引揚げ

私の中の中国11.洗脳

歴史の授業 
 私が中学2年のとき、3月の終業式まえになっても歴史の授業が江戸時代の終わり頃までしか進まず、追加の授業を道徳の時間にすることになり、急遽教頭の馬渕先生が教える事になった。この時、2回の授業で江戸時代の終わりごろから戦後の米ソ冷戦時代まですっ飛ばしたが、後の1時間の終わりのほうで、東西冷戦とか社会主義陣営の情報統制を習った。ソ連は鉄のカーテンで中共は竹のカーテンだと説明され、そのあと「戦後中共から引き揚げてきた人間は洗脳されて共産主義者になったと言う人もいる」とはっきり断定しないで、馬渕先生は「言う人もいる」といったように記憶している。このあたりはちょっとズルイ気がして、私はこのとき自分の家族が名指しされたような気分になり、恐らく先生は私の一家が中国からの引揚げ者だと知らなかったとは思うが、かなりのショックを受けた。洗脳というおどろおどろしい、言葉を初めて知ったが、以来この言葉は私の心の中でことあるたびマグマのようにブツブツ噴出する。

 父に洗脳されたのかなんて子供の私は聞けなかった。いつか聞いてやろうかと思ってはいたが、是が非でもというほどでもなく、ずるずると時がたち、結局尋ねたのが亡くなる半年前であった。
父は「わしは解放軍の中で、同僚とは仲良くやっていたが、上のほうの人間からは最後まで信用されてなかったなあ、そういえば帰る直前にこんな事があった・・・」と話し始めた。

再開された集団引揚げ
 
戦後の中国残留日本人の帰国は国共内戦の進展により中断されていたが、新中国成立後の1950年夏ごろジュネーブで日本赤十字社代表と中国紅十字会代表が接触する機会があった。日本政府は米国に気を使って積極的な動きをしない中、1952年4月から7月にかけて戦後政治家として初めてソ連と中国を訪問した帆足計、高良とみ、宮腰喜助の三人が中国残留日本人の帰国促進を中国政府に要請した事からようやく引揚げ問題が動き出した。1952年10月1日人民日報に「残留日本人の帰国を援助する方針についての政府声明」が掲載された。
1111  1953年1月26日羽田空港で見送りを受ける訪問団。タラップ2段目が日赤社長、島津忠承。 「時事世界」1953年3月号より
翌1953年1月から3月まで中国紅十字会と日本赤十字社島津忠承を団長とする民間三団体の訪問団が北京で会談して中国に残留している日本人の 帰還問題が話し合われ、引揚げ事業を再開することで合意がなされた。

