父の15年戦争・補遺

自決

介錯

毎年8月になると先の大戦の体験談が新聞、テレビなどで特集される、しかし戦後77年もたつと戦争体験者がほとんどなくなっており、また90歳以上の高齢になると記憶の薄れで、証言能力がなくなっている。

私が父の戦争体験を真剣に聞き始めたのは82歳で亡くなる数年前だった、高齢でよく入院するようになり、病院へ連れてゆくことが多くなった。戦争体験というのは、殺し合いなのでほんとは家族にしゃべりたくないことだらけと言ってよい。

しかし父も先行き短くなり、息子にでも詳しく話して置きたくなったようで、こちらも若い頃なら聞けないような内容を質問してよく答えてくれた。

1945年8月15日「関東軍の特攻」でソ連の戦車軍団に撃破された後、父たちは山に逃げ込んだ、数日たち日本の参謀がソ連の将校を連れて降伏勧告にやってきた。日本軍に降伏の二文字はないので。呼びかけても簡単に山から下りることはない。使者は説得に手間取ったが決め手は天皇陛下だった。「天皇陛下が降伏したぞー」と呼びかけられて兵たちは投降した。

しかし一般兵士とは違い将校は拒否した。陸軍士官学校で徹底的に皇国教育を叩きこまれているので、国粋主義思想に凝り固まり、純粋でプライドも高い。彼らは捕虜の汚名を受けないと自決を決心した。ジューコフ元帥が日本軍の将校は狂信的と言ったが、純粋と狂信は紙一重だ。

将校たちは武士らしく腹を切ることになり、介錯が必要で、父が選ばれた。山の中で介錯をしたときの話は、南あわじ病院に入院していた時で、「わしゃ介錯を頼まれた」とサラリと言ってのけた。ベッドの上に座りあまりに自然な口調だったので、こちらも「ふーん」とそっけなく答えたが、父が時代劇で演じるような首切役をしたことを知り内心ショックだった。

宇垣陸軍大臣や大西滝治郎中将は介錯なしで腹を切った。大勢の部下を死地に追いやった責任もあるので、本人はあえて苦しみを伴う方法を選んだ。父が引き受けたのは、純粋な若い青年将校だ。失敗すればのたうち回り苦しみを与えるので責任は重大。

父がなぜ選ばれ、引き受けたのか。それは14歳で義勇軍に入りほかの者より6年も余分に軍事経験あったこと、義勇軍の創始者加藤完治が榊原鍵吉や山田次朗吉に連なる直心影流の名人で厳しく仕込まれ、度胸があると目されていた。

父の所属は舞鶴に上陸した時書いた身上申告書によると関東軍第一機動連隊、連隊長岩本大佐、第4中隊長山田耕作中尉とある。岩本連隊長は父たちの中隊を残して先に逃げたので、山の中で自決したのは山田中尉他数名の将校と思われる。父は大役を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

今日は父の17回忌

自殺の訓練・殺人の訓練

今日は父の17回忌。阪神淡路大震災と同じ日に亡くなったので、忘れることはない。昨日神宮寺に行き頼んであった塔婆をとってきた。

父の世代は戦争に行けば、生きて帰れないという覚悟があり、生に対して執着しない教育が国家により行われていた。軍隊に入り最初に教えられるのは自殺の仕方である。こんなことを書いている戦争関連の本はあまりないが、本当のことである。

世界の軍隊の中でもまれな教育をなぜしたのかその理由に1941(昭和16)年1月に陸軍大臣東條英機の名により軍内に示達された、「戦陣訓」があげられることが多い。それももっともな理由であるが、私が不信に思うのは父の義勇軍時代にあった、友人の死についてである。

鎌迫君という親しい友人が屯墾病というノイロゼーの一種になり、銃を使って自殺したのが、兵士の自殺の定番ともいえる方法だった。その時期は1938(昭和13年)なので「戦陣訓」の数年前に 14歳の少年でも自殺の常識として持っていた。鎌迫君にとって義勇軍の生活は戦争だ。そして苦しみに負けた。敗北した以上は死ぬしかない。日本軍は武士道を体現した軍隊だと教えられていたのだから。

