陸軍中将樋口季一郎

NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇 後半

8月20日のソ連軍Dsc07230 

8月20日ソ連軍は樺太で最大の上陸作戦を敢行する。10隻を超える軍艦が真岡の港に現れ激しい艦砲射撃を繰り返す。この日樺太師団の鈴木参謀長は、初めてソ連軍との交渉に臨む。

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鈴木は停戦協定を結び、避難民を南下させるよう提案をする。ソ連側は無条件降伏をしたのだから武装解除し捕虜として投降せよと迫る。住民の犠牲を恐れていた鈴木。それでも樺太死守の命令に縛られ建前をくりかえす。「ソ連軍が南下すれば遭遇戦になるのでソ連側が進駐を見合わせるのが最上の策ではないか」と。ソ連側は怒りを募らせ「我々は進駐を続ける」と3時間にわたる交渉は決裂した。停戦の機会は生かせなかった。

真岡では艦砲射撃の後、3500人のソ連兵がなだれ込んできた。絶望した住民の集団自決が相次ぐ。艦砲射撃にさらされた藤谷和子さんは、これまで胸の中にしまっていた記憶を初めて話した。

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中学校の教員だった父親は軍刀で自殺。その傍らには妻と子供たちの遺体が並んでいた。

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一億玉砕の掛け声のもと「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本軍の考えが住民にも植え付けられていた。藤谷さんは言う「かっこ悪くてもはだしでも家族全員で逃げてほしかった」

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このころ真岡の背後にある熊笹峠では武装した200名以上の日本兵が控えていた。しかし真岡の住民を守るため動くことはなかった。軍は樺太師団の司令部がある豊原への進攻を阻止するため峠で兵士たちを待ち伏せさせていた。元軍曹の熊谷義衛さんの証言によれば、「真岡を守ろうという」ことは全然考えていなかったという。ソ連軍の前に置き去りにされた住民たち。

元ソ連兵の証言によれば、「ある兵士は家に火をつけ、別の兵士は女性をレイプした。殺された母親に子供がすがりついて泣いている光景も見た」

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当時、真岡に住んでいた、松下ハルさんの姉はソ連兵が上陸した直後、自ら命を絶った。姉の澤田キミさんは真岡の郵便局の電話交換手だった。軍や行政の通信を担うため命より大切な仕事と教育された。

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ソ連軍が上陸する2日前、引き揚げ船に乗ることになった家族は、キミさんも一緒につれていこうとした。しかしキミさんは大事な職場を守るためと一人真岡にとどまった。

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8月20日ソ連兵が上陸。銃撃音が続く中、キミさんたちは状況を豊原の軍に伝え続けた。

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豊原で交換手をしていた、栗田八千子さんはキミさんたちの連絡を受けていた。「真岡さん何?えー爆撃?とか言ってるうちに、ロスケが見えます。これでさようなら」と言ってその後聞こえてきたのがうめき声だった。「こちらは飲まないでというのが、精いっぱいだった」

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キミさんを含めて9人の女性たちは用意されていた自決用の青酸カリを飲んでいのちを落とした。

松下さんは真岡を離れるとき姉のキミさんから着物を託されていた。結婚が決まっていた嫁入り道具です。Dsc07353

ソ連軍が上陸したこの日、真岡では1000人が死亡。その後、豊原の師団司令部も空襲を受け、引き揚げ船も攻撃され、樺太戦の犠牲者は5000人以上に上った。

8月22日、終戦から1週間たち停戦が成立。樺太死守を命じていた札幌の方面軍が大本営の指示を受け直ちに停戦せよと命令を翻したためだった。

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武装解除した樺太師団、ソ連側が撮影した映像に鈴木参謀長の姿が映っていた。住民の犠牲を防げず樺太を死守することもできなかった鈴木。後悔の言葉を残している。「自分の任務遂行はあれでよかったか結果は明瞭にノーである」

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参謀長だった鈴木は12年間シベリアで抑留生活を送った。住民の多くはおよそ2年間ソ連占領下にとどめ置かれた。家族や財産を失い帰国した後も苦難の戦後を送った。