 その頃中国河南省信陽の牧場に居た私達家族のもとに一通の手紙が送られてきた。父の一歳上の尼崎に嫁いでいた伯母からであった。中国政府の日本人残留者名簿が日本政府に送られ私たちの住所がわかったとのことだった。
1111_1 右側、信陽で獣医をしていた1953年頃の父、隣は日本人助手
その前、父の実家の近所に住む小学生がラジオの安否放送を聞いていた。「たまたま敏樹さんの名前が放送されるのを聞き急いで丸山のおじいちゃん(祖父)に知らせたら誉めてくれた」と54年後、当時小学生だった前川武章氏に私は直接聞く機会があった。それまで中国で行方不明だった父の安否が分かり家族は役場に連絡を取った。
帰国するまで何回か伯母と父との間に手紙のやり取りがあり家族の近況や故郷・淡路島の様子がしだいにわかってきた。父は8人兄弟の次男で5番目に生まれたが、伯母の手紙に実家のあとを継いでいた長男の伯父が亡くなったことが記されていてショックだったと後年よく言っていた。
帰国前の取調べ
 7月の終わりごろ出発の時が来た。母の話によると信陽から武昌まで鉄道で行き、そこから揚子江対岸の漢口に渡り大型汽船で上海まで河を下ったという。
私たちは汽車に乗ったが、方向が目的地と逆の方向に走り始めたのに父はすぐに気が付いた。一駅目か二駅目ぐらいにおろされ、父だけが別室で取り調べを受けた。このことは私も初めて聞く話で、母に聞いても覚えていないという。
 どんな取調べを受けたのか、父の話ではこうだ。
「終戦後、ハルピンで暴動があったが、そのときの首謀者の疑いでしらべられた。」
 事実はどうだったのか、関係していたのか。
「全然知らない話だ、全く関係が無い」
 中国で終戦直後に日本人が関わった暴動では通化事件が有名であるがそのほかにも大小、さまざまな日本人が起こした事件があったようだ。
父が取調べを受けたのは、理由があり、右翼の活動家だった事がその一因でまた特務機関の手先をやっていた事も知られたようだ。
「八路軍の特務は優秀で何から何まで調べられていた。君には軍閥の親戚があるとも言われた。軍閥とは樋口の伯父さんのことだ」
 親族関係もきっちり調べられており、父の伯父にあたる樋口季一郎は陸軍中将のエリート軍人で軍閥の一員であり、父はその郎党であるという事だ。どのくらいの時間調べられたのか父も記憶が定かではなかったが、その日一日で疑いが晴れたようだ。
話を洗脳にもどすと、父がいうには、八路軍の規律「三大規律八項注意」は徹底して教えられたが、思想的なことは全く問われなかったとのこと。
「第一、戦争をしているのにそんな暇はなかった。わしも仕事(獣医)は一生懸命やった。「大功」という日本で言えば「金鵄勲章」のようなものを2度もらった。仕事については幹部も評価してくれたが、思想的には皇国史観に凝り固まっていたので、向こうもお手上げだったのではないだろうか、よくもまあ!わしのようなじゃじゃ馬を使ったものだハッハッハッハ」
父は愉快そうに笑った。

上海の煙草売りの少年

Memo0123 昭和7年ごろの上海バンド 写真集「昭和7年上海事変」より
刑務所前のタバコ売り 
 引揚げ船がでるのを待っている間、父はヒマをもてあまして毎日市中を散歩していた。いつも通るコースの途中に刑務所があって、その前で10歳そこそこの少年が数人、りんご箱のようなものを台にして出店を開き煙草を売っていた。何故刑務所の前で煙草を売っているのかといえば、父の説明ではこうだ。

 「刑務所から出所する人間を相手に売っているわけだが、箱売りではなくバラで1本から売っている。仮に20本入の箱が標準価格200円で1本当たり10円とすれば、ここで1本だけ買うと20~30円ぐらい取られる。非常に利幅が大きい。どうしてこんな商売が出来るかというと、当時の男はほとんどが煙草中毒だ。刑務所から出てきたばかりの人間はあんまり金を持ってない。刑務所内では禁煙なので、出てくる頃は、禁断症状になっている。久しぶりのショバに出て、煙草を見るとすいたくて、すいたくてたまらない。とにかく最初の1本が欲しい。そこが少年たちの付け目で、1箱買う金は無くても、なんとか1本ぐらいは買える。かくて出所祝いに皆一服吸うことになる」
これが結構はやっていると言う。革命直後で治安が悪く、元日本兵で悪事を働く人間も多いのか刑務所内は満杯で出入りが激しい。こういう商売だと資本が無くても直ぐ始められる。父は商売の着眼点が見事なのに感心した。 

朝鮮戦争特需
 当時の中国は共産党を中心とする革命政権が樹立してまだ4年、人民元への幣制統一も道半ばだった。台湾に逃れた国民党政府の法幣を始めさまざまな貨幣が流通していた。父が知っているだけでも人民元、法幣、汪兆銘南京政府の儲備券(ちょびけん)、八路軍の軍票、ソ連軍の軍票、日本軍の軍票、日本円、地方軍閥の通貨など多種類の紙幣があって、それぞれ値打ちが違い、毎日変動する。

