それから6年後、1953年8月、家族4人で舞鶴に帰還した。

生前父は、わしの半生は小説が何十も書けるほど波乱万丈だったと言っていた。昭和13年7月14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して以来八路軍と戦い、関東軍ではソ連軍の対戦車の特攻要員となるも生き残り、シベリア抑留を途中脱走して逃れ、中国の新生人民解放軍では国共内戦を戦い抜く。最後は朝鮮戦争にも従軍した父の半生は確かに掛け値なしに波乱万丈そのものだった。来年1月は父の13回忌にあたります。ぜひそれまで「父の15年戦争・戦後編」を書きあげます。

そこで、山田洋次監督とスタッフの皆さん。もしこの拙ブログがお目に留まれば映画化をお考え下さい。きっと面白い映画が作れますよ。切にお願い申し上げます。

朝鮮漬(2)

平壌仕込み

キムチとかギョーザは、もはや日本の食べ物といってもいいくらい、ポピュラーな存在ですが、昭和30年代の私が住む淡路島では全く知られていなくて、市販品は都会でも大阪の鶴橋や神戸の南京街あたりしかなかったのではないだろうか。当時キムチなんて言葉もしらなかった。父や母はたんに朝鮮漬と呼んでいた。

朝鮮漬の作り方を母が覚えたのは朝鮮の平壌だった。母の手記(おばあちゃんが孫に伝える戦争の話)を読むと、ソ連参戦後、新京陸軍病院から吉林の分室に移動したとき終戦になり、母たちは列車で満州を脱出し南下した。朝鮮の平壌まで来るとソ連軍に足止めされた。そのあと2か月ぐらい平壌にいたようで、医療活動をしながらも、時間的には余裕があったようで、奉仕活動をしていたという。奉仕活動の意味が分からなかったので、改めて母にこのことを聞いたところ、

「当初することがなくぶらぶらしていたのだが、近くにある部落の人たちは日本軍に徴兵されたり、強制的に徴用され日本本土に男手をとられた家族が少なくなかった。それで農家へ手伝いに行こうということになった。農家の人たちは親切で、「看護婦さんがそんな慣れないことをしなくてもいいということで、反対に食事などご馳走になったが、漬物が日本で食べたことのない白菜漬けでとてもおいしかった。ご飯が何杯もすすむ。」

父は満州の餃子館の水餃子を食べ歩いているので味付けは父が主導した。しかし母の朝鮮漬は本場平壌仕込みで、父の干渉は許さない。「確か昆布を刻んで、サバも入っていたなあ、それからう~ん・・・リンゴリンゴ。リンゴをおろしたのをまぜてと・・・」

母は昔の平壌で教わったやり方を思い出しながら我が家の朝鮮漬を完成した。今のキムチと比べるとそんなに辛くなく、こどもの私でも食べられた。まろやかで、ちょっと甘みがあって上品なリンゴの甘い香りが感じられ、にんにくと唐辛子に違和感なく溶けこんでいた。

朝鮮漬(1)

料理コンプレックス

前回母が料理にコンプレックスを持っていたと書いたが、こんなことがあった。小学校の遠足の時、母はお弁当を作るのに悩んでいた。当時の同級生はほとんど巻き寿司を遠足の弁当に持ってきていた。いなかでは祭りなどハレの日のごちそうは断然巻き寿司だった。美味しい巻き寿司を作るのは農家の嫁の必修科目であったといえる。

母は巻き寿司を巻けなかった。さすがにこの時は「九州では巻き寿司なんかたべない!」とは言わなかったが。

「巻き寿司はよう巻けんけど、何がいい、稲荷はできるよ」と聞かれた。私はおにぎりがいいと答えた。別に母に気をつかって言ったわけではなく、巻き寿司はそんなに好きではなく、真っ白なおにぎりに卵焼きというのが、私の一番の弁当だったのだ。

当時うちのごはんには麦が混ざっていて、弁当箱には白いご飯の中にポツポツ黒い筋の入った麦飯が混ざっていた。同級生でこんな弁当を持ってきているのは一人もいない。これが嫌で嫌で毎朝母親に「下の白いご飯だけ入れてよ」と頼んでいた。麦は米より比重が高いので炊くと上に集中するそれで釜の下部分は比較的コメの白いご飯ばかりになっていた。