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作家の保坂正康氏は言う「戦争で責任を重く感じるのは一番下の人だ。国民、庶民、戦闘隊に組み込まれた人だ。この人たちが太平洋戦争でも犠牲が一番多い。ところが命令を出した人、具体的な行動を指示した人の責任が恐るべき程日本は欠けている。私たちは悲しくなる。これほどまでに戦わされた国民義勇兵、本土決戦とは何なのか、資料を基にこの責任はどこにあるのか、史実として何を語り継ぐべきなのか、やらなきゃいけない。

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樺太・真岡のサハリン・ホルムスク市、樺太で電話交換手姉の姉を亡くした松下ハルさんは引き上げ後初めて訪れる。

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NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇 前半

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先制攻撃をした日本軍

2017年8月14日に放送された「NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」は、それまで知られていなかった、樺太地上戦の真実を知る証言者が多く出演している。戦後よく言われていたのは、ソ連が一方的に停戦を無視して8月15日を過ぎても攻撃してきたというものだ。千島戦もその文脈で語られてきた。

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8月16日南樺太の恵須取(えすとる)の守備隊300人は海岸を鼻歌交じりで上陸してきたソ連兵に先制攻撃して一気に7人を殺した。上陸してきたソ連兵は全く戦う気力がなかったのだ。日本軍の先制攻撃が引き金となりソ連軍は艦船から機関銃で反撃してきた。武器・装備に勝るソ連軍に日本軍はすぐ追い詰められ、退却した。この時樺太88師団の元二等兵大槻順治氏の証言によると、部隊は終戦の事実を知らされていなかった。8月14日恵須取の町は大規模な停電があり玉音放送を聞くことができなかった。現地部隊の上層部は兵士に終戦の事実を秘匿した。大槻さんは何も知らずに戦いを続けさせられたことに、憤りを感じている。

終戦翌日の樺太死守命令

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16日午後樺太師団司令部には、終戦後にもかかわらず、樺太死守の命令が届いていた。武装解除の準備を進めていた鈴木参謀長は不信に思い札幌の方面軍作戦主任に電話で問い合わせるが、はっきりしない。

この日大本営はやむを得ない自衛を除いては即時戦闘行動の停止すべしと天皇の名で全軍に伝えていた。ところが札幌の第五方面軍は樺太を死守すべしと鈴木たちに命令をしていた。

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命令を出した札幌の第五方面軍司令官樋口季一郎中将は戦後こう回想している「私自身はソ連がさらに進んで北海道本島を侵攻することがないかという問題に当面したソ連の行動如何にとっては自衛行動が必要になろう」

樋口司令官は北海道占領の防波堤として樺太死守を命じていた。しかし樺太師団にはソ連に対抗するだけの戦力がなく援軍もなかった。

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樺太の住民が最前線で戦った資料がモスクワの国立アーカイブにある。女性や子供も駆り集めて国民義勇戦闘隊を組織して軍とともに戦うのだ。武器は槍、手りゅう弾、毒矢、で玉砕全員戦死するまで、遊撃戦で戦うという。軍が念頭に置いていたのは沖縄戦で、住民を軍に協力させ本土決戦までの時間を稼いだとして高く評価していた。軍は本土決戦で全国に国民義勇戦闘隊を組織する予定だった。樺太はその計画が実行された唯一の戦場になった。

竹槍・手榴弾・毒矢の義勇隊

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金沢正信さんは16歳の時近所の人たちと一緒に国民義勇戦闘隊に召集されされ、ソ連軍が上陸した恵須取に投入された。武器は熊撃ち用の古い銃で、訓練もなしに普段着のままゲリラ戦を戦った。遊撃戦の効果はなく、いたずらに死傷者が増えるだけで、ある地域では義勇隊員100人が命を失ったと記録されている。

地獄絵図

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奇跡的に生き延びた金沢さんは、山道に入り逃避行を続ける。そこで見たものは、戦火を逃れる途中で命をなくした人々だった。子供の死体、子供連れの母親が動けなくなった子供を、がけから突き落とし半狂乱になり歩く姿。歩けなくなった幼い子供と一緒に手りゅう弾で自殺する家族。南北450キロある南樺太を逃げる住民たちは、引き揚げ船がでる港を目指して南下していた。その人々の群れがソ連の戦闘機の標的となっていた。

日本はマッカーサーが占領

8月17日トルーマンは北海道北部の占領を要求するスターリンに日本本土は全部マッカーサーが占領すると回答した手紙をしたためた。米ソの動きを知らない樺太師団は、北海道の防波堤として出された樺太死守の命令を守り戦闘を続けてゆく。