自殺の仕方を覚えると次に人の殺し方を訓練する。日本の軍隊の特異なところは、実際に生きた人間を藁人形代わりに使って訓練したことだ。これを「実的刺突」という。こんなやり方を訓練に取り入れたほかの国を知らない。人殺しと自殺はセットになっていた。

私は父が経験した、ソ連の戦車に対する「特攻」や藁人形を使った殺人訓練を普段の生活の中でめったに話すことはない。しかしたまにこの話を聞いた人は必ずこういいます。「わしらは戦前に生まれなくてよかった。よい時代を生きてきたなあ」と。

 

 

8月15日の特攻 投降

76年前の戦争で日本軍はおびただしい若者の血を流した。帰還することを期待しない必死の航空機による特攻は有名だが肉弾による戦車への特攻はあまり知られていない。15年前父の晩年に体験を聞けたのは、病院通いの父の送り迎えをしているときの雑談からだった。

それまで満蒙開拓青少年義勇軍の話を中心に聞いていたが、話題を関東軍の話に転ずると、戦争末期の機動連隊の訓練の話になり父の15年戦争(1)関東軍の特攻を詳しく聞けた。戦車への自爆攻撃の原点はノモンハン戦争前半の、サイダービンにガソリンを詰めたのを投げつけるという古典的な方法だ。それが意外と当たり、その後ソ連の戦車がガソリンエンジンからディーゼルに代わり通用しなくなっても、この方法を取らざるを得なかったのは合理性のかけらもない、日本軍最後のあがきといえよう。

機動連隊は弱体化した関東軍の中でも若者中心の精鋭部隊でソ連軍の後方へ回りゲリラ戦を展開するはずだった。三人一組で輓馬に重機関銃を積んで移動するという、これも日露戦争の時の秋山好古の戦術で、司馬遼太郎が言う「元亀天正の装備」だった。

でもまだ爆弾を抱けるだけまだましだった、警備兵だった人は手りゅう弾二つ持たされただけだった。中学生のまだ幼い特攻はリュックに爆薬を詰めて戦車に突入した。まさに自殺攻撃である。

投降

特攻が不発に終わり、父たちは鏡泊湖(きょうはくこ)の山の中に逃げ込んだ。8月19日関東軍の参謀がソ連軍の将校を連れて、投降するよう説得にやってきた。天皇陛下が降伏の命令をしたという。隊員たちは動揺した。

父によると将校は投降するのを潔しとせず、武士の最後らしく腹を切るという。父はこの話をしたとき名前まで出さなかったが、舞鶴に帰還した時に書いた、父の身上申告書には中隊長中尉山田耕作と記されている。父は義勇軍で直心影流剣術をたたきこまれていたので将校たちに介錯を頼まれた。将校たちは次々と腹を切り虜囚の汚名を逃れた。

父の15年戦争(17)8月15日の特攻

 

 

 

 

8月9日はソ連対日参戦の日 関東軍司令部元警備兵の場合

父の友人の今口光治氏は関東軍司令部で警備兵をしていた。8月初めには関東軍司令部はほとんどもぬけの殻だったことを聞いた。関東軍は住民を守るつもりは全くなく、こういう証言は歴史学者もあまり知らないのではないだろうか。つまりソ連が攻めてくるという情報は軍上層部にはすでにわかっており、知らぬは一般の兵士、市民だけで、ソ連参戦時も。NHK新京放送局は「無敵関東軍は健在で市民は軽挙妄動せず、安心しなさいと」嘘八百を連呼していたという。この放送を聞いて安心して逃げ遅れた市民も数多いという。

今口氏は警備兵だった、装備は貧弱で戦車への自爆攻撃には手りゅう弾2発を持たされただけだった。一つは攻撃用で、もう一つは失敗すれば自殺用に使うという。

日本が降伏した後、ソ連軍が進駐してくる前に司令部にあった大金庫のお金を山分けした話は面白かった。その時は家一軒買えるぐらいのお金でとてもうれしかったと、正直におっしゃっていた。しかしせっかくシベリアまで持っていた大金はしりふきに使われただけで、紙幣というのは国家が崩壊するとこの程度の役にしかたたないものなのですね。

 

父の15年戦争3.父の友人たち

 

 