巻き寿司はまけない母ではあったが、農家の嫁には絶対負けない漬け物をつけることができた。それが朝鮮漬である。

続く

お正月と餃子

長い間休止して、文章を書くことは無縁な生活で、おつむの中とキーボードがさびついてしまい調子が出るまで思いついたことを書きます。

私が幼少の頃、うちの正月料理はお雑煮とお煮しめぐらいしかありませんでした。母は料理にコンプレックスを持っていて「私は学校を出るとすぐ従軍看護婦で戦争に行き、料理の仕方をおばあちゃんにおしえてもらってないんよ」とよく愚痴をこぼしていた。

私は少年クラブ正月特大号で得たばかりの知識で、「お正月には数の子や栗きんとんを作るらしいよ」と指摘すると「数の子なんて美味しくないわ。それに九州(母の実家)ではそんなん食べる習慣ないわ」と一蹴された。数の子がその頃高価な食品だと知ったのはもう少し大きくなってからで、マズイのならシャアないなと思いながらも、黒豆やたつくりは裕福でない親戚でも作っていたの、なぜうちはしないのか納得いかなかった。

ある年の正月、父が豚のもも肉を仕入れてきて、「餃子を作る」と言い出した。中国では正月や、お祝い事があるときはみんなで餃子を作って食べるという。父は人民解放軍の部隊で覚えたという。母は、もちろんおてのもんだ。

私の役は豚肉と白菜、ネギをみじん切りにして、それをさらに出刃包丁でトントンたたき、ぐちゃぐちゃにする。母は小麦粉を練り料理棒でフライパンぐらいの大きさに薄く伸ばし、それを巻き、棒状にする。それを手でちぎって平たく伸ばし包み皮を作るのだ。皮の厚さは現代の焼き餃子(日本独特)より厚めで食べたときの触感がよい。具の味つけは、父と母がああだこうだと言いながら議論して調合した。具を皮に包み、もむのは妹も参加して家族4人でやる。これがむつかしくて、かっこよくもめない。母はスイスイ、私はギブアップ。結局母が一人でほとんどもんでしまう。

水餃子は大きな鍋にお湯をたっぷり入れ沸騰させ、ゆでる。まず5~6個放り込む。ゆであがると餃子は上昇するので、それが出来上がりの合図だ。タレは酢醤油であっさりしていて何個でも食べられる。母がいた部隊では、よく食べる兵隊は50個ぐらいぺろりと食べたという。

「餃子に使う肉は赤身でモモ肉が一番、野菜は白菜とねぎ、南方へ行くとにらと卵を具にするんよ」4人家族で食べながら言っていた母の蘊蓄が今でも耳に残っている。

私の中の中国11.洗脳

歴史の授業 
 私が中学2年のとき、3月の終業式まえになっても歴史の授業が江戸時代の終わり頃までしか進まず、追加の授業を道徳の時間にすることになり、急遽教頭の馬渕先生が教える事になった。この時、2回の授業で江戸時代の終わりごろから戦後の米ソ冷戦時代まですっ飛ばしたが、後の1時間の終わりのほうで、東西冷戦とか社会主義陣営の情報統制を習った。ソ連は鉄のカーテンで中共は竹のカーテンだと説明され、そのあと「戦後中共から引き揚げてきた人間は洗脳されて共産主義者になったと言う人もいる」とはっきり断定しないで、馬渕先生は「言う人もいる」といったように記憶している。このあたりはちょっとズルイ気がして、私はこのとき自分の家族が名指しされたような気分になり、恐らく先生は私の一家が中国からの引揚げ者だと知らなかったとは思うが、かなりのショックを受けた。洗脳というおどろおどろしい、言葉を初めて知ったが、以来この言葉は私の心の中でことあるたびマグマのようにブツブツ噴出する。

 父に洗脳されたのかなんて子供の私は聞けなかった。いつか聞いてやろうかと思ってはいたが、是が非でもというほどでもなく、ずるずると時がたち、結局尋ねたのが亡くなる半年前であった。
父は「わしは解放軍の中で、同僚とは仲良くやっていたが、上のほうの人間からは最後まで信用されてなかったなあ、そういえば帰る直前にこんな事があった・・・」と話し始めた。