 「子供達はどんな種類のお金を受け取っても、瞬時に為替計算をしてお釣りを渡している。そろばんも持っていないし、全部暗算で、てきぱき商売をしている。あれには驚いた。まだ10歳そこそこの子供が大したものだった」
ある日父はいつものように、散歩の途中で刑務所前の少年達の商売を眺めていた。その時少年達はいつもとは違って興奮した様子でしゃべくりあっていた。耳を澄ますと「円を貯めておいてよかった」とはしゃいでいる。

 1945年8月15日、戦争に日本が負けて円の値打ちが一気に下落したがそれでもほそぼそと流通はしていた。刑務所から釈放された人間が、円で支払った煙草代を少年たちはしこたま貯め込んでいたようだ。革命後、人民中国で円はほとんど値打ちが無くなったと思われていた。ところが朝鮮動乱が始まると日本はアメリカ軍の兵站基地となり特需景気に沸いた。吉田茂首相はこれを「天佑である」喜んだ。休戦協定が結ばれる頃には日本経済は息を吹き返し、円がドンドン上がりだした。
”風が吹くと桶屋が儲かる”ではないが、朝鮮の人々が塗炭の苦しみに喘いでいるとき時、敗戦国で旧宗主国の日本は復興するきっかけをつかみ、為替とは縁の無いような、上海の煙草売りの少年達が、大儲けした。
戦争は当事者でなければ、結構なものだと、日本人はこの時刷り込まれたのかどうかよくわからないが、その後ベトナム戦争でも特需を経験した。

「そりゃあ嬉しそうに…あの子達の笑顔は忘れられんなあ。日本は原爆を落とされ、焼け野原になったと聞いて心配していたが、これで大丈夫だと安心した」父は十数年ぶりに帰国する故国に思いを馳せた。

昭和28年の「時事世界」


Memo0095 中共残留邦人引揚船「高砂丸の待機」 「時事世界」昭和28年3月号 

 以前ヤフーオークションで手に入れた昭和28年発行のグラビア雑誌「時事世界」12冊をあらためて見ている。私達家族が中国から引揚げてきたときの記事がたくさんあるかもしれないと思い落札したのだが、引揚げ関係の記事は3月号と5月号に載っている、合計わずか3ページにすぎない。
セリ落とした時は期待が大きかっただけにショックだった。母に聞いたところ、この年の中国からの帰国者は、集団引揚げとしては最後から二番目で3万人ぐらいあり、国共内戦で行方不明だった者が大勢帰国したという。私の祖父もラジオの安否放送で父が無事である事を知り舞鶴まで迎えに来た。

終戦以来八年間、中共に抑留されていた同胞三万余名は、此のたび中共政府の好意に依り、日本に帰ることを許され、”興安丸””高砂丸”其他の客船が、それらの人々を満載して続々内地に引揚げた。写真は三月二十八日第一船 興安丸から舞鶴港に上陸した喜びの引揚者たちで、あまりの嬉しさに何も彼も夢心地、所要の手続きや身の上相談なども終わり、待ちに待った家族達との再会に胸ふるはせ、かくて一夜をぐっすり眠って元気を恢復した人々は、麗かな春陽を浴びて、市内散歩するなど至るところに和やかな情景を展開した。   時事世界昭和28年5月号より
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「時事世界」昭和28年5月号。

 この写真雑誌は世界のニュースの中からスポーツ・芸能ネタ、面白ネタ、不思議ネタなどを中心に時事関係なども折りこみ構成している。当時としては「限界」のセミヌード写真も多く載っている。
Memo0083 立太子礼 「時事世界」昭和28年新年号より
圧倒的に多い記事は皇室関係で、1月号は明仁皇太子の立太子礼が折りこみカラーグラビアなど10数ページに渡って特集されている。
Memo0081 皇太子の欧州出発 「時事世界」昭和28年5月号
Memo0098 戴冠式の皇太子 前列左から4番目、ネパール皇太子妃の隣 「時事世界」昭和28年7月号
ほとんどの号が皇室特集と言ってよく、5月の英国女王の戴冠式にあわせてアメリカ、欧州の行く先々を追っかけ取材している。昭和20年の敗戦からまだ8年、日本の体制は戦前からほとんど変わっていないことを認識した。
Memo0097 アイドルのように可愛いエリザベス女王とエジンバラ公 「時事世界」昭和28年7月号