8月1日は中国人民解放軍の建軍記念日

南昌起義

1927年8月1日南昌で葉挺、賀竜、朱徳らの部隊が反乱を起こし、国民革命軍で共に戦っていた国民党と共産党が決定的に分裂し第一次国共内戦の口火を切った。蜂起は失敗し反乱軍は2か月で壊滅し、葉挺、周恩来、劉伯承、李立三、聶栄臻ら幹部は船で香港へのがれ、賀竜は捕虜となったが、国民党軍の元同僚だったので釈放されたという。

秋収暴動

南昌起義で国共の分裂が公然化すると中共は1927年秋の収穫期に全国各地で武装蜂起を行う方針を決定した。この時中共中央が最も重要視したのが湖南、湖北の両省であり、特に湖南省は農民運動が広範に組織され発展していて、450万人と中国全土のほぼ半数にあたる勢力を誇っていた。湖南の農民を組織したのは、毛沢東であり、9月9日集めた4個連隊5千人の軍隊で蜂起した。しかし準備不足、内部の無統制、裏切りなどで暴動は失敗した。

三湾改編

1927年9月29日から10月3日にかけて毛沢東は江西省永新県三湾の小村で敗残部隊の改編を行い残った約1000人が労農革命軍第一軍第一師第一連隊に改編され毛沢東自身が司令官となった。改変された革命軍は三湾に5日滞在したのち井岡山(せいこうざん)に向かった、この山を根城にしている王佐と袁文才という二人の土匪と渡りをつけ、毛沢東は再出発を図る。この後、朱徳の軍隊も合流し「人民解放軍」の基礎が出来上がる。

人民こそ国の主人公

毛沢東が井岡山に登り22年で革命を成功させたのは、天才的な戦略家としての資質もさることながら、中国の貧しい圧倒的多数の農民に「君たちこそ新しい中国の主人公だ」とその気にさせたことが大きい。中国の数千年の歴史でこんなことを言った政治指導者は一人もいない。

参考文献 宍戸寛著 中国紅軍史 河出書房新社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の15年戦争補遺8特務漢奸

特務漢奸

日本が満州事変を引き起こし、満州国という傀儡国家を作るにあたって、少数派の日本人だけで国家を運営することは到底不可能であった。そのため表向きは五族協和の理想的なスローガンを掲げた。しかし小役人の給料はよくて日本人の半分程度で明らかに差別があった。また米や砂糖をはじめ重要な農産物は満人と呼ばれる中国人には一部の役人以外、口にすることが出来ず、購入したことがばれたら、経済犯として処罰された。

満州にいた多くの日本人は二重国籍で彼らは「満州国」の一等国民だった。規定によれば「満州人」(満州の中国人)は少数の官吏を除いて、トウモロコシの粉に、どんぐりの粉を混ぜた粉で作った麺しか食べてはならず、違反者は「経済犯」として処罰されるが、日本人は「満州国」政府によって統一的にコネが配給される。また高級住宅が集中する各都市の日本人居住区は許可がない限り中国人にとって立ち入り禁止区域だった。 徐焰著 朱建栄訳「1945年満州進軍」日ソ戦と毛沢東の戦略 三五館より 筆者注・満州国は国籍法を持たなかったので日本人は日本国籍のまま居住していた。  

父が特務機関の仕事をするようになると、権力者である日本人に近づき媚びをうる中国人たちとも親しくなった。その一人が黒竜江沿いで小麦粉の工場を経営する中国人だった。父は無蓋列車でシベリアに運ばれる途中、ソ連軍から脱走し、厳寒の黒竜江沿いをさまよううち、行き倒れになったが偶然その人の工場が近くにあり助けられた。彼は親日派で重要農産物の小麦を手に入れるため、日本軍に協力したが、国民党や共産党から漢奸と呼ばれ、敵視された。父によるとスパイを意味する特務と漢奸が結びつくと「特務漢奸」になるが、これは中国人にとって最大の罵倒することばになり、日本でいえば国賊と売国奴を合わせたような、憎しみを込めたきつい言い方だそうだ。 東大出の奸漢

