引揚げ

私の家族の終戦記念日

想いでの引揚げカバン

今日は8月15日で一般的にはお盆でご先祖さんが帰ってくる日である。また「終戦記念日」でもあり何か自然に戦争が終わったようなイメージがあるが、本当は天皇が国民に日本の降伏・敗戦を告白した日であり、それまで神風が吹いて日本が勝つと思い込んでいた多数の国民は茫然自失になった日でもある。

私の家族は戦争が終わって8年後、1953年8月8日上海から船に乗って舞鶴に8月11日に上陸、途中尼崎の伯母のうちに泊まり。神戸にいた叔父にあったりして、8月13日ようやく淡路島の三原郡阿万町本庄の父の実家に帰ってきた。

父は14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州に行ってから15年ぶり、母は従軍看護婦で満州の長春(新京)に赴任していらい、10年ぶりの帰国です。私と一歳下の妹は中国で生まれた。従って私たちの家族にとって本当に戦争が終わったのが、昭和28年8月13日と言える。

戦後生まれの私にとっては、8月のお盆は戦争の話より、両親から聞いた中国からの引き揚げの話が思い出される。特に母にとっては幼い私やまだ乳児だった妹を外地から連れて帰ることはことのほか大変だったらしく、子供のころから苦労話をよく聞かされた。

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上記の写真の下の大きなカバンを二個父が持ち上の小さな鞄は、母が右手で持ち、妹をねんねこで背負い、よちよち歩きの私の手を左手で引き帰ってきた。今思えば苦労を子供にぼやくのも無理はない、敗戦直後の開拓団の子供みたいに井戸にほりこまれなかったものだ。母はその時29歳、若くてピチピチ体力もあった。父はともかく、母には幼子を連れてご苦労様でしたと、言いたいときには母は無し。

 

 

「一九四六」神戸展

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9月4日(日)、魯迅美術学院の王希奇教授の大作「一九四六」を見に行ってきました。5年ぶりぐらいに神戸に出たのですが、マスク、マスクの人波に圧倒されました。私は慢性鼻炎でショッピング以外、普段外を歩くときは、あまりマスクはしません。でも都会の大通りを、今マスクなしで歩くのは相当勇気がいりますね。暑くて息苦しいので時々鼻を出して、汗をふきふき、JR灘駅から坂道を歩いて原田の森ギャラリーまで約15分しんどかったです。

午後1時過ぎ会場に入ったのですが、広い会場で、30人ぐらい鑑賞していました。油絵ですが墨絵のような画調で縦3m横20mのキャンバスは、圧倒的で、77年前の現場にタイムスリップしたような、不思議な感覚になりました。

Img_20220904_130735 初めに目がいったのは、父親と思われる男性が赤ちゃんを抱いている場面です。そこだけスポットが当たっているようで女性子供が大勢描かれている中、男性でしかも30代ぐらいの若さに見えたのですが、心配そうに赤ちゃんを見ている。

1945年5月には満州の日本人男性は青年・壮年根こそぎに徴兵され、8月敗戦を迎える。翌年にはみんなシベリア行になっていた。私の父は22歳でソ連軍の捕虜になり無蓋列車でシベリア送りになるところを、脱走した。1946年1月頃のことで黒河あたりで逃げたようだ。厳寒の北満州を彷徨するうちに知人の中国人に助けられ、ソ連軍が接収する牡丹江の関東軍第八病院に入院できました。間もなくソ連軍が撤収し八路軍が入れ替わりに来て、治療を受けたわけですが、薬なんかほとんどなく、父は身長175㎝以上あるのに体重が35Kまで落ちていたそうです。