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映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」

アッツ・キスカの司令官 樋口季一郎

三船敏郎が主演したこの映画をDVDで見たことがある。木村昌福少将は大村少将名で 登場者はみな仮名だが、キスカ撤退作戦を史実に沿って描いた実録ものといってよい。戦争映画にもかかわらず戦闘シーンがあまりない。「阿武隈 」が濃霧で一寸先も見えないキスカ島を周回するシーンなどは緊迫感に満ちて、長時間、画面にくぎ付けになった。円谷監督の特撮技術も素晴らしかった。

私がこの映画を見たのは、樋口季一郎がどのように描かれているかの一点だった。しかし期待に反して樋口は全く出てこない。アッツ放棄の代わりにキスカは救出するという秦参謀次長との談判の場面があるのかと思ったがない。6000人が一会戦するぐらいあった膨大な兵器の遺棄焼却の場面は見なかった。

北方軍としては兵器、弾薬、被服、糧食中ぜひ携帯兵器だけは携行したしと考えたが、海軍との折衝がつかなかった。そこで私は、私の責任に於いて「已むなければ放棄することを得」と裁定した。ー中略ー 私はこの件に関しては、生存人員を北方の守備に用うることをより価値ありと決心したものである。ー中略ー 右の遺棄の種類及び量は相当のものであったであろう。今や資料なし。大体該兵力に対する一会戦分位ではなかったか。

 陸軍中将樋口季一郎回想録418pより 芙蓉書房出版

この判断は合理主義者樋口の面目躍如だろう。海軍の救出作戦なので陸軍はおよびでないのは、承知だが、昭和40年制作のこの映画は樋口がまだまだ元気な時なので、何らかの接触はあったのかもしれない。しかし戦後20年なら、アッツ玉砕の関係者や遺族・親族も多く存命で、とても映画のシーンに樋口を登場させることはできなかった。アッツの玉砕命令は樋口北方軍司令官の命令で出したもので、当然だろう。キスカが救出され隣の島のアッツが玉砕命令では、死んだ兵とその親族はたまらない。そのためキスカ撤収作戦の成功は戦前秘密にされた。アッツ玉砕は悲惨さを逆手に取り宣伝され、彼らに続けと、自殺攻撃が称賛され、敵への憎しみを煽った。

Dsc07141山崎部隊長に対する感状には「勇猛沈着難局に対処して一兵一弾の増援も望ます毅然として必勝を確信し敵撃滅の一途に邁進す」と樋口が増援を約束した事実を無視した言葉を書き連ね、北東方面陸軍最高指揮官(樋口季一郎のこと)の名前で発表した。このことは戦局が悪化して戦闘が不利になっても日本は増援する余力がないことを暗に認め国民に必死の覚悟を求めたものである。

Dsc07139昭和18年9月8日内閣情報局印刷発行「写真週報」より

 昭和14年、北支に出征される時に、山崎部隊長はコルトか何かの掌に入るような小型の拳銃を携行された。令息たちが「お父さんそんな小さな拳銃では、敵は撃てないでしょう」と言ったら、部隊長はニコニコ笑いながら「いやこの拳銃は敵を撃つためじゃない。最後のときにこうするのだよ」と言って、自分で銃口を当てて見せられたそうである。先日私が伺ったときも、令夫人「主人はかねがね自決の方法を研究していたようでございますから、たとえどんな重傷を負っても、必ず自決していることを私はかたく信じて居ります」と申されておった。この一言を以ってしても、部隊長平素のお心構えが窺われるのです。それは右手をやられれば左手でやる両腕をやられればどうする、という風にいろいろな場合を研究して居られた。だからどんなことがあっても、最後はりっぱに自決しているということを、令夫人は絶対に確信して居られるのです。――中略――。しかし、その神霊は天翔り国駆りして靖国の御社にお還りになるのであって、遺骨は問題でないのであります。日頃からよくこの覚悟を申し聞かされて居た令夫人は「玉砕と承っても、決して遺骨のことなど、思ったことはございません。ただ日頃から主人に気づかれないように、少しづつ主人の爪と髪の毛はしまっておきました」と述懐して居られたが、覚悟に徹してしかも細かい心づかいの届いた武人の家庭の見事さ、部隊長も部隊長なら奥様も奥様、実に大したものだとつくづく感激した次第です。
――「ああ山崎部隊長」昭和18年8月1日発行富士(キング改題)より