再開された集団引揚げ
 
戦後の中国残留日本人の帰国は国共内戦の進展により中断されていたが、新中国成立後の1950年夏ごろジュネーブで日本赤十字社代表と中国紅十字会代表が接触する機会があった。日本政府は米国に気を使って積極的な動きをしない中、1952年4月から7月にかけて戦後政治家として初めてソ連と中国を訪問した帆足計、高良とみ、宮腰喜助の三人が中国残留日本人の帰国促進を中国政府に要請した事からようやく引揚げ問題が動き出した。1952年10月1日人民日報に「残留日本人の帰国を援助する方針についての政府声明」が掲載された。
1111  1953年1月26日羽田空港で見送りを受ける訪問団。タラップ2段目が日赤社長、島津忠承。 「時事世界」1953年3月号より
翌1953年1月から3月まで中国紅十字会と日本赤十字社島津忠承を団長とする民間三団体の訪問団が北京で会談して中国に残留している日本人の 帰還問題が話し合われ、引揚げ事業を再開することで合意がなされた。

 その頃中国河南省信陽の牧場に居た私達家族のもとに一通の手紙が送られてきた。父の一歳上の尼崎に嫁いでいた伯母からであった。中国政府の日本人残留者名簿が日本政府に送られ私たちの住所がわかったとのことだった。
1111_1 右側、信陽で獣医をしていた1953年頃の父、隣は日本人助手
その前、父の実家の近所に住む小学生がラジオの安否放送を聞いていた。「たまたま敏樹さんの名前が放送されるのを聞き急いで丸山のおじいちゃん(祖父)に知らせたら誉めてくれた」と54年後、当時小学生だった前川武章氏に私は直接聞く機会があった。それまで中国で行方不明だった父の安否が分かり家族は役場に連絡を取った。
帰国するまで何回か伯母と父との間に手紙のやり取りがあり家族の近況や故郷・淡路島の様子がしだいにわかってきた。父は8人兄弟の次男で5番目に生まれたが、伯母の手紙に実家のあとを継いでいた長男の伯父が亡くなったことが記されていてショックだったと後年よく言っていた。
帰国前の取調べ
 7月の終わりごろ出発の時が来た。母の話によると信陽から武昌まで鉄道で行き、そこから揚子江対岸の漢口に渡り大型汽船で上海まで河を下ったという。
私たちは汽車に乗ったが、方向が目的地と逆の方向に走り始めたのに父はすぐに気が付いた。一駅目か二駅目ぐらいにおろされ、父だけが別室で取り調べを受けた。このことは私も初めて聞く話で、母に聞いても覚えていないという。
 どんな取調べを受けたのか、父の話ではこうだ。
「終戦後、ハルピンで暴動があったが、そのときの首謀者の疑いでしらべられた。」
 事実はどうだったのか、関係していたのか。
「全然知らない話だ、全く関係が無い」
 中国で終戦直後に日本人が関わった暴動では通化事件が有名であるがそのほかにも大小、さまざまな日本人が起こした事件があったようだ。
父が取調べを受けたのは、理由があり、右翼の活動家だった事がその一因でまた特務機関の手先をやっていた事も知られたようだ。
「八路軍の特務は優秀で何から何まで調べられていた。君には軍閥の親戚があるとも言われた。軍閥とは樋口の伯父さんのことだ」
 親族関係もきっちり調べられており、父の伯父にあたる樋口季一郎は陸軍中将のエリート軍人で軍閥の一員であり、父はその郎党であるという事だ。どのくらいの時間調べられたのか父も記憶が定かではなかったが、その日一日で疑いが晴れたようだ。
話を洗脳にもどすと、父がいうには、八路軍の規律「三大規律八項注意」は徹底して教えられたが、思想的なことは全く問われなかったとのこと。
「第一、戦争をしているのにそんな暇はなかった。わしも仕事(獣医)は一生懸命やった。「大功」という日本で言えば「金鵄勲章」のようなものを2度もらった。仕事については幹部も評価してくれたが、思想的には皇国史観に凝り固まっていたので、向こうもお手上げだったのではないだろうか、よくもまあ!わしのようなじゃじゃ馬を使ったものだハッハッハッハ」
父は愉快そうに笑った。