この話は父が亡くなる2か月ぐらい前、南あわじ病院で聞いた。その時、肺気腫で入院していたのですが、だんだん食も細り、体重が35キロぐらいになりいよいよだめかと、私も覚悟していたのですが、従兄が見舞いに来た時、昔話をし始めて、「八路軍の医者や看護婦は、薬がない中、野原に行ってタンポポの根とか、あといろいろな薬草をとってきて混ぜ合わせ、煎じて飲ませてくれた。それはすぐに効き目がなかったが、ひと月ふた月と経つうちにとうとう治してしまった。あれはやはり、伝統の技かなあ、彼らはよくやってくれた」と神妙な顔つきで話したのがおもい出されます。

 

Img_20220904_131201 もう一つ印象に残ったのが、病人を載せた台車を押しているように見える、看護師の人たちです。病院船に乗せるのでしょうか、おそらく病気や負傷した人も大勢いるのでしょう。とくに重い人はこのように台車に乗せられ故国に帰っていった。私の母は看護師でした。そのころもう八路軍に留用され手術隊で野戦を回っていたのかもしれません。

王教授がモチーフにした「小さな引揚者」Img_20220906_235109母親の遺骨を胸にいだく断髪の少女 逃げ出したときは 母親や親戚と一緒だった 途中で母親が倒れ 遺骨にしてくれた親戚も死んでしまった 昭和21年夏 奉天にて    昭和45年7月27日毎日新聞社発行「在外邦人引揚の記録」より

Img_20220904_131216王教授が描いた遺骨を抱いた少女

 

9月7日画像追加

 

 

 

 

 

 

父が故郷に帰って最初にしたこと

父が故郷の淡路島に帰ってきたとき、地元の人は歓迎の大会を開いた。おそらく横井庄一さんや小野田寛郎さんが帰還した時のように新聞社や放送局は来なかったが、中国で行方不明だった父が帰ってきたことは故郷の人々にとっては大ニュースだったことは間違いがない。

父にとって徴兵検査で帰省して以来10年ぶりの故郷だったが、浮かなかった。実の兄が亡くなっており、近所の幼友達の布団屋の兄弟も二人戦死していた。その友達の姪に当たる、アイ子さんが父の法事の後の食事のとき、私たちが帰還した時のことをよく憶えていて話してくれた。

「お盆の暑い日、池の堤の横の道をうちのほうへ歩いてきた。お父さんが幼いカズちゃんの手を引き、お母さんがスミちゃんをおぶってくる光景を今でも憶えているわ、敏樹さんは帰ってきてすぐお参りに来てくれたのよ」

私の母校の阿万小学校が創立百周年の同窓会記念誌を出したとき、大正13年生まれの父は50歳ぐらいだった。その時、父の男子同級生約50人のうち3割がすでに亡くなっていた。名簿から大正生まれの男子死亡率を調べてみると、大正5年生まれぐらいから男子の死亡人数が増え始め、大正二けたの年代がピークで多い年代は4割近く亡くなっている。昭和生まれになると死亡人数がガタンと減り、数人となる。

父の胸には、故郷に帰った嬉しさと、若くして亡くなった多くの友の無念さが交差していた、暑い夏だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月11日は我が家の引き揚げ記念日

1953年8月11日、私たち家族4人は中国上海港から高砂丸に乗り舞鶴港に、引き揚げてきました。第二次大戦終結から8年たち両親はやっと戦争から解放されました。

舞鶴には祖父と従姉が迎えに来てくれていました。その時祖父は64歳、今の私より若かった。父の兄、勲(いさお)は亡くなっており、敗戦で行方知らずになっていた次男の父の生還に、嬉しさはいかほどだったか。

尼崎に嫁いでいた伯母の家に泊まり翌日、神戸中突堤から洲本港へ3時間の船旅、洲本から電車に乗り南淡の賀集駅まで1時間、そこからバスで25分ぐらいで、家の近くの伊賀野バス停に着く。当時は阪神から淡路島の南淡まで5~6時間かかっていた。

バス停から300メートルぐらい歩くと丸山池があり、池の堤で大勢の人が父の帰りを待ちわびていました。私たちが近づくと、にわかに万歳の声が沸き起こり、母はびっくりしたといっていました。