日本のマスコミは戦時下にあって政府に対してお追従記事を書くのみであった。

 

 

 

 

 

 

樋口季一郎は右翼に好かれる

コスプレ右翼

20年以上前のことである。神戸新聞に樋口季一郎の記事が大きく出た。親戚の阿万家に保存されていた、礼装の軍服のカラー写真が目を引く、一ページを丸ごと使った「人萌ゆる」という記事だ。

Dsc07134 2000年10月18日神戸新聞より

この記事が出てからしばらく、父に問い合わせが多くきて、対応に追われた。いろいろな人がいるもので、播州から訪ねてきた人は、軍服を是非見せてくれという。その人は播州で戦争資料館を経営しているという。その資料館の写真を見ると観光地にあるような土産物屋の屋台で、日の丸や旭日旗が店頭いっぱいに掲げられていた。父はその方を連れて阿万家に行った。帰ってきた父は笑いながら「礼装の軍服を着たいといって弱った・・・あまりに熱心に頼むので上着だけ着てもよいといったら飛び上がって喜び、記念写真を嬉しそうに撮って帰っていった。」

そのあと阿万家の当主徳幸さんは、軍服をきれいにクリーニングして、収納箱に山ほど樟脳をいれ、しまった。

軍人は人殺し稼業

新聞の影響力は強いもので、樋口の記事がでるといろんな人が電話をしてくる。たいていは右翼思想の持主と思しき人だ。私は一度熱心な樋口ファンと父が電話で話しているのを聞いていたことがある。

「ええ、ええ、はい、はい、はい」と最初は機嫌よく相手の話を聞いていた父は急に語気を強めて「日の丸・君が代も大切ですが、日本中にある米軍基地に掲げてある星条旗をなんとかせなあかんのと違いますか。靖国神社に参るのもいいけど、死んだ人は故郷に墓があるんですよ。参るとこは一つでいいのじゃないの。・・・一将功なりて万骨枯るというでしょう。わしの友達はみんな帰らず、同級生の男子は3割以上も死んだよ。それになんぼ将軍といって偉そうにしてもしょせん軍人なんて人殺し稼業だよ。はい、はい、わかりましたそれじゃまた」といってガチャンと受話器を切った。

私は不機嫌になった父のほうを見ると「樋口は素晴らしいとあんまりほめ倒すので、気持ち悪くなってきて言ってやったんだ。うちの家は控えめな家系で、身内の功績をひけらかすようなことはしないんじゃ」

私はそのとき父が言った「軍人なんて人殺し稼業」にシビレました。軍事オタクは戦史を見るとき自分が軍司令官や参謀になったつもりで話す人が多い。しかし実際の戦争で、庶民は一兵卒で出征するのです。父はその時、一兵卒であった自分を思い出していた。

続く

 

産経新聞に樋口季一郎の記事

3月25日(土)産経新聞の淡路欄に樋口季一郎の記事が載っています。

数日前に産経新聞洲本支局の中野さんから電話があり,樋口の写真がないかとのことで、来訪されました。伊弉諾神宮の宮司さんが連載記事を持っており,樋口のことを書くので、写真を貸してほしいとのこと、パソコンに入れてあった何枚かを見てもらって、新聞に載ったのがこの写真です。

中野さんは前もって私のこのブログを見ていたらしく、父のことやら、樋口のことなどいろいろ、話をしました。

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私は最近、樋口の礼賛記事には、ステレオタイプのものが多く、食傷ぎみで、率直に苦言を呈しました。昨年、孫の樋口隆一さんが来島したおりも、申し上げたのですが、ユダヤ人を救出した数字が2万人というのは、間違いであり、誇大な数字の一人歩きはかえって事件の信ぴょう性に疑問を持たれ、なにより樋口本人の名誉を傷つけることになると。

一時間余り、波乱万丈の父の話など織り交ぜて歓談しました。シュムシュ島の戦いで北海道占領をまぬがれた。などの話は俗論であり私は明確に理由を説明して否定しましたが、なかなか理解が得られないようで、まあ産経さんならしゃないねえ、と私も記事にはこだわりません。宮司さんがなにを書こうと言論の自由で、記事の編集権は産経にあるし、私が文句をつける筋合いはありませんが、明らかな間違いの「ユダヤ人救出2万人説」が書かれていないのが何よりでした・・・

