陸軍中将樋口季一郎

産経新聞に樋口季一郎の記事

3月25日(土)産経新聞の淡路欄に樋口季一郎の記事が載っています。

数日前に産経新聞洲本支局の中野さんから電話があり,樋口の写真がないかとのことで、来訪されました。伊弉諾神宮の宮司さんが連載記事を持っており,樋口のことを書くので、写真を貸してほしいとのこと、パソコンに入れてあった何枚かを見てもらって、新聞に載ったのがこの写真です。

中野さんは前もって私のこのブログを見ていたらしく、父のことやら、樋口のことなどいろいろ、話をしました。

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私は最近、樋口の礼賛記事には、ステレオタイプのものが多く、食傷ぎみで、率直に苦言を呈しました。昨年、孫の樋口隆一さんが来島したおりも、申し上げたのですが、ユダヤ人を救出した数字が2万人というのは、間違いであり、誇大な数字の一人歩きはかえって事件の信ぴょう性に疑問を持たれ、なにより樋口本人の名誉を傷つけることになると。

一時間余り、波乱万丈の父の話など織り交ぜて歓談しました。シュムシュ島の戦いで北海道占領をまぬがれた。などの話は俗論であり私は明確に理由を説明して否定しましたが、なかなか理解が得られないようで、まあ産経さんならしゃないねえ、と私も記事にはこだわりません。宮司さんがなにを書こうと言論の自由で、記事の編集権は産経にあるし、私が文句をつける筋合いはありませんが、明らかな間違いの「ユダヤ人救出2万人説」が書かれていないのが何よりでした・・・

中野さんもおっしゃっていましたが、「野口英世なども教科書に書かれていることと、実際の人物はまるで違うらしい」と、なかなか真実というのはわからないものですね。樋口の全体像についてはずっと思案中で、将軍の立場からではなく一兵士の父の立場からなど、いろいろの角度から書いていきたいと思います。

いなみ野学園の方々が来島

 
 本日、加古川のいなみ野学園文化学科で学ばれている、五名の方々が来島され、阿万公民館でお話ししました。毎年テーマを決めて勉強をされているそうですが、今年は神戸新聞で樋口季一郎のことを知り、来年2月に、学園で論文を発表されるそうです。私のブログなどをみて、身内にしかみせない私的な「樋口像」をもっと知りたいとのことで、今日お会いする約束でした。
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 近年樋口季一郎の事績が注目されるようになり、身内としては、うれしいのですが、研究発表のための調査ということなので、年表資料をつくり、しゃべったのですが、上手く話せたか自信がありません、日ごろ長時間しゃべるという事があまりなく、最後はあちこち話が飛んで反省しています。でもみなさん向学心が旺盛でこちらも知的な刺激をうけ勉強になりました。
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参加者は、公民館長さん、私のともだち、親戚など全部で10名でした。
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樋口季一郎の合理主義

003 4月2日阿万家にて006 4月2日阿万家にて

温度計を買って来

 志賀成将君一行が来島したとき、阿万家に行き、従兄弟の、のりちゃんと樋口季一郎が淡路に来た時の思い出話をした。私は当時中学二年生で、のりちゃんは10歳年上なので二十代前半の若者だった。
のりちゃんは、初めて会った時「樋口は、いきなり手を差し出し、握手をしてきた」のでビックリしたという。握手というのは西洋では普通の挨拶に過ぎないが、日本では一般的にしない、政治家が選挙の時はやたらしまくるが、投票が終わるとまったくしなくなる。第一日本人は初対面の人の身体に触るということをしない。お辞儀をするのがふつうである。昔テレビのニュースで、ソ連のブレジネフ書記長が外国の要人と会うとき握手どころか、いきなりむんずと抱き合い大胆にもブチューとホッペタにキスをするのでビックリした事がある。国家を背負った西洋人の挨拶って格闘技のようにすごい。

 のりちゃんは樋口に「世話係を命ずる」とか言われ、ふとんをしいたり、お茶を持っていったり、お風呂を沸かしたり、大忙し。湯加減は特にうるさく、よくかき混ぜて、上下均一にして温度計で40度か41度ぐらいに沸かさないといけない「命ずるなんて言いやがって、この爺さんはよ帰れと思っていた」のりちゃんは昨日のことのようにまくしたて、そのあと悪戯っぽく笑った。
樋口と温度計と風呂は切ってもきれない、淡路の親戚ならみんな知っているエピソードで、おば達もよく話していた。
「お風呂の湯かげん、ぬるかったらゆうてな」と声をかけると、樋口は「そんな無駄なことしないで温度計ではかりなさい!」という。温度計など用意していなかったので、早速買いにいったそうだ。樋口に言わせると「ゆかげん」なんて一人ひとり皆違って「いいかげん」と言う。温度計は科学的で、客観的で、誰が見ても間違いがないと言う。 