休む間もなく、阿万亀岡八幡宮で帰国歓迎会が開かれたそうだ。父の同級生で宮司さんの息子が幹事となり、地元の住民たちが集まってくれた。その時、母が熊本県の菊池一族の末裔とか紹介されて大汗をかいたとよく言っていた。

今では菊池武房なんて武将はあまり知る人はいないと思いますが、蒙古来襲で活躍したことが、戦前の軍国主義教育で喧伝され、楠木正成と並び当時は誰でも知っていた歴史上の武人です。

両親から聞いたエピソードを思いつくまま書いてみましたが、故郷の人は優しくて温かいですね。私は1歳8か月でヨチヨチでしたので何も覚えていませんが、お盆になると両親がこの話をよくしていたのが、いまでも思い出されます。

 

 

 

70年前からの年賀状3

幻のシベリア抑留

父は敗戦後シベリアに抑留されたと思われていた。その理由は私が厚労省から取り寄せた資料の中に父が記載された復七名簿があったからだ。復七名簿 とはシベリアに抑留されて未帰還の兵士の名簿で、武装解除され、敦化収容所に入れられるまでの記録が残っていた。その後兵士たちは森林を伐採しながら10月西に移動してシベリア抑留となるのだが、父は足に腫瘍ができ入院する。

舞鶴に帰還した時に父が書いた身上申告書によると足がよくなり一足遅れて11月父も入ソ(ウォロシロフ地区)すると書かれているが、これは間違いで、父はソ連に入る前に脱走したことを隠したためだ。

引き揚げ

私が生まれた1952(昭和27)年は中国大陸には約3万人の日本人が残留していた。国共内戦で蒋介石が破れ台湾に逃れてからも、日本は台湾政権を承認し、北京とは敵対した。その後、朝鮮戦争が勃発し日本との行き来がますます困難になり、残留者の日本の家族は安否が確認できない状況がながらく続いた。

日本政府は米国に気を使って積極的な動きをしない中、1952年4月から7月にかけて戦後政治家として初めてソ連と中国を訪問した帆足計、高良とみ、宮腰喜助の三人が中国残留日本人の帰国促進を中国政府に要請した事からようやく引揚げ問題が動き出した。1952年10月1日人民日報に「残留日本人の帰国を援助する方針についての政府声明」が掲載された。
1111  1953年1月26日羽田空港で見送りを受ける訪問団。タラップ2段目が日赤社長、島津忠承。 「時事世界」1953年3月号より
翌1953年1月から3月まで中国紅十字会と日本赤十字社島津忠承を団長とする民間三団体の訪問団が北京で会談して中国に残留している日本人の 帰還問題が話し合われ、引揚げ事業を再開することで合意がなされた。

戦争も38度線で膠着し、休戦の会談もたびたび開かれていた。しかし休戦協定が結ばれず戦闘が続いていればこの年私たちは日本に帰れなかったかも知れない。まことに平和ほどありがたいものはない。

だが朝鮮戦争はいまだに終わっていない。

 

父の15年戦争が終わった日

やっと終わった父の15年戦争

8月15日は日本の「終戦記念日」だが、「父の15年戦争」では終戦の日は8月11日になる。昭和28年8月11日が舞鶴に私たちの家族が帰還した日であり、父にとって昭和13年6月に満州の訓練所に着任して以来15年にわたる戦争が終わった日であった。

舞鶴には祖父と従妹の紀美子が出迎えに来てくれていた。15歳上の通称キミちゃんはこの時高校生で夏休み中でもあり、64歳の祖父の付き添いであった。父の兄はこの1年前亡くなっており、消息不明だった次男の父の生存は祖父にとって法外の喜びであった。

最近キミちゃんと会う機会があり、この時のことを詳しく聞いた

「なにが喜ばれるか考えた挙句、あんパンを買っていた。でもおじさんは食べなかったのよね」68年前のことをいきなりこう言われると、父らしいなと思う反面、キミちゃんにとってかなり気が悪かったみたいだ。長い間他国で苦労してきたのだから、当時としてはできる限りのおもてなしをしようとアンパンを買っていったのに・・・でもこのおやじそうとうわがままで、特に嫌いな食べ物は絶対食べない、あいそも何もない。