日中戦争は中国と日本が戦争をしたが、中国は一枚岩ではなく、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が合作(統一戦線)をして日本軍に対抗した。日本は国民党のナンバー2だった汪兆銘に謀略(桐工作)を仕掛け、南京に傀儡政権を打ち立てた。また中国は多民族国家なので少数民族と漢民族を対立させ支配するのがアヘン戦争以来の帝国主義国家のやり方で、特務機関はその最前線で親日派を獲得するため多くのの資金を使った。

 

 

父の15年戦争補遺 特務機関の闇7 関東軍特殊演習

関特演

昭和16年(1941年)4月、日ソ中立条約が成立し、同年6月22日歴史的な独ソ戦が勃発した。5月、同条約を締結したばかりの松岡洋右外相は中立条約を破棄し、ソ連に宣戦布告し、ドイツと東西から挟撃すべきと主張した。昭和天皇にも「ソ連打つべし」と上奏したが、あきれた天皇からも、外相解任を求められるようにになった。しかし軍の最高統帥部は両にらみで7月、南は南部仏印に兵を進め、北は満州に帝国陸軍創設以来、最大級の総兵力85万という大動員を秘密裏に発動した。

日ソ中立条約違反は日本が先

関東軍は8月新たに第5課が設置され元奉天特務機関長池田純久大佐が長となり、占領地行政を研究することになった。日本軍は東部シベリアを占領するため、まずシベリア鉄道を遮断し、ソ連軍の兵站を断つことと、ハバロフスクにある航空基地を占拠して、日本本土への爆撃を阻止することが最重要事項だった。ここで関東軍秘密第5課に勤務し、対ソ謀略の宣伝ビラやポスターを書いていた漫画家の那須良輔の証言を見てみよう。

ところで、非常に重要な話があるんだ。僕はハイラルにとられて、それから関東軍にとられた。ハイラルには1年近くいたが、それから命令がきて、とられたのが関東軍秘密5課なんだ。ソ連に肩を持つわけではないけれども、今になってソ連が条約を無視したといって騒いでいるけれども、それはたまたま日本と立場が逆になっただけなんだ。

僕がとられていったときに、報道部の夏目伸六がいた。それから長谷川宇一さんがいた。だから僕は報道部関係でとられたのかと思ったら、秘密5課で、そこはほんとうの対ソ謀略戦の中枢なんだ。中略 ところで僕らが関東軍にとられていったときに大連の倉庫は対戦車砲の山で、これは生きて帰れないとと思った。筒のでかい重砲で、六トン牽引車でひっぱるやつだ。だから、ハイラルには最精鋭の機械化部隊が終結してソ連の方向に向かって毎日実弾射撃の練習をやっていた。

関東軍司令部に来た命令は、まず沿海州を占領してハバロフスクに軍司令部を置く、そして一番最初にやることは、白系ロシヤ人の管弦楽団を持っていって放送する、それから、名前は言えないけれども、某一流新聞社を持っていって、新聞を発行する、そういうことがきまっていた。そしてそのきまっていた筋書きのもとで伝単を書かされたわけです。

だから、あとでソ連は不可侵条約を破ったなどと幾ら言っても、関東軍の作戦命令は先にちゃんとそういうものが出来ていて、そのもとに僕らは働かされていたんだ。そういう一つの仮想があったわけです。

たまたま情勢が逆になったから文句が言えるけれども、そうでなかったら一体どうなるんだということですよ。戦争するというれっきとした計画を持っていたんだ。あそこへ覆面師団長・機械化兵団長として山下奉文が来たんだから、ソ連をたたくということははっきりしていたんですよ。それが南方の情勢から変更になっただけです。それでなければ、あれだけの膨大な兵員と装備と、そういう準備をソ連向けにやるわけがない。だから、ソ連から何を言うか、おれたちの国を占領するつもりじゃなかったかといってしっぺ返しをくっても当たりまえですよ。

日本人として言いたくないけれども、僕がそこで働いておったんだからしようがない。そうした目的で僕が書いた伝単やポスターは、今でもどこかにあるはずですよ。

座談会 紙の宣伝戦士時代 松下井知夫 那須良輔 湯川洋蔵 昭和34年6月4日発行 日本週報臨時増刊号より

 