円と元

Photo
気前のよい父 
 前回「揚子江の海賊」の中で鴻池議員の父親に服を買うお金を30万エンあげたと書いたが、これは日本円ではなく中国通貨の人民元である。日本語の発音ではゲンだが中国語の発音ではユエンになる。ここが誤解されやすいところで、日本人が聞くとエンもユエンも同じように聞こえる。父は中国から引揚げて何十年もたち、円も元もごっちゃになっていたのだ。

 引揚者の体験談で、エンとユエンが間違いやすい事に気がついたのは、昨年母と上海で引揚げ船に乗った話をしている時だった。
父は上海で知り合った引揚者がお金に困っていると、気前よく何十万もあげていたみたいで、父自身も生前「湯浅というバッテリーの会社をやっている人にも何十万エンあげた」とか鴻池議員の父親の他何人もの名前を出していたからだ。母の記憶では「赤ん坊を背負った顔色の悪い病弱な女の人にもあげてたみたいだ」と言う。
母にその時いくらぐらい持っていたのか聞くと「一人500万エンぐらいで二人で1000万エン持っていた」という。「エッ!大金持ちだったのだ」と私は驚くと母は1000万元(ユエン)やと訂正した。私の両親と同じ経験を持つ古山秀男の下記の証言でも帰国時に数百万円支給されている。この本が発行された1974年を比較しても建国当初の中国はかなりのインフレで、元の値打ちが低かった。

保定の近くの農村で、一ヵ月近くも帰国準備のため滞在したが、このときの中国側の接待ぶりは最高のものだった。今までだと、祝祭日などにしか食べられないようなご馳走を毎日ふるまってくれた。建国まもない、しかも朝鮮戦争で莫大な負担を強いられて、中国人民全体が経済的にまだ非常に困難な時期においてである、加えて、解放軍従軍期間に比例した退職金と帰国援助金など数百万元(一万元が現行人民幣の一元にあたる)が支給された。
1974年発行 古山秀男著 「一日本人の八路軍従軍物語」より

 私が子供の頃、母は中国では給料がよかったと自慢していた。
父(獣医)と母(看護士)は技術者で一般の兵士より、よい給料をもらっていたみたいだ。日本人だからよかったのではなく、中国人も日本人も平等だった。正確には忘れたが、十万の単位だったのは覚えている。昭和30年代の中ごろだと役場の職員でも何千円だったのでビックリした。もちろん私は為替の知識なんかまったくないころで、両親も子供に説明するのは面倒だったのかそれ以上話さない。そんなわけで父はお金に関しては一生縁が無かったが、帰国前のこの時期が例外的に金持ちだった。
それでは日本に帰った時どの位の為替レートで円に交換できたのだろうか。
Memo0086
 昭和28年の北京の食堂のメニューから計算すると1円が66.5元でかなり円高になる。そのころ日本と中共政権は敵対していたので、無制限に交換できたかどうかはよく分からないが、全部円に交換できたとしたら、帰国後の生活の足しにはなったはずだが、そのあたり母も記憶が定かではない。

貧乏人は芋を食う
 幼い私は両親が中国でのよい給料を棒に振って日本に帰ってきたのが納得いかなかった。当時家は貧乏(今も!)で本家の離れの六畳一間に長い間住んでいたが、こんな事があった。
ある年の9月ごろ米がなくなり、お金も底をついた。そのころ養鶏をしていて、さつま芋を刻んで鶏のえさにしていた。父は楽天的でしかも能天気な男だったので意に介せず、祖父から一反の食い扶持を与えられていた事もあって「もうじき稲刈りやし、いもでも食べよか、量はたっぷりある」という。 確かにたっぷりあった。10貫目入り(約40キロ)ぐらいの南京袋が五つか六つあった。それからは毎日毎日三度三度さつま芋をたべだした。七輪で焼いたり。ゆでたり、焼き芋にしたり、天ぷらにしたりで最初の頃は嬉しかった。それまで倉庫にあるさつま芋を食べたかったのだが、卵を産んでいただく大切な鶏にやるえさで禁止されていたのだ。それが突然解禁になったので「ヤッタ!」と思った。
しかし料理を工夫しても3日目ぐらいになると飽きてきて、食が進まなくなる。1ヵ月ぐらい食べていた記憶があるが、数年前母にそんな昔話をしたら「1週間ぐらいだろう」という「飽きてしまったので本家に米を借りたのではないか」と他人事のようにのたまう。昭和30年代前半は岸信介首相の時代で池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」といったのはもう少し後だったが、我が家はその言葉を先取りして芋を食っていた。それ以来私はさつま芋が苦手になった。
 