「でも神戸の中庭時計店で腕時計を買ってもらったの」とニコニコ顔になった。この時父はかなり裕福で、引き揚げ者といえば、すっからかんで日本に引き揚げてくるのが相場だが、父は意外とお金持ちだったのである。人民解放軍では獣医のような技術を持ったものは一般兵士より、待遇はよく、戦争中は買い物なんてする機会はなく、結構ためていたようだ。

母も看護婦として、第四野戦軍の医療隊の手術隊で野戦軍の後を追って海南島の見えるところまで、行ったという。移動する手段は徒歩か馬車で、家族を連れている人もいて、子供もいる。大人は徒歩だが、母は日本人なので、馬車によく乗せてもらったそうだ。部隊の中でたった一人の日本人で「日本に帰れずこんなところまで連れてこられてかわいそうだ」と思われていた。

母も待遇はよく、帰国する時は二人で1千万円持っていたと聞いた時、驚いたが1千万元(ユエン)でエンと発音がにているので思い違いをしていたようだ。貨幣のレートはどれくらいなのか、定かではないが、日本円がかなり強かったのは間違いない、それは朝鮮戦争での特需で日本の復興が進み、円の地位も上がった、反面中国は革命戦争に引き続き朝鮮戦争でも痛手を受け。経済復興どころではなかった。

 

円と元

 

 

私の中の中国11.洗脳

歴史の授業 
 私が中学2年のとき、3月の終業式まえになっても歴史の授業が江戸時代の終わり頃までしか進まず、追加の授業を道徳の時間にすることになり、急遽教頭の馬渕先生が教える事になった。この時、2回の授業で江戸時代の終わりごろから戦後の米ソ冷戦時代まですっ飛ばしたが、後の1時間の終わりのほうで、東西冷戦とか社会主義陣営の情報統制を習った。ソ連は鉄のカーテンで中共は竹のカーテンだと説明され、そのあと「戦後中共から引き揚げてきた人間は洗脳されて共産主義者になったと言う人もいる」とはっきり断定しないで、馬渕先生は「言う人もいる」といったように記憶している。このあたりはちょっとズルイ気がして、私はこのとき自分の家族が名指しされたような気分になり、恐らく先生は私の一家が中国からの引揚げ者だと知らなかったとは思うが、かなりのショックを受けた。洗脳というおどろおどろしい、言葉を初めて知ったが、以来この言葉は私の心の中でことあるたびマグマのようにブツブツ噴出する。

 父に洗脳されたのかなんて子供の私は聞けなかった。いつか聞いてやろうかと思ってはいたが、是が非でもというほどでもなく、ずるずると時がたち、結局尋ねたのが亡くなる半年前であった。
父は「わしは解放軍の中で、同僚とは仲良くやっていたが、上のほうの人間からは最後まで信用されてなかったなあ、そういえば帰る直前にこんな事があった・・・」と話し始めた。

再開された集団引揚げ
 
戦後の中国残留日本人の帰国は国共内戦の進展により中断されていたが、新中国成立後の1950年夏ごろジュネーブで日本赤十字社代表と中国紅十字会代表が接触する機会があった。日本政府は米国に気を使って積極的な動きをしない中、1952年4月から7月にかけて戦後政治家として初めてソ連と中国を訪問した帆足計、高良とみ、宮腰喜助の三人が中国残留日本人の帰国促進を中国政府に要請した事からようやく引揚げ問題が動き出した。1952年10月1日人民日報に「残留日本人の帰国を援助する方針についての政府声明」が掲載された。
1111  1953年1月26日羽田空港で見送りを受ける訪問団。タラップ2段目が日赤社長、島津忠承。 「時事世界」1953年3月号より
翌1953年1月から3月まで中国紅十字会と日本赤十字社島津忠承を団長とする民間三団体の訪問団が北京で会談して中国に残留している日本人の 帰還問題が話し合われ、引揚げ事業を再開することで合意がなされた。