第二次大戦後、北方領土問題や、ソ連の対日参戦を語るとき日本がソ連に攻めていった事実が、全く無視されている。シベリア出兵でバイカル湖以東を占領して、生まれたばかりのソ連を叩き潰そうとしてきた、西洋列強と大日本帝国の歴史がなかったかのようだ。特に日本は敗戦を奇貨として、大陸への侵略がなかったかのように歴史を修正している。最近は領土問題を利用して、ソ連(ロシア)が日本を侵略したなどと言う者までいる。いいかげん加害者が被害者を装うことをやめなければ、このさき永遠に近隣諸国と仲良くなれないのではないだろうか。

 

 

 

 

父の15年戦争補遺 特務機関の闇6 哈爾濱特務機関

対ソ謀略

日本軍が日露戦争前の明治30年(1897)ごろから参謀本部では対ソ(露)作戦をはじめ、特務工作を始めたのが明治33年(1900年)ごろだった。そのころは、特務機関という呼称は使われていなかった。参謀本部の総長なり次長が個人的に大陸踏査をやっていた 中略 大正7年(1918)、シベリア出兵直後に、陸軍の中央部と、関東軍、当時まだ関東都督と呼んでいたものの軍政部に属する諜報機関が連絡を密にするため、林大八大尉を長とする哈爾濱特務機関が正式に発足します。香川重信(元ハルピン特務機関員)夢破れた異邦人工作「人物往来」昭和40年6月号より

明治以来、日本が南から北から領土拡大に走っていく中で特務機関という組織が膨張していった。哈爾濱特務機関はその中心的な機関で、満鉄調査部とともに北方問題の解決、すなわちバイカル湖以東に親日傀儡政権を打ち立てる、もしくは直接占領を目指した。

大正14年8月参謀本部第二部の神田大尉が満鉄調査課初代嘱託に送られ対極東ソ連謀略計画が出来上がった。

  1. 宣伝煽動により、住民・軍隊に反共反ユダヤ熱をあおる。
  2. 状況逼迫すれば、西伯利以東の幹線を破壊し、炭鉱ストライキを煽動する。
  3. 満州、朝鮮、樺太等、西伯利、接壌地域に反共団体を作り、機を見てソ領内に進出し反共政権を樹立せしめる。
  4. 対「外蒙工作」を強化する。
  5. 満州、中国等の親ソ通ソ団体を弾圧する。
  6. 有無線とも、通信謀略を準備実施する。
  7. 北満に於ける作戦と膚接一体化すべき戦場並びに威力の謀略を準備実施する。

昭和15年4月、改変により関東軍情報部が創設され、日本軍初の本格的な情報軍隊となった。哈爾濱特務機関は情報部本部となり、大連、延吉、牡丹江、東安、佳木斯(チャムス)、黒河、海拉(ハイラル)、三河、王爺廟はそれぞれ、情報部支部となって、本部に完全に隷属し、ここに従来「軍隊に非ざる特殊の機関」は、一転して日本軍をして最初の「情報軍隊」となった。

中略 情報部が編制化された時、蒙疆のアパカに特務機関が出来て、関東軍情報部の隷下支部とされ、かくて哈爾濱本部の管轄地域は、全満州及び関東州のほか、内蒙まで及ぶこととなった。

西原征夫著「全ハルビン特務機関」毎日新聞社より

 

父の15年戦争補遺 特務機関の闇5 黒河特務機関

黒河(こっか)特務機関

哈爾濱(ハルビン)特務機関の黒河支部は満州里とともにシベリア出兵時、最初に設けられた満州のもっとも古い特務機関の一つである。対ソ作戦では東部正面に次ぐ重要地であり、シベリア鉄道が国境近くを通っているので、鉄道遮断が有力な目標となっていた。支部としてはチャムスに次ぐ153名(終戦時)の人員を抱えた。「関特演」に際して、担当方面軍他、白系ロシア人の浅野部隊、関東軍直轄の機動連隊、黒竜江の江上部隊、また開拓青年義勇隊も動員して、漠河、鷗浦方面から突進してシベリア鉄道の遮断・破壊(威力謀略)を目論んだが、結局不発に終わった。

 

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西原征夫著 「全記録ハルビン特務機関」 毎日新聞社より

黒河特務機関は少数民族「オロチョン」工作の拠点でもあった。オロチョン族とは大・小興安嶺を移動して狩猟生活をしている騎馬民族で、人馬一体の騎馬術と獲物の目と目のあいだを撃ち抜く高度な射撃術をもち、戦士としても勇猛だったので歴代清朝は帝政ロシアに対する北辺警備の兵として用いたという