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち⑤揚子江の海賊

 20数年前のこと、父が取引先の息子の結婚式に出席した。そこは民宿兼料理屋をやっていて父は女将と昵懇で招待されていた。帰ってくるなり「こんなことがあるもんやなあ」と少し興奮ぎみに話し始めた。
Memo0105 昭和7年5月5日発行上海事変記念写真帳より
招待所
 1953年8月上海港から私達家族が乗る帰国船がでることになった。中国各地から日本人留用者が続々と集まってきた。広い中国のことでもあり、全員が集結するには日数がかかる。
 船が出航するまで、しばらく宿泊していたのが、招待所と呼ばれる施設だった。招待所という名前は父から聞いて初めて知った。母に確認のため名前を尋ねても覚えていないという。校舎や軍隊の宿舎のようなところで、一部屋に大勢の人が寝泊りしていたという。父の説明では、人民解放軍で国民党と戦っている時、ある作戦が終了すると兵士が休養する施設に入った。戦闘中は休日なんてないので、終わってから、ゆっくり休暇が取れる。面白いことに、兵士が今の部隊を気に入らなければ、休養してから自分の行きたい部署を選べるというのだ。例えば飛行機乗りになりたいので空軍(当時人民解放軍は空軍がなかった)に行きたいとか、馬の輸送部隊に入りたいとか、希望しても定員が空いてなければいつまでも招待所でぶらぶらしている事ができる。もちろん能力や適性があり簡単ではないので、普通一ヶ月も休めば、妥協して適当なところに行くのだが、父が休養した招待所には1年も2年も理由をつけて遊んでいる剛の者がいたという。このことから招待所というのは、名前から想像される優雅ななゲストハウスではなく、簡易な木賃宿程度の公的団体宿泊所だといえる。

ボロをまとった貴公子
 その招待所で私達は船が出航するの待っていた。父は何もすることがなく、毎日港近くを散歩していたが、ある時街角で一人の日本人と出合った。
「その男はボロボロの薄汚れた服を着ていたが、貴公子!だった」
意味がよくわからなく私はもう一度聞き返した。
父は「貴公子」「貴公子」と真剣に同じ言葉を繰り返した。
「名前が鴻池と言ったので、財閥の御曹司かと思ったがあまりにも汚いカッコなので事情を聞くと、たった今刑務所から出てきたばかりだ」という。
「敗戦後、食い詰めて揚子江で海賊をやっていたところ公安に捕まり刑務所に入れられていた。帰国船が出るというので、出してくれた。お金も一銭もないので途方にくれていた。それで貴公子が乞食ではかわいそうなので、服を買うお金を30万エンぐらいあげた」
財閥の御曹司ではなかったが馬子にも衣装?、本物の貴公子のようになり、無事引揚げ船に乗ることが出来た。

 話を結婚式に戻すと父の席の隣が当時の兵庫二区選出の鴻池祥肇代議士(現参議院議員)だった。政治好きで町会議員などもしたことがある民宿の女将が鴻池議員の熱心な後援者で、結婚式に招待していた。
隣同士しばらく酒を酌み交わすうち、名前から昔の上海で、出会った貴公子を思い出した。同じ鴻池で、年齢が父より少し上で、ひょっとして関係あるのかと鴻池議員に尋ねた。海賊や刑務所の話をしたかどうか分からないが・・・
「戦前、鴻池議員の親父も中国にいたことがあり、そのころ日本に戻ってきたから間違いがないだろうといっていた」と父は確認するように2~3度うなずき、なつかしそうに微笑んだ。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち④日の丸組