敬天低温
 
樋口が金沢の第九師団長であった、昭和15年10月、満州牡丹江に移駐した。ある冬、ソ満国境に派出されていた一小隊を視察した。司令官の来訪を喜んだ隊員たちは雪を溶かして風呂を用意してくれたという。

私はこの時、好奇心を抱き、雪と水を比較したのである。そのため飯盒二個を持ち来たらしめ、飯盒一杯に強く(この強くが非科学的で、雪質も非科学的だが)雪を詰め飯盒一杯の水を得るに何杯の雪を要するかを検したのであった。しかして得た答えは、十二杯ということであった。さすれば、私のための風呂水のためその風呂桶の八杯分位の雪を溶かしたことになるであろう。
ー中略ーその夜午前二時となるも私の下体、冷却して眠に入ることができない。私の従兵は、(私は従兵永倉兵長を今に忘れることができない)それを憂え、同僚兵士の水筒四、五個に熱湯をつめ私の腰、脚、足を温めてくれるが、それだけの効果がないのである。それもそのはず、私共の身体下位における空気温度は、依然零下十度内外であった。それでも疲れたる、また生活力旺盛なる兵士は、白川夜船の快眠をとっているのである。当時私はまだ若いと自認していたのであるが、やはり師団第一の老兵であったのであり、老兵に対し、「寒兵」は最大の強敵であったのである。    陸軍中将樋口季一郎回想録より

 樋口は旧軍人に特有な精神主義的なところはほとんどなく、書いた文章を見ていると科学的とか学理とか学者が使うような言葉が随所に出てくる。自然科学に興味を示し、実際上疑問に思ったことは実験をして確かめる。対ソ戦の専門家として、戦術・戦略のみならず、ロシア人の生活を研究してその驚異的な耐寒能力を認め、ドイツが負けたのはヒトラーやその幕僚が自分ほどの寒地体験をもたなかったからだと断ずる。従って満州を舞台とする日ソ戦は春に始まり秋に終わるべきであり軍の配兵はその条件で考えるべきであったと言う。

もしそれ零下三、四十度において野外演習を行うことを想像せよ。またそこでの野営を考えても見よ。さらにそのような温度において秒速数十メートルの強風(零下二十度以下においては、秒速一メートル毎に温度一度低下すると考えてもよいとされる。これはやや非科学的であるが、ひとつの重要なる常識である)を思うがよい。それは真に、「殺人」以外の何ものでもないのであり、「元気」、「勇気」などその価値零に等しいのである。ロシア人は寒気を恐れる。零下二十度以下の寒さにおいては、この家より筋向こうの家へ行くにも防寒帽を被ることを忘れない。これを私は「敬天」と称したのである。 陸軍中将樋口季一郎回想録より     

 このような科学的思考に裏づけられた合理主義が、キスカ撤退時に海軍の強い要求で迷っていた携行銃の放棄を決断して、すばやい撤収を行い作戦を成功に導いた。「陛下にお預かりした銃を海に投棄するなど何事」と後で参謀本部から責任追及の声が上がったが「私はこの件に関しては、生存人員を北方の守備に用うることをより価値ありと信じ決心したものである」とモノより人を優先し、無駄な人員の消耗はせず今後の防衛に用いるとの判断は正当であると動じなかった。

 私やのりちゃんが樋口に会ったのは、祖父の葬式の時で、七十代後半ぐらいだったが、まだかくしゃくとしていた。科学的な合理主義は顕在だった。この頃より数年後サーモの付いたガス風呂や電気温水器が普及し始め、いまや風呂の温度はマイコンで制御され「湯加減」という言葉は死語になってしまった。現在のコンピュター時代、温度計で測る事さえ人間は不要になったがこれは本当の進歩であるのか、合理主義者樋口季一郎は是とするか、聞いてみたいところだ。