 その頃中国河南省信陽の牧場に居た私達家族のもとに一通の手紙が送られてきた。父の一歳上の尼崎に嫁いでいた伯母からであった。中国政府の日本人残留者名簿が日本政府に送られ私たちの住所がわかったとのことだった。
1111_1 右側、信陽で獣医をしていた1953年頃の父、隣は日本人助手
その前、父の実家の近所に住む小学生がラジオの安否放送を聞いていた。「たまたま敏樹さんの名前が放送されるのを聞き急いで丸山のおじいちゃん(祖父)に知らせたら誉めてくれた」と54年後、当時小学生だった前川武章氏に私は直接聞く機会があった。それまで中国で行方不明だった父の安否が分かり家族は役場に連絡を取った。
帰国するまで何回か伯母と父との間に手紙のやり取りがあり家族の近況や故郷・淡路島の様子がしだいにわかってきた。父は8人兄弟の次男で5番目に生まれたが、伯母の手紙に実家のあとを継いでいた長男の伯父が亡くなったことが記されていてショックだったと後年よく言っていた。
帰国前の取調べ
 7月の終わりごろ出発の時が来た。母の話によると信陽から武昌まで鉄道で行き、そこから揚子江対岸の漢口に渡り大型汽船で上海まで河を下ったという。
私たちは汽車に乗ったが、方向が目的地と逆の方向に走り始めたのに父はすぐに気が付いた。一駅目か二駅目ぐらいにおろされ、父だけが別室で取り調べを受けた。このことは私も初めて聞く話で、母に聞いても覚えていないという。
 どんな取調べを受けたのか、父の話ではこうだ。
「終戦後、ハルピンで暴動があったが、そのときの首謀者の疑いでしらべられた。」
 事実はどうだったのか、関係していたのか。
「全然知らない話だ、全く関係が無い」
 中国で終戦直後に日本人が関わった暴動では通化事件が有名であるがそのほかにも大小、さまざまな日本人が起こした事件があったようだ。
父が取調べを受けたのは、理由があり、右翼の活動家だった事がその一因でまた特務機関の手先をやっていた事も知られたようだ。
「八路軍の特務は優秀で何から何まで調べられていた。君には軍閥の親戚があるとも言われた。軍閥とは樋口の伯父さんのことだ」
 親族関係もきっちり調べられており、父の伯父にあたる樋口季一郎は陸軍中将のエリート軍人で軍閥の一員であり、父はその郎党であるという事だ。どのくらいの時間調べられたのか父も記憶が定かではなかったが、その日一日で疑いが晴れたようだ。
話を洗脳にもどすと、父がいうには、八路軍の規律「三大規律八項注意」は徹底して教えられたが、思想的なことは全く問われなかったとのこと。
「第一、戦争をしているのにそんな暇はなかった。わしも仕事(獣医)は一生懸命やった。「大功」という日本で言えば「金鵄勲章」のようなものを2度もらった。仕事については幹部も評価してくれたが、思想的には皇国史観に凝り固まっていたので、向こうもお手上げだったのではないだろうか、よくもまあ!わしのようなじゃじゃ馬を使ったものだハッハッハッハ」
父は愉快そうに笑った。

上海の煙草売りの少年

Memo0123 昭和7年ごろの上海バンド 写真集「昭和7年上海事変」より
刑務所前のタバコ売り 
 引揚げ船がでるのを待っている間、父はヒマをもてあまして毎日市中を散歩していた。いつも通るコースの途中に刑務所があって、その前で10歳そこそこの少年が数人、りんご箱のようなものを台にして出店を開き煙草を売っていた。何故刑務所の前で煙草を売っているのかといえば、父の説明ではこうだ。