中野さんもおっしゃっていましたが、「野口英世なども教科書に書かれていることと、実際の人物はまるで違うらしい」と、なかなか真実というのはわからないものですね。樋口の全体像についてはずっと思案中で、将軍の立場からではなく一兵士の父の立場からなど、いろいろの角度から書いていきたいと思います。

いなみ野学園の方々が来島

 
 本日、加古川のいなみ野学園文化学科で学ばれている、五名の方々が来島され、阿万公民館でお話ししました。毎年テーマを決めて勉強をされているそうですが、今年は神戸新聞で樋口季一郎のことを知り、来年2月に、学園で論文を発表されるそうです。私のブログなどをみて、身内にしかみせない私的な「樋口像」をもっと知りたいとのことで、今日お会いする約束でした。
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 近年樋口季一郎の事績が注目されるようになり、身内としては、うれしいのですが、研究発表のための調査ということなので、年表資料をつくり、しゃべったのですが、上手く話せたか自信がありません、日ごろ長時間しゃべるという事があまりなく、最後はあちこち話が飛んで反省しています。でもみなさん向学心が旺盛でこちらも知的な刺激をうけ勉強になりました。
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参加者は、公民館長さん、私のともだち、親戚など全部で10名でした。
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樋口季一郎の合理主義

003 4月2日阿万家にて006 4月2日阿万家にて

温度計を買って来

 志賀成将君一行が来島したとき、阿万家に行き、従兄弟の、のりちゃんと樋口季一郎が淡路に来た時の思い出話をした。私は当時中学二年生で、のりちゃんは10歳年上なので二十代前半の若者だった。
のりちゃんは、初めて会った時「樋口は、いきなり手を差し出し、握手をしてきた」のでビックリしたという。握手というのは西洋では普通の挨拶に過ぎないが、日本では一般的にしない、政治家が選挙の時はやたらしまくるが、投票が終わるとまったくしなくなる。第一日本人は初対面の人の身体に触るということをしない。お辞儀をするのがふつうである。昔テレビのニュースで、ソ連のブレジネフ書記長が外国の要人と会うとき握手どころか、いきなりむんずと抱き合い大胆にもブチューとホッペタにキスをするのでビックリした事がある。国家を背負った西洋人の挨拶って格闘技のようにすごい。

 のりちゃんは樋口に「世話係を命ずる」とか言われ、ふとんをしいたり、お茶を持っていったり、お風呂を沸かしたり、大忙し。湯加減は特にうるさく、よくかき混ぜて、上下均一にして温度計で40度か41度ぐらいに沸かさないといけない「命ずるなんて言いやがって、この爺さんはよ帰れと思っていた」のりちゃんは昨日のことのようにまくしたて、そのあと悪戯っぽく笑った。
樋口と温度計と風呂は切ってもきれない、淡路の親戚ならみんな知っているエピソードで、おば達もよく話していた。
「お風呂の湯かげん、ぬるかったらゆうてな」と声をかけると、樋口は「そんな無駄なことしないで温度計ではかりなさい!」という。温度計など用意していなかったので、早速買いにいったそうだ。樋口に言わせると「ゆかげん」なんて一人ひとり皆違って「いいかげん」と言う。温度計は科学的で、客観的で、誰が見ても間違いがないと言う。 

敬天低温
 
樋口が金沢の第九師団長であった、昭和15年10月、満州牡丹江に移駐した。ある冬、ソ満国境に派出されていた一小隊を視察した。司令官の来訪を喜んだ隊員たちは雪を溶かして風呂を用意してくれたという。