こっさん

わがままな美女

 樋口季一郎には二人の姉がいて、次姉の名前をこすぎといった。通称こっさん、と呼ばれていたが、父の話によると、こっさんは絶世の美女で近隣ではかなり名が通っていた。年頃になると当然縁談の話は多く、早く結婚をしたのだが、生来の気の強さと、わがままがたたって、嫁いでわずか一週間ほどで戻ってきた。父親の久八はおうような人物だったので、別に気にもせず、すき放題にさせていたが、別嬪はバツ一ぐらいじゃ、傷にならない。直ぐ貰い手が現れて、いそいそと嫁いでいった。今度は半年ぐらいもったようだが姑と折り合いが悪くなり、また帰ってきた。親もバツ二ともなると心配になったが、別れても次の人が現れ、今度こそと期待をかけたが、三度めも戻ってきた。それでも美人はとくですね。すぐに求婚者が現れ4度目の結婚と相成ったがまたまたぽしゃってしまった。それでも世の中には奇特な人はいるもので、バツ四でもOKという人が現れ5度目の結婚と相成った。結局この結婚も破れそれからは生涯独身を通した。

およばれ

 昭和10年ごろの話である。季一郎は独身の姉にひと月5円仕送りしていた。叔母によると「こっさんは、樋口からお金が送られてくると、なんでも敏しゃん(父)や秀雄ちゃん(叔父)に遊びに来いと誘うんよ、うどんや、ぜんざいを作っていそいそ待っている。けど女のあたしは1回も誘われたことがない…それがくやして!くやして!」

 そのころ軍国主義の時代でなんでも男の子が1番。男尊女卑が徹底していた。この話を私は叔母が亡くなるちょっと前に聞いたが、80歳をすぎても食い物の恨みはよく覚えていて、昨日のことのように歯がゆがっていた。

大礼服

 本日早稲田大学川口芸術学校で映画を学んでいる、志賀成将君他三名が樋口季一郎の映画を卒業制作するため淡路島に来られました。このことは先日季一郎の孫である隆一さんからメールで知らされていたので、なにか絵になるものをと、季一郎ゆかりの家、阿万家に行き陸軍少将時代の礼装を倉庫から出してもらいました、なんでこんなものが、阿万家にあるかというと、季一郎の母まつは阿万家が実家で、父久八と離婚した後阿万家に戻ったので子供の頃季一郎は。学校の帰りなど母のもとによく遊びにいった。実家の祖母も季一郎を不憫に思い、ことのほか可愛がった。この頃実家が破産状態になり両親も離婚して不遇なおさない季一郎にとって阿万家は唯一心温まるばしょであった。

 戦後季一郎が、長男季隆氏の勤務の関係で、大阪豊中に住んでいたころ、私の父や伯母たちがちょくちょく遊びに行っていた。昭和45年ごろ季隆氏が東京に転勤になるとき、季一郎は私の父にこの軍服を阿万家で保管するよう託した。父は「おじさんは、自分の故郷への思いを、お礼もかねて世話になった阿万家に残したかったのではないか・・・」と言っていた。

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帝国陸軍少将の大礼服

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羽飾りと肩章だけやっとつけました。

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バンドなんかどんな風につけるか分かりません。

とりあえず一式出しました。不心得物の私の妻はお宝鑑定団

に出せばかなりすると、言いましたが・・・

ちよのとの別れ

 祖母ちよのは私の父が小学3年生の時に病で亡くなった。重篤で洲本病院に入院したことを知った、樋口季一郎は東京から飛んで帰ってきた。洲本港の船着場に降り立ったとき季一郎は紋付はかまの正装だったという。そのまま洲本病院に直行して、その晩は不眠不休でちよのを看病した。久しぶりに兄の姿を見た、ちよのは弱よわしく「にいやん立派になって・・・これで奥濱の名前やったらどれほどよかったか・・・」季一郎はちよのに「奥濱のままだったら、一生出世できへんわ」と笑った。

 奥濱とは樋口の旧姓である。奥濱家は廻船問屋で地主でもあったが季一郎の父久八の代で時代の流れに取り残され没落していった。ちよのはそのこともあって兄の出世を一番喜んだが、生まれ育った奥濱家の破産を思うと兄が岐阜大垣の樋口家に養子に入ったのが残念であったようだ。