お盆になると思い出す話

お参り

  4年前父が亡くなり、その年の11月末から母と同居し始めた。それまで住んでいた、阿万(あま)の街中から1キロほど離れた隣町との境にある父の実家の近くまで引っ越した。父の実家には、中国から引き揚げてきて8年間住んでいた。隣近所の人達とも旧知の間柄であるので、年齢に関係なく「ちゃん」付けで呼び合う。引っ越してきてしばらくしたころ、隣保のふとん屋のあいこちゃんから、私たち家族が帰ってきたときの話をうかがった。

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 私たち家族が中国から帰国したのは1953年(昭和28年)のお盆のころで暑い盛りだった。当時高校生ぐらいだったあいこちゃんが今でも眼に焼きついている光景があると言う。父の実家の前には県道をはさんで大きな池があり、堤の脇の小道を約50メートルほど歩くとふとん屋さんに行きつく。「すみちゃん(妹)はお母さんに背負われて、一ちゃん(筆者)はヨチヨチ歩きでお父さんに手を引かれて池の横を歩いてくるのを家から見ていたんよ。戦死した二人の叔父さんをお参りに来てくれて・・・あの時の光景は忘れられんわ」 現在養子をとってふとん屋の跡を継いでいるあいこちゃんの叔父二人は大戦で戦死した。一人は父と同級生でもう一人とも歳が近いので遊び友達だった。

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 この話をきいて私は胸にぐっと来るものがあったが同時に、ちょっと意外な感じを持った。というのは父はほとんど無神論者といっていいくらい神・仏を信じなかったからだ。祖父の墓参りなど一緒にした事がなかった。父が寺社に参って手を合わせるなんて姿は金輪際見たことがなかった。

 20世紀は戦争と革命の時代だといわれるが、父は激動の時代を生き抜いてきた。おそらく神・仏が最も頼りなかった時代だと思われる。数多くの死線を潜り抜けてきて、15年ぶりで故郷の土を踏んだ父の同級生の多くは鬼籍に入っていた。この時父の胸に去来するものは・・・尋ねたい父はもういない。

隣保の方と引揚げの話をしました

 23日近所の方が亡くなってお葬式にいったのですが、一七日の法要のあと食事をよばれました。隣の席が隣保のタケちゃんで、私の家族が中国から引き揚げてきたときのことが話題になりました。タケちゃんはそのころ小学校の3年生でした。

 ある日タケちゃんがラジオを聞いていたとき、「ゴウトシキ」と私の父の名前がアナウンスされました。聴いていた放送は中国からの引き揚者の名簿を読んでいたのです。1953年頃は戦争ではぐれた親族や友人・知人を探す「尋ね人」や海外からの引揚者関係の情報番組がよく放送されていました。

 タケちゃんは早速、私の祖父に連絡しました。祖父は死んだと思っていた父が生きている事を知りとても喜びました。後々まで父の安否が分かった最初の一報を知らせてくれたタケちゃんに感謝をしていたそうです。

 私たち家族が中国から引揚げてきたのは1953年(昭和28年)8月で、お盆のころでした。満蒙開拓青少年義勇軍に地元阿万からただ一人志願して満州に行った少年が15年ぶりに家族をつれて帰ってくるというので町では大変話題になりました。

 その日は町長をはじめ大勢の人が父の実家の前にある池の堤防に集まりました。私たち家族がバス停から歩いてくる姿が見えると万歳をして出迎えてくれたそうです。

 この話をタケちゃんから聞いて胸にグッと来るものがありました。地域社会は暖かかったのです。それに比べ国家はどうしようもないと言うか、国策で子供を遠い満州に送り込んでおきながら、15年も苦労してやっと帰ってくると「アカに洗脳されたと」刑事がつけまわす。ほんとに、おかしな国だと思います。

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