私はこの時、好奇心を抱き、雪と水を比較したのである。そのため飯盒二個を持ち来たらしめ、飯盒一杯に強く(この強くが非科学的で、雪質も非科学的だが)雪を詰め飯盒一杯の水を得るに何杯の雪を要するかを検したのであった。しかして得た答えは、十二杯ということであった。さすれば、私のための風呂水のためその風呂桶の八杯分位の雪を溶かしたことになるであろう。
ー中略ーその夜午前二時となるも私の下体、冷却して眠に入ることができない。私の従兵は、(私は従兵永倉兵長を今に忘れることができない)それを憂え、同僚兵士の水筒四、五個に熱湯をつめ私の腰、脚、足を温めてくれるが、それだけの効果がないのである。それもそのはず、私共の身体下位における空気温度は、依然零下十度内外であった。それでも疲れたる、また生活力旺盛なる兵士は、白川夜船の快眠をとっているのである。当時私はまだ若いと自認していたのであるが、やはり師団第一の老兵であったのであり、老兵に対し、「寒兵」は最大の強敵であったのである。    陸軍中将樋口季一郎回想録より

 樋口は旧軍人に特有な精神主義的なところはほとんどなく、書いた文章を見ていると科学的とか学理とか学者が使うような言葉が随所に出てくる。自然科学に興味を示し、実際上疑問に思ったことは実験をして確かめる。対ソ戦の専門家として、戦術・戦略のみならず、ロシア人の生活を研究してその驚異的な耐寒能力を認め、ドイツが負けたのはヒトラーやその幕僚が自分ほどの寒地体験をもたなかったからだと断ずる。従って満州を舞台とする日ソ戦は春に始まり秋に終わるべきであり軍の配兵はその条件で考えるべきであったと言う。

もしそれ零下三、四十度において野外演習を行うことを想像せよ。またそこでの野営を考えても見よ。さらにそのような温度において秒速数十メートルの強風(零下二十度以下においては、秒速一メートル毎に温度一度低下すると考えてもよいとされる。これはやや非科学的であるが、ひとつの重要なる常識である)を思うがよい。それは真に、「殺人」以外の何ものでもないのであり、「元気」、「勇気」などその価値零に等しいのである。ロシア人は寒気を恐れる。零下二十度以下の寒さにおいては、この家より筋向こうの家へ行くにも防寒帽を被ることを忘れない。これを私は「敬天」と称したのである。 陸軍中将樋口季一郎回想録より     

 このような科学的思考に裏づけられた合理主義が、キスカ撤退時に海軍の強い要求で迷っていた携行銃の放棄を決断して、すばやい撤収を行い作戦を成功に導いた。「陛下にお預かりした銃を海に投棄するなど何事」と後で参謀本部から責任追及の声が上がったが「私はこの件に関しては、生存人員を北方の守備に用うることをより価値ありと信じ決心したものである」とモノより人を優先し、無駄な人員の消耗はせず今後の防衛に用いるとの判断は正当であると動じなかった。

 私やのりちゃんが樋口に会ったのは、祖父の葬式の時で、七十代後半ぐらいだったが、まだかくしゃくとしていた。科学的な合理主義は顕在だった。この頃より数年後サーモの付いたガス風呂や電気温水器が普及し始め、いまや風呂の温度はマイコンで制御され「湯加減」という言葉は死語になってしまった。現在のコンピュター時代、温度計で測る事さえ人間は不要になったがこれは本当の進歩であるのか、合理主義者樋口季一郎は是とするか、聞いてみたいところだ。

こっさん

わがままな美女

 樋口季一郎には二人の姉がいて、次姉の名前をこすぎといった。通称こっさん、と呼ばれていたが、父の話によると、こっさんは絶世の美女で近隣ではかなり名が通っていた。年頃になると当然縁談の話は多く、早く結婚をしたのだが、生来の気の強さと、わがままがたたって、嫁いでわずか一週間ほどで戻ってきた。父親の久八はおうような人物だったので、別に気にもせず、すき放題にさせていたが、別嬪はバツ一ぐらいじゃ、傷にならない。直ぐ貰い手が現れて、いそいそと嫁いでいった。今度は半年ぐらいもったようだが姑と折り合いが悪くなり、また帰ってきた。親もバツ二ともなると心配になったが、別れても次の人が現れ、今度こそと期待をかけたが、三度めも戻ってきた。それでも美人はとくですね。すぐに求婚者が現れ4度目の結婚と相成ったがまたまたぽしゃってしまった。それでも世の中には奇特な人はいるもので、バツ四でもOKという人が現れ5度目の結婚と相成った。結局この結婚も破れそれからは生涯独身を通した。