 私の父に言わせると、久八は苦労知らずの金持ちのボンボンで生活能力がなかった。お人よしで借金の保証人に頼まれると断れないで結局自分が被ることも多く、それも一因で家業が傾いた。放蕩癖もあり家業が傾いても女はつくるで、家庭も崩壊していった。廻船問屋が倒産してからは、一応教養もあり、達筆でもあったので、代書屋や三百代言みたいな事をして食いつないでいたという。

 幼少より秀才の誉れも高かった季一郎は逆境をバネにしてさらに猛勉強を重ねた。先に岐阜の樋口家に養子に入っていた叔父勇次の援助で中学校(鳳鳴義塾)にも進学でき、さらに陸軍幼年学校に入るチャンスにも恵まれた。立身出世を夢に描き「坂の上の雲」をめざした。

 季一郎とちよのは家業が破産して、家庭も崩壊する中で共に育った。 おそらく二人の絆は逆境のなかいっそう固く結びついたであろう。最愛の妹が8人の子供を残して、逝きつつある。紋付はかまの正装で看病する季一郎の心はいかほどだったか。

 翌朝季一郎はあわただしく東京にかえっていった。それからまもなく、ちよのは帰らぬ人となった。

貫一お宮

 私の父方の祖母ちよのは、父が小学生のときに亡くなった。一枚だけ写真が残っていて、なかなかの美人である。樋口は妹ちよのをことのほか可愛がっていたという。

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 樋口が丹波笹山の鳳鳴義塾で学んでいた頃の話である。休みで淡路島の実家に帰ると近くの吹上(ふきあげ)の浜によく遊びに行った。この時妹のちよのを必ず連れて行った。叔母の話では、樋口はちよのに、握り飯をつくらせ、本を数冊ヒモにくくりつけ、それをちよのに持たせ、自分はムシロを丸めて背負い浜に行き終日、本を読みふけっていたという。仲がよいので近所の人は「まるで貫一お宮みたいやなあ」と二人をひやかしたという。

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  樋口の実家があった阿万東村から吹上の浜まで約3キロぐらいある。昔は悪路で浜の手前から数百メートルは砂山で、松林をぬけなければ行けないので、かなり時間がかかったと思われる。

東京のサンタのおじさん

 父が子供の頃の話をしていたとき「昔もサンタのおじさんがおったぞ」と言った。父は突拍子も無いことを言うクセがあるが、戦前昭和も初めのころ、淡路島の田舎にクリスマスの行事があったとは思えなかった。続けて「テンプルちゃんという子役もようはやった」といった。シャーリーテンプルというハリウッドの子役出身の女優がいたことは私も知っているが、父が子供の頃に活躍していたとは知らなかった。アイドルは戦前からいるのだ。

 戦前の日本はアメリカが仮想敵国だったが、太平洋戦争を戦うまでは友好的な雰囲気があったようだ。ハリウッドの映画も上映されており、少なくとも庶民にとって憧れの国であったようだ。満州事変当時の少年倶楽部を見てもルーズベルト大統領は偉人扱いであった。

 父の話ではサンタのおじさんがクリスマスイブにプレゼントを持ってきてくれる話は当時の子供達も知っていて、12月がくると誰それがもらえるそうだなどと噂をして、盛り上がっていたと言う。問題はプレゼントをしてくれるハイカラな親がどれほどいたのかだ。私は祖父の仏頂面を思いだしながら、まさかあの爺さんが・・・とてもサンタのおじさんに結びつかない。昭和30年代私は祖父からお年玉を50円もらっていた憶えがあるが、節分で豆まきをしている爺さんは思い出しても、クリスマスなんか真言宗の郷家の年中行事になかった。

 「東京から静子伯母さんがクリスマスプレゼントにノートとか鉛筆とか文房具をいつも送ってくれた」という。静子伯母さんというのは樋口季一郎の妻のことで、東京の田園調布に住んでいた。樋口は1918年(大正7年)陸軍大学校を卒業して軍のエリートコースを順調に歩んでいた。私の父が小学校に上がる昭和5年ごろは東京警備参謀で陸軍中佐である。給料もかなりの高給をもらっていたと思われる。しかし淡路に住む年老いた母や離婚した姉に仕送りもしていた。父の妹である叔母登代子の話では、甥や姪にも着物や洋服をよく買ってくれたという。父も義勇軍で満州に行くときに外套を買ってもらった。淡路島に住む父やおば達にとって樋口は東京のサンタのおじさんであった。

P1010748 嫌がる娘に無理に着せた父の形見の外套。満州に行くときに持っていった。かなり重い!