 「刑務所から出所する人間を相手に売っているわけだが、箱売りではなくバラで1本から売っている。仮に20本入の箱が標準価格200円で1本当たり10円とすれば、ここで1本だけ買うと20~30円ぐらい取られる。非常に利幅が大きい。どうしてこんな商売が出来るかというと、当時の男はほとんどが煙草中毒だ。刑務所から出てきたばかりの人間はあんまり金を持ってない。刑務所内では禁煙なので、出てくる頃は、禁断症状になっている。久しぶりのショバに出て、煙草を見るとすいたくて、すいたくてたまらない。とにかく最初の1本が欲しい。そこが少年たちの付け目で、1箱買う金は無くても、なんとか1本ぐらいは買える。かくて出所祝いに皆一服吸うことになる」
これが結構はやっていると言う。革命直後で治安が悪く、元日本兵で悪事を働く人間も多いのか刑務所内は満杯で出入りが激しい。こういう商売だと資本が無くても直ぐ始められる。父は商売の着眼点が見事なのに感心した。 

朝鮮戦争特需
 当時の中国は共産党を中心とする革命政権が樹立してまだ4年、人民元への幣制統一も道半ばだった。台湾に逃れた国民党政府の法幣を始めさまざまな貨幣が流通していた。父が知っているだけでも人民元、法幣、汪兆銘南京政府の儲備券(ちょびけん)、八路軍の軍票、ソ連軍の軍票、日本軍の軍票、日本円、地方軍閥の通貨など多種類の紙幣があって、それぞれ値打ちが違い、毎日変動する。

 「子供達はどんな種類のお金を受け取っても、瞬時に為替計算をしてお釣りを渡している。そろばんも持っていないし、全部暗算で、てきぱき商売をしている。あれには驚いた。まだ10歳そこそこの子供が大したものだった」
ある日父はいつものように、散歩の途中で刑務所前の少年達の商売を眺めていた。その時少年達はいつもとは違って興奮した様子でしゃべくりあっていた。耳を澄ますと「円を貯めておいてよかった」とはしゃいでいる。

 1945年8月15日、戦争に日本が負けて円の値打ちが一気に下落したがそれでもほそぼそと流通はしていた。刑務所から釈放された人間が、円で支払った煙草代を少年たちはしこたま貯め込んでいたようだ。革命後、人民中国で円はほとんど値打ちが無くなったと思われていた。ところが朝鮮動乱が始まると日本はアメリカ軍の兵站基地となり特需景気に沸いた。吉田茂首相はこれを「天佑である」喜んだ。休戦協定が結ばれる頃には日本経済は息を吹き返し、円がドンドン上がりだした。
”風が吹くと桶屋が儲かる”ではないが、朝鮮の人々が塗炭の苦しみに喘いでいるとき時、敗戦国で旧宗主国の日本は復興するきっかけをつかみ、為替とは縁の無いような、上海の煙草売りの少年達が、大儲けした。
戦争は当事者でなければ、結構なものだと、日本人はこの時刷り込まれたのかどうかよくわからないが、その後ベトナム戦争でも特需を経験した。

「そりゃあ嬉しそうに…あの子達の笑顔は忘れられんなあ。日本は原爆を落とされ、焼け野原になったと聞いて心配していたが、これで大丈夫だと安心した」父は十数年ぶりに帰国する故国に思いを馳せた。

昭和28年の「時事世界」


Memo0095 中共残留邦人引揚船「高砂丸の待機」 「時事世界」昭和28年3月号 

 以前ヤフーオークションで手に入れた昭和28年発行のグラビア雑誌「時事世界」12冊をあらためて見ている。私達家族が中国から引揚げてきたときの記事がたくさんあるかもしれないと思い落札したのだが、引揚げ関係の記事は3月号と5月号に載っている、合計わずか3ページにすぎない。
セリ落とした時は期待が大きかっただけにショックだった。母に聞いたところ、この年の中国からの帰国者は、集団引揚げとしては最後から二番目で3万人ぐらいあり、国共内戦で行方不明だった者が大勢帰国したという。私の祖父もラジオの安否放送で父が無事である事を知り舞鶴まで迎えに来た。