およばれ

 昭和10年ごろの話である。季一郎は独身の姉にひと月5円仕送りしていた。叔母によると「こっさんは、樋口からお金が送られてくると、なんでも敏しゃん(父)や秀雄ちゃん(叔父)に遊びに来いと誘うんよ、うどんや、ぜんざいを作っていそいそ待っている。けど女のあたしは1回も誘われたことがない…それがくやして!くやして!」

 そのころ軍国主義の時代でなんでも男の子が1番。男尊女卑が徹底していた。この話を私は叔母が亡くなるちょっと前に聞いたが、80歳をすぎても食い物の恨みはよく覚えていて、昨日のことのように歯がゆがっていた。

大礼服

 本日早稲田大学川口芸術学校で映画を学んでいる、志賀成将君他三名が樋口季一郎の映画を卒業制作するため淡路島に来られました。このことは先日季一郎の孫である隆一さんからメールで知らされていたので、なにか絵になるものをと、季一郎ゆかりの家、阿万家に行き陸軍少将時代の礼装を倉庫から出してもらいました、なんでこんなものが、阿万家にあるかというと、季一郎の母まつは阿万家が実家で、父久八と離婚した後阿万家に戻ったので子供の頃季一郎は。学校の帰りなど母のもとによく遊びにいった。実家の祖母も季一郎を不憫に思い、ことのほか可愛がった。この頃実家が破産状態になり両親も離婚して不遇なおさない季一郎にとって阿万家は唯一心温まるばしょであった。

 戦後季一郎が、長男季隆氏の勤務の関係で、大阪豊中に住んでいたころ、私の父や伯母たちがちょくちょく遊びに行っていた。昭和45年ごろ季隆氏が東京に転勤になるとき、季一郎は私の父にこの軍服を阿万家で保管するよう託した。父は「おじさんは、自分の故郷への思いを、お礼もかねて世話になった阿万家に残したかったのではないか・・・」と言っていた。

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帝国陸軍少将の大礼服

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羽飾りと肩章だけやっとつけました。

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バンドなんかどんな風につけるか分かりません。

とりあえず一式出しました。不心得物の私の妻はお宝鑑定団

に出せばかなりすると、言いましたが・・・

ちよのとの別れ

 祖母ちよのは私の父が小学3年生の時に病で亡くなった。重篤で洲本病院に入院したことを知った、樋口季一郎は東京から飛んで帰ってきた。洲本港の船着場に降り立ったとき季一郎は紋付はかまの正装だったという。そのまま洲本病院に直行して、その晩は不眠不休でちよのを看病した。久しぶりに兄の姿を見た、ちよのは弱よわしく「にいやん立派になって・・・これで奥濱の名前やったらどれほどよかったか・・・」季一郎はちよのに「奥濱のままだったら、一生出世できへんわ」と笑った。

 奥濱とは樋口の旧姓である。奥濱家は廻船問屋で地主でもあったが季一郎の父久八の代で時代の流れに取り残され没落していった。ちよのはそのこともあって兄の出世を一番喜んだが、生まれ育った奥濱家の破産を思うと兄が岐阜大垣の樋口家に養子に入ったのが残念であったようだ。

 私の父に言わせると、久八は苦労知らずの金持ちのボンボンで生活能力がなかった。お人よしで借金の保証人に頼まれると断れないで結局自分が被ることも多く、それも一因で家業が傾いた。放蕩癖もあり家業が傾いても女はつくるで、家庭も崩壊していった。廻船問屋が倒産してからは、一応教養もあり、達筆でもあったので、代書屋や三百代言みたいな事をして食いつないでいたという。

 幼少より秀才の誉れも高かった季一郎は逆境をバネにしてさらに猛勉強を重ねた。先に岐阜の樋口家に養子に入っていた叔父勇次の援助で中学校(鳳鳴義塾)にも進学でき、さらに陸軍幼年学校に入るチャンスにも恵まれた。立身出世を夢に描き「坂の上の雲」をめざした。

 季一郎とちよのは家業が破産して、家庭も崩壊する中で共に育った。 おそらく二人の絆は逆境のなかいっそう固く結びついたであろう。最愛の妹が8人の子供を残して、逝きつつある。紋付はかまの正装で看病する季一郎の心はいかほどだったか。

 翌朝季一郎はあわただしく東京にかえっていった。それからまもなく、ちよのは帰らぬ人となった。

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