高砂丸

Memo0105 毎日新聞社発行「写真集・在外邦人引揚の記録」より
 

私達家族は1953年8月、日本に帰国した。上海から高砂丸にのり13日ごろ舞鶴に着いた。高砂丸という名前は物心付いた時から母からよく聞かされていた船の名前だ。「かずちゃんは船の後ろにいって身を乗り出しスクリューからでる泡や船の航跡を見るのが好きだった。私はいつもヒヤヒヤしていた」当時1歳7ヶ月の幼児だった私はそういう記憶がかすかに残っている。
父が亡くなってから、中国の体験を聞けるのは母だけになってしまい、折に触れ尋ねようとするのだが、よる年波に記憶が薄れて、高砂丸はどの位の大きさで何人ぐらいのってきたのか?なんて基本的なことも忘れている。「そんな事ゆうたって、すみちゃん(妹)はまだ赤ちゃんやし、かずちゃんもヨチヨチで危ないのに、二人の子供につきっきりで、周りのことなんておぼえてないわ!」こういわれると「ごもっともな話です」と引きさがざるをえない。昔は子供を育てるのは母親の仕事で、父親は子供を抱っこさえしなかった。私の父もそんなタイプで、母が必死でわが子の安全を守っているのを尻目に、船室の一角で酒盛りをやっていた。

日の丸組
Memo0101 引揚げ準備のため高砂丸の三等船室の掃除をしている 「時事世界」昭和28年3月号 
 父に聞いた話では、私達家族が高砂丸の三等船室におりてゆくと部屋の片隅でワイワイ酒を飲んでいる集団がいた。その中の一人が父の顔を見て「おお!郷さんと違うんか、ひさしぶりやのう、よう生きとった。よかった、よかった」と声をかけてきた。「そいつはワシが義勇軍時代に入っていた右翼団体の仲間で顔見知りだった」という。「まあこっちへきて一杯やらんかと誘われたんで昔のよしみでよばれることにした。壁にはどこから探してきたのか薄汚れた日の丸が貼り付けてある。ワシらは日の丸組だ戦争に負けても大和魂は残っていると、ブイブイ騒いでいた」
「話をしていると彼らはパーロ(八路軍)に反抗して捕まり刑務所に入れられていたらしい。日本に帰る船が出るので、この際ややこしい者もみな返してしまえ、となって釈放されたみたいだ」

 父は関東軍に徴兵されるまで大日本青年党(後に大日本赤誠会)という橋本欣五郎が結成したナチスまがいの国粋団体に入っていた。義勇軍の生みの親といわれた、加藤完治の農本主義に共鳴して満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州までやってきた。縁あって人民解放軍(八路軍)に入り、国共内戦を戦い抜いてきたが、共産主義の思想的な影響は全くなく、日本人の政治委員から反動分子と呼ばれていた。

帰国幹事
 高砂丸には「八路軍の制服を着た日本人の帰国幹事というのがおって、引揚者の世話をしていた」と言う。
日の丸組から見れば敵に寝返った国賊で、とんでもない連中だ。
「日の丸組の連中はなにやら企てていた。3カイリを過ぎたら奴らを海に放り込んでやるといきまいている。引き揚げ船が出航すると、中国のポンポン船が見送りにあとをついてきた。そのころ領海は3カイリだったのでそこまで来ると見送りの小船は帰って行く」
帰るのを見計らって帰国幹事を海に放り投げる算段だった。
「コリャサー!と思って」
父は必死に日の丸組の連中を説得した。
「苦労してやっと帰れるようになったのに、思想が違ったからといって無茶をするな!同じ日本人やないか!みんな家族がまってるぞ。一緒に帰ろ!」
説得のかいがあって不埒な計画はやまった。父は八路軍の日本人政治委員にはよい感情を抱いていなかった。戦後8年たっても皇国思想は抜けていない。心情的には右翼たちと同じ立場だが、かれらのあまりにも傍若無人なやり方に我慢ならなかった。父は普段の言動はいつも過激だが、いざ行動となると情が勝つ。関東軍の初年兵の時に命令された中国人を的にした刺殺訓練のときも拒否をした。
引揚者の記録などを見ていると、日の丸組によって実際ほうり投げられ海の藻屑となった者もいる。この時の帰国幹事は父が居合わせて幸運だった。さまざまなドラマを乗せ高砂丸は一路舞鶴へ進む。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち③坂本先生