終戦以来八年間、中共に抑留されていた同胞三万余名は、此のたび中共政府の好意に依り、日本に帰ることを許され、”興安丸””高砂丸”其他の客船が、それらの人々を満載して続々内地に引揚げた。写真は三月二十八日第一船 興安丸から舞鶴港に上陸した喜びの引揚者たちで、あまりの嬉しさに何も彼も夢心地、所要の手続きや身の上相談なども終わり、待ちに待った家族達との再会に胸ふるはせ、かくて一夜をぐっすり眠って元気を恢復した人々は、麗かな春陽を浴びて、市内散歩するなど至るところに和やかな情景を展開した。   時事世界昭和28年5月号より
Memo0078_2
「時事世界」昭和28年5月号。

 この写真雑誌は世界のニュースの中からスポーツ・芸能ネタ、面白ネタ、不思議ネタなどを中心に時事関係なども折りこみ構成している。当時としては「限界」のセミヌード写真も多く載っている。
Memo0083 立太子礼 「時事世界」昭和28年新年号より
圧倒的に多い記事は皇室関係で、1月号は明仁皇太子の立太子礼が折りこみカラーグラビアなど10数ページに渡って特集されている。
Memo0081 皇太子の欧州出発 「時事世界」昭和28年5月号
Memo0098 戴冠式の皇太子 前列左から4番目、ネパール皇太子妃の隣 「時事世界」昭和28年7月号
ほとんどの号が皇室特集と言ってよく、5月の英国女王の戴冠式にあわせてアメリカ、欧州の行く先々を追っかけ取材している。昭和20年の敗戦からまだ8年、日本の体制は戦前からほとんど変わっていないことを認識した。
Memo0097 アイドルのように可愛いエリザベス女王とエジンバラ公 「時事世界」昭和28年7月号

お盆になると思い出す話

お参り

  4年前父が亡くなり、その年の11月末から母と同居し始めた。それまで住んでいた、阿万(あま)の街中から1キロほど離れた隣町との境にある父の実家の近くまで引っ越した。父の実家には、中国から引き揚げてきて8年間住んでいた。隣近所の人達とも旧知の間柄であるので、年齢に関係なく「ちゃん」付けで呼び合う。引っ越してきてしばらくしたころ、隣保のふとん屋のあいこちゃんから、私たち家族が帰ってきたときの話をうかがった。

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 私たち家族が中国から帰国したのは1953年(昭和28年)のお盆のころで暑い盛りだった。当時高校生ぐらいだったあいこちゃんが今でも眼に焼きついている光景があると言う。父の実家の前には県道をはさんで大きな池があり、堤の脇の小道を約50メートルほど歩くとふとん屋さんに行きつく。「すみちゃん(妹)はお母さんに背負われて、一ちゃん(筆者)はヨチヨチ歩きでお父さんに手を引かれて池の横を歩いてくるのを家から見ていたんよ。戦死した二人の叔父さんをお参りに来てくれて・・・あの時の光景は忘れられんわ」 現在養子をとってふとん屋の跡を継いでいるあいこちゃんの叔父二人は大戦で戦死した。一人は父と同級生でもう一人とも歳が近いので遊び友達だった。

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 この話をきいて私は胸にぐっと来るものがあったが同時に、ちょっと意外な感じを持った。というのは父はほとんど無神論者といっていいくらい神・仏を信じなかったからだ。祖父の墓参りなど一緒にした事がなかった。父が寺社に参って手を合わせるなんて姿は金輪際見たことがなかった。

 20世紀は戦争と革命の時代だといわれるが、父は激動の時代を生き抜いてきた。おそらく神・仏が最も頼りなかった時代だと思われる。数多くの死線を潜り抜けてきて、15年ぶりで故郷の土を踏んだ父の同級生の多くは鬼籍に入っていた。この時父の胸に去来するものは・・・尋ねたい父はもういない。

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