日経新聞に樋口季一郎の記事

 本日8月25日、日本経済新聞社会面に樋口季一郎の「ユダヤ難民救出劇」の記事が載っています。今年5月国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のヨハン・セレス駐日代表が英字紙の特集記事でこの救出劇を知り「難民救済のお手本だ」と再評価に動き始めた。と書いています。

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呉の勇ちゃん

小さなアルバム

 私が小学校に入学した頃、母が小さなアルバムを買ってきた。それまで写した家族の写真が20枚ぐらいあったので整理し始めた。その中で家族・親族写真とは全く関係が無いと思われるのものが3枚あった。1枚は毛沢東や鄧小平が天安門楼上で写っている写真、2枚目が南アジア系の人達が写っている写真、そして軍服姿の樋口のおじさんの写真である。「このひと誰?」と母に聞くと「偉い人よ」と答える。「樋口季一郎と言って親戚の偉いおじさん」小学一年生に親族関係を詳しく説明するのが面倒だと思ったのか、それ以上答えてくれず、樋口の写真のことはそれっきり忘れてしまった。

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 時が過ぎ私が中学生の頃、祖父が亡くなった。大阪から親戚がやってくるという。昔陸軍中将だった偉い人だという。その時やっと樋口の大伯父さんが、祖母ちよのの兄だという事が分かった。他にも樋口の腹違いの弟で広島県呉に住むゆうちゃんも葬式に来るという。

呉の勇ちゃん

 通称呉の勇ちゃんこと奥浜勇二郎は、樋口季一郎の父久八(きゅうはち)がまつと離婚後再婚した、いま(通称おいまさん)の息子で戦争中は海軍の下士官をしていた。この人は親族の間では「話題の人」でよく父や伯母たちが噂話をしていたのをよく憶えている。「勇ちゃんは勝手な男でな、ごく若いころ結婚して子供もできたが、子が調子悪くて離婚して、逃げるように呉の海軍に志願していった」

 勇二郎は勉強も良くできて優秀だったので海軍に志願して広島に行ったが困窮する母元に寄り付かず、たまに休暇で淡路島に帰ると郷家に入り浸っていたという。勇ちゃんは母親のおいまさんの面倒を全く見なかったので郷家で援助をしていた。それで勇ちゃんは親戚筋で評判がよくない。

 去年亡くなった父方の叔母は生前、親戚が寄ったときなど「勇ちゃんの二度目の嫁さんはがいな自慢タレでよ、まるまる肥えて目が象さんみたいでなあ・・・こ~んな顔して」と両手の親指と人差し指を眼と口にあて外側に引っ張るしぐさをして「カン高い声でネェお父ちゃん、ネェお父ちゃんゆうてなあ、よう勇ちゃんを膝枕にのせて耳そうじをしていたわ」と皆を笑わせた。

初対面の異母兄弟

 祖父の葬儀にきた二人の異母兄弟をどう引き合わせるかが、郷家の課題になった。父に言わせると「勇ちゃんは樋口にとって親父を奪った妾の子やから・・・」といっても狭い家に泊まる二人を紹介せぬわけにはいかない。

 父が二人の間を取り持ち葬式の前に対面することになった。私はこの時現場にはいないで祖父を安置してある離れで留守番をしていた。私は祖父が死んで初めて死体と向き合う経験をした。祖父の息が絶えて往診にきていた医者が臨終を告げた。その後遺体をはなれに移し伯母達が鼻や口に脱脂綿を詰めるのをみた。人間が死ぬと硬直がはじまり、体液が流れ出るのを防ぐための処置だと知った。「お尻にも詰めとかなあかんなあ」という伯母の言葉が妙に生々しく記憶に残っている。

 さて本宅の様子はどうなっていたのか、後年叔母から聞いた話だと父が勇ちゃんを樋口の前に連れて行き紹介した。「勇ちゃんは子供の頃から郷家と昵懇で現在も親戚付き合いをしている」と打ち明けた。樋口は勇ちゃんの前に一歩進み「長い間苦労をかけて・・兄として何もしてやれなくて・・・許してくれ」と堅く手を握った。勇ちゃんは感激のあまり言葉がでず号泣した。昨年亡くなった叔母が生前「勇ちゃんはよう泣くんよ、けどあんときはなかなかよかったよ」としんみり話していたことが思い出される。

Save0005 樋口季一郎と奥浜勇二郎

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