 私が高校生だった1960年代の後半、通っていた高校に保健体育を教え、バレー部の顧問をしていた教師がいた。坂本先生といって50代の半ばぐらいで中背痩身、色浅黒く、前が禿頭、体操教師らしく引き締まった体つきだが腰をちょっと後ろに出して歩く姿は歳相応の中年男だった。そのワイルドな風貌から、キツイという評判で男子生徒から恐れられていた。

 3年になって間もない頃、体育の先生が出張になり授業は自習となった。私のクラスは就職コースだった。当時の就職状況は高度成長期でもあり、売り手市場で3年になっても生徒は緊張感のない学園生活を送っていた。体育の自習なんていうのは男子生徒にとって休憩時間も同然で、私は授業のチャイムがなってから教室に入るとクラスメートの上田君があわてて体操服に着替えている。
上田君は声を低くして「今日は代わりに坂本がくるらしい、アイツなあ戦争中は将校しとって、中国でようけ首きりやっとったらしいで、日本刀でバサバサ切っとったらしい。気いつけえよ!」というなり脱兎のごとく教室を飛び出した。私はそれまで坂本先生には受け持ってもらった事はなく、クラブも関係なかったので、先生の凶暴な性格を知らなかったが、不安になり急いでグランドにむかった。みんな集まっていて、私が最後のようだ。
坂本先生は、私達を自転車置き場のほうへ行くよう命令した。そこからは、女子生徒にみえない配慮か。

 悪がきどもは戦々恐々、グランドから少し離れた自転車置き場近くに整列した。坂本先生は私達が並ぶやいなや「おまえらあ~~~」と獅子吼した。早口ではじめ何を言っているのかわからなく、刀でなんとか首をどうのこうの言っている。先ほど上田君の予習を聞いていた私は、これがそうかとすぐ納得したのだが、説教というより、病気の発作が出たのかと思うほど異様な興奮状態だった。浅黒い顔が、七面鳥のごとく、赤くなり、青くなり、汗がたらたら、握りこぶしをふりあげ、おろした腕がぶるぶる震えて、それを見つめる目は、哀愁をおびていた・・・ように私は記憶している。けっして自慢ではなく怒りでもなくもちろん喜びでもない。反省まではいかないが、後悔を含んだ哀しみといったらいいのか、私の貧しい語彙では言い表せない表情だった。
坂本先生は「わしらの時代は戦争で人殺しをやって散々苦労していたのに、平和な時代のおまえらは、だらけやがってたるんどる、気合を入れたる」と怒ったのだろうが、そのあからさまなパフォーマンスに私は心の中では反発していた。しかし悪がきどもも含めて男子生徒の誰も下を向いてシュンとしている。この時代の教師というのはまだまだ権威があって、とくに体育会系の教師は生徒に恐れられていた。
説教は終わりグランドから女子生徒の黄色い声が聞こえてきた。空は真っ青な五月晴れだった。

 あれから40年以上たっても、この出来事は私の脳裏から離れない。一度だけの授業でこれほどのインパクトを与えてくれた先生はほかにいない。地味な私の高校生活のなかでも特筆する出来事だった。恐らく一生忘れないだろう。
程度の低い政治家が南京大虐殺はなかったなんて、暴言を吐くたび思い出される。ひょっとして坂本先生は日教組の活動家で私達に侵略戦争の残虐さを身体を張って教えてくれたのだろうか。

私の中の中国10.支那帰りの兵隊たち②みっちゃん先生

 父の世代はほとんどが兵隊体験者で、大陸の土を踏んで、いわゆる支那本部(山海関・万里の長城より南)や満州(東北)に行ったのは、ソ連に抑留された者も含め大方帰ってきたが、南方へいったのはほとんど戦死している。大陸から帰ってきた男は中国のことをたいていシナ、支那と呼んでいた。今思えば、現在中国のことをシナ、シナと言っている右翼と違って差別や蔑視で言っているのではなく、ほとんどがごく自然にしゃべっていた。彼らにとって、支那の呼称はそう教えられたから言うのであって、その時代にあっては普通の呼び名だった。