日本軍も有事の際、山中から国境を通過し、ソ連領に進攻のための手引きをさせようと平時より、工作を重ねていたが、昭和20年8月のソ連参戦の時は逆に反変急襲され、指導工作員は全員戦死した。

黒河特務機関の管轄地図を見ると、孫呉、嫩江などの義勇軍訓練所の拠点がある、義勇軍は満州では開拓義勇隊と呼ばれた。満州国の歴史では農業開拓の面が語られるのが常ではあるが、いざ有事となると関東軍の指揮を受ける予備軍としての機能があり、本当の目的はソ連進攻の人員不足を補うため創設されたと私は考える。それで訓練所はほとんど東・北、ソ連との国境近くに置かれた。そのため、日ソ開戦時の犠牲はすさまじく、送り出された8万9千人のうち3割に当たる2万7千人が死亡・行方不明となった。

Dsc06612全国拓友協議会編 写真集「満蒙開拓青少年義勇軍」家の光協会発行

父は二井(にせい)訓練所時代、オロチョン族と物々交換をしていた。父は不良隊員で仲間と一緒に小遣い稼ぎに訓練所の倉庫から砂糖をちょろまかして、大興安嶺に住むオロチョン族に持ち込み様々な動物の毛皮と交換し町の毛皮業者に売るということをやっていた。従って大興安嶺から黒竜江にかけての地理は通暁し、また無鉄砲で大胆な性格も特務機関員から調査員(スパイ)として雇われた理由でもある。

父の15年戦争10.厳寒地のバトル

 

 

 

 

 

 

 

父の15年戦争補遺 特務機関の闇4 便衣隊

便衣兵

南京大虐殺で中国軍が便衣(平服)に着替えて抵抗したので、殺したのは悪くない、むしろ「戦闘服を脱いで戦闘を行うのは戦時国際法に違反だ」「中国兵は民間人と紛らわしい服装で戦うとんでもない部隊を持っている」などという奇妙な論理がネットで出回っている。

以前父から、「便衣隊」のことを詳しく聞いたことがあるのでメモしておく。

「便衣というのは中国語で普段着のことで、便衣兵という言葉自体は無いし、便衣隊などという部隊は国民党軍、八路軍ともない。もともと日本軍が言い出した言葉で政治的な用語だ

とすると、全くデマなのか、平服で戦闘したりしないのか?

遊撃隊というのはある。少人数で敵の背後をついたり、神出鬼没で自由に動き回る部隊は中国軍にもあるし、日本軍もある」

日本軍便衣隊

動員によって編成された第59師団は、八大隊二旅団のいわゆる乙装備。乙装備師団は対八路軍専門の特殊部隊で、通常の甲装備と異なる点は連隊がないこと、このため大隊名に独立の名を冠し、四大隊で一旅団二旅団で一師団とした。軍旗を持たないというのも乙装備の特徴である。1940年8月の百団大戦以来、北支那方面軍が採用した三光作戦に屈せず根を下ろした八路軍の遊撃戦に、直接対応させるために編成された師団である。将兵はすべて便衣(中国人の普段着)を着用して出動し便衣隊と言われたが、現在のレインジャー部隊のような師団だったのである---森山康平著「証言記録三光作戦」新人物往来社より

対八路軍の日本軍便衣隊は北支の済南市に置かれ、兵力約一万であった。ウサギ狩り戦法やキツツキ戦法で三万人以上にも上る中国農民をとらえ、労工として日本へ送り込んだ。また掃討剔抉とよんだ作戦は食料となるものは略奪し、生活用品はことごとく打ちこわし、多くの婦女子を強姦殺戮した。逃げ遅れた人間はすべて殺戮するか捕縛し最後は部落全体を灰燼に帰せしめた。

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上記写真左 朝市での日本軍密偵(工作員)、中央と右後方の白頭巾ー昭和16年11月河北省井和睦井  右写真 部落内の掃討を終わり終結する兵士、左手前の便衣、密偵(工作員)ー昭和17年夏河北省  喜多原星郎著「ある戦友の記録」より

 

 

 

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