 その点、多少戦後の教育をうけたであろう慎太郎都知事が、目をパチパチさせながらシナ、シナと言い立てている様は時代錯誤そのものだし、本人は気付いていないんだろうが、自身の軽薄さを際立てているようにみえる。いくら中国が嫌いだとはいえ、70歳をすぎた老人が小児病にかかるのは見苦しい。

 私が中学生ぐらいになると、シナとか支那人と言う人はかなり減ってきて、父より年齢が上の人でもたまにいる程度で、その一人がみっちゃん先生でチャンコロとも言っていた。先生と言っても教師ではなく、医者でもなく、農業の合間に、家相をみる人であった。そのころ風水なんて言葉はまだはやっていなかったが、田舎では家を建てる時方角や間取を気にする人は多い「便所はこの方角で、玄関はコッチ向いてなアカン」なんていわれると、合理的な考えの人は反発しても、その後病気になったり不幸ごとが続くと弱気になり、防風のため建てた塀をわざわざとりこわしたりする。コレ私の妻の実家であったことです・・・

 父は迷信やら占いを全く信じない人間であった。父によると「みっちゃんはどこで、勉強してきたんかしらんが、いつのまにか家相を観るようになって、自分はなんでも知っている大家やと・・・だれも言わんのに自分で先生、先生というようになって、いつの間にかみっちゃん先生になっていた。近くのもんは頼まんけど、遠いところからは噂を聞いてくるらしいな・・・」みっちゃんは政治好きで、父とはウマがあって町政が紛糾すると「郷ちゃんおるか!」とよく話に来ていた。

 私は高校生の時、3年間で日本一周をする目標をもっていたが、先立つお金がなく、みっちゃんの仕事のアルバイトをしていた。といっても農家の手伝いではなく、運送の助手であった。そのころみっちゃんは夏場、玉ねぎの集荷をやっていたので、夏休みの前半、雇われた。私は稼いだ金で、お盆前には日本全国あちこち旅立った。

 バイト代はハッキリ覚えていないが一日500円ぐらいだったか。大人だともっとよい賃をもらっていたが高校生という事で安かった。旅行でよく利用した、ユースホステルが一泊二食付きで550円だったので、20日働いて旅行の宿泊費ぐらいにはなった。
その頃まだマツダのオート三輪というのがあって、1.5トンぐらいの貨物で小回りがきき、田圃道を筒いっぱい走っていた。各農家の玉ねぎ小屋から板箱に詰めた玉ねぎを載せ冷蔵倉庫まで運んだ。一緒に二週間も働いていると、普段はあいさつ程度しかしない、みっちゃんとも親しくなった。

 町内でも評判の暴れん坊で、いかついオッサンだと思っていたが、私が怪我をしないように結構気もつかってくれていた。あるとき「ワシはなあ、毎日千円貯金するのが目標なんや千円千円やでえ。1年365日、毎日千円貯金する。どうや!」と運転しながら言った。どうや!といわれても、そんな金あるんだったら、もうちょっと日給上げてくれといいたかったが、気の弱い私は黙っていた「生活費を除いてこんだけ貯めたらまあまあじゃ。そう思わんか!」

 私は黙ってうなずきながら、日ごろ傍若無人なふるまいで近所の顰蹙をかっているみっちゃんが意外と小市民的なおじさんだと知った。 また一日の集荷が半分ぐらい終わって一服していたとき、部活の話になり剣道部に入っていると答えると、みっちゃんは「わしゃなあ強いんじゃ、銃剣術の先生や」と言い出した。銃剣術というのは戦前の軍隊で歩兵部隊では必須の武術で、戦闘では三八銃の先に、ごぼう剣と呼ばれる短剣を付けて突撃し、白兵戦をする。

002_2 写真集「わが聯隊」より

 みっちゃん先生は突然立ち上がり銃剣を持つかっこうに身構えた。「ヤア!」と野太い声をかけて突いた。チヂミの半そでシャツ一丁の上半身で、日焼けした女子高生の太ももほどある腕の筋肉がぴくぴくした。私はおもわず身を引いた。それで殺すんかと私は聞いた。みっちゃんはにやりと笑い「そんな事言われへんわ・・・」と答え、ボソボソ小声で「郷ちゃんにおこらえるわ。ほな、いこか」と運転席のドアに手をかけた。私は慌てて助手席に飛び乗